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東海電鉄
東海電鉄株式会社(とうかいでんてつ、英称 Tokai Electric Railway Co.,Ltd.)は、東京都・神奈川県・静岡県・愛知県の1都3県にまたがる421kmの路線網(近鉄・東武・名鉄に次ぐ日本の私鉄4位)を持つ大手私鉄。首都圏と中京圏を結び、さらに名古屋から近鉄に乗り入れ関西圏へも足を伸ばす。路線はすべて標準軌(1,435mm軌間)、直流1,500V電化。
ネイビーブルーをベースに窓周りが白で塗られた車体から青い電車と呼ばれる。特急車両やグループのバスも共通の塗装になっている。ただし、近年の通勤車両はステンレス無塗装に紺色帯の電車が増えている。
芙蓉グループを構成する企業の一つで、創立時の経緯から京浜急行電鉄が筆頭株主となっており、根津家を通じて東武鉄道とも浅からぬ関係がある。本社所在地は東京都新宿区新宿4丁目x番x号。
目 次
路線
歴史
列車種別 new
駅
車両 new
バス
東海線:新宿(東京都新宿区)〜国府津(神奈川県小田原市)76.8km
五反田線:泉岳寺(東京都港区)〜東洗足(東京都品川区)5.5km
御殿場線:国府津(神奈川県小田原市)〜沼津(静岡県沼津市)60.2km
駿豆線:東海三島(静岡県長泉町)〜修善寺(静岡県伊豆市)20.4km
西伊豆線:修善寺(静岡県伊豆市)〜伊豆松崎(静岡県松崎町)31.4km
名古屋線:沼津(静岡県沼津市)〜東海名古屋(愛知県名古屋市中村区)226.7km
※沼津〜東海浜松は静岡線と通称される
乗り入れ路線
都営浅草線・京成押上線・本線/東成田線・芝山鉄道線/北総鉄道北総線(泉岳寺〜押上〜成田空港/〜東成田〜芝山千代田/〜印旛日本医大)
※18m級地下鉄乗り入れ車両限定
近鉄名古屋線・大阪線・難波線(名古屋〜近鉄難波)
※夜行特急(新宿〜近鉄難波
近鉄名古屋線・山田線・鳥羽線(名古屋〜鳥羽)
※伊勢迎光号(新宿〜鳥羽)
相手社線からの片乗り入れ
京急本線・久里浜線(〔新宿〜上大岡〕〜三崎口)
※新宿三浦海岸号(季節運転)京急2100形で運行。
小田急小田原線(小田急新宿〜〔松田〜沼津〕)
※あさぎり号
廃止路線
三島沼津線(軌道線):沼津駅前〜三島町(現三島田町)
開業
東海電鉄の設立は東京急行電鉄から分離独立し再発足した1948年6月1日であるが、その前身は1922年設立の東海電気鉄道に遡る。
大正中期、京浜電気鉄道(現京浜急行電鉄)は、並行線を他社によって敷設されることを危惧し、第二京浜線(高輪〜中延〜神奈川、新宿〜中延)の出願を行った。同じ頃、東武鉄道社長の根津嘉一郎を代表発起人とした東海電気鉄道も高輪〜神奈川〜国府津の免許を出願、競合する形となった両者は、共に関係が深かった安田財閥の斡旋で合同して東海電気鉄道を設立した。
同社は1925年に新宿〜神奈川を、引き続き1931年までに五反田〜東洗足、神奈川〜国府津を開通させた。このうち神奈川〜日ノ出町は京浜と、日ノ出町〜上大岡は湘南電鉄と複線を共用する形で開業している。
御殿場線乗り入れ
日光鬼怒川観光開発で実績を上げていた根津は、中伊豆の観光開発を目論み、駿豆鉄道を傘下に収める。一方、日本電気鉄道が東京〜大阪間高速電気鉄道計画の一部として沼津〜名古屋の間を建設中で、これらを東海線の国府津と結ぶべく、丹那トンネル開通後はローカル線化する御殿場線の電化・三線軌条化を鉄道省に働きかける。トンネル開通後も迂回ルートとして御殿場線を維持しなければならない鉄道省にとっても、民間が費用を肩代わりするこの話にはメリットが大きかった。1934年のトンネル開通を待ち、1935年に御殿場線の電化・三線軌条が竣工、東海電車の乗り入れが実現し、新宿〜修善寺間の直通急行電車が運転された。
同社は御殿場線の払い下げを目論んでいたが、鉄道省はそれを牽制し小田急にも御殿場線乗り入れを認め、小田急新宿〜沼津間の電車も運転されることとなった。
その後、東海と小田急はともに大東急の傘下となり、大東急時代の1944年に御殿場線の払い下げが実現する。時の運輸通信大臣は大東急の総帥、五島慶太であった。私鉄の戦時強制買収が進められている一方での払い下げは問題視する声もあったが、戦時下にあって表立って追及されることはなかった。
戦後になって御殿場線返納問題として国会でも取り上げられたが、同社が電化や改良にかかった費用を負担していたことや、既に同社路線網の一部に組み込まれている実態から、必要とするときは無条件で引き渡されること、引き続き1,067mm軌条を維持することなどの条件が付けられたうえで、そのまま東海電鉄に引き継がれることとなった。また、小田急の乗り入れも継続して認められ、現在も小田急の特急「あさぎり」が東海電鉄の線路の上をを沼津まで走っている。なお、国府津〜松田間の1,067mm軌条については1987年に撤去された。
日本電気鉄道
1907年に安田善次郎を代表発起人として東京と大阪の間に高速電気鉄道を建設しようという日本電気鉄道の計画が持ち上がる。1,435mm軌間の全線複線、第三軌条式高速電気鉄道で渋谷・松田・静岡・名古屋・亀山・野田に駅を設置する計画で出願するも却下される。
下って1926年、安田の没後、根津・笠井愛次郎らにより、通過各府県の建設推進の意見も付して再度申請される。駅は少し増えて渋谷・西横浜・御殿場・静岡・北浜松・岡崎・名古屋・亀山・北奈良・桜ノ宮の10駅であった。しかし、翌年申請は却下される。
1928年、今度は根津を代表発起人として名古屋(金山)〜沼津間で申請される。これは名古屋以西については期を一に申請された京阪系の名古屋急行電鉄と連携し、沼津以東については当面、御殿場線(当時は東海道本線)や東海線の活用を模索するものであった。また、路線が静岡・愛知両県内に限られたことで、豊橋・浜松を経由するよう変更された。翌1929年、名古屋急行共々免許が下りると着工し、1936年に開業をみた。しかし、名古屋急行は着工に至らず1935年に免許失効。また、鉄道省が御殿場線を介して日本電鉄線と東海線が直通運転することを認めなかったため、東名間でも沼津での乗り換え連絡が強いられることとなった。
大東急
昭和初期の、早川徳次(東京地下鉄道)と五島慶太(東京高速鉄道)の抗争は、東海の存立に大きな影響を与え、最終的に大東急への合併に至ることとなった。
早川は、五島の東京高速の進出に対抗して、京浜・東海との合弁で京浜地下鉄道を設立し、その代表取締役には根津が就任した。河西豊太郎や小林中ら根津系人物が京浜や湘南の役員に名を連ねるなど、東武と京浜は五島に対抗するなか関係を強めていたが、根津財閥と京浜の合弁会社であった東海も当然その渦中にあった。
1936年、東京地下鉄道・京浜・湘南・東海は、五島に対抗し戦時統合のイニシアチブを握るため、合併契約締結する。これを知った五島は株買収で対抗し、1939年に京浜を傘下に収めることに成功する。この結果、京浜が50%の株を所有する東海も五島の影響下に置かれることになった。
1940年に亡くなった根津は「東西大都市の連結は私鉄の大樹。此の事業を引き継ぐのは五島君を於ゐて他に無し」(『根津翁伝』)と、五島資本の侵食を受けていない日本電鉄もライバル五島に託す意向であったと言う。斯くして五島の手により、1941年、東海電気鉄道は日本電鉄・駿豆鉄道と合併し東海電鉄が発足する。1942年には京浜・小田急と共に東横電鉄と合併し、東京急行電鉄(大東急)に統合した。大東急時代には、御殿場線の払い下げも受け、東海営業局(後に東海支社)の東海線・五反田線・駿豆線・三島沼津線(軌道)・名古屋線・御殿場線を構成した。
新生東海電鉄
終戦後、旧小田急を中心に大東急解体の動きが起こるが、根津の懐刀と言われ旧東海の社長も務めた小林中が、公職追放中の五島の留守を預かり東急本社社長に就いていたこともあり、東海支社の分離運動は活発でなかったという。1948年、大東急は解体し、東海電鉄として再発足した。
分離に際しては五島による乗っ取り以前に計画されていた京浜・東海の合流案や、旧東海電気鉄道と旧日本電気鉄道を分離させる案などもあったが、大東急統合前の旧東海電鉄+御殿場線での分離独立となった。
また、創業以来の資本関係から、京浜急行電鉄に東海電鉄の株式が割り当てられため、京急が東海の筆頭株主となっている。また資本関係だけでなく、歴史的経緯からも関係性が強い東海・京急・東武の三社には姉妹会社という意識がいまだ根強く残っていると言われる。
東海道新幹線開業以前の東海電鉄は長距離都市間鉄道の性格が色濃く、分離独立直後の1948年には念願の東名直通急行電車の運転を開始している。1957年にはHC車(High speed and Comfortable car)と呼ばれる新型特急電車を投入し、国鉄特急を凌ぐ俊足を誇り、東名間輸送の占有率でも国鉄を大きく上回った。さらに1960年には近鉄名古屋線の改軌を受けて近鉄と相互乗り入れし、念願の東京〜大阪間直通特急の運転を開始している。
しかし、1964年に東海道新幹線が開業すると東名・東阪特急は急速に衰退し、ローカル輸送中心に転換する。特に開業当時は沼津〜名古屋間でたった5駅しか設置されていなかった名古屋線は、戦中戦後にかけて東海道本線並に駅が増設され、さらに昭和40年代以降、普通の私鉄並に駅が増やされ、大都市間の高速電車から愛知・静岡県内の中都市間を結ぶ電車へと姿を変えていった。
一方、首都圏では沿線の宅地化が進み通勤輸送が爆発的に増大する。
1956年にそれまで京急線と共用していた横浜〜上大岡間を分離、1968年には五反田線を泉岳寺駅まで延伸し都営1号線(浅草線)と相互乗り入れを開始、1974年には東洗足〜池上間を複々線化と増加する通勤需要の対策に追われる。
また、東海道新幹線開業による東名特急削減で余剰となった電車を転用し、駿豆線直通の伊豆特急の拡充がはかられる。さらに1966年の修善寺〜天城湯ケ島口間開通を皮切りに西伊豆線建設を進め、1971年には船原温泉まで、1975年には大手私鉄第二位の山岳トンネルとなる船原トンネル(5,570m)を抜けて伊豆土肥まで延伸。1980年に伊豆松崎まで全通した。
特急(夜行特急)
東海電鉄と近畿日本鉄道の相互乗り入れで東京・新宿〜大阪・近鉄難波を結んで走る夜行特急。JRの寝台急行「銀河」は6両編成にまで減らされ、それでもシーズン以外はガラガラと聞くが、個室寝台と座席車の設定がニーズに応えているのか、こちらはかろうじて元気なように見える。
1996年に置き換えられた寝台特急電車は、京都や伊勢への分割列車を想定して5両ユニットで作られたが、需要の差から分割列車は設定されず運転台の分定員を損する結果となった。10両編成のうち8両がオール個室の寝台、2両が深いリクライニングの座席車。寝台はすべてシングルルームのモノクラスで、小さいながらもサロンが設けられている。エクステリアやインテリアの雰囲気は異なるが同一設計・同一設備の東海00000形3編成、近鉄00000系2編成がある。検査時には東海00000形と近鉄00000系の併結が見られ、シーズンには予備編成による伊勢志摩行きが運行されることもある。
千駄ヶ谷八幡駅
ターミナルの次の駅はエアポケットの様に静まり返っている。駅名の由来となった鳩森八幡神社は、江戸八所八幡のひとつとして知られた由緒ある古社。駅の周辺は徳川家の屋敷もあったという閑静な住宅街で、隣りのターミナル駅の喧噪と程遠い。近くには国立能楽堂もあり、文化の薫りも漂う。駅前の小さな商店街には古めかしい銭湯もあり、下町とはまた違った山手の生活感を残した界隈で、町に溶け込んだいかにも私鉄らしい雰囲気の小駅である。
ホームの長い木製ベンチに腰掛けて電車を待っていると、この線路は湘南まで延びているという感じすらなく、池上あたりまでの電車の駅のように思えてならない。目の前の線路が遠く名古屋、大阪までつながっているとは、まるで別世界のことのように思えるのだ。
東海名古屋駅
鉄道マニアにとってたまらない駅。例えば、留置線で出発を待っているブルートレインを眺める尾久駅だったり、私鉄各社の電車が次々やってくる様が一望できる東武線の曳舟駅界隈であったり。
東海名古屋駅もそんな鉄道マニアにたまらない駅だ。駅は近鉄・名鉄の間に挟まれているが、地下駅なので電車が隣り合って並ぶわけではない。しかし、目を左右にやると、乗り換え連絡口の西に近鉄名古屋線の電車が、東に名鉄の赤い電車が見通せる。東・名・阪の私鉄が一堂に見渡せる唯一の空間。まるで松本清張の「点と線」冒頭の東京駅のシーンのようだ。
さらに東海線の引き上げ線が近鉄米野駅脇に設けられており“昼寝”をしている東海の青い電車の横を近鉄電車が低速で通り抜けてゆくシーンにはマニアなら高揚するだろう。この通称“米野引上げ線”で東海と近鉄の線路がつながっていて、新宿と難波を結ぶ夜行特急もここを通って行く。
名古屋のローカル感が強い名鉄名古屋駅に対して、近鉄名古屋駅には大阪の、東海名古屋駅には東京の空気が漂っているのも面白い。東海電鉄の東のターミナル新宿駅には名古屋風のきしめんスタンドがあるが、東海名古屋駅には箱根蕎麦のスタンドがあり、エールを交換している。
東海名古屋駅で購入したパスネットには京王9000系や東武30000系といった関東の電車のイラストが顔を並べていた。
東海電気鉄道の車両
デ1形(のちの6100形)は、1925年東海電気鉄道開業当時に製造された丸屋根にパンタグラフを備えたスマートな外観の半鋼製車両。資本的には半分が東武系の根津財閥とはいえ京浜電鉄のバイパス路線という性格が反映され、ポール集電で路面電車スタイルの京浜電鉄デ51形(140形)を継いで、高速電車スタイルのデ71形(230形)を先行するようなスタイルであった。
続いて、国府津開業に備えて製造された100形は湘南電鉄デ1形(京急230形)とほぼ同形。ただしこちらは1500Vの単電圧車だった。神奈川〜横浜〜日ノ出町間は京浜電鉄と東海電気鉄道の二重戸籍だったが(日ノ出町〜上大岡間は東海と湘南の二重戸籍)、東海/湘南に合わせた1500Vで電化されたため京浜の在来600V車は神奈川以北に押し込まれることとなり、同じ1500V電化の東海−湘南で直通運転が頻繁に行われた。東急合併後、東海デ100形は京浜/湘南の同形グループとは別に6150形の番号をあてがわれ、戦後もそのまま引き継がれた。
この他、東急時代の1942年に5300形が新製された。これは旧京浜線と一体的に運用するため600/1500Vの複電圧車で製造され、車番も旧京浜の5000番台があてがわれた。このグループは戦後、京急に引き継がれた車両は300形を経て400形となり、東海に引き継がれた車両は6300形と改番された。
一方、京浜と関係の深いこれらのグループとは別に、国府津から御殿場線に乗り入れ伊豆へ直通する長距離電車が製造された。1935年に東海デ200形として新製され、翌年には本格的高速都市間電車として開業した日本電気鉄道デ1形が登場している。函嶺越えを考慮し発電ブレーキを装備した大出力モーターで最高速度100km/h超を誇る戦前の名車。大東急では6200形に統一された。
宿50/宿52系統
・宿50:新宿駅西口〜文化服装学院〜代々木八幡〜東大前〜中目黒駅〜五反田駅
・宿52:新宿駅西口〜文化服装学院〜代々木八幡〜東大前〜渋谷駅
電鉄会社直系バスの本体電鉄ターミナル駅への乗り入れ状況を見ると、
西武(池袋駅、新宿駅)
京王(新宿駅、渋谷駅)
小田急(新宿駅)
東海(新宿駅)
東急(渋谷駅)
には乗り入れがあり、
東武(浅草駅、池袋駅)
京成(上野駅)
京急(品川駅)
にはかつては乗り入れていたものの、現在は乗り入れはない。
また、乗り入れのある5社でも、ターミナル駅が自社テリトリーと接しているのは京王と東急くらいで、西武・小田急・東海は離れたテリトリーから無理をしてターミナルへ乗り入れている。このあたりに各社それぞれの考え方やターミナル駅の地位が垣間見えて興味深い。
東海電鉄バスの新宿駅乗り入れ路線は、宿50(新宿駅西口〜五反田駅)、宿52(新宿駅西口〜渋谷駅)の2系統がある。
同じように離れたテリトリーからターミナルに路線を延ばしている西武と小田急の路線が、乗り入れ維持路線的な本数なのに対して、宿50/宿52は2系統で毎時約8本と本数が多いのが特徴。
東海電鉄のバス事業は、昭和の初めに、中原街道の五反田〜東洗足間に路線を開業したことに始まり、大東急時代を経て、都内では主に品川区と大田区のうち中原街道と東海道本線に挟まれた地域に路線網を拡げている。
一方、渋41系統(渋谷駅〜大井町駅)のルーツにあたる大橋〜下目黒間の路線も、東海電鉄バス創業以来の路線で、東急が面的に路線網を展開するエリアで、玉川通り以南の山手通りを線的にテリトリーとしている。
玉川通り以北の山手通りは、京王バスのエリアである。このエリアで京王は、新宿駅から山手通りを経由して駒場駅に至る路線を運行していた。この駒場線が、車両制限令の実施で、狭隘路の駒場駅付近への乗り入れが難しくなっため、行き先を同時期に整備された渋目陸橋付近の山手通りへ振り替え、さらに東海と相互乗り入れし玉川通り以南に延伸し、新宿駅〜山手通り〜五反田駅間の運転となった。これは東海にとっても、鉄道のターミナルである新宿駅乗り入れというメリットがあった。
しかし、京王側は都区内路線縮小再編の動きのなかで、早くも1971年に同路線から撤退してしまう。以降、同路線は東海の単独運行となり、1972年の系統番号化では宿50の番号が付せられた。また、1977年には、東大前から渋谷駅へ向かう短縮系統の宿52を派生させている。
現在、路線の大半が渋滞の激しい山手通りであり、定時運行が難しい路線であるが、沿線のオフィス化が進み、また、初台以南の山手通りと新宿駅を結ぶ唯一の路線でもあるため、近年利用者は増える傾向にある。
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