東京にいる鬼瓦 その9

26. 浅草寺(せんそうじ)

   雷門(かみなりもん)

雷門 雷門

 地下鉄銀座線、都営浅草線「浅草駅」下車。徒歩約3、4分で雷門に到着する。雷門は正しくは「風雷神門(ふうらいじんもん)」と呼びます。平安時代の天慶5年(942)、武蔵守平公雅(たいらのきんまさ)によって創建された。

浅草寺鬼瓦1 雷門鬼瓦2

 雷門は浅草寺の総門である。門には右に風神、左に雷神を祀る。だがいつしか「雷門」とだけ呼ばれるようになり、江戸時代の川柳に「門の名で見りゃ風神は居候」などと詠まれている。

浅草寺鬼瓦3 浅草寺鬼瓦4

 慶応元年(1865)火事で類焼し、昭和35年に松下幸之助の寄進で再建されたのが現在の雷門である。昭和53年、平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)作の「金龍・天龍」の2神像が門の北の間に奉安された。
 雷門の炎上について「落咄」がある。両像を安全な場所に運んだものの、雷神像だけが横倒しになったまま動かそうとしても動かない。人夫たちが困っているところへ、一人の老婆がきて、すんなりと起こした。「えらい力持ちの婆さんだ。どこの人だ」と聞くと、見ていた人が「あれは雷おこしの婆さんだわ」と。

浅草寺鬼瓦5 浅草寺鬼瓦6

浅草寺鬼瓦7

 雷門の屋根には鬼瓦が大棟に2つ、北側と南側の降棟鬼がそれぞれ2つで4つ、計6個の鬼瓦がいる。なかなか風格のある顔をしている。

   宝蔵門(ほうぞうもん)

宝蔵門 宝蔵門

 平公雅が浅草寺に祈願して、武蔵国の国主に任ぜられた報謝のしるしとして天慶5年(942)七堂伽藍を再建しました。浅草寺山門という位置付けである。過去に何度も火災に遭いましたが、その都度再建されたのです。楼門の左右に仁王像を奉安するので「仁王門」と呼ばれていたが、現在は経蔵の代わりに重要文化財の「元版一切経(げんぱんいっさいきょう)」をはじめ、寺宝などを収蔵しているので「宝蔵門」と称している。阿・吽の仁王尊には身体健全・厄難消除を祈る人が多い。

宝蔵門鬼瓦1 宝蔵門鬼瓦2

 上の画像は宝蔵門の大棟鬼瓦です。雷門の鬼とはまた幾分違った趣の顔をしています。今の宝蔵門は昭和39年(1964)大谷米太郎御夫妻の寄進により再建されたものです。屋根瓦を受け持った瓦師の違いが鬼瓦にあらわれている。

宝蔵門鬼瓦3 宝蔵門鬼瓦4

 上の画像は宝蔵門重層入母屋屋根の破風に置かれた左右の降棟鬼である。
 江戸時代、正月と2月15日の仏涅槃の日と4月8日の釈尊生誕の日、さらに7月15、16日、春秋彼岸の中日といった年間7日間に限り、一般信徒が仁王門の楼上に登ることを許した。高層建築のないこの頃は、隅田川もはるか富士山も一望に見え十分に展望が楽しめたのである。「中日に仁王に頭を踏みならし」と川柳に歌われた。

宝蔵門鬼瓦5 宝蔵門鬼瓦6

 上は降棟鬼と大棟鬼であるが、この宝蔵門の鬼は阿吽の別がないようである。
 江戸時代は雷門とともに仁王門の扉も「暮六つ」(午後6時頃)には閉められ、特別な縁日である「四万六千日」(7月9、10日)「歳の市」(羽子板市12月17、18日)など以外は夜間の通行は禁止されていた。練塀がめぐらされ、境内は現在のように自由に通り抜けはできなかった。しかも照明などのない時代境内は真っ暗であった。

宝蔵門鬼瓦7 宝蔵門鬼瓦8

 上図は隅棟鬼で上層と下層のものである。
 宝蔵門には現在「小船町」の提灯と「魚河岸講」の鋳物の吊り灯籠一対が奉納されている。徳川家康の恩顧に報いるため魚市場の人たちが奉納した伝統が今日も続いている。「提灯に釣鐘負ける浅草寺」と江戸時代の川柳にあるように、実に大形の提灯ばかりが各所に吊られている。

宝蔵門鬼瓦9 宝蔵門鬼瓦10

宝蔵門鬼瓦11

 上図は、降棟鬼と隅棟鬼である。宝蔵門は重層入母屋造の楼門なので、鬼瓦が大棟2、隅棟に16、降棟が8、合計26個もの鬼が睨みをきかせていることになる。宝蔵門裏にかけられている「大わらじ」は山形県村山市の奉賛会により奉納されている。
 宝蔵門収蔵の「元版一切經」は、源頼朝の夫人北条政子が息子頼家の追善回向のために鎌倉の鶴岡八幡宮に奉納したもので、そのため五四二八巻の各巻ごとに「鶴岡八幡宮」の朱印が捺されている。 明治の神仏分離令で焼却処分にされるところを、貞運尼(ていうんに)が托鉢によって得た資金で買い求め、浅草寺へ明治4年(1871)に奉納した。さて、鎌倉から浅草までの道のりは遠い。まず、「180函」の一切経を品川まで船で運び、それから大八車で浅草寺まで運んだ。その時大いに力を貸したのが新門辰五郎(しんもんたつごろう)であった。

   本堂(観音堂)

本堂
 昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により焼失したが、昭和33年(1958)10月鉄筋コンクリート造りに再建された。一般に「あさくさかんのん」として知られている。大屋根は急勾配のためすこぶる棟高に見えるが、これがこのお堂の特長であり、大変美しい姿である。

 観音堂は南に面して建ち、内部は外陣(げじん)と内陣(ないじん)とに別れている。大扉が開いている日中は誰でも内陣まで入って自由に参拝できる。この観音堂への毎日の参詣者は平均数万人といわれ、表参道には終日人通りが絶えない。

 ご本尊は高さ1寸8分(5.5cm)の黄金仏で、聖観世音菩薩です。古来秘仏として人の目に触れたことがありません。推古天皇36年(628)3月18日、土師臣(はじおみ)中知(なかとも)という人が従者の檜前浜成・武成と共に、宮戸川(江戸浦・隅田川の下流)に魚網を下ろして此の像を引き上げ、主従は驚き、捧持して家にかえり、草堂を建ててこれを安置したといわれています。

本堂鬼瓦1 本堂鬼瓦2

本堂鬼瓦3 本堂鬼瓦3

 上の4点は本堂屋根の鬼瓦です。昭和33年(1958)の再建だから浅草寺としては一番古い建物である。この本堂の鬼瓦はなにか微笑んでいるような優しい顔にできている。

   五重塔

五重塔 五重塔鬼瓦

 五重塔は天慶5年(942)の創建以来幾たびか炎上した。江戸時代慶安元年(1648)に再建された塔は、明治44年国宝に指定されたが昭和20年の東京大空襲で焼失した。現在の塔は昭和48年(1973)に再建されたものである。
 この五重塔は塔院形式の建築で、地上から直に塔が建っているのではなく、塔の基壇となっている回廊式の建物の上に建っている。基壇内には霊牌殿・回向室・信徒休憩室・寺務所などが設けられている。ここの鬼瓦は角度があり過ぎてなかなか写真がとれない。

   二天門(にてんもん)

二天門
 浅草寺東門である。切妻造り、八脚門(やつあしもん)の様式で、元和4年(1618)東照宮を浅草寺境内に勧請した際新たに構えられた。重要文化財に指定されている。日光の東照宮と同時期に浅草寺境内に東照宮が造られ、参拝のためにこの門が建てられたのである。しかし東照宮は寛永19年(1642)焼失し、以後再建はならなかった。

 本来は浅草東照宮の随神門であったが、明治の神仏分離の際、鎌倉八幡宮の経蔵にあった「四天王」のうち「二天」を奉安し、「二天門」と改称した。

二天門鬼瓦1 二天門鬼瓦2

 二天門には大棟に鬼瓦がいるだけである。ここの鬼瓦は本堂や宝蔵門の鬼瓦とくらべて凄みのある風格がある。江戸時代の鬼はひと味違うといったところか。降棟には鬼面文ではなく浅草寺の寺紋である卍紋の家紋鬼瓦である。


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