家族の肖像


「啓介?」
 返事はなかった。二階の廊下、一番奥の部屋のドアを、涼介は軽くノックした。もう一度、主の名を呼ぶ。
「啓介…入るぞ。」
 今度はドアの向こうから、へーい、とまるでうわの空ないらえが返ってくる。一体なにをしているんだかと思いつつ、部屋に足を踏み入れた。
 春になり日照時間も長くなってきて、少し前ならばとうに真っ暗になっていたこの時間も、今はまだ空に淡い青を残している。けれどレースのカーテン越しに感じる陽光は、部屋のすべてを見わたすにははかなく弱い。涼介は、最近少し視力の落ちた瞳を細めて、状況を検分した。
 部屋は、あいかわらずの散らかりようだった。涼介にとってはその存在意義すら推測不能な品の数々が、床といわず棚といわず無秩序にばらまかれている。だらしないことを好まぬ涼介だったが、ことこの部屋に関しては、長年目にしてきたせいか、目前の無法地帯ぶりこそが正常と認識するようになってしまった。そんな自分にも多少の呆れを感じながら、ベッドサイドにしゃがみこんでいる影に声をかけた。
「なにをしているんだ、啓介。」
 啓介は、部屋の奥にあるクローゼットの扉を全部開け放って、その前にしゃがみこんでなにやらがさがさやっている。
「なにって…そりゃ、探し物。」
 振り返りもせず言い放つ間にも、作りつけになっている引き出しの中をかきまわしてはぽいぽいと背後にモノを放り投げている。
「あー、ねぇ…これか?…ちがうな。」
 それらはさまざまな方向に放物線を描き、部屋の中でも比較的整えられているベッドの上に着地したものもあれば、床に落ちて派手な音をたてたりするものもあった。
 は、とためいきをついて、涼介はドアの脇に手をやった。探りあてた指先で室内灯の電源をオンにする。電気が走る細い音がして、部屋が白い光で照らされた。
「…あ、」
 せわしなく動いていた背中が止まり、振り返ってまぶしそうに灯りを見上げる。やわらかい闇に慣れた瞳にはいささかつらかったか。
 しかし探しものをするというのなら、
「明るくしてからやれ。」
 でなけりゃ見つかるものも見つからないだろう。言外にそうにおわすと、啓介はいかにも面倒くさそうにうーん、そうなんだけどさー、とごねて立ち上がり、こきこきと首をまわして疲れをアピールしている。探し物とやらは結構な時間がかかっていると見えた。
 啓介は中途半端なスーツ姿だった。濃灰のズボンに、同系の薄い色目のシャツ。タイはベッドの端にひっかかっているやつをしめるつもりらしい。普段あまり見ることのない啓介の正装の中で、涼介はこのスーツが一番彼に似合うと思っていた。濃いグレーの色目が、啓介の彫りの深い顔立ちをよりひきしめ、精悍に見せると思う。これにジャケットをはおれば完成という状態だが、準備作業はそこで頓挫したようだ。
 そうやって改めて様子を眺めていると、ズボンの膝に綿埃がついているのが目についた。さっきしゃがみこんでいた時についたのだろう。頓着していない啓介に、涼介は『膝、膝』と指摘してやった。
「そもそもこの部屋の状態で探し物というのも、見つかるかどうか怪しいんじゃないか。」
「…つーかマジそうなりそうなんだけど」
 ズボンの膝をはたく啓介は、まだ時間を意識していないようだ。
「大体何を探しているんだ。あと三十分くらいで出るぞ。」
「マジかよ、予約何時だっけ。」
 本日日曜日、高橋家は一家揃って外食する予定となっていた。久々に家族一同で食卓を囲んだ先週末、父が突如外食宣言をしたのだ。病院経営に忙しい父がそのような発案をすることは珍しかったので、母は存外に嬉しそうな顔をしたし、幸運なことに涼介の予定にも問題はなかった。家族行事については一番ごねる性質の啓介も、めったにないことに毒気を抜かれたか、それとも好物の中華にありつけると分かったからか、すんなりとOKを出したのだった。
 涼介は腕のクロノグラフを確認した。現在十八時二十五分。
「十九時半だ。父さんの運転で見積もると十九時までに出るのがベストだな。」
「今何時だよ…六時半、うわ本気で時間ねぇな。」
 啓介も自分のクロノを見て、本格的にあせらねばならないことを理解したようだ。うおー、どうしよっかなー、と真剣に悩んでいる。
「だから、何を探しているんだ。どうでもいいようなものなら、」
「どうでもよくねえんだなー、これが…」
 ちらりと涼介の首元に目をやって後ろ頭をがりがりやる啓介に、涼介はははん、と思い至った。そうか、これを探しているのか。それならわざわざこの時間まで部屋をかき回しているのにも納得がいく。
 ならば協力してやらないわけにもいくまい。…多少不本意ではあるが。
「ねぇんだよなー。引き出しとかは全部探したんだけどさあ。」
 心底困ったというような顔つきをする啓介を見ながら、涼介の中のCPUが急速回転する。しばしの後、涼介はふと口を開いた。
「啓介、」
「んー?」
「ナイトテーブルの裏は見たか」
「は?いや、見てねぇけど。」
「見てみろよ」
 突然具体的な場所を指定してきた涼介に、啓介は怪訝な表情をした。
「なんだよいきなり。」
「いいから。つぶせる所からつぶしていくしかないだろう。」
 多分、あるはずだ。確信こそないものの。そして。
「げっ」
 預言通りの場所から出てきた、埃をかぶってうっすら白くなっているビロード張りの箱を手にして、啓介は涼介を凝視した。ビンゴ。涼介は心の中で呟いた。
「アニキ…こえぇよ。」
 薄気味悪いような目でこちらを見る啓介にいささか憤慨して、涼介は口の端に意地悪な笑いを浮かべてみせた。
「おまえの行動パターンをトレースしただけだ。」
 単純だからな、おまえ。
 ンだとぉ?!とこめかみをひきつらせる啓介に満足して、ドアノブに手をかける。
 気に入りのもの、大事なものは必ず手近に置いて確認したがる啓介。ベッドの上程度しか居場所がないこの部屋でその要件を満たすのは、ベッドの脇にあるナイトテーブルくらいのものだ。現に、彼の愛機RXー7のキーはそこに鎮座ましましている。
 啓介にとってのそれが、自分の持つそれと同じ位置付けであったこと。その事実が涼介の心をほのかに温かくする。
「早く仕度しろよ、この分じゃ母さんとどっこいだぜ。」
 言ってドアを閉め、涼介は階下のリビングへと足を向けた。応接用のソファで、仕度の遅い家族を一人待つ父へ、フォローの言葉を考えながら。

「アニキ様々、ってか…」
 しゅる、絹と絹がこすれる音。啓介はタイをしめなおした。鏡には、久々にスーツを着込んだ自分が写っている。
 啓介は、ナイトテーブルに置いてある箱―先程兄がそのおそるべき能力で探し出した―を手にとった。
「あぶねーあぶねー。」
 ゆっくりと蓋をあけて、中身を取り出す。
「これがなかったら…」
 金飾のカラー・ピン。5〜6センチほどの細いバーの両端に、薄水の半貴石をはめ込んだ留め具がついている。成人した折、今着ているピンホールカラーのシャツと一緒に母から渡されたものだ。いまさっき、涼介は黒に近いような紺のスーツとタイに、これと揃いの銀飾のカラー・ピンを差していた。
 今日はこれがなくてはいけなかったのだ。涼介もそれを分かっていたからあんな面倒につきあったのだろう。
 三週間ほど前、啓介は家族の前で、走り続けることが自分の望む将来だと宣言した。兄に対してはともかく、両親に面と向かって自分の意思を示したのは、これが初めてだった。
 そうかと父は言った。母は後悔のないようにと。
 兄は無言だったが、それは自分を後押しするものであることをふたりは知っていた。
 両親が結婚をきめた季節だったのだと、兄から聞いたのはしばらくたってからのことだ。
 啓介は思う。夫婦としての歴史のはじまり、子らの自立の言葉。あの日、父はこの季節に特別な感傷を抱いたのだ。多分、母も涼介も、自分自身も。だがそれはあえて言葉にするべきことではない。
 カラーのピンホールにピンのバーの部分をそっとさしこむ。ネジ式の留め具でしっかり留めると、タイとカラーとがきっちりと首元になじむのを感じた。
 見慣れぬ華奢な小物の扱いに四苦八苦していたこどもたち。
 もう大丈夫なのだと、ふたりに伝えられたら、いい。
 ガレージから車のエンジン音がした。啓介は軽く舌打ちした。時間を確認すれば、六時五十六分。おそらく、残りの四分を待ちきれず、父が先に車に乗り込んでしまったのだ。
「ったく、…急ぎすぎだっての、あのオヤジ。」
 家族ででかけるときはベンツで父の運転と決まっていた。車種も運転技術も、啓介の趣味の外にあったが、あれを操るのは父であり母だ。母のように、いくばくか齢もとり、ふっくらとした外見の女性が運転しても嫌味にならない車。いかにも父らしい選択ではないか。そして地に足のついた彼らの運転も、いとしむべきものだと啓介は考える。考えられるようになった。
 啓介は、もう一度鏡の中の自分を眺めた。大丈夫、これでオーケイ。
 その時、階下から涼介の怒鳴り声が聞こえた。
 啓介、行くぞ。…母さんは先に行っててください。
 母に対する声音はもはや幼子を気遣うそれとなっていて、思わず笑みがこぼれる。
「今行く!」
 大声で返して、啓介はジャケットを手に部屋の電気を消して部屋を出た。
 外灯の光が、床に一筋割れ目をつくる。もう、太陽の残滓は見えなかった。


〔BACK〕