科学とSFと哲学的省察 

 『エルゴ・プラクシー』における神と人と自分(1) 



 『エルゴ・プラクシー』(Ergo Proxy)は、衛星放送局WOWWOWで2006年2月25日より8月12日にかけて全23話で放映された、プロダクション“マングローブ”(manglobe)制作のアニメーション映画である。このシリーズ・アニメ作品はガイナックス制作の『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)の場合と同様に、小説やマンガ作品等を原作としてアニメ映画化の手順が進められたのではなく、当初からスタジオによるオリジナルの企画として創出され、現代科学の様々の分野の最先端の知見を縦横に駆使して哲学的主題を掘り下げた、日本アニメーション・フィルムの中でも屈指の野心作である。未だ学的範疇区分も確定していない“精神現象学”や“遺伝子情報本体論”や“宇宙システム理論”等に関する知の統合的把握を目論み、人間存在と宇宙の存立機構の根底に関わる時代と地域を超えた普遍的な主題性を追求した本作は、アメリカでは英語版がFuse TVで2007年7月より放映され、オーストラリアとカナダでも2007年に放映がなされている。日本における意外なほどの知名度の低さにも関わらず、海外における評価の高さが印象的な本作なのであるが、実はアメリカにおけるこの実験的映像作品に対する反応も、必ずしもこの野心作の実質を正しく把握しているとは思えないふしがある。総じて好意的な批評的対応を勝ち取っているにも関わらず、この作品において最も印象的な意味深いエピソードとそこに用いられた表象と思われるもののいくつかに対して、イメージの現実性からの乖離を問題にした拒否反応とも言える批判的なコメントが与えられているからである。

 実はそのあたりに“サイエンティフィック・アメリカン”を標榜する功利主義の国アメリカの、仮構とアニメ文化に対する理解の限界を見ることができそうにも思える。“科学”の前提のみを受け入れて本作品を純然たるSFとして読解しようとするならば、つまり仮構世界の鑑賞手順として自然法則に基づく因果関係の連鎖を抽出して連続的な擬似現実ストーリーを再構築することを目論むならば、その読解作業は原理的に破綻が避けられないものとなってしまうのである。この極めて思弁的な映像作品においては現代科学から得られた知見が豊富に語られているが、題材の中核をなすのは科学の成果である応用技術ではなく科学の成立基盤に関する原理的思弁であり、主題として表面に取り上げられるのは哲学そのものなのである。その結果、むしろ科学の根幹的前提から決定的に逸脱する形而上的存在原理が追求され、その発想が本作品の演出技法と記述システムの双方に直裁に反映されて、特異な表象を形成することになっているのである。

 壊滅的な環境破壊の結果、人々が居住することが可能なのは外界から隔絶した“ドーム都市”のみになってしまった未来世界を舞台としたこの作品に登場するのは、実は一般の“人間”とは様々な点において異なる別種のもの達なのである。それにも関わらずこのアニメは、人間ならざるもの達の有様を通して“人間”という存在の霊的位相の根源を深く考究するものとなっている。自然科学的人間観や宇宙観を根幹的に覆す新たな視点から、物質と精神の全てを統合すべき哲学的理念に基づいた人間存在原理が展開されているからである。物語世界においてストーリーの前面に現れて“人”としての位相を占めて行動するもの達は、実は“創造主”と呼ばれる超越的存在によって人間の存在意義を代替すべく造られた、人工生命体である。しかし彼等を造った造物主である筈の“プラクシー”と呼ばれる神的超越者も、さらに高次の別存在によって造り出された被創造物であることが示唆されている。プラクシーを生み出した“創造主”と呼ばれているものは、現生人類の子孫である未来の種族である可能性が高いが、興味深いことに彼等の有り様の詳細は作品中には明示されていない。この仮構世界において今を生き自身の存在の意義について想いを巡らし、さらに創造行為を手がけあるいは限界ある被創造者としての自身の存在理由を模索し続ける行動の主体となって描かれているものは、この『エルゴ・プラクシー』という仮構作品の根幹的主題を背負う存在プラクシーとその被造物たる“人間”と、さらに“オートレーブ”と呼ばれる機械生命体達の3者である。それにもかかわらずこの物語が人間の心霊的本質を語っていると判断される理由は、信仰とその裏面にある怨嗟の念が自己同一性概念の再検証及び存在理由(レゾン・デートル)の模索という主題と表裏一体となって掘り下げられているからである。本来は人ならざるものであるこれら3者の間の関係が、一方的な支配や従属という形で収束することなく時に双方向的なものとなって変転し、創造者と被創造者の位相を二重三重に折り畳んだ輻輳した様態を通して描かれているのは、従来“神”という概念を用いて理解されていたものと典型的人間存在の根底に実は連続体を構築してある筈の宇宙の原型的基質の示す、“物理的存在局面”と“意識的様相局面”の二つの現象的位相の重ね合わせなのである。そこでは“全体”と“部分”、“自”と“他”という従来の座標概念の包摂関係で捉えれば決して覆すことのできない基本前提であった筈の原理的制約に対するドラスティックな再検証の試みが企図されている。

 『エルゴ・プラクシー』の舞台となるのは、4体のコンピュータ達の協議によって司政方針が決定される未来世界のドーム環境社会である。“ドーム”という閉鎖空間は、一つの支配原理に基づく安定したシステムを保証する領域ではあるが、同時に外部との隔壁を維持することを余儀なくされていることから、空間的・時間的あるいは自律システム的限界性を意味する、厳重な制約を与えられた不自由な系としての存立条件を暗示するものでもある。古代ギリシアの神々が人間達の信仰を支えとして展開していた、整然とした秩序のある理性的把握が可能なロゴス空間は、人々の信仰と神々の権能が失われた時には秩序の崩壊と“カオス”という無秩序の侵蝕を余儀なくされる不安を予知するものでもあった。ギリシア神話の神々は、タイタン族との熾烈な戦いの中でゼウスの開発した新兵器“雷”を武器に彼等の仇敵を駆逐し、かろうじて世界の支配権を手にすることになったのである。苛酷な抗争と必死の創意工夫の結果ギリシアの神々が打ち立てた内部秩序が“コスモス”と呼ばれるものであり、その整然とした安定性は人による信仰を土台として始めて維持されるものであった。当然の事ながら“コスモス外”には、他の神格の勢力圏であるコスモス的秩序とは別種の異次元空間が存在し、その敵対要素の反映はコスモス内においてさえも“カオス”の滲出としてしばしば認知されていたものである。理性の機能の保証された空間とは、実は普遍性の対極とも言うべき甚だしく閉塞的な場だったのである。結局のところ“科学”も、“全能”ならざるもの達の考案した制約ある権能を暫定的に増幅するために創出された、普遍的覚知の一断面に過ぎない不完全な仮説として理解されるべきものだろう。現在我々が“科学”という言葉を用いて認識している一見したところ堅固な宇宙把握システムも、その基本的構造性自体は、これらの“ドーム”や“コスモス”などと同等の有限な閉鎖的なものであることを認めざるを得ないのである。無矛盾の完結したシステム構造体として、必然的にその外部に未知のメタ構造が存在するであろうことを否定することが決してできないからである。

 生産と消費という形で定式化することができる人間の経済活動は、資本や労働力などのエネルギーの伝播と流動として観測すれば、ある種の熱力学として数学的演算操作の中に組み込んで、独立した科学的分析の対象とされることとなる。その結果、国家や資本主義体制などの何らかの限界性を備えた自律システムも、そのダイナミズムを図表化して可視化する変換操作を適用することにより、外界から隔絶した様々な種類の“ドーム”という形象でもって理解を図ることができるだろう。軍事的侵略行為と武力的支配によってではなく、文化的な冨と娯楽の播種を有効に活用して平和的属国支配を成し遂げ、“パクス・ロマーナ”という名の魅力的な世界統治を成功させた古代ローマ帝国も、あるいは軍事的圧力を背景に利用した高圧的な通商活動を展開して自由経済という名の下に現代の世界を支配している、イギリスからアメリカを経由して受け継がれてきた産業資本主義体制も、科学的定式化の結果においては全く変わることなくある特有のタイプの“ドーム”の形成作業として理解されることとなる。となれば我々現代人は、古代エジプト人がそうであったと決めつけられていた以上に、ある種のピラミッド造築を半強制的に強いられて生を送っている経済の奴隷であると言わざるを得ない。このアニメーション映画に登場する未来都市“ロムド・シティ”という表象に対しては、ここに例として挙げたような様々な具体的方程式読解作業を当てはめることができるものであるが、さらに同様の図式が科学の暫定的拘束を超出して全方位的に適用された結果、そこに生成される表象は“塔”、“森”、“書房”などのような種々の組織構造体や“クイズ番組”、“遊園地”などの概念構造体もしくは“夢”、“妄想”などの不定形の観念構造体の形を取ることともなるのである。このアニメーション作品の実体は、ニュートン力学にあったような客観的物質存在という基本前提を無条件に受け入れることによって成り立っている、科学の枠組みでのみフィクション世界を現象として捉えようとする“SF”という既存の文芸ジャンルの共通認識の枠を超えたものなのである。この映像作品が目論むのは、純観念的記号の奔放な組み合わせを活用して抽象的概念操作を行い、新種の意味の複合体の提示を示唆する形而上学的思弁を映像化することにある。そこでは個人存在と現象生成を司る原形質的存在原理に対する超出的記述の可能性が切実に模索されている。そして“仮構”とは、本来そのような観念操作が徹頭徹尾行われる場だった筈なのである。

 本作のエピソードの各々はデカルトに倣って“省察”と名付けられている。省察1「はじまりの鼓動」では、未来都市の実験室らしき場所で拘束されていた“検体”が目覚めてしまうところから物語は始まる。研究施設の破壊の結果“検体”と呼ばれる異形の怪物の逃亡がなされた後、正体の知れぬ何者かのモノローグが観客の耳に聞こえる。「その時全てを理解した。創造主のしくんだ悪意の全てを。我々はそれに抗うことはできない。ただ、ただ彼等には罰を与えなくてはならない。…始まりの鼓動が聞こえる。」この独白をなすものの正体は明らかにされていない。この後、異形の者たちの姿が二体、シルエットのみで画面に映し出される。その有様は戦いのようでもあり、また旧知の者達の会話のようでもある。しかし彼等の正体も彼等の間の関係も全く具体的に示されることはなく、この場面で彼等の間に実際に何が起こっているのかは、即物的な映像の断片によって提示されているのみで、その概念的意味性は明示的に示されてはいない。この極めて暗示的な場面に描かれた出来事の背景と実質を理解するためには、最終話に至るまでのこのアニメーション作品の特異な主題提示の表象形成の手法を綿密に追っていかなければならないことになるのである。  古代ギリシア神話の神々がそうであったように、カオスから隔絶した限界あるコスモスの制約ある自由と存在意義をしか与えられていない世界を支配しあるいは生かされていることを余儀なくされたことの自覚が、予めそのように世界の基軸と物理定数を設定した超越的存在である“造物主”の悪意を感じ取ることとなる。人は時間的存在として限りある意識と生命を与えられた致死性の運命として、遺伝子内のテロメアの機能により有限の細胞分裂の回数を定められたことが確証される “ヘイフリック限界”という定数の原理的運命性を痛切に自覚する。人を越えた者もまた、死すべき道を閉ざされた超越的存在として造り上げられてしまった、ヘイフリック限界を持たない“アムリタ細胞”の持ち主である選別存在であることへの痛切な自覚を抱かざるを得ない。渇望する理想と乖離した苛酷な現実に対して不満を抱き、ありもしない神を呪ったりその加護を期待したりするのは、ニーチェの冷徹に指摘した通り未成熟な意識の陥るルサンチマン以外の何物でもないが、ここに提示された可能世界においては実際に“創造主”と呼ばれる上位の意識体が存在することが規定されており、また主役となる存在者自身も一人の“創造主”として、部分的小世界と自身の下位に属する意識体を創出しているのである。このフィクションを形成する観念世界においては、様々な位相における上位存在者の悪意の認知と、これに対する下位存在者による報復行為の具体的様相が多面的に語られることになっている。

 宇宙の全体構造とその下位構造である自己との間にある如何ともし難い絶対的関係性を認識し、外部の支配から決して自由であるとは言えない限界ある自我存在を感じ取る意識の主体こそが、通例“人”という言葉で理解されて来たものであった。しかしこの仮構作品においては、その“人”性に対する新たな考究の可能性の飛躍的展開が企てられている。それは神の“永遠性”と“全能性”という概念に対する依存を放擲した懐疑的意識の抱く、超科学的思弁と言ってよいものである。『エルゴ・プラクシー』において“造物主”に対する怨嗟の感情を養い報復を目論む存在は、“プラクシー”という名の人間とは別種の意識体となっている。通例は“代理人”を意味するこの言葉は、ギリシア神話の神々が各々の抽象概念のそれぞれに対応する意識を備えた個別的存在であったことに示されていた全体性の宇宙の示し得る位相と、キリスト教神話において造物主の意図を実行する役割を果たす“使徒”という存在が担っていた全体性を補完する位相の双方を含意し得るものと考えられる。しかしそれだけではなく、さらに統括的な宇宙と精神の統合記述を可能にすることを目論んだ創造的指標とも見なされるべきものが、このアニメーション作品において独自に採用された“プラクシー”という存在概念なのである。仮構作品として現出する表象の全てが“リアリティ”の現象性を乖離した巧妙な観念の重ね合わせとして概念/映像形成がなされて提示されることとなっている。  『エルゴ・プラクシー』に登場するドーム都市を管理する4体のコンピュータ達は、それぞれバークレー、フッサール、デリダ、ラカンの哲学者達の名で呼ばれ、またミケランジェロの彫刻作品「昼」と「夜」の対と、「夜明け」と「黄昏」の対として各々の外形を与えられている。作品内の設定に直接には関係を持つことのないこれらの現実世界内の概念的連関は、提示される仮構世界の表象的内実と平行して観客の心象内に多様な知的連想を展開させることとなる。ルネサンスの天才彫刻家の手による立体造形作品の表象に見られるように、しばしば原理的な本質を語ろうとする際には、一つの主題が対照的に分極した“対”で表現されているところが、このアニメーション作品の根幹的主題と深く関連することになっている。全方位的・無限延長的に確証された原理とはほど遠いものとして、かつて普遍原理として受け入れられていた“科学”と“理性”は、再検証の手を加えられなければならないからである。コスモスとカオスの対照、昼の原理と夜の原理の対照などの2極性原理に基づく新たな宇宙原理把握を図る意識は、科学思想の原理的特質に対する深い反省的自覚と、その限界を超出した普遍的真理への飽くなき憧憬を反映している。宗教と分たれたものとして生成した科学の次元拡張の後再統合された様相において獲得されるべき神と人の共有する心霊的位相と思われるものが、本作では大胆に表象化の操作を加えられて追求されているのである。  世界のシステム的破綻が進行しつつある一方、モスクからロムドに移民としてやってきた平凡な人間ヴィンセント・ローは、与えられたオートレーブ処理課の下級職員としての職務を、市民として認められるべく忠実に果たそうと努力している。ヴィンセント・ローの首には、奇妙な形のペンダントが下げられている。ストーリーの表向きの“リアリティ”の様相面では、物語はヴィンセントの背負う数奇な宿命とこのペンダントの秘める謎の解明作業という形で、一見したところSF的な道具立てのもとに進行する。しかし概念構造の集合体として観客の眼前に示される作品の全体像は、ミステリーや科学の前提とする具象的領域を遥かに踏み越えた、概念/心象を統合する観念の多様体構造を呈するものとなっているのである。

 ロムド・シティを支配する“執国”の補佐を務める4人の哲学者達の名を与えられたコンピュータ達は、社会の管理と人間の補充について語る。「不足すれば、増産すればよいだけ。」この世界で“人間”と呼ばれるものは、実は彼等の補佐を務める随伴型アンドロイド“アントラージュ”と同様に必要に応じて“増産”されるものである。逃亡した怪物の残した特有の痕跡を発見した情報局捜査官リル・メイヤーに、彼女のお付きのアントラージュであるイギーが警告を発する。「その行為は禁止されています。」オートレーブ・イギーはリルの忠実な補助要員のアントラージュであると共に、実はリルの行動を監視し中央に報告する管理社会の歯車としての中継装置でもある。しかしこのオートレーブ達には“コギト・ウィルス”と呼ばれるシステム・バグの感染が確認され、ウィルスに冒された個体は個々の存在理由を模索する独立した精神を持つ意識体と化してしまうのである。捜査から帰宅したリルのもとを訪れたのは、マスクのようなもので顔を覆った異様な姿の怪物であった。後を追うように現れたのは、またこれとは別の姿をした怪物だった。後に現れた方の怪物が、物語の冒頭で“覚醒”して脱出した“検体”である。これら2体の怪物と、彼等とリル、そしてヴィンセントとの潜伏した関係に関する謎解きが、事件の正体のミステリー的解明を越えたこのアニメ作品独特の形而上的な意義性を担った主題を語る軸となる。ヒントとなる概念は“影”、“モナド”、“ペルソナ”等の、全一性の宇宙観に基づいた統括的存在・現象解釈に関連する術語であると思われる。ロムド・シティの管理局局長ラウルは執国に呼び出され、検体の捜索を急き立てられるが、執国とラウルは実際に口を開くことはなく、彼等の会話を代行するのはそれぞれのオートレーブ達である。  省察3「無への跳躍」では、怪物との遭遇からロムドのシステムの根幹的矛盾に気付いたリルの処置に関して、執国の4体のオートレーブ達が協議を行う。 「勘が鋭敏すぎるのだ。」/「全く、誰に似たのかしら。」/「市民は全て並列化された情報を雛形にしている。局所的近似値には何の意味もない。」/「やはり情報局などには配属すべきではなかったのだ。」/「いや、教育的観点から考えても適切な判断だった。」/「その証拠に、市民レベルとしては最高の感受性を保持している。」/「素晴らしい結果だ。」/「しかし、そこから派生する行動力こそが元凶だ。」/「元凶というならば警備局はどうだ。」/「案ずることはない。あれだけ念押ししたのだ。」/「いずれにせよ、このロムドが揺らいでいることは否定できない。」/「一刻も早く事態の解決に向けた迅速な措置を。でなければ。」/「レゾン・デートルの崩壊。」  ロムド・シティのような高度に統制されたシステムを管理する主体からすれば、システムの構造もシステムに含まれる構成要素の保持する位相も、可能な限り簡略化された一元的なものに収束させることができるほど、“管理”の作業自体は効率的となり、努力目標の達成は容易に、そして仕事内容に対する評価もより望ましいものとなる。親や学校や文部科学省や国家等が、子や生徒や学校や国民を“並列化”したがるのはこのような力学的要因が働いているためなのだと推測できる。しかしそのような並列化行程が極度に押し進められたシステム全体は、柔軟性(感受性)に乏しく、システム自体の改変を自立的に行うことを妨げるばかりか、システム全体に関わる突発的異変が生起した場合には、その危機対応能力は極端に低いものとなってしまうだろう。しかし管理体制は、管理システム外の干渉や影響を全て望ましくない排除すべきものとして認識するであろうから、このような内部のシステム改変的要因を無視するばかりでなく、むしろ危険分子として抹殺する方向に動くことが予想される。ここに見たような力学的作用の結果の典型例を、外部の“荒れ地”構造から隔絶された自律系である“ドーム”の構築として理解することができるだろう。“科学”や“理性”や“コスモス”などの概念も、様々な位相においてこの“ドーム”システムの相関物として理解することが可能なものとなる。ドーム外環境である“荒れ地”や“カオス”への脱出あるいはこれらのドーム内部への“侵蝕”に相当する現象と思われるものは、既存の概念や歴史的事実の中からも様々に指摘して検証することができる筈なのである。

 ヘイフリック限界を失った癌細胞は、母体の生命機構の維持を顧みない自身の増殖を新たなレゾン・デートルとして選択し、無限増殖を基本原理として肥大化していくが、母体となる生命体の個体死と共に栄養の供給を絶たれ、本性的に予期し得ない筈の死を迎えることになる。プログラムとして“死”の要素を全く組み込まれていない存在は、システム外の要因である“死”の到来を予測することができないのである。同様にカオスを取り込み融和することを原理的に拒否する整合的な自立的プログラムは、バグとしてのカオスの排除に自身のレゾン・デートルを集中させることとなり、却って自律システムとしての飽和点への進行を加速することとなるだろう。 システムのこのような傾向は、社会組織の管理を行う者においてはしばしば芸術の最も感受性に訴えかける要素であるエロティシズムやグロテスクやナンセンスの部分に対する迫害という行為を招来するものとなる。システムが自身の安定を保障するために内部機構の並列化を進行させる過程では、個別的な生のエネルギーの奔出である“エロ”と、規格化され得ないあるがままの現実の実体を暴いた結果現出する“グロ”と、規範の抱え込む内部矛盾を暴いて嘲笑する“ナンセンス”の要素の排除が優先して実行されることとなる。市民としての権利を既得権として保持する高等遊民だけは、システム内自由を行使して“文化”や“芸術”の名の下に実体はエロ・グロ・ナンセンスと何ら変わることのない選別知識と占有快楽を特権的に享受することができるが、未だ市民権を得るに至っていない外部世界からの移民あるいは組織構成員末端の未成年者達は、市民として認知されるための条件を充当するために、倫理的に“正しい人”になろうとする努力を自覚的に差し止めてまでも、システムに対する屈服と迎合の身振りとして自らの感受性を封印し、社会的な“良い子”を演じ続けねばならないことになる。一方このような矛盾に満ちたドーム社会の実態をあるがままの姿で視認することができる“感受性”をあまりにも豊かに保持する構成員は、危険分子として保護観察の対象とされてしまうこととなるだろう。人間の構築する“社会”と“教育”と“管理”と呼ばれているものの実体を語る一つの指標が“並列化”である。  下級市民ヴィンセントは身に覚えの無いオートレーブ殺害の嫌疑をかけられ、官警に追われてロムド・シティから逃亡せざるを得ないこととなる。省察4「未来詠み、未来黄泉」では、ドーム外部のコミューンの住民フーディは、ロムドから脱出してドーム外部世界に蔓延しているウィルスに感染した移民ヴィンセントの看病をしながら、カルカソンヌの詩人・ジョー・ブスケの詩を朗読している。ロムドでの悲惨な記憶を辿りながらうなされるヴィンセントの耳に、フーディの声が聞こえてくる。「そこにあるあらゆるものは、町でも教会でも川でも、色彩でも光でも影でもなかった。」/「私はしばしば、身動きもせず、このえも言われぬ大きな海峡や大空の晴朗さやこの時刻のメランコリーが心地よく体に染み渡っていくのを感じていた。」/「それは、夢想であった。」/「私の精神の中で何が起こったのか分からないし、それを言う術を持たないが、それは自分の中で何かが眠ってしまって、また何かが目覚めたと感じる、筆舌に尽くし難い瞬間なのであった。」/「彼から生まれた世界の中で、人はどんなものにでもなることができた。」この言葉は本作品の採用した意識体の存在原理を示唆して極めて暗示的なものとなっている。現象と存在が分離する以前の原存在に対する超越的知覚とも言うべきものが語られているのである。フーディがその詩を朗読しているジョー・ブスケとは、第1次大戦で彼に半身不随という苦難をもたらした傷について、「“傷”は自分の存在以前にもともと有り、自分という存在がその傷を具現した。」という啓示的な言葉を語った詩人であった。そこには現象世界を支配する因果関係を超出する直観が語られている。社会制度と心霊存在の本質を追究した哲学者ドゥールーズは、その著書『意味の論理学』の一章「できごとについて」でジョー・ブスケを取り上げ、“できごと”と“存在”の関係に関する独特の哲学的考察を展開している。ドゥールーズによれば“深層”である身体と“表層”である記号的概念が、“私”という意識存在において結びつくことによって“具体化”されると考えられていた。

 ロムド・シティの厚生管理を司る科学者デダルスの補佐を務める2体のアントラージュは、ドゥールーズとガタリという名を与えられている。ガタリは精神病理学者として、フロイト的な精神分析とは異なる環境全体を視野に入れた心霊解釈を追求した人物である。ドゥールーズとガタリは、資本主義と分裂病に関する論考を行った『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』の二部作を共著で残している。ジョー・ブスケが彼の詩に描いた宇宙との合一感覚について超越的な霊的認識についての論考を行った哲学者ドゥールーズと、彼と共に現象学的検証と著述を行った精神分析医ガタリの名がさりげなく背後で関連をなしている。仮構中の客観的なストーリーの進行とは直接の関連を持たない、観客の知的反芻作用においてのみ特有の意味を形成する概念の重ね合わせ操作が、このアニメ作品の追求する仮構的内実となっているのである。ロムドにある秘匿された真実の存在を嗅ぎ付け、その鍵となる人物としてヴィンセントの後を追ってきたリルも外部世界のウィルスに感染し、ロムドに送り返されることとなるが、オートレーブ達の“コギト・ウィルス”感染と、人間であるヴィンセントとリルが人の住み得ない環境とされていたドーム外部への脱出の結果被ったウィルス感染が、観念的対照を目論んで併置されている。

 ドーム外部のコミューンで生活をしていた女クィーンによれば、フーディーは“センツォン・トトクティン”と呼ばれる乗り物を隠し持っているという。“センツォン・トトクティン”とは直訳すれば“400羽の兎”だが、アズテク神話によれば神々の一群を呼ぶ言葉でもあり、彼等は聖なる兎であると共に酩酊の神でもあったという。“酩酊状態”という言葉が暗示するように、これらの神々は様々の異なる風俗や気質を備えた、無数の姿を取り得る集合的存在であった。古代のアズテク文明の人々はこれらの神々を祀るために、彼等の首都テノクティテュランの近傍に寺院を奉ったとされている。これに相応すると思われる古代ローマ神話の酩酊の神バッカスは、ギリシア神話のディオニュソスに該当する神であり、コスモス内秩序の代表者であるアポロの象徴する理性に対する“反理性”あるいは“カオス”を体現するものであった。理性による整然とした概念的把握を可能とする意味性の一対一対応を破綻させ、多義性の“重ね合わせ”的意味/存在解釈を示唆するディオニュソスの神は、宇宙の根底にあってアポロの理性支配の背後に滲出する原存在の保持する不気味な基幹原理を代表していたのである。逃亡したヴィンセントと行動を共にすることになった感染オートレーブ・ピノが読んでいた『不思議の国のアリス』に登場する“三月兎”(March hare)は、春の訪れと共に繁殖期を迎えた兎達の狂気の様を呼ぶ言葉だが、酒による狂気と薬物による狂気は古代より宗教儀式に欠かせないものであった。しかし着ぐるみにすっぽり身を包んで兎の姿を真似ているピノは人工知能なので、フーディのような口から出任せや、想像力によるインスピレーション的創作行為は不可能である。ここには外形と呼称に表された兎のイメージを接点として、神話や宗教や人間心理のそれぞれにまたがる心霊存在の根源的様相が掘り起こされようとしている。シェイクスピア的な劇的状況が巧みな映像表現を用いて表象化の操作を加えられている省察5「召喚」においては、ハーマン・メルヴィルの“鯨学”の例にも似た衒学趣味的考証という形を模して兎を巡る“省察”がなされているところに、この作品の観念遊戯と表象造形に集約された独特の創作理念を読み取ることができるのである。オートレーブのピノには、生き物の死が理解できていない。コミューンの少年ティモシーが死んだことを伝えられたピノは言う。「もう一個ティモシーいないかなって。」工業生産物であるピノにとっては、同一存在が複数あることが当たり前のことである。しかし人工知能ピノにとっての偏った個体認識と思われるものは、この物語の主題のさらなる展開とともにむしろ物語の中心命題と目されるものであることが判明する。

 省察7「リル124C41+」で、ウィルスに冒されてロムドに帰還したリルを迎え入れたデダルスは、“アムリタ細胞模倣子”を注入して治療を行う。“利己的な遺伝子”という斬新な概念を提唱した生物学者リチャード・ドーキンスの提示したもう一つの重要概念は、模倣子“ミーム”(meme)であった。細胞内に組織的実体として存在する遺伝子“ジーン”(gene)に対応する、物理的実体を持たない概念上の形質伝達要素として導入された“模倣子”という述語は、文化や思想の模倣的伝播に対して適用された概念であったが、一方システム理論的な別側面においては、物質粒子という基礎概念を採用して宇宙の力学的理解を目論んだニュートン的科学の解式とは対蹠的な、物質と情報の相互遷移が可能な共役的原理に基づく原形質的宇宙像の原理性記述の可能性を示唆するものでもある。ドーキンス自身は明確に神を否定しているが、むしろ科学の枠を踏み越えた領域において“神”概念再考と“魔法”概念再検証に興味深く関わるのが、宇宙の全体としての存在原理に基づいた物質/情報の反転的描像を示唆する模倣子という単位概念の発想なのである。物質のみを世界構成要素として理解しようとする“唯物論”の発想においては、世界の存在単位は不可分の質量単位である“原子”という粒子において基本的に理解されることとなっていた。この記述システムによれば全ての存在と現象は粒子の運動と衝突という力学作用として表記され、“ラプラスの魔”という全能的観測者の存在として仮定されたように、現象の全てを精密に計算し予測することが可能となる。しかしこれとは異なる事象の観測者の想念との相互作用による全体性の宇宙の心象把握というモデルを構築すると、例えばライプニッツが提起したように、“モナド”という原子とは全く異質の単位概念が主張されることとなる。モナドは原子がそうであったように集合として他の概念に包摂されることのない、全体性の宇宙の一断面のような単一的様相として理解されるべきものであった。この発想はプラクシー存在の内実を理解する鍵となるが、興味深いことに本作品においては“モナド”という名称はさりげなく概念軸をずらして導入されることとなっている。デダルスはリルに回収された検体の名前が“モナド・プラクシー”であることを教える。この物語においては、モナドは様々の権能を持ったプラクシーの中の一個体に対して与えられた呼称として用いられているのである。さらに“プラクシー”という存在について、デダルスはリルに語る。「この荒廃した世界で我々が生き残るために必要なフィールドを維持する鍵。」このデダルスの言葉から示されるように、プラクシーは特定の行動や操作によって人間社会に何らかの力を及ぼすものではない。プラクシーの存在そのものが、ある意味で宇宙の自然法則や潜勢力と等質の作用を及ぼすものとして、人間の社会という場の維持に欠かすことができないデモーニッシュな原理的素因として機能しているのである。そのプラクシーの不在が直裁にロムドの秩序のゆらぎとコギト・ウィルスの蔓延をもたらすのである。事象の固有の選別的現象操作を司るプラクシーは、物理的事象界面における“マクスウェルの悪魔”の変化形とも見なし得るものであるが、プラクシーの暗示する存在原理が局所的作用による現象伝達しか認めない粒子論理的存在解釈を転覆するものであることに間違いはない。その意味でプラクシーそのものが、モナドという概念の一つの表象としても理解し得るものとなる。

 省察8「光線」においてモスク・ドームを目指す旅の過程で外部の世界でヴィンセント達が見つけたロムドとは異なる都市構造物は、“ハロスの塔”と呼ばれるものであった。ハロスの塔の人々を指揮してロボット達との不毛な戦いを続けているのは、オマカトルとパテカトルという名の軍人達である。彼等の名前が由来するアズテク神話の始祖オマカトルとパテカトルの場合がそうであったように、全知全能で姿形を持たない抽象的イメージの神とはまた異なる、権能に限界があり特定の属性・形象を保持するばかりか人と交わり人の祖先となったりさえもする神の姿は、人間と神の間の関与のあり方をむしろ科学的に考えさせてくれるものである。神の存在証明のなされ方においても、人間理性によって捕捉可能な限界ある権能の具現化として、神概念は“空虚としての神”、“数式としての神”、“物理法則としての神”等のように、論理学的・数学的な様々な変換記述の方式を考案して理解され得ることとなる。そして純然たる科学としての枠組みから物理的に神存在そのものを捉え直して、“コヒーレンスとしての神”、“モナドとしての神”、“ペルソナとしての神”等の範疇の中に、新たに神概念を規定し直すことも可能となってくる。これらの思念の具体的な実例の一つが、『ピーターとウェンディ』に描かれた“ピーター・パン”という存在と“ネヴァランド”という世界であったが、『エルゴ・プラクシー』が企図しているのもこの知的なお伽噺と全く同様の形而上学的思弁なのである。このように人間知性によってその存在性向が科学的に捕捉され得る神とは、実際に“神殺し”、“神に対する恫喝”、“神との取り引き・交渉”、“神の監禁・封印”等の行為を行う可能性を示唆するものである。そうであるならば、人の行う技あるいは存在目的自身が、“神の鋳型の制作”、“新たな神の創作”、“人の神への進化”等の形をとって具体的に掲げられる結果をも招くことだろう。ここに挙げたような思想的目的措定の可能性に対する自覚は、反転して“神による人間の創造”から、“神の人間化”、“人の神格化”“神と人の分化”等の諸概念の実質に対する新たな角度からの考察の必要を迫るものになるのである。

 ロムドやモスコは“ドーム”と呼ばれる閉鎖空間であったが、省察9「輝きの破片」に登場したアスラはハロスと同様に“塔”(タワー)と呼ばれていた。エッフェル塔や東京タワーなどの無骨な建造物の誕生以来、“タワー”と言えば電波発信塔としての役割を果たす実用施設に成り下がってしまったが、中世以前に語られた“タワー”と言えば、しばしば魔法使いが構えている権力と魔力の象徴となる不気味な構築物であった。トルキンの『指輪の王』に描かれた“サルマンの塔”などにかろうじてその残滓が窺われるが、この物語においてはそれぞれのプラクシーの創造しその権能のもとに保護されていた小宇宙の表象を示すものとして、ドームやタワーなどの概念が導入されている。そしてプラクシーの支配する“場”の性質が異なれば、その世界はさらに多様な建造物や都市やさらに特殊な観念的表象を与えられて現出することとなる。ハロスの塔はプラクシー・セネキスの創造し統括する小世界であり、これと対をなすアスラの塔は、プラクシー・カズキスの支配する小世界であった。“月光のプラクシー”セネキスや“光輝のプラクシー”カズキスが存在することは、抽象概念の各々が対応物としてそれぞれの具象的存在形態を示す位相遷移が可能であることを暗示している。これらの存在/現象/意味の位相変換の可能性を超物理的なシステム理論として捉え直し、プラトンの“イデア”説や土俗的信仰における“付喪神”等の背後にある宇宙論的存在原理を反映することによって、この作品に導入された“プラクシー”という存在の秘匿された意義性が明らかにされることになる。細胞において死の機能を獲得した遺伝子ユニットであるテロメアが果たすシステム的機能と死神/破壊神の果たす宇宙進化的存在意義の双方を、個別的存在物全てに作用する潜勢力的要因として統合的理解を図るシステム理論的考察が示唆されている。この発想を反映する具体例が、省察10「存在」でデダルスが顕微鏡で覗く検体のアムリタ細胞の映像に表象化されている。細胞の活動特性を示す生化学上の概念である述語“シトトロピズム”(cytotropism)は、細胞の塊が持つお互い同士引きつけ合う、あるいは反発し合う傾向性もしくは、特定の細胞群を選択してウィルスが作用を行う原理特性と理解されるものである。生物の活動の基本単位となる存在として細胞自体の保有する動的傾向は、“生物”そのものの目的性を定義づける指標となる。仮構内の礎石的設定要因としてこの作品が提示するのが、プラクシーという生化学的“神”解釈を示唆する、死のプログラムを持たない“アムリタ細胞”を造物主によって与えられた存在なのである。体内に細胞死のプログラムを与えられず、個体死の展望を持たないプラクシー達に唯一死を施す力を備えた、プラクシー全体におけるタナトス的なシステム機能の具現化として“死の代理人”エルゴ・プラクシーがある。光輝のプラクシー、カズキスを倒し、エルゴ・プラクシーとして覚醒したヴィンセントを出迎えたピノは語る。「もう一人の、ヴィンスじゃない、もう一人のヴィンスね。」ピノはやはり、ヴィンセントという個人存在が複数体出現することに何の疑いも持っていない。これに照応して省察10「存在」では、“リル”に相当する個体が3体出現することになっている。執国の孫娘の人間リル・メイヤー、リルが無人の町で出会った幻想とも実在ともつかない若い姿のリル、そして何故かデダルスが“リル”と呼びかけた、回収されて戻って来た検体の死骸である。

 さらに省察11の「白い闇の中」では、自我の裡に潜む全体性の反映である存在原理に関する考察が掘り起こされていく。外の世界でヴィンセントが見つけた書肆“街の光”の主人は言う。「このように沢山の本が存在するためには、先ず読む人間が社会と呼べるものを作り出していなければならない。」/「ただ、人間が社会を作り出すためには、言語での対話が必要となる。」/「本が純粋に人間的な方法で確立されたと言い切ることは不可能だ。」主人はジャン・ジャック・ルソーの“言語起源説”における言語の発生に関する指摘を書物に当てはめて語っているのである。“言語起源説”においては、人間が論理的な文法構造を備えた言語を創出するためには、文法に関する互いの理解を図りそれを音声で伝達するという事前の手順が必要であることから、より高次の言語活動の存在を前提としなければならない、という逆説が語られていた。またルソーは、存在する現実世界を記述する筈の言語が現実世界を構築する機能を備えていることも指摘している。ここでは因果関係という時間軸の制約を超えた原形質的様相における、事象と概念の背後にある世界のプレローマ的実質の姿が意識されているのである。

 書房の中に突然現れた何者かがヴィンセントに語りかける。「お前は何者でもない。」この言葉を受けたヴィンセントの想念が、様々の映像となって画面上に表れていく。これまでに彼が出会った者たちの全てが、リルの部屋を訪れた怪物のマスクを被っているのである。それはヴィンセントが覚醒の結果認識した、自分自身の紛れも無いもう一つの姿であった。ヴィンセントは全ての他者に自分自身の反映を見ながら、“自分”と“他者”について考える。/「俺は他者から見ると世界の一部だが、世界を眺める視点としての俺は世界にはいない。」/「俺が見るものが世界であり、見る俺とは飽くまで世界を構築する視点。」/「世界に属することはできない。」/「原理的に言える真実だ。」/「何者でもない。」/「俺は世界に属さない。それこそが世界の限界であり、自我と世界の境界線だ。」世界を知覚する“自我”と“世界”の全体性の間には計り知れない断絶がある。見知らぬ何者かも言う。「“我思う故に我在り”ではないよ。…“我思う故に君在り”だ。」“我”の知覚の対象として認識される他者は、結局のところ全て“我”の意識の反映に他ならない。座標的には集合として全てを包含する筈の最も広大な“世界”という概念と、その世界の内部に位置を占める部分集合としての微小な一点である筈の“我”も、実は知覚と印象を存在理念の裡に認めるクオリア的認知においては、交換記述が可能な連続概念の両端であることが示唆されている。知覚の主体である意識と知覚対象としての世界の示すこの一見二律背反した関係性の示す不可解な内実については、書房の主人も語っている。「しばしば反対の意味を語る言葉にこそ、世界の秘密が現れているものだ。」ヴィンセントはこの言葉に反応して答える。「俺達が世界そのものであることを証明している。」世界全体を一つの他者として認識する“私”という意識は、あり得ない何物でもない存在であり、それは同時に世界そのものでなければならない。ヴィンセントの前に現れた怪物はやはりもう一体のプラクシーであるらしく、プラクシーの生成した意味についてヴィンセントに告げる。「命という名のシステム、という名の世界を繋ぎ止めるため、俺達以外の誰かが俺達を作り上げた。」ヴィンセントが辿り着いた書房で目にした本には、どの本にも自分の名が記されており、そこにある全ての本が自分自身についての記述であることが判明する。本と本を読む意識の主体である知性との関係として提示されたパラドクスは、世界と世界の存在機構に想いを致す知性との関係においても、同様の反転現象を形成する。そこには経験的に捕捉されていた孤絶した“自我”という概念の成立を根幹から否定する超出的発想が秘められている。こうして“自我境界線”の崩壊を自覚した“私の意識”は、“見るもの”と“見られるもの”、“自分”と“他者”という、かつて思考の基軸にあった基幹概念の放棄を迫られることとなる。“命”と“命を奪う道具である弓”の双方を指示する両義性を備えた“ビオス”という言葉の例に示されていたように、言葉によって指示されるべき思考の対象は、実は正反対の異なった概念の併置によってこそ正しく参照されるものであるという根幹原理が主張されることになる。悟性認識の超出を企図してクザーヌスが語ったような“正反対の一致”(coincidentia oppositorum)の原理が、一般理性においてはしばしば“パラドクス”という形で現出するのである。このような“孤絶せざる我”としての自覚を獲得した一対一対応に基づく“理性的”範疇区分に拘束されない意識においては、“自分をその中に包含する世界”を前提とする必要のない“自我”像が示唆され、“複数の自分”や“自我の多様化”等の存在理念が全体性の宇宙論の前提の中に認められることになる。デカルト座標における“全体と部分”の間にあった集合的制約を超出するホログラム的存在解釈を導入した自己同一性の存在論がそこに展開されるのである。世界と私についてのこのような省察を反映して様々な表象化を構想し、知の位相の映像化を図ったのが『エルゴ・プラクシー』という他に類を見ないアニメーション作品なのである。

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