羊の皮を着た方言




 バッテン(しかし)やヨカー(いいなあ)は、どう見ても聞いても転んでも飛び上がっても方言である。
 そんなことはすぐ分かる。もし、これが標準語だと思っている熊本出身の人がいたら、その方は世にも恐ろしい無敵の「キング・バッテン人」である(前々回参照)。
 高校まで熊本で過ごしたが、これらの言葉を日に100回以上は使っていた。大ぼらを吹きたがる「先天性デフォルメ表現派」の僕であるが、これに関しては決して大げさな数字ではない。本当にそのくらい使う。もちろん、方言だという意識はありながら。
 それらの言葉は、方言だと自覚しているので、都会に出てきてなんとか標準語を駆使しようとする時、真っ先に削除となる。多くの熊本県人がそうであろう。喧嘩をしたり、女性を口説き損ねた時など、たまに興奮してぼろりとそれらの言葉が飛び出す人もいるかもしれないが、それは勢い余った結果であり、やむをえない。
 ところが、自覚していない方言というのも結構ある。
 いかにも「わたしは標準語です」といった顔つきをしている言葉であり、違和感がないのだ。これには困ってしまう。常に脳の中、言語中枢機能のそばに「間違えやすい熊本弁対象表」を貼っておき、いちいち確認しながら話さねばならず、苦労する。
 とくに名詞に多い。なぜだか分からないが、その中でも文房具関連にけっこう潜んでいる。
 たとえば、「押しピン」である。これを聞いても、分からない人が三分の二、そして残りの三分の一の方は、ピンと来るだろう。これは「画鋲(がびょう)」のことである。
 それから、「広用紙」というのがある。広い用紙のこと、すなわち「模造紙」だ。僕からしてみれば、「広用紙」の方が標準語のようで、「模造紙」はなんだかやぼったくて、方言の匂いがする。
 僕はしばらく「押しピン」も「広用紙」も標準語だと思っていたが、他の熊本出身の人に聞いてもたいてい同じようなことを言うので、間違えやすい方言と思われる。
 ここから先は、バッテン度の高い僕だけかもしれない。
 熊本では「けずる」ことを「とぎる」と言う。それで、「鉛筆けずり」は「鉛筆とぎり」となってしまう。似た例として、穴を開けることを「ほがす」と言う。だから、「千枚通し」は「穴ほがし」となってしまう。この二つとも、僕はしばらくの間、標準語だと思ってよく使っていた。
「ねえねえ、穴ほがし、貸して」
「へ?」
「穴ほがし、穴ほがし」
「おや?」
「穴をほがすやつだよ」
「穴をほがほが?」
 となってしまう。
 文房具関連には、このように「標準語らしいけれども絶対に通じない名称」がたくさんあるので、文具店に入るといつも緊張してしまう。そして、「押しピン」と「画鋲」とどっちが標準語だったかたまに分からなくなり、そういった時、極度の緊張状態にあるので、たいがい方言の方を言ってしまう。すると、店員に「おや?」という顔をされるか、あるいは想像力旺盛な店員がとんでもないものを出してきたりする。文具店は体に悪い。
 文房具以外にもいっぱいある。
 たとえば、色の「濃い」ことを、熊本では「こゆい」と、余計な「ゆ」の一文字が入る。逆に、熊本では決して「濃い」とは言わない(僕だけかもしれないが)。
 掃除する時に「ほうきで掃く」と言うが、熊本では「はわく」と、余計な「わ」の一文字が入る。「竹ぼうき」のことを「庭はわき」ときちんと変換した方言まであるのでやっかいだ。そこまで面倒見のいい言葉を、方言だとは思いづらくなってしまう。
 そういった言葉を、「羊の皮を着た方言」と呼びたい。なぜなら、牙を剥いた狼のような方言が内側に潜んでいるからである。


イラスト:檸檬来夢


「このラーメンの汁は、こゆいなあ」
「こゆい?」
「こゆいだよ。こゆい薄いの、こゆい」
「それを言うなら、濃い薄いの、濃いだろ。また、おまえの熊本なまりが出たな。あはは」
(そう言われてカチンとくる)
「くそっ。でもな、だいたい、濃いという言葉の方がおかしい」
「なぜ?」
「やや味が薄いことを、薄めというだろ。やや濃いことはなんと言う?」
「濃いめだよ」
「それがおかしい。薄いが薄めだったら、濃いは、”濃め(こめ)”にならなければならないじゃないか。なんで、そこに、”い”が入るんだ。ほうら、変だ。熊本だったら、コユメと言うんだ。こっちの方が文法に合ってるぞ、ぐだぐだ‥‥‥」
 などと言っていると相手にされなくなるか、友達をなくしてしまうのだ。それもこれも、羊の皮を着た方言が牙を剥くからである。
 標準語だと思っていたのに方言だったという心理的ショック、ないしは、分かっていたのに標準語らしいのでつい使ってしまった恥ずかしさ、そういった感情の裏返しで、つい怒ってしまうのだ。
 それにしても、やはり僕としては、「こゆい」「はわく」などの一文字多い方言の方が、しっくりとくる。「濃い」「掃く」という言葉は、使ったとしても居心地の悪さを感じ、落ちつかない。宙に浮いたような気分になってしまう。びしっと決まらないのだ。

 知り合いの熊本出身の女性が、ある日、アパートの鍵を部屋の中に入れたまま、ドアの内側のノブの鍵ボタンをガチンと押して外出した。ホテルなどでよくあるパターンと似ている。
 その子は、はたと気づいて大家さんに電話をした。
「すみません、鍵をツメタまま外に出てしまい、入れないんですけれど」と。
 この「ツメル」も、羊の皮を着た方言である。
 鍵をかけることを、熊本では「鍵をツメル」と言うのだ。おそらく漢字に書けば、「詰める」であろう。このように、漢字にもなりそうなので、まさか方言だとは思わない。だが、もちろん通じないのであった。
「え、なんですか? 鍵をツメたまま、外に?」
「ええ、鍵をツメてしまったんです」
「あらあ、鍵をツメてしまったのですか」
 ここで、おそらく大家さんは、「ツメル」という言葉を一生懸命理解しようとしたに違いない。そして、大いなる想像力の元、それは鍵穴に差し込んだまま「鍵をネジ切った」ことだと翻訳したのだ。
 そうなると話はまったくかみあわない。
「ですから、スペアキーがもしあったらお借りしようと思いまして」
「え? スペアキーでどうするんですか」
 鍵をネジ切ったと思っている大家は、鍵穴がふさがっているのにどうしてスペアの鍵など欲しがるんだろうと納得がいかない。
「鍵屋を呼びましょう」と大家さんは言うしかないのだ。
「いえ、鍵屋さんまで呼ばなくても、スペアキーで開ければ済みます」
「でも、鍵をツメたんでしょう」
「はい、鍵をツメたんです」
 しばらくとんちんかんな会話が続き、やっと大家さんは「鍵をツメタ」が「鍵をかけた」ことと理解したそうである。
 と、ここまで百行ほど書いてはっとした。前々回のエッセイと同じパターンである。書きながら、ある間違いに気づいたのである。
 今の今まで、鍵を閉められて中に入れなくなった状態、すなわち「閉め出された」ことを「ツメ出された」と使っていた。上京して十数年、この瞬間まで「ツメ出された」を標準語だと思っていたのだ。「ツメル」自体は方言だとずっと前から知っていたのに。
 これを書いていて、それに気づいてしまった。あわてて辞書を引いたが、もちろん載ってはいない。たぶん、百回以上は使ったと思う。トホホである。
 なお、「辞書をひく」ことを「辞書をクル」と熊本では言う。漢字にするなら「繰る」であろう。これも、羊の皮を着た方言であり、僕はよく使ってしまう。
 実は、四行前にも使っていて、推敲の段階で気づいたのである。


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