重いコンダラ



 小さい頃、「巨人の星」の主題歌を思い違いしていた人がけっこういたのではなかろうか。
 余りにも有名な冒頭部分「おもいーこんだーら」を『重いコンダラ』(コンダラという何か重たいもので星飛雄馬がトレーニングをしていた)と勝手に思い込んでいた人が‥‥‥。
 いったい、コンダラとはどんな物なのだろう。僕は想像した。 素材は鉄であろう。別に根拠はないが、語感からしてそんな気がする。
 形状は、角張ったかたまりが連想される。これも根拠はないが、なんとなく。
 そのかたまりに大きな穴が開いていて、そこに腕や足や首を突っ込んでトレーニングするのだ。
 どうやって? さあ、分かりません。

 歌詞の聞き違い、そして思い込みというものは誰にでも起こりうる。
 ちなみにうちの母は、「スーパースリーは諜報部員」というタイトルは忘れたけど、なんだかなつかしいアニメ主題歌の『諜報部員』という箇所を『チョボクリン』と聞き違えていた。
 歌詞の聞き違いや勝手な解釈は日常生活を営む上でさほどの支障があるわけではない。しかし、言葉の思い込みは困る。
 小さい頃に『台風一過』を『台風一家』、『慰謝料』を『医者料』と思い込んでいたのは、僕だけではないだろう。ためしに周りの人に聞いてみたら、たいていはうなずいた。(これが二大巨頭かもしれない)
 『静物画』を『生物画』、『看護婦さん』を『カンゴクさん』などというのも誰でもがおちいる罠であろう。(僕だけかも知れない)
 また、僕は『銭湯』を『ぜにゆ』、『山羊』を『やまひつじ』とずっと読んでいた。(やまひつじは油断をすると今でも人前でついそう読んでしまい、慌てて「冗談だよ」とごまかすほど非常に根が深い。困ったものである)
 僕は板金屋のせがれだが、小学生の時に僕のことを『罰金屋のせがれ(意味不明)』と完全に思い込んでいる者がクラスにいて、「おまえの家の仕事も大変だね」とよく言われた。
 この思い込みというのは、別に小さい時だけとは限らない。
 あの長島茂夫が立教大学時代に黒沢監督の名画『野良犬』をノヨロシケンと読んだのは伝説に残っているし、この前、友達が『翻訳』を『バンヤク』と読んでわらいものになった。(ずっとそう思い続けていたと言う) 
 いまだに僕は「ファンタジー・ノーベル賞を受賞したんですってね」とよく言われるし、僕自身もついこの間まで、ブーケを花の名前だと思っていた。
 小さい頃の思い込みは、大人になっていくうちにいつかどこかで恥をかいて矯正され、ことなきを得るであろう。(場合によってはそれが致命傷となって、人生を左右されるかも知れないが)しかし、そういうチャンスに巡り合わず、間違いを思い込んだまま大人になったり、また大人になってから新たな思い違いをしてしまったら悲惨だ。
 特に目上の人やある程度の地位に着いた人に対しては、その人の名誉を傷付けると思い、教えづらいであろう。
 ここまで思い込みの話をしたけれど、こういった思考の過程にはそれなりの想像力が付いて回っているのかも知れない。あふれんばかりの想像力が耳から入った言葉をゆがめるのだ。ある種の芸術と言ってもいい。しかし、ここから述べることは単なる無知である。


 大学の時、友達がアパートに遊びに来て、「これからデートだけど、ずぼんがよれよれでパジャマのようだから、アイロンを貸してくれ」と言った。アイロンを渡すと、彼はズボンの上に置いたきりでじっと眺めている。
「焦げるぞ」と言うと、「このアイロンは動かないのか」と不思議そうな顔をした。彼はアイロンが勝手に動くと思い込んでいたらしい。
 同じ友人の話をもう一つ。彼が僕の部屋でノリを捜した。何かをくっつけるらしい。
「ノリはないけど、ご飯粒があるよ」と言って、僕は台所を指差した。すると彼は怪訝そうな顔をした。御飯粒がノリになるとは知らなかったのだ。
 僕はびっくり仰天して、「メシ粒をこうするんだよ」と指先でメシ粒を潰して伸ばす真似をしてみせた。彼は「そうか」と感心して台所に行ったが、なかなか部屋に戻ってこない。
 様子を見に行くと、彼は真赤な顔をして米粒(乾燥した生の米)を必死に押し潰していた。
「お、おまえ‥‥」
「なかなかノリにならないぞ。唾でもつけるのか」
 僕には彼が宇宙人に見えた。

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