大江戸ばってん日記 −岡崎弘明−

第4話 「熊との遭遇」

『熊本』という県名は、雄々しくて剛毅な名だ。それに比べると、山や川、島などを使った県名は、なんとまあ、のどかなものだろう。
 昔、車のナンバープレートの地域名が一文字で書かれていた頃、熊本は『熊』ナンバーであった。当時、熊本と鹿児島と鳥取の車が並ぶと、『熊』、『鹿』、『鳥』と花札の役のような賑やかな名前となったものである。その『熊』ナンバーは、東京ではめずらしかったが、たまに見かけると、かなりの迫力があった。なにせ、熊である。地上最強の獰猛な獣だ。空手家ウイリー・ウイリウムスが素手で死闘を演じたあの熊である。春先、山菜摘みの老人を襲ったりするあの熊である。時速六十キロで走るあの熊である。その凶暴な名を貼り付けた車が後ろからぐいぐい迫ってきたら、道を譲らざるを得ないだろう。

 出身を聞かれ、熊本とこたえると、二人に一人は必ず「熊が出るの?」と言う。単純に、熊本という字面で、熊が連想されてしまうのだ。さらに想像力豊かな人は、熊本の男たちを、巨漢で毛深くて体のどこかに月の輪じるしがあると考えているかもしれない。実際、東京で、熊みたいな熊本県人の知り合いがいるが、出身を聞かれて答えると、「なるほどね〜」と納得されている。そんなものである。
 北海道では熊が出没するが、熊の被害に遭わない方法というものがいくつかあるそうだ。
 まずは、当然ながら、「出会わないようにする」こと。向こうも人間には会いたくないらしく、山の中を歩くときは、リュックに鈴をつけて存在をアピールすることが大切だそうだ。さらに、大声で歌うというのもいいらしい。選曲はむろん「森の熊さん」である。数人で輪唱すれば、効果は絶大だ。それでも熊と遭遇してしまった場合、絶対にやってはいけないのは、「死んだふり」をすることである。間違った対処法であり、本当に死んでしまう。そんな時は、熊を向いたまま、ポケットに入っているものを一つずつ地面に捨てる。熊の興味をそちらへそらしつつ、後ろへ逃げていくと良いらしい。どうしても熊との一騎打ちが避けられないときは、熊が嫌がる強烈な匂いがつまった「熊撃退スプレー」なるものを鼻先に噴射すれば効くそうだ。

 以前、飲み屋で私が熊本自慢ばかりするので、死んだふり(無視)をされたことがある。それは間違った対処法であり、ますますこっちは勢いづいて、揺すってでも熊本の話をたっぷりと聞かせるてやるのだ。熊と違うのは、ポケットから何かを取り出されても、けっして興味をそらしたりはしない。絶対に逃がさず、ラーメンのうまさや、金峰山の標高と東京タワーの高さの関係(ちょうど二倍)など、たっぷりこってり話してあげる。
 私のようなバッテン人(熊本国粋主義者)と遭遇した相手は、熊と出会うよりもやっかいかもしれない。だが、「バッテン人撃退スプレー」を噴出されたら、退散するであろう。スプレーには、「あのサー」、「いいジャンかよー」といった身の毛もよだつ言葉がつまっていて、バッテン人は落ち着かなくなるのだ。


イラスト: 村井健太郎

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