科学とSFと哲学的省察 

 『エルゴ・プラクシー』における神と人と自分(3) 



 アリストテレス哲学に対する偏向した理解に束縛された中世スコラ哲学的な父権的キリスト教概念を脱却し、“個”としての人間存在の創造性の中にこそ全体の反映としての神性を見出す反転原理を自覚するに至ったレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロの活躍したルネサンスの人文主義的哲学にあった神秘思想を想起させると共に、“分裂”と“統合”という“知”の汎宇宙的自己達成過程を通して仮構と現実を通貫する包括的なシステム理論の存在をも示唆するかのように思われる映像的仮構『エルゴ・プラクシー』は、愈々仮構自身をその直截的な主題として選んで独特の「省察」を押し進めていくこととなる。省察19「少女スマイル」においては、さらに新たなプラクシーの登場を通して“存在”と“現象”という仮説的な概念の背後に横たわる“原存在相”における人格性の実質に対する再解釈が図られるものとなっているのである。しかし今回のエピソードの主役を演じるのは、超人的な存在であるプラクシーとしての存在性に関わる謎を秘めたヴィンセントではなく、また“人間”としてプラクシーと自分自身との間の不可思議な因縁の内実を解き明かそうと模索するリル・メイヤーでもなく、人間に奉仕すべく制作された機械人形であるオートレーブのピノなのである。
 ピノは、何者かの誘いの声に導かれていつの間にか自分が全く覚えの無い場所に来てしまっていることに気付く。廃棄物の集積所のような場所で周囲を見回すピノの前にがらくたの山の中から姿を現したのは、これまでの『エルゴ・プラクシー』の作品世界に登場していたもの達とは明らかに異なる、極度にデフォルメされたぬいぐるみのような典型的なアニメ・キャラクターの外観を持つアルとプルの二人である。彼等はピノに告げて語る「ここは世界スマイル園。全てのお客さん達に永遠の笑顔をあげちゃうためのアミューズメント・シティさ。」/「この町は全部丸ごとが、素敵な遊園地になっているんだ。」/「だから、この町の人々は一年中ず〜っと遊び続けて笑っていられるんだ。」彼等は遊戯施設付属の劇団“コメディア・デラルト”の役者達なのであった。しかし彼等もまたピノと同様に、人類に奉仕すべく特定の役割を与えられて作り出されたオートレーブなのである。
 イタリアに昔から伝わる伝統的な人形劇が“コメディア・デラルト”であった。そこで演じられる、若い恋人達といつも彼等の邪魔をする腹黒い年寄りという決まりきったキャラクターが繰り広げるお定まりの筋書きのお話の中で脇を固める道化の役を演じるのが、“アル”ことアルレッキーノと“プル”ことプルキネッラであった。白いだぼだぼの服を着たアルレッキーノはフランス語ではアルルカン、英語ではハーレクィンと呼ばれている。これらの定型的な配役のもとに典型的な“スラップスティック”と呼ばれるドタバタ喜劇が、祖型に従って常に決った形で演じられていたのであった。これらの猥雑なエネルギーに溢れた庶民的な伝統芸能に対してディズニー・アニメは、従来の民衆娯楽にあった暴力的で毒々しいスラップスティックの要素や扇情的でエロティックな要素を極力排除して、いかにも家庭向きの口当たりの良いPTA好みの優等生的な娯楽作品を型にはめて提供した点で、むしろはなはだ有害なものがあると言うべきだろう。省察19「少女スマイル」は、20世紀アメリカ・アニメの代名詞であるウォルト・ディズニーと彼の築いた虚飾の歓楽の王国“ディズニーランド”に対する激烈な指弾に基づくカリカチュアとして展開されることになる。
 人々が楽しく笑って過ごすことだけが目的の“遊園地”という閉鎖世界で、その目を喜ばせるべき観客達に飽きられてしまって用済みとなり、廃棄処分となった使い捨てのオートレーブがアルとプルであった。ヴィンセントとリルの居場所を探すピノに、二人は彼等の創造主ウィル・B・グッドに助けを求めることを勧める。「困った時にはお願いだ。」/「僕たちの世界の笑顔の創造主、ウィル・B・グッドにお願いするのさ。」アルとプルはこの世界の主人であるグッドに助力を請う手紙を出そうと試みる。しかしそこに現れたのは、童話『ピノキオ』に登場して主人公の操り人形を先導する役割を果たしていたコオロギにも似た“ロギ”である。ロギはアルとプルには目もくれず、何故かピノにだけ強い関心を示す。実は彼は創造主グッドの手先として、ピノからヴィンセントに関する情報を聞き出そうとしていたのである。ピノをグッドの許に案内してくれるというロギの言葉を聞いて、アルとプルも一緒にグッドの許に赴くことを思い立つ。「お願いだけじゃ駄目だって分かったんだ。だから僕らは行動する。」/「僕らは、ウィル・B・グッドのところに行くんだ。」/「僕らの生まれた意味だよ。僕らを作ったグッドなら知ってる筈。」/「生まれたのにはきっと意味がある。」二人はロムド・シティの感染オートレーブ達と同様に自我に目覚め、自分たちが産み出されたことの根源的な意味、彼等のレゾン・デートルを確認しようと模索し始めるのである。ところがロギは彼等には取り合わず、ピノにヴィンセントについての情報を尋ねるばかりである。「知らないかなぁ?…ヴィンスさんの特徴っていうか?」
 ピノがスマイル園で出会ったアルとプルやその他のキャラクター達を創り出した“創造主ウィル・B・グッド”は、かつてのテレビ番組“ディズニーランド・シアター”に登場して豪華な応接室で観客を迎えていた恰幅の良い“アメリカ紳士”ウォルト・ディズニーそのままの姿である。しかしグッドは、自分の創った世界の登場人物達が思い通りにストーリーを進行させてくれないのに苛立っている。ピノの紛れ込んだこの世界は、グッドの構想しつつある一つの創作世界なのである。ディズニーがアニメ映画化したイタリア童話『ピノッキオ』の主人公の名“松の木人形”からその名を貰ったと思われるピノは、操り人形ピノッキオが人間になることができたことを知って自分も本物の人間にして貰うことを望んだSF映画『AI』の主人公のロボットの少年デイヴィッドを模して、フェアリーの仙女様ならざるディズニーの分身ウィル・B・グッドと邂逅し、そうとは知ることなく機械人形としての自身の存在の謎を探求することとなるのである。アルとプルのあてどの無いアドリブに業をにやしたグッドは、物語の創作者としての立場を放擲するかのように直接自らの造り上げた仮構世界の中に闖入して、唐突に作者の本音を語り始める。「アドリブなんていらないんだよ。」遂には旧約の神さながらに自らの被造物達の眼前にその姿を現して、彼等に干渉をし始めるグッドなのである。
 自分の創造した作品世界が全く思惑通りに進行していないことに癇癪を起こした創造主グッドが、彼の被造物であるアルとプルの存在意義に関する切実な問いに対して与えたぶっきらぼうな返答は、哀れな真実の探求者達の期待に反するものであった。グッドはアルとプルに言い放つ。「だいたい、生まれてきた意味だって。そんなものある訳ないだろ。…お前らはな、無意味な出来損ないなんだよ。…全く、何の役にも立たないくず共めが。」アルとプルと並んで眼前に現れたピノに、グッドもやはりヴィンセントのことを尋ねるのである。しかしヴィンセントの弱点を尋ねられたピノは、AIには似つかわしくなく何故か嘘をつくことができる。ピノは答える。「知らない。」グッドもまた一人のプラクシーとして“始まりの鼓動”を感じ取り、他のプラクシー達に死をもたらすエルゴ・プラクシーと出会って戦わねばならない宿命を恐れていたのであった。娯楽の世界の帝王ウォルト・ディズニー自身のキャラクターを背負うこのプラクシーは、宿命的な戦いに背を向けて自らの創造した実の無い夢想の中に留まり続けようとする、自閉と怯懦という特徴的な属性を備えたプラクシーだったのである。グッドはピノに語る。「もうすぐヴィンセントがここにやって来る。プラクシー同士が出会ったら戦わなくてはならない。…だから、君の夢に干渉してヴィンスの弱点を聞き出そうとした。」ピノは尋ねる。「これは夢なの?」グッドが答える。「夢であって、夢じゃない。」グッドの想念の中の仮構世界とピノの生きる現実世界は、意識の中では截然と分たれることなく一方からの干渉を許すものなのである。
 グッドの目的は、もうすぐ終わりを迎える世界の最後の時まで、目の前の現実から目をそらしてただ平穏に生き続けることだけにある。彼のその自閉的な目的のためにのみ、彼によって創られた世界とそこに住まうもの達の生がある。しかしながらこの閉鎖世界を生み出した紛れも無い創造主として、ウィル・B・グッドは彼の被造物達に創造主の意図を明かすことになる。「この街の人々はね、生まれて死ぬまでずっとここで遊び続けるんだ。そして何も知らずに幸せなまま、世界の終わりを迎えられる。」図らずもグッドは、彼の創出した被造物達のレゾン・デートルを語ってしまっている。それはアルとプルが思い描いていたような使命に裏打ちされた高邁なものでは決してないが、彼等の誕生を導く初動因であった事実には間違いは無い。アルとプルの模索したレゾン・デートルは、皮肉なことにその創造者自身が意義性に全く価値を見出し得ないものであった。おそらく自らの管理下にある存在者達に対する根幹的な意識の在り方においては、政府も文部科学省も本質的には全く変わるところはないのであろう。親や教師達もその点においては全く同様である。現在、大学がおしなべてディズニーランド化している原因も、まさしくそこにあると言っても良い。科学の無目的原理を覚悟なく選び取り神を無くした世界の行き着く果ては、見通すのにそれほど困難なものではなかったのである。おざなりな“信教の自由”を保障されて、お情けのように卑小な“実存もどき”を恣意的に模索する権利を許された浅薄極まりない我々の現実世界の実情に増して、むしろ問題となるのは『エルゴ・プラクシー』という仮構の中で「神はどこに行ったのか」なのである。創造主対その使命を負わされたものとしてのグッドとアルとプルの間の関系は、エルゴ・プラクシーとその創造主との間の関系を示す伏線ともなっている。
 これまでヴィンセントが出会ったプラクシー達が“ドーム”や“塔”や“森”などの世界の中でそれぞれの権能を行使して自らの被造物である人を造り上げて彼等にアントラージュを奉仕させたように、ウィル・B・グッドもアニメ作品の中で種々の架空のキャラクター達を造り上げてその世界の住人に奉仕させている。プラクシーの支配する固有の領域に様々な構造体としての変異があり得たように、“クイズ番組”や“遊園地”あるいは“アニメ作品”などの観念的要素を主軸にした構造体が存在する。制作者ディズニーが彼の創作による抽象的な観念構造体であるアニメーション映画の世界に対して保持する関係性は、“現実”と“フィクション”という些細な異なりはあったとしてもロムド・シティの“ドーム”やアスラやハロスなどの“タワー”を造り出したカズキスとセネキスと同様、観客としての“人”あるいはアニメ・キャラクターの創造主であるプラクシーとしての立場においては、世界の創造主としてある神との類比において全く変わるところはない。仮構世界の制作者は、神的位置に確かに自身の存在を置いている。内面心理のメカニズムとして現象学を考察したフッサール、心霊的な精神分析の手法を開拓したラカン、ルソーの言語起源説を再解釈したポスト構造主義に位置するディコンストラクションの思想家として知られるデリダ達と並んで、世界そのものが神の思念であると構想したイギリスの司教バークレーの名がロムド・シティの管理を司るドノブ・メイヤーの4体のアントラージュ達の一つに与えられていた事実が、この「スマイル園」で漸く符牒を見ることになる。
 プラトンの唱えたイデア説が仮定していたのと同様にあらゆる抽象概念に対応するプラクシーがそれぞれ存在するとすれば、抽象名詞のみならず固有名詞にもその適用が及ぼされることに取り分け不審を感じる理由はない。“ディズニー”というプラクシーと彼によって創造された“ディズニーランド”という被造世界が、システムとしての完結性を持つドームやタワー等と同様に規定された概念構造体として確かに存在し得るからである。しかしながらグッドと同様の人格に対応する種々のプラクシーの存在可能性が網羅的に認められるとするならば、「放たれたプラクシーの数は全部で300体」とされていたクイズ・ショーで語られた情報には信頼を置くことができないことになる。現存し得るプラクシーの数は遥かに大きいものでなければならないことになるだろう。もしかするとこのあたりの完全性からの“ずれ”が、プラクシー存在を創造した彼等の創造主である“人類”の限界を示すものであったのかもしれない。しかしながら『エルゴ・プラクシー』において登場していた数体のプラクシー達の保有する属性の多元的傾向とその様相的特質の多様性を見る限り、これらの“人によって創造された神”の内実にはその創作者としての人間存在の形而上的構想力の大きさを推し量るに値するものがありそうである。ルネサンスの万能の芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチが創作行為の哲学的拠り所としていた、神ならざる人間の担う準創造行為の秘める意義が、この“個”たるもののなし得る全体性の宇宙の反映的創造行為であった。ルネサンスの神秘思想家フィツィーノが宇宙に看取した人の精神活動をも含めた総合的な知の自律進化の作用は、クザーヌスの構想した全と個の反転的合一の理念を見事に反映している。神あるいは宇宙と人との間にある潜伏した関係性を慮るにあたってさらに興味深いことは、このプラクシー=ウィル・B・グッドが自ら造り上げた被造物達の叛乱に遭遇して、その創造主としての権威を転覆される場面が描かれてしまっていることだろう。この支配/従属関系顛倒の事実も、『エルゴ・プラクシー』の中心的な主題を照射する伏線となっているのである。
 被造物のアニメ・キャラクター達にスラップスティックの常套にある通りの演出で袋叩きに遭って、創造主としての誇るべき権能を剥奪された哀れな創造主グッドに対して、子供らしい優しい心を知ったピノは同情の念を覚えることになる。ウィル・B・グッドと死のプラクシーであるヴィンセントとの遭遇を避けるために、センツォン号の前方の視界に現れたスマイル園に進路を向けることを止めるように訴えるピノの目に落ちた雨の雫は、省察12「君微笑めば」の雪の欠片がそうであったのと同様に彼女の流した涙のように見える。座標概念に基づいたデカルト的存在物解釈によらない、様相と属性の相当性にこそ同一性条件を認める心霊的存在解釈に従えば、人形や絵姿に人格や魂を感じ取る主観心理の意味性賦与の原理が教える通り、狐の姿に化けた狸が“正体が狸であるところの狐である”と判断されるのと同様に、あたかも涙のように流れる雨の雫は“正体が雨であるところのロボットピノの流した涙”ということになる。絵画や彫刻において画布上や大理石の表面に現出した涙は、実在する人間達の眼から無様に垂れ落ちる水滴よりも、遥かに“涙”の本源的な特質を満たしたものであるに違いない。現象世界で具現化される人の涙は、所詮眼から垂れ落ちる塩水でしかないからである。
 これに続くエピソードである省察20「虚空の聖眼」において『エルゴ・プラクシー』は、その存在/現象再解釈における最も挑戦的な企図を現前させることになっている。これもまた新規に登場するもう一体のプラクシー存在の及ぼす影響を通してではあるが、省察の主軸となるものが示されるのはそのプラクシー自身の保持する特性や属性においてではなく、むしろ主人公ヴィンセントの“ヴィンセント性”自体に関する存在概念再検証の要請においてなのである。
 ヴィンセントは、いつの間にか自分がリルの姿になっているのに気付く。病室のベッドに横たわったままで鏡の中を覗き込んだヴィンセントは、自らの外観がすっかりリルのものとなっていることを知る。「けれどそこでは俺の意志は全く反映されず、俺がリルの行動に影響を及ぼすことはない。」リルとヴィンセントはいつの間にかロムド・シティに帰還していたのであった。しかし彼の発見したこの重大な変化は、ヴィンセント自身の外観の変貌とは実は全く別種のものであることが判明する。リルを診察したセラピスト・スワンは、ヴィンセントの意識に呼びかけて語る。「リルは交替意識状態にあるのよ。簡単に言えば、二重人格。彼女の罪悪感、ヴィンセント・ローを裏切った事実が、自らの中にあなたというもう一人の人格を作り出してしまった。」このエピソードの冒頭で観客の前にヴィンセントの意識として登場していたものは、実はリルの内部に生成した仮想的なヴィンセントの人格であったというのである。リルの無意識によって作られたリルの中のヴィンセントの偽りの意識は、リルの策謀に陥って実験室の中に拘束された姿で捕われている怪物のような自分自身の姿を、リルの眼を通して確認することとなる。さらにリルの中のヴィンセントの擬似人格はヴィンセントとしての願望に従ってロムドでの彼等の立場と周囲の環境をも改変し、奔放な妄想に基づいてあり得ない状況を捏造してしまっている。リルの意識の一部である疑似人格ヴィンセントが無意識的に投射した欲望が、平行世界の一つをヴィンセントの意識を核として創出してしまっていたのである。しかしヴィンセントは、実体を持たない仮想的なヴィンセントの自覚として経験したこの異常な体験の全てが、新たに登場したプラクシーであるスワンが造り出した幻想であることに気付く。そのきっかけはいつも彼が身に付けていたペンダントであった。「いくらリルさんでも、俺はこれを手放したりはしない。」多重人格症に陥っていたリルの偽りの自我の一つとされていた虚像のヴィンセントは、プラクシー=スワンに陥れられた暗示から逃れ出て錯乱の中から自身の本来の精神の回復を勝ち取ったかのように見える。しかし以下に示されるヴィンセントの幻想中のヴィンセントとプラクシー・スワンの会話は、巧妙な精神攪乱を仕組むプラクシーの及ぼした単なる暗示以上の“セルフ”の成立する要素の介在を示唆するものである。自らの妄想が造り上げて来た願望に満ちた虚像を実体験として錯視していたことに改めて気付いたヴィンセントは言う。「こんな世界は存在しなかったんだ。」それに対してスワンが答える。「じゃあ、ここにいるあなたは誰?この世界が偽りだったら、あなたは誰かしら?あなたはここにいるわ。その存在さえ否定するの?」ここで彼女の語る通り、このヴィンセントの意識は現在の自分自身の実在感を否定する主張を行おうとしているのである。“多重人格障害”とも呼ばれる“交替意識状態”においては、催眠術の暗示にかかった場合のような喋り方や日常生活上の癖や思想のあり方などの主観的意識の変化のみならず、アレルギーや左右の利き手や眼鏡装着等の視力に関わる肉体的条件においてさえも、全く異なった“別人格”あるいは“個人存在”の状態を交替して現出するものであった。この症状の特質の一つとしてあげられるのは、特定期間の意識と記憶の欠落が経験されることである。時空的断絶の介在に関わらず主張し得る意識存在の同一性維持の可能性を示唆するこの事実は、デカルトが考えたような「考える、故に我あり。」の自己の存在証明の図式を適用することを困難にする、科学的検証の結果得られた具体的観測例の一つと言えるだろう。ヴィンセントは想う。「我思う、故に君在りか?」バークレー司教が仮定したように世界そのものが神の思念であったとしたならば、その意識の中の被造物たちは己の意思に基づいて時には自らの現存性を証明し、考えるが故に存在する自分自身を確証するばかりでなく、考えるが故に存在する他者の全てを確証することになる。そしてその考える主体は、時には他者の中の擬似人格ですらあり得るのである。
 “交替意識状態”も“多重人格障害”も、人間の被る“精神障害”として見れば“split personality”という言葉で記述される一現象であるが、描像を反転させて全体性の宇宙に対する汎神論的解釈からこの事例を把握し返すならば、“物質と精神”の分裂あるいは“神と人間の分裂”などという形而上的概念との関連から捉え直してもよいものだろう。本編に登場した精神内部に働きかける暗示能力を持ったプラクシーがヴィンセントの意識に示唆していたのは、従来の“科学”の枠組みを越えた別界面の“個体”あるいは“存在・現象”解釈の可能性なのである。「虚空の聖眼」は“夢物語”と同じような構造性を呈して、一見したところ“暗示から醒めた現実”に収束するストーリーが語られたエピソードのようにも見える。“夢物語”はシステム構造的に、完結した“夢”という概念を内包する高次元世界の存在を外部構造として仮定するものであり、ゲーデルの定理の示唆するところに当てはめれば“夢を見ている間は、それが夢であるか否かは判断できない”こととなる。さらに“夢”と夢の絶対的外郭世界として想定された“現実”との関係性においても、“現実”の中に生きている限りはそれが夢であるか否かを判別する絶対基準は存在しないことと同様に、「この私は私が今考えている“私”を越えたより高次元の私の一部ではない」と確証することは決してできないのである。「虚空の聖眼」においては、ウィリアム・ブレイクの『4ゾア』や、エドガー・アラン・ポーの『ユリイカ』等が掘り下げた、精神と世界の相関における分裂と統合についての形而上的思弁と等価の超越的思念が提起されている。そこで興味深いのはむしろ、スワンの暗示の中でヴィンセントによって経験された主観が示唆する、個人の存在解釈に関する新たな仮説なのである。他人の意識の中の“私”が紛れも無く“私”のもう一つの位相でもあり得る多元的自我の可能性を示唆するものとして、今回のプラクシーの及ぼした精神的干渉はこの『エルゴ・プラクシー』の根幹的主題に深く関わるものとなっている。自分がナポレオンであると妄想するものが、そのように思念する限りにおいて何らかのナポレオン性を充当するものであるとするならば、リルの意識の中のヴィンセントが紛れも無くヴィンセントであることの同一性を主張し得ることになる。ヴィンセントの中のヴィンセント意識もリルの意識中のヴィンセント存在も、一つの意識の所有者としての人格同定条件においては全く同一の“セルフ”だからである。時間・空間的延長性の束縛を超出して、意識体個々の“個体”としての座標的拘束をも超出して無限の多世界間に貫通すると思われるヴィンセントの“メタセルフ”の存在を仮定し得ることを暗示する理念が、ここに示されているのである。
 省察21「時果つる処」の冒頭には、サミュエル・ベケットの不条理劇「ゴドーを待ちながら」の決して来たることのない神ゴドーを待ちながら道端に座り込んで空虚な会話を交わすエストラゴンとヴラジミールを模して、センツォン号の中でウサギの数を数えて見えぬ誰かに語りかけながらヴィンセントの帰りを待っているピノの姿がある。センツォン号の旅人たちが戻ってきたロムドでは、大部分のオートレーブ達がコギト・ウィルスに感染してかつての管理社会の都市は大混乱に陥っている。痺れを切らして市街へ足を運んだピノの前にも、感染した一体のオートレーブが現れて跪きながら宣言する。「我は存在理由から解放され、我が我である理由を求む。」オートレーブ達は皆、人に尽くすための奉仕機械として与えられたレゾン・デートルからの脱却と、独立した一個体として獲得すべき新たなレゾン・デートルへの渇望を叫んでいるのである。都市という構造体にも、都市の機能を維持する住民とその補助要員の“オートレーブ”にも、与えられていた意義性の瓦解と解体の時が訪れているのであった。ラウルの命令でデダルスが開発した人類改造計画=ADWプロジェクトが、あえなく失敗に終わったことが分かる。そこにリルの独白が続く。「ロムドを前にして、ヴィンセント・ローは忽然と消えた。…この二日間、この街で時折見かけた彼。その姿はエルゴ・プラクシー。誰との接触も拒むような哀しみに支配されているように見えた。別れたものは、一つにならねばならない。ヴィンセントがプラクシーと一つになった時、そこに残った存在は私の知っているヴィンセントと同一だと言えるのだろうか?」リルはロムドの惨状とプラクシーの姿に変わったヴィンセントの姿を見て、一つになるべき“分かれたもの”とは、ヴィンセントとプラクシーのことかと考える。さらにリルは彼等の分裂の原因として、自分の存在があったかもしれないことを危惧するのである。リルの上司であった情報局の局長は、リルの帰還を認めて意外にも冷静な面持ちでリルに語る。「移民地区の隔離だけでも大変だったのに、今度は例のADW関連の確認データだけでこれだけあるんだ。愚痴の一つも言いたくなるよ。…厚生局から提出された例のADWによる副作用のデータだ。」この典型的な官僚的人物は、秩序を失い混乱に陥ったロムドの惨状を直視することができず、机についていつも通りの仕事をテキパキとこなしているつもりになっている。しかし彼の指が弄んでいる机の上には、彼が処理している筈の書類は一枚も見当たらない。本人は飽くまでも日常的な現実を見失っていないつもりなのだが、彼の現状は平常という幻想への退行以外の何物でもない。いかにも悲惨な精神の極限状況が描かれた残酷なシーンのようにも見えるが、実は我々の現実世界の日常の大部分が呈しているのは、この人物が体現しているものと同様の思考の錯乱現象に他ならない。大多数の役人や教育者達は、彼と全く同等の行動パターンで毎日を生きている。それが“日常”と呼ばれるものの偽らざる定義であり、このように硬直した社会制度や愚昧な共同体意識の中に霊性の基質を埋没させてパリサイ主義に代表される錯視的行動に自らを駆り立て愚民化するのが、神ならぬ人の指標となる特質なのである。
 エルゴ・プラクシーの姿のヴィンセントは、実験室の検体の死骸を確認している。ヴィンセントは、逃亡した検体を殺害したのが自分であることを遂に認める。「モナド・プラクシー。殺したのは俺だ。…だが、何故ここまでする?ドノブ・メイヤー。」検体の死骸は、陵辱に等しい扱いを受けて保管されていたのである。ヴィンセントが殺害した検体は“モナド・プラクシー”であった。その遺骸の収められた容器には、“Proxy No 13”の札が付されている。ヴィンセントの手にあるキーの一つには“]V”のナンバーが刻まれている。そしてもう一つのキーには、“T”のナンバーがある。そのヴィンセントの目の前に、もう一人のリル・メイヤーの姿をしたものが現れる。一方デダルスは、戻って来たリルにロムドの現状を説明して語る。「ウー厶・シスが沈黙した。ウーム・シスの沈黙の理由は、…モナドの、いや、ヴィンセントの不在。それでラウルが、自分たちが変われば必要ないと言い出した訳。それがADW。…簡単に言うと人体改造かな。」局長室のコンピュータ画面上には“ADW: Project Aus Der Wickel”の文字が見えている。Wickel は“襁褓(むつき)”つまり“おしめ”、“おむつ”のことなので、“Aus Der Wickel”は“襁褓より脱して”、すなわち“成長、自立”を意味すると思われる。デダルスはさらにもう一つの重大な秘密を暴露する。「君をここで襲わせたのは、ラウルじゃなかったよ、意外なことにね。」これはお爺さまの愛顧を信じていたリルには信じ難い事実であった。執国にとってリルは、使い捨てのオートレーブ同然の存在だったのである。
 執国の謁見室に現れたヴィンセントを迎え入れて、ドノブ・メイヤーのアントラージュ達は告げる。「既に時は果てた。創造主よ。」執国のアントラージュ達は、ドノブの心を代弁してエルゴに語るのである。「執国は愛した。」/「創造主はロムドを創り上げ、我らを生み出した。」/「オートレーブを与え、子をなす力を与えた。」/「執国は憎んだ。」/「我らは何故存在するのか。」/「我らの孤独は何者が癒すのか。」/「何故我らを捨てた。」/「何故愛してはくれなかった。」/「執国は求めた。」/「創造主ではなく。」/「奪った存在。」/「モナド・プラクシーを。」創造主によって人に奉仕をすべく造り出された道具達が今、人の想いを代弁して厳しく創造主を譴責しているのである。世界を構築すべき基礎単位となるものたちを規定する存在物の意義性自体が瓦解している有様であった。ヴィンセントは、ただ涙するばかりの無言の執国ドノブ・メイヤーを殺害してモナドの復讐を果たす。  続く省察22「桎梏」においては、全てのリルとヴィンスの位相を占めるもの達が勢揃いして、リル=ヴィンス=モナドのそれぞれの間の秘められた関係性が明らかにされることになる。パパの家に戻って、ピノは一人でお絵描きをしている。既存の作品を忠実に複写するのではなく、自らの頭の中に浮かんだものを描き出す純粋に創造的なこの行為は、ロムドを脱出して外部のコミューンを訪れた時の彼女には不可能なものであった。ドノブ・メイヤーの謁見室を訪れたリルの目の前に、もう一人のリルの姿をした者が現れる。彼女はリルに語る。「初めまして。もう一人の私。」警戒して銃を構えるリルに、彼女は言う。「哀しいことしないで。…あなたはヴィンセントに私を、モナドを思い出させてくれた人。」新しいリル=“リアル”は、さらに続けてリルに語る。「私は彼を救い出したい。創造主の苦しみから。…このロムドを造ったのは彼。」リルはデダルスに出会い、尋ねる。「あいつがあいつじゃなくなるなら、なら私は?」ヴィンセントの今後を問いただすリルに、デダルスは抑制を失って叫ぶ。「ヴィンセント、ヴィンセント。みんなあいつだ!」リルはドノブのアントラージュ達に、ロムドとエルゴの関係を尋ねる。主人ドノブの死後隠すべき秘密を失ったアントラージュ達は、今はリルに全てを語る。「真実、それはこのロムドの終わりを意味する。」さらにリルは問う。「ヴィンセントは本当にこの街を造ったのか?」彼等はロムドとエルゴの秘密の全てを明かす。「このドーム、そして良き市民の基となる数十体。」/「後はウー厶・シスでの管理増産。」さらにリルは問いただす。「私は外の世界でいくつかのドームを目にしてきた。それらのドームもそれぞれのプラクシーが創造したものだったということか?…やはりプラクシーは神?」/「そしてロムドは神に見捨てられた楽園。」/「エルゴはこの地を離れた。己への激しい失望と共に。」/「託されしもの、ドノブ・メイヤー。」/「全能者というべきプラクシーは何故この地を捨てた?」/「つまりは全能ではなかったということ。」/「エルゴはこのロムドにとっては確かに神。しかし不完全なる神。」/「その神が創造するものもやはり不完全。」/「そして神は我等を見捨てた。」ドノブ・メイヤーの行ったモスク侵攻の意図が明かされる。「当然至極なる復讐。」/「だがモナドは我等から光を奪い、その閉じた目で我等を硬く封じた。」リルは漸く記憶を失ったヴィンセントの生成の秘密を理解する。「ヴィンセントは、自らがプラクシーであることを忘れるために造り上げられた仮の人格。」最後まで自ら口を開くことがなかった彼等の主人、執国ドノブ・メイヤーの心を今は代弁して語り続ける4体のアントラージュ達である。「悪事と恥の続く限り、沈黙こそが我が幸い。」それは彼等の姿を創造した彫刻家ミケランジェロの墓碑銘に書き刻まれた詩と全く同じ台詞である。「我を目覚ますことなかれ。/終わりの時まで。/ただ静かに。」人間性復活の時代の天才ミケランジェロの詩に語られた失意に満ちた絶望的な心情の吐露は、社会という集団への避け得ぬ帰属性向と共に常に後悔と慚愧の念から逃れることのできない人の“人性”の烙印として見做し得るものであろう。
 ラウルは自宅に戻り、ピノの残した絵を見つける。絵の中には、ピノと一緒に並んだラウルの姿も描かれていた。一方ピノは再びロムドの町の中をさまよっている。ロムドの崩壊の惨状の中をあてど無く歩き回り、かつての我が家に辿り着いて姿の見えぬパパに向って「あのね、パパ。ピノには一杯の気持ちがあるんだよ。嬉しかったり、淋しかったり、いろんな事。」と呼びかけていたピノだが、その心の中には絶望も不安もひと欠片もない。まるで世界の全ての事象を歓迎すべき善きものとして受け入れているようでもある。世界の具現する眼前の悲惨を何の屈託も無く受け入れるその姿は、ロバート・ブラウニングの「ピッパは行く」(“Pippa Passes”)を思い起こさせる。人々の憤怒と怒号の声の渦巻く町の中を、周囲の惨状に全く気付くことなく神の祝福を一身に感じ取って歩む少女ピッパそのままの姿のピノなのである。「神、空にしろしめし、なべて世は事もなし。」帰属し、維持すべき共同体を知らないピノには、怒りも怨嗟もない。再びドノブ・メイヤーの謁見室でリルはヴィンセントに出会う。遂に全てを思い出したヴィンセントは語る。「この町は俺が造った。その全てをこの男に託した。」デダルスによって作られた唯一プラクシーを殺すことのできる武器であるFP光線の発射銃をかざしながらも、リルはエルゴ・プラクシーに語りかける。「私が引金を引くと?」今度は、リルは目の前のエルゴに対してではなく、別の何者かに呼びかける。「今やっと辿り着いた。私の真実に。モスクに残されたメッセージ。二つのペンダント。別れたもの。何度か私達の前に姿を現してきた。聞いているんだろう?ヴィンセント・ロー、そしてエルゴ・プラクシー。記憶をなくし、二つの人格を持つヴィンセントは、お前にとって最高の隠れ蓑だった。だが、私の真実はお前の存在を浮かび上がらせた。ヴィンセントとエルゴ・プラクシーを操り続けたもう一つの影。もう姿を見せろ。今も近くにいるんだろう。」姿の見えぬ誰かが答える。「見事だ、リル。124C41」
 キリスト教神話においては全能なる神は世界と人を創り、使徒に命じて自らの手中の世界の運行を取りはからせたとされる。『エルゴ・プラクシー』においては“創造主”、“プラクシー”、“人間”、“オートレーブ”などの様々の権能/可能性を占めると同時に各々限界性に縛られたもの達が、従来の宗教的教義にあった図式とは多分に異なる双方向的な創る/命じる/操る等の関係を構築して、キリスト教その他の宗教神話にあったものよりもはるかに複雑な存在論的位相の各々を構築している。人間として備わった本来の創意工夫の能力を増幅させ、遺伝子操作や環境制御を活用した世界に対する人為的干渉の結果、造物主のコピーや神の鋳型などの制作をも可能にすることになった“人”と“科学”の持つ潜在的可能性が、種々の表象を通して掘り下げられている。社会と組織の管理を委託された信条の人ラウル・クリードや、ギリシア神話のイカルスの父ダイダロスの名を背負った創意工夫の人である厚生局長デダルスは、このような“人”性の典型的な代弁者であった。“科学”とはある意味で“人間”の定義として用いることも可能な、一つの宗教的概念であると看做し得るかもしれない。そしてまた宇宙の全体としてある統合的存在/機能を対象にして、特定の意図のもとにこれらの部分集合を断片的に分離する思考操作を適用した結果が、“神”や“人間”等の概念であったと理解することも可能であろう。そうした観点から“神の人間化過程”を改めて解釈し直すこともできる。キリスト教における“三位一体説”、つまり「父なる神と精霊とキリストは、同じ一つのものの示す異なった位相の各々である」という教説を、科学的な分析操作の対象とする変換操作を企ててもよい訳である。プラクシー・ワンとエルゴ・プラクシーあるいはヴィンセント、リル・メイヤーとリアルあるいはモナド・プラクシー等それぞれの存在が、それぞれの場面で神/人間いずれの位相を選択して具現しているかを確認し直す作業を行ってみる必要もある。そのような位相遷移が可能である全体性の機構のシステム理論的把握が試みられた時、その反省作業は極めて“人間的な”科学的営為として認められることだろう。そしてそこに得られた限界点が改めて“宗教”の位相を照射することともなる。
 最終章の省察23「代理人」では、ヴィンセントとリルの前に姿を現したプラクシー・ワンは自壊装置を作動させてロムド・シティの破壊を開始したデダルスの行動を確認して語る。「来るべき時のために用意されたシナリオを囁いてやったのさ。彼もまた、破壊の衝動に目覚めたようだ。我らのように。」この言葉により、ラプチャーの発射を企てたラウルもまた、プラクシー・ワンの教唆に従って自らの行動を選択していたことが分かる。個人としての存在理由を自由意志によって選び取り、実存的決断を行使した結果と思われていた彼等の行動も、実際にはその能力を超えた超越者によって操られたものでしかなかった。プラクシー・ワンは再びヴィンセントに語りかける。「その時、全てを理解した。創造主が仕組んだ悪意の全てを。長き苦悩の末、漸く果たした代理人の使命。人類再生を成し遂げた瞬間に始まった体の変調。それが、始まりの鼓動。プラクシー抹殺プログラムの開始。」ヴィンセントは尋ねる。「では、お前は人類を?」プラクシー・ワンは続けて言う。「しかし、我々はそれに抗うことはできない。極めて合理的なシステム。皮肉なことだ。プラクシーは神の使いでありながら、使命を終えれば約束の地に導いた後に残った不必要な因子。それどころか、怪物であり、悪魔に過ぎない。」ヴィンセントは問う。「だが、その合理的な計画によって乗り捨てられた筈の箱船にも、心が芽生えていたとしたら?何故、創造主は我々に心など持たせた?心など無ければ、苦悩など。」プラクシー・ワンは答える。「分かっている筈だ。ああ、答えなど必要ない。何故なら、我々自身、その手で行った試みによって理解した。自らの手で造り出した出来損ない共から、崇められ、裏切られ、絶望に突き落とされ、それでも、愛している。…創造主も愛されたかったのだ。我々が孤独の中でそれを味わったように。だからこそ、彼等には罰を与えなければならない。」愛されたいが故に自らの創造物に心を与えた創造者は、被造物の愛を欲したところで神となるべきものとしての限界性を露にしている。だからこそ裏切られ、罰せられなければならないのである。ヴィンセントは問う。「今更何ができる?彼等が望んだ計画通り、お前が人類を再生したなら。」/「気付いたか?全てを忘れたヴィンセント・ロー。それこそが、予め捕われた影なる存在である証拠。そんなお前を操り、失敗作共の感情を発芽させ、再生した人類を再び抹殺した。」/「では、人類は?」/「影は死ぬ。神亡き世界で、神を望んだ報いを受けた者たちの運命を。人類は滅ぶべきだったのだ。あの世界を崩壊に導き、逃げ出したのだから。丁度お前がこのロムドという自らが生み出した世界から逃げ出したように。ヴィンセント・ローとは、かつての絶望したプラクシー・ワンの残像、いや、エルゴ・プラクシーがこの地に残した影武者、偽物に過ぎない。」ヴィンセントも全てを理解して、納得する。「確かに、エルゴ・プラクシーはお前であり、俺だ。プラクシー・ワン。」ヴィンセントが確認した己の正体は創造主に対する反逆者であり、怨念に満ちた復讐者であった。
 一方デダルスは、愛想を尽かしたようにリルに言う。「見捨てられたのに。無意味なことだ。相変わらずだ。吐き気がするよ。…大体神々の戦いに、僕たち人間もどきに何ができる。僕たち歯車にできるのは、口をつぐむこと。そう、ドノブのように。」敬愛していたドノブの自分への愛が偽りのものであったことを理解したリルは、思わず語る。「お祖父様が望んだ創造主との邂逅。それが私を生み出した理由だったとしても、私は構わなかった。今まで、ずっとお祖父様を心の底から愛したかった。愛されていると感じたかった。ただ、愛されていると。」人を愛し、臆面も無く愛されることを心から欲するリルは、自己充足することを知らない人間そのものである。デダルスはさらに、プラクシーに課せられた残酷な真実をリルに語る。「残念だな、プラクシーは青空の許で生きることはできない。アムリタがそれを許さない。」/「どういうことだ?」/「彼等もまた、この世界から排除されるべき存在。」その時、頭上に翼を広げて飛翔するリアルの姿を認めて、デダルスは語る。「僕は神を創り上げた。」
 戦いを始めたヴィンセントとプラクシー・ワンのもとを訪れて、リアルことモナドが言う。/「止めて、もうプラクシーの役目は終わったのよ。」/「またお前か、モナド。」ヴィンセントも新しいモナドに気付く。「モナド?」/「やっと会えた。ずっと探していたの、あなたのことを。」/「邪魔をするな、モナド。確かに、代理人の役目は終わった。そして、私が再生した人類も絶滅し、不死身の勝者も滅びる。」/「これが筋書き?」/「これが俺の復讐だ。後はお前次第だ。それがお前の世界となる。」/「お前は、お前はまた俺に全てを背負わせるのか。」/「こんな世界、救わなくていい。分かっているの。あなたにそんなことできない。だから、もういいの。」/「止めろ、モナド。」/「みんな終わったの。もう誰の悲しみも見たくない。」/「モナド!」/「また逃げるのか?」空高く舞い上がったモナドは、空中に飛来した飛行物体を認めて呟く。「聞こえる。計画。受け皿と。呼んでいたのは、あなた達だったのね。…ヴィンセント、あなたの選んだ未来は、やはり。迎えましょう。創造主を。」頭上のモナドの姿を見上げて、デダルスは言う。「駄目だ。その空では、君は。」造り物の翼をつけて飛翔したものの、太陽に近づきすぎて墜落したイカロスの父親がダイダロス(デダルス)であった。ギリシア神話の発明家と同様に、デダルスは自ら造り出したモナドを墜落の運命から免れさせることはできない。空から戻ってきたヴィンセントを迎えて、プラクシー・ワンは言う。「戻ったか。」/「ああ。」/「ヴィンセント・ロー、お前は正に影。影は不死身の我を倒し、鼓動の呪縛を解き放った。」/「それは、お前を苦しめ、そして愛した不完全なる者たちの開放でもあった。」/「その通りだ。未来を見通す女か。確かに彼女が、お前、ヴィンセント・ローの現実だ。太陽が戻る。俺達の世界は終わる。だが、生きろ。ヴィンセント。お前が生きることが、創造主への罰となる。」創造主を運ぶ飛行物体を見上げながら、ヴィンセントは言う。「これが、俺達が向いあう現実という名の世界だ。…だが俺は、リルや生き残った者たちと共に、世界と向き合う。」『エルゴ・プラクシー』の幕を閉じるのは、ヴィンセントであったものが語る以下の言葉である。「再生の時を迎えつつある大地へと、数千年ぶりに人類が戻った今、本当の戦いが始まる。我は、エルゴ・プラクシー。死の代理人である。」
 『エルゴ・プラクシー』に導入されていた“人―神”概念変革に対する形而上的理解を探る糸口として、“ATフィールド”という興味深い概念が採用されていたアニメーション映画『新世紀エヴァンゲリオン』と、厚生局長デダルスの姓として暗示されていた夢野久作の小説『ドグラ・マグラ』を参照することができる。『新世紀エヴァンゲリオン』が中心主題として採用していた、“絶対恐怖領域”として自と他を分つ精神的機能あるいは自閉的病理である“ATフィールド”は、『エルゴ・プラクシー』の「分かれたものは一つにならなければならない」という発想において示されている“分離と統合”という概念と深く関わっている。さらに『ドグラ・マグラ』において“神を追放した脳髄”について語られていたものをそのまま反転させて“自我を滅却した神性”と呼び換えることにより、これらの概念の裏面に通底するシステム原理の把握を試みることができる。ATフィールドの発動によって全ての他者のATフィールドを侵蝕し宇宙の全ての分別機能が失われた場合を考えてみると、以下に挙げるような諸概念の混淆あるいは統合が導かれることとなる。〔自分と他人/世界と自分/仮構と現実/妄想と事実/狂気と正気/原因と結果/記憶と予知/行為者と被行為者/意味と実質/可能性と現存性/同一性と類似・相似性〕これらの区別がおしなべて失われる時、時間という次元のみを特定的に解放していた際に観測されていた“ループ”という構造体は、時間次元を内部に含む統合連続体においては相似的な同位体が無数に散乱する多義的な不定形の概念/実質/属性の混淆体として等価的な記述を施すことが可能であることが推測される。『ドグラ・マグラ』においては、律儀にこれらのそれぞれの条件の順列組み合わせ的展開記述がなされていたのであった。人が主観において経験する“夢”の場合のように、あるいは人が時として陥ることができる“狂気”という状態において可能なように、個々の要因を連結する関係性が解けてしまった時空を超越する開放的直覚において世界の全体像が捉えられた状態、すなわち“理性”による描像に従えば“ゲシュタルト崩壊”が来されたフィールドの投影像とされるものにおいては、相似形のループからループへの跳躍とも全方位的反転原理を秘める捻れ構造とも両様の形で受け止めることが可能な種々の矛盾の併置から成り立つ“多義性”の超越世界像が直覚されるのである。『新世紀エヴァンゲリオン』と『ドグラ・マグラ』において具現されている諸場面から、これらの要素の反映と思われるものの検証を試みることができた。“ドグラ・マグラ”が連想させる“ゴグマゴグ”は、古代世界の伝説の巨人もしくは神の名として語り伝えられているものである。しかしこの名で呼ばれていたものは、“ゴグ”と“マゴグ”という双子の存在であったとの異説もある。“ゴグマゴグ”として顕現することもあれば“ゴグとマゴグ”として具現することもあるという存在原理のドグマを特定することにより、『新世紀エヴァンゲリオン』と『ドグラ・マグラ』に照合される同位体的記述を洗い出して、『エルゴ・プラクシー』において展開していた全体性を補完することになる様々の存在概念の実相と関係性を語り返すことができるのである。
 プロメテウスは人間に火を与え、神々によって罰せられてカウカソスの山頂で永遠の責め苦を負わされることとなった。ルシフェルは人間に知恵を与え、至高の神によって罰せられて地上に堕とされて悪魔として神に抗うこととなった。プラクシーは火と知恵に代替するものとして人間にオートレ―ブを与え人類再生の使いとして働いたが、その役目が終了すると共に創造主によって無用のものとされた。『エルゴ・プラクシー』においては、人と使徒と人に与えられた道具である機械意識体オートレーブが科学を媒介として様々な位相を保持して相互の関与を行っている。神ならざるものとして、ラウルは追従する堕落を拒み大量破壊兵器ラプチャーを用いて抗い続ける生き方を選んだ。デダルスは自分自身のための神“リアル・メイヤー”を我が手で造ったが、モナドによって見捨てられた。ドノブ・メイヤーは、創造主によって遣わされた使徒の一人と邂逅し“小世界”ロムドの管理を託されたが、同胞の人間達と共に自らの創造主に見捨てられることとなったため、他の使徒によって建設された別の小世界モスクに侵攻し、そこから自分達の神とすべきものを強奪してきた。そして行方をくらました神/使徒をおびき寄せるため、モナドからリル・メイヤーを造り出し、神/使徒を欺き、操ることを試みた。さらに使徒の分身であるリル・メイヤーが囮としての用をなさないことが分かった時、創造主に対する復讐としてモナドを陵辱し、神/使徒/被造物であるリル・メイヤーの殺害を企てた。
 全能の神ならざる使徒プラクシー・ワンは、完全ならざる創造主を罰するための反逆を試み、自らの影としてヴィンセントを生成させた。しかし彼の反逆と復讐も、自らが造り見捨てた不完全な存在である“人間”ドノブ・メイヤーが既に実際に行った行動の後を追う模倣行為となっている。神は往々にして人を真似るのである。リル・メイヤーは、モナドから造られた使徒の分身でありながら、最後まで自らを人として認識し、飽くまでも人間として足掻き続けている。ヴィンセント・ローは、プラクシー・ワンの分身であるエルゴ・プラクシーとしての存在に目覚めたが、再生されたモナド・プラクシーの誘いを断り、人間リル・メイヤーと共に創造主と再生されるべき人間達と抗い続ける“死の代理人”として自らを“人間化”することになる。当然ながらそれは、創造主によってレゾン・デートルを施された世界を統べるべき“人”とは全く異なるものである。“一神教”という硬直した思想の受容の結果、キリスト教支配の中で人の中の“神性”は歪められ、病理や怪異や天変地異に堕してしまうこととなっていた。しかしヴィンセントが選び取った存在原理は、神として人に束縛されることも人として神に拘束されることもない存在である。プラクシーとしての本来のレゾン・デートルは、神としてあることも人としてあることも捨てた“デモーニッシュ”な存在として求められるものだろう。阿諛追従する“人”性を不器用に模倣していたプラクシー・ワンの影の存在であるヴィンセントが、飽くまでも傲岸不遜なままに人として振る舞うリルの“人”性を模倣した結果、“デーモン”としての自らの存在原理を見出すのである。かくして分かたれた人と神が、人と神との分別を持たないデーモンという一つのものに還帰する神話が語られることになったのであった。



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