コンポステラの日々 第4回
当時の僕には管楽器3人の編成は大胆に思えた。篠田は音楽的な理由でも確信があったのだろうが、手持ち楽器のみでどこでも演奏できる小回りのきく身軽な編成を目指したかったようだ。それと篠田昌已ユニットのライブのたびの赤字も負担になっていたのだと思う。経済効率を重視するとメンバーは少ないに越したことはない。それに編成的に足りないところがあるということは、いろいろゲストを入れやすいということも言っていた。まだバンド名は決まっていなかったのだが、10月に横浜のビブレホールでウニタ・ミニマと対バンのライブをブッキングした。初めてのライブをやるにあたって管楽器のゲストを入れる事を画策していたのだが、結局ギターの服部夏樹をゲストに初めてのライブを迎えた。その日は篠田昌已ユニットでやっていた曲を中心に演奏した。まだ新しいバンドを始めた実感はあまりなかったような気がする。1989年の11月8日のことだった。
その年の暮れ頃から、僕は自分で企画したコンサートの準備を始めていた。ドレミ合唱団が活動停止してから自作曲を発表する場を失っていたので、自分の作曲やアレンジを聴かせるようなコンサートをやろうとしたのだ。管楽器数人とドラムとボーカルという編成を考えていたのだが、ふとペダルスティールギターの駒沢裕城のことを思い出した。駒沢裕城は70年代にはちみつぱいなどで活躍した素晴らしい音楽家なのだが、80年代に入ってしばらく音楽活動を休止していた。僕は学生時代にひょんなことから駒沢裕城と知り合い、ドレミ合唱団初期まで親しくしていた。いや、親しくしていたというよりは僕等の先生のような立場であった。この僕の企画したコンサートに駒沢裕城にもぜひ参加して欲しいと思い、数年振りに連絡を取り、会いに行った。その時に、最近こんなことをやっているんだ、と聴かせてくれたのがペダルスティールギターの多重録音で、後の駒沢のソロアルバム『Feliz』のデモのようなものだった。結局駒沢は僕のコンサートに参加してくれた。篠田は駒沢の演奏に感激し、それがきっかけで次の年の篠田昌已名義の『コンポステラ』のレコーディングに駒沢は参加することになる。そして、コンポステラのライブにもたびたびゲストとして参加してもらった。 僕の企画したそのコンサートは1990年1月30日にMANDA-LA2で行なわれた。江戸アケミの葬儀の前日だった。
続きへ
連載トップに戻る
表紙に戻る
Copyright:2001,sekizima takero