沈魚落雁閉月羞花僕激怒



「ガヤガヤガヤ」
「ワイワイワイ」
「Aランチ下さい」←僕の声
「ペチャクチャペチャクチャ」
「すいません、お水ちょうだい」
 昼休みの混み合ったレストラン。まさにそこは戦場であった。
 ぼやぼやしててはいつまでたっても注文できない。人手不足のせいか、店員の数が少なく、みんな血走った目で慌ただしく店内を駆け回っている。中には発狂寸前で、ヒステリックにわめきたてているウエイトレスもいる。その一瞬の隙をうかがい、注文しなければいけない。店員も必死だが、客も必死だ。
 無事に注文を終えて余裕たっぷりに水を飲んでいる客を尻目に、もう一度叫ぶ。
「すいません、Aランチ下さい」
「ガヤガヤワイワイ」
「こっち、ライスが来てないよ」
「ペチャクチャペチャクチャ」
 駄目だ。二度目も無視された。すでに食べ終わった男が満足そうにつまようじで歯をシーシーしながらちらっと僕を見る。まるで、王様が飢えた乞食を見るように‥‥‥。
「すいませーん。Aランチくださーい」
 駄目だ、駄目だ。三度目も無視だ。もうこんな店やめて「バカヤロー」と席を立ち、別の店に行こうか、などと考えるが元々気の弱い僕はそれもできない。
 四度目。今度こそと、潜水艦が獲物を狙い、魚雷を発射させるように、「Aランチ下さい!」と叫んだ。
 手応えあり!
『Aランチ下さい魚雷』は人であふれかえった店内をぐんぐんと突き進み、ウエイトレスに命中した。
 ウエイトレスは伝票にAと殴り書きし、カウンターに走る。
「やった! 注文成功」
 僕は安堵のため息をつき、勝利の美酒(コップの水)に酔いしれる。
 ふと窓の外を見ると、銀杏の葉が色付き、深まりゆく秋を感じさせていた。
 たった今まで、食い物のことしか頭になかった自分に心の余裕が出てきたのだ。
「ふう、やがて冬か‥‥‥」
 などとつぶやき、おセンチになったりする。
「そろそろ阿蘇には雪が降るかなあ」
 などと、郷愁にかられたりもする。
「ふふっ、交通センターの地下街では今日も出会いと別れがあるんだろうなあ」などと、訳の分からないことをつぶやいたりする。この後、悲惨な目に合うとも知らずに‥‥‥。


「お合い席でお願いします」
 店員の声がして、一人の女性が向かい合った席に座った。
 黒目がちの瞳。色白でほっそりとし、長い髪からはいい匂いがしてくる。
『沈魚落雁閉月羞花』ということわざが思い浮かぶほどの美人であった。
 ちんぎょらくがんへいげつしゅうか、と読み、あまりの美しさに魚や鳥は逃げ、月は隠れ、花は恥じらうという意味である。面白い言い回しなので必死で覚えた。一度も使ったことはないが。
 その彼女が僕と同じAランチを注文する。しかし、喧噪の中、おそらくそれは無視されただろうと僕は思った。ところが彼女はおもむろに英字新聞を取り出し、辞書も引かずに(当り前の話だろうが、僕にとっては驚異)読み始めた。そのあまりのかっこよさに、僕は目をみはる。
 美女と英字新聞。絵になる光景である。
「はい、お待たせ。Aランチ」
 さっき魚雷が命中したウエイトレスがこともあろうに僕ではなく、英字新聞の女の前にフライの盛合せとライスとを置いた。
「あっ、それ、僕が先‥‥」と言ったが、女は英字新聞から目を離さないまま手を伸ばし、ソースを掴んだ。
「僕が先なんですけど!」声を高める。しかし女は相変わらず英字新聞を読みながらソースをかけ、そして海老フライにフォークを突き刺した。
「あっ!」
 僕は呆れた。絶対に僕の声は聞こえたはずである。それなのに‥‥‥。
 女は新聞を離そうともせず片手で食べ始める。僕はむかむかとしてきたが、ぐっとこらえた。ここで騒いでも僕のAランチはもう戻ってこない。
 ああ、僕のAランチ‥‥‥。
 しかし怒りはおさまらず、じっとにらみつける。その時、女はまた手を伸ばし、ライスにこしょうをかけた。おそらく塩をかけたかったのだろう、しかし新聞を見ながらのことであり、間違えたのだ。
 そこで僕は信じられない言葉を聞いた。
「このライス、こしょうがかかってるから取り替えて!」である。しかも怒った顔をして大声で店員を呼んだのだ。
 言われたウエイトレスは怪訝そうな顔をしながらも、ライスを交換する。女は礼のひとつ、わびのひとつも言わず、また新聞を読みながら食べ始めた。
 いったい何なんだ、この女は。僕は唖然とした。さっきまで美人に見えていたのが、もう般若の面にしか見えなかった。
 と今回のエッセイは怒りのまま幕を閉じるわけであるが、それほど衝撃的な出来事だった。
 それからというもの、英字新聞を見る(読むのではなく見る)たびに条件反射のようにむかむかとしてくる。さらにその後のことも思い出して‥‥‥。

「Aランチまだですか。ずいぶん前に注文したんですけど!」
(ほとんど僕は怒っている)
「あっ、お客さん。ごめんなさい。Aランチは終わってしまいました」
 むかむかむかむかむか‥‥‥
 ここから先は良く覚えていない。



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