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キャプテン&テニール CAPTAIN & TENNILLE

 カリフォルニア生まれのダリル・ドラゴンは、主にアレンジャーとしてビーチ・ボーイズと活動を共にしてきた。キャプテンとは、ダリルがビーチ・ボーイズ時代にキャプテン帽をかぶってステージに立って以来のあだ名だった。

 ダリルとトニー・テニールは、サンフランシスコにある劇場のロビーで初めて会う。トニーは、「マザー・アース」という環境問題を取り上げたミュージカルを書いていて、1971年夏、それがサンフランシスコの劇場にて上演された。このミュージカルのキーボード奏者としてダリルが推薦され、ビーチ・ボーイズのツァーの途中ながら、彼は、サンフランシスコまでトニーに会いにきたのだった。トニーは始めてあった時「バイブレーションは強く感じた。何か彼は、私の人生で重要な存在になると思ったわ」という。

 「マザー・アース」の幕が閉じた時、ダリルはトニーにビーチ・ボーイズと一緒にやらないかと誘う。彼等はワン・シーズン、ビーチ・ボーイズのツアーに同行した。トニーはピアノとバック・ボーカル、ダリルは他のキーボードすべてを演奏した。ツアー終了後、2人は南カリフォルニアへ戻ってデュオとして活動を始める。

 彼等は、カリフォルニアのサンフェルナンドヴァリーにある小さいスタジオで、デモ・テープを作った。この時録音した「君こそすべて」を自分達のバタースコッチ・キャッスル・レーベルより500枚プレスし、ラジオ局へ送った。この曲は地方のラジオでかかり始め、ジョイス・レコードの配給として買い上げられ、地域的なヒットとなった。やがて彼等は4つのメジャー・レーベルより契約を申し込まれ、その最後の一社がA&Mだった。

 ダリルは「A&Mでやりたかった。なぜって、唯一自分でプロデュースさせてくれるところだったし..。でもA&Mには、カーペンターズがいたから女性ボーカルと男性キーボードのコンビはいらないんじゃないかと思っていたんだ」という。彼等はA&Mと契約し、「愛ある限り-Love Will Keep Us Together」がシングル・リリースされた。1975年6月この曲は全米1位となる。同年、ファースト・アルバム「愛ある限り」。翌1976年、セカンド・アルバム「ソング・オブ・ジョイ-Song Of Joy」をリリースする。

 彼等は、EJのアルバム「カリブ」と「蒼い肖像」、そして「21 AT 33」(トニーのみが参加)にもゲスト参加し、収録曲「Don't Let The Sun〜」や「CRAZY WATER」等にて感動的なコーラス・ハーモニーを聴かせている。

 キャプテン&テニールは、1975年のアメリカ各音楽誌で発表された次の各部門を受賞している。

●キャッシュ・ボックス誌●
Top100シングルス・オブ・1975の第1位に「愛ある限り」
ベスト・アーティスト・オブ・1975(シングル・アルバム共に)の新デュエット・グループ部門で第1位
●ビルボード誌●
トップ・レコード・オブ・1975のシングル部門で「愛ある限り」が第1位
トップ・アーティスト・オブ・1975(シングル盤)の新デュエット・グループ部門で第1位
●レコード・ワールド誌●
グループ によるシングル部門で「愛ある限り」が第1位
デュエット・グループ部門ではカーペンターズを抜いて第1位(シングル&アルバム共に)
新デュエット・アーティストとしても第1位(シングル&アルバム共に)

 つまり、年間の各シングル・チャートで第1位に輝き、彼等は新人ながらも全米で1975年に一番シングル・レコードを売ったアーティストとなった。さらに、1975年度のグラミー賞でも「愛ある限り」はレコード・オブ・ジ・イヤー(最優秀シングル・レコード)を受賞している。


君こそすべて The Way I Want To Touch You(1975年)-シングル-

キングレコード●AM 260(日本盤)

 ポップス界の伝説ともなる彼等のデビュー曲「君こそすべて」(トニー・テニール作)は、カリフォルニアにある小さいスタジオで誕生した。心地よいポップ・ティスト溢れるメロディーと、情感豊かなボーカル、当時としては斬新ともいえるアレンジ、すべてが調和された私の大好きな曲だ。日本では、次作の「愛ある限り」の大ヒットによって本作が後発シングル・リリースとなった。

 ダリル・ドラゴンがすべての楽器のプレイとアレンジを担当し、トニー・テニールが全ボーカルを受け持っている。カップリングは「Broddy Bounce」(ダリル・ドラゴン作)で、軽快なインストゥルメンタルの小作品である。両面ともファースト・アルバム「愛ある限り」に収録されている。


愛ある限り Love Will Keep Us Together / キャプテン&テニール(1975年)-シングル-

キングレコード●AM 249(日本盤)


 「君こそすべて」のヒットをきっかけにA&Mと契約した彼等は、ファースト・アルバムの製作に取りかかった。そのなかで、アップテンポの曲が必要だということになった。そこで、A&Mは2人にニール・セダカのアルバム「セダカズ・バック」を聴かせた。彼等はそのなかの「愛ある限り」が気に入り、この曲を録音することにした。(ニール・セダカは、50〜60年代にヒット曲を沢山持つスターであった。しかし、70年代に入ってアメリカでのレーベル契約はなかった。その時に手助けをしたのがEJで、自らの米国ロケット・レコードからニールの作品をリリースした。その作品がこの「セダカズ・バック」だった。)

 この第2弾シングル「愛ある限り」(ニール・セダカとハワード・グリーンフィールドの共作)は見事全米1位となり、年間シングル・チャートでも第1位に輝いた。ちなみに、この年のEJのビッグ・ヒット曲「フィラデルフィア・フリーダム」は年間シングル・チャート第3位だった。

 カップリングは「ときめく心-Gentle Stranger」(トニー・テニール作)で、トニーのシンガー&ソングライターとしての優れた才能を発揮したバラード曲である。両面ともファースト・アルバム「愛ある限り」に収録されている。


ソング・オブ・ジョイ SONG OF JOY(1976年)-アルバム-

キングレコード●GP 295(日本盤)

 ビッグ・ヒットとなった「愛ある限り」に続くヒット・シングル「ロンリー・ナイト」(ニール・セダカ作)を収録した彼等のセカンド・アルバム。プロデュースはキャプテン&テニールの2人で、全11曲中カヴァーが7曲、自作が4曲。トニーの優れたソングライティング能力を考えると自作曲が少ないのは残念だが、ミラクルズの曲やカントリー&ウエスタン等のカヴァー曲も自分流に料理する彼等のセンスが光る作品集となった。

 2作目にして既に風格と自信さえも感じさせるアルバム・タイトル曲「ソング・オブ・ジョイ-SONG OF JOY」(ビリー・プレストン作)。トニーの力強いボーカルが印象的なバラード「微笑をもう一度-Smile For Me One More Time」(トニー・テニール作)。ポップ・ティストが沢山詰まったロマンティックな「バタースコッチのお城-Butterscotch Castle」(キャプテン&テニールの共作)。ダリルとはビーチ・ボーイズ時代からの仲間であるブルース・ジョンストン作の「サンキュー・ベイビー-Thank You, Baby」等、表現力を増したトニーの歌声と共に、キャプテンことダリル・ドラゴンによる全曲に至る冴え渡ったキーボード・プレイとアレンジも見逃せない。

 本作はメロディーと歌を大切にした軽快で楽しいポップ・アルバムである。

 


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