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第17回 八王子セミナーレポート
(1996年6月1日〜2日)

☆手作りネットワークから〜
G'DAY AUSTRALIA!


contents

 

Keynote Speech

「日本の今・昔、オーストラリアの今・昔」トレバー・ウイルソン(駐日オーストラリア公使)

分科会

1.「親のすねかじり」是非 日豪学生代表ディベート
2.Aussie English 村松 増美(サイマル・インターナショナル)
3.太平洋戦争と日豪 鈴木 顕介(東洋女子短期大学)
4.移民の今昔 関根 政美(慶応義塾大学
5.総選挙後のオーストラリア 鈴木健(前朝日新聞シドニー支局)
6.「未来のオーストラリア」せおう産業 太田 孝(前日本経済新聞シドニー支局)
7.オーストラリアの女性 ポーリン・ケント(龍谷大学)
8.「オーストラリアの美術」取材報告 柴崎 信三(日本経済新聞)
10.オーストラリアの文学 D・ギルビー(宮城女学院大学)
11..オーストラリアのオパール 海野 士郎(日豪ニュージーランド教師連盟)

映画上映

日豪共同制作ハイビジョンドラマ『最後の弾丸』(The Last Bullet)

「日本の今・昔、オーストラリアの今・昔」
トレバー・ウイルソン駐日オーストラリア公使

 

 31年前に日本に初めて来て以来、通算10年ほど日本に暮らした。その間に日本がどう変わったかについての印象と、現在の日本が私の目にどう映っているかを話しい。
 学生のころ初めて日本に来たときには、東京でオーストラリア人学生に出会うことはなかった。現在日本には1,000人のオーストラリア人留生が、オーストラリアには61,000人の留学生と2万5,000人の観光兼勉強の日本人がいる。
 1960年代前半に初めてオーストラリア大使館に勤務したころは、日本語を話せる外交官は数名だけだった。今では、大使、公使のほか7名の外交官が日本語を話し、10名のオーストラリア派遣スタッフと9名の現地採用スタッフが日本語に堪能である。
 60年代後半と80年代はじめに大使館に在勤したころ、日豪貿易は、羊毛、小麦、鉄鉱石、牛肉などの一次産品の安定的供給源としての立場を維持することに留意していた。今日ではこれは当たり前のことになった。現在でも鉱物資源輸出が総輪出額工60豪ドルのうち、60億豪ドルを占めているが、この事実は忘れさられている。
 70年代に対日貿易の多角化を計った。1995年には1億8,000方ドルの住宅関連製品、9,200方ドルのコンピューター・ソフトを含む22億7,000万ドルの製品が輸出された。日豪貿易の新しい分野の一つに映画作成がある。昔からの輸出品に加え、自動車部品、日本酒、米までが加わった。
 1983年に日本を離れるときに外務省への報告書を書いた。現在、日本は貧しい国に援助し、国内では生活の質が重要になってきている。また世界全体の目的を経済的利益に優先させようとしている。中国の核実験に対して無償援助を凍結したのは、私の予想していたより以上の勇敢な態度だ。
 この報告書で日本の「国際化」「近代化」の邪魔をしているのは日本の教育制度だと書いた。しかし、日本は信じられない早さで国際化している。1980年に結ばれたワーキングホリデー協定で、94年には1,400人のオーストラリア人が日本を訪問し、6,000人以上の日本人がオーストラリアを旅した。
 日本人は以前よりももっと自信を持って自分の意見を言えるようになり、個人行動がとれるようになった。これによって外国人と日本人が互いに付き合い易くなるだろう。
 大使館の同僚に一人に日本人と結婚して日本に長く住む人がいるが、東京が昔より暮らしやすい場所なったといっている。これは、日本が自分自身に以前よりも満足するようになり、世界を相手にもっと快通に付き合えるようになったからである。

 

第1分科会 「親のすねかじり」是非
日豪学生代表ディベート

 

 「日本の学生が親のすねかじりで大学生活を送る」それが良いのか悪いのかを、賛成派、反対派に分かれて討論した。賛成派、反対派3人づつに分かれ、双方、交互に1人6分ずつ各自の意見を発表した。賛成派は日本人2、オーストラリア人1。反対派はオーストラリア人2、日本人1。
 賛成派の意見のポイントは、第一に時間的余裕ができることが挙げられた。確かに、自分でお金を稼ぐ必要がなければ、高校卒業後スムーズに大学に進学できる。また、大学進学後も勉強に集中することも可能となる。しかし、その余った時間をどのように活用するかで問題も残るであろう。第二のポイントは、親の義務である。これは日本が経済大国になり、豊かになるにつれて造り上げられてきた慣習、文化である。 反対派の主要な意見は、「自立」の問題であろう。オーストラリア、欧米では早い時期から子供に自立を求める。しかし「自立」についても日本、オーストラリアそれぞれの文化に基づき考え方の違いがあり、文化だけで簡単にかたづけられないであろう。それよりも各家庭の経済的な理由の方が大きな要素になるのではないか。
 このディベートを見て抱いた感想は、まず日豪両学生のディベートに対する態度の違いの大きさである。オーストラリア人の学生は、非常によくしゃべる。持ち時間終了のベルが鳴っても、まだしゃべる。その自分の主張を伝えようとする懸命な姿勢はもの凄いものであった。それに対して日本人学生は非常におとなしい。持ち時間が満たないうちに静かに自分の考えを述べて終わり、それが終われば口を開くこともない。そのどちらが良いかは判断の対象ではないが、ただここまで“違う”日豪の人々の相互理解は難しいに違いないと、印象づけられた討論だった。
 日本の大学生は特殊なのかもしれない。私自身も、親の世話になり、すねをかじっている。だが基本的に、親の援助を受けることは好まない。それでも仕方のないことのように思える。今回の討論で、オーストラリアと日本の文化の差が感じられた。
 結果的には、親のすねかじりの賛成派が参加者側には説得力があった。あくまでも、賛成しているというわけではなく、説得力が反対論よりあったからだ。実際に、日本人学生は親から独立して、自費で生活することが不可能に近い。ましてや、文化的なもので、日本では学生まで親が子供の面倒をみるのが、普通と思われている。よいことではないが、批判しても変ることはないだろう。オーストラリアのように、政府が援助する制度が日本でもできれば、親のすねかじりをする必要はないだろう。
 我々日本人は、外国の学生が金銭的な面における常識を知らない。この討論によって、文化や習慣の上での違いを大きく感じた。少し寂しくも思えたが、これからも日本の学生における親のすねかじりはなくならないだろう。それも日本を象徴する一つの文化なのかもしれない。だが、学生は親にもっと感謝の念を示す必要があると思う。

記録者 石井季世子

 

第2分科会 Aussie English
講師 村松 増美(サイマル・インターナショナル)

 

 サイマルインターナショナル会長の村松先生をお迎えして、Aussie Englishの特徴とその文化背景、及び英米語との比較について、実際にビデオや音楽鑑賞、先生の実体験を通して幅広い講義をして頂きました。
 まず始めに、Aussie Englishの特徴として、eiをaiと発音することが挙げられます。その具体例として、Good−day[ei]をGood−day[ai]と発音したり、[ei]Eightを[di]Eightと発音するなどがあり、この特徴はイギリスの下町コトバであるCockneyの流れをくんでいます。
 なぜAussie EnglishがCockneyの影響を受けているかというと、それは産業革命時代に話はさかのぼります。当時、イギリスでは軽犯罪が多発しており、その様子はC.DichensのOliver Twistなどにも描かれており、囚人の数は増える一方でした。そこで政府は、新天地であるAustarariaに囚人達を送りこむことにより、入植を押し進めました。その囚人達により、CockneyがAustrarliaに持ち込まれ、現在の特徴として残ることになりました。
 また一方で、広大な土地での囚人生活は、相互扶助の精神を培うこととなり、結果として、Aussieたちに共通するmateshipが生まれました。それは、友達になりやすく、かつ友情が長続きするというAussieの気さくな気質に表れています。言語に見られる例としては、bastard(私生児)を親しい間柄で使いあうことが挙げられます。My Old Good Bastardと面と向って、親しみをこめて呼びあいます。
 このmateshipは、イギリスによる植民地、オーストラリアの搾取によって確実なものとなりました。20世紀初頭のブーア戦争においては、ヨーロッパ諸国への建前上、イギリスは2人のオーストラリア兵士を不当な裁判によって銃殺しました。彼らのうちの一人は、Breeker Morantという詩人であり、彼に焦点をあてた映画を鑑賞しました。また、イギリスの無謀なgallipoli上陸作戦では多数のオーストラリア兵士が犠牲となりました。現在では、gallipoliに上陸した4月25日はANZAC DayというNational Holidayになっています。
 結論としては、Aussie Englishには,様々なユニークな表現があるにもかかわらず最近では、徐々に使われなくなってきているという事実を、セミナーに参加していた二人のオーストラリア人学生の意見から知ることができました。村松先生はこういった傾向を大変残念がられている反面、言語は常に変化していくものであるということもおっしゃられていたような気がします。また、これからのオーストラリアの在り方については、イギリスと活発な関係を持つよりは、環太平洋アジア諸国の一員としての役割りに重点を置き、その中でも特に日本との関係は重要になってくると考えられます。その際、fairnessに裏打ちされたmateshipを持って接してくるオーストラリアに対し、我々はどこまでsincereな態度で臨めるかという、オーストラリアの在り方のみならず、日本の在り方についても考えさせられる講義でした。

 

第3分科会 太平洋戦争と日豪
講師 鈴木 顕介(東洋女子短期大学)

 

 鈴木顕介先生(東洋女子短大)の「太平洋戦争と日豪」の分科会は、昨年好評だったため、今年も同じテーマで開かれた。戦争を知る世代の鈴木先生のもとには、学生、社会人、男女あわせて18人が集まった。
 まず、コーディネーターである嶋崎淳子さんが、去年、9カ月間にわたるオーストラリア滞在の体験談を語った。彼女にとって、この旅行で一番ショックを受けたのは、毎年4月末に行われる「アンザックデー(戦没者記念日)」だった。この日は、建国以来、オーストラリアが戦った戦争で死んでいった兵士たちをたたえるためのものである。ブリスベーンで知り合った日本人留学生の話では、この日、日本人は石を投げられたりするから家にいた方がよい、と忠告されたそうだ。
 ちょうどその年はオーストラリア太平洋戦争の戦勝50周年を迎えたため、戦争の記憶がよみがえった。それが反日感情の形となって現れたのは、嶋崎さんがパースにいた時のことで、日本人が経営するレストランの窓に落書きがされたり、日本レストランの経営者の自宅への放火未遂事件などが起こった。日本が連続63回空爆をしたダーウィンでも彼女は日本人に対する冷たさを感じたそうである。
 彼女の現地の生の体験により出席者は、オーストラリアに今だ戦争のしこりが残っていることを改めて認識した。そこで鈴木先生が太平洋戦争での日本軍の侵攻経路を、地図で示しながら詳しく解説した。出席者のほとんどは、日本がオーストラリアを攻撃したという事実を直接教わるのは今回が初めてであった。中でも小型潜水艇を駆使した日本軍のシドニー湾攻撃の話には、皆、興味を示しているようだった。太平洋戦争は、とかく真珠湾や、ミッドウェーなどが注目されてしまうが、侵略を目的としなかったにせよオーストラリアに7,000人以上の死者を出したこと、また、それ以上に精神的脅威を与えたことを我々は、渡豪前に知っておくべきだったであろう。
 さて、オーストラリア人が太平洋戦争の被害として最も日本人に怒りを覚えたのは捕虜の虐待であった。日本軍は約21,000人を捕虜にしていた。このうち死亡者は8,000人あまり。死亡者総数に対する捕虜死亡者の比率は、約38%。ドイツ軍の捕虜となった兵士の死亡率が2%であった。「戦場に架ける橋」で有名になったタイ、ビルマ鉄道建設作業など、日本軍は捕虜に強制労働させ、死に至らしめたのである。
 逆に日本の捕虜はと言うと、「捕虜になることは恥である」という精神が最前で戦う兵士にも、本国にいる民衆にも高まっていた。このため、231人が死亡した「カウラ捕虜収容所集団脱走事件」を見るように、生きのびることよりも死を選んだ。捕虜の名簿は敵国に公表されるので、日本軍兵士は偽名を使い、本国の家族に迷惑をかけないようにしていた。これが原因でいまでも身元を確認できない死骸(なきがら)が沢山あるという悲劇を招いている。
 最後に、この分科会に参加して考えたこと、感想を出席者各人に聞いてみた。いくつか重要であると思われる意見を箇条書きにする。
・日本の歴史の教科書にはオーストラリアをはじめとした侵攻の記載はされていないのに対し、オーストラリアの小学校の教科書にその旨の記載がある、という歴史をとらえる上でのギャップを取り除くべきである。
・今まで海外にばかり目がいっていて、その国と日本との関係を考えることをしていなかった。
・日本人の歴史、特に戦争に対しての無知さ、無関心さを痛感させられた。
・記録という文字に頼るよりも今回の嶋崎さんのように生の声を聞きたい。ただ、問題は意識的に認識していても実感レベルになるのは難しいのではないだろうか。
・もっと戦争の記録などを公表して、本当の歴史を知るチャンスを与えてほしい。
・今だどこかで戦争は起こっている。痛みを感じる自分でいたい。
・お互い人間として、分かり合えるはず。過去を忘れるのでも否定するのでもなく、歴史を知った上で友好的な交流を続けたい。

記録者 吉井 慎也

 

第4分科会 移民の今昔
講師 関根 雅美(慶応義塾大学)

 

1..「愛をゆずった女」鑑賞
〈あらすじ〉
 1962年、夜行列車の中で、12年ぶりにニーナはかつての恋人ジュリアンと偶然出会う。過ぎ去った時の回想が物語の中心をしめる。
 第二次大戦後、ヨーロッパの各地から荒廃した故国を離れた移民が、オーストラリアの港に押し寄せていた。ポーランド移民であるニーナもその中の一人であった。ニーナは、同じポーランド人であるジュリアンの家族と親しくなる。ニーナは、ジュリアンに徐々に心引かれていき、その思いは日増しに強くなっていく。映画はこの2人の恋愛感情を淡々とした映像で描いていき、そこに1950年代のオーストラリアにおける移民に対する差別感情を示す場面が挿入されていく。ニーナとジュリアンは、一度は二人きりでの暮らしを始め、喜びの生活を送るが、結局、ジュリアンは妻アンナへの思いをたちきれず、二人の幸福な生活は破局を迎える。
 再び夜行列車でのラストシーン。プラットホームに列車が着き、ジュリアンが家族との再会を喜び合っている。ニーナはその光景を見て、さびしさを抱きながらもしっかり前を見据え大地を歩んで行く。このシーンは、移民社会での苦難をこえて、自立していく一人の女性の姿を象徴している。

2.映画の感想
 映画鑑賞後、参加者全員が感想をのべた。多かったのは、オーストラリア人の差別にあい、簡易型の住宅に暮らし、自由に仕事を選ぶ事もままならない移民達の実態を見て、オーストラリアの明るいイメージを少なからず崩されたというものだった。ここには、日本人の人気観光地として定着したオーストラリアという現在のイメージが関係していると思われる。
 また、各民族が自民族のアイデンティティを訴え、コミュニティを築く中で、各民族間の争いが起こってくることもあるのではないかという危惧を唱える人もあった。

3.関根教授による同化主義から多文化主義へ
 オーストラリアでは、1950〜70年代にかけては移民達の文化に対して不寛容の姿勢を示す傾向があった。移民はオーストラリアの文化になじんでいくべきだという考え、つまり同化主義的な考えだったのである。
 しかし、こうした考えは、移民政策の困難さ(具体的にはコスト・アップ)を増すことにつながっていた。そこで70年代ごろから、政府は移民達が各民族ごとにつくるエスニック、コミュニティの尊重(資金援助といった具体的施策を含め)を行っていこうとした。この流れの中で、移民達に自らの過去を見直していこうとする意識が深まった。この映画も、そうした文脈で製作されたものと考える。こうした傾向は多文化主義と称されるものである。
 一方で、イスラム原理主義のように多文化主義に対抗する自民族文化の絶対化という動きが見られてきているのは問題といえる。

 

第5分科会 総選挙後のオーストラリア
講師 鈴木健(前朝日新聞シドニー支局)

 

 「硬い」タイトルで、果たして人が集まるのかな、議論が沸くのかなと、当初は疑問を抱いていた。
 ところが、である。幕を開いてみて驚いた。17名の様々なバックグラウンド出身の参加者が集まったうえに、議論が講師側から一方的な情報の提供に終始することなく、フロアも巻き込んでの活発な討論が盛り上ったのである。しかも、大学で学生にオーストラリアの政治を教えることを仕事とする筆者にとっては、比較的若い参加者が議論に加わってくれたことには、日本の若者も変わりつつあるなど、いっそう感慨を深くさせられた。
 講師は、93年から今年3月まで朝日新聞シドニー特派員を務められた鈴木健(たけし)氏。ところが、氏によるとオーストラリアでは呼びやすいファーストネームの方が交友が広がりやすいというので、現地では「ケン」の方を使っていたとのこと。これを聞いただけで、私は「おっ。なかなかやるな。」と思ったのである。オーストラリアのメディア社会に一歩でも深く踏み込もうとする、鈴木氏の記者精神が窺われたからである。実際に筆者も留学当初に、「テルヒコ」の名前を「テリー」に変えてから、急に声をかけられる回数が多くなった経験がある。
 タイトルは「総選挙後の」であるが、それを分析するには「それ以前」をよく認識しておかねばならない。という訳で、鈴木氏の基調報告は、3月の総選挙で敗れた労働党のキーティング首相に関する話から始まった。一言で言えば、21世紀にむけてアジア太平洋志向という明確な戦略を、不屈の闘志をもって押し進めていったキーティングの強烈なリーダーシップに感銘を感じたということである。共和政論議然り、先住民土地所有 法然り、インドネシアとの防衛協力協定等々。そのような立場からすると、3月の選挙でキーティングが大敗を喫したということは、ごくふつうのオーストラリアの選挙民がそのような新戦略の意義を理解していなかった。つまり過去13年間の労働党政権に国民が飽きたということになる。すると、今後のハワード保守連立政権の課題は、キーティングの敷いた新戦略をどの程度させるのか、即ちアジア太平洋以外にオーストラリアに進む道があるのかを提示することとなり、その意味で心配だとのことであった。
 ふーむ、同感。プロブラムに自分の名前がプリントされていたので、ここで頑張らねばと思って、コメントをつけ加えようとした私は甘かった。鈴木氏の話が終って、即座に議論が沸き起ったのである。皆な押し黙りはしないかと心配していた私にとって、これは意外だった。正直言って、早目にセミナーハウスを後にしなければならない鈴木氏の限られた時間の中で、次々と寄せられる質問をさばくのに司会者として苦労した程である。
 早速出た。昨年12月に締結された豪イ防衛協力協定にかけるオーストラリアの意図についての質問が。鈴木氏によれば、それはANZUS弱体化の補強のためというよりは、地域間協力の拡大による安定を目的としてのことである。すると、インドネシアとの関係を密接化する一方で、東チモールでの人権抑圧を素通するのは偽善的ではないかとの突っ込み。うーん、鋭い!だからこそ、協定交渉は秘密にスハルトとの間にトップ・レベルで進められたと。しかし、アジアとの協力は見るべきものがある。ラオスの開放化支援のため、オーストラリアはラオス外務省の役人を、こちらの経費でキャンベラに連れてきて、1年間英語のトレーニングをさせていると。言い話聞いた。日本のODAもかくあるべき、とどこかで書いておいてやろう。
 と、話は尽きず、質問が次々と出され、それに鈴木氏も丁寧に応えてくれたものの、残念ながらタイム・アップで途中休憩へ。しかし、その間確実に一体感は高まっていた。再開後は残された1時間を筆者のコメントとそれに対する質疑応答に当てさせてもらった。日経BP社の広田耕司氏の助け舟もあって、みんなに納得してもらえたようだ。ホーク・キーティング労働党政権は、社民主議系であるにもかかわらず、規制緩和を進めていった。国境を開くには、経済のそれだけでは不十分。だから文化の国境をもと、多文化主義とアジア太平洋国家化。その一方で、自由化による所得格差の拡大を抑制するため、社会の安定と協調を重視し、政府の産業育成補助の推進。大前研一さん、NZの改革をほめるだけでなく、オーストラリアのユニークな実験にも注目して下さい。

記録者 福嶋 輝彦

 

第6分科会 「未来のオーストラリア」せおう産業
講師 太田 孝(前日本経済新聞シドニー支局)

 

 この分科会は「産業」をテーマとしたことから、学生から社会人まで幅広い年代の参加者があり、またシドニー特派員時代の経験をふまえた太田講師の幅広い話と参加者からの積極的な質問、それに対する解説が高度な次元で組み合わさった質の高い分科会であった。
 まずオーストラリアと日本の経済面での結びつきについての説明があった。オーストラリアは現在日本に対して貿易黒字があり、日本はオーストラリアの資源なしでは今日の経済発展はあり得ず、またオーストラリアは重要な貿易相手国である日本の意向を無視できない立場にあるという事だった。日本企業が、オーストラリア国内でマルチメディア関連の優秀なベンチャー企業を探し、ゲームソフトの製作者を依頼している事も話題に挙り、マイクロソフト社がグラフィックの欠点の解消をオーストラリア各地に点在するベンチャー企業に依頼している例も述べられた。またオーストラリアの人口と産業との関連についても触れ、人口が多い国々は製造業が有利だが、人口の少ないオーストラリアはどのような産業が適しているかという話題では、ソフトウェア産業、映画産業、鉱物資源の輸出が具体的な例として挙り、それぞれ詳しい解説がなされた。上記以外でも近年のオーストラリアの世界的影響力が高まったこと、APECのシドニー開催、オーストラリアの経済的発展の見通しについても触れられオーストラリアの経済・産業を多角的に知る上で、貴重な説明であった。
 次に質疑応答に入ったそれぞれの質疑について書いてみたい。
(1)豪のソフトウェアについて
 オーストラリアはハードウェアの輸出力はなく、ソフトウェアもいきなりヒット作がでるという事もない。またパソコンの普及率や教育水準が非常に高いためパソコンに慣れた世代が早く出てくる可能性が高く、教育用ソフトも質の良い製品をつくることができ、現に英語版のみならず、韓国語・中国語・日本語などのバージョンもでている。マーケティングの面から見ると、オーストラリア人は人口が少ないためマーケットが小さいこと、教育水準が高いこと、英語圏であること等の理由からマイクロソフト社はオーストラリアを新製品の実験場と位置づけており、他の英語圏の国々も同様であるため、それが外資の誘因をもたらしている。またオーストラリア人はブランド志向ではないため、品質の良さよりも価格が低いモノを選び、高いモノは決して買わない。そのため、Sonyはオーストラリアでの事業展開が難しいと考えている。
(2)豪の産業について
 オーストラリアの産業のうち国際競争力のあるものは、人口中耳と高速船といわれ、重鋼調材も発展しており、その売上は神戸製鋼に並んでいる。またプラスチック紙幣の技術も世界一であり、映画産業も人件費の安さ、英語ができるなどの優位性を生かし良い作品を作っている。
(3)オーストラリアと日本の問題点
 日本はオーストラリアが思っている程オーストラリアの事を思ってないが、オーストラリアは日本の事を第1に思っているというギャップがある。ビジネスの面においても日本人は「オーストラリア」という市場で儲けることを考えているが、オーストラリアという市場で儲けることは無理であるという認識を持つことが必要である。またコミュニケーションにおいても日本人には「以心伝心」という言葉があるように、言葉にしなくても意思疎通を図れるが、オーストラリア人は意志を必ず言葉にしないと伝わらない違いがある。
 以上のことから日本人とオーストラリア人のそれぞれの立場を尊重しつつ、共存していくことが重要ではないか。

記録者 長山哲郎

 

第7分科会 オーストラリアの女性
講師 ポーリン・ケント(龍谷大学)

 

 講師ポーリン・ケントさん(女性・龍谷大学)を向かえ、オーストラリアの女性について語って頂いた。
 参加者は、男性3名を含めた17名であった。女性は、女性学を学んだことのある学生や社会人、オーストラリア人の学生を受け入れたことのある主婦、オーストラリアでの滞在経験のある方々であった。
 まず各人が自己紹介を行い、先生のお話が始まった。ポーリン先生の専攻は、社会学であり、今年度から龍谷大学の国際文化学部の方で教べんをとられている。
 お話の内容は、理論はどのようにして出来上がるかを歴史的に遡って理解していく学説史が先生の専攻であるため、歴史的な流れに沿いながらのものとなった。
 オーストラリアは、イギリスからの囚人が送られて形成されてきたConvict社会であるために、長い間男性中心の社会で、歴史似女性の姿は見えなかった。それを示す様に、オーストラリアの自慢は、近代オリンピックの毎回出場と競争に全て参加していることである。
 19世紀前半には、12歳以上の人口の80%が男性であった。そのため、男性はとりあえず女性と結婚することになるが、その結婚が理想に反したものの場合、男性は女性への不満を募らせ、暴力を振るうようになった。この時に女性に仕事はなく、生きる術は結婚か、Servant・maidの仕事、売春しか存在せず、女性には耐えることが強いられた。女性の商品化が成されていたのである。
 しかし、1850年頃には、6人であった合計平均出生率は1930年代には2人と大幅な減少を見せている。これは海面下での女性の意図的な育児からの開放を目指したものであった。そして第二次世界大戦が起こり、男性が戦場に駆り出されることにより、女性が社会に進出することで様々な問題が表面化してきた。
 1970年にアメリカで起こったWomen’s Libの波に乗り、オーストラリアでも、女性が自分自身の言葉で語り始めた。1972年には、選挙の投票前に候補者に女性に対する意見を求め、それをパンフレットにし女性に配布するというWEL(Women’s Electoral Lobby)が起こり、女性の存在の重要性を認識させる大役を果たした。これにより女性議員が選出されたのに加え、femocratというフェミニストの考えを持っている人が官僚制に入り、社会への女性進出の流れを強めた。
 先生によれば、今やこの流れが益々強まり、男性の方が女性より弱くなっているとの事である。現に、進学率でも女性が55%と上回り、男性は中退者が多くなっている。またショッキングな事実として、特に若い男性に自殺率が世界で第一位となっている。その背景としては、マイノリティーであった女性が、自分たちの地位向上を目指して努力していたのに反し、男性は特に自身の立ち場を意識してこなかったことが言える。
 休憩を挟み、参加者から質問、意見が多く飛び出した。
 (1)オーストラリア男性は、アイデンティティーの危機意識を持っているか、持っているとすればどのような対策をたてているか。答、今後は男性、女性の区別なく男女を分化せずにバランス良く、様々な問題を考えていく必要がある。
 (2)オーストラリア社会では、老人の介護についてどうなっているのか。答、老後は自分の子供のそばに引越して、何かあったときにcareしてくれればよいと思っている。老人ホームのイメージも日本より明るい。
 この他、意見としてオーストラリアにはシングルマザーが多く、政府も経済面で優遇しているといったものがあった。この背景には、キリスト教の影響により中絶が認められていなく、産むしかないといった考え方がある。

記録者 新井葉月・鎌田亜樹子

 

第8分科会 「オーストラリアの美術」取材報告
講師 柴崎 信三(日本経済新聞)

 

 本年1月28日より3回シリーズで(日曜版)日本経済新聞に「南のユートピア」と題されたオーストラリア美術についての報告が掲載された。取材された編集局社会部の柴崎信三氏を囲み、新聞記事を広げながらに12名の出席者と共に分科会が行われた。
 取材にあたって柴崎氏は現代社会の背景が見える美術観に焦点をあて、三つの柱を立ててまとめたとのこと。それらは(1)アボリジニー・アート (2)英国人の入植 (3)アイデンティティー。この三つのテーマを簡単にまとめてみよう。

 (1)アボリジニー・アートではキャンベラのオーストラリア国立美術館ホールに展示されているアボリジニー記念碑についての説明。アーネムランドでは、死者が肉体的に死んでも魂がとどまっていると考え、埋葬してから何ケ月か後に精霊を、昇天させる為に使う筒状の儀式用のお棺がデザインされ、多数インスタレーションされている。部族に伝わる神話や伝説とのかかわりを、アボリジニーはドリーミングと呼ぶ。過去から現在に至る美術作品の大半は、そうした記憶以前の叙事詩的世界を描いたものだ。大地に直接描く砂絵、樹皮に描くバークペインティング。岩に描いたものなどは伝統的で多くは、犠式やコミュニケーションの手段としてのサインだった。近年は彼らの社会生活の為に、政府はキャンバスと絵具を与え、普及に努めている。
 (2)200年前に入植した英国系ヨーロッパ人達は、欧州の文化と伝統の郷愁のなかで風景や動物を描いた。19世紀後半の印象派は、この地でも風土性を伝える豪州の印象派、ハイデルバーグ派が生まれた。トム・ロバーワの「羊毛の刈取り」と題された作品は豪州人の国民的なアイデンティティーとして歴史に残る代表作である。これに反して第二次大戦後に、社会批判や表現の革新を掲げて集まった芸術集団が「怒れるペンギン」であった。彼らはオーストラリアで生まれたシドニー・ノーラン、アルバート・タッカー、アーサー・ボイドらで現代美術の歴史を作った先駆者である。シドニー・ノーランが描いた「ネット・ケリー」シリーズは伝統のないオーストラリアで新しい神話の中に屈折したアイデンティティーを求めた作品である。19世紀末にメルボルンで処刑された強盗団の姿を四角い黒ずくめの人物として描いているが、弱者を助けて権力と闘った英雄として後世に伝えている。
 (3)民族や文化を巡るアイデンティティーについては、現在最も大きなテーマとなっている。白豪主義を捨て戦後はヨーロッパのみならず、近年はアジアの移民が多いオーストラリアでは東西の表現と融合、共生の社会をめざしている。建国200年を機に、アボリジニーの権利の復権が大きな社会的な動きとなっている。都市に住むアボリジニー作家(ハーフの人が多い)はアボリジニー性をテーマに、現代美術に活力を与えている。ゴードン・ベネットはオーストラリアの歴史をアボリジニーの視点で再検証する作品を制作して注目されている。トレバーニコルスは、都市生活や工業社会をユーモラスに批判した作品を、ドット・ペインティングの手法を使いながら構成している。また、現在シドニーに住んでいるニュージーランド生まれのコーリン・ラーンスリーは、17年間ロンドンで芸術的基盤を作ったが、オーストラリアの学生から、「ぜひ帰って欲しい」と強く要望されて戻ってきた。「またこの南の島に隔離されるのか」と怒ったが、英連邦からの離脱が現実的になってきた若い世代の意識の変化に刺激されているという。東洋系作家としては56年香港に生まれ11歳で単身移住したジョン・ヤングがいる。清朝時代の西洋画法を伝えたイタリア人宣教師、カスティリョーネの作品を下絵に花や人物、風景を重ね合わせたペインティングは、東西文化の融合と彼自身のアイデンティティーを求めている。
 「文化多元主義」というオーストラリアの試みは、先住民族のアボリジニーと植民地を求めてやってきた欧州人、そして隣人としてのアジア太平洋の人々など多様な人種・民族が一つの地理的枠組みのうちに共生する、未来への実験である。多民族国家はアメリカのようにミックスしていくのではなく、ナショナリズムを超えて各民族を生かしながら融合していくオーストラリア方式は大変興味深い。
 現在はアボリジニーの権利の主張に白人系オーストラリア人は頭を痛めているようだが、今後アジア系の文化との衝突も考えられると思う。二転三転しながらこの国が21世紀を「南のユートピア」として生きることを期待したい。

 

第10分科会 オーストラリアの文学
講師 D・ギルビー(宮城女学院大学)

 

 第10セッションでは、およそ3時間にわたって講演と討議が行なわれた。本来ならば早稲田大学のW・トネート氏が講師をつとめるはずであったが、欠席されたため、宮城女学院大学のD・ギルビー氏が代理を果たして下さった。オーストラリア文学は、日本ではまだ余りよく知られていないが、本日の参加メンバーは、文学を通してオーストラリアを理解したいという方達ばかりであった。参加者11名の中で3人の方がオーストラリア文学の翻訳経験者であった。それぞれの自己紹介に終わって後、ギルビー氏によるオーストラリア文学史の概観についての説明があった。
 まずオーストラリア文学の定義から始まった。本来ならばアボリジニの文学がオーストラリア文学であるべきであるが、アボリジニは文字を持たない民族であるため、イギリスの伝統を引く英語で書かれ、白人の文学がオーストラリア文学であるとされている。オーストラリア文学は大きく分けて三つの時代に分けられる。
 (1)1788年〜1880年の植民地時代。(2)1880年〜1920年のナショナリストの時代 (3)1920年以後〜現代がその大まかな分類である。
 (1)の時代の特徴は、オーストラリアに初めての詩人が現われ、オーストラリアの自然を、訪問者(Stranger)として表現し、まだイギリス人としての視点からオーストラリア大陸を観察した時代であった。囚人の息子であったC.Harpurが“Bell Birds”という詩を通して、オーストラリアの自然を讃える同時に、オーストラリア大陸に対する不安の感情を表現した。又、H.Kingslegは新しい大陸に対する冒険心を表現し、M. Clarleもオーストラリア自然についての観察を作品の中に表現した。すなわち開拓時代の作家たちはオーストラリア人という意識よりも、イギリス人としての視点から作品を描いた。この時代の作品の特徴は、未知なるものに対する驚きと不安、そして好奇心であった。 
 第(2)は、ナショナリストの時代で、オーストラリア人たちがオーストラリアらしさを表現しようとした。この時代の特徴は作家たちが“Bush”に焦点を当てた点にある。たとえば、Henry LawsonやBanjo Patersonなどの作品には、ブッシュでの厳しい生活の様子が克明に描写されている。Henry Lawson作品がオーストラリアにおいて、又日本においても人気があるのは、Lawsonが普通のオーストラリア人の視点から、Bush Lifeを描いたからであると、説明があった。その他、Barbara Baynton, Jaseph Furphyなどの作家がやはり“Bush”の過酷な自然と生活を描いている。こうした作家は、“Bush”の中に、イギリスとは異なるオーストラリアを確立しようとした、との説明があった。
 1920年代以後、現在までは、いわゆるオーストラリア文学のモダニズムを時代である。しかも20年代以降は、第二次大戦、多文化政策、アジア系移民の増加など、オーストラリア社会に大きな変化があり、ひと言では説明のできない時代となる。作品もこれまでのように、物語性のあるものや写実主義的作品になくなり、より断片的なイメージを結合させるという手法がとられるようになる。技術的に高度なものが出てくるようになる。例えば、Kenneth Slessor,Jidith Wright, A.D.Hope, C.S.Prichardといった作家が詩や小説で活躍した。中でもChristina SteadやPatrick Writeは国際的に活躍した。1973年に、P.Whiteはノーベル文学賞を受賞する。彼はオーストラリアを代表する作家であるが、難解すぎるため、オーストラリア人の学生でさえ、苦労する作家であると述べられた。
 1970年代80年代は、多文化社会となり、文学においてもさまざまなオリジンをもつ作家が活躍する。現在では、アジア系作家の活躍が目立ち、多文化社会というオーストラリアの現状を反映している。現在、オーストラリア文学とは何かという定義が大変難しく、むしろ、ひとつの型にはまらない、というのがオーストラリア文学の特質を表わしていると、しめくくられた。
 セッション途中から、ガースター氏の参加があり、多文化社会における文学の問題についてさまざまな討論が行なわれた。文字のみでに限らず、オーストラリアと日本の文化比較、若い世代の人々のオーストラリア観などについても話し合われた。3時間余り、凝縮された講演と実りある討論が行なわれたと思う。

記録者 有満 保之

 

第11分科会 オーストラリアのオパール
講師 海野 士郎(日豪ニュージーランド教師連盟)

 

 「ブラックオパールに興味があって」はともかく、「オパールの上手な買い方を教えていただこうと思って」参加しましたという数人のご婦人方もあって講師の海野先生も少しお困りのようだった。
 しかし、こうした希望もふまえ、まず基本的なオーストラリアの社会構造をブラックオパールに関連ずけながらお話しをすすめられた。
 先生は豪日交流基金の助成金による調査研究もふくめ20回を越す訪豪の経験がある。その成果の一部は「複合国家オーストラリアへの移民の同化過程における心理的葛藤についての考察」という論文にもなっている。
 今回のお話しはそのフィールドワークの過程でニューサウスウェールズ州のライトニングリッジに滞在し、そこに離合集散する人間模様と余りに美しいブラックオパールの魅力に取り付かれたご自身の経験を通してのものだった。(ここで全国宝石学会誌に発表された先生の「ブラックオパールの故郷を訪ねて(ライトニングリッジ訪問記)」が配布された)

 お話しは大きく分けて2つの分野にわけられると思う。1つはライトニングリッジに集る移民者、移住民の調査からみたオーストラリア社会の問題点、オーストラリア人の生活模写。そして、もう1つは参加者のためのオパール入門講座であった。

 オパールは大きく分けて次の4種類になる。
オーストラリア(ホワイト)オパール
メキシコ(ハンガリー)オパール
ブラックオパール
ボウルダーオパール

 テレビでお馴染みの地下都市クーパーピディは南オーストラリア州にあり、ここで産出されるのは白っぽいオーストラリアオパールであり産出量も多く比較的安価で手に入りやすい。しかし、ここで取り上げるブラックオパールはオーストラリアの特産であり、そのほとんどがここライトニングリッジでのみ産出される。しかもこの鉱脈も枯れたため、なかなか手に入らない。その美しさと魅力のために超高価である。
 先生はご自身がシャフト(採掘のための小さな穴)にもぐって採掘した経験を写真を示しながら実写的に話され、その臨場感に思わず興奮する。そして圧巻は大事そうに持ってこられたコレクションであった。ブラックオパール、オーストラリアオパール、メキシコオパール、ボウルダーオパールの宝石とそれらの原石を示され、参加者一同その魅惑的美しさに感動した。

 先生の話はここからいよいよ本題に入る。オーストラリアのゴールドラッシュそしてオパールラッシュの歴史が語られた。
 ついでライトニングリッジのブラックオパールの産出量の増減、価格相場の変動に連動しての人口の増減。バイヤーとマイナー(採掘者)との取引きの実態、世界中から集った人々のダイナミックな関係。マイナー、バイヤー、研磨工を取り囲む人々の生活。鉱脈を掘りあてて一夜にして億万長者になった者。何年も何年も明日に夢をかける貧しい男たち。(このなかには日本人もいた。)これらの成功、未成功者をめぐる人人の思い、羨望、ジェラシー、同情。そして毎夜すべての夢を明日にかけてパブでビールを呷る男たちの悲しき人間模様。
 これらの人人とのつきあいを通して、先生の専門でもある複合国家の諸問題、マルティカルチュラルの実態に話は更にすすんでいった。

 東西冷戦終結によって世界の人々は平和の到来を望んだ。しかし民族宗教の問題により世界は再び紛争の時代に入っている。こうしたなか多くの民族を移民として受け入れているオーストラリアが多民族多文化国家として移民のもたらしたそれぞれの言語文化宗教思想を直ちに同化させることなく、それらを認め保持を助成していく偉大なる実験をしていることは大いに評価できると思う。

 日本人には在日韓国朝鮮人、アイヌ民族、日系南米人、アジアからの農村花嫁、帰国子女、同和、差別等解決すべき多くの問題をかかえている。好むと好まざるを問わず日本もまた多民族共生時代、複合多民族多文化国家(単一、モノカルカルチャー国家でない)に移行する運命にある。
 オーストラリアの実験はこの点でも日本(人)に多くの示唆を与えるものである。話は更にクレオール文化の到来の可能性にまで言及された。

 参加者のなかには宝石商、バイヤーの方もあり、オパールの真偽の見分け方、買い方等のアドバイスもあり、オパールを中心に学問的な面と実際的な両面にわたる内容を兼ね備えた啓蒙的な分科会であった。

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