その3

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前日から続く

 

1999年4月2日(金)

 すでに始まってはいるものの、年度が改まるのに伴い、企業のイメージキャラクタに起用されるタレントも入れ替わっている。うち、最も目立つのは郵便貯金だろう。七年間にわたり務めて来た牧瀬里穂から、須藤理彩に交代した。「前任者」が長かっただけに、今度はどの位続くのか、興味のあるところだ。
 なにも広告・コマーシャルだけではない。その傾向は放送関係でも著しい。最近は七月と一月にも変動が見られるものの、やはり四月と十月のそれが大きい。どこの局でも宣伝に力を入れていて、殊に朝の報道で「賑い」を見せている。
 慌ただしい朝は、番組をじっくり見ることが少ない。むしろ目的は画面の隅に表示される時計である。布団をたたみ、パンを頬張り、茉莉花茶を流し込んで、さらに歯を磨いて着替えまで、全てを三十分そこそこで済まさねばならない。画面を食い入るように見る余裕などある筈も無く、番組の内容は耳で聞く程度に過ぎない。それ故、内容と共に出演者の人選も番組選択の大きな要素となる。
 その意味で、NHKの改編は、目を覚ましたばかりで寝呆けている身には迷惑な話だ。ニュース番組を朝五時からに広げたのは評価出来るとしても、六時からの番組に何故「あのアナウンサー」を出すのか。
 なるほど、巷ではポスターが盗まれる程人気があるとしても、アナウンサーとしての資質と力はどの程度のものか。度を越した「トチリ」は、これまで出ていた夜の番組で実証されている。素人受けし易いタイプであることは確かだろう。だが、それは、酔っ払って暴力沙汰を起こしたにも拘わらず未だに居座っている男が、隣に君臨していたからこそ保てたことである。アナウンサーには致命傷の「トチリ連発」が、それをもって赦されるものではない。
 さらに、大晦日の虚像番組で、一方の司会を務めた揚げ句、最後に見せた醜態は、表現に適したことばすら見当たらない。番組終了後、大物歌手が「あれでもアナウンサーか」と酷評したらしい報道が流れたのも、真偽はともかく大いに頷ける。ポスターが出回り始めた頃は、NHKも宣伝が上手になったものだと思ったものである。だが、本人の登場する時間が増え、見る機会が多くなる程、近年にない人選の誤りとしか思えなくなった。 少なくとも、目覚めたばかりの不機嫌な時分からキンキン声など聞かされたくない。
 気の毒にも、アナウンサー仲間から苛められていると云う根拠のない記事が、やたらと目に付く。着実に実績を積んで来たベテランアナにすれば無理もなく、ありそうなことだ。どうであれ、これから暫くの間、朝は民法に乗り換えるかどうかで迷いそうだ。それとも、慣れるのを待つか。取り敢えず、ひととおりチャンネルを回して見た上で考える。

 

1999年4月6日(火)

 おとといメーリングリストに加入した。ブックマークに登録してあるHPを作っている人からの勧誘によるもので、テーマは沢田聖子である。メールの配信は数箇所から受けているものの、MLには初めて加わる。
 たいがいの入門書に載っているから、ML自体は早くから知っていた。これを集め、加入手続を執れるHPは人気がある。興味のある分野に関する情報を手軽に収集するのに、MLは格好の存在と云える。
 けれども、定期にメールの配信を受けている丈で、 これまでMLには加入しなかった。MLを扱った解説書の悉くに、「MLの加入者は、全員が情報の受け手であると同時に送り手でもある」と云う記述が見られるのである。この一文が、これまで加入を抑えて来た。
 新聞記者ならともかく、外に向けて発する情報など持ってもいなければ、入手する手段もない。詰まり、情報を受けるばかりで、送れない。これを「ロムオ」と呼び、歓迎されないMLが多いと聞く。これでは安心してMLに加われない。
 また、周囲の話題に付いて行ける程度の情報なら、 定期に配信を受けているメール丈で足りる。余り名誉とは云えない綽名を戴くよりましと思い、MLからは距離を置いて来た訳だ。
 ただ、勧誘のメールの差出人とは以前会ったことがあり、確かな情報源も持っている。これまで離れた所にいたとは云え、いずれは加入を考えなければなるまいとも思っていた。そこに勧誘が来た訳で、加入の返事とともに自己紹介のメールを打った。
 風呂から上がり、プロバイダに繋ぎ、メールの受信状況を調べて、驚いた。それまでは多くても数件程度であったのに、二十件近くも届いている。その大半がMLに関係するものだった。一方、みにら星雲のカウンタも、やはり二十以上も増えていた。こちらは昨日の十倍である。

 

1999年4月11日(日)

 あまり吹聴していないものの、競馬歴は半端ではない。テレビまたは競馬場で「実物」を見たことがあり、且つ印象に残っている馬の名を挙げれば、同好の士なら見当が付くだろう。憶い出すままに記述すると、サクラオンリー、バローネターフ、オキノサコン、カチウマタロー、ブルーフラール、キングスポイント、オンワードボルガ、ライバコウハク、メジロアンタレス、シンボリモントルー、シンボリクリエンス、ワカタイショウ、ブロードマインド、ポレール・・・
 ここに挙げた馬の共通点が判れば、或いは一頭でも閃くものがあれば、騎手をアイドル歌手と勘違いし、競馬場をコンサート会場と誤解して、GIのファンファーレで歓声を上げるような真似はしない筈だ。上の十二頭は全て中山大障害の優勝馬である。
 中央競馬クラシック戦線がことしも始まった。その第一弾として、阪神競馬場で桜花賞が開催される。今迄のJRAの宣伝、マスコミのどんちゃん騒ぎに踊らされ、GI競走は常にスポットライトを浴びて来た。それが、ことしから少々変化が現れている。これまでグレード制の対象外とされていた障害競走が大幅に改革され、ジャンプレースとして生まれ変わらせたのだ。
 これにより、桜花賞の裏番組でしかなかった中山大障害(春)は中山グランドジャンプ(J.GI)に、スプリンターズステークスの影に隠れた中山大障害(秋)は、大障害の名を残したままJ.GIに位置付けられた。細かい規定や他の競馬場でのジャンプレースは関係サイトに譲るとして、それを如実に示す例がCXの競馬中継と云える。
 今でこそ最終日のメインレースは有馬記念となっている。だが、グレード制を敷く前、日曜日のメインレース、取り分け一年の最終日のメインレースは中山大障害であった。それが、グレード制導入後は土曜に施行されたこともあって、桜花賞のある日は、昨年まで十五時から放送されていた。勿論大障害は中継しない。しかし、きょうは三十分早く始まり、しかもグランドジャンプの完全生中継までやってのけた。これまでなら考えられないことだ。
 しかも、グランドジャンプが新設された競走であることから、コースの説明に始まり、大障害時代の名障害馬の紹介迄行っていた。無論、それらは上に挙げた中にもある。ここまでCXが力を入れることなど、グレード制が敷かれてからは絶えて無かった。このことからも障害競走の復権が知れる。障害競走が日の目を見た感が深い。
 奇しくも、CXとUHFの両方で、同時にグランドジャンプを中継した。うち、UHFは従来どおりの落ち着いた実況、CXは際立った昂奮気味と云える。大竹柵と大籬垣での飛越中継に不満があったので、録画はUHFを選択、これは間違っていなかった。
 もっとも、今回はCXもバローネターフが連勝していた頃と同じであった。ただ、「過酷なサバイバルレース」と云う先入観に満ちた大袈裟な実況には、流石に抵抗を覚えた。確かに、スタミナと飛越力のどちらが欠けても、優勝はおろか完走すら無理である。だが、大障害最多勝のバローネは五勝、殿堂入りしたグランドマーチスも四勝している。
 不満がない訳では無い。殊に、手の平を返したようなCXの持ち上げ様には、正直なところ腹立たしささえ感じた。しかし、これまで日陰者扱いされていたことに比べれば、良しとすべきだろう。ところで、第一回中山グランドジャンプは関西でも中継されたのだろうか。あとで尋ねてみたい。
 ついでに成績を見ると、第一回の優勝はメジロファラオで、二着にケイティタイガーが入線した。珍しく落馬・競走中止はなかった。払い戻し金額は、単勝5番1,490円、枠連5-8で2,490円、馬連は5-10で5,950円だった。勝ち時計は4分56秒2だから、平凡を通り越して近年になく遅い。けれども、今回が初めての競走であること、不良馬場だった事を考えると、全馬完走出来たことを素直に喜びたい。

 

1999年4月21日(水)

 およそ二週間前、正確には四月八日の十一時から、柏駅南口が供用を始めた。快速ホームの幅を広げる工事と共に昨年春から工事を始めていたもので、期間中は、ただでさえ狭いホームをさらに仕切り、警備員が終日安全管理に当たっていた。
 これまでJR柏駅には改札口が一箇所しかなかった。朝夕のラッシュでは人だかりが出来、改札を通り抜けるのに可成の時間を要した。隣接する東武は数年前に開設した。だが、JRが造らなかった為に殆ど利用されず、利用客からの不満が増幅していた。にも拘わらずこれまで頬被りを決め込んでいたのは、建設費用の負担でJRと市がもめていたからである。結局、JR、柏市、地元の三者が応分の負担をすることで妥結した。
 いざ開設されると、これが便利である。東武との乗り換え客が流れて来ているとは云え、混雑の具合が、今までとは比較にならない。中央口と改称されたこれまでの改札に比べ、すんなりと出入りが出来る。開設したばかりで利用客が少ないからだろう。だが、それだけではない。
 南口からはバス乗り場に直接繋がっていない。このため、東武との乗り換えを除くと、利用しているのは近くの住人位だろう。南口から出入りするほうが歩かずに済み、しかも混まなければ、使わない手はない。むしろこちらのほうが大きい。起きるのが遅かったときは別として、今は南口から乗り降りしている。バス乗り場に直結していないのを幸い、自宅まで歩いて往復する。
 もう一つ理由がある。駅ビルが閉店した後、中央口の騒音に堪えられない。路上ライブとか称し、ギターの弾き語りまがいの「演奏」が毎晩続く。ギターもさることながら、とても鑑賞出来る歌唱力ではなく、徒に血圧が上がる。当局も取り締まる気はないのか、一向に収まりそうにない。新設された南口は未だ汚染されていない。この一事だけでも利用の価値がある。
 それにしても、一部とは云え南口の建設費用を何故地元の寄付に求めようとするのか。柏駅に快速を停車させるためにホームを造るのとは訳が違う。ラッシュ時の対策ならJRと市が為すべきことで、地元の負担は筋が通らない。第一、柏市が負担する分の財源は、市に落ちる税金ではないか。給料天引きと云う形で税金を払っているのだから、応分の費用は既に負担している。
 地元の市民や団体に赤字の補填をさせるなど、言語同断も甚だしい。南口がなかったことで、利用客はどれほどの負担と我慢を強いられて来たか。便利と感じるのは、今迄が不便極まりない状況だったからである。少しでもそれが解っていれば、募金箱を置いてまで地元に負担させることなど出来ない筈だ。市が税金を拠出する以上、一銭たりとも募金には応じない。

 

1999年4月24日(土)

 すでに春のGI競走が始まった。二月に施行されたフェブラリーステークスは別として、春の中山大障害が前身の中山グランドジャンプ、桜花賞、皐月賞が終わり、今度は淀で行われる春の天皇賞である。このうち、唯一勝馬投票券を購入したのが中山グランドジャンプと云うと、天の邪鬼扱いされるだろうか。
 おおかた不良馬場が影響したのだろう。記念すべき第一回の競走にしては、勝ち時計は平凡を通り越し、至って遅い。尤も、GIに位置付けられてから文字どおり最初の競走で、しかも数年振りに一頭も落馬が出なかった。このことを良しとすべきなのかも知れない。ついでながら、中山GJの競走成績を述べると、単勝は5番で1,490円。複勝は5番が330円、10番が260円、7番が980円。枠番連勝は5-8で2,420円、馬番連勝は5-10で4,550円だった。
 この競走で少しく儲けたので、投票券、いや馬券は暫く買わずに済む。参考にした競馬新聞は記念に保存するとして、はずしていれば何をしただろう。古新聞の回収日にトイレットペーパーと交換したかも知れない。
 開催前日からいくつもの競馬新聞が発売される。取材網を駆使してデータを報じ、著名な評論家も招いて全競走の結果を予想する。一日十二競走として、全部的中したとか、高い払戻金がついた競走を見事当てたとか、的中率が如何に高いかの宣伝には、どこも力を惜しまない。だが、どの新聞社も、肝腎な点には眼をつぶっている。元手と資金回収率である。
 ひとつひとつを取り上げれば、確かに高配当を得られる。けれども、スポーツ紙を含む競馬新聞では、一獲千金のような予想は立てない。一競走に付き最低でも五点、平均して七点は予想している。これは、新聞社の見解、契約を結んでいる評論家とも同じである。相場では一日で十二競走施行されるから、全て合わせると七十二点にもなる。このうち一点でも適中すれば「当たり」となるのだから、これで生活の糧を得ているプロとしては、当たって当然とさえ云える。
 また、同じ適中でも払戻金は異なる。従って、ただ当たりと云う丈では字面に踊らされたに過ぎない。そこで、どれだけ当てたかではなく、「いくら稼げたか」で判断してはどうか。ギャンブルの性格が強い競馬の評論家としての識見については、このほうが客観視出来る。
 先ず、一つの競走について何点予想したかを調べる。次に、一点につき千円で予想のとおりに馬券を買ったとして、仮想の元手を計算する。これを一日に施行される全競走について行う。そして、競走終了後、各競走の結果を確かめて予想と照合、適中した分の払戻金を合計する。
 この後、払戻金の合計を元手の合計で除する。算出された商が資金回収率で、損益分岐点は1である。1より大きい程、多くの払戻金が手許に還元され、沢山儲けることが出来る。逆に、1より小さい程「損」をする訳だ。
 開催日ごとに統計を取り、新聞社別、評論家別に数字を出す。個々のデータが蓄積されて行くに連れ、少しずつ数字に差が出る。何しろ、発行された新聞が残っている以上、この数字は動かしようがない。どれだけ信頼出来る予想を立てているか、客観性のある「格付け」が出来る。

 

 

1999年4月25日(日)

 およそ二箇月振りに血を抜いた。前回の横浜では、これまでに記憶が無い程の侮辱を受け、辛うじて怒りをこらえた記憶が未だに残っている。そこで、今回どこで採血するかに悩んだ。結局、前々回に抜き、施設はともかく職員が親切だった学園の献血ルームを選んだ。
 とは云え、一度でも侮辱を受けた以上、全幅の信頼を置く訳には行かない。そこで、成分献血の受付が早く終わるのを幸い、わざと成分の終了後に足を運んだ。果たして、成分を強制されることはなかった。
 全血しか受け付けられない場合、このごろの受付では、嫌がらせに近い文言を使ってまで400ml献血をさせようと躍起になる。横浜が良い例だ。しかし、学園は違った。献血記録を見た係員が、今回は200mlしか出来ないことを告げた。横浜では、記録を見ようともせず、400や成分を強制した。それとは随分違う応対で、この一言で気持ちが静まった。
 すべてが終わり、採血針を抜いた後、看護婦が席をはずした。両腕に脱脂綿を当て、テープで止めた状態で眠って仕舞った。十五分も寝ただろうか。目を覚ますと看護婦が寄って来た。聞けば、眠っていたのでそのまま起こさなかったらしい。忙しかったことはあるにせよ、全血200でここまで気を配ることなど、過去一年以内には記憶が無い。
 ただし、事前検査の施設はまるで改善されていなかった。四箇月前の採血では、事前検査で針を刺している最中に、ひどい目に遭った。そのときの施設が引き続き使われ、このときばかりは気持ちが滅入った。血圧測定を誰も受けていないのを確かめてから検査針を腕に刺した。
 検査・採血のいずれでも、さほどの痛みは感じなかった。だが、右腕に針を刺した辺りに内出血を起こした。時間が経つに連れて痕が広がり、かなりの大きさになっている。尤も、内出血なら半月もすれば治るだろう。

 

 

1999年5月18日(火)

 なんとなく文章を作る気になれない。連休が終わり、翌日こそ慌ただしい一日を過ごしたものの、仕事はもとより、寛げる筈の風呂上がりさえ気が休まらない。これが小説家なら、波を想定して、好調のときに「書き溜める」ことも可能だろう。趣味で続けている場合は、締切がないのを幸い、間を飛ばして仕舞う。
 きっかけが掴めないから、パソコンの前に座るのさえ苦痛でしかない。それでも、とにかく座って電源スイッチを入れた。ところが、いきなりシステムエラーが起こった。修復を試みても復調の兆しはなく、とうとうファイルが損傷して仕舞った。こうなれば小手先の処置では間に合わない。
 風呂から上がり、インターネットに接続せず、ハードディスクを初期化することにした。思い切った手には相違無いものの、トラブル修復ソフトでも直せない以上、ほかに考えられない。
 まず、バックアップの必要な物と不要な物に分けるべく、全てのフォルダとファイルを点検した。入れてあったソフトの殆どはCD-ROMから取ったので、敢えて複製を作る必要は無い。結果、バックアップの対象は、ブラウザに記憶させていたブックマークと、メールを送る際のアドレス、ほかに未処理のメールなど、占めて100MB程度だった。
 この位なら230MBのMOでも十分間に合う。ほかのSCSI機器と共に電源スイッチを入れて再起動をかける。パソコン本体にMOを認識させるには、これしかない。ともかくデータを写してから、本題にかかった。
 付属のCD-ROMを入れ、もう一度再起動、今度はCD-ROMから起動させる。余分な機能拡張が一切なかった為か、立ち上がるのも早い。取扱説明書を見ながら、マウスを操作し、HDDの初期化を選択した。いきなり初期化をせず、確認のメッセージが出る。慌て者が間違ってHDDを空にしないようにとの配慮だろう。
 あっけないと云える程短い時間で初期化は済んだ。次いでOSを移し込む。初期化が簡単だった分、こちらは結構な長さである。それでも、OSさえ入れて仕舞えば、アプリケーションソフトが残っているだけだ。始めの予想より簡単に終わりそうである。だが、実際には予想を遥かに超える時間がかかることに、このときは未だ気付いていなかった。

 

 

1999年5月19日(水)

 ともかくOSまでは済んだので、アプリケーションソフトを用意した。ハードディスクに余裕があるのを幸い、これまでは何も考えずに放り込んだきらいがあった。しばしばクラッシュを起こしたのも、今思えばこのあたりに原因があったのだろう。初期化を機会に、中に入れるソフトを思い切って絞ることにした。
 まず、ワープロを中心とした統合ソフト、次いで住所録管理ソフトである。いまでこそインターネットが用途の殆どを占めているものの、パソコンを購った動機はワープロと年賀はがき印刷だった。この二つを落とす訳には行かない。バンドルソフトとして付属していたペイント用ソフトも、併せて入れる。
 もちろん、インターネット関連のそれを除くことは出来ない。ブラウザソフトとHP作成ソフトを次に入れた。問題はここから始まった。
 ブラウザソフト自体は、最新の物を雑誌のCD-ROMから移せば良かった。と云って、ブラウザソフトだけでは、今どきのサイトを堪能出来ない。プラグイン、またはヘルパーソフトも必要だ。だが、これらは頻繁にバージョンを上げている。必要なソフトを捜すのはもとより、最も新しい物を見つけるのに苦労した。これまで使っていた分のバージョンが判らず、やむなく手持ちを入れて置いたものも無い訳では無かった。
 それだけではない。ブラウザソフトは勿論、プラグイン等を一つ入れるごとにパソコンを再起動させなければならなかった。これを怠ると、いざソフトを使おうとして、従前同様にクラッシュに見舞われ兼ねない。一つずつ再起動をかけて確認すれば、相性の悪いソフトは即刻に判る。HDDから抜き、以後使わなければ済むのだから、面倒でもこうするしかない。
 再起動の繰り返しで、最低限入れて置きたかった全てのソフトを無事入れられた。だが、そのために予想を遥かに上回る時間を費やして仕舞った。風呂上がりに作業を始め、精々一時間で終わるものと考えていた。しかし、実際に終わったのは日の出を過ぎてからだった。

 

1999年5月27日(木)

 ところによって相違はあるのだろう。社員を対象にした健康診断が実施された。実施と云っても、仕事場の近くにある診療所に予約し、それぞれが指定された日に出向くのである。当初の予定では今月中旬であった。それが、直前になって一日繰り上がりそうになり、騒いだ結果、二週間近く遅らせることで妥結を見た。
 これには経緯がある。日程の変更は誰にでもあり、特に困ることではない。直前に、それも早いほうに変わることが問題だった。受診は一日丈でも、実際には前々日から検査が始まっている。二日にわたって便を採取し、当日提出するのである。翌日の受診に変えるように前日に云われても、事実上不可能なのだ。変更を頼んだ同僚もそれが解っていたので、同僚が予定していた日ではなく、まるで違う日取りを探した訳だ。
 ここ数年受診していとは云え、便の検査は小学校以来だ。そのときは五百円硬貨を数枚重ねた位の大きさの容器に、ひとつまみ程の便を直接入れ、厳重に密封して学校に持参した。採取に苦労したことを覚えている。今回は、当時とは全く異なる方法である。これも医学の進歩だろうか。
 先ず便器にトイレットペーパーを敷く。何もしなければ水の中に落ちて仕舞うためである。この点が鍵らしく、採取が簡単に出来た。小学校当時にこのことを知っていれば、採取も楽だったろう。但し、あらかじめ敷いて置いた紙の上で便が止まり、刺激臭は強烈だ。
 ここで、採取容器から溝を切った採取棒を抜く。便の表面を万遍なく擦り取る。溝が埋まる程度が適量で、多くても少なくても良くない。採取した後、棒を再び容器に差し込む。容器には薬液が収められていて、差し込んだ後に容器ごと強く振り、便と薬液を混ぜ合わせる。そして、容器ごと冷凍保存する。現物をじっくり見ることより、刺激臭がこたえるから、長時間の作業は楽ではない。
 都合二日分採取し、診断の当日に提出する。受付では、このほかに健康保険と問診表も提出した。指示されたとおり、前夜から食物も水も摂っていない。検査が始まり、レントゲン写真を撮るため検査着に着替える。と云っても、作務衣か甚兵衛で代用出来そうだ。
 すでに数人が順番を待っていた。呼ばれて入室する。シャツを脱ぐように云われた。検査着は身体の上から直に着るのが原則で、肌着を着たまま身に着けていたのだ。顎を機械の上に固定し、機械を抱えるような格好で胸を撮った。これは簡単に済む。次いで胃を検査する。これが大変だった。
 出迎えた機械は、肺の検査とは比較にならない程大がかりである。先刻とは逆に、背中を機械に密着させた。立ったまま検査を始めるので、寄りかかっていれば良い。一回分を袋詰めにした砂糖のような薬をわたされ、本の少々の水で飲んだ。即刻に腹が膨らみ始める。発泡剤を飲んだのである。検査が終わるまで「ゲップ」を我慢しなければならない。これが結構きつかった。

 

 

1999年5月28日(金)

 それからバリウムを飲む。丁寧にも二度に分け、大型紙コップ一杯分も飲んだだろうか。医師からは一気に飲むように指示されたものの、濃いヨーグルトのような代物を飲み干すなど無理な話だ。それでも、他人よりは早く飲んだと医師に云われた。
 いろいろな角度に固定された台の上で、あるときは腹這いに、あるときは仰向けのまま身体を動かさずにいる。その姿勢たるや、白日の下で、それも周囲に誰もいなければ気違いと看做され兼ねない。それが十五分も続いただろうか。ご苦労様の一言で、訳の解らない踊りから解放された。下剤を二錠もらい、即刻に飲む。こうしないと、バリウムが排出されないと聞いた。事実なら事は重大である。下剤の是非より、排出され易い物質を開発するのが先であろう。
 さて、次に心電図を録った。臨床検査技師の指示に従い、上を脱いでベッドに横たわる。リード線に接続した吸盤状のセンサを身体中に置き、手首と足首を大型の鰐口クリップで挟んだ。緊張をほぐすつもりだったのか、深呼吸を勧められた。これがおまじないとなったのか、とりたてて電撃を受けるようなことはなく、検査は静かに進んだ。二分乃至三分もそのままでいただろうか。数度締め付けられるような感覚の後、技師に起こされて気が付いた。検査の最中に眠って仕舞ったのである。心電図の検査中に寝るのは診療所始まって以来らしく、笑われた。
 あとは検査着で受診する必要はない。着替えてから尿検査、さらに身長と体重の測定に移る。さほど大きくない待合室には、同じ目的の者が数十人はいただろうか。健康診断よりも待機の時間が長いのは、大方どこも変わるまい。
 やがて名前を呼ばれ、身長と体重を測る。両方を一遍に測る器械が使われ、一度の測定で済んだ。前回と比べ、少しばかり身長が伸び、それ以上に体重が増した。このままでは、春先まで着ていた冬服が着られないかも知れない。ダイエットに励むしかなさそうだ。
 視力は裸眼と矯正の両方を調べる。聴力検査では、密閉型ヘッドホンをかぶり、さまざまな周波数の音を発して、反応を確かめる。ヘッドホンからの音よりも、周囲の声や雑音のほうが大きく、まるで聞き取れない。ヘッドホンをかぶり直し、周囲が静まってから再検査に臨んだ。今度ははっきり聞こえる。
 ほかに血圧測定、血液検査が残っている。どちらも献血で場数を踏んでいるから、採血し易い箇所を看護婦に教えることが出来た。採血の器具は献血と異なり、針も太くなかった。針の跡に脱脂綿を当て、テープとバンドで固定する。そのまま十分程度指で押さえる。これで検査は終了した。
 最後に医師の診断を受けた。各検査の結果を持って診察室に行く。担当の医師は昨年と同じであった。カルテと照合し、今回の分析にかかる。結果、半年以内に二十四時間の心電図を録るように指示された。要するに再検査である。

 

1999年6月10日(木)

 ほんの数人で編集から印刷まで手がけ、地元小売店の店頭で無料配布しているものから、それなりの人手と設備を有し、相当の販売区域を持っている物まで、タウン誌またはミニコミ誌と呼ばれる冊子類を実に多く見掛ける。規模を別とすれば、主な都市には、恐らく一つ以上の「地域情報誌」が存在するのではないか。
 つい先頃、こうした類いに新しい雑誌が加わった。編集を千葉県内に絞ったもので、発売の一週間前から派手に宣伝していたから、初日は行列の出来た店も多かったと聞く。
 殊に、柏市内を数頁にわたって取り上げていたこともあり、購入した者に団扇を配ったり、キャンデーの掴み取りに挑戦させたり、タウン誌にしては大がかりと云えた。同じ出版社から、東海、近畿、九州の各版が刊行され、関東の中でも東京・横浜に次ぐ出版である。
 さほど高くない値段に設定されていたこともあり、帰宅途中に購入した。と云うより、そうするほかなかった。仕事場の近くで求めるべく書店を回ったところ、規模の大小を問わず、神田駅付近では一冊も置いていないのだ。
 横浜版が何処にでもあったのと比べ、どうして扱いが大きく違うのか。山手線沿線ならどこの駅にも、千葉県から通勤している千葉都民がいる筈で、都内でもいくばくかが購入すると推測出来なかったとは思えない。出版社や編集の人間にとっては、東京と神奈川だけが関東で、千葉県は僻地でしかない訳だ。横浜版が店頭にあり、新創刊の千葉版がどこにもないことが、それを如実に示している。
 こうした差別は、これまで幾度となく見られた。昔程聞かれなくなったとは云え、「ダサイタマ」、「チバラキ」は、一生忘れられないことばである。筒井康隆氏の騒動以来下火になったのは、あくまでことばだけに過ぎず、根底となる思想はまるで変わっていない。
 ついでに、表紙のモデルについても、素直に賛成は出来ない。飾っているタレントは福岡県の出身で、東京、横浜版の表紙にも登場している。或いは、東海、近畿、九州の各版も同じタレントかも知れない。千葉版の創刊号位は、千葉県出身または在住のタレントを起用して欲しかった。

 

1999年6月18日(金)

 いま使っているプロバイダと契約し、本腰入れてインターネットを始めてから一年半は経つだろう。ここは三代目で、契約してから最も長く使っている。
 はじめて契約したプロバイダは宣伝が活発で、オンラインで契約も出来るCD-ROMをパソコン本体や雑誌に無料で添付していた。一箇月千円で三時間のネットサーフィンが楽しめるのは、なるほど魅力であった。だが、月に僅か三時間ではメールの点検がせいぜいで、余り繋ぐことは出来なかった。何より、無料でホームページを持てない点がネックと云えた。そのため、一年経たずに解約した。
 その後、地元の企業や商店街が設立したプロバイダを使った。時間無制限の所を探していた折り、行き着けだったパソコン販売店でのパンフレットを見て決めた次第である。テレホーダイにも加入し、不確定な出費はなくなった。だが、年会費が桁違いに高く、且つ月払ができなかった。しかも入会時に、会費と同額の入会金を払わなければならない。その上、プロバイダとして致命傷の「話中」が頻繁に発生し、快適な通信環境からは程遠かった。
 先行投資をした分が勿体ないものの、早々と見切りを付け、現在のプロバイダと契約した。料金も安く、しかも無料ホームページの容量が50MBで、当時どこよりも多かった。更新のとき、会費の支払でトラブルは起きたものの、手違いの範囲だったので、そのまま継続している。
 このところ、アクセスポイントの新設、回線増強工事を順番に手掛けているためか、「話中」は一度もない。欲を云えば、回線増強工事のたびに接続電話番号とIPアドレスが変わるので、設定を何度もやり直さねばならず、面倒だ。
 昨夜、接続しようとして、どうしても繋がらなかった。モデムの初期化を繰り返し、パソコン本体の再起動をかけても結果は同じである。昨日までは正常に働いていた。増強工事の発表もなく、原因が判らない。ほかのアクセスポイントはどうかと思い、電話器から適当にかけると、問題なく繋がる。そこで、更に別のポイントを調べるべく電話番号一覧を見て、問題の電話番号が廃止されていることが判った。回線増強工事に伴い、番号が改められたのだ。
 にもかかわらず設定を直していなかった訳で、古い番号にかけていたため、昨日を以て利用出来なくなったのだ。テレホーダイの設定は既に変えているから、昨日までの十日間は、四分十円の料金がかかって来る。一晩中繋ぎ放しでいたから、電話代がいくらかかるか。考える勇気が湧かない。

 

1999年6月19日(土)

 きのうから梅雨らしい天気が復活し、気温も四月下旬程度にまでもどった。炎天下から解放された点では有り難いものの、未だ未だ暑い。余人は知らず、冷房を止める訳には行かない。
 ありがたい冷房が地球環境に悪影響を及ぼすと、新興宗教の信者の如く声高に叫ばれて久しい。要旨は聞くべきものがあるとしても、賛成・実行以外を全て異端と看做す論法は、フェミニストと何ら変わるところがなく、同調出来ない。それはともかく、暑くてやり切れない元凶は背広だろう。
 そもそも、背広は低温・低湿の欧州で着られるように開発された筈である。それを高温多湿の日本に導入したことに無理があるのだ。大平正芳内閣の時代に、首相自ら「省エネルック」を着て公の場に出たことがある。だが、間もなく廃れて仕舞った。日本人の背広信仰は、並大抵のものではなさそうである。
 毎週金曜日をノー・ネクタイの日と定め、普段着で出勤する会社が増えつつある。この傾向は悪く無い。だが、あくまで週に一度、それも内勤のみが殆どである。外を歩く営業職は、相変わらず冬でも汗をかきそうな背広で動き回ることを命じられているのだ。
 また、ノー・タイを採用している会社の営業が、ノー・タイのまま外を回り、売り込みに回ればどうなるか。冷房の効いた室内で、自らはノー・タイを享受しているにも拘わらず、背広でないと云うだけで門前払いを食らって仕舞う。売上高で人格まで判定される営業として、これは致命傷だ。いきおい、ゆでだこを我慢するしかなくなる。
 やはり外で仕事をするバスの運転手は、夏の間に限り帽子を脱いで勤務に就くことが許されている。どうして売り込みだけがタブー視されるのか。営業職こそ、率先してノー・タイで勤務すべきである。尤も、周囲の顔色を窺うしか能の無い日本の企業では、望めぬ相談かも知れない。
 きょう放送されたNHKの番組で、暑い夏に向けた新しい男性ファッションを開発しようとする動きを報じていた。冷房を抑え、環境に配慮しているのが触れ込みだ。立派な発想、行動のように見える。だが、何故わざわざ新しい服を作り、着せようとするのか。
 環境に配慮するなら、服を一枚脱げば良い。普段着のうち、外出用としても通用する服で勤務に就けば良い。省エネルックが流行らなかったのも、背広信仰に加え、暑ければ脱ぐと云う単純な発想からでもある。わざわざ新着させるなど、環境を無視した無駄遣いを強いるに等しく、本末転倒も甚だしい。


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