親知らず



「こりゃ、ひどい!」と歯医者は言った。
「あわあわあわわ」
 診察椅子に座り、まな板の鯉となっている僕は青ざめたが、口を大きく開けているため、喋れない。
「よく、こんなになるまでほっときましたね!」
 医者は説教をするような口調できつく言う。
「あわ、あわわわ、あわ」
 僕は必死で言い分けをした。
 言い分け次第で、症状が軽くなるのではと思いながら。
「この歯はもうだめです。抜かなければなりません。あと、この奥歯もね。それに、親知らずも二本生えてきていますねえ。これもついでに抜きましょう」
「わわわわわわわわわわわわ」
 というわけで合計四本の歯を抜くはめになった。虫歯になった右下と左下の奥歯、それに右上と左上の親知らずを。
 これは六年ほど前の話であるが、今でも鮮明に覚えている。 
 二本の虫歯については、たぶん抜かなければだめだなと、予想はしていた。二本とも中学の時に詰めていた銀の冠が二十歳頃にポロッと外れ、そのまま数年間、ほったらかしにしていた。すると、阿蘇山の噴火口のような穴は、そこからまた新たな虫歯に侵されて広がり、もうボロボロになっていたのである。噴火口どころではない、外輪山になってしまった。
 そのため、食事のたびにスッポリときれいに物がはさまり(グリンピースなど、まるごと一個詰まってしまう)、いつも爪楊枝で歯をつつきながら食べていた。
 せんべいのような固いものはもちろん食べられず、次第にステーキなどの肉の固まりも食えなくなった。
 それでも歯医者に行くのがいやで、我慢して柔らかい物ばかり食べていた。中学時代の治療の際、二本とも神経を抜いていたので痛みがなかったせいもある。 やがて、さまざまな試行錯誤の結果、「でっかい穴の虫歯でも、上手に食べられる方法」を編み出した。
 そのとっておきの方法は以下の通り。虫歯でお悩みの方、一度試してみてはいかが。

一、まず、水で口をクチュクチュとゆすぎ、虫歯のカルデラの中に残っているカスを除去します。これはお清めの儀式です。必ず行ないましょう。

二、次にごはん粒を五・六個、口の中に入れます。できれば少し固めに炊いたものがいい でしょう。その際、決して噛んではいけません。

三、そのごはん粒をまず一つ舌の先を使って虫歯のカルデラの中に入れます。うまくできないときは、指を使ってもよいでしょう。

四、続いて、カルデラ内のごはん粒を、舌の先でギュッと押し付けます。

五、三と四を繰り返し、ごはん粒で虫歯の穴がふさがるまで 続けます。とにかくギュッと押さえ付けることが肝心です。

六、これで、少しはうまく食べられるようになったはずです。しかし、それほど長持ちはしませんので、外れたらまた繰り返し行ないましょう。


 などとやっているうちにますます虫歯の穴が広がった。
 そんなある日、テレビを見てぞっとした。虫歯をほっておくと、リウマチや腎炎、その他全身の病気になることもあると言うのだ。それで、歯医者に行くことを決心したのである。
 四本いっぺんに抜くと、身体にかなりのダメージがあるそうなので何回かに分けて抜くことになった。(医者の話では、歯を抜いただけでショック死する人もいるらしい)
 しかし、虫歯を抜いたあとをどうするかという問題があった。一本は両脇の歯からブリッジをかけることになったが、厄介なのは右下の奥歯。そこはかなりの隙間になり、ブリッジは難しいと言うのだ。
「差し歯を入れて、ネジで顎の骨にとめる方法もありますが」
 壊れた家具を修繕するように医者は言った。ぶるぶるとおびえてみせると、「それとも、入れ歯にしますか?」と医者が聞く。
 ああ、何ということ。まだ若いのに入れ歯だなんて‥‥‥。僕は運命を呪い、神を恨んだ。しかし『悪いのはお前だ』という神様のごもっともな言葉が聞こえ、もっと早く病院に行けば良かったと本当に後悔した。
「あわわ、あわわわわわ(ほかに、方法はないですか)?」
 泣きそうな声で歯医者に尋ねる。
「そうですね‥‥じゃあ、移植をしましょうか」
 医者の説明によれば、抜いた親知らずを、虫歯を抜いた穴に埋め込むのだそうだ。
 自分の歯であれば、そこから根っ子がはえて顎の骨とくっつくらしい。
 嘘みたいな話だが、成功した例は多いそうである。ということは失敗(うまく根がはえず、顎の骨と結合しない)もありえるが、とにかくその移植手術にかけてみることにした。
 医者はまず虫歯を抜き、次に親知らずを抜いて僕に見せ、「普通なら無用の長物なんだけどね」と言いながら移植した。
 手術は延々二時間もかかった。ずっと口を開けっ放しで、顔の形が変わりそうだった。それに血と唾液が垂れ流しになり、顎はしびれた。まるで拷問である。
 手術は大成功で、三か月たったら歯と顎の骨が無事にくっつき、半年後には普通に物が噛めるようになった。
 というわけで、僕の右下の奥歯は以前の左上の親知らずなのである。
 今ではこの親知らず君、何食わぬ顔をして奥歯になり切り、肉やせんべいを噛み砕いている。
 このことは僕の親も知らない。

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