東京にいる鬼瓦 その9
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雷門は浅草寺の総門である。門には右に風神、左に雷神を祀る。だがいつしか「雷門」とだけ呼ばれるようになり、江戸時代の川柳に「門の名で見りゃ風神は居候」などと詠まれている。
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慶応元年(1865)火事で類焼し、昭和35年に松下幸之助の寄進で再建されたのが現在の雷門である。昭和53年、平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)作の「金龍・天龍」の2神像が門の北の間に奉安された。
雷門の炎上について「落咄」がある。両像を安全な場所に運んだものの、雷神像だけが横倒しになったまま動かそうとしても動かない。人夫たちが困っているところへ、一人の老婆がきて、すんなりと起こした。「えらい力持ちの婆さんだ。どこの人だ」と聞くと、見ていた人が「あれは雷おこしの婆さんだわ」と。
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雷門の屋根には鬼瓦が大棟に2つ、北側と南側の降棟鬼がそれぞれ2つで4つ、計6個の鬼瓦がいる。なかなか風格のある顔をしている。
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上の画像は宝蔵門の大棟鬼瓦です。雷門の鬼とはまた幾分違った趣の顔をしています。今の宝蔵門は昭和39年(1964)大谷米太郎御夫妻の寄進により再建されたものです。屋根瓦を受け持った瓦師の違いが鬼瓦にあらわれている。
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上の画像は宝蔵門重層入母屋屋根の破風に置かれた左右の降棟鬼である。
江戸時代、正月と2月15日の仏涅槃の日と4月8日の釈尊生誕の日、さらに7月15、16日、春秋彼岸の中日といった年間7日間に限り、一般信徒が仁王門の楼上に登ることを許した。高層建築のないこの頃は、隅田川もはるか富士山も一望に見え十分に展望が楽しめたのである。「中日に仁王に頭を踏みならし」と川柳に歌われた。
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上は降棟鬼と大棟鬼であるが、この宝蔵門の鬼は阿吽の別がないようである。
江戸時代は雷門とともに仁王門の扉も「暮六つ」(午後6時頃)には閉められ、特別な縁日である「四万六千日」(7月9、10日)「歳の市」(羽子板市12月17、18日)など以外は夜間の通行は禁止されていた。練塀がめぐらされ、境内は現在のように自由に通り抜けはできなかった。しかも照明などのない時代境内は真っ暗であった。
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上図は隅棟鬼で上層と下層のものである。
宝蔵門には現在「小船町」の提灯と「魚河岸講」の鋳物の吊り灯籠一対が奉納されている。徳川家康の恩顧に報いるため魚市場の人たちが奉納した伝統が今日も続いている。「提灯に釣鐘負ける浅草寺」と江戸時代の川柳にあるように、実に大形の提灯ばかりが各所に吊られている。
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上図は、降棟鬼と隅棟鬼である。宝蔵門は重層入母屋造の楼門なので、鬼瓦が大棟2、隅棟に16、降棟が8、合計26個もの鬼が睨みをきかせていることになる。宝蔵門裏にかけられている「大わらじ」は山形県村山市の奉賛会により奉納されている。
宝蔵門収蔵の「元版一切經」は、源頼朝の夫人北条政子が息子頼家の追善回向のために鎌倉の鶴岡八幡宮に奉納したもので、そのため五四二八巻の各巻ごとに「鶴岡八幡宮」の朱印が捺されている。
明治の神仏分離令で焼却処分にされるところを、貞運尼(ていうんに)が托鉢によって得た資金で買い求め、浅草寺へ明治4年(1871)に奉納した。さて、鎌倉から浅草までの道のりは遠い。まず、「180函」の一切経を品川まで船で運び、それから大八車で浅草寺まで運んだ。その時大いに力を貸したのが新門辰五郎(しんもんたつごろう)であった。

観音堂は南に面して建ち、内部は外陣(げじん)と内陣(ないじん)とに別れている。大扉が開いている日中は誰でも内陣まで入って自由に参拝できる。この観音堂への毎日の参詣者は平均数万人といわれ、表参道には終日人通りが絶えない。
ご本尊は高さ1寸8分(5.5cm)の黄金仏で、聖観世音菩薩です。古来秘仏として人の目に触れたことがありません。推古天皇36年(628)3月18日、土師臣(はじおみ)中知(なかとも)という人が従者の檜前浜成・武成と共に、宮戸川(江戸浦・隅田川の下流)に魚網を下ろして此の像を引き上げ、主従は驚き、捧持して家にかえり、草堂を建ててこれを安置したといわれています。
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本来は浅草東照宮の随神門であったが、明治の神仏分離の際、鎌倉八幡宮の経蔵にあった「四天王」のうち「二天」を奉安し、「二天門」と改称した。
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