− フィクションの中の“real Alice”−
Dreamchild: 1985年
監督:ギャビン・ミラー(Gavin Millar)
配役:
アリス・ハーグリーヴズ(Alice Hargreaves): コーラル・ブラウン(Coral Browne)
チャールズ・ラトウィッジ・ドジソン(Charles Lutwidge Dodgson): イアン・ホーム(Ian Holm)
Lewis Carrollの書いたおとぎ話Alice’s Adventures in Wonderlandは、日本語に訳される場合には、『不思議の国のアリス』と、“adventures”の部分を省いた題名が定着しているようです。けれども英文の書物においても、やはり、“Alice in Wonderland”と、これと同様の表記がなされていることがしばしばあります。アリスの“冒険”が話の中心になっていた筈なのに、いつのまにか主人公の“アリス”自身の方が、読者の心により大きな印象を与える存在になってしまっているようです。似たような例は、「ガリバー」(原題はTravels into Several Remote Nations of the World, by Lemuel Gulliver、“Gulliver’s Travels” と略されることが多い。 ) などにもうかがえますが、そこには「作品」という抽象的事物に対してよりも、一人の「人物」の方に対してより多くの魅力を感じてしまう読者の心理が働いているのかもしれません。
映画Dream Childの中でも、やはり人々はこの作品のことを“Alice in Wonderland”と呼んでいます。しかし、当然の事ながら、この“Alice in Wonderland”という呼び名は、場合によってはこの作品の主人公のAlice自身のことを指す言葉でもある訳です。
とはいえ “Alice in Wonderland”と呼ばれる人物は、実は一人だけではありません。『不思議の国のアリス』という作品中に描かれた個性豊かな主人公としての“アリス”ばかりではなく、この作品の著者キャロルがこよなく愛し、この類い稀なお話が生まれるきっかけを作った愛らしい少女のAlice Liddellもまた、もう一人の “Alice in Wonderland”として、すでに伝説上の存在となっています。オクスフォード大学教授のチャールズ・ラトウィッジ・ドジソンが、特別の思いを込め、ボート遊びの合間にこの奇妙なお話を語って聞かせ、後にはお誕生日の贈り物として手書きの文字に挿絵までつけてこの本を捧げたアリス・リデルは、後になってこの本が公刊された時挿絵画家のジョン・テニエルが描いた、長い髪の金髪の少女とは随分雰囲気の違う、黒い髪をおかっぱにたらしたもう一人の少女です。けれどもこのアリス・リデルもまた、お話の中のアリスと同じように、我々にとっては10歳の少女として永遠の時を生きている、いわば文学史上の伝説によって作られた、フィクションの世界の住民の一人と言ってよいでしょう。
しかしながら映画Dream Childに登場する “Alice”は、年をとり、大人になって、結婚もし、子供もできた「実在のアリス」なのです。(おまけに80歳の老婆となっています。)この映画は、『不思議の国のアリス』の中のさまざまの場面や、作者キャロルとアリスに関わるエピソードを巧みに織り交ぜながら、晩年のアリスのある体験を描いた、なかなか奥の深い作品となっています。そこには文学史上の事実として認められているいくつかのエピソードをもとに、映画作法上の巧妙な工夫を凝らして、虚と実の交錯させた、微妙な作品世界が展開されているのです。
文学作品の場合に限らず、いかなる芸術作品においても、その存在の本質を捉えて語るならば、現実(realityあるいはlife)とは次元を異にした嘘、あるいは仮構の存在であるからこそ、真の存在価値を主張できるのだと言うことができます。この映画Dream Childの巧みに語られた虚構の部分を正しく指摘するのは容易なことではないのですが、実はそのあたりの事実との落差を知っていてこそ、この映画の作品としての水準の高さが理解できもするのです。
ところで有り難いことに、実在のアリスについてのあれこれの情報を与えてくれる一冊の書物があります。それはLewis Carroll Societyの中心人物として様々の活動をし、Lewis Carrollの伝記も著しているAnne Clarkという人物が書いたThe Real Aliceです。このThe Real Aliceに書かれている「実際の」アリスとドジソンとの関係を参考にしながら、Dream Childという一見地味ではあるけれど、実はとても奥が深く、趣味の確かな映画の真価を考え直してみることにしたいと思います。
Dream Childの冒頭に画面に現れるのは、なんだか陰鬱な感じのする作り物の海です。やがてカメラは向きを変えていき、イギリスで“shingle”と呼ばれる小石の浜辺を映し出します。そこにいるのは、『不思議の国のアリス』に出てくるお馴染みの空想上の生き物達、Mock TurtleとGryphonですが、一緒にいるのは本の挿絵で知られたあのアリスではなく、一人の老婦人です。彼女がこの映画の主人公の、今は80歳になった実在のアリスなのです。少女時代、 Lewis Carrollこと、Charles Lutwidge Dodgsonといくども親しい時を過ごしたAlice Liddellは、大富豪の地主であるReginald Gervis Hargreavesと結婚し、今はAlice Hargreavesとなっています。
Mock Turtleはなぜか涙を流して泣いていますが、“What is his sorrow?”“と聞くアリスに、Gryphonが “It’s all his fancy, ...he hasn’t got no sorrow.”と答えるのはお話の中にある通りです。さらにGryphonが、“This here young lady, she wants for to know your story,..”と、年老いたアリスのことを、やはりお話に書いてある通りに “young lady”と呼ぶと、いつのまにかMrs. Hargreavesは、少女の姿に変わってしまっています。しかし彼女は、『不思議の国のアリス』の挿絵に描かれているような、金髪を長く伸ばした大人っぽい雰囲気の少女ではなく、黒い髪をおかっぱにたらした、かわいらしい感じの少女です。実は「アリス」の作者Lewis Carrollがこのアリスのお話を語って聞かせた本物の “real Alice”は、正しくこのような姿の少女だったのです。
Carrollの撮ったアリスの写真と比べてみると、このシーンのyoung Aliceが、実在のAlice Liddellの面影を良く残していることが分かります。そういえば、Carrollは 手書きの本の裏表紙に7歳の頃のこんなAliceの写真を貼って、アリスへのプレゼントとしたのでした。
young Aliceはこれまでと違ってくつろいだ様子で彼らと会話を始め、おなじみの “tortoise”と “taught-us”、“lesson”と “lessen”などの同音異義語を利用した言葉遊びが展開されますが、いつのまにかMock TurtleとGryphonの姿は消えてしまい、“Where are you? Where are they gone?”というアリスの声とともにこのシーンは終わります。
ところでここに描かれている情景は、一体何だったのでしょうか。これはあきらかに『不思議の国のアリス』のお話の一場面ではありません。ひょっとしたら年とったアリスの見た夢だったのでしょうか、それとも現在の意識に歪められたold Aliceの心中を象徴的に表現した映像だったとでも考えるべきなのでしょうか。
この映画には、一般的には「回想シーン」と呼ばれるような場面がしばしば用いられているのですが、これらを文字通り作品中の一人物がある特定の時に心の中に呼び起こした「回想シーン」と呼んでしまうには、どうしても無理のある部分がでてきてしまうのです。単なる「回想シーン」という言葉でこのような場面を片付けてしまうのはちょっとさしとどめて、映画のような視覚芸術でこそ効果的に表現することができる、独特の芸術作品の“presentation”の手法として、これからこれらのシーンの持つ面白味を考えてみることにしたいと思います。
次の場面は大西洋を横断する豪華客船の船上です。Alice Hargreavesが小間使いのLucyを連れてデッキの上を散策しています。キャプションにあったように、old Aliceはキャロルの生誕百年を記念する行事に参加するため、コロンビア大学に招かれてアメリカに行くところなのです。この映画は『不思議の国のアリス』の作品世界を映画化したものなどではなく、アメリカにおけるold Aliceのある体験を描いた、現実的な物語なのです。しかし、アリスの訪米は確かな事実なのですが、実はAliceの一生について詳しく書かれたThe Real Aliceという本で確かめてみると、この時アリスに同行したのは、アリスの息子のCarylと妹のRhodaであったことが分かります。Lucyというメイドは実際には存在していなかったのです。このように、Dream Childという映画では、さりげなく事実が歪曲され、脚色の手が加えられているのです。ですからそこに描かれたアリスやその他の人物達の人間像も、フィクションの中の造形、あるいは作者による解釈としての姿なのです。この映画におけるアリスは気位の高い、典型的なイギリスの貴婦人です。old Aliceはアメリカ人の話す英語を軽蔑的に冷笑し、“chewing gum”というものを口に含んでおしゃべりする、とそのマナーを辛辣に批判します。彼女にとってはLucyの質問に答えて言うように、ヨーロッパを旅行したりすることのない普通のアメリカ人は、“common man”として軽蔑すべき存在なのです。
初めての海外旅行に心落ち着かないLucyに対し、old Aliceは、 “Now, what is it, child? Why are you so distractive? ...It’s not cheap music that disturbs you. It’s your youth.”
と言います。確かにここに描かれているアリスは、「若さ」などというものは遠い昔に忘れ去ってしまった、我々のイメージするアリスとは随分とかけはなれた存在なのです。
しかしそのold Aliceが船室に戻ると、『アリス』の絵本が目に入ります。なぜかここで流れる音楽は冒頭のshingleの浜辺の時と同じもので、暗く重々しい、心にまとわりつく“haunting”な感じのものです。
場面は変わって、ここはアメリカの新聞社です。 ドイツでのHitlerの首相就任や、不況、事故など暗いニュースばかりが入ってきます。そこで彼らがlady’s pageにのせるための「明るいニュース」として取材することにしたのが、ドジソンから直接あの「アリス」の話を聞いた、“real person”であるAlice Hargreavesの訪米だったのです。
ここでこの映画の作り出した、もう一人の興味深い人物が登場します。腕効きの新聞記者Jack Dolanは、捏造記事を書いたために首になっていたのですが、儲け仕事の「ネタあさり」のためにのぞきに来ていたlady’s page担当の婦人記者のもとでこの企画をかぎつけ、old Aliceをお金儲けのために利用しようとたくらむことになるのです。
アリスの乗るBerengaria号はいよいよ港に着こうとしているところです。わくわくして落ち着かないLucyに、“When you are my age,... ”と心憎いほどに落ち着き払って言うアリスは、お話に描かれていた好奇心旺盛で活発な少女のアリスとはあまりにも対照的です。しかしそのold Aliceにも少女のころドジソン先生を魅了した面影がうかがわれるのは、この映画における見事な解釈というべきでしょう。アリスはLucyに、
“You may stay here to examine the foreign shore,... lest the Indians strive to come aboard.”
と、なかなかユーモアのあるところを窺わせます。Oxford大学のChrist Church校の学寮長 (Dean) のLiddell氏の娘達はみな姿形も美しく、豊かな教養を備え、品性に優れた女性達で、TennysonやRuskinなど当時の文化人達と親しく付き合い、その誰からも賞賛を受けたことが知られていますが、その中でもとりわけアリスは人々の心を引き付けてやまない、特別な魅力を持った女性であったといいます。それが具体的に彼女のどのような特性によるものであったのかは、今はもう推し量るしか手段はありませんが、そのあたりの人物の造形における解釈がこの映画の魅力の一つになっているのは是非指摘しておかねばならない事実です。(特に脇役のLorinaのcharacterisationには見るべきものがあります。)
キャビンに戻ったアリスを映した画面は、続いてChrist Church校の学寮(Deanery) の庭でcroquetをして遊ぶ三人の少女達を映し出します。上流階級の人々だけが着ることのできた純白のドレスに身を包んだ少女達は、Liddell家の長女Lorinaと次女Alice、それに三女のEdithです。この三人はドジソン先生と一緒にボート遊びをしながら、アリスの冒険のお話を直接その口から聞かされた三姉妹としてあまりにも有名ですが、実はLiddell家には全部で10人の子供が生まれたのでした。(これは当時としては平均的な子供の人数です。)しかし彼女達のお兄さんのHarryは寄宿制のpublic schoolに入っていたため、Deaneryにいることはまれでしたし、妹のRhodaはまだ三人と一緒に行動をするには幼すぎました。もっと下の子供達が生まれたのはLiddell家の人々とドジソン先生の親しい付き合いが終わってからだったので、結局この三人がLewis Carrollのchild friendsとして歴史に名をとどめることになった訳です。
さて、これはいかにも典型的な「回想シーン」ですが、問題はこの後です。彼女達の姿を図書館の窓から見付けたドジソン先生があわてて外に出てきます。これは当時“sub librarian”という役職を勤めていたドジソン先生が執務に使っていた部屋が、ちょうどDeaneryの庭を見下ろすところにあったため、いかにもありそうなことです。しかしドジソン先生がDeaneryの窓の外に隠れて彼女達の歌のレッスンの様子を立ち聞きしている場面は、これはアリスの視点の外にある出来事ですから、どうしてもアリスの回想の一部であるということはできないのです。
しばしば映画などで見掛ける「回想シーン」の中でも、このような因果関係のルースな、論理的には破綻をきたしている杜撰な場面設定が行われていることがよくあります。また、小説や劇などにおいても、登場人物に許されているはずの視点と、彼等のとる行動やその心理との関係について、同様の不自然な論理構造が指摘できる例が見つかることがあります。そういうときは、「文学表現上のウソ」として大目に見て片付けるのが読者としての作法というものだ、という考え方も一つにはあるようです。しかしここではさらに一歩踏み込んで、このような「ウソ」を許して見逃そうというのではなく、作品世界というものの在り方を理解する興味深い考察の一手段として、もっと積極的に評価してみたいと思うのです。
つまりこのシーンは、アリスの回想を共有することによって導かれた、当のアリスも知らないはずの、しかし現実世界とは次元を異にした、作品世界では実際に出現していたに違いない場面を、観客である我々が現在時を越えて見ているのだと考えるのです。むしろこのような解釈の方が、矛盾や不都合の余地を排することができるという点では、よりいっそう順当な解釈であるといえるかもしれません。読者や観客の視点というものは、意外な程柔軟に様々な機能を発揮しうるものなのです。
例えば、叙情詩における言葉の語り手は誰なのか、(必ずしも作者自身であるとは限らない。)あるいはその言葉は誰に向けてどのような情況のもとで語られたものなのか、と考えてみたり、(歌謡曲やロックの歌詞でも同様。)あるいは小説におけるナレーションの文は、誰が誰に向けてどんな立場から語ったものであるのか、などと疑問を投げかけたとき、すべてのケースを天秤にかけて一番妥当だと思われるのは、それらが今現在の読み手である我々が、その媒体を通して得たと主観的に理解した一つの情報、つまり鑑賞者の心中に浮かんだイメージである、という解釈ではないでしょうか。つまりこのシーンにせよ、文学作品の一場面にせよ、つきつめたところ「我々の心象に浮かんだ風景」という言葉に還元される何物かであるとすれば間違いはないはずなのです。それは鑑賞者の主観によっていく通りにも解釈されうる複相的なイメージ喚起力を持つ実体です。優れた芸術作品とは、このような、現実に依存した具体的なシチュエーションなどに頼ることを必要としない、それ自体が独立した固有のイメージ世界を見事に現出せしめる力を持っているものなのです。そして、このDream Childという作品の最終的目標は、そのような現実を虚構の中に飲み込んだ、凝縮したシーンを一つ作り上げることだ、という仮定のもとに、もうしばらくこの映画のシーン構成を追っていくことにしましょう。
Lorinaのピアノの伴奏でアリスが歌っています。ところがLorinaが、アリスの歌う歌詞は間違っている、と注意します。アリスは“how soon we should part”と歌うべきところを、“how soon we would part”と歌ってしまっていたのでした。しかしアリスは “would”だろうが “should”だろうが、どちらでもいいじゃない、と自分の好きなように歌うことを主張します。いかにもおとなしくて生真面目そうなLorinaに対して、Aliceはあくまでも自由で奔放です。こんなところがドジソン先生ばかりでなく、あらゆる人を魅了したのだろうな、と思わず納得させられてしまいそうです。これがこの映画の設定したアリス像であることに間違いはなさそうです。若々しく恐れを知らないyoung Aliceと、本来なら対照的なはずのold Aliceの双方が示す相乗的効果によって、この人物像設定は、実に効果的に行われています。
ここで姉妹達は、
“Don’t say ‘don’t’, say ‘do not’. It is vulgar to say ‘don’t.’” − “You said.”− “I did not.”...
“She don’t know.” (Edith) − “Don’t say ‘don’t’.” (Lorina and Alice)
などと、傍で聞いているとおかしくなるような言葉のやりとりをしていますが、これはきっと本人達もちゃんと分かって言っているジョークなのでしょう。こんなところにも、機知にあふれた、そして少しお澄まし屋の彼女達の性格がうかがえます。
当時は女性が大学に進学するなんてことはなく、婦女子の教育は住み込みの家庭教師(governor)が社交会での礼儀作法も含めて一切を教えるのが一般的でした。しかしアリス達は両親とともにOxford大学でのアカデミックな活動に積極的に加わり、美術はRuskin教授に、数学は勿論ドジソン先生に教えてもらう、といった具合に、最高級の教育を受けて育ったのでした。おまけに両親共に貴族の血をひき、父親のLiddell氏は超一流の学問的業績を認められ、Oxford大学の改革のためにChrist Church校の学寮長として選ばれたほどの人物だったのですから、先程の船上のシーンで見られたアリスの“classy”(階級意識的)な態度も、実際不自然なものではありません。
少女達の会話ははずんで、アリスは吃るドジソン先生のまねを始めます。何の屈託もなく、仲良しのドジソン先生を冗談の種にするアリスですが、そこにはおそらく自分があの楽しいドジソン先生の一番のお気にいりなのだ、という自負心もあるのでしょう。しかし調子に乗って話すアリスの、“Mr. Dodgson said he would... trust me with a secret...”という言葉をMrs. Liddellは耳聡く聞きつけてしまいます。 “Why did he say that to you?”と問いただすMrs. Liddellに、“Because he loves me, of course.”と答えてしまうアリスは、自分の言っている言葉がどんなことを意味するのかをまだ本当には理解していない子供なのです。(だからこそキャロルが夢中になってしまったのでしょうか。)すかさず気をつかって、“He loves us all, mother, each one of us.”と、その場をとりつくろおうとするLorinaは、もうこういう話題がどんな問題を引き起こしてしまうかが十分理解できる年齢になっています。けれども、それにもまして、こんな繊細な気配りをするところから、長女としていつも妹達を見守ってきたLorinaのやさしい性格が良くうかがわれるような気もします。このLorinaは、ある意味でこの映画の陰の主役であると読みとってもよいかもしれません。アリス自身の気のつかないアリスの魅力と素晴らしさをもっともよく引き立てているのがLorinaという登場人物の存在だからなのですが、さらにこの二人を一体化して、Lorina / Aliceとしてドジソンを愛で包む理想の少女像を描くことさえできそうだからです。ひょっとするとこの発想は、『不思議の国のアリス』という物語のもう一つの読みにもつながる、興味深い視点を提供することになるかもしれません。
この場面では一つのエピソードとして集約して、 Mrs. LiddellとDodgsonとの間の不和が暗示されていますが、このような気まずい関係は、残念ながら事実であったようです。様々ないきさつから、ドジソン先生とLiddell家は次第に縁遠くなっていきました。その大きな理由の一つとして、この場面でも見られたようなMrs. Liddellの心配が根拠の無いものではなかったらしい、ということがあげられます。実際、当時のOxford大学では、ドジソン先生がアリスに求婚したがっている、というのがもっぱらの噂となっていました。(この時代には12、3歳の少女と婚約するのはそれほど珍しいことでもなかったといいます。)しかしながらドジソン先生とLiddell家との身分の違いはあまりにも大きなもので、年齢の差よりもむしろこちらの方が大きな障害であったと思われます。アリスは後には、ヴィクトリア女王の末子であるPrince Leopold George Duncan Albertとのロマンスが噂されたこともありました。残念ながらヴィクトリア女王がLeopoldに皇族以外との結婚を許さなかったため、Prince Leopoldとアリスとの結婚は実現しませんでしたが、Aliceが結婚して最初に設けた子供はLeopold Reginaldと名付けられていますし、一方アリスの結婚の後ようやく妻をめとったLeopoldも、最初の娘にAliceという名をつけています。こんなところからも彼らの付き合いの親密さがうかがわれます。アリスはまかり間違えばprincessになっても不思議の無い程の人物だったのです。
シーンは移って、港で “real Alice”を待ち受ける新聞記者達はLucyの姿を見付け、群れ集って彼女の方に押し寄せてきます。(しかしどうやって彼女がMrs. Hargreavesの小間使いであるLucyだと分かったのでしょうか?このあたりは典型的な「フィクション構成上の嘘」の部分でしょう。)おびえて逃げ出してしまうLucyは、いかにも人ずれしていない、うぶな少女です。記者達につかまってしまい、一方的に “press conference”に付き合わされてしまったLucyが彼等に言うのは、
“Please, I beg you, all of you, not to address her ‘Alice’,... her name is Mrs. Hargreaves. And she shall be very upset, if strangers called her ‘Alice’.”
という言葉です。いきなり人をfirst nameで呼んでしまう記者達の態度は、Alice達にとってはとても考えることもできないほどの粗野な行いなのです。記者達にとり囲まれたold Aliceは“conference”などというものは思いもよらないものらしく、当惑を隠しきれません。“Message to the children?”と尋ねられても、何のことか分からない様子です。その上アリスは、 キャロルのことを尋ねられると、“I can scarcely recall him, at all.”などと答えてしまう始末です。肩透かしをくらわされて、記者達が失望してしまうのももっともですが、アリスは毅然とした態度で次のように言います。
“I have been invited here to receive an honorary degree from Columbia University as part of New York city celebration of the centenary of the birth of the Reverend Charles Lutwidge Dodgson.”
この言葉から分かるように、アリスにはマスコミの人々に対するサービスなど思いもよらないのです。彼女はあくまでも上流社会の人間として行う公的行事の一つとして今回の訪米を考えています。Deaneryで両親と過ごした頃Oxford大学で行われたさまざまの行事に参加したように、これはアリスにとってはあくまでもアカデミックな活動の一つに過ぎないのです。無礼な記者達の態度に気分を害したのか、アリスは先程求められた「子供達へのメッセージ」として、
“I hope they will more successfully learn, than you have done, how to address your elders with respect...”
などと辛辣な皮肉を浴びせます。しかしこれに続けて、「正しい姿勢を保ち、本を読む時には明る過ぎないところで…」などとあまりにも型にはまったmoral lessonを繰り広げるアリスには、堅苦しい貴族趣味どころか、したたかなウィットさえ感じられます。一見意外に思われるかもしれないこの場面のアリスの対応も、この映画の性格設定としては、実に周到な計算によるものなのでしょう。そして実際のアリスの育った環境から考えても、これはなかなか理にかなった解釈といえます。
しかしホテルの部屋に落ち着いて、“I did not expect such a fuss....Why so much fuss? No idea what is expected of me?”と独り言を言って当惑しているアリスは、実はこの映画における計算された嘘の部分で、実際のアリスは、この訪米の際、もっとそつ無くさまざまの公式行事を消化していったということです。そしてまた、Berengaria号入港の際も、実際には多数の新聞記者達はいたものの、コロンビア大学の関係者達に手厚く迎えられて、press conferenceのおりも、母親を疲れさせることが無いようにと気を遣うCarylの存在が不必要に思われる程、アリスはしっかりとした態度であったといいます。
そこに、にやけた表情で花束を持って訪れたJack Dolanに、
“Are you by any chance one of those,...what did they call?... ‘homosexuals?’”
などと“bitter sarcasm”をもって迎えるのは、実に魅力的な知性を備えたアリスです。しかし同時に、“Flowers remind me of death.”と、老齢のために気弱になり、近付く死に脅えるアリスとしてこの映画では彼女は解釈されています。実際にアリスは仲良しだった妹のEdithも若い頃に亡くなってしまい、晩年には二人の息子が第一次大戦で戦死し、夫にも先立たれるなど、若かった頃の華やいだ環境とは対照的に、かなり孤独な生活を送ることになってしまったようです。この映画ではそのあたりの事実も踏まえて、柔軟に作品世界に取り入れています。
したたかなJack Dolanは、そんなことではくじけることもなく、暗いニュースばかりあふれた現代の生活の中で、
“Some time we have to dream,... people want to make believe,... We all want to be the little girl you once were.”
と熱弁をふるいます。またしてもfirst nameで “Alice”と呼ばれてしまって、“Kindly address me as Mrs. Hasrgrreaves,...”と、たしなめるアリスは、もしもあなたが81歳だったら許されるかもしれないが、と言葉を続けますが、「80歳ですって!」と空々しく驚いてみせるJackも一筋縄ではいかないしたたかものです。これを切り返して、相手のお世辞の先手をとり、“Are you attempting to suggest that some way I look younger?”というアリスもたいしたものですが、ぬけぬけと “... you look terrific!”と言うJackに、思わずアリスもよそよそしい態度を忘れてしまいます。幼い頃ドジソン先生とかわしたユーモアたっぷりの会話をアリスは思い出してしまったのかもしれません。けれどもこれに乗じて、“What did he call you?... ‘dream child’?”と話し始めるJackの“dream child”という言葉を聞くと、なぜかアリスは心の動揺をきたし、いきなりJackに引き取るように命じて、部屋に引きこもってしまいます。そして再びアリスの回想シーンが始まるのです。
アリスはkimonoを着て日傘を持ち、ドジソン先生の写真のモデルをつとめています。実際に、ドジソンが撮ったさまざまの扮装をこらした少女達の美しい写真が多数残っていますが、とりわけアリスをモデルにしたものに優れたものがあるようです。
Lucyとともに部屋に戻ったアリスは、“...not long to wait.”と、近付く死を意識しています。“My husband is dead, my sons were killed by the Hun.”と語るように、今は孤独の身となったアリスは、なにかと自分の一生を振り返ることが多くなってきているようです。そして先程のJackの言葉“dream child”が頭によみがえってきます。これはキャロルが『不思議の国のアリス』のprefatory verse (序詩)の中で、この作品のヒロインのアリスとモデルとなったAlice Liddellの双方を意識して呼んだ、彼の理想の少女像をあらわす言葉だったのでした。この言葉に導かれるかのように、またアリスの回想が始まります。あるいはこれは眠りに落ちたアリスの見た夢だったのでしょうか?どちらととってもたいした変わりはなさそうですが、先程の解釈に従って、このシーンも、Dream Childという架空の作品世界の中で実際に現出した一事実と受け取っても、もちろんよい訳です。
このシーンは一見、『不思議の国のアリス』の原型となる物語がアリス達に物語られた折としてあまりにも有名な、あの“golden afternoon”として知られる、Thames川上流での“boating expedition”の様子を再現したもののように思えます。しかしボートに乗っているのはドジソンと同僚のDuckworthとLiddell家の三姉妹達だけでなく、そこにはMrs. Liddellの姿もあります。このようなboating expeditionは、ドジソン達は何度も行っており、時にはドジソンの姉妹達も加わったことや、まれにはLiddell氏が行動を共にしたことも知られていますが、Liddell夫人がボート遊びに同行したというような記録はありません。ましてや、『アリス』のお話が語られた折りには、Liddell夫人の姿があった筈はないのです。このシーンもやはり、劇的情況を効果的に演出するための、映画作法上の嘘なのです。
Liddel婦人は何かにつけ、アリス達と楽しく時を過ごそうとするドジソン先生の話の腰を折ろうとしています。やはりここに描かれているのは、この両者の間の関係を象徴的に表現するために作り出された虚像であり、そしてまたこのDream Childという作品世界の中においてのみ確かに存在した一つの事実なのです。さらにこの映画はここに興味深いエピソードを挿入しています。じっとアリスの姿を見詰めているドジソン先生に、いきなりアリスが水しぶきを浴びせます。驚いて “Apologize!”と叱るLiddell夫人に、アリスは “He was looking at me.”と弁明しますが、やがて “Dear Mr. Dodgson, I’m sorry... I’ll show you my ....”とあやまり、ハンカチを取り出して彼の顔を拭いてあげようとします。思わずうっとりとしてしまうドジソン先生ですが、このあたりのちょっとcoquettishなほどのアリスの振る舞いは、あやういこの二人の関係を示して、なかなか暗示的です。
このあたりから、old Aliceは夢なのか回想なのか、過去の思いでの中に引きずりこまれ、それと同時に観客は作品世界におけるこの二人の親密な交際の有り様を目にすることになるのです。
一方ではDream Childのストーリーは進行を続け、部屋を出たふりをしながら身をひそめて待っていたJack Dolanが言葉巧みにLucyを下のホールに誘い出してしまいます。これからは“cut back”の手法で、「JackとLucyの行動」という物語の現在と、「old Aliceの過去、あるいは夢」が平行して(交替して)画面にあらわされていくことになります。
アリスの回想の中でドジソン先生が語るのは、「アリス」のお話しのMad HatterとMarch HareとDormouseの出てくる、“Mad Tea-Party”の場面です。同じころLucyは “tea”に誘われてJackとdanceを踊り、これは “tea dance”なんだ、とごまかされている訳です。
ボートの上では、アリスとの生き生きとした会話からドジソン先生のストーリーが進行していきます。実際にも、このお話しは必ずしもドジソンが一人で考えだして語ったのではなくて、アリスという刺激的な聞き手との共同作業の結果として生まれてきたのかもしれません。これはこの映画における面白い解釈です。
一人残された寝室でold Aliceは目を覚ましますが、そこにあらわれるのは、亡霊のようにうれわしげなドジソンの幻影です。これもまた夢の一部なのでしょうか?眠りから覚めたと思ったのに、まだやはり眠りの中にとらわれていたことに気付いたりと、夢を現実の境界はあいまいですが、お話しの中のMad Tea-Partyの場面にまよいこんでしまったold Aliceは、いつのまにかまた若い頃のAliceの姿に戻ってしまっています。(黒髪のAlice Liddellです。)これは夢における典型的な変身の場面ですが、実際は夢の内部とも、幻想とも判別のつかない不思議なシーンです。おまえの席は無い、と言われても、“No room? It’s plenty of room.”と言って勝手に席につくアリスは、
“It wasn’t very civil of you to sit down without being invited,,,”
となじられても少しも意に介さない、大胆不敵な少女です。ここでもあの「アリス」のお話の通りに、
“Why is a raven like a writing-desk?”...
“Do you mean that you think you can find out the Answer?” “Exactly so.” “Then you should say what you mean.” “I do, at least, − at least I mean what I say. − that’s the same thing, you know.”
というやりとりから、それでは“I see what I eat.”と “I eat what I see.”は同じことか?とアリスがやりこめられる場面が展開されます。ここで面白いのは、March Hareの使う “cockney”で、彼の言う“same” などの言葉にこのロンドン下町特有のなまりがうかがわれます。ここでいきなり “What day is it of the month?”といきなりMad Hatterが質問を始め、「時」を意識させられてたじろぐアリスは、いつのまにかまたold Aliceに戻ってしまっています。重ねて“You stupid half-witted old hag! You should be dead....”と、Mad Hatterが怒鳴り始めるのは、もうあのお話の中のストーリーとはうって変わって、いかにもnightmarishな妄想世界です。ドジソン先生のお話が亡霊のようにアリスに付きまとい始めているのです。
それと同時にアリスの意識の中では、これはやはりボートの上でドジソン先生の物語りつつあるお話でもあり、Lorina達の合いの手の“spoke with time”や “beat time”などの言葉の遊びが思い起こされています。夢の中の同時進行的な複数の意識という特徴が、ここでは見事に映像化されている訳です。そしてここでも何かにつけては話の腰を折るMrs. Liddellの存在が印象的です。これはアリスの押し殺していた固定観念だったのでしょうか。
そこで先程目覚めた時アリスが受話器に戻しておいた電話のベルが鳴り響き、アリスは現実に引き戻されますが、この時果たしてアリスは夢から目覚めたのでしょうか、それともこれまでの彼女の意識と回想の合成物のような映像は「夢」と呼ぶことのできるもの以外のなにかであったのでしょうか。
その頃JackとLucyはエレベーターでアリスの部屋に戻るところですが、そこで “I’m afraid of everything....”と語っているLucyは、裕福に気の向くままに若い頃を過ごしたアリスとはあまりにも対照的です。そしてこのLucyという存在は、我々観客に対して、アリスというcharacterの特質を際立たせて示す記号となるばかりでなく、当のアリス自身に自分の失っていたもの、あるいは自分のこれまで気付き得なかったものを発見させる鍵としての機能もこの物語のなかで果たすことになるのです。
ようやく部屋に戻ってきたLucyを、アリスは “You wicked girl!”と罵ります。誇り高く尊大なアリスも、小間使いのLucyに部屋を空けられて一人きりにさせられると、訳もなく不安にかられてしまうのです。そしてアリスはLucyに、“Dodgson’s coming back and haunts me. ”と訴えるのです。
訳も分からない電話が掛かってくる、といって嘆くアリスに、Jackはそれらが “endorsement”(商品の推薦広告)を求めるものであることを教え、「お金になる話」であることを告げます。こうしてJackはうまくアリスに取り入って、コマーシャル業務のマネージャーを務めることになってしまうのです。
LucyはJackが自分に近付いた理由がアリスに取り入ってお金を儲けるためであったことに気付いて、“Is that why you asked me to the ‘tea dance’ downstairs?”と言って、腹を立てて出ていってしまいますが、若い娘の恋心などすっかり忘れてしまっているアリスは、「いいクスリだわ、放っておきなさい。」とJackに言うのでした。しかし、その途端、“Everything I was saying have been said before.”と、アリスはおそらく母親のリデル夫人の言った言葉を思い出すのでした。アリスはこれまで長い間、心の中におし殺して忘れようと努めてきたことが何かあったのです。
その頃下のバーではJackと婦人記者がアリス達の話をしながらお酒を飲んでいるところです。JackによればMrs Hargreavesの印象は、“sour, sharp, feeble sometimes and very English” なのだそうですが、婦人記者が聞きたいのはLucyのことでした。これに答えてJackは、“shy, naive and quaint”と述べますが、すかさず婦人記者は “and sweet”と付け加えます。彼女は「女の直感」というものを働かせて、Jack自身がまだ気付いてさえいない、彼のLucyに対する好意の気持ちをもうすでに
(ずいぶん以前に書いたこの文章の以下の原稿が見つかりませんでした。この続きは、また折を見て改めて書き足す予定です。)