第八話


 
バッテン人 タイに行く

その2

「丸刈りにしてください」
 床屋の椅子に座るなり、僕はこう言った。
 すると、鏡に映った床屋の親父の目がきらりと光った。
「本当にいいんですか」
「ええ、やってください」
「本当に、本当に、いいんですね」
 と、念を押す親父。
「はい」
 きっぱりとそう言い切った。
 床屋の親父はうれしげにバリカンを掴むと、前頭部から激しい音を立たせて、髪を根こそぎ刈り始めた。
 親父の表情は嬉々としていたが、やはり楽しいにちがいない。
 なぜ、僕は坊主になったのか。
 その理由は、タイへ行くために買ってきた観光ガイドの写真だった。
 そこに、丸坊主の頭の群れが写っていたのである。タイのお坊さんたちの写真である。
 なんとまあ、潔いのだろう。写真を見ていて、すがすがしい思いにとらわれ、それらの頭をむしょうに触りたくなった。
 そして、それを一日中触ることができることに気がついた。
 そう、自分が丸坊主になればいいのである。
 こうして、中学卒業以来、久しぶりに坊主頭となり、その青々とした頭でバンコク行きの飛行機に乗ったのであった。
『にわか坊主、タイへ行く』である。(←神々の遺跡を見たい方はクリック)


 夜、六時半、成田を飛び立ったジャンボ機の横のシートに座る妻が、落ちつかなげである。
「なんだか、知らない人と乗ってる見たい」と言う。
 そう、妻にも何も言わずに、いきなり坊主頭にしたのだ。
 面食らっているし、馴れないのだろう。だが、一番馴れないのは、本人である。トイレに立って鏡を見て、ぎょっとしたりした。
 
 ちょっと、胃が痛いのが気になる。
 昔からそうである。旅行のたびに、お腹を壊すのだ。そんな神経質な人間ではないとは思うのだが、きっといつも旅先で食いすぎるからだろう。
 以前、奈良の友人のところに遊びに行ったときもそうだった。
 東大寺の満腹の鹿(観光客が始終せんべいを与えるので、鹿たちはみんないつも食いすぎ状態)を見た夜、胃が猛烈にいたくなった。
 深夜、二時ごろ、救急病院へと行ったことをちらりと思い出す。
 幻覚かもしないが、その病院に食いすぎで倒れた鹿たちもいたような記憶がある。
 そして、今回の旅の最大の目的は『食うこと』である。タイ料理は大好きだ。
 ここはひとつ、一生分のタイ料理を本場で食って来よう。そこまで考えているのだ。タイに着く前から、腹をこわしてどうする。
 そう自分に気合いを入れながら、ビールやワインをがばがばと飲んだ。
 
 現地時間の十時半(日本時間は日が開けて深夜零時半)、バンコクの空港にふらふらと降り立った。
 いやしい僕は、ワインやビールをどんどんお代わりし、べろべろだった。
「あつか〜(暑い〜)」と、バッテン語をつぶやき、酔って気が大きくなった僕は、すでに『バッテン国私設親善大使』の気分である。
 タイの王様が迎えに来てはいないかときょろきょろするが、むろん、来ているわけがない。
 代わりに、あわただしい日本人観光客の群れが、邪魔だとばかりに、僕を押しのけて行く。
「えーと、たしか、この辺で上河さんが迎えに来ているはずだけど」
 僕は、到着ロビーの出口のところで、彼女を探した。
 先に、写真を送ってもらっているので、顔は分かっているつもりだった。
 こちらも、「目印は、坊主頭に青い帽子」と告げている。
 だが、いない。
 三十分ほど待ったが、どんどん人が少なくなっていく。
 そして、怪しげな人たちが、怪しげな日本語で話しかけてくるのをなんとか振り切りながら、焦り始めた。
「おかしいなあ」
 その時、もう一つ、反対側に出口があることに気がついた。
 しかし、たしか、「出て、右」と手紙に書いてあったはずだ。
「あっちじゃないの」と、妻がひきつった顔で言う。
「いや、たしか、出て右と手紙に書いてあったよ」
「本当? ねえ、その手紙は?」
「忘れた‥‥」
「もう、信じられない。左じゃないの?」
「ちょっと見てくる」
 僕はそう言って、左の出口を探し回った。だが、どこにもそれらしき人物はいない。
 困り果ててしまった僕と妻は、その場を動かず、ひたすら待った。もう、ロビーにはほとんど人がいなくなっている。時計を見ると、十一時半だ。一時間近く待っていることになる。
 仕方なく、バーツに両替をし、いくつかの小銭を手にして公衆電話へと向かった。電話番号は控えている。どのコインが有効なのか分からなかったが、適当に入れてかけたら通じた。しかし、出たのはメイドさんのようで日本語が通じない。片言の英語を話すと、なんとか会話ができた。どうやら、今、空港に行っているということらしい。と言うことは、少なくとも、この空港のどこかにいるんだ。だが、どこに。

 十二時を回り、一人の空港職員が近づいてきた。何か困っているのかと聞いてくるので、ここで友人と待ち合わせをしていると告げると、「もう、真夜中だ。今日は来ないんじゃないか」と言う。
 そんな‥‥。
 そして、ロビーの中をぐるぐると探し回ると、写真で見た上河さんのご主人とそっくりな人がいた。
「ひょっとして上河さんですか」
「あっ、岡崎さん」
 と、やっと出会えたのであった。
 どうやら、もう一つ到着ロビーがあったようで、そっちがメインのロビーらしく、ご夫妻はそちらで待っていたそうだ。その到着ゲートに着くとのアナウンスもなされていたらしい。 
 いきなりのハプニングで、どきどきとしてしまった。普段、バッテン王国と日本国とを行き来している身だが、やはり、見知らぬ国では心細くなってしまう。


【やっと出会えた上河さん(向かって左)と謎の女】



 それから、上河さんご夫妻に車でホテルへと送ってもらうことになった。
 駐車場に停めてあるご夫妻の車の前に、一台の車が停められ、外に出せない。
 あらあらと思ったら、ご夫婦がいきなり、「よいしょっ」とその車を押した。
 いつでも移動してもらって良いように、サイドブレーキをかけずに、停めてあったのだ。
 そんな光景を、この後、何度も見てしまう。
 いやあ、楽しい国だ。
 
 雨上がりの路面に、たくさんの車の赤いテールランプが泳いでいる。真夜中だと言うのに、けっこうな交通量だ。
 それでも、ピーク時に比べたら、快適なほどに流れているという。
 バンコクの渋滞は世界一と聞いたことがある。
 たった二、三キロを行くのに、へたすると二、三時間かかることもあるそうだ。
 今の首相の当選の公約も、『景気の向上』と『渋滞の緩和』の二点だったというから、相当に深刻なのだろう。
 バンコク市内では、渋滞を緩和させるために、今、モノレール建設が進められている。そして、そのせいでさらに渋滞がひどくなっているらしい。
 タイ語では渋滞のことを、ロッティッ(ト)と言うそうで、 ロッは『車』の意味で、ティットは『張り付く』。つまり車が地面に張り付いて動かないと言うことだ。
 その時、何台かの高級車がずらっと縦に並び、猛烈な速度で、脇を通り抜けていった。みんな、ハザードを点滅させ、サイレンらしきものを鳴らし、我々の車をけちらしていく。
 聞くと、VIPの車ということだった。


 翌日は薄曇りだった。タイでは、こんな天気を『いい天気』というらしい。
 快晴は、暑くて『悪い天気』なのだ。
 それにしても、暑い。
 その日、わざわざホテルまで迎えに来てくれた上河さんの奥さんとお子さんと一緒に、市内観光をした。
 バンコク市内には、運河が縦横に走り、貸し切りボートで川下り(上り?)を楽しんだ。

【川沿いにて。右端は上河さんの娘、栞ちゃん。その左は謎の女。さらにその左は謎の男。なんですか、あの指は】

 お世辞にもきれいとは言えない茶色く濁った川である。
 だが、アジアの混沌が溶け込んでいるような妙に親しみのある流れで、ボートに乗っていて心地よい風に吹かれているうちに、次第に心がやすらいでいった。
 しかも、細い運河に入り、ごみごみとした住居の脇を通り抜けているうちに、郷愁を覚えたのだった。
「懐かしい‥‥」
 ひょっとして、僕の前世は、ここらあたりで魚釣って暮らしていたのかもしれない。そんなことを考えてしまった。
 あるいは、ここら辺に住む魚だったかもしれない。たぶん、そうだ。そうに違いない。
 今でこそ、バッテン国私設親善大使などというしがない職業に身をやつしているが、前世は、雄大なるアジアに住まう 誇り高い川魚 だったのだ。



【僕が以前魚として住んでいたバンコクの運河。一見、洪水のよう】


 途中、いったん岸に上がり、毒蛇と格闘する飼育員、たまにやられるんじゃないのや、目つきの悪いウサギなどを見て回った。
 それにしても、どうしてせっかくウサギとして生まれてきたのに、目つきが悪いのだろう。かわいい小動物の典型なのに‥‥。ちょっと同情してしまう。
 オスならまだいいが、メスなら嫁のもらい手がないやも。
 上の青い文字をクリックしてちょっと見て欲しい。逆三角形の目は、すこぶる性格が悪そうである。学生時代にいじめに遭い、性格が歪んだか、はたまた親から虐待を受けたか。いや、何かにとりつかれているのかもしれない。
 学校のウサギ小屋にこんなのがいたら、今流行りのウサギ小屋襲撃の最初のターゲットになるだろう。
 案外、様相はコワモテだが、性格は優しく、よく気がつき、エサも周囲に分け与えるようないいウサギなのかもしれないが。

 その後、川沿いの家で、パソコンに向かい、インターネットに興じるバンコクの青年を見た。
 どこの国でも、同じである。
 また、橋の欄干に座る『謎の覆面男』を目撃した。頭にすっぽりと黒い覆面をかぶっているのである。あわてて写真を撮ろうとしたが、間に合わなかった。
 いったい、何者なのだろう。
 それにしても、本当に楽しい国である。


 川下りを終え、僕たちはいったんホテルへと帰った。
 そこで、この旅行最大の目的である「食の道」を満たすべく、腕立て伏せやヒンズースクワットなどをして腹を減らし、「タイ料理受け入れ態勢」を万全に整えた。
 以下、次回、「ああ、か○○ガニ、か○る、は○、僕の胃袋にいらっしゃい編」に続く。

 (すぐに書きますタイ)



【次回予告写真 タイしゃぶ料理屋にて】

 

 














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