再来・2



 権力。
 不確かで、曖昧で、確かに存在するのに目に見えない、不意に消えてなくなる、魔力。
 それは神通力に、似ているかもしれない、と。
 京一は、それを失った老人を眺めながら、思う。
 若い皇帝は、自分を虚仮にして、圧迫し続けた老権力者を処刑はしなかった。
 老人に骨の砕ける苦役を課すことも。……ただ、ヒトツをのぞいては。
 食事の給仕を、皇帝はかつての政敵にさせていた。自分だけの時も、客を招いた宴席でも。
 かつて、百枚の皿を連ねて美食に耽っていた老人は、今、過去の己よりハルカに素朴な食卓で、政変の功労者をもてなす皇帝の前にワゴンから取り出した卵を置く。
 京一の前にも。一つ置いて、啓介の前にも。
 京一は老人を無視した。が、啓介はきつい瞳でにらみつけた。視線で人が殺せるのなら、老人はとぉに呼吸を止めていただろう。今も、精神的な圧迫を感じて指が、震えている。
 卵から始まって、焼いたヒラメに、羊の肉と豆の煮物。三種類のパンと五種類のチーズ。合間には二度、果実酒の乾杯。最後のデザートのリンゴまで、素朴だがゆったりしたもてなしを愉しんで、京一は席を立つ。
 啓介は、皿を片付ける老人をまだ睨んでいた。
 老人の、細い首がこきざみに震えている。
 それを眺める京一の心中はやや複雑だった。
 怒りに震える啓介の気持ちはよく分かる。自分も、性奴として老人に侍る涼介を見たときは、必ずこの手で縊り殺してやるとまで思いつめた。
 けれど。
 いざ、老権力者の、屋敷に踏み込み汚職の証拠書類を抑え、身柄を拘束して。
 捕らえてしまえば、無力な痩せた年寄り。
 踏み込んだとき、老人は、さすがに堂々としていた。顔色を、変えてはいたが、一族と家臣たちの安全を引き換えに、外国との密約を喋ると、言った。
 時代遅れに、なってしまったせいで、害ばかりが拡がったけれど。
 50、せめて60歳で死んでいれば、『独断専行なところもあったが、建国の功労者で胆力のある政治家』だったと評された、ままでいられたかもしれなかった、敗北者。
 老人が京一に、庇護をと申し入れた中には勿論、老人の持ち物であった奴隷たちも含まれていて。
 そのことが京一の感覚を甘くしている面はないでもない。
 兵士たちに無慈悲に玩弄されないよう、指示をと言った老人が、涼介をそもそも、『奴隷』にした、訳ではない。
 宮廷におさめられるべき奴僕を横取りし、侍らせて可愛がっては、いたけれど。
 市民の身分を剥奪し、奴隷として仕える身分。あれをそんな身の上にしたのは、神殿の裁判。そうして罪を犯したのは、本人。あれとともに罪を犯し、あれを地獄につき落とした片割れでありながら老人を、そうも一途に憎む権利が啓介、お前にあるのかと。
 口には出さないけれど。
 思って、言いたくなる気持ちの裏側には、嫉妬がなくも、なかった。
 涼介は、老人のもとから解放されて啓介の屋敷に引き取られている。
 今回の功績で、皇帝の特赦によって姦淫の罪は許され、晴れて市民の身分に復したが。
 それで、彼が元通りになる訳ではなかった。
「おい……、行くぞ」
 誰もいなくなった広間で、いつまでも老人を睨み続けていた啓介に京一は声をかける。しぶしぶ、啓介は広間から出る。数歩、先に行く京一の肩を掴んで。
「ちょっと……、寄ってくれねぇか」
 そんなことを、言う。
「今夜は都合が悪い」
「頼む。……アニキが、おかしーんだ」
 お前の掌の中に戻ったあいつなど、知ったことかと強がりをいいかけて。
「暖炉から出てこない。もう二日、メシ、食ってねーんだよ。……頼む……」
 思いがけない啓介の言葉に振り向く。
 泣き出しそうな、顔を啓介はしていた。

 暖炉、というより、その上の煙突。
 冬、寒いこの土地では防寒の為に、分厚い石壁の内側に細い通風路を作り、焚いた煙を漂わせる仕組みになっている。
 その、通気口に入り込んだまま、出てこようとしない、涼介の、背中がほんの少し、暖炉から上を覗けば見えた。
 L字に通気口は曲がっていて、棒を差し込んで引きずり出すことも、出来ない。
「外から壁、壊そうとしたけど、そしたら暖炉ごと崩れるって、大工が言うんだ」
 そうなれば瓦礫に埋もれて、どちらにしろ涼介の命はないだろう。
「なんだって、こんな」
 舌打ち混じりの京一の問いかけに、
「……」
 啓介は目をそらし俯く。それだけで、大体の経緯を察する事が、出来た。
「……なんとか、してくれよ……」
 お前のことは信じるかもしれねぇし、なんて、啓介に言われて京一の心中は複雑だった。……とても。

 老権力者の屋敷に踏み込んだ、時。
 奴隷は一室に集められていた。中でも性奴たちは夜だったせいか、裸同然の痛々しい姿のままで、物々しい軍隊と荒くれた兵士たちに脅えて肩を寄せ合っていた。その集団に、京一が近づき手を伸ばす。涼介だけを引き抜き抱き上げると。
 最初は脅えて竦んだ。
 宥めるために背中をなで続けると、そっと、恐る恐る、視線を巡らせて京一を見た。記憶を辿る表情で、ふっと、恥かしげに目を伏せる。
 思い出した、らしかった。
「……大丈夫だ」
 言って京一は、着ていたマントを脱いで彼にまきつけた。極上の羊毛で織った布の暖かさと、何よりも、肌を包んで視線の暴力から遮り、自身を守るよすがを与えられて、心底安心、したらしく微笑む。
 つられて京一も少しだけ、笑った。
「大丈夫だから、もうちょっと、ここで我慢してろ」
 老権力者の『財産』である奴隷たちを勝手に処分することは京一には出来なかった。いずれ若い皇帝に、彼に自由を願うつもりではいたけれど。
ホールにかかっていた天幕を部下に言いつけて持ってこさせて、他の性奴たちにも与えて暖をとらせた。仲間たちと寄り添いあいながら、涼介が目を閉じるのを見届けて京一は、現場指揮に戻った。
 武官として、軍規を重んじる習慣で、そうした。
 事態にケリがつき、没収された『財産』の一部として、奴隷たちをとりあえず宮廷に移動させようとしたとき、既に涼介の姿はそこになかった。
 制止する京一の部下たちを振り切って、京一よりハルカに自由で奔放な弟が自邸に連れて帰っていた。
 本来ならば、皇帝財産の略取として大問題になる、ところだったが。
政変の成功と、それに実兄であるという特別の事情を考慮して、啓介の行為は追認され、彼には自由身分が与えられた。
人知れず頬の内側を噛んだあの日から、三日しかたっていない。
連れ帰られた翌日から、ずっとこの通気口に、立てこもっていたことに、なる。

「……おい、涼介」
 床にあお向けの姿勢で暖炉に半身を差し入れて、京一はとりあえず、そっと声を掛ける。
「なにやってんだ。……こっちに、来い」
 声に、少しだけ涼介は反応した。したように見えた。通気口の中は暗くて、うずくまった背中の一部しか分からないけれど。
「痛いこと、しねぇから、来い」
 もともと京一は大声を出したり怒鳴ったりはしない。外見の無骨さとは裏腹に。その時は、特に意識して穏やかな声を出した。ぴくりと、背中が、震える。
「来い。水、飲むだけでいいから」
「おい、京一」
「おめぇは黙ってろ」
 決め付けられて啓介が口惜しそうに唇を噛む。構わず、京一は召使に持ってこさせた水を精一杯に、腕を伸ばして差し出した。彼の肩幅では通気口の中には入れない。
 喉の渇きに苦しめられてみれば、水には香りがあることに、気づく。
 戦場で何度もそんな体験をした京一は、渇いた者がその匂いに抵抗しきれないだろうことを知っていた。
 通風口の奥で、気配が、動く。
 闇に慣れてきた目には、白い腕がそっと、伸ばされるのが見えた。白い美貌が、同じくそっとこちらを伺うのも。
 笑いかけて、やった。
 水の満たされた盃を受け取り、嚥下する音がかすかに、聞こえる。
 京一は暖炉から身を引いた。そして、掌だけを差し出して。
「……来い」
 優しく、もう一度、呼んだ。
 言葉は分からないかも、しれない。
 けれどその響きにこめられた気持ちは伝わる。伝わった。暫くの逡巡の気配。そして衣擦れの音がして。
 通風口から、まず現れたのは裸の脚。
 細い、足首にまで血の伝った乾いた跡が、あった。
 思わず非難の視線を向けると、啓介は反省の色を見せ俯く。無理な姿勢を長時間、続けて力を失った脚はかくりと、暖炉の上で崩れた。その上に、続く上体も。
 冷えた灰の上に、疲れた猫のようにうずくまる。
 痛めないよう気遣いながら、京一は、衰弱した身体を暖炉から抱き寄せる。
 無残な姿だった。
 裸の身体に、纏っていたのは、三日前に着せてやった京一のマントだけ。
 体中、擦り傷と煤だらけ。
 肌のあちこちには、癒えない歯形と、愛されたというにはきつい鬱血の跡。
 身体を抱えるように抱き起こすと、ぼんやり目を開ける。
「大丈夫だ」
 安心させるために、なでる。
 三日前と同じ動作で。
「もう大丈夫だ。何も心配、するな」
 かすかに、美貌は首を傾げて京一に、微笑みかけようという努力を見せたが。
 部屋の片隅に立ち尽くす啓介を見るなり、悲鳴をあけて京一に縋りつく。
 がくがく、恐怖に、全身を震わせて。
「……預かるぞ」
 たまらず京一は抱き上げ、啓介に宣告した。啓介は苦しそうな顔をしたが、観念したのだろう、頷く。
「食わせて寝せてやって。……とりあえず」
「あぁ」
 抱き上げる。軽い。二日も、いや多分、その前夜から、飲まず食わずで……、犯されて。
 隙をみて暖炉から、排気口に逃れたのなら当然だった。
 髪にも肌にも艶がない。疲れ果てた風に閉じられた目蓋が青白い。
「……啓介」
 老権力者の屋敷で、笑っていた彼は少なくとも、健康な身体と肌をしていた。
「涼介はもう奴隷じゃない。特赦がおりたからな」
 未練たらしく玄関へ、涼介の視界に入らないよう遅れてついて来る啓介に、京一の宣告。
 分かりきってる、という表情をした啓介に、
「強姦は、罪になる」
 京一は鉄槌を下す。
「……ナン、だよ、ソレ……」
 自覚のなかったらしい啓介が呆然と呟いた。
「俺たち恋人同士、だったんだぜ……?」
「何年前の話だ」
「だって……、アニキは、俺を……」
「もうガキじゃねぇだろうが。分別しろ」
「ナニ、言ってんだよ。アニキは、俺んこと……」
「もう一度、地獄に落としたい訳じゃあるまい」
「……やっと、会えたんだぜ、俺たち……」
 泣き出しそうな顔をする啓介を、可哀相だと、思わないことはなかったが。
「そして早々に殺しかけたわけだな」
 腹立ちが、勝った。


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