1998年9月28日から12月30(31)日まで

 

1998年9月28日(月)

 しばらく、と云っても足掛け六日ほど留守にした。「夏休み」を利用して北海道を訪れ、きょうもどって来たのである。全行程を自家用車で移動、流石に疲れた。
 移動中ネットに繋ぐことが出来ず、六日振りに接続すると、予想以上にメールがたまっていた。占めて二十三件、ひととおり目を通すのに三十分近くかかった。今度の旅行ではノートパソコンとモデムカードとPHSを持参して、宿から繋ぎたいものだ。でも、それだけのために全部揃えるのには、一寸考え込んで仕舞う。

 

1998年9月29日(火)

 あすから出勤である。一週間も続けて休めるのは、一年で今しか無い。もう一日あちこち動き回りたかったものの、実際にはゆっくりして、翌日に備えた。仕事に復帰したい反面、もう暫く離れていたいのも確かだ。
 社内では、いつも最後に夏休みを取る。休みを終え、出て来てすぐ衣替えを迎える。不順な天候とは云え、背広を着て外出するには未だ暑い。衣替えがあと一月、せめて半月も遅ければ、汗の量も違っているだろう。
 北海道の荷物をやっと片付けた。撮った写真は明後日に仕上がるらしい。

 

1998年10月4日(日)

 うっかりしているうちに、四日も間を空けて仕舞った。たとえ一行だけでも何とか埋めて置こう。さもないと、この項目を設けた理由が無くなる。

 

1998年10月9日(金)

 きのうから東京ビッグサイトで催されている展示会を覗いて来た。大阪の取引先と会う為で、商談は勿論、普段直接話が出来ない人に会える場として、こうした展示会の存在は有り難い。
 自動車で行く機会が少なくない中、今回は電車で行った。ビッグサイト迄は、新橋から新交通システム「ゆりかもめ」を使う経路が知られている。東京の名所となったレインボーブリッジを通ることもあり、人気も高い。ただ、有明地区の開発が進むに連れ、混雑の度合いも増して来た。
 しばしば行くには、混雑を避けると云う意味で、別の経路をとると良いかも知れない。東京または浜松町駅からのバス、それに日の出桟橋からの水上バスである。うち、東京駅発は数が少ないから、利用するなら浜松町発のバス、または水上バスが穴場だろう。桟橋がビッグサイトの目の前にあり、バス停留所に至っては構内にある。
 浜松町発のバスと所要時間が変わらず、しかも空いていることから、今回は水上バスを使った。バスと同じ浜松町駅で降り、案内標識に従って五分程歩くと桟橋である。さほど派手な造りではないものの、それがかえって安心出来るのは何故だろう。因みに、「ゆりかもめ」がすぐ近くを通り、丁寧にも日の出桟橋駅まで設けられている。
 この水上バスは、要するに都内湾岸地区の連絡船で、上手く乗り継げば可成り広い範囲を移動出来る。また、数こそ少ないものの、横浜とを一時間余りで繋ぐ便もあり、一寸した船旅も楽しめる。ビッグサイトで展示会を開いているときは、十五分乃至二十分間隔で運航され、天気さえ良ければこれ程の経路はない。

 

1998年10月10日(土)

 さて、運賃三百五十円を払って桟橋に向かうと、十数人が並んでいた。間もなくビッグサイトからの船が到着し、浅草行きへの乗継案内に続いて、改札・乗船が始まる。船室には入らず、入口そばのベンチに腰掛けた。五分程で出港である。
 久し振りに晴れ、船に乗るには絶好の日和だ。直射日光が眩しく、潮の香りと風が心地よい。会話を交わすことはなかったものの、同じ船に乗った人にはどことなく親近感が湧く。船旅ならではの感覚だろう。
 すぐ目の前を晴海埠頭が通り過ぎる。一昨々年迄、東京での展示会は、ここにあった見本市会場で開催された。水上バスで晴海の会場へは一度も行ったことはなかった。有明に会場が出来た今は、一部がカー用品店やゲームセンターなどとして使われているものの、往年の施設もすっかり取り壊され、間もなく清掃工場に様変わりする。
 目を転じると、レインボーブリッジの雄大な姿が聳え立っている。上を首都高速、下を一般道路と「ゆりかもめ」が通る二階建ての吊り橋で、有料ながら歩いてわたることも出来る。船は橋をくぐらずに、その脇を力強く進む。
 橋の上をを自動車が通る。ここから見ると、自家用車は勿論、バスやトラックなど大型車、更には六両編成の「ゆりかもめ」まで、さながら動くミニチュアセットのようだ。自動車や「ゆりかもめ」で橋をわたり、眼下に東京湾を見るのも楽しみの一つではある。だが、こうして水上から見上げる吊り橋の偉容は、船に乗らなければ味わえない。

 

1998年10月11日(日)

 ちょうど反対方向に豊洲埠頭、さらには豊洲駅前ビルが見える。仕事場からビッグサイトまで自動車で行くには、豊洲を必ず経由する。信号や渋滞、右折左折を繰り返す為か、陸路では相当な時間がかかると云う先入観がある。ところが、水上バスではほんの数分でしかない。
 そのうちに船は台場付近まで進む。このあたりから陸地、いや埋め立て地が両岸に迫り、これまでの「海」といった印象が「運河」に変わる。連続して橋の下をくぐるのだ。船も橋も、障害なく通過出来る設計になっている筈はである。けれども、いざ橋が迫って来ると、何度乗っていても身構えて仕舞う。流石に船は何事もなかったかのように航行する。それでも、僅かに速度を落としただろうか。心なしか、喫水線も下がったようだ。
 首都高速湾岸線をくぐると、最早青海、有明地区である。船は左に曲がり、台場地区から離れて行く。東京フェリーターミナルへの橋を最後にくぐると、ビッグサイトの桟橋は目の前だ。乗組員の動きも慌ただしくなっている。
 出港、そして入港の光景を船上から見るのは、船旅の醍醐味とも言える。フェリーに自動車ごと乗船したときは、着岸の直前に車両に乗り込む指示が出るから、入港の場合は、自動車を使わずに乗船したときでなければ見られない。
 やがて作業も終わり、出入り口が開かれた。僅か二十分の同乗者とともに桟橋に降り立つ。折り返し日の出桟橋に向かうことになる船を待っていた乗客の側を歩き、旅客ターミナルを抜けると、ビッグサイトは通りを挟んだ反対側である。大概の乗客は、標識に従って進み、二階のダブルデッキから会場に向かう。だが、これでは遠回りである。直進してターミナルを突き抜け、道路に出たほうが早い。
 目の前の道は、自動車の往来が少ない上、簡単な構造の柵で仕切られているだけだから、横断しない手はない。強いて云えば、向こう側は路線バスの出入り口で、それだけ注意すれば簡単に辿り着ける。柵を跨ぐのが躊躇われるなら、ほんの三十秒も歩けば横断歩道がある。無論、人気のある展示会の開催中でも人込みに遭う煩わしさもない。昼間はあちこちに警備員が立っているから、道が判らなくなっても訊けば済む。
 おもったとおり混雑にも行列にもぶつからず、会場の東1ホールに着いた。一年振りに会う取引先の担当者が入口にいる。挨拶を交わし、休憩所で次の仕事の進めかたを打ち合わせた。

 

1998年10月12日(月)

 つい先日のような気がするものの、北海道への移動からもどって二週間が過ぎた。フィルムは現像し、いつでもアルバムに貼れるとは云え、それ以前の移動を未だ纏めていない。順序から云って、それを終えなければ先月の移動に取り掛かれない。
 ことしは北海道に都合二度訪れた。纏めていない観光がことし最初の移動で、六月の第二週に宗谷岬を見て来た。先月は二度めのそれで、行き先は襟裳岬である。宗谷岬の場合は誕生日休暇を利用したもので、それほど時間は取れなかった。その為、列車を利用して稚内まで行き、現地でレンタカーを借りた。
 そのときに使ったのは「ぐるり北海道フリーきっぷ」である。バスを除くJR北海道内の全線が乗り放題で、急行・特急の普通車指定席が利用出来るものだ。東京からの値段は33,500円で、東京から札幌まで特急を乗継いだときの往復運賃・料金より安い。これで道内が乗り放題だから、使わない手はなかった。何しろ、札幌から稚内まで片道400キロ弱、急行で五時間五十分かかる。まともに切符を買ったらいくらかかるか、計算する気も起こらない。
 旅行客が急増する夏を挟み、「フリーきっぷ」が再び発売されている。これでもう一度道内を訪れたい。乗る列車と行先はほぼ決めた。後は切符と列車を手配するだけである。
 ここまで考えた直後、六月とは気候が違うことを思い出した。宗谷岬のときは半袖シャツでも充分過ごせた。だが、今は冬服に準じた用意が要るだろう。既に大雪山では初雪を観測している。トレーナー一枚丈では風邪を引きに行くようなものかも知れない。考え込んで仕舞う。

 

1998年10月14日(水)

 とどいたメールを保存するフロッピーに異状が生じ、読み取れなくなって仕舞った。本体に挿入するたびに、初期化を促すダイアログが出る。数日前に使い始めた新しいフロッピーだったので、さほどの影響は無かった。けれども、ある程度蓄積されたものなら、どうしただろう。新しいフロッピーを見付け、これをバックアップに充てるしか無いのだろうか。
 バックアップと云うと、本体のシステムに関するものと云う先入観があった。これからは、それを捨てる必要がありそうだ。フロッピー自体は高価な代物ではないから、消費量が倍になっても作って置くのが無難かも知れない。今度の休日にでも、何らかの手を打つとする。

 

1998年10月15日(木)

 あさってから、東京ビッグサイトで廃盤レコードの即売会が催される。レコードとは云っても、国内では殆ど生産されていない為、昨年と同じく主力はCDとビデオテープだろう。定価の七割引きで手に入れられるのだから、覗いて見る価値は充分にある。
 昨年までは東京タワーで開催された。会場の床面積が広くなったことしは、並べられる商品の数も増えるに違いない。ただ、今回からオーディオフェアとの同時開催となったことから、昨年以上に混雑するかも知れない。
 それより天気が心配だ。台風10号が徐々に近付きつつあり、直接の影響はないとしても雨は避けられそうにない。

1998年10月17日(土)

 おとといにも一寸触れたとおり、東京ビッグサイトまで足を運んだ。廃盤レコード即売会に乗り込んだ訳である。ことしはオーディオフェアとの同時開催だから、そちらから流れる入場客がどの程度あるか。その点では昨年より混むかも知れない。とは云え、会場の広さと云い、駐車場の容量と云い、昨年までの東京タワー下よりは立地条件に恵まれている筈だ。
 ふだんの休日なら、昼近くに活動を始める所だ。流石にそれでは時間が短い。また、折角有明迄行くのだから、ほかにも回れる所があれば足を伸ばしたい。早めに自宅を出た。
 目を覚ましたとき既に降っていた雨が、駐車場に行く段になって本降りと化した。台風10号と秋雨前線の影響である。梅雨入りの頃からの異常気象が未だに続いている。台風もさることながら、何故今になっても前線が動かないのか。天気が相手では自力でどうこう出来るものではないから、とも角運転準備を整えた。ところが、運転を始めた途端、雨が小振りに変わった。
 おもいのほか首都高は順調だった。堀切付近でも余り減速することなく通過し、新木場で降りるまで、と云うより現地に着くまで渋滞らしい列にはぶつからなかった。
 さすがにビッグサイトの駐車場は広い。その容量は、駐車場不足に悩まされ続けた晴海の旧国際見本市会場や、昨年迄の即売会場だった東京タワーとは比較にならない。欲を云えば駐車料金が高い。安く上がる所は既に満車で、残念ながら一日千五百円の料金を払うしかなかった。
 西1ホールを使った会場は、東京タワー下より広くなったと云って良いだろう。混雑はしているものの行列はなく、すんなり入場出来た。尤も、荒れた天気で外出を控えた向きが多かったからかも知れない。
 国産の廃盤CD、LD、ビデオテープのほか、数は少ないもののアナログレコードが定価の7割引で買える。入口でわたされた買い物籠代わりの袋を一杯にまで膨らませている入場客も少なくなかった。ことしは7割引に加え、2割5分引や、八百円均一の輸入盤のコーナーが設けられた。アンケートの集計如何では、来年も設置されるかもしれない。尤も、興味のある分野ではないから、ことし限りでも差支えはない。
 ただ、比重を置いて見回った国内ニューミュージック、フォークで云うと、陳列されていた歌手は多くなかった。国内歌謡曲も似たようなもので、昨年はこのようなことがなかった。かつて女性週刊誌に叩かれ、最近は余り話題に上らない女優兼歌手のCDが、5種類も並んでいた。逆に云うと、一度にこれだけ纏めて廃盤とされる訳で、販売店でまともに買えば10,400円かかる。それがわずか3,120円だ。気になる歌手ではないものの、折角だから購入した。
 あるいは、それが主催者側の目的でもあるのではないか。どのみち廃盤として処分するなら、7割引いても、買ってもらえれば収入になる上、少しでも廃棄する量が減る。買う側にすれば、この機会をはずせば二度と手に入れられなくなると云う心理に加え、定価の30%という値段は魅力だ。さほど興味のない歌手でも、取り敢えず押さえて置こうと考える。
 乗り込んだのもう一つの目的は、沢田聖子のCDがあるかどうかを確かめることにあった。一昨々年かその前か、フォノグラムのCDが展示会に出され、間もなく同じ内容のCD選書が発売された。それ以来沢田の曲は並んでいない。ことしも見当たらなかった。

 

1998年10月18日(日)

 いま以上に小遣いのやり繰りに悩んでいた学生時代、千円札が一枚あれば何とか一日を過ごせた。毎月のアルバイト料など多寡が知れていたから、余計な出費を能う限り減らし、節約、倹約に努めていた。と云うより、そうしなければ貯金出来なかった。そこへ行くと、当時と貨幣価値が違うとは云え、現在は財布に一万円以上ないと不安だ。
 そのため、本を買うにも先ず文庫本を探した。また、必要なら古本屋を歩き、値段と汚損の具合で選んだことを覚えている。尤も、絶版は古本屋でもないと手に入れられない。
 長い間探していた小説が、学園にあるスーパーの古書展で見付かった。直木三十五の「南国太平記」がそれである。幕末に起こった薩摩藩のお由羅騒動は、雄藩のお家騒動として日本史上でも名高い。その顛末を描いた長篇小説が、これまでどうしても入手出来なかった。
 あるいはどこかの出版社が、現役で発刊しているかも知れない。だが、当時は、少なくとも文庫本の刊行リストには載っていなかった。そうこうしているうちに「南国」がテレビドラマ化され、その名が全国に知られてから、古本屋に少しずつ出回り始めた。そのときに買った単行本は、引っ越しのどさくさで失って仕舞った。
 壬申の乱を取り上げた新書を読み始めたので、「南国」に取り掛かるのは暫く先になりそうだ。古本なので流石に外観は綺麗でない。直前迄包装紙に包んで置き、ブックカバーをかけてから持ち歩くことにする。

1998年10月19日(月)

 かつて住んだことのある建物は殆ど公団住宅で、一階に郵便物の集合受箱が設置されている。そして、大小さまざまなチラシや広告物が郵便受に投入される。現在住んでいる公団住宅も同じで、帰宅すると大抵は何かが入れられていて、夥しいと云って良い。
 その中で、団地向け新聞は公団丈に配達する物だろう。タブロイド判の週刊紙で、曜日を変えて数種類が発行されている。広告料で賄っているのか、各戸に無料で配布しているのだ。これらは、他の団地の動向を知るのには便利であろう。だが、内容がどれも似通っている上、配達が遅れがちで、余り役立っていない。
 とりわけ遅いのが土曜付で発行することになっているそれで、土曜はおろか日曜にも配られたことが無い。大概は月曜、遅いときには火曜日に投げ込まれる。
 遅くなる要因が無い訳ではない。こうした週刊新聞は、一つの団地、詰まり数百、いや数千戸を超える数を一人で受け持つ。余程規模の大きいところでもない限り、配達区域をふたり以上で分割することはない。自然、配るのに時間がかかり、早いうちに届く世帯と遅い所との間には、可成の時間差が生じる。
 だが、紙面を見る限り、これは理由にならない。記事の中には週間のテレビ欄があり、発行日である土曜の夜に放映される番組のガイドも載っているのだ。つまり、遅くとも土曜日の夕方までに配達されることを前提に編集している訳で、一日でも遅れれば、最早記事として役に立たない。それを翌週火曜に配達して、どの程度の価値を持つのか。しかも、それが毎週では論外である。
 早く届いている所もあるだろう。しかし、二日遅れでも届かない世帯も存在するのだ。これを発行元はどう考えているのか。読者には無料で配っているのだからと釈明するなら、読者ばかりか広告主に対する侮辱に他ならない。テレビ番組ガイドのように、決められた時間までに目を通して初めて有益となる記事を載せている以上、配達時間は厳守すべきである。それが出来ない現状では、配達に名を借りて、団地中にゴミを巻き散らしているに過ぎない。

 

1998年10月21日(水)

 きのうから山手線と京浜東北線のリフレッシュ工事が始まっている。ここ三、四年ほど、毎年この時期に同じ工事を行っているのだ。明日までは京浜東北線の工事で、昼間は山手線の線路を共用する。来週の27、28、29日は山手線にとりかかり、今度は京浜東北線の線路を共に通る。但し、朝夕は工事をせず、本来の運転形態にもどる。
 国鉄の時代には、こうした共用の運転が、工事に関係なく毎日行われていた。平日の昼間に限り、奇数月は京浜が山手線の線路を通り、偶数月は山手線が京浜を通っていたのである。
 当時は、どちらも各駅停車しか動いていなかったから、このようなことも出来た。現在の京浜は、曜日を問わず、日中に限り快速のみ運転する。そのため、終日各駅停車の山手線とは共用出来ず、完全に分離運転をしている。勿論、朝夕は京浜も各駅停車だ。さもないと、輸送能力がパンクし、どうにもならない。
 工事期間中は、どちらも終日各駅停車だけ運転される。工事が終わる30日以降は快速が復活する。次に京浜が全て各駅停車にもどるのは、年末年始である。
 

1998年10月23日(金)

 おそらくどこのソフト会社もそうだろう。毎年この時期になると、年賀はがき作成、或いは住所録のソフトを売り出す。大分前に購入したので新製品にはさほど興味がないものの、バージョンを上げた製品の案内が届く。使用頻度の高いソフトは大なり小なり改良を望む点があり、知らせが来れば購入することにしている。住所録ソフトもその一つだ。
 そのソフトを運送会社の営業所から引き取って来た。十九日に配達されていたものの、不在だったため営業所留め置きとしていたのである。在宅時に再度配達してもらうつもりは全くなかった。業者を信用出来なかったからである。
 やはり昨年もバージョンの上がったソフトが不在時に配達された。そのときは、場所を知らせて転送を依頼した。ところが、これに味を占めた配達人が、今回も同じ場所に転送したのである。このことは、投入されていた不在配達通知で初めて知った。いや、荷物が配達されたこと自体、不在通知が届く迄知らなかった。
 問題の運送業者からは、前回の転送以来荷物が配達されていない。要するに、一年近く荷物が届けられていないのである。本来の届け先が不在であると知った配達人は、一年も前に依頼されたことを楯に、勝手に転送した訳だ。そして、そこも不在と知って、初めて本来の届け先に不在通知を残したのである。順序が逆であろう。
 毎日のように同じ所に荷物を配達し、気心が知れているならともかく、いや、たとえ毎日荷物を運んでいても、荷物を届けるごとに荷受人と直接連絡を取り、許可を得てから転送するのが筋である。それが今回はどうか。一年も前の出来事を金科玉条にし、許可はおろか荷物が届いたとの連絡すらせず、勝手に転送したのである。これが、確実な配達を至上命題とする運送業者のすることか。
 もし丁重な応対をすれば、軽く注意をする程度で収めるつもりでいた。ところが、応対に出た主任級と思われる男は、予想どおり一年も前の出来事を持ち出した。そのため、事務所中に聞こえるように大声で指摘し、二度と勝手な真似をしないよう云いわたした。向こうには云わなかったものの、不在通知はコピーを取り、応対に出た社員の名前も控えてある。今度同じことをすれば、実名でマスコミやネット上に投書をするつもりでいる。

 

1998年10月25日(日)

 もう十三年になる。学生時代は写真部に属し、重いガゼットケースと三脚を担いであちこち撮り歩いていた。大学祭を含め年二回の展示発表会では、一箇月も前から毎日二十一時過ぎまで学校の暗室に籠り、作品を作っていたものである。
 その準備を始める頃、うまい具合にモデル撮影会があり、ポートレートも出品すべく出掛けて撮り捲った。ネガも写真も残っていないものの、プロのカメラマンを講師兼審査員に迎えた地元カメラクラブ主催のコンテストでは、結構入賞出来た。今でも、素人・玄人に関わらず女性を撮らせたら、一寸うるさい。
 ひさし振りに撮影会に出掛けた。会場は横浜市鶴見区にある「キリン横浜ビアビレッジ」で、外資系のフイルムメーカーが主催、新宿が発祥の地であるカメラ安売り店が協力している。会員ではないので、参加費用は四千円だった。
 プロカメラマンが講師として五人、モデルが十人招かれた。日本人と外国人が五人ずつ、ペアで五組に分かれ、それぞれ講師が撮影指導に当たる。そのモデルが違う。くどくど述べずとも、一部の名を挙げれば充分だろう。

  • 小島可奈子
  • 藤森みゆき
  • 田中真子

 いずれも云わずと知れている。それが、モデルとして目の前に魅力を曝け出すのである。これ以上の人材はあるまい。そして、これほどのタレントをほぼ一日、しかも三人も呼べるとは、主催者の人脈と資金力に改めて驚く。
 参加者は百人を超えていただろうか。自由にモデルを選べるので、ひとりをずっと撮り続ける者もいれば、全員を平等に撮る者もいる。どちらかと云うと、ひとりを追うほうが多い。ほぼ全員がモデルをモデルとして捉え、アイドルと生写真丈が目的の「追い掛け」がいなかったのは流石である。お陰で気持ち良く撮れた。
 あまり時間がなく、どうにか撮影出来たのは小島ひとりだった。現像して見ると、昔執った杵柄とは良く云ったもので、アルバムに貼れる程度には撮れていた。但し、コンテストにはとても応募出来た物では無い。この辺りは長いこと離れていた悲しさである。

 

1998年10月28日(水)

 ついに勤務先にも波が押し寄せた。来月末をもって社員四人が去る。今日の定例会議で伝達されたもので、リストラによる人員削減だ。
 これで在籍社員は十四人に減る。だが、今日の話では、急降下している売上高がこのまま推移すれば、社員を十人程度迄減らさなければ会社が行き詰まると云う。詰まり、「第二波」が遠からずやって来る訳で、そのときも対象から外れる保証は何一つ無い。
 きょうの新聞には、解雇対象者を興信所の調査員に尾行させ、その結果を用いて有無を云わさず追放する企業の手口が報道されている。こうしたことは逸早く真似る勤め先なので、同じことを既に始めているだろう。或いは、次に槍玉に上がるかも知れない。その確率は極めて高い。

 

1998年11月1日(日)

 およそ四箇月前に現在のパソコン本体を購入したときから、CDロムの調子が面妖しかった。トレイを引き出すボタンが硬い。ボタンそのものは簡単に押せるものの、爪の先、さらには鉛筆のキャップを使い、力任せに押し込まないとトレイが出て来ない。
 その上、差し込んだCDロムの回転音が異常にうるさい。しかも、購入後の初期不良が認められる期間を過ぎて間もなく、異状が発生したから我慢ならない。と云って、修理補償の契約は、 買ったばかりだから即刻には成立しない。
 認識も起動も出来るから、これまではそのまま使っていた。ちょうど補償契約が成立したのを機会に、修理に出すことにした。
 さて、入院させるとなると、当然に本体をラックから取り出さなければならない。暫く使っているうち、少ないとは云え周辺機器も増え、裏側でいくつものケーブルが行き交っている。ラックは部屋の隅に置いているから、昼間でも薄暗い上、コネクタの位置も把握し難い。狭い隙間に潜り込み、懐中電灯と手鏡で位置を確かめ、一本ずつ抜いて行く。
 ケーブルの種類を書き込んだ荷札を予め用意して置いた。はずすごとに一本ずつ巻き付ける。コネクタの形状で判別出来るとは云え、半ば絡み合ったケーブルは扱い難い。この荷札によって、後の処理が楽になった。
 異状はサービスセンターでも確認出来た。余り硬いので係員も驚いていた。CDロムドライブをそっくり交換するらしい。一週間程入院することになりそうだ。その間、以前使っていた機械を復帰させる。ただ、「代替機」もハードディスクに異状がある。こちらは、逆にCDロムで一旦起動させなければ立ち上がらない。修理に出した主力機が退院するのと入れ代わりに入院させる。

 

1998年11月8日(日)

 おとといまでに連絡を受けていたので、以前使っていた本体と入れ違いに、入院させていた原稿の本体を引き取って来た。設置に先立ち、CRT丈を繋いで問題のCDロムを動かして見る。故障前に比べ、遥かに音は遥かに小さい。まるっきり無音ではないものの、これなら充分である。
 せっかくの機会だからメモリの容量を増やそうと思い、秋葉原の某店で128MBのそれを買って置いた。税別19,680円は高いのか、安いのか。ともかく、失敗せずに取り付けられたので、入院前と同じようにラックに納め、はずしたケーブルを繋ぐ。荷札のお陰でケーフルの種類を間違えることはなかった。但し、接続の為に無理な格好を長時間取った為、首筋と背中が痛い。
 入れ違いに入院させた機械は、はじめ売り払うつもりでいた。搭載出来るメモリが最大64MBで、ブラウザを動かすには心細い。また、それが退院して来た主力機を買った理由でもある。けれども、用途をワープロに絞れば、未だ現役で動かせる。それに、CRTを載せる台としてちょうど良い大きさなのだ。
 と云って、それぞれにCRTを置く訳にも行かない。プリンタ切替器ならぬモニタ切替器がないものだろうか。CRTを共用し、スイッチで切替られれば処分せずに済む。主力機を入院させるまでのように、単なるモニタ置き場で終わらせるには、いささか勿体無い。退院の許可が出るまでに、適当な切替器を探して置きたいものである。

 

1998年11月13日(金)

 あと一箇月半も経つとクリスマスである。番狂わせでもない限り、部屋で火燵に籠り、ひとりで迎えることになろう。それはともかく、この時期になると、新聞広告にクリスマスディナーショーの予定が大きく載る。
 手許の新聞にも、首都圏のあちこちに建っているホテルのそれが掲載されていた。例年に漏れず、少しは名の知れたタレントを呼び、ひとときを楽しんでもらおうと云う趣向である。ごく一部は定員に達したものの、12日現在、まだ可成りの席が残っている。
 なにしろ出演するタレントが凄い。疎い人間でも顔と名前位は一致する芸人、芸能人ばかり、これでもかと云わんばかりに集めているのだ。料金も一級または超一級なので行ったことはないものの、気持ちはそそられる。
 その料金にも格差がある。安い所では、5人のグループで13,000円、高いものではタレントひとりに48,000円もつけられている。タレントの「売れ具合」、いや「相場のランク」がこのような所に現れているようで、なかなか興味深い。

 

1998年11月16日(月)

 さきのリストラで解雇を通告された同僚が、きょうをもって退職した。朝礼で挨拶の機会を持ち、昼休みが終わって間もなく職場を去って行った。
 退職に応じた同僚に、朝礼で経営者が感謝の念を述べていた。十年は勤めていた人間ばかりで、事情が事情丈につらい。だが、経営者の言葉には空々しさしか感じなかった。いや、怒りを押さえるのに苦労した。
 今回残る社員を集めての訓示と説明では、指名された社員の非生産性をあげつらっていた。仕事を進める上で、経費ばかりかかって売上が伸びないと云っていたのだ。彼等の半数はデザイン制作部、ひとりは総務部に勤務、どちらも売上の大幅な向上などもともと期待出来ない部門である。経営者はそれを知り抜いていながら、ぬけぬけと売上を理由にしたのだ。いまさら感謝や礼を述べて、何になると云うのか。
 このあたりを彼等も知っていると思う。その上で、挨拶の為に出社するとは立派である。同じ目に遭えば、果たして挨拶丈の為にわざわざ出る気になれるだろうか。同僚の間を回って挨拶する位はできよう。また、挨拶したい。だが、経営者丈は別である。
 自ら辞職を申し出たならともかく、解雇を通告された以上、経営者に頭を下げる気になどとてもなれない。同僚に挨拶しているとき、たまたま目の前にいても無視すると思う。どうであれ、次のリストラがあるとすれば、槍玉に上がる覚悟が要りそうだ。
 放浪記を一部加筆した。早いところ宗谷岬を仕上げたい。さて、いつ上がるか。

 

1998年11月19日(木)

 ふと目にした新聞で、年賀切手再開50年を記念した切手が発行されることを知った。年賀切手自体は大正時代から発行されていて、大平洋戦争で中断、戦後復活したのが50年前と云うことになる。これを記念して、3種連刷(一枚のシートの中に複数、この場合は3種類の切手を繋げて印刷すること)で発行されるらしい。
 図案を見ると、全て兎年の物である。最も古いのは兎を抱いた少女で、記憶が正しければ昭和26年の発行だろうか。次に昭和62年のそれで、これに先日発行されたものを2枚組み合わせ、田形(切手4枚を縦、横2枚ずつ繋げた状態。全体で漢字の田に見えることから名付けられた)で印刷されると云う。無論、昔の切手は額面を50円に改めて印刷する。
 すこし前、郵便切手の歩みと銘打ち、シリーズで古い切手の「復刻版」が発行された。今回は、これを年賀切手で行うものと云えるだろう。記念になるかどうかはともかく、折角だから発売されたら手に入れて置くこととする。それより、これを来年の年賀切手として使いたい。
 ただ、発表が遅すぎる。この13日には来年の年賀切手が発売され、必要な分を既に購入しているのだ。今更買っても、当面貼って使う予定が無い。
 通常切手は勿論、年賀を含めた記念・特殊切手こそ貼って差し出すべきもので、少しばかり溜め込んでも何の価値も無い。と云って、先に買った分だけ買い直す訳にも行かない。何故同じ13日に発行しなかったのか。「年賀切手の歩み」として一緒に売れば手間も掛からず、購入費用も節約出来た筈で、評判の良かった「郵便切手の歩み」シリーズの再来も可能だろう。この時期に発表した意図が判らない。
 とりあえず、申し訳程度に買って置く。買ってからのことは、その時点で考える。勿体無い気はするものの、ほかに思い付かない。

 

1998年11月21日(土)

 ようやく今週の就労が終わった。少しでも時間が空けば、更新の為の原稿を作るよう心掛けてはいる。仕事場でも同じメーカーのパソコンを使っているので、下書きや文字の入力位は何とか出来る。だが、今週はその機会が見付からなかった。いや、見付けられなかった。
 十年来の同僚がリストラで会社を追われ、初日に仕事を離れた。そして、退職した同僚と、指名されなかった社員とで二枚舌を使った経営者が、第二次の候補を確定すべく現場に乗り込み、職場の雰囲気は険悪になった。リストラの断行とは別の意味で、今週は仕事に身が入らなかったのである。
 正月休みを除くとことし最後の三連休なので、更新と自動車の運転に思いきり時間を使いたい。第二波では可也の確率で指名されるだろうから、今のうちに出来ることをして置くのが得策だろう。取り敢えず、きょうは「放浪記」の一部を進めた。ページの上で、漸く函館まで辿り着いた訳だ。更に札幌、稚内迄進む。果たしていつ日本最北端に立てるのだろう。

 

 

1998年11月22日(日)

 かくれたベストセラーと云われる時刻表を毎月買っていたときの名残りで、今でも年に三、四回程度は手に入れている。そのほか、全国規模でダイヤが改正されるときは、当然に購入の対象となる。確かに、個人では勿論、企業なら職場ごとに毎月買い替えている所も多いのではないか。
 来月八日にJR東日本・北海道・西日本金沢地区のダイヤが変わる。改正後のそれを収めた時刻表が発売されたので、買い込んで時刻を比べて見た。
 普通列車と快速・通勤快速に大きな違いはなさそうだ。これに対し、流石に特急は大きく改められている。そのとおり、従来型の車両を使っていた「ひたち」がなくなり、「スーパーひたち」と「フレッシュひたち」の二種類のみ運転されるらしい。尤も、先月号で改正後のダイヤを載せていたから、あらましは掴んでいた。だが、夜遅くに一本丈運転されていた「ホームライナー土浦」が廃止され、「フレッシュひたち」に置き換わっていたのには目を疑い、次いで唖然と云うより憤然とした。
 現役の「ホームライナー土浦」は、上野を22時45分に発車し、柏、取手、佐貫、牛久、荒川沖、土浦と止まる。それが、変わらないのは停車駅丈で、来月からは全車自由席の「フレッシュひたち67号」に変わり、時刻も23時00分発に繰り下がる。しかし、問題はそれではない。
 特急の運転開始に伴い、当然に料金も上がる訳で、これまでの乗車整理券代310円が、佐貫まで630円、牛久から先は950円に跳ね上がる。しかも、全車自由席に改まると、座席定員を上回って乗車させることが可能になる。詰まり、これまでより2〜3倍の料金を払わされた挙げ句、座ることの出来ない「特急」に立ち通しで乗る羽目になり兼ねないのだ。
 これまでも発車時刻の可成り前から乗車整理券が売り切れになりがちであった。七両編成の特急車両を流用していたから即刻満員になる訳で、車両を増結して之に当たるのが筋であろう。現に、朝の上り線で運転している「おはようライナー」では七両編成の特急列車を二編成繋ぎ、十四両で運転している。「フレッシュひたち」の増発で従来型は余るのだから、出来ない筈が無い。それを特急に置き換えるとは、旧国鉄の感覚に他ならない。
 その「おはようライナー」も無くなる。これで、乗車整理券で乗れる列車は常磐線から姿を消す訳だ。帰宅が夜遅くなり、疲労を覚えても、確実に座るには一本過ごして快速か中距離普通列車を待つしかないのだろうか。ますます疲れが溜まる。

 

1998年11月23日(月)

 のんびり一日中寝ていられることが、目下一番の贅沢なのか。なかなかそうも行かないから、自動車の運転やHP制作に明け暮れる。日付も変わろうとしている今、思い返せばやはり慌ただしく過ごした。
 つくば市を独断と偏見に満ちて紹介するページを上げるべく、取材に出掛けた。道路に沿って変わった物が造られ、人も自動車も往来が少ないから、簡単に撮影出来ると思い、カメラを向ける。戸ところが、いざシャッターを押す直前に、自動車が一台近づき、こともあろうに被写体の真ん前で駐車した。
 明らかに違法駐車だ。だが、休日では警察も動くまい。結局、撮影を諦めざるを得なかった。きょうも、工事中の看板をすんなりと下ろす訳には行かなかった。
 星のつぶやきの構成を大幅に改めた。表紙と記述を分離し、日付から直接本文を呼び出せる。

 

1998年11月29日(日)

 およそ五年前、キャッシュカードを兼ねた銀行のカードローンで中古のPC286LSを手に入れた。16階調のモノクロ液晶画面、メモリ640kB、しかもHDDは内蔵していない。今では考えられない代物が、当時の価格で108,000円だった。これが最初に買ったパソコンで、中古とは云え当時は未だ未だ高かった。
 それが、一年も経たないうちにLC520に買い替えた。勤務先がマッキントッシュを導入するのに伴い、同じメーカーの機械に移行したのである。この機械も高く、113,000円の捻出に苦労した。
 それ以来、全てマッキントッシュばかり購入している。買い換えや売却で、手許にあるのは、現役で使っている5台めの機械を含めて3台、うち1台は仕事場で用い、1台はモニタを置く台の代わりに使っている。主力機として自宅で動かしているのは、最後に購入した1台である。
 本復して帰って来た以上、モニタ台を現役に戻せないかと思い、モニタ切替器を探しているものの、これはと思う物が見付からない。切替器、ケーブル2本、それにモニタ用変換アダプタを手に入れれば、即刻にも作動する。ただ、これらを調達してもコンセントが足りない。9個口コンセントに替えれば当座は凌げる。念のため、分電盤かヒューズボックスを作って過電流対策に充てる。
 ただ、モニタを繋いだところで画面を見る丈である。せめて印刷位は出来るようにしたい。となると、プリンタ切替器も必要だ。費用はともかく、機械の裏側がますます複雑になる。ケーブルを纏めることも考えなければなるまい。さらに新しい周辺機器も・・・と際限なく広がり、いつ迄経っても 落ち着かない。
 放浪記に加筆した。やっと函館を発車した。宗谷岬は未だ遠い。

 

1998年12月1日(火)

 きょうから煙草の価格が改められた。1本につき1円、大概の銘柄で20円の値上げである。上がる分は国鉄債務の処理に充てられるらしい。この程度の値上げでは、一気に禁煙まで踏み切れないかも知れない。どうして煙草を吸う者丈がと云う抗議の声が聞こえそうだ。尤も、煙草をやめて三年半になる身には、何も困らない。
 放慢経営のツケ、貨幣価値の変動、政治上の思惑など、値上げの理由はさまざまである。煙草の場合は自ずと知れているとして、金額丈を見て行くと、なかなかおもしろい。
 その昔、学校の卒業アルバムの編集に携わっていた時分、編集後記に当時の物価を書き込んでおいた。1985年12月現在、京浜急行の初乗りが90円、国鉄のそれが120円、横浜市営バスが140円、アルバイト料は、時給750円の会社が最も多く存在した。因みに、科学万博会場内でのバイト料は時給1,000円だった。ほかに思い付く物としては、沢田聖子の「LP」が2,800円、EP、詰まりシングルレコードが700円、「国鉄」品川駅山手線ホームのカレーライスが280円、はがきが40円、第一種定形郵便、つまり封書が60円だった。
 これが、本日現在いくらになっているのだろう。先ず、郵便関係では、はがきが50円、封書が80円、京浜急行初乗りは130円、横浜市バスは200円、レコードはCDに変わり、LPに相当する12cmの物が3,000円前後(これが最も多いと思う)、シングルは1,020円が多いだろうか。残念ながら、バイト料とカレー代は不明である。
 例えば、床屋での散髪代、喫茶店での珈琲代、名の知れた週刊誌や新聞の価格などが判っていれば、資料として少しは役に立ったかも知れない。当時は、1,000円あれば何とか一日を過ごせたので、支出を減らすことばかり考え、床屋や喫茶店には余り行かなかった。その為、当時の物価を殆ど覚えていない。今は、財布の中に最低でも5,000円はないと安心して過ごせない。物価より金に対する考えかたのほうが遥かに変わっている。

 

1998年12月6日(日)

 いくら何でも一週間に一度の記述ではまずい。ここまで続いたのだから、もう暫く維持したい。あとは眠気との勝負だろう。
 波止場にリンク先を追加した。一月振りの更新である。
 もう一つ、放浪記を加筆した。どうにか札幌まで辿り着いた。宗谷岬までは未だ長い。

 

 

1998年12月10日(木)

 ほぼ五箇月が過ぎ、容疑者の逮捕を見て、和歌山のヒ素カレー事件は大きな転換点を迎えた。事件勃発からこれまで、保険金詐欺と云う別件も絡み、マスコミの話題にならなかった日は無いと云って良かろう。
 カラミイリシルカケメシ(辛味入り汁掛け飯)、詰まりカレー事件の為、当面は取材の題材に事欠くこともあるまい。では、捜査が一段落し、ネタとしてうまみが失せたとき、報道各社はどうするだろう。新聞はともかく、噂話で保っている週刊誌は、材料を何に求めるのか。
 無論、各社とも何らかの持ち駒や隠し玉はあるだろう。あるいは、定番ものを掲載するかも知れない。「あの人は今」などは、その例と云える。実際には定期に取り上げることが多いから、必ずしも谷間のネタとしては扱われない。でも、この見出しを中吊りで見ると、興味を引く。
 一世を風靡した有名人は多い。だが、線香花火の如く一度きりで消える有名人は、それ以上に多い。良きにつけ悪しきにつけ、少なくとも一時期は話題になった人物だけに、時間を置いて名が出ると、どうしても目が行く訳だ。
 以下は敬称を省略する。
 お仕舞いの一年余りは失敗作とさえ断じられる平成女学園も、昨年三月までは結構な番組を放映していた。それに出演していた宗像まり、朝比奈まり、北沢唯、谷口美智子、磯辺りえ、その一世代前と云える内山美紀、藍じゅん子、小泉志穂、雨池由美子、坂下朋子など、その後の消息を聞く機会が無い。須之内美帆子、児島玲子については、ビール会社のキャンペーンガールに抜擢されてから、かえって状況を耳にしなくなった。
 更に間口を広げ、山本博美、竹田かほり、増田葉子、ラジオのDJでは、中山恵美子、岡村美鈴、岡まさ子、石渡のり子、江川範子、斎藤洋美、アナウンサーでは堀江さゆみ、石井庸子など、最近は噂さえ聞こえて来ない。
 しばらく消息を聞かないと思っていたら、中山昭二氏の訃報が飛び込んで来た。日光江戸村の専務に就任したことを知ったのが、およそ一昔前だった。専務よりは、ウルトラセブンに「ウルトラ警備隊」のキリヤマ隊長役で出演していたとするほうが、通りは良いだろう。これで、ウルトラマンで「科学特捜隊」のムラマツ隊長を演じていた故小林昭二氏に続き、ウルトラマン第一期の隊長が全て鬼籍に入った。「あの人は今」の対象としては、余りに衝撃が大きい。

 

1998年12月13日(日)

 ゆっくり寝ていたい日曜日の朝、出勤とさほど変わらない時刻に起き出し、パンを一枚頬張る。未だ完全に目が覚めていない。筆記用具、タオル、沢田聖子のカセットテープ、受験票をリュックサックに入れ、駐車場まで歩く。十分歩いたお陰で、目も冴えた。
 第8回国内旅行検定試験、第1回鉄道旅行検定試験を受けるのである。試験会場は立教大学、自家用車で池袋迄赴く訳だ。電車なら数百円で済む所だ。これに対し、自家用車を乗り付けると駐車料金に少なくとも三千円はかかるだろう。それでも、休日にまで電車に乗りたくないのも事実で、結局気楽な自家用車に決めた。
 いつもなら長い渋滞が発生している首都高速も、両国で1km程度繋がっている丈で、けさは至って順調だった。池袋も日曜の朝は静かな物である。無論相当な人の流れはある。しかし、運転に支障の出る程ではなく、短い時間で駐車場に着き、待たずに入れられた。
 階段を昇り、地上に出ると、立教大学への近道である。試験開始迄三十分以上あるにも拘らず、多くの人数が大学へと歩いている。目的が同じであることは容易に推察出来た。門前の看板を見て入場し、場所を確かめる。国内旅行は、受験者を受験番号で区別せず、受験者の姓で振り分け、教室に誘導していた。

 

1998年12月14日(月)

 しばらく歩くと人だかりが出来ていた。会場前の小さな広場で、JTBが発行している書籍を販売していた。余り見掛けないものばかりで、聞くと旅行業務取扱主任試験の対策に編んだものらしい。終えてからゆっくり見るとして、会場に指定された4階の教室に向かう。年季のある建物らしく、階段が滑り易い。
 すでに十数人が教室の中にいた。教室と云っても、小・中学校のそれを一回り小振りにした程度の面積で、机も小・中学校のそれに近い。黒板には、試験監督官の手で注意書きが書かれていた。座席は自由、受験番号や姓で指定するのではなく、受験者は任意の空いている所に座れば良い。正に自由席である。良く見ると、解答用紙と問題が机の上に置いてあった。監督官がいなければ、問題を容易に確かめ、答を調べられるではないか。試験にしては余りに無用心である。
 席に着いている受験者の殆どは、主催者側が発表している参考書を眺めている。そのような気の利いたものなど初めから無いので、リュックサックの中にいれてあったスキャナのカタログを拾い読みしていた。試験監督官も流石に目を見張っていた。
 そうこうしているうちに、教室もほぼ埋まった。試験監督官が壇上に立ち、説明を始めた。問題は四つの分野に分かれ、合計180問出題される。解答はマークシートに依る多肢選択式、試験時間は一時間二十分で、開始後一時間で退出が出来る。
 説明の間にも、受験者が数人入場した。集合時刻はとうに過ぎているので、学校の試験なら遅刻と看做され、厳しい所では入場すら出来ない。試験を受ける者として、あってはならない恥ずべき行為であることを知るべきだろう。

 

1998年12月17日(木)

 お定まりの注意事項を聞いた後、試験官の合図が出た。問題用紙は左綴じのA4判小冊子で、問題文は横書きである。試験ではいつもそうしているように、いきなり問題に取り組まず、始めから終わりまで目を通し、全体の構成と難易度を掴む。また、綴じてあるので折り目も付ける必要がある。時間はたっぷりあるから、ここで慌てても仕方が無い。
 先ずは地勢・自然環境・景観に関する問題から始めた。国土、気候に因んだ問題で、東西南北の端にある島、海岸線の総延長、梅雨に雨が降り易い理由などが問われた。さらに、山地、岬の名前、難読の部類に属する地名、国立公園と国定公園など、このあたりは結構点数を稼ぎ易い分野と云える。普段から地図帳を使っていれば、落とすことはないだろう。尤も、ここで2問間違えた。
 ただし、次に配置された温泉に関する問題には、正直な所苦労した。地図から、効能から、設けられている施設から、それぞれ該当する温泉を問うものである。温泉自体には興味がなかった為、初めて聞く温泉も少なくなく、半ば以上勘で答えた。
 残り二つの分野は、観光と観光地に関するもの、そして総合問題である。どちらも、妥当と云える出題であろう。ただ、美術館、資料館、県花と県木の類いは、興味をもってそれに親しんでいなければ、一寸手強い分野と云える。
 あと十分を残して退出した。その際、正解が配られる。この試験は、一般の資格試験と異なり、合格点は存在しない。受験者全員の中の序列を等級で表す形を採っていて、要するに偏差値で判断する訳だ。従って、たとえ2問しか間違っていなくても、他の受験者が全問正解なら最下位とされる。結果は一箇月半後に郵送されるらしい。少なくとも、教科書や地名を暗記した程度では、高い点は得られまい。
 廊下では、問題と正解を照合し、自己採点に余念がない。とは云え、偏差値で結果を出す以上、得点を調べても大して意味はない。帰宅してからゆっくり確かめるとして、食事を摂るべく外に出ると、周囲の雰囲気は一変していた。

 

1998年12月20日(日)

 ほんの少し前までは、キャンパスとその周囲に受験者が多く見られた。一般人との区別は付きにくいものの、同じ試験を受ける身には判断出来る。会場が初めての場所にあっても、この雰囲気さえ感じ取れば、道に迷うことはない。
 だが、試験を終え、本を売っていた広場に出ると、僅か一時間前のそれではなかった。服装、持ち物、年格好など、どれを取っても一見してそれと判る層で占められていた。下は小学生から、上は初老のマニアまで、これこそ「鉄」と云うべきもので、無関係の人間にも容易に知れる。無論、午後の鉄道旅行検定試験を受ける者ばかりだ。
 或いはこの雰囲気と人並みに呑み込まれ、カルト集団のひとりとして新聞にも載ったかも知れない。一足早く来て国内旅行を受けた為、「鉄」を外から眺めることが出来た訳である。なるほど、周囲から誤解を受けるのも止むを得ない。注意すべきだろう。
 ともかく食事を済ませなければならない。近くで手っ取り早いのが理想である。でも、このようなときに限ってなかなか見付からない。店はあっても休みか、行列が出来ていて即刻には食べられそうに無い。飲食店と公衆便所は、探すと見付からないとは、上手く云ったものである。
 すこし離れた所に中華料理店を見付け、空いているのを確かめて飛び込んだ。既に十五分が過ぎ、二十五分しか残されていない。炒飯が五百円だったので、それを頼んだ。十分で出来上がって来た。これなら時間内に戻れる。味を楽しむより、早く食べ終わることを考えた。ちりれんげではなく、洋式の匙でスープを飲む。
 精算を済ませようとして声を掛けると、五百二十円を請求された。どう見ても免税分岐点を超える売上はなさそうな店にもかかわらず、しっかり消費税を求めた訳だ。予測はしていたから千円札で釣銭を貰うことにした。すると、二十円が無いかを聞いて来るではないか。
 この一言で、炒飯の代金が高価なものに変わった。税込みならともかく、別に請求するなら釣銭は店が常備すべきで、いくら禁じられていないにせよ、安直にもそれを利用客に求めるのは筋が通らない。硬貨は持っていたものの、大声で無いと云い、釣銭を出させた。持っていても、税別の店では出す気になれない。しかし、大人気ないので流石に云わなかった。

 

1998年12月23日(水)

 あわただしく、且つ不愉快に食事を済ませ、再び会場にもどった。僅か二十分ほどで、立教大学に向かう「鉄」の行列は倍増し、正門から溢れる程に膨れ上がっていた。その中のひとりに数えられるのだろうか。「鉄」の集まりの中に飛び込まざるを得なかった身が虚しい。
 とは云え、それと意識しているから見えるのかも知れない。そう無理に云い聞かせ、カルト集団の中に身を入れた。試験を受ける教室は、食事に出るときに確認してある。
 十二時四十分に教室を解放し受験者を収容、次いで試験の説明を始めると記載されていたにも拘らず、実際に受験者を入れたのは四十五分だった。この五分の間に、廊下や階段は「鉄」で溢れ、入場に手間取った。試験開始まで十分余り、隣を見ると、試験監督官は未だ来ないのに、解答用紙に受験番号や氏名を書き込み始めている。明らかにカンニング、重大な不正行為ではないか。まともな試験なら直ちに退場を命じられる。恥ずべき行為以前の問題で、このような者と試験を受ける身が悲しい。カルト集団と看做されて当然だ。
 ただし、試験を施行する側にも落ち度はある。鉄道旅行でも、問題用紙と解答用紙は机の上に一部ずつ配付されていた。こうした試験なら、試験監督官が一括して教室に運び、説明の際にひとりずつ配る筈である。それを予め置いておくとは、不正行為を勧めるようなものではないか。この点は改善しなければならない。
 やがて、試験監督官が慌ただしくやって来て、説明を始める。試験は百問、制限時間は一時間で、途中退出は出来ない。ほかは午前中のそれと同じだった。だが、このとき、またも失態を演じた。
 一部の受験者に問題と解答用紙が配られず、試験監督官も持っていなかった為、隣の教室や試験本部から急遽補充する羽目に陥った。予め置いてあったと云っても、全ての机に配られていた訳ではなかったのだ。いくら第一回とは云え、教室ごとの机の数や、申込総数、予想受験者数位は把握出来なかったのか。国内や海外の旅行検定で、資料は揃う筈である。多少の手違いはあっても、カルト集団だからうるさく云わないだろうと考えていたとしか思えず、腹立たしい。
 さて、足りない分の補充に手間取り、試験開始時刻をとうに回った。流石に我慢出来なくなったのか、始めて良いかと問う声が一部から上がり、これを合図にやっと問題に取り組むことが出来た。未だ配られていない受験者には、終了時刻延長の措置が執られた。
 ゆっくりと問題をながめ、第一問から解くこととした。見ると、「車両・列車・運行区間・スケジュール」、「路線、駅・施設、車窓・沿線の景観」、「歴史・文化・時刻表・旅行」の分野から出題されている。細部にわたる問題が少なく無いものの、時刻表を読みこなしていれば、半分は正解出来るだろう。
 初めて施行される試験と云うことで、問題と解答用紙のほかにアンケートも配られた。内容に偏りはないか、外国の鉄道を問題に加えるべきかなどで、少なくとも良い評価は下さなかった。試験の結果は来月下旬に郵送される。

 

1998年12月29日(火)

 もう少しで百回を数えるから、それまでは全血200mlの献血を続けるつもりだ。年間の献血回数、総献血量共に条件は満たしていたものの、およそ二月に一度の割合で血を抜いていれば日赤も喜ぶだろう。同時に、定期の健康管理にも役立つ。
 このごろは、どこの採血所でも全血200mlを敬遠する傾向にある。断わられることこそ無いものの、露骨に嫌みを云う日赤職員すら居る。その中で、今回採血した茨城県つくば市の献血ルームは、受付も看護婦も、提供者への親切な応対が身に付いている。
 ところが、検査のための採血では、針を刺している最中に、検査机が大きく揺れた。同じ机で血圧も測定、測り終えて被測定者が席を立つとき、机にぶつかったのが原因である。このために、刺したまま針の先が大きく振れ、激痛が走った。
 事前検査と血圧測定は、献血ルームは勿論、バスの中でも互いに離れた場所で行う。接近していても、机は別れる。だが、ここは文字どおり隣で、机も共用する。これでは、このような事故が何度起こっても不思議では無い。
 しかし、事故に遭ったほうはたまったものではない。短時間ながら呼吸が出来なくなり、針を刺した辺りで内出血を起こした。指先や腕が動かず、痛みが引く迄採血を待つしか無かった。痛みは間もなく収まったものの、忘れられない献血ではあった。
 おもう所があり、表紙を改造した。背景に壁紙を取り付け、目次を分離する。また、更新記録の頁を新設、この日記には記載しないこととした。

 

1998年12月30日(水)

 なかなか慌ただしさと煩わしさから抜け出せないのが十二月である。師匠も走るとは、良く云ったものだ。忙中閑ありとは行かず、無理矢理時間を作らないと、少なくとも気持ちが休まらない。けれども、定休日が平日ではなく、休暇を取れる雰囲気でもない。
 したがって、年末年始の平日は有効に使わなければならない。ここ数年、この時期の一日を割き、福島県いわき市まで往復している。市内の郵便局を回っているのだ。
 平成11年4月から中核市となり、日本一面積が広いこの市は、5市6町が合併して昭和41年に誕生した。集配普通局だけでも植田、常磐、内郷、平、小名浜の五つ、集配特定局に至っては14局も存在する。全国津々浦々、山間部や離島迄あまねく郵便局を設置したことが、この場合は災いした。短時間で市内全ての郵便局を回ることが出来ない。今回も、互いに離れた山間部の局を主として回る。
 このところ分散される傾向にあることから、常磐道の渋滞には余り気に留めていなかった。それでなくとも空いている道で、ことしも行列は全く出来なかった。但し、年末であることは否めず、交通量は多い。尤も、それも水戸までであった。茨城県北部に移ると、通常と殆ど変わらない。
 いわきJCTから磐越道に移り、いわき三和で降りた。ここから目的地まで20キロ程一般道を通る。地図から山道を予想してはいたものの、思った以上の道であった。勾配やヘアピン状の曲線に加え、道幅が狭い。設置されている標識の制限速度一杯では、地元のドライバーでもない限り、とても安全に運転出来そうに無い。
 道の途中に、地図には無かった郵便局が見付かった。息抜きに良い地点だった。道を訊くと、これから先は運転し易いと云う。道幅はさほど変わらず、工事中の区間も少なく無かったことを除けば、確かに楽ではあった。
 やがて、目的の差塩郵便局が見えて来た。十三時まで多少ある。昼休みを取っているのか、入口にカーテンが掛かっている。大方簡易郵便局だろうと予想を付け、通帳と預入取扱票を持って近付いた。だが、昼休みだとしても人の居る気配がない。更に近づき、扉の貼り紙を読む。確かに簡易郵便局ではあった。だが、十二月二十九日から一月三日まで公休日だった。
 流石に疲労が吹き出した。判っていれば行き先を変えている。正直な所、言葉を発する気にすらなれなかった。でも、ここまで来て今更変えようがない。設定していた経路に従い、国道49号線に出た。

 

1998年12月31日(木)

 この次は、好間のはずれにある大利局である。好間から内郷に抜ける道の途中である。ここも簡単に見付かった。ところが、ここ大利簡易郵便局も休んでいた。聞くと、きょうから年末年始の休暇だと云う。次の予定地であり、ここからさほど離れていない高野簡易郵便局は開いているらしいから、二つめを押さえてからゆっくり休むしかあるまい。
 見付かる筈の局がなかなか見付からない。交通量が少ないのを幸い、沿道を注意しながらゆっくり運転して行くうち、最寄りのバス停を過ぎて仕舞った。ちょうどコンビニエンスストアがあったので、茉莉花茶を買いがてら場所を尋ねた。一、二分逆戻りするらしい。しかし、郵便局は農協の中にあるらしいのだ。
 きわめて悪い予感が走った。茨城県龍ヶ崎市を回った際、やはり農協が取り扱う簡易郵便局に二局当たり、いずれも郵便貯金業務は取り扱って居なかった。貯金業務は競合するので、商売敵の肩を持つ訳には行かないのだ。事情は解るものの、郵務丈が郵便局ではない。それでも、番狂わせが存在するかも知れず、教わったガソリンスタンドを訪れた。問題の局は隣にあった。だが、簡易郵便局の看板がどこにもない。
 外からガラス越しに覗き込むと、年賀はがきのポスターがカウンタ下に貼り出されていた。ここには違い無い。勢い丈で飛び込み、郵便貯金が出来るかを訊いた。奇跡は起こらなかった。三局も続けて貯金の出来なかったことは初めてで、次の川平簡易郵便局で預けるまで、どこをどう走ったか覚えていない。更に山道を通って上遠野、入遠野、田人の各集配特定局を回り、手持ちの地図にはない荷路夫郵便局まで赴いたところで、ちょうど十六時を迎えた。荷路夫で定額貯金を作ると、集配特定局丈あって、粗品としてタオルをもらった。
 ことしの貯金はここまでだ。地図上で直線距離を測ると、今回回った郵便局は、いわき市街地からさほど離れていない。けれども、すべて山間部にある上、道路が山肌を縫うように通っている為、一つ一つ回るとかなりの時間が掛かった。加えて、早くから休みを取る簡易郵便局のあったことも、予定外だったと云える。簡易局なら決して不思議では無いから、来年の適当な時期に、改めて回る。
 地図に従い、市街地に向けて自動車を走らせる。いわきの市街地と云うと、合併前は市だった勿来、磐城、常磐、内郷、平、それに旧小名浜町だろう。山を下りるに連れ、交通量も増えて来た。常磐線植田駅前からさらに走らせ、小名浜に向かった。ここには、必ず立ち寄る鮮魚店があり、近くのららミュウより安い。ここで柳葉魚を買い、もどることにした。
 それにしても、そろそろ軽油タンクの残りが少なくなって来た。国道6号線沿いに現金会員カードの利用出来る給油所があり、そこで入れるつもりだった。ところが、1リットル当たり73円と、普段使っている店より10円も高い。之には流石に入れる気をなくし、湯本駅付近を回った。どこも72円で、入れるには躊躇せざるを得なかった。一つ丈68円の店があったものの、会員価格だと云う。その店では手持ちのカードを利用出来ず、諦めた。
 いわき湯本インターチェンジの近くに給油所があるから、どうしても見付からなければ値段に目をつぶっても入れるしかあるまいと、ICへの道を進んだ。途中72円の給油所を無視し、1キロ程行くと、カードの使える店があった。しかも、70円で入れられる。
 これを見逃す訳に行かない。この先はIC入口に一箇所あるだけだ。探し回った甲斐があり、安く給油出来た。結果としてはずれ籤を三回も引いたとは云え、最後に得をした。


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