モダニズム―リアリズム―ヴァルガリズム

“ウエスト・サイド・ストーリー”と“ロミオとジュリエット”を通して「現代」の特質を考える


時:2000年9月某日
所:和洋女子大学佐倉セミナー・ハウスAVホール

[黒田先生登場。夏休み突入以来2ヶ月ぶりに早起きして、はなはだ不機嫌そう。]  [問題発言のため一部省略] ……で、モダニズムって言葉は、狭い意味ではヨーロッパで20世紀の始め頃から、第1次世界大戦が終わった後のあたり、主に美術とか建築とかそのへんの分野でもって、“モダニズム”と呼ばれるような、特徴ある絵の書き方とか建築様式などが流行りました。文学、音楽その他様々な分野にその影響が波及しています。普通はこういうのを狭い意味でモダニズムって呼んでます。でもここでは僕は、その狭い意味ではなくって、例えば、“モダン”というと日本語では“近代”と訳したり、“現代”と訳したりしますね。近代も現代も両方とも英語では“モダン”なんですね、実は。すると“モダン”と呼ばれる時代はかなり広い年代的範囲を占めるものらしい。その言葉本来の意味での “modern”、「現代」とは何か、「現代」であること、現代という時代の物の考え方の特徴、というような意味でここでは“モダニズム”という言葉を使うことにします。そのモダニズムとリアリズムの関係、ということを中心にして今回のこの佐倉セミナーの課題、“ウエストサイド・ストーリー”と“ロミオとジュリエット”の関連するところについて述べてみたいと思います。

で、まあ、企画として映画を中心にやる、ということで今年は“ウエスト・サイド・ストーリー”が選ばれた訳です。作曲家のバーンスタインがじっくり脚本家のローレンツ達と相談して、すべて計算づくで、“ロミオとジュリエット”の現代版を構想した。イギリス人の劇作家のシェイクスピアがイタリアを舞台にして書いた“ロミオとジュリエット”の物語りを、20世紀のアメリカを舞台にして作り直そうとした。そういう事の次第を我々はもう知っている訳です。そこのところで文学と文化についていろいろと考えてみる、という立場から、どういうことを読み取れるか、となると、例えばこの二つの作品を比較して、どういう点が似ているか、あるいはどういう点で異なっているかという風に接近する手法もある。けれども、ただ似ているところどこそこ、違っている点どこそこ、と箇条書きにして提出するだけでは、手抜き授業したがるバカ教師の出すつまらない夏休みの宿題みたいですから、そこで終わっては意味がない。どこがどう似ているのか。似ていると見るところにどういう意味があるのか。違っているとすれば、違っているということが今の我々現代人にとって、その違っているということをどのように意識して理解することが大事なのか、という問題になってくる筈です。

そんなことを考えて僕はこの講座の課題を出しました。その課題はと、……。読んだ?覚えてる?この課題は一応みんなが聞いている筈ですね。この課題を参考にした上でこの後の演習の授業の選択を決定した筈ですね。もう一度読みあげてみます。「“ウエスト・サイド・ストーリー”及び“ロミオとジュリエット”のそれぞれにおいて、登場人物の台詞、行動あるいは作品の提示方法における特徴として、下品な箇所、俗っぽい表現、リアリスティックな描写、のいずれかに該当する部分があれば、指摘する用意を備えよ。またこれら3つの要素“下品”、“俗”、“現実的”の相互の関連について考えよ。」とまあこういう課題を出していた訳です。で、この課題が、さっき言ったこの講議の問題点、テーマとどういう風に関わるか、ということについては今ここで全員に話しておかなければいけないでしょう。今日の全員参加で行う講議の主題というのはそこになると思います。細かい一つ一つの点について、共通点と相違点を掘り下げていき、文学的表現と主題の提示の手法との関係について専門的な考察を行うのは後の演習の方でやることにしたい。そこのところでおそらく、もう一つの課題として示しておいた「演劇空間」という主題についても語ることができるかと思います。

先程は「下品な箇所」、「俗っぽい表現」、「リアリスティックな描写」と三つあげましたが、これら三つは関係の無い別々のことを言っているのではなくて、わざわざここで改めて証明なんかはしないけれども、根っこは同じところにある筈です。一般の常識として、下品であれば俗っぽいし、下品な俗っぽい表現というのはやっぱり、抽象的にさらりと語るのではなくて、あるがままの現実を生々しく具体的に描く手法が用いられている訳です。要するにリアリスティックで即物的なところというのを“ロミオとジュリエット”と、それから“ウエスト・サイド・ストーリー”でもって探してみて、ここが意外と下品だな、こういうところがやっぱり俗っぽいな、と最初に考えてみてもらいたい訳です。

で、ここで一つ、君たちは決して模範的ないい学生ではないけれど、(それはむしろいいことです。)どうしようもなく学生として躾けられてしまっているところもある。(これはとても悲しいことです。)君達もやはり、知らないうちに文部省の犬になってしまってます。文部省の犬になりさがった君たちがこういう時に何を考えるかっていうと、(まあ全然考えないよりはちょっとは何かを考えた方がいいんだけど。でも犬思考に染まってしまうのは危険だと思って、敢えて僕は最初に罠をかけておく訳です。)今回比較対照する二つの作品、“ロミオとジュリエット”とそれから“ウエスト・サイド・ストーリー”と、これらそれぞれに対して、どちらがより下品か、俗っぽいか、リアルかという点で比較してみよ、と言っているわけですよね。そこでおそらくこういう課題を出した先生は、頭の中でたぶんこういう結論を用意してるんだろうと、安全な正解はたぶんこんなところだろうと、君たちは推測するんだろうか、やっぱり?これはとっても下らない事です、実は。僕自身はというと正解を答えるためのせちがらい憶測は敢えてしない方でした。そりゃほんとに何も考えてない訳じゃないから、たぶんあの先生はバカだからこんな低次元な答えをあてにしているんじゃないかな、とは一応は思いはした。でもそこまでバカ犬どもに合わせるのもやっぱり変だし、自分の答える回答というのは自分にとってこそ意味のあるものなのだし、正直に自分の本当に思うがままの意見を答えて、それで一年留年することになったこともありました。僕はというとそういう学生の方が好きなんですが。

という事で、改めて聞こう、一方は16世紀の偉大な劇作家シェイクスピアの作品、もう一つは20世紀の、最初はブロードウェイの舞台作品として作られたんだけれども、我々が今日観た作品は、映画です。非常にポピュラーな映画ですね。で、下品、俗っぽい、現実的、さあどっちの作品の方がより下品で俗っぽくて現実的であるか、と言った時に、君たちは、敢えて聞こうね。より俗っぽくて下品な方、どちらでしょう?手をあげて答えてみて下さい。

“ロミオとジュリエット”だと思う人。  [手をあげる人無し。] “ウエスト・サイド・ストーリー”の方だと思う人。  [まだ居眠りをしてなかった人の大部分が手をあげる。] それ以外。[声をあげて。]  [数人が目を醒ましてあわてて手をあげる。]

黒田先生、予想外の展開に苦虫を噛み潰したような顔をして、]  はい、解答。「それ以外。」これが僕の言いたかったこと。このことを指摘してみたかったから、こういう課題を出した訳です。さっき言った罠とは、どこがどう罠であったのか、自分は罠にかかったのかかからなかったのか、そこは各々自分なりに考えてみて下さいね。

で、もう最終的な結論の部分だけ先に言ってしまいます。実は“ロミオとジュリエット”も“ウエスト・サイド・ストーリー”も、両方とも滅茶苦茶物凄く現実的で俗っぽくて下品な作品です。そういう中身です。本来そうでしかない存在です。なぜならば、このなぜならばってところには様々な角度から指摘できる色んな理由がある訳ですが、ごくごく大雑把に言うと、ただ一言。どっちの作品も実は、「現代」の作品であるからです。「現代」と呼ばれる時代的特徴を等しく持ち、思想的傾向を同等に備えており、そういうものを反映した風潮の中で書かれた、そういう作者の気分がそこにしみ込んでおり、そして読者、聴衆、観客も、そういう感覚でもって題材を受け止める事を前提にして作られた作品であるからです。

実のところ、まあ細かいところをよくよく比べてみると、中々複雑な部分は確かにあります。例えば、どっちの方がよりリアリスティックか、という観点から比較する時、「リアリスティック」という言葉の反対語は何かと言えば、「現実的」に対して「理想的」、「具体的」に対して「抽象的」ですよね。リアルでないものはと言えば、より抽象的であり、様式化されている、ということが言えると思います。そういう視点から比較し直してみると、当然、より昔の劇作品の、さらに劇とは言っても今のような演劇空間ではなくって、シェイクスピアの時代ですから、当時のグローブ座と呼ばれた劇場の構造、もっと狭っ苦しい、小さな空間で、そして背景とか小道具の類いもほとんど無い舞台の上で、登場人物の台詞だけを手がかりに周囲の状況などを観客が想像しながら、作品世界のほとんど総てが進行する、そういう形式のもとで上演された“ロミオとジュリエット”が、色んな点でより抽象的であり、様式化されているといえるだろうとは思います。でもだからと言って、総ての部分において“ウエスト・サイド・ストーリー”の方が“ロミオとジュリエット”よりもリアリスティックで下品で俗っぽいかと言うと、全然そんなことは無い。

一つだけ例をあげてみよう。例えば“ウエスト・サイド・ストーリー”はミュージカルです。登場人物みんな踊ってます。踊りながらストーリーを進行させてます。そこではかなり形式的に抽象化され、様式化された箇所が確かにあります。このあたりの実例を昨日ビデオからコンピュータにデータとして取り込んで、今日は持ってきましたので、悪戦苦闘の末ようやく使えるようになったこのAVホールのスクリーンで見てみることにしよう。ジェット団とシャーク団の青年達の戦いの場面がありましたね。

[ジーパンの尻ポケットからi mac を引っぱり出す。次から次へと怪し気なものが出てくる。何かまずいものを引っぱりだして、あわてて引っ込める。黒い煙りが立ちこめ、硫黄の臭いもしている。最後にマウスとキーボードとケーブルを取り出して何か打ち込むと、佐倉セミナーハウス開設4年振りにしてようやくAVホールのスクリーンにコンピュータが接続され、画面に“ウエスト・サイド・ストーリー”のシーンが写し出される。]

トニーとベルナルドの二人がナイフを取り出して、牽制し合っているところ、このあたりはすごくリアルに描写されてますね。戦いの前半はリアリズムそのものです。でもちょっともつれた後、ベルナルドが巴投げでフェンスに叩き付けられて、その後の場面ですが、ほら、二人ともまた踊り始めてます。戦いの場面が踊りで表現されているこのあたりの描き方は、とても様式化されているのです。だから単純に“ロミオとジュリエット”の方がすべてにおいてより様式化されていて抽象的である、とは決して言い切れない。“ウエスト・サイド・ストーリー”にもそれなりに「ミュージカル映画」として様式化されているところがある。実はとっても生々しい、現実的な社会問題である、都市生活におけるヒスパニック系と他のプアホワイトの間の争い、そういう主題をリアルに描きながらも、作品世界のプレゼンテーションの過程で、台詞が歌を歌うことによって語られ、動作が踊りを踊ることによって示される、という一つの完結した技工の支配する、アートの世界にもなっている。おそらくそこの部分がそれなりに面白かったからこの作品は映画として成功した訳でしょう。

表現技工的にはまあこんな事が指摘できるんだけれども…。でもはっきり言って僕は、“ウエスト・サイド・ストーリー”、このセミナーの全体課題だから、学科長の植松先生が強権発動して嫌でも読んできなさいと言うから、[思わず気色ばんで、]仕方なく読んできましたが、自宅にテキストまで郵送されてきてしまったから、夏休みになって渋々読んでみましたが、[思い出したくもない、という顔をして、]まあ、読めなかったですね。台詞が短すぎるんだもん。せめてシェイクスピアみたいにじっくりと、韻を踏んだり文化や歴史に対するアリュージョンをちりばめながら、ふんだんに言葉の遊びを盛り込んで、色んな点で読んで、考えて、ほくそ笑んで楽しめる工夫をして書いててくれると、まだシナリオも面白く読めるのですが。[ため息をつく。]“ウエスト・サイド・ストーリー”に出てくる台詞といえば、「ぎゃー」とか「あー」とか「うー」とか「わー」とか、こんなのばっかりで、[吐き捨てるように。]うーん読めなかった。辛かった。本当に苦痛でした。でも、自宅でシナリオを読んだ時には実に退屈でつまんないのですが、それを今日のように映画という形で、音楽のメロディーにのせて、踊りとカメラ・ワークで見せてくれると、それはそれで、我慢できる部分もある。でも、[声を強めて、]やはりそこは、僕は文学の先生ですから、[我に返る。]特に自分の専門に研究している、ファンタシー文学に関わる門題意識という点から作品の主題と特性を見てみると、“ウエスト・サイド・ストーリー”は本当につまらない、見るべきところはなんにもない、言うべきところもなんにもない、なんにも言いたく無い、もう帰ってしまいたい、全く。

[本当に帰りそうになる。助手A、助手Bが両脇を抱えてあわてて連れ戻す。助手A、この機会をすかさず利用して黒田先生のこめかみに肘打ちを入れる。照明が落ち、打撃音と擦過音が響く。]

[黒田先生、顔をしかめながら、何故か足も引きずっている。]でもなにか語れというから、仕方ない、今日はこういうテーマを選びましたが、じゃあそれについて“ロミオとジュリエット”は、この劇の脚本の内容と作品に描かれた主題そのものに関して、あの“ウエスト・サイド・ストーリー”とは異なった、何か言うべき何ものかが、あるのか、というと、はい、はっきり言います。やっぱりなーんも、無かった。両方どちらの作品もなーんも僕の興味を惹く部分が無いってところが、すなわちこれらがモダン、現代的であるということなのです。

現代ってのはそういう時代です。シェイクスピアの“ロミオとジュリエット”ってのは典型的に現代のそういう思想的特徴を反映している。具体的に言うと、何が無いかというと、神がいない。原理がない。そういう人々の世界を描いた作品です。生きることの意味とか、世界全体が存在することの奥深い意義とか、自分達の生と、自然があり空があり大地があることの繋がりに対する確信と、その秘密を自らの手で解き明かしていくんだ、といった自覚や生き甲斐にあたるものが全く無い。だから愛だの恋だのという人間同士の間のしみったれた関係が作品の題材として用いられることになる訳です。世界と自分自身の間に本当に緊迫して充実した関係性を実感して生きていられれば、他者との空疎な関係性に執着を感じたり、お手軽な慰撫を見い出したりする必要などある筈が無いですね。

これは今の君達自身についても言えることです。例えば、君達には今なぜ自分はこんな佐倉なんて場所に来てなきゃいけないのか。なんでこんな薄暗いところに寄せ集められて、こんな退屈な授業なんて受けてなきゃいけないのか、という自問すべき大変重大な問題がある筈です。それに対する答えが、ただ、カリキュラムがそうなっているから、単位を取る必要があるから、だったりするのはどういう事だろう。もしも自分の現在行いつつある行動に対してそういう類いの理由なり目的意識しか抱けないとすれば、これははあからさまに20世紀的な、そして現代的な、人々が共通して信ずべき根本的なものを失った虚無主義のあらわれです。これが現代という時代の特徴です。今、若者達が授業をさぼって、宿題をほったらかして、行うべき切迫した重要事などなんにも無い筈だ、と教師どもは何故か確信を持っているので、「今はとにかく勉強しておきなさい。」としゃあしゃあと言う訳です。彼等は人間にはお勉強して社会の中で自分の商品価値を少しばかり高めようと努力すること以上に大切な責務など、どこを探しても見つかる筈が無いんだ、という厳格な事実を侘びしくも悟ってしまっているのです。世界認識の基盤にあるこういう感覚が「モダン」という時代の特徴です。けれども、この世界の存在すること自体に、自分自身が心の中で直面すべき、生き方の根本に深く関わる神秘的な意味なんてものは結局ありはしなかったんだ、という悲しくも絶望的な認識は、もうすでに実は、人々の心の底に目覚めてから久しいのです。

おそらくキリスト教の支配していた中世の頃までは、宗教的な感覚を通して人々は崇高な何かを信じていられたのかもしれない。つまりモダン以前の時代に生きる人々にとっては、神話の中に描かれているような気高い、厳かな超歴史的事実と自分自身の生きる日常性の間に断絶が無かったのです。日常空間に聖なるものと邪悪なるものとがそれぞれ当然のごとく混在していたのです。ところがシェイクスピアが“ロミオとジュリエット”を書いた時代は、そんな自己と世界の関係性に対する敬虔で真摯な、そして切羽詰まった認識そのものが、もう成り立たなくなってしまっていた。自分自身が宇宙の中でより高い次元へと向上するべき存在であることを信じ、そのためにのみ真剣に努力を重ねて生きていこうとする、そういう気持ちを保障してくれるためのいかなる尺度も失われてしまった。世界が根こそぎひっくり返された、桶のたがが外されたように世界の中心が無くなって、何もかもがばらばらにほどけてしまった、とシェイクスピアの同時代人達は嘆いていました。そんな人々の苛立たしい精神状況をそのまま描いたのがこの“ロミオとジュリエット”です。ロミオや彼の友人達、登場人物の一人一人のやけっぱちな台詞と行動にそんな気持ちが反映してます。

じゃあこの劇は、そんな登場人物達が一体何を行っている様を描いているのか、というと、遠慮無く言ってしまいます。ただのバカ青年がバカ少女と出会って、意味無く恋して、そそっかしく結婚して。あの僧のロレンスもバカだよね。[吐き捨てるように、]なんであんな若者達に頼まれて、あわてて内緒で彼等を結婚などさせてやる訳?[非難がましく、]その後で親達が他の人と結婚させる、とか言い出して、困ってしまう訳でしょ。それでその後何があったかっていうと、薬を飲ませてジュリエットを仮死状態にしてやる。埋葬した振りをして後でロミオに会わせてやろうとする訳だ。ところが、なーんの意味も無い偶然でもって、ロミオのところに送った、事の次第を説明した手紙をロミオが読まなかったということになる。ロミオはジュリエットが本当に死んじゃってると思って、絶望して毒を飲んで死んじゃう。意味の無い偶然の積み重なりで、意味無く絶望して主人公が死んでしまう。主人公が無意味な死をとげて作品世界は幕を閉じる。所詮この世界ってのはそんなものでしかない。我々人間は悲しい存在で、小さなことで喜んだり悲しんだり、希望を持ったり絶望したりしているけれども、そのきっかけとなるものは、すべてただの偶然でしかない。生にも死にも根源的な深い意味なんて全然無い。これが当時の、そして現代の我々の抱いている痛切な現実認識です。

“ロミオとジュリエット”、あれは一般に悲劇として受け取られてますが、改めて別な角度から見直してみよう。ロミオがジュリエットと出会う前は、彼はロザラインとかいう別の女の子のことをいいな、いいな、とか言ってましたよね。それがあっという間にジュリエットに一目惚れ?[あきれたように、]あの二人がお互いを愛し合うという必然性、その意義。やっぱりなんにもないのね。別にジュリエットでなくても、[名前を思い出せなくてしばらく考え込む。1分程して、]深キョンでも鈴木あみでもなんでもよかった訳ですよ。ジュリエットの後に[また1分半程考え込んで、]松島菜々子を見たら松島菜々子がいいって言い出すのが、あのロミオですよ。そんな軽はずみな連中の意味の無い馬鹿騒ぎと、意味の無い死ってものを描いてみせた。こういう虚無的な内容が描かれているのが“ロミオとジュリエット”という陰惨な喜劇だった訳ですよ。むしろそういう意味では、ちょっと甘ったるい、不思議な予感と希望を感じさせる “Something's Coming” なんて一見神秘的なものの存在を暗示するかのような歌をトニーに歌わせている“ウエストサイド・ストーリー”よりも、実はそういった、いかなる恩寵も奇跡も我々を待っていてくれることは無い、信ずべきいかなる価値観も失われてしまったんだよな、という深い絶望感を、やけっぱちにそのままさらけだしている、という意味において、考えようによっては、“ロミオとジュリエット”の方が気分的により現代的である、と言っていいかもしれません。もう既にそういう時代は遠い以前から始まっていた。君たちは自分達は現代人だと思ってて、100年前、200年前、さらにシェイクスピアの時代の400年前の時代は、もっとずっと古い、古代あるいは中世などと呼ばれるような別な時代に近いものだと思っていたかもしれないけど、実は世界認識のあり方において今につながる「現代」という時代は、はるかに早くから我々のこの世界で始まっていたんですよ。ということをたった20分のこの講議の時間でまず言っておきかった。だからこういう映画に対してこういう課題を選んでみた、という訳です。

35分まででしたよね、後3分あります。ではおまけ。[以後早口になる。]ですからね、“ロミオとジュリエット”をちゃんと読んだことの無い人は、これが美少年と美少女の織り成す美しい愛の物語りとか勝手に思い込んでいるかもしれないけれども、実際に原作をテキストに忠実に読んでみたら、意味なくちらほら目移りばかりしているバカ青年が愚かなバカ少女と出会って、軽はずみに意味の無い死を選んでしまった、という興醒めな経緯がそっけなく描かれた、とすれば悲劇じゃ無くて喜劇になっちゃうのですが、さらには完結した悲劇や喜劇などという全体像を完成させることさえも無い、無意味な生を無意味な人間達が送ってる有り様を、下らないばかりのあるがままの現実そのものとして後味悪く薄気味悪く切り取って描いてみせた、無気味な作品だ、と言って言えないこともない。これがリアリズムと呼ばれるものが結果的に行き着くところです。

エリザベス女王の治世の時に、イギリスが商業的にも文化的にも発展して栄えたその中で、シェイクスピアという大天才が現れて様々な素晴らしい劇を書いた、と言われるけれども、そのエリザベス朝のきらびやかな繁栄のわずか後に来るのが、ジェイムズ一世の時代、ジャコビアン朝です。この頃は当時の文化の衰退の様相を反映して、陰惨な暗殺や犯罪などを題材にした“ジャコビアン・トラジェディ”と呼ばれる暗く病的な内容の演劇が流行したと言われています。その代表的な劇作家として知られるのがウェブスターやターナーなどですが、シェイクスピアと彼等の間に年代的な差はほとんどありません。シェイクスピアの諸作品の中でこの“ロミオとジュリエット”は、他のいくつかのシェイクスピア劇と並んで、後に続くジャコビアン・トラジェディの陰惨な雰囲気を色濃く宿しているものの一つです。書き上げた作品のみならず、作者のシェイクスピア自身が一人の人間としてこのような自分を取り巻く世界そのものとの間の不和に苦しみ、そして後には彼なりの和解を模索し、その結果がまた劇作品の中にあるがままに反映されていたりもしているのは良く知られた事実です。

結論です。改めて最初にお話しておいた課題に戻ります。“ロミオとジュリエット”も“ウエスト・サイド・ストーリー”も紛れも無く“モダン”な作品である、むしろ“ロミオとジュリエット”の方が年代的には古い作品であるにもかかわらず、内容的にはより“モダン”な特徴の強い部分さえもある、と今言いました。それでは“ウエスト・サイド・ストーリー”と“ロミオとジュリエット”の間に、これまで共通項として指摘してきたような「現代的特徴」以外に、時代的な変化を示す“相違点”に当たるものは全く無いのだろうか、ということです。実はその違いもまた確かにあります。それを指摘するのがこの講座の最終的な目的でした。そこが我々20世紀人が改めて自分自身と自分達の生きる世界を知る上でむしろ重要な事だと思うからです。“ウエスト・サイド・ストーリー”にあって“ロミオとジュリエット”には見つからないある傾向、それは「俗悪さ」(vulgarity)です。これは先程モダンという概念を判別する要素として問題にした「俗性」と一見似てはいるけれど、実は今の我々の時代精神においてより顕著な、さらに新しい独特な風潮なのです。 “vulgar”(俗)という言葉は、本来は神や宗教的敬虔さの側に属する「聖性」に対して、そうでない一般の世間的なものを分別して指す言葉として用いられてきました。神に仕える聖職者の世界に対して一般人の世界が「俗界」と呼ばれた訳です。ところが聖性そのものが完全に失われたところにその対立概念である「俗性」だけが存在することはできません。“ロミオとジュリエット”に見たような信仰喪失の結果、尊ぶべき理念や拠り所となる原理のすべてが破綻した後の「俗世間」そのもの、つまり人々の一般常識の世界は長い「現代」の時代を下るうちにさらに堕落を重ね、特有のある風潮を生み出すに至りました。それが現在の「俗悪」と呼ばれる、1920年代以降のアメリカ大衆文化が生み出し、その圧倒的な侵食力によって今は全世界を席巻する程強大なものとなっているものです。現在の日本で「文部省教育」的傾向として、人々の心を腐敗させているのもその正体は実はこれです。

この「俗悪さ」が見事に表れているのが、先ほどの“ウエスト・サイド・ストーリー”の中でトニーが歌う、“Something's Coming”という歌の部分です。つまり愛の神秘が奇跡を起こすという原理の存在に対する確信も、そのような超越的な真実に対する信仰も抱いていないくせに、陳腐なレトリックとして愛が神格化され、薄っぺらな神秘がお手軽に啓示の代替物としてその場しのぎの感動の種として用いられるようになった、という展開に見られる作者と観客双方の無責任さの中に、顕著に「俗悪」の原型を読み取ることができるのです。

同様の構図で、ろくに文学作品を読んだことも、真実の感動を経験したことも無い連中が“ロミオとジュリエット”は「古典的な格調高い名作である」などともっともらしく言ってもてはやしたりする訳ですし、同じ無責任さで「愛」が現象世界の限界を越えて人の心を救済に導く超越的原理の存在など信じている筈もない教師どもが、愛の貴さや友情の大切さなどをしたり顔で語ったりもする。そんな風潮がいつのまにか当然のごとく主流を占めるようになってしまったから、伝統や礼儀作法や品格などに対するこれっぽっちの尊敬の念も持たないくせに、訛りを矯正しただけで主人公のバカ娘が淑女として成り上がる様が快哉をもって描かれる“マイ・フェア・レイディ”などという俗悪なドラマが恥ずかし気も無く作られ、惚けたように観られたりもする訳です。無知と無責任と欺瞞が大手を振ってまかり通り、教師も学生も本当は信じてもいない綺麗ごとの質問とおざなりのお答えをお約束の通りに交わし合うようになり、あげくの果てに空々しい「文化へのいざない」などという謳い文句で、折角の夏休みを潰して「佐倉セミナー」なんてものが開かれたりするようになっちゃったんでした。

[満場の喝采の中でもなく、非難と怒号の中でもなく、安らかな寝息の中を黒田先生急ぎ足で退場。]


戻る