第十話
 

「貧乏は楽し」




「おい、誰かたばこ買ってこいよ」

 そう言って、ぼくは三人を見回した。

 時は十ウン年前、ところは高円寺のアパート(通称 高円寺旅館)である。

(めんどくさ〜)

 酒に酔ったみんなはそんな顔をしている。だが、もうたばこは一本もない。シケモクも吸いつくした。

 中には、三回ぐらい火を付けられてフィルターまで吸われた迷惑そうなたばこもある。

「じゃんけんしようか」

「いや、おれはじゃんけんに弱い」

「じゃあ、かけっこは? ここからたばこの自動販売機まで競争して、一番遅かった者が買ってくるというのはどうだろう」

「?」

「??」
 
 シュールな会話が続く中、一人、立ち上がった者がいた。

 仮称 J太郎君 22歳、キングバッテン(熊本度ナンバーワン)であり、プロの学生だ。

 彼は一生大学生をしたいと常々言っていた。

 事実、いろんな大学へ入ったり辞めたり浪人したりで、三十数歳まで大学生を続けることになるが、その頃の僕たちはそんなことをまだ知る由もない。

「おれが買ってくる!」

 奇特にもJ太郎君がそう宣言をしたので、みんなそれぞれ小銭を出しあった。

「J太郎は金あるか?」と聞くと、彼は首を横に振り、財布を振った。一円玉が数枚だけである。

「じゃあ、おだちんで、J太郎の分は俺が出す」

 僕は偉そうにそう言った。数千円のバイト代が入ったばかりで、にわか大富豪だったのである。

 そんな成り金の僕は、大貧民であるJ太郎へほどこすことをなんとなく快感に思い、彼の分も気持ち良く出した。

「じゃあ、行ってくるけんね(行ってくるからね)」

「車に引かれるなよ」

 というわけで、彼はふらふらと外へ出ていった。

「ははは」

「げらげらげら」

「うひひ」

 夜は更け行き、高円寺旅館は否が応でも盛り上がっていく。

 そして、十分経過した。

 J太郎は帰ってこない。

 二十分‥‥、まだ帰ってこない。

「あ、あいつ、まさか!」

 ようやく、我々はあることに気付いた。

 しかし、三十分ほどして彼は戻ってきた。

「ただいま帰りました〜」

「こら、どこ行ってた!」

「すまん」
 
 彼は懺悔を始めた。

 なんと、小銭に目がくらみ、魔がさして持ち逃げしそうになったというのだ。ずっと販売機の前でたたずみ、悩んでいたそうである。

 たかが数百円のために友達を裏切ろうとしたとはなさけない。

 でも、それがおかしくて、朝までみんなげらげらと笑いっぱなしだった。
  


 そんな彼の好物は甘エビである。

 彼も仕送りの時や、バイト代が入った時に、一時的に成り金になる。裕福の絶頂にある時、彼は至福感をかみしめるように甘エビを買う。

 彼は代々木公園のそばの下宿で、芸大浪人生の男(埼玉出身のくせに熊本弁しか喋られなくなった男)と同居していた。四畳半に二人暮らしである。
 
 そこへ遊びに行くと、ちょうど甘エビパーティーが始まる寸前だった。僕も甘エビが大好きだが、その日を狙ったわけではない。偶然だ。

「おおっ、甘エビ!」

 と叫ぶと、J太郎および芸大浪人生は、ものすごい形相でこっちを向いた。

 白いトレイの上には、ちっちゃな甘エビが六尾。二人でたったそれだけの夕食である。

「お、おれはいらんぞ!」

 彼らのささやかな楽しみを奪うまねなど、僕にはとてもできない。そう言うと、二人はほっとした顔で、甘エビをむしゃりむしゃりと食べ始めた。

 うまそうである。僕はじっと二人を見つめていた。

 J太郎が最後の一匹をしょうゆに浸ける。

 僕はごくりと生つばを飲み込んだ。

「食うや(食べるか)?」

 思ってもみなかったJ太郎の申し出に、僕はくらくらとめまいがした。

「‥‥」

「ほら、食えよ」

「うううっ」ほとんど泣きそうな顔をしていたに違いない。

「遠慮するな」

「ううっ、うううっ」
 
 ああ、神様、ごめんなさい。今でもあの時のことを思うと、胸が痛みます。

 こともあろうに、僕は震える手でその甘エビをつかみ、ぷるんとした身を口に入れたのである。

「うまい!」

 たった数秒で、ことは終わった。じわっと後ろめたい気持ちが胃酸とともに沸き上がってくる。

「‥‥」

「‥‥」

 我々はいつまでも見つめあっていた。

 あんなにうまい甘エビを食べたのは、後にも先にもその時以上のものはない。

 この年になれば、甘エビぐらいいつでも食える。しかし、あの時ほどの感動はない。



 当時、仕送りだけでは生活できなかった。僕に限らず周囲の貧乏学生はみなそうだった。

 かといって、怠惰なみんなは、アルバイトもあんまり好きではない。それで、みんなあの手この手で足りない分を再度仕送りしてもらおうとしていた。

「ああ、母さん。ぼく、ぼく、あんたの息子よ。うん、元気、元気。それで、今度の夏休み、帰省するから金送ってよ」

 そう言って親から帰省費用をせしめようとした友人がいた。(実際は、飛行機や新幹線を使わずに各駅停車で帰り、金を浮かせて生活費を補てんしようとする魂胆だった)

 数日後、彼の元に、田舎の両親から運動靴が送られてきた。どういう意味だと電話すると、歩いて帰ってこいと言われたそうだ。

 電話で話すのは気が引けるのか、別の友人は電報という手段を使った。

「カエラレヌ、カネオクレ」と送った。

 数日後、親から電報が届いた。

「カネオクラヌ、カエッテクルナ」と。

 中には、天災を利用する者もいた。

 九州では地震が珍しい。とくに同居していた先輩の出身地、福岡ではほとんど地震などなかったそうだ。

 それを東京で何度か味わい、これは金になるとふんだ先輩は、さっそく実家に電話した。

「いざという時のために、災害対策費を送ってくれ〜」と。

 すると、しばらくして先輩の実家から小包みが届いた。開けてみると、直径三センチ、長さ十センチほどの円筒形の物体で、首からかけるようにひもがついていた。

 その謎の物体は、一万円札をタコ糸でぐるぐる巻きにしたものであった。いつも首からかけておき、いざという時以外には使わないようにという親心なのであろうが、生活費をあてにしていた先輩はしゅんとしていた。簡単に開けるわけにはいかない。

 まさに、子と親との知恵比べである。


 とにかく、みんな貧乏であった。

 食うものに困ったことも何度かあった。インスタントラーメン一袋を何人かで分け合って食べたこともある。麺の本数を数えながら。

 台所の棚の奥から古い小麦粉を発見したときは狂喜した。それを水で溶き、焼いてしょうゆつけて食べた。今、食べようとは思わないが、当時はうまかった。

 もう本当に食料が底を尽き、金も一円もなくて、アパートの敷地に生えた雑草をフライパンで炒めて食べたこともあった。

 今、考えるとぞっとする。トリカブトなどを食わず、よく、無事だったものだ。

 だが、楽しかった。

 あの頃の貧乏の味はほろ苦く、たしかに青春の香りがした。


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