国宝の鬼瓦シリーズ
国宝の鬼瓦シリーズは、国宝建造物の屋根を対象にそこに鎮座まします鬼瓦をとりあげます。
国宝に指定されている建造物は全国に131ケ所。寺院が97ケ所、神社が25ケ所、城が5ケ所、その他4ケ所となっています。
当会の調査によればその中で鬼瓦がいる国宝建造物は寺院で50ケ所、神社で3ケ所、その他で1ケ所です。
鬼瓦の姿はさまざまです。時代、屋根の形、作者(鬼師)などの違いでいろいろな形があらわれます。
また鬼瓦は撮影する角度によって大きくその顔かたちは変わってきます。もちろん季節によっても時間帯によってもかなり受ける感じが違います。
皆様も神社仏閣にお参りした節は、是非カメラを屋根の鬼瓦に向けてみて下さい。きっと新しい発見があるでしょう。
17. 国宝 東寺(とうじ)金堂と五重塔 の鬼瓦
京都市南区九条町にある東寺は平安時代空海が真言密教の拠点をおいた寺として有名で、正式の名称は教王護国寺といいます。毎月21日に開かれる縁日(弘法市)は有名で露店の数も多く観光客や地元の人、外人の買い物姿で喧噪しています。
さて空海は遣唐使の一員として唐に渡り(延暦23年(804))、帝都長安の青竜寺に住む唐人恵果和尚から密教大系のすべてをゆずりうけて帰朝(806)したのでした。
それより以前、奈良平城京は律令制国家の開始以来、官営仏寺の建立がさかんで仏教国家の態をなしていました。仏教界は奈良六宗(三論、法相、華厳、戒律、成実、倶舎)が勅許され朝廷の権威を犯す程大きな勢力を誇っていましたが、桓武天皇の平安遷都後奈良宗教界に対抗するべく最澄の天台宗が新たに勅許され、そののち空海の真言宗が、嵯峨天皇の保護を受けて成立したのでした。
延暦13年(794)に桓武天皇によって造営された平安京は、外国の使節を宿泊・接待する役所の建物を平安京の正面入り口である羅城門をはさんで左右対称に建造した。それが東寺と西寺であるといわれています。
寺という漢字は遣随使・遣唐使が往来した奈良・平安時代には役所の建物という意味に使われていました。唐の首都長安においては外国使節団を宿泊させる役所(建造物)の名前が鴻臚寺です。したがって東寺はもともと宗教施設としての寺ではなかったのです。余話ながら遣唐使は空海の帰朝以後30年間途絶えてしまうのです。空海がその時帰朝の船に乗らなかったら空海は日本に存在しなかったことになります。
空海にその東寺を「官寺として鎮護国家・教王護国の密教道場にしないか」という内々のはなしがあり、弘仁14年(823)嵯峨天皇は空海に東寺を下賜されたのです。空海は東寺にまず講堂を建立し、五仏、五菩薩、五大明王、六天の二十一尊の仏像をおさめた。わが国最初の密教の正規の法則による彫像です。それは空海の構想による立体曼陀羅を今に伝えるものです。
1994年(平成6)東寺は「古都京都の文化財」のひとつとしてユネスコの世界遺産に登録されました。
東寺金堂
桁行五間、梁間三間、一重裳階付、入母屋造、本瓦葺。桃山時代。平安時代に創建された金堂は、文明18年(1486)に土一揆によって焼失。現在の金堂は、豊臣秀頼の肝いりで慶長8年(1603)に完成され、同11年に落慶供養が行われた。建物の規模は創建当時とほぼ同じ。外観は堂々とした二重屋根、内部は平屋で、天井高12Eという広大な空間である。基本構造は鎌倉時代に流行した大仏様。桃山時代の大堂建築の代表作である。
東寺金堂の鬼瓦
東寺五重塔
東寺五重塔は幅奥行き共に三間(5.45m)、高さ54.8Eあり、現存する塔としてはわが国最大の塔です。しかし長い歴史の間に火事で4度焼失し、地震、雷など天災にも6度遭い都度再建修復されました。現在の塔は徳川3代将軍家光によって再建されたもので五代目にあたります。寛永18年(1641)着工、同18年に完成しました。
内部には、真言八塑像や八大竜王、草花文や幾何学文が描かれ、密教特有の華麗な空間をつくりだしています。心柱(しんばしら)を背に四方に安置されているのは、阿しゅく、宝生、阿弥陀、不空成就の4如来と菩薩たち。本尊である大日如来の姿はないが、方形の心柱が大日如来をあらわしているという。さらには塔そのものが大日如来の表象だとされており、こうしたことは空海の独創的な発想によるといわれます。
東寺五重塔の鬼瓦