GWAN(佐藤博・雁田昇・GUN)

1943年 11月5日 福島県福島市生まれ。福島高校卒。
1965年 俳優座附属俳優養成所(第15期生)卒業後、 「劇団自由劇場」の創立メンバー。
 養成所同期には、林隆三、小野武彦、前田吟、地井武夫、栗原小巻、秋野太作、夏八木勲、浜畑賢吉、高橋長英、村井国夫、赤座美代子、太地喜和子、三田和代、劇作家で斎藤憐。そして、マルチライターの佐藤博。
 この同期生は、才能ある人達を多く輩出した事で、花の15期生と呼ばれている。
 一期上には、串田和美、佐藤信、清水紘治、吉田日出子、樋浦勉、河内美子(現嵯峨美子)、辻萬長、原田芳雄がいた。
ちなみに自由劇場は上記養成所のメンバーが中心として結成される。
地井武男・古川義範・樋浦勉・串田和美・溝口舜亮・村井国夫・佐藤博・清水?治・河内美子・田島和子・吉田日出子の俳優陣と、演出関係の観世栄夫・斉藤隣・佐藤信という、総計14名を創立メンバーとして[劇団〈自由劇場〉]が発足した。

林隆三さんが、はとが豆鉄砲をくらったような、びっくりした目をしてるので、鉄砲=ガンと名付けられたらしいです。
 昔のレコードなどを見ると、ガン、GUN、といろいろあるようですが、2000年よりアメリカ進出(半分冗談、半分本気かな?)とアジアっぽい響きを取り入れ、GWANをミドルネームとして、『佐藤GWAN博』を正式名称としたようです。
他にも、諸説いろいろあって、同音の病気にならないように願をかけてるとも言われる。

参考:自由劇場 Fan Club Internet version

俳優として劇団活動を続けて「演劇センター68/71」(黒テント)にも参加。その後、放送作家となり、自作の歌も歌いはじめる。
<俳優・佐藤博として>
舞台:「イスメネ・地下鉄」「ザ・ショウ」「女殺し油の地獄」「ねずみ小僧」(自由劇場)/「翼を燃やす天使たちの舞踏」(黒テント)「セチュアンの善人」(民音)/「剛球王熱帯の風」「木の戦士」(時々自動)など

1968年
テレビドラマ:「ヴァンパイヤ」(手塚プロ)
Tezuka Osamu @Worldのなかでこんな写真(ロックの役)を見つけました。

1968〜72年頃「東芝日曜劇場」「花いちもんめ」(フジテレビ)

映画:「日本春歌考」(監督 大島渚)
 この映画、見ています。ストーリーを忘れてしまいましたが、(大島渚の作品だから、ストーリーは重要じゃないけどね)吉田日出子さんが主役で出ておられて、劇中歌として「満鉄小唄」を歌っていたのを覚えています。
 この歌は、ディランの「きのうの思い出に別れをつげるんだもの」の最後に、おまけというか、隠し歌というか入っている歌です。作者不明の春歌らしい?のですが、詳しい事は知りません。
 映画の中でGWANさんは、若者のひとりとして出ていました。

<放送作家・雁田昇として>
テレビ:「おーい!はに丸」「大きくなる子」「あつまれ!じゃんけんぽん」(NHK教育)など
ラジオ:「おはなし玉手箱」「青空班ノート」「昭夫の日記」(NHK第二)/「ラジオ図書館」「ミステリー・ゾーン」(TBSラジオ)など。これらはすべてシリーズもので、「ミステリー・ゾーン」だけで100本を越える。
TBSラジオでは「桃井かおり・ひとり身ぽっち」「野沢那智のハローモーニング」「倉本聰・ニッポン人生録」などの構成も担当。

<ソングライター・佐藤GWAN博として>

1971年 黒テント公演で高田渡・中川五郎・友部正人・大塚まさじ・西岡恭蔵・中川イサト・はっぴいえんど・福岡風太などと知り合い、自分でも歌を作りはじめる。

1973年 中川五郎・吉田日出子・鈴木茂・大津彰らと「音楽集団jam」を結成。「春一番コンサート」に出演。

材木町の自由劇場で「jamコンサート」も開催、シバ・松田幸一・なぎらけんいち・朝比奈逸人・朝比奈尚之・佐久間順平・坂本龍一なども出演する。

1975年 アルバム「jam」(キングベルウッドレコード)リリース。

1976年 アルバム「青空」(キングベルウッドレコード)を出す。

テレビで友人となった荒木一郎のすすめで、桃井かおりのアルバム「ONE」「TWO」に組曲を書く
(「ブスのブルース」は、その中の1曲)。

俳優座養成所の同期生・原田芳雄のアルバム(これも荒木一郎プロデュース)に「とどのダンスブルース」。
同じ事務所の松田優作のアルバムに「心臓の子守唄」(この時は「心臓のハードパンチ」)を書く。

70年代は毎年、「春一番コンサート」
80年代に入っても、吉祥寺「ぐぁらん堂」「のろ」などで精力的にライブを続けてきた。

2000年 ニックネームGUNをGWANと改める。

2001年 セカンドアルバム「星空」(シールズレコード)を25年ぶりにリリース。

2004年 「高田渡トリビュート」(シールズレコード)に参加。「ブラザー軒」

2009年 サードアルバム「おやすみお月さん」(シールズレコード)をリリース。

佐藤 GWAN博HPより

 シバ

1967
漫画家「永島慎二」に師事『柔道一直線』『フーテン』等の作品を手伝う。
1970
高田渡との出会いで、第2回中津川フォークジャンボリーに同行、出演。

1971
「武蔵野タンポポ団」結成。メンバーはシバ、高田渡、山本コータロー、若林純夫、他好評を得る。
1972
ソロデビュー。アルバム『青い空の日』をURCよりリリース。
『武蔵野タンポポ団の伝説』『武蔵野タンポポ団もうひとつの伝説』2枚のLPレコードをキングベルウッド」よりリリース。
1973
セカンドアルバム『コスモスによせる』をCBSソニーよりリリース。
1977
サードアルバム『夜のこちら』をキングベルウッドよりリリース。
1981
油彩画のコンペで優秀賞授賞。科学勉強漫画『ガリバーの宇宙論』(ブックマン社)刊行。
1982
科学勉強漫画『ガリバーの生命起源論』(ブックマン社)刊行。
1983
『笑えい!!科学の法則集』(創拓社)刊行。
1985
漫画作品集『野辺は無く』(青林堂)刊行。
1990
6月9日、立川市民会館にて『さよなら20世紀
「一千秒の夜」』を高木純と企画(出演:シバ、友部正人、あがた森魚、たま)「たま」の知久寿焼との対談を含む、詩、エッ
セー、漫画の作品集 『三橋乙揶読本』(北冬書房)刊行。
8月19日、札幌ベッシーホールにて、シバ VS 知久寿焼『虫の鎖骨ブンブンアワー』
1991
『年鑑日本のイラストレーション’91』 掲載。
1992
4月25日、吉祥寺MANDA−LA2にて『虫の鎖骨1992』 下村誠プロデュース(出演:シバと闇のヘルペス、知久寿焼、リス)6月、自主製作CD『帰還』リリース。梅津和時プロデュース(参加ミュージシャン:梅津和時、片山広明、早川岳晴、菊地隆、鮎川誠、知久寿焼、チャールズ清水、新井田耕造、塚本弥生、直角中根、円周率松枝)92年度ディスクユニオン、お茶の水1号店邦楽売上ベスト第3位。
12月、自主製作カセット『BAD MORNIN G BLUES』リリース。
1993
CD『帰還』の歌詞にクレームがつき、破棄処分と なる。
1994
2月、神田「悠久画廊」にて『三橋乙揶(シバ)展・遠方より』開催。
3月、1・5・6・7・9日『虫の鎖骨’94』知久寿焼と関西ツアー。日新パワーステーションにて『おひさしぶり武蔵野
タンポポ団’94』
6月、ギターとハープのみによるアルバム自主製作CD『ピストル』をMID NIGHTRECORDSよりリリース。
1995
アルバム『KUROちゃんをうたう』に参加
2001
CD『コスモスによせる・RECOVERED』シールズレコードよりリリース。
2002
CD『長距離電話』シールズレコードよりリリース。
2003
CD『ガードレールに足かけて』MID NIGH TRECORDSよりリリー ス。
CD『高田渡を歌う・毎晩夜通しおきていて』シールズレコードよりリリース。
2004
CD『高田渡トリビュート』シールズレコード、に参加。久々のハーモニカ吹き語り。
2006
1月31日〜2月19・奈央屋=写真展
5月12日CD『LIVE 新宿発・謎の電車 』アルタミラミュージックより、リリース
2007
4月24日〜5月13日・奈央屋=パンプキンマン展
2008
4月23日CD『真夜中を転がって』リリースコロンビアミュージックエンターテーメント株式会社
4月29日〜5月18日・奈央屋=三橋乙揶/散歩の日々展
6月3日(火)〜15日(日)・下北沢・無寸草とづづ/展示とイベント
6月28日(土)〜7月10日(木)・ビリケンギャラリー/三橋乙揶油彩画展 

 中川イサト

中川イサト/バイオグラフィ

1947年に大阪で生まれる。

音楽に目覚めたのは高校2年生の時で、軽音楽クラブのハワイアン・バンドに参加する。
そんな訳で最初に持った楽器はギターではなくウクレレであった。

初めてギターを手にしたのは17歳になってからで、友人達が組んでいたP.P.M.スタイルのコピー・バンドを見聞きして大いなる刺激を受ける。高校を卒業してからも友人達とキングストン・トリオやP.P.M.スタイルのバンドを組んでいたが、ある時、ひょんな事から西岡たかし氏と知り合い、その結果 " 五つの赤い風船 " が生まれる。

1969年の秋頃、音楽的な方向性の違いから " 五つの赤い風船 " から抜ける。
その後は多くの歌い手達のバック・アップ・ギタリストを務めながら、ソリストとして独自のギター・ミュージックを追求する。

1970年から2003年の間に19枚のアルバムをリリースし、現在も作曲活動を含め、ひたすら独自のギター・ミュージックというものを追求している。

1996年からはドイツでCDをリリースしたのをキッカケにして、ヨーロッパでのコンサート活動を積極的に行い、同時に海外からも沢山のギタリスト達を日本へ招聘し、全国でコンサートを行う。(これまでに招聘したギタリストとしてピーター・フィンガー、ジャック・ストッツエム、プレストン・リード、エド・ガーハード、マーティン・シンプソン、ティム・スパークス、シャンドラ・サボ、フランコ・モローネ、ドン・ロスといったギタリスト達がいる)

また自身も積極的に海外へでかけドイツ、ベルギー、ハンガリーといった国を訪れ、2003年の春にはスイス、イタリアで初めてコンサートを行う。

又、2000年には台湾のプロデューサーそしてギタリストでもあるファン・チア・ウェイ氏と知り合い、同じアジア圏でのギター・ミュージックの交流をはかる為に、現地の大学で彼らと一緒になって積極的にコンサートを行う。
又、その延長として台湾でもCD及びギター・ブックを出版し、各地のギター・スクールのステューデント達に影響を与えている。
2003年の春頃に台湾で " Solar Wind " のCDと楽譜集が出版される。5月にはベルギー、ドイツ、スイス、イタリアでコンサートを行う。

2004年夏にはアメリカからミュリエル・アンダーソンを招聘し、九州を含め、全国7ケ所でコンサートを行い各地で絶賛される。
2004年9月に初めてアメリカのデトロイトでコンサートを行う。
2005年に久しぶりのギター・アルバム「Real Thing」をリリースする。
2006年には7曲入りのインストCD「Acoustic Paradise」をリリース。
2006年春に「武蔵野レビュー」なるバンドを結成し、4月から5月初めにかけてライブ・ツアーを行う。
また7月には「武蔵野レビュー」としてのヴォーカル・アルバム「あの日の風」をリリースし、夏から秋にかけてコンサート・ツアーを行う。因みにゲストプレイヤーとして旧友の村上律さんも同行する。
2007年春にDVD「武蔵野レビュー」をリリース予定。
また5月には久しぶりにヨーロッパツアーを行う予定。今回はドイツ、ベルギー、フランスの3ヵ国で計8回のコンサートを行う。

 中川五郎[005]

1949年大阪生まれ。60年代半ばからアメリカのフォーク・ソングの影響を受けて、曲を作ったり歌ったりし始め、68年に「受験生のブルース」や「主婦のブルース」を発表。70年代に入ってからは音楽に関する文章や歌詞の対訳などが活動の中心に。
90年代に入ってからは小説の執筆やチャールズ・ブコウスキーの小説などさまざまな翻訳も行っている。 
アルバムに『終わり・始まる』(1969年、URC)、『25年目のおっぱい』(76年、フィリップス)、『また恋をしてしまったぼく』(78年、ベルウッド)など。2004年の春には26年ぶりのアルバム『ぼくが死んでこの世を去る日』をリリースし、最新アルバムは2006年秋の『そしてぼくはひとりになる』(シールズ・レコード)。著書に音楽の原稿を纏めた『未来への記憶』(話の特集)、70年代のフォーク・リポートわいせつ裁判に関する文章をまとめた『裁判長殿、愛って何』(晶文社)、小説『愛しすぎずにいられない』(マガジンハウス)、『渋谷公園通り』(ケイエスエス出版)、『ロメオ塾』(リトルモア)、訳書に『U2詩集』や『モリッシー詩集』(ともにシンコー・ミュージック)、ブコウスキーの小説『詩人と女たち』、『くそったれ!少年時代』、紀行文集『ブコウスキーの酔いどれ紀行』、晩年の日記『死をポケットに入れて』、ハワード・スーンズによる伝記『ブコウスキー伝』(いずれも河出書房新社)、ハニフ・クレイシの小説『ぼくは静かに揺れ動く』、『ミッドナイト・オールデイ』、『パパは家出中』(いずれもアーティスト・ハウス)、『ボブ・ディラン全詩集』(ソフトバンク)、ダグラス・A・マーティン『彼はぼくの恋人だった』(東京創元社)などがある。 
最近は執筆活動を続けると共に、日本各地でさかんにライヴ活動を行なっている。

 律とイサト[005]


村上律/プロフィール

1949年奈良市に生まれる。

1962年頃に近くに住んでいた大学生にアメリカン・フォーク・ミュージックをよくきかされていた。でも興味があったのはビートルズであった。高校生の時にアルバイトをして初めてアコースティック・ギターとバンジョーを手に入れる。そして友人達とP.P.M.スタイルのパンドを結成し、自分達のオリジナル曲を色んな所で演奏する。当時ヤマハが主催レたライト・ミュージック・コンテストで奈良県の代表に選ばれた事もある。その後、1968年頃に関西フォークのムーブメントに加わり幾つかのグループに参加する。そして1969年から1970年頃に“ウッドストック”、“アリスのレストラン”と言った音楽映画を観たことにより、何か新しい時代のフォーク・ミュージック、ロック・ミュージックに魅了され、当時ナンバにあったロック喫茶“ディラン”に通いだす。常連客として加川良、友部正人、中川五郎、中川イサト、と言った歌い手達がいた。そして1971年に中川イサトと“律とイサト”と言うデュオ・グループを結成し、コンテンポラリー・フォーク・ミュージックを追求する。1972年にCBS/ソニーから“律とイサト”と言ラタイトルのアルバムをリリースする。でも同年にグループは解散し、当時交流のあった渡辺勝、松田幸一、今井忍、竹田裕美子らと“アーリィタイムズ・ストリングス・バンド”を結成する。CBS/ソニーからシングル盤1枚をリリース。その後、泉谷茂のバック・バンドとして活動していた時に知り合った徳武弘文らと“ラスト・ショウ”を結成。ナッシュビル・サウントを取り入れた新しいロック・ミュージックを追求する。コロンビア・レコードからアルバム2枚をリリース。“ラスト・ショウ”解散後は、昔からの友人である加川良とコンビを組み、ライブ活動を精力的に続ける。

1999年、久しぶりに中川イサトと再会しアルバムを作る事になる。実にそれは27年振りのことである。現在の2人が共に思っている事は、日本に定着してしまった”歌謡フォーク”じゃない、しっかりしたメッセージをもった歌を唄おうと言うことである。サウンドも安っぽい歌謡フォーク・サウントじゃない、かつて自分たちが憧れた骨太のアメリカン・フォーク・サウンドである。2人共50歳を越えてやっとスタート地点に立ったような気持ちている。ライブ活動ものんびりした、自分たちのぺースで続けてゆく予定。

中川イサト/プロフィール

1947年 大阪で生まれる。

1965年 高校3年の時に初めてアメリカン・フォ一ク・ソングを知る。当時はモダン・フォークと呼ばれて  いた。友人達とバンドを緒成し、ダンスパーティや学校の文化祭なぎに出演していた。最初に覚えたコードはC,Am,F,G7と言った、ごくシンプルなダイアトニック・コードだけであった。

1966年 バンドに女性を加え、P.P.M.スタイルのコピー・バンドを作り、当時、学生達が主催していたコンサートやフォーク喫茶などに出演していた。

1967年 あるコンサートで西岡たかし氏と知り合い、彼のオリジナル曲を唄ったりしているうちに、自然発生と言った感じで”五つの赤い風船”が生まれた。’68年〜’69年にかけて2枚のアルバムをリリースする。同時に北海道から九州まで、全国をコンサート・ツァーで回る。

1969年 この年の秋に”五つの赤い風船”を脱退。以前にも増してアコーステイック・ギターに魅了され、バート・ジャンシュ、ジョン・レンボーンと言ったブリティツシュ・アコースティツク・ギタリスト達のギター・プレイにのめり込む。そして松田幸一、瀬尾一三、金延幸子らと”愚”と言うブリティッシュ・ギター・サウンドのバンドを結成し、URCレコードからシングル・レコード2枚をリリースする。 

1970年 70〜71年頃に、多くのシンガーのバック・アップ・ギタリストを務める。この頃に影響を受けたギタリストとして、ブルース・ラングホーン、デヴィッド・ブロムパーグと言った、アメリカン・アコースティック・ギタリスト達がいる。

1972年 村上律と”律とイサト”と言うデュオ・グループを結成し、アメリカン・オールドタイム・ミュージックを追求する。同年にCBS/ソニーからアルパム1枚をリリースしている。

1973年 73年以降は。ソロ活動が中心になるが、76年にギター・スクールを開校し、多くのアマチュア・ギタリスト達を育てた。(尚、’89年に13年の歳月を経て、スクールを閉校した。)又、その間にレコード制作も活発に行っている。

’73年”1970年”URC/レコード

’73年”お茶の時間”CBS/ソニー・レコード
’75年”黄昏気分”CBS/ソニー・レコード
’76年”鼻歌とお月さん”オレンジ・レコード
’77年”1310”CBS/ソニー・レコード

1981年 プライベート・レーベル(ナニワ・レコード)を設立。5枚の自主制作アルバムをリリースする。

’81年”Homespun Music”

’82年”Acoustic Serenade”
’86年”あいらんど”
’88年”After Hours”
’89年”Crescent Moon”

1984年 この頃からソロ演奏活動に意欲を注ぎ、ライブ活動を中心にしながらアコースティック・ギターの可能性を追求する。

1990年 13年振りにメジャー・レーベル(BMG/ビクター・Airレコード)より”Water Skipper”と言うアルバムをリリースする。

同アルバムに収録されている”Poh-Han's Theme”が、朝日ソーラーのテレビCFに採用される。

1991年 BMG/ビクターより、メジャー第2弾”Sayonar”をリリース。前作よりも、よりアコースティック・ギターをフィーチュアーしている。1992年これまでにリリースした自主制作アルバム5枚をCD化。新しいギター・ファンを着実に増やし続ける。

1993年 積極的に全国でのライブ活動を行う。8月には音楽生活25周年記念ライブを大阪で行う。9月には10数年振りに北海道ツアーを行う。

1994年 6枚目の自主制作アルバム”太陽風”をリリース。

1995年 全国でのライプ活動を続けながら、7枚目の自主制作アルパム”蜃気楼の王国”をリリースする。

1996年 5月にドイツのギタリスト、ピーター・フィンガー氏を迎え、2人で全国6カ所でのジョイント・ライブを行い、各地で好評を得る。又、11月には8枚目の自主制作アルバム”スタンダーズ”をリリース。内容は初めてのカヴァー曲集。12月にはアメリカから現在、最も新しいスタイルのギタリスト、プレストン・リード氏を迎え、全国6カ所でジョイント・ライブを行う。

1997年 6月にドイツのアコースティック・ミユージック・レコードと言うレーペルで初めての海外レコーディングを行う。(10月にそのニュー・アルバム”Dream Catcher”をヨーロッパでリリースする。)又、同時にドイツで8カ所、ペルギーで2カ所のコンサート・ツアーを行う。夏の7月にはピーター・フィンガー氏(2度目)とイタリアのアコースティック・ギタリスト、フランコ・モローネ氏を招き、全国6カ所でジョイント・ライブを行う。

1998年 3月にオーマガトキ・レコードより初のペスト・アルパムをリリース。アルバム・タイトルは”Footprint”。全曲新録音のペスト・アルバムとなっている。同じく3月にブレストン・リード(2度目)とエドワード・ガーハード氏を迎え、全国9カ所でのジョイント・ライブを行う、5月にはドイツの”オシュナブルック”と言う町で行われたギター・フユスティバルに出演する。12月にはアメリカからウッディ・マンを迎え、全国10カ所でジョイント・ライブを行う。

1999年 3月にドイツで2枚目のギター・アルパムをレコーヂィング。又、4月にはペルギーでワークショッブ・コンサートに出演する。6月にはアメリカからエド・ガーハード、マーティン・シンプソン氏を迎え、3人で全国10カ所のライブ・ツアーを行う。叉、7月には旧友の村上律氏とのデュオ・アルバム「律とイサト」SEAL-005をSeals Recordからリリース。


 田中研二[004]

194x年: 中国山地の片隅で、一山いくらの団塊世代として生まれるが、まもなく大阪に移る。

195x年: 生まれて初めて憶えた曲は村に来たサーカス団が演奏していた「ファランドール」、2番目に憶えたのはもちろん「天然の美」。

195x年: 小学校では音楽はいつも最低点だったが、音楽の上手な女の子を好きになった途端に最高点を取り、人間心理の不思議を知る。

196x年: さる田舎大学の工業化学科に入学するが、もっぱら音楽にうつつを抜かす。歌い始めたきっかけはもてないために時間を持て余したから。

1970年: 中津川の椛の湖畔で開催されたフォーク・フェスティバルを見に行く。ひがしのひとしと知り会う。

「真知子ちゃん」の紹介で、名古屋までヒッチハイクし、友部正人やいとうたかおに会う。友部正人に借金して帰える。この頃以降の記憶は定かではない。

1971年頃: 名古屋の鶴舞公園で初めて人前で歌う。この頃より名古屋、京都、大阪、東京に足を伸ばすようになる。京都にひがしのひとしを訪れ、

ついでにライブハウスで歌っていた豊田勇造のブルースを、初めから終わりまで彼の後で聞く。

197x年: 大阪天王寺野外音楽堂で開かれた「春一番」で歌う。天王寺動物園の外の電線をリスが歩いているのを見たこと以外に当時の記憶はほとんどない。

197x年: 大阪に戻り、大阪、京都、神戸周辺のライブ・ハウスを荒らして回る。フリークを根城にしていた元「20世紀の谷間社」のグループと、

四国、九州、沖縄の珍道中を敢行する。那覇で「公園のD51」を見る。この珍道中の成果がレコードになる。

以後数年、沖縄から北海道まで歌って回る。旅の目的が各地の温泉、城郭、博物館めぐりであったことは誰にもあかしたことのない生涯の秘密である。

197x年: 豊田勇造、瓜生良介らと西日本一帯を歌って回る。勇造の歌い始めたきっかけがもてたいためだったと聞き、そのひたむきさに感動すら覚える。

198x年: 京都神戸の音楽仲間を集め、神戸と大阪で2度、2枚目のアルバムの録音を試みるが気に入らなくてお蔵入りになる。

友人ゲバラのサックス演奏も幻の演奏となる。当時のはやりでバイクにこり始める。きっかけはもてないために時間を持て余したから。

1988年: 放浪癖が昂じ、当時のはやりでオーストラリアに国外逃亡する。

1989年: シドニーでアイルランド・ゲール語とアイリッシュ・フィドルを習う。きっかけは...もういいか。

1992年: オペラハウスを背景に、友人とアイルランド・ゲール語で「ワルツィング・マチルダ」を歌い、アイルランド全土にテレビ放映される。

人前で歌ったのは、現在のところこれが最後である。

by 田中研二

著書:「バイクとキウィたち」(冬樹社)。翻訳: 「ロビンがはねた」全2巻(冬樹社)、

   「オーストラリア-グルメ・パラダイス」、「オーストラリア-伸びゆく国」

   (シドニー、フォーカス出版社)他多数。雑文、雑翻訳の類は数え切れない。

 金延幸子[003]

1949年5月34日、大阪に生まれる。60年代に中川イサト、松田幸一、瀬尾一三らと『愚』を結成。

イギリスのフォークグループ『ペンタングル』スタイルの個性的なグループであったが、残念ながらアルバム制作はないまま、

シングル「明かりが消えたら/マリアンヌ」を残し解散。

同じメンバーで別名『秘密結社OO教団』としてシングル「あくまのお話し/アリス」もリリースされている。

この当時の音源はCD「金延幸子レアトラックス」のなかで聞くことができる。

また大瀧詠一の初女性プロデュース作品が金延幸子の「時にまかせて」である。

これはCD「SONGBOOKII 大瀧詠一作品集VOL.2(1971-1988)」で聞くことができます。

その後ソロとなり、名盤「み空」を発表。

しかし発売をまたずして、渡米し音楽評論家ポールウィリアムスと結婚。

アメリカに移住後、しばらく音楽制作から離れる。

81年にアメリカで自主制作シングル「TOKYO SONG/Fork in the Road」をリリース。

また渡米後書きためていた曲は、Seals Recordsから発売されている「金延幸子/Fork in the Road」にて

新たに日本でレコーディングされています。(98年発売)

その前に、93年と97年にアルバムがミディより発売されています。

99年4月にはビクターより「Sachiko/金延幸子」を発売し、5月には東京と大阪で初のワンマンライブを行いました。

 渡辺 勝[002]


70年代『はっぴいえんど』と共に東京を代表するバンド、『はちみつぱい』を現在ムーンライダースの鈴木慶一らと結成。
『はちみつぱい』を脱退後、アーリータイムスストリングスバンド、キリギリスを経て1976年にソロアルバム「ぼくは白い雲」、1977年にはセカンドアルバム「Hello」をリリースする。

その「Hello」リリース直前に吉祥寺で行われたライブの音源がSeals Recordsから発売されている、

『渡辺 勝ライブ’77ぼくの手のひらの水たまり』です。

このCDに収録されている曲は、5曲がアルバム未収録のもので、その後のライブでもほとんど演奏されていないという珍しいものです。
ミュージシャンとしても、あがた森魚、加川 良、岡林信庚、三上 寛、高田 渡、古井戸等、数多くのアルバムに参加。

また最近では、早川義夫のアルバムに参加したり芝居、映画関係の音楽を手掛けおり独特の渡辺 勝の世界は健在。

 Early Times Strings Band[001]

1972年秋、『はちみつぱい』を脱退した渡辺 勝が、竹田裕美子、今井 忍、また『アップルパミス』、『アテンションプリーズ』、『律とイサト』等にいた村上 律、『愚』、『ロックキャンデーズ』そして後に村上 律と共に『ラストショウ』を結成する松田幸一、本来はギタリストだった高橋 至というメンバーにて吉祥寺で結成される。
初期の頃には白石スケベ(ドラム)、猪川オサミ(サックス、フルート)、村瀬雅美(ベース)という人達も参加することもあったらしい。
このメンバーにより吉祥寺の一軒家で共同生活をしながらアーリーの音楽活動が始る。
(活動記録はSEAL-001のブックレットを参照してください)
1973年7/21にSONYよりシングルA面、「鐘の鳴る丘待ちぼうけ」B面、「僕の家」をリリース後解散してしまいました。
このシングルの音は現在SONY MUSIC ENTERTAINMENTより発売されているCD「ALTERNATIVE FOLK COLLECTION」で聞くことが出来ます。

これがアーリーの残した唯一の正規の音源です。他にはCD化されていないと思いますが、

URCからリリースされた「五つの赤い風船/ゲームは終わり」のなかで、斉籐哲夫と一緒に「吉祥寺」を演奏しています。

グループ解散後は渡辺 勝、竹田裕美子、今井 忍は『キリギリス』を結成。

村上 律、松田幸一は『ホームメイド』のギタリスト、徳武弘文達と『ラストショウ』を結成。

アーリー解散後、渡辺 勝が1979年に当時録音されていたライブ音源、リハーサル音源により500枚限定の自主制作レコード

「Early Times Strings Band VOL;1」を制作、発売する。

なぜVOL:1なのかということを以前渡辺 勝さんに聞いたところ、VOL;1にはあえてへたな演奏の物を入れて、いい演奏のものをVOL:2として発売するつもりだったと真意のほどはわかりませんが、そうおっしゃっていました。
確かに同じ曲でも別テイクの音源がありました。ただ今回のCD化もオリジナルの音源からマスタリングを行ったのですが、
かなりテープが劣化していてあれ以上いい音にならなかったのが残念でした。
ただ当時の雰囲気や味のある演奏は今聞いても新鮮だと思います。
現在残っている音源でCDに未収録のものは、ライブで『はちみつぱい』の煙草路地をアーリーが演奏したものがあります。
何かの機会にVOL;1の別テイクと共に出せたらと考えています。

アーリーはその後、97年に再結成され98年には大阪の春一番コンサートに出演。

またミディより発売されている「KUROちゃんをうたう」 の中で「パラダイスカフェ」を演奏。

99年7月現在は活動を小休止しています。


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