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EJ・初期(1970年頃)インタビュー

 当時はあまり知られなかった苦しかった時代のことをEJ自身が語っていますので、そのエピソードを紹介します。


ブルーソロジー時代はどんな活動をしていたのですか?

EJ「飛び切り上等なR&Bを演奏して、セミ・プロとしては仕事も多かった。オーティス・レディング・スタイルのブラス・アレンジが流行し、僕らもそれに熱中した。トランペットやサックスを導入し、いろいろな所へ出演したけれど、ディスコティックならば観光客向けのスコッチ・オブ・セント・ジェームスなんかだ。」

どんなスターと一緒に仕事をしましたか?

EJ「初めての仕事はウィルソン・ピケット、僕らにとってVIPスターだったのでびっくり仰天した。けれど残念ながらピケットが僕らのバンドのドラマーを気に入らず、話はオジャンになった。パティ・ラベル達の伴奏は2度もやった。彼女達はすごいプロフェッショナルだったけど、コードを1つでも間違えるものならば、すごい剣幕で文句を言うんだ。音楽的には素晴らしかったけれど、「ダニー・ボーイ」とか「オーヴァー・ザ・レインボー」なんて、ひどい曲をやっていた。」

レグ・ドワイトをエルトン・ジョンに変えた理由は何ですか?

EJ「それほど深い意味はないんだ。ただ響きがよくないので変名したんだ。エルトンはソフト・マシーンのサックス奏者であるエルトン・ディーン、ジョンは最愛の友ジョン・ボルドリー、この2人は共にブルーソロジー時代の親愛な仲間だった。」

芸名の由来となったエルトン・ディーンとジョン・ボールドリーとの物語を教えて?

EJ「僕らがスウェーデン公演旅行から戻って来た時に、何もしていなかったジョンから仕事をしようと話があった。ヴォーカルのスチュアート・ブラウンにギターを担当させ、ジョンをヴォーカリストとして招いたのだ。それにアラン・ウォーカーもいたので、3人のヴォーカリストがグループにいた。ところが1人辞めたので、編成替えをすることになったんだ。その時にエルトン・ディーン(サックス)が入って来た。その後、ジョンがソフト・バラード調の曲ばかり歌い初め、キャバレー仕事も多くなり、僕はブルーソロジーにうんざりしていたんだ。ジョンもエルトンも非常に良い仲間だったんだけれども..。」

ソングライター募集に応募したのは、どんな動機からですか?

EJ「何かをしたかったけれど、正直に言って僕はオルガンを弾くのはそんなに上手じゃないし、約88kgも体重があってルックスも良くなかった。ヴォーカリストとして雇ってくれる所もなかった。作曲なんて余りやりたくなかったけど、これくらいしか僕を生かす道はないのじゃないかと思った。だから応募したんだ。」

その応募はどんな具合に失敗したのですか?

EJ「ニュー・ミュージカル・エクスプレス紙の広告で、EMIから独立したばかりのリバティー/UAレコードが募集してたんだ。レイ・ウイリアムス氏の所へ2曲を持っていったら、歌詩が下手なので相棒の作詩家を探してあげると言われた。僕は電話を待っていると、彼からオーディションを受けろと言われた。デンマーク・ストリートのリージェント・サウンド・スタジオへ行ったら、5曲、歌えと言われたけれど、僕は2曲しか用意して行かなかった。困ってしまって僕はとりあえず、C&Wの故ジム・リーヴスの「ヒール・ハヴ・トウ・ゴー」、「アイ・ラプ・ユー・ビコーズ」を歌った。すべては失敗に終った。」

それならぱあなたのソング・ライターの道は如何に開けたのですか?

EJ「話しは長くなるけれど、リージェント・サウンド・スタジオを出ようとした時、レイ・ウイリアムス氏が声を僕にかけ、リンカンシャーかどこかに住んでいるバーニーと言う奴の歌詞があるけれど、それを見て行かないかと言うんだ。それで、一寸それを読むと、それが仲々の出来なんで、その歌詞のうちの何篇かに曲をつけてみたんだ。そのうちのlつ「スケアクロウ」をレイ・ウィリアムス氏の所へ持って行ったらば、彼も気に入ってくれた。以前にリバティーからは断られた曲なので、レイ・ウイリアムス氏は彼が一緒に仕事をしていた会杜、ディック・ジェームス・カンパニーのlつに持っていったんだ。そこでカレブ・クウェイと再会した。」

バーニー・トーピンとは何時会ったのですか?

EJ「カレブは、僕が出版社で雑用係のアルバイトをしてた時、その立ち廻り先に務めていたのだ。彼はディック・ジェームス・カンパニーでエンジニアをしており、パーニーの歌詞に僕が曲をつけ、それをデモ・テープに入れるのを彼が手伝い、会社側に後で推薦してくれたんだ。そのデモ・テープを作っている、ある日のこと、レイ・ウイリアムス氏を通してパーニーと会った。すごく初心って感じだった。彼はその時にロンドンへ来たのは2回目で、叔母さんと一緒にプットニーに住んでいると言った。僕はデモ・テープを彼に聞かせ、2人は意気投合して、今後も作詞・作曲のチームを組むことにしたんだ。」

なぜソロ初シングルはDJMから発売されなかったのですか?

EJ「そのシングルは「アイヴ・ビーン・ラヴィング・ユー」で、カレブ・クウェイがプロデュースしてくれたものだった。その頃、ディック・ジェームス・ミュージックがDJMレコードを設立する前だったので、同社が契約していたフィリップス・レコードから発売されたんだ。」

話は通去に戻りますが、プルーソロジー時代に発売されたシングル盤は?

EJ「フォンタナ・レーペルから2枚だけ発売し、それは第一期ブルーソロジー時代(1964年頃)の吹き込みで、「カム・バック・ベイビー」は僕がミルス・ミュージックで雑用係をしていた頃に書いた曲で、スチュアート・プラウン(ヴォーカル)には高いので、レコードでは僕が唄ったんだ。もうI枚は「ミスター・フランテイック」で、これは悪魔崇拝の歌だった。スチュアート・ブラウンとマーシャ・ハントにケニー・リンチが興味を持って、ポリドール・レコードで吹き込んだ。それはケ二一が書いた「シンス・アイ・メット・ユー」だ。」

ソロ2枚目のシングル「レディ・サマンサ」はDJMレコードから発売され、プロデュースをスティーヴ・プラウンが担当した背景は?

EJ「そうスティーヴはDJMの宣伝マンだから不思議に思うのも当然だ。そのうえ親友であるカレブが退いたのだから更に疑間を抱くだろう。それには大きな出来事があったんだ。まずカレプは他のことをやりたくて、ディック・ジェームスと大喧嘩をして、その結果、当特の発売元フィリップス・レコードのジョニー・フランツとも大口論をし、ディック・ジェームス・カンパニーを辞めてしまったんだ。そこで僕とパー二一の良き友であり協力者が同社から消え、少しの間、僕らはとても不安だった。そこへスティーヴが入って来たんだ。まだ彼は学生だったけれど、非常に勇気があったビジネスマンだった.彼がこの曲を気に入り、ディック・ジェームスを説き伏せ、プロデュースまでやってくれたんだ。けれど内容は悪かった。」

その「レディ・サマンサ」は失敗作だったのですか?かなり売れたと聞きますが。

EJ「決してあのセッションのことは忘れない。エレクトリック・ピアノを借りたのだけれど、物凄い音の外れ方で、Iつlつの音を何度も弾き直さなければならなかった。録音が終った後、聞き直してみて僕は酷いと思った。だから僕はスティーヴに「宣伝だけやっていれば良かったんだ。」と言ったんだ。しかし彼はそのレコードをBBC放送などに大プロモーションし、2万枚も売れたんだ。以来、僕は彼が正しかった、と考え直した。彼へのこの信頼が僕らの成功の第l歩だし、人気の出発点になったんだ。」

レディ・サマンサ」の成功で何が起こったか?

EJ「ディック・ジェームスは僕らが作りたければ、アルパムを作っても良いと言ってくれた。山ほど録音したい曲は準備していたのに、いざそう言われると僕らは信じられない気持だった。そこで僕らはアルパム「エルトン・ジョンの肖像」を吹き込むことになったんだ。素晴らしかった。」

初アルパム「エルトン・ジヨンの肖像」はどんな具合に吹き込まれたのか?

EJ「アルパム・タイトル曲「うつろな空(エンプティー・スカイ)」を吹き込んだ時、これは僕の生涯で最高の作品だと思った。カレブ・クウェイが凄く上手な演奏をしてくれた。僕はストーンズみたいな感じにしたかった。カレブはジミ・へンドリックス気違いだったけれど、結局、僕らに賛成して一生懸命やってくれた。録音が終ったのは朝の4時頃だった。」

3枚目のシングル「イエス・イッツ・ミー」を如何に評価しているのか?

EJ「このシングルで初めてオーケストレーションを使ったんだ。これは新しいこととして評価している。ベーシック・トラックはスティーヴ・ブラウンがディック・ジェームス・スタジオで録音して、その後からオリンピック・スタジオでストリングスを足したんだ。大ヒットにはならなかったけど、放送でよく紹介された。」

あなたの音楽的な成功の1つにプロデューサーのガス・ダッジョン、アレンジャーのポール・バックマスターと腕を組んだことが挙げられますが、2人との出会いは?

EJ「本来、スティーヴ・ブラウンはプロデューサーでなく、プロモーション・マンだったので、その仕事をあきらめた。そこで、プロデュースについて強い人、オーケストラ編成の伴奏に適したアレンジャーを探したんだ。ジョージ・マーティンの所へ僕らは行ったけれど駄目で、トニー・ホールに会うと、ポール・バックマスターを紹介してくれた。ガス・ダッジョンは良いプロデューサーであるばかりでなく、秀れたプランナーでもあった。ポール・バックマスターの提案で、ガス・ダッジョンにプロデュースを依頼した。それ以来いままで共に仕事をしている。ガス、ポール、パーニー、スティーヴ、それに僕の5人が顔を揃えた。1969年のことだった。」

その後、エルトン・ジヨン・グループを組閣しました。その過程を数えて下さい。

EJ「スティーヴ・ブラウンが僕に自分のパンドを作れって奨めてくれた。けれど僕はプルーソロジーの4年間て充分だと思った。イザコザが嫌いだったからだ。再三の奨めで作ることに決めた。まずカレプ・クウェイを誘おうと思ったら、彼は自分のグループを結成したので駄目。そこでスベンサー・デイヴィス・グループで、2度アメリカへ一緒に行ったディー・マレイとナイジェル・オルスンに頼んだんだ。」

ジェフ・ペックに自分のグループに入らないかと誘われたのは本当か?

EJ「本当だ。ある晩、スピークイージーで仕事をした後、ジェフが僕に会いに来て、誘いに来たんだ。とにかく僕らは1回リハーサルをやってみたら、とても上手に行った。ところが彼はドラマーにコージー・パウエルを入れたかったので話が壊れた。僕らのグループの方は3人で始めたばかりだったので、ジェフの話を断って3人でやることに決めたんだ。ジェフはこの話を口外しないでくれ。と僕に頼んだけれども...。」

3人のエルトン・ジョン・グループの成功は何時感じたか?

EJ「それは弟l回アメリカ公演旅行だった。もう僕らはノリにノリまくって東西海岸の会場で大成功を収めた。そしてやっと苦難の時代を通過したんだ。」

(参考資料:小冊子・All About Elton John/東芝EMI)


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