Labyrinth Alice books 

 映画“ラビリンス”を観て、パロディとファンタシーについて考える 



Labyrinth、1986年、アメリカ
監督:ジム・ヘンソン(Jim Henson)
製作総指揮:ジョージ・ルーカス(George Lucas)
配役:
 ジャレス(Jareth):デイビッド・ボウィ(David Bowie)
 セアラ(Sarah): ジェニファー・コネリー(Jennifer Connelly)


 映画「ラビリンス」と、Alice Books*「アリス物語」が実は同じものだと言ったら、君達は驚くでしょうか。文学作品と映画は全く異なる表現手段を用いて構築した別の存在物ですから、文学作品を原作とした映画は、もとの文学作品とは同じものではない、と考えなくてはならないのは、当然のことです。

*(Alice’s Adventures in Wonderland「不思議の国のアリス」と、Through the Looking-Glass「鏡の国のアリス」の両作品を指してAlice Booksと呼びます。)

 でも、場合によっては、上と同様の意味で、その内容の本質をとらえて、文学作品と映画が根本的に同じものだ、ということも場合によってはできるのです。あるいは、良い意味でのパロディである、と言い換えてもさしつかえないかもしれません。
 「ラビリンス」の中では、オックスフォード大学の論理学の教授であったCharles Lutwidge DodgsonことLewis Carroll のお好みの、「嘘つきのクレタ人のパラドックス」(Cretan Liar)という論理学の問題が応用されています。
 さらわれた赤ちゃんを取り戻すためにゴブリン・キングのお城をめざす Sarah の前に、二つのドアが立ち塞がる場面があります。一つのドアはゴブリン・キングのお城に続いているのですが、もう一つのドアは “the Certain Death”(避けようのない死)へと続いているというのです。そして口をきくこのドア達の一方は必ず嘘を語り、一方は必ず真実を語るという決まりがあります。Sarah はただ一回きりだけ、どちらかのドアに質問をして、無事にゴブリン・キングのお城にたどり着かなければなりません。Sarahの迷い込んだこの夢の世界では、何故かこのようrule(規則) があふれています。しばらく考えたSarah は、そこで一方のドアに対してこのような質問を行うのでした。

“Answer ‘yes’ or ‘no’, Would he [the other door] tell me that this door leads to the castle?”
(「『はい』か『いいえ』のどちらかだけで答えてちょうだい。あちらのドアは、このドアがお城に行けるドアだと言いますか?」)

これに対する door の答えは “Yes.” でした。そこで Sarah は、

“Then, the other door leads to the castle、 and this door leads to the ‘Certain Death’.”
(「それではあちらのドアがお城に行けるドアで、こちらのドアが“避けようのない死”へ続くドアね。」)

と、正解を見つけてこの窮地を切り抜けることができるのです。
 どうしてそういうことになるのか分かりますか?論理学的には、このようなときには「場合」で分けて、仮定を用いて考えます。
 すなわち、もしも Sarah が質問をした方のドアが真実を語る方のドアであったとすると、彼の“Yes”は真実ですから、the other door が、「this door leads to the castle」と言うというのは確かにその通りですが、その語る言葉は嘘のはずですから、本当は、お城に通じているのは the other door のはずだということになります。
 また、もしも Sarah が質問をした方のドアが、嘘ばかり語る方のドアであったとすると、彼の“Yes”は嘘ですから、the other door が、「this door leads to the castle」と言う、と彼がいうのは嘘で、the other door は、「このドアはお城に通じている」、とは言うはずはありません。ところでこの場合 the other door の方は真実を語るドアのはずですから、逆に彼が言うであろう「このドアはお城には通じていない。」という言葉はきっと正しいものとなります。従ってお城に通じているのはやはり先程と同じく、the other door の方のはずだ、ということが分かります。
 結局のところ、この場面では、嘘つきのクレタ人は、決して「私は嘘をつく。」なんて言うことがない、という原理が応用されている訳です。それではこの応用で、どちらのドアが嘘ばかり語る方のドアで、どちらのドアが常に真実を語る方のドアかを知るためには、どのような質問をしたらよいのでしょうか、ちょっと考えてみて下さい。ヒントはもちろん、このドア達は自分達自身のことを語る時には制約を受けている、ということです。
 この場面に象徴的なように、「ラビリンス」という映画は、実に巧妙に Alice books の作品世界の特徴を捉えて模倣してみせた、パロディとなっているのです。質の高いパロディとは、もとの作品の上っ面の物まねなどに終始するのではなく、原型の本質そのものを見事にとらえ、新たな表現を工夫してそれを語り直すものです。小説や漫画を原作にした映画で、出来の良いものにはめったにお目にかかることができないものですが、この「ラビリンス」には、Alice books を思い出しながら観ると、なるほど、とついうなづいてしまうようなところがあります。我々は「ラビリンス」のストーリーを追うことによって、Alice books のお話を再び新鮮にたどり直すことができるのです。
 「ラビリンス」の主人公 Sarah は、ロマンスの世界に夢中です。彼女が魔法の物語の本を手に、愛犬の Merlin とともに、邪悪なゴブリンを打ち負かす魔法の呪文を覚える練習をしているところから、この映画ははじまります。
 (ちなみにMerlin というのは、Arthur 王伝説に登場する、 Arthur 王を助けて活躍した魔法使いの名前でした。)
 Sarah のお母さんはまま母で、お父さんと二人でお出掛けして、Sarah には赤ちゃんの Toby のお守りをいいつけるのです。Sarah はどうしてもこのお母さんが好きになれませんが、お父さんはいつもお母さんの味方です。
 お母さんは Sarah に、“You should be having dates.” (「本ばかり読んでいないで、男の子達とお付き合いしなさい。」)なんて意地の悪いことを言うのです。けれども魔法と夢に満ちた子供の世界から出ていきたくない Sarahは、boy friends なんて欲しくはありません。ところが赤ちゃんの Toby はいたずらをして、Sarah の大事にしているぬいぐるみの Lancelot を放り投げてしまっていました。(Lancelot というのも、Arthur 王伝説に登場する重要な登場人物の一人でした。Sarah の Lancelot はなんだか Winnie the Pooh に良く似ています。)
 思わず腹を立てた Sarah は、先程まで読みふけっていた本の中身と同様に、「かわいそうな少女はゴブリンに助けを求めます。」そして自分でも気付かぬ内に、本当にゴブリンを呼び出してしまう呪文の言葉を口にしてしまうのです。彼女の唱えた呪文の文句はこんなのでした。

“I wish the goblin would come and take you away, right now.”
(「あなたなんか、今すぐゴブリンがやってきて、さらっていってしまえばいいのよ。」)

 そして彼女の言葉通りに現れたゴブリン・キングは、実際に赤ちゃんを連れ去ってしまい、13時間の内に赤ちゃんを連れ戻さないと、赤ちゃんは永遠にゴブリンの仲間になってしまうことを Sarah に告げます。こうして Sarah は Labyrinth (迷路)の中を通り抜け、ゴブリン・シティの向こう側にあるゴブリン・キングの城を目指す旅を始めなければならなくなるのですが、何故か立ち去る前にゴブリン・キングは、彼女に “Play with toys and costumes.” (「いつも夢の世界でお人形達と遊んでいるんだよ。」)と気になる警告を発するのでした。
 このようにして、この夢と魔法の不思議な冒険の世界は始まるのですが、実はこの出来事はすべてSarah の望んだ、願望の世界でもあったのです。その証拠に、オープニングの場面で良くSarah の部屋の中をながめてみると、のちほどLabyrinth の中に登場するはずの妖精達や、風景などが、Sarah の持ち物の絵やミニチュアの形でちゃんとうかがうことができます。(このあたりが映画における表現の面白味です。再生して確認しておきましょう。)
 迷路の中に入ったSarah がまず出会うのはへんてこな cockney*

(London の下町のなまりです。 “h”の音を省略する、“エイ”が“アイ”に変わる、などの特徴があります。)

をしゃべる毛虫です。彼は Sarah に“’allo” (アロー=Hello)と声をかけたり、

“Things are not what they seem in this plyce (プライス=place).”
(「ここでは、物事は目に見える通りの姿ではないんだよ。」)

と教えてくれたり、“Don’t go that wy (ワイ=way)!” (「あっちにいっちゃ、だめだ!」)と注意してくれたりします。この Labyrinth の世界は Alice が迷いこんだ不思議の国や、鏡の国と同じく、現実の世界の規則が奇妙な法則に従って巧みにねじ曲げられた異次元世界なのです。  Sarah が次に出あった Hoggle という名の dwarf(小人)は、Sarah に、“Hogwort”(ブタクサ。ハリー・ポッターの魔法の学院の“Hogwarts”とは違う。)と間違って呼ばれたり、後にはゴブリン・キングの Jareth に、“Hedgehog”(ヤマアラシ) だの、“Higgle” だの、“Hogpin” (ブタピン)だのと、好き勝手な名前で呼ばれてさんざんです。名前も結局は言葉を発するものの勝手な主観に従ってその意味を保持するだけであることを示すこのあたりも、「アリス」に出てきた、ハンプティ・ダンプティが語っていた、事物の実際に意味するものと、その事物の名前との乖離(かいり=ずれ)についての難解な議論を思い起こしてみると、なかなか興味深いものがあります。
 Hoggle とともに Sarah が次に迷い込んだのは “Oubliet” (忘却郷)とかいう名の不思議な場所ですが、ここではその名の通り、人はこれまでのことをすべて忘れて、自分が誰だかさえも分からなくなってしまうのです。そこは悩みや気掛かりが消え去った不思議に甘美な安らぎを与える世界です。これもなんだか Alice が迷い込んだ「名無しの森」を思い起こさせます。  ここから抜け出るために Hoggle が開けてくれたドアというのが、右に開ければただの壁しかないけれど、左に開ければ外の世界が開けるという、不思議なドアです。Annotated Alice というアリスのお話の注釈書を書いたMartin Gardener の付け加えた説明によると、化学の世界では多糖類の構造には、右回りの構造を持った dextrose と呼ばれるものと、左回りの構造を持った、sinistrose と呼ばれる二種類があることが知られています。これらにはただの右向きと左向きという組成の違いがあるだけなのですが、部分的に対称的な性質を持ってはいるけれども明らかに異なった二種類の別の物質なのです。同様の原理で、この世界を形作っている通常の物質とは全く対称的な「反物質」というものもがどこかに存在するらしいということです。物理学や数学の示す、物質の構成要素の持っている基本的な構造性の違いから、世界の根本原理を読み解く不思議なヒントが作品の中にさりげなく隠されているところなども、「アリス」の世界にとても良く似ています。


  dexter (右)は “dexterous”という形容詞形になれば、「器用な」という意味になりますが、“sinister”(左)は、「無気味な」、「空恐ろしい」といった意味合いの、良く無い印象の言葉です。けれども一般の常識を反転させれば、これらの対照物の示す価値基準も逆転することとなります。例えばWalter de la Mare の書いたいくつかの作品世界においては、太陽のめぐる方向である右回りの向きに対して反対の向きを示す、“widdershins”という言葉が、常識や理性という陽の当たる表の世界の裏側の世界に潜む影の論理や隠れた存在物達を暗示していて、大変興味深いものがありました。このように、太陽神Apollo に代表される西洋文明における陽の世界に対する、夜の世界、night side の伝統というものも確かに存在し、たとえば George MacDonaldや Charles Williams などといった人々が、理性の裏側にある世界のもう一方の解釈の在り方をロマン主義的な思考で語ってきたのでありました。
  MacDonald の “Carasoyn” や、“The Day Boy and the Night Girl” などの fairytale(お伽話。現代のファンタシーの草分けとなった。)には、このようなロマン主義的な思想的理念が、やさしいたとえ話しの形で見事に物語られていたのでした。

 このような鏡面的逆転の発想は以後もこの作品を支配し続け、次に登場する、頭にしゃべる帽子をかぶった Wiseman(賢人)は、Sarah に

“The way forward is sometimes the way back...”
(前に進むには、しばしば後戻りする必要がある。)

などと語るのです。
 次に Sarah が出会ったのは、やはり「アリス」に出てくる双子の Tweeldle-dum とTweedle-dee のように対の存在である Door Knockers ですが、一方が dumb(唖)であり、一方が deaf(聾)であったりと対照的なのも、なんだか「アリス」の世界を支配していた奇妙な規則性を思わせます。
 Alice が通り抜けるのが常識の世界の意味の全てが見事に破壊された nonsense (ナンセンス、無意味)の世界であったのに対して、Sarah が通り抜けるのは目的地へと向かうはずの行程が複雑に絡まり、前後の関係が混乱してしまう迷宮(ラビリンス)の世界である訳ですが、我々も生まれた時にはいつの間にか自分が放り込まれてしまっていることに気付いた、この 現実(reality)というラビリンスを本当に通り抜けて、本来の目的地にたどり着くことができるのでありましょうか?
(むしろ、永遠にラビリンスとナンセンスの世界でどうどうめぐりをしている方がいいような気も時にはしてしまうのですが。)
 そういえば、同様の Cretan Liar 的論理を用いて、Peter S. Beagle の The Last Unicorn (『最後のユニコーン』)では、作中人物が、「我々は “story” の中の存在である。」と語ることによって、お話を読み進めているはずの読み手の我々の現実世界をも物語世界に取り込んでしまう、迷宮的(labyrinthian) 構図が採用されていたのでした。*

 *
  Michael Ende (ミヒャエル・エンデ)の Never Ending Story (「ネバー・エンディング・ストーリー」)では同様の図式で、少年が読みつつある物語が、読み手の少年が作中へ飛び込んでくれることを呼び掛けるのでありました。

 さらに一般論としてこの発想を当てはめてみれば、我々が本で読んだり、映画で観たりする story は、すべてこれは fiction (嘘)なのだ、という前置きのもとに受け取られている訳ですから、ここにも実はCretan Liar のパラドックスは存在しています。このように我々は物語世界の中で遊ぶ時には、器用にも“willing suspension of disbelief” (自発的な不信の念の一時的な停止)と、 “willing suspension of belief” (確信の一時的な保留)の間の往復運動を巧みに自らの意識に行わせているのです。
 「ラビリンス」に戻って、次に Sarah が出会うのは、自分の頭や手足を自由にとりはずして遊ぶことのできる、薄気味の悪い Fire Gangs ですが、あまりの悪ふざけに怒って彼らの頭を引っこ抜いてしまった Sarah に、彼らは「他人の頭を投げるのは、rule(決まり)ではない。」と叫んで抗議するのです。rule と言えば、Martin Gardener の注釈を見ても良く分かるように、「アリス」の世界は決して思い付きだけのいいかげんなナンセンスで書かれているのではなく、周到な “other sense”(もう一つの規則)の rule のもとにきっちりと裏づけされた世界でありました。「アリス」の物語のモチーフとなっているトランプやチェスのゲームの世界のように、あるいは前提のはっきりと定められた数学や論理学のように、Carroll はことの外 rule(規則性) が好きだったのでした。確かにこれらに比べれば、我々の life(現実世界)を実際に支配している rule(決まり)は、しばしばうんざりする程いいかげんなものです。
 Fire Gangs から追われる Sarah を助けてくれた Hoggle に、思わず喜んでキスをしてしまった Sarah は、Jareth の定めていたcurse(呪い)のおかげで、Hoggle とともに、とうとう Eternal Stench(永久にとれない悪臭)の沼辺に落とされてしまいます。
 ここで出会った、犬を馬代わりに乗りこなす勇敢な犬の騎士(?)Sir Didymus*は、この沼の悪臭に全然気がつかない、鈍感な鼻の持ち主ですが、彼の愛馬(愛犬?)の名が Ambrosius (かぐわしきもの)というのは皮肉です。

 *
 この、常に恐れることを知らない騎士は、なんだか C. S. Lewis のNarnia Stories(「ナルニア物語」) の The Voyage of the Dawn Treader (「朝ぼらけ号の航海」)に登場する、勇敢なリスの騎士の Reepicheep を思わせます。なかなか周到なパロディぶりであります。

 Sir Didymus はロマンスの騎士らしく、“oath” (誓願)をたてていて、

“I have sworn with my life, that no one shall pass this way without my permission.” (「いかなる者であろうと、拙者の許可なくしてこの道を通すことは決して許さぬ、と命を賭けて誓い申した。」)

と言って、Sarah 達をどうしても通してくれようとしないのです。けれどもSarah が、

“Then, may we have your permission?”
「では、お願いですからこの道を通して下さい。」

と素直に頼んでみると、いさぎよく permission を与えてくれたりするのは、いかにも論理的です。こんなナンセンスはいかにも確かなrule(法則)とあくまでも厳密な論理にこだわる Carroll 好みのものです。
 難関をくぐりぬけて Labyrinth を突破し、ゴブリン・シティに近付いてくるSarah 達を邪魔しようとする Jareth は、Hoggle に命じて Sarah にこれまでのすべてを忘れて、眠りの世界に陥らせる、worm(芋虫)の入ったpeach を食べさせてしまいます。そして Jareth は Sarah に甘美な夢を送るのです。近世イタリアのヴェネティアに退廃的な文化が熟した頃の、目くるめくような舞踏会の夢の中で、一瞬 Jareth の計略にはまりかけた Sarah も、ふっと我にかえり、その夢の世界を打ちこわしてしまいます。こわされて飛散する夢の世界は、実は鏡の中の幻の世界でもあったのでした。
 しかしまだ Jareth の魔法は完全には解けていません。junk(ガラクタ)の山の中で我に帰った Sarah の前に、今度は、ガラクタのおもちゃを一杯かかえた Junk Ladyが登場します。彼女は Sarah に大事な Lancelot のぬいぐるみをくれ、さらに次から次へと Sarah の childhood(幼年期)の宝物であった “bunny”や、“Betsy Boo” や “Panda slippers” や “little horsey” や “Propsy”や “Charlie Bear” などのぬいぐるみ達を差し出します。気がつくと Sarah はいつのまにかもとの彼女の部屋に戻っているのでした。Sarah は、これまでのことはみんな夢だったのかと思ってしまいます。しかし先程の舞踏会の夢の場合と同じように、我に帰った Sarah は、彼女の nursery (子供部屋)である、この Junk Room を思いきって打ち壊してしまいます。「夢のまた夢」という「アリス」のテーマが見事にここでは再生されていました。
 いよいよゴブリン・シティに突入した Sarah 達はゴブリン達と戦いを繰り広げますが、ここでゴブリン達に取り囲まれた Sir Didymus が、逆に、 “I have surrounded the enemy.”(「敵は包囲した。」)と言ったり、周囲から槍を突き付けられて絶体絶命の有り様で、

“Throw down your weapons, and I’ll see to that you'll be well treated.”
(「武器を捨てよ。潔く降伏すれば、命は取らぬ。」)

などと事もなげに言ったりするのは、見事な鏡面的逆転論理になっています。
確かに、囲碁の世界においても、隅の一目を囲ったという状態は、引っくり返してみれば、同時に盤面の他のすべてを囲ったのと同じこととも解釈できる訳です。この逆転の論理でいけば、広大な世界の中に散らばる我々の一人一人が、我が手の中に世界をにぎりしめてもいる訳です。
 Sarah の友達になった巨大な、石を操る怪物 Ludo の働きのお陰でゴブリンの兵隊達を退散させ、Goblin Castle に入城した Sarah は、何故かここで、彼女を助けてここまでついてきた友人達に、 “I must go alone.” (「ここからは私は一人で行かなくちゃ。」)と言って、単独で Jareth に立ち向かうために階段を登っていきます。なぜなら Jareth というこの冒険の相手は、本当はSarah 自身の心の中の問題であったからなのでした。
 Sarah の前で Jareth が歌うように、この事件はすべて Sarah の無意識の願望が引き起こした冒険だったのです。Jareth が

“Everything that you wanted, I have done,...I have reordered time, I have turned the world upside down,... and I’ve done it all for you.”
(「お前の望むことはすべて叶えてやったのに。時の流れを変化させ、世界を逆さまに引っくり返し…みんなお前のためにしてやったことなのに。」

と語るのは紛れもない真実だったのです。
 最後の条件として Sarahに、

“Look! what I'm offering you, your dreams,...just let me rule you, and you can have everything that you want...”
(「見なさい。これをあげよう。お前の夢だ。私の力を受け入れさえすれば、望むもののすべてを与えてやろう。」)

と申し出る Jarethですが、これを拒絶して、Sarahがこれまでどうしても覚えることのできなかった、ゴブリン・キングを打ち負かす呪文

 “You have no power over me.”
(あなたには私を動かす力はありません。)

を思い出した Sarah はこうして心の成長をとげ、自分の力で赤ちゃんを取り戻し、成長した大人として赤ちゃんとお母さんとの和解を成し遂げた証拠に、彼女のLancelot を赤ちゃんにあげるのです。
 しかし物語はここで終わる訳ではありません。両親が帰宅した後、自分の部屋に戻った Sarah の前に、また先程のゴブリン達や、友達になった妖精達が現れ、これで永遠にお別れなのか、と心配そうにSarah に問いかけます。けれども、立派に本当の心の成長を遂げたSarah は、

“Every now and again in my life, ...I need you, all of you!”
(「これからいつも、私の生涯のうちで、あなた達はみんなかけがえの無い友達よ。」)

と、彼らを決して見捨てはしないことを告げ、ゴブリン達と Sarah の愉快なダンス・パーティの場面でこの映画は幕を閉じるのです。Sarah はどうしても避けて通ることのできないはずの大人の世界を受け入れるとともに、彼女の心の奥底の大切な「子供の世界」も失うことはなかったのです。*

 *
 そういえばGeorge MacDonald は、この「子供の世界」を惜し気もなく捨てて、自分のことを立派な大人になった、と思い込んでいるあさはかな人々のことを、彼のエッセイ“The Fantastic Imagination” においては、「自分のことを“giant” になったと愚かにも信じ込んでいる “dwarf”」と呼んでいたのでありました。

 これこそ「アリス」のお話をお気に入りの少女のために描いたLewis Carroll が、心の底で彼の child friend 達すべてに対して望んでいたことであり、またロマン主義における「夢と現実の和解」という美しい理想でもあります。そして、「可能態」としての芸術の存在意義に思いを託し、「現実(life)が芸術(art)を模倣する」、という美しい夢を “The Decay of Lying” においてパラドックスとして語った、 Oscar Wilde の本心の叫びでもあったはずです。
 このようなSarahの心の成長を見事に語ってくれていたのが、彼女の “It’s not fair!” (こんなの嫌よ。こんなのおかしい。)という口癖でした。いつも自分の気に入らないことがあると“It’s not fair!” とお母さん達に叫んでいた Sarah でしたが、ラビリンスにおける冒険の途中で、彼女は Hoggle から無理矢理力づくで宝物の腕輪をとりあげ、Hoggle から逆に “It’s not fair!” (「ひどいじゃないか。」)と言われてしまいます。その時は、“No, it’s not fair.” (「いいじゃない。」)などと憎らしげに Sarah は言い返していたのでした。けれども実は彼女のこのセリフは、Sarah が他者の視点から自分自身を見ることを知り、主観にとらわれることなく物事のあるがままの姿を理解する大人の自分をみつけ出すきっかけだったのです。
 この一言にこの映画における心の成長というテーマが凝縮されていたのでした。つまり Sarah にとっての “fair” (公正)であることとは、世界全体が無条件に自分を甘やかしてくれることでしかなかったのですが、Sarah は Hoggle に対して “No, it’s not fair.”と乱暴に語ってしまったことにより、自分自身の暴力的な行為を強引に押し付けてしまったことを自覚したのをきっかけにして、どうしようもなく存在する世界の“unfairness” (理不尽さ)を一つの事実としてありのままに受け入れることを知るようになるのです。
(こんな風に、世の中には公平なことなんてありはしないのだ、と納得してしまうのが一般の大人の考え方というもののようです。)Sarah は、fair じゃないのは自分の気持ちを分かってくれない大人達ばかりじゃなくて、自分自身さえもが、時と場合によっては他者に対してfairじゃなくなってしまうのだ、という苛酷な事実を知らなければならないのでした。(殊に彼女の“敵”であった筈のJareth に対して。)
 とりわけ興味深いのは、Goblin Castle の塔の中の Labyrinth を打ち破った Sarah に、「夢をあげよう。」と申し出る Jareth の costume(衣装)がいつのまにか黒いものから白いものに変わっていたことでしょう。
 この costume の変化こそ、David Bowie が演じていた Jareth という秘密の鍵を握る重要な登場人物の本質をもっとも雄弁に語っているものであった筈なのです。
 Sarah の冒険を妨害する黒い服を着たJarethとは、実はロマンスの世界で思う存分に遊びたい Sarahが敵役として要求したrole(役割)でしかなかったのでした。本物の Jareth は Sarahの無意識の願望に応えて辛抱強くこの悪役としての役割を演じ続けてくれていたのです。しかしこのcostume の色の変化の瞬間に、この映画の語るこれまでの善玉と悪玉の関係が交替してしまっていたのでした。白いcostumeに身を包んで Sarah に嘆願する Jareth は、彼女の望みをことごとくかなえてくれていた本来の「願いをすべてかなえてくれるやさしい魔法使い」の姿に戻っていたのです。この場面ではわがままな専制君主は Goblin Castle でいかにも勝手気儘に振る舞う Jareth ではなくて、自分の読んでいるお気にいりの本の “Labyrinth” に描かれた世界の通りに、過酷な宿命を押し付けられた犠牲者のヒロインとしてわがままに世界を動かそうとする Sarah の方だったのです。そこには「アリス」のお話を支配していた、鏡面的反転原理の背後にある、実はファンタシーの全てに共通する本体と影の主題が巧みに複写されていたのです。

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