青春18キップ



 

   
 親友の都都逸(どどいつ)君の結婚披露宴に招待され、四月に熊本に帰った。久しぶりの帰省である。

 大学の時は、春・夏・冬と休みのたびに帰省していた。

 同じ熊本出身の友達と一緒に帰ることが多かったが、僕を含め、たいていの者は親のすねをかじり、帰省代を送ってもらっていた。

 しかし、せっかく送金してもらっても、友達に借金を返したり、帰省の前祝いなどと訳の分からぬ宴会をしたりして、気づくと足りなくなっていることもあった。

 帰省代をもらった以上帰らないわけにはいかず、慌てて日雇いのバイトなどをして、切符を買っていた。

 でも、中には親からもらったお金をそっくり全部使い込み、にっちもさっちもいかなくなったうつけ者もいた。

「もしもし、俺、俺。あんたの息子たい。ごめんばってんが、サイフば落としたもんね。だけん、もう一回、送ってくれんね」と友達の義太夫君が親に電話し、嘘をついて再度帰省代をせしめようとした。

 それを聞いた彼の親は呆れて、「歩いて、帰ってこい!」と言ったそうだ。

 しかし、彼も負けてはいない。

「熊本まで歩いて帰れるような丈夫な靴がないけん、靴代ば送って」とぬけしゃあしゃあと言った。

 それから三日したら運動靴が小包で送られてきて、みんなで大笑いした。

 また、小心なために電話では親に嘘をつけない者もいた。

『カネタリナイカラカエレヌ、カネオクレ』と電報をうったのだ。

 すぐに親から電報が届いた。

『カネオクラヌ、カエッテクルナ』

 中には結局、金が工面できずに帰省をあきらめ、僕が帰省している間、僕の部屋に寄生している者もいた。

 そんな自業自得貧乏学生達がほおずりしたくなるようなキップを当時の国鉄が新しく発売することになった。

 今のJRでも春や夏休みに売り出している例の『青春18キップ』である。

 たしか、発売当初は八千円くらいだったと思うが、その金額でなんと一日どこまで乗ってもいいキップが五枚もつづられている。

 それを友達何人かと一緒に買えば、驚くほど安く帰省できるのである。

 今でこそ、トクトクキップのひとつとしてそのキップの名はわりと知られるようになったが、当時は知る人ぞ知ると言う存在だった。

 その発売を知り、さっそく駅に買いに行った。

「青春18キップありますか?」と窓口で聞くと、駅員さんがきらきらと瞳を輝かせて、「青春18キップですね。あーりまーすよー」とやや興奮したような声で答えた。

 新企画のキップであり、発売早々それを買いに来たというのが向こうとしてもうれしかったのであろう。

 駅員さんは最後までにこにことしていた。

 僕達すねかじり貧乏学生も、そんな安い夢のようなキップを売ってくれることに感動し、始終にこにことしていた。

 しかし、何にでも乗れるわけではない。

 各駅停車だけである。

 東京から熊本まで各駅で帰るのである。

 もちろん直通の各駅停車など出ているわけはなく、何度も乗り換えなければならない。

 時刻表を見ながら、マル貧帰省部隊は作戦会議を始めた。

 熊本までうまく接続する列車なんかあるかいなと言いながら時刻表をめくっていくと、これまたほおずりしたくなるような列車があった。

 夜の十一時半に東京を出る、大垣行きの普通列車である。

 岐阜の大垣に朝の七時ころ着き、そこから何度か乗り換えをしていくとその日の夜十一時半ごろには博多に着くのである。

 二十四時間もかかるが、とにかく安く博多にまで帰れる。

 博多には友達が何人かいるので、そこで泊めてもらい、翌日また普通列車で熊本に帰ればよい。

 鬼の首でも取ったかのような勢いで、マル貧帰省部隊は東京駅へと向かった。

 しかし、相当につらい旅であった。

 二十四時間、列車に乗ると言うのはかなり体力を消耗する。

 最初は楽しんでいたが、直角椅子のためになかなか眠ることもできず、疲労困憊となった。

 途中、誰かが「これで安く帰られるとだけん、列車に乗るというバイトばしよると思うと楽ぞ」と言い、単純な僕は、そうか、そう考えればこりゃ楽だ、ハアコリャコリャという気になった。

 また、各駅停車ならではの楽しみもあった。

 だんだんと乗客が変わるごとに、方言も変わっていくのである。

 むろん、僕達マル貧熊本軍団の天下無敵バリバリ方言に、向こうも驚いていたが。

 それに、ゆっくり走るので景色ばかりでなく、沿線の町や村の表情をじっくりと眺めることができた。

 一度などは、車が田んぼに落ちる瞬間を目撃した。

 とにかく新幹線や飛行機よりは格段に旅の風情があった。

 それで味をしめ、僕は何度も大垣行きの普通列車を青春18キップで利用した。

 しかし、だんだんとそのキップが普及し始めたのか、やがて『大垣行き』はマル貧学生で一杯になってきた。

 一部では本当に『貧乏専用列車』と呼ばれていた。

 そして、ツワモノも出始めた。

 網棚の上によじのぼり、寝袋で寝る者とか、携帯コンロを持ち出して連結器のそばで鍋を囲みながら酒盛りをし、車掌にこっぴどく怒られている者を見かけた。

 熊本に帰る飛行機の中でそんなことを思い出し、懐かしんでいると雲の下から熊本弁が聞こえてきた。

 あっと言う間に、春真っ盛りの熊本の上空だった。

 その夜、工事のためにアーケードがなくなった新市街にぎょっとしつつ飲み屋に入り、豚足をかじった。

 親のすねとどっちがおいしいだろうかなどと考えながら‥‥‥。


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