アンチ・ファンタシーというファンタシー3

視覚芸術における多義性と曖昧性
―『闇のバイブル』の原形質反映記述



 『闇のバイブル』(Valerie and Her Week of Wonders(1) ) は、ヤロミール・イレシュ監督の手になる1970年作のチェコ映画である。この斬新な表現手法を用いた映像作品は、1935年に刊行されたチェコ作家ヴィーチェスラフ・ネズヴァル(Vitezslav Nezval)の同名の小説を原作としている。ネズヴァルはアンドレ・ブルトンやポール・エリュアール等との親交を通じて、シュール・レアリズム運動とも関系の深い前衛的な作家として知られている。ネズヴァルがマルキ・ド・サドの『ジュスティーヌ』やF・W・ムルナウの『ノスフェラトゥ』から啓発されて書いたという“ゴシック・ロマンス”を翻案した映画 Valerie and Her Week of Wonders は、マジック・リアリズムのイギリス人作家アンジェラ・カーターに与えた影響などがしばしば指摘されてきたのであった。長らく伝説的な存在となっていたこの映画も、2005年に原作の英語訳(2) の出版がなされ、その後を受けて2006年にDVD版の刊行がなされるに至り、漸くその革新的な実験作品としての興味深い内実を露にすることとなった。この映像作品を対象にして効果的に指摘することができるのが、20世紀初頭のアインシュタインによる相対性理論の発表を受けてその影響下にハイゼンベルグやボーア達の哲学と物理学の双方に理解の深い思想家達の手の許に発展した量子論理的世界観が仮構世界記述に及ぼした特徴的な変革なのである。(3) アクチュアリズムやシュール・レアリズム等の文芸思潮との関連から仮構世界論の根幹を考察し、ファンタシー文学の深層にある思想的核心とシステム理論的意義性を再検証するにあたり、ことさら有用な手がかりを与えると思われるのが、この映画に導入されている映像表現効果なのである。(4)そこには仮構世界の内実を意識の主体が知覚対象として受容し概念として把握する際における、存在や現象等に関する本質的把握に関る認知規範の拡大領域を推し量ることを可能にする、重要な示唆を窺うことができるのである。
 この映画においては、通常であるならば主人公が作品世界において担う筈のキャラクターとしての固有の属性・役割も、また他のそれぞれの登場人物達との間に構築する相互の関係性とストーリー内の位相も、さらにこれらの複合体として結果的に展開することになるストーリー自身の傾向性も、定まった一つのものに収束することがない。この映像作品が提示しているものは、様々の矛盾を含む平行した複数の出来事の束であり、それは確固たる可能世界像を構築するには結局のところあまりにも茫漠とした、曖昧な矛盾に満ちた相互浸透する要素からなる不定性の世界描像なのである。そこに現出しているのは、我々が夢やとりとめのない夢想と呼んで来たものとある意味においては等質の、個人の主観の中に脈絡なく浮かんだ断片的な想念に近いものである。しかしながらこの映像作品が実際に提示する仮構世界像は、必ずしも一般にこれらの伝統的概念に包含されると信じられてきたものとは同様であるとも言えない、実は概念次元をさらに拡張した形而上的観念場においてのみ始めて主張可能な極めて特殊な記号的“意味”を、映像と映像から抽出される限りの制約ある“観念素子”を用いて記述したものとなっているのである。
 この映像作品が実際に参照しているものは、実は現実世界の事象として発現する以前の、仮構と現象の双方を通貫して連続体として展開すると思われる原形質次元における、未分化の可能態の世界と言うべきものなのである。それは純粋に思弁的な論理平面において全方位的な仮定とその帰結という形で表される、事象発現以前の仮説的存在性と関係性の全てを、純然たる可能性としての記述様相のままに網羅した複合体である。(5) その意味では“夢想”という言葉よりも、むしろ任意に選択可能な仮言命題の束である“メイク・ビリーブ”という言葉で呼ぶのに近い想念が、作品世界の実質として提示されていることになる。このようなメイク・ビリーブの操作にもとづく多義性の豊饒の海で遊ぶ遊戯的な感覚は、実はジェイムズ・M・バリの傑作ファンタシー『ピーターとウェンディ』(1911年)の中に描かれていた“ネバーランド”という世界が暗示していた観念空間と等質のものなのである。しかしこの映画の暗示する世界像は、実際には揶揄的視点で描かれた擬似悲劇として虚無主義的様相を色濃く帯びていた『ピーターとウェンディ』の場合とは対照的に、生に対する歓喜と世界に対する祝福に満ちた生命力溢れるものとなっている。
 Valerie and Her Week of Wondersに現れた登場人物のそれぞれが保持すると思われる諸場面における位相と、各々の人物像の間の折々の関係性の全てを抽出し、そこにあらわれたペルソナ的表象を暫定的に特定してみる試行を適用してみることにより、この映像作品において試みられた不定性と流動性の世界の可視化という新機軸の映像表現の内実を再検証してみることにしよう。本来ならば両義的な暗示性を強く意識して構築された不定性の映像表現に対し、概念化された言語記述を用いてその写像を形成しようと試みることは原理的には不可能なことの筈であるが、原作との照合から得られた背景的情報を補完し、仮説的な反映記述を充当する作業を遂行することによって本作品の多義性そのものを照射しようと試みることは、かろうじて可能であろうと思われるのである。
 映像に付随する基幹情報として確かに与えられているのは、各々の人物名である。ヒロインの名はヴァレリエで、彼女を取り巻く周囲の人物達はエルサ、リヒャルド、オルリーク、グラツィアン、ヘドビカ等の名を与えられている。その他に、固有の名は与えられてはいないが特有の存在性の壁龕を占めるものとして、多くの場面に現れて偏在的傾向を示す花売り娘や、放埒な情欲への耽溺を表象する二人の若者の男女も枢要なキャラクター的位置を占めている。しかしこれらのペルソナを背負う各人物がそれぞれのシーンにおいて振る舞う実際のキャラクター特性は、その都度毎に関与する具体的関係性と属性自体を微妙に変質させたものとなっている。しかも彼等の存在性向の具体的細目については、必ずしも明確な意味情報が概念として与えられている訳ではないので、登場人物相互のその都度のそれぞれの立場と関係がいかように変化しているかを、即物的映像が本来保持する多義性と曖昧性の主題に対する考察そのものとして注意深く掘り下げていく必要があるのである。
 “多義性”の反転的特性としてこの映画の重要な主題を形成しているのが、“曖昧性”である。主人公の少女ヴァレリエがいくつかのシーンにおいて青年オルリークを「助けてあげた」のは確かではあるが、「どのような状態に陥っているのをいかにして救ったのか」はあまり厳密には描かれていない。このような「仕組まれた曖昧性」の例は、他にも無数に存在する。「ヴァレリエに魔法の力を与えているらしい“真珠の耳飾り”は、いかなる場面でどのような力を発揮して用いられたか」についても同様である。さらにリヒャルドの担っている「ヴァレリエのお父様、あるいはお祖父様あるいは“トゥホージ”(鼬)と呼ばれる怪物等のペルソナは、それぞれのシーンにおいてどのような背景を背負ってそのキャラクターとしての位置を占めていたか、またその人物像の主人公の少女に対して占める位相の変化はいかなるものであったか」についても同様の指摘をすることができる。さらにまた等質のペルソナ的内実の推移は、エルサの担うこととなるお祖母様/従姉/母親の遷移的人物像の場合にも適用して、個体の同定条件に関する興味深い本体論的考察を展開することができるのである。
 つまりこの作品においては、出来事が映像として観客の眼前に極めて即物的に提示されているはずでありながら、実はこれらの表象は主人公の少女の主観の中に浮かんだ断片的想念が反射的に映像化操作を施されて表出されているとも考えられることから、実際は現象的関係性においては極めて具体性に乏しい夢の中の出来事か、理想化された記憶に等しいような内実の茫漠とした世界が、独特の映像表現を駆使して意図的に構築されているのである。
 一面から観れば様々の異なる様態の重ね合わせ、あるいは他の一面から観れば理屈に合わない矛盾という形を取って現れるのが、多義性の様々な可能性を渾然一体に秘めた豊かな主観の世界ということになる。科学的世界観の示唆する物質的客観事象に比して主観に基づく心象の世界は、ニュートン力学の仮定する座標上の質量点の運動という描像に基づく物理的現象世界とは全く異なった論理と公理系に基づく、異次元に属する別世界であるといってもよい。このような超現実世界的感覚は、時に言語を用いてあるいは映像を用いて、あるいは他の様々な表象手段を工夫して、実は巧妙に仮構における表現行為に反映させることができるものなのである。文学の裡で“ノヴェル”という膠着した観念の生成と共に失われてしまった純然たる仮構の保持する本来の存在意義は、むしろそこにあると言っても良い。
 詳細に各々のシーンを検分してみるとこの映画においては、ほとんどの場面が現実にはあり得ないような不自然な状況を描いたものとなっていることが分かる。多くの場合、「どのようなことが起こった」という観念ばかりが先行して、そのプロセスを語る常識的な現実的因果関係性は見事に無視されることになっているからである。典型的な一例が、「見知らぬ誰かから手紙をもらう」という「観念上の事件」が語られるために、「足に手紙を結びつけられた鳩が窓辺に降り立ってくる」というシーンである。伝書鳩が行う場合のように小さく折り畳んだ書面の入った伝送桿を運んでくるのではなく、通常の大きさの封筒を足に結びつけて、いきなり窓辺に一羽の鳩が降り立つのである。これは映像表現として些末な現実の制約は公然と無視して出来事のすべてを即物的映像効果を最大限に活かして表現しようとする、明確な演出的判断がなされているからばかりではない。むしろ表現として選ばれた効果の内実それ自体が、この異次元的仮構内の固有の現象的実質として改めて主張されているのである。このような不可能性と非在性を強く意識した演出行為が映像表現における独特の手法として許容され得るのは、この映画に描かれた世界そのものが主人公の少女の夢あるいは願望という主観の領域内にある観念世界であるからに他ならない。明らかに説明不足の場面の展開や大げさな演劇的な身振りや非日常的な舞台背景が、決して観るものに違和感を与えることなくむしろ独特の雰囲気を醸し出していることが、これらの前提に基づくものであることを正しく理解しておく必要がある。
 「襲われる」、「救ってあげる」、「覗き見する」というような類似したパターンが繰り返し出現するばかりでなく、時には明らかに反復して複数の相反する可能的帰結を網羅するかのように現出するのも、同様の仮構世界構築原理的要請に基づくものである。主観の中で加工され均等化した記憶のように、あるいは脈絡を失った夢の中の出来事のように、具象性と抽象性が渾然一体となったメタ観念だけの世界が豊かに広がっているのが、この映画の世界の興味深い内実なのである。そのような意味で、これは実は特質上どの夢物語よりもさらに夢の世界に近い仮構世界が実現された、ことさら興味深い事例といえるだろう。  実際の夢の中の擬似体験と意識構造は、一般に「夢のような」という言葉で呼ばれているものとはまた異なった、別種の意味性と法則性にもとづく特殊なものである。夢を見終わった直後に、常識や理性が体験記憶に修正を加える以前の夢の世界の本来の実態をしっかり思い出してみればよい。自分自身が夢の中ではどれほど異質の直観に従ってものを考え、出来事を感じ取っていたかが改めて理解されることだろう。実は量子レベルでの物理世界の実質も、通常信じられている通りの人間の理性や論理で把握されるものとは多分に異なった、極めて異質の法則性に従ったものである。さらにまた一般常識における理性の思考過程が生の現実から乖離したいかに偏ったものでしかないかは、“ベイズの定理”などの純粋に論理学的な検証事例が示してくれてもいる。この映画を理解する鍵の一つとなるのは、我々の論理アルゴリズムに修正を加えて改めて照射することのできる、夢の世界における世界と個物の特有の因果関係性である。  Valerie and her Week of Wondersという作品は、映像で全てを語ってくれているお蔭で、鑑賞者である我々がその不定形の特質を言語化して語り直すという相互作用的創造行為自体が、様々な事象解釈の一つとして提示し得る妥当性を反転的に保障してくれ、分岐して異なった理解の各々が相反する可能性を示唆する分だけ、むしろ余計にこの作品の特質を双方向的に豊かにしてくれるという利点を浮き彫りにしている。そのように割り切って我々は、鑑賞者個々の固有の視点と理念から抽象概念を駆使してこの映画を語り、妄想に満ちた自らの考察を存分に展開してみることができる。その我々の思念のようにこの作品世界では、主人公の少女の知覚が選択された行動や様態による制約の支配を受けることなく全方位的に展開しており、時に複眼的な視野を保持する一方、身体感覚も観測者の視点としてのそれとは別個に独自の個としての経験を自覚することが可能となっている。そしてその彼女の経験範囲も記憶領域も、現実の生活においてなされるような制約ある因果関係に束縛されて体験の持続と共に展開領域を狭め続けていくこともなく、しばしば時間軸を逆行させ同一現象の反復や事象の意義性を反転させて不定形の外観をとることにより、意味と実質そのものの相互依属的流動性が招かれることとなる。
 こうした現象世界においてはあり得ない状況の中で、特有の意味性が固有次元において限定的な生成・発展を行うことが可能となっているのである。そこに得られるのは、与えられた生と運命への限りない賛美と惑溺の感覚であり、これは我々大人達が遠い昔に喪失してしまったかけがえのない楽園感覚だったのである。それらは一つの未分化の思念を反映した仮構である映画Valerie and her Week of Wondersにおいて、特徴的な部分として“エロ”、“グロ”、“ナンセンス”のそれぞれに該当するシーンを見事に形成することとなる。相互作用を行って意味性の展開と変容をたどりつつある現実世界と仮構世界の双方を魅力的で内実あるものとする原初的エネルギーを、これら三つの要素に還元して確証することができるだろう。

 先ず冒頭に映し出されるのは、ヒロインである少女ヴァレリエの真珠の耳飾りである。
   
 ヴァレリエは、日が沈んで暗くなった温室で一人眠りに落ちているところで、忍び込んできた若い男にこの耳飾りを盗まれることになる。盗人は何故か梯子を使って温室の屋根の上に上り、天井から逆さまにぶら下がり手を伸ばしてヴァレリエの耳から真珠の耳飾りを奪いさる。この不自然な逆さまの姿勢に顕著に見受けられるような、視覚的印象を決定づけるための独特の演劇的身振りや構図が、この映画の中心的題材を形成することとなる。現象世界的リアリティとは対蹠的なところで、この映像作品の仮構的リアリズムを展開する創作戦略は展開されているのである。  
 だから見知らぬものの接近を感じ取って心の不安を覚えた少女の心象として、鳥小屋の鶏を襲う鼬の映像や、脈絡無く画面に示される不気味な怪物的相貌の男の顔貌も、この仮構世界における固有の“具体的事実”として確固たる位置を占めることとなる。これらを説得力ある心象形成要素として保障しているのが、これらの現象を“観測”した筈の少女の視点を確定するための座標的関係性と因果的関係性を無化する、ある種の肉体性の欠如という感覚を通して得られる空間・時間認識の錯綜感覚なのである。怪物の顔は正面から少女を見据えているようで、彼の姿を目撃した筈の少女の視線との関係が明示されることはない。
 
同様に鶏を襲う鼬の姿も、これを観測する少女の視点を反映することのない、具体的位置関係から自由な角度から画面上に描き出されている。
 温室で実際に目にしたのかあるいはその気配を心の中で感じ取ったのか定かではない怪物と鶏を襲う鼬は、主人公の少女の意識内においては存在論的同一性を保持するものであるらしい。これらの両者は鶏や人を襲って血をすする吸血鬼としての存在属性においては、ヴァレリエの意識内において不思議な存在的連続性を構築する事になる。このような存在同定の定義の転換に関る空間座標性離脱感覚は、この映像作品においては他のいくつかの例にも周到に反映されることとなっているのである。
 耳飾りの盗難と異形の怪物との遭遇という、精神に根源的な不安を与えねばならない筈の不気味な事実の到来にも関わらず、主人公の少女は噴水の水盤の中で心地良さそうに水浴をしている。原作にはなかったこの場面に顕著に見受けられるような概念的説明を省いた即物的な印象操作を支配する図像が、実はこの映像作品における特有の主題性を展開する基軸となっているのである。観客がスクリーン上で目にした仮構世界の各シーンの存在論的位相を決定する基盤条件として、いかなる恐怖も不安も主人公ヴァレリエの主観においてはあたかも疑似的な暫定経験か、仮想的な可能態の仮説的表象に過ぎないものであることが暗示されている。何の不安も感じることなく、満ち足りた表情で水浴を愉しむヴァレリエの姿がそれを語っているのである。
 
 奪われた耳飾りは、まもなく返してもらえることとなる。耳飾りを盗んだのは、オルリークであった。少女の宝物の強奪を企てた青年オルリークの身に何が起こって、彼がどのような理由でヴァレリエの耳飾りを返却することになったのかについては、確たる言葉を用いて明確に物語られることはない。奪った時と同様に逆さまの不自然な姿勢を取って、噴水の壁を背にして安らぐヴァレリエの耳にイヤリングを付けてくれるオルリークである。ヴァレリエとオルリークとの出会いそのものを語る具体的な因果性の記述は、一切省みられないこととなっている。この映画では登場人物達がそれぞれの名前を明らかに与えられているものの、彼等とヒロインとの具体的な関係性が明瞭に語られることがないばかりでなく、むしろ相矛盾する複数に分岐した存在性向を示すことにさえなるのが、この仮構の特徴的な要素なのである。ヴァレリエが水浴をしていた町の広場の噴水とオルリークに耳飾りを返してもらうことになった館の中庭の噴水は、位置的・個別的関係性を無視して少女の主観のイメージの上においてはある種の同一性もしくは連続性を保持するものとなっている。このような客観的位置関係と因果関係を無視する主観の享受する跳躍的連想は、徹底した即物的映像表現を通してこの優れた映像作品の基幹原理をなす創作戦略となっているのである。
 ヴァレリエが水浴をしていた町の広場の噴水のシーンの後に映し出される、館の中庭の噴水である。ヴァレリエは噴水の傍らに留めてある馬車に乗り込み、シートに身を落ち着けて返却されたばかりの耳飾りを両手に取り喜びに浸る。
 
 馬車の中で安らぐヴァレリエの耳に、怪しいもの達の声が聞こえてくる。それは先ほどの不気味な姿をした怪物とオルリークの会話である。主人公の知覚は、この場合の馬車やあるいは噴水や地下室などのいくつかの象徴的な器物あるいは場所を媒介として、偏在的な視点や聴覚等を得るものとなっている。
 ヴァレリエはオルリークの姿を認めて「オルリーク!」と声をかけ、オルリークはそれに答えて一瞬振り向いたようにも見えるが、実際に二人の間には会話らしきもののやり取りは交わされていない。オルリークと怪物が形成する情景と、馬車の中で安全を約束されたかのようなヴァレリエが、同一平面の位置的状況を共有しているようには見えない。ヴァレリエの意識あるいは存在は、ある種の透明性あるいは存在的匿名性を持って、他の情景を観測もしくは夢想しているだけでもあるかのようである。それにも関らずヴァレリエの精神とオルリークの精神は、ある種の感応のようなものを実現する。このような夢の中でしばしば体験される肉体性離脱感覚を意図的に即物的な映像を用いて具現しようと試みたのが、この映画の基幹的創作戦略であることに間違いはない。
 
 さらにヴァレリエの実際の存在位置と関与を持つことなく、脈絡無く挿入される怪物と怪物に脅されるオルリークの姿がある。一瞬ヴァレリエの呼びかけに答えるかのように顔を上げたオルリークではあるが、館の噴水の傍らで馬車の席に座っているヴァレリエと怪物に虐げられるオルリークの姿は、空間的位相を違えたまま、ヴァレリエの夢想の中に併置されているのである。あたかも馬車の中に隠れていることが外界の時間・空間の関係性を離脱して、ヴァレリエに全方位的な観測能力と遍在的な知覚能力と意志疎通能力を与えているかのようにも見える。主題的にはこれは、肉体と精神あるいは世界と個の分離する以前に仮定された、未分化の原初的世界が保持していたと思われる原形質的様態の豊饒性を暗示するものであるかのようでもある。
 何事も無かったかのように馬車から降り立ち、庭の小道に歩を進めるヴァレリエの足下のひなぎくの花の上に、赤い滴が落ちる。
 
ひなぎくの花を手にしたヴァレリエは、自分が初潮を迎えたことに気付く。しかし一瞬の驚きと不安の表情を浮かべた直後、部屋に戻って全てに満足しきったかのように落ち着き払ってベッドに横たわるヴァレリエの姿が映し出される。  ヴァレリエにとってこれから大人としての未知の新しい世界の幕が開けるのである。次のシーンには、楽しげに小川の辺を歩むヴァレリエの姿がある。
 
 数人ではしゃぎながら小川で水浴びをする娘達の一人が、卑猥な表情を浮かべて魚を服の中に入れている様子が映し出される。主人公ヴァレリエも、もうすぐ大人になったら彼等と同様の刺激的な体験ができることを心の中で期待しているのであろう。この水浴する娘たちの映像はヴァレリエの視点から物理的に観測された情景の筈ではあるが、同時にヴァレリエの内心に広がる妄想を反映したとも思えるものとなっている。主観と客観の分離が行われることなく、観察と夢想が存在論的に本質的な相違を持たないのが、この映像作品が前提とする仮構世界的基幹原理なのである。
 
 ヴァレリエが館の食堂で喜びに満ちた表情で朝食のジャムをほおばっているところに、祖母様のエルサが姿を現わす。
 
 耳飾りをもてあそぶヴァレリエの姿を目にして、お祖母様が咎める。しかし自分が大人になったことを伝えたヴァレリエに、彼女の母親も13歳で初潮を迎えたことを思い出し、お祖母様は俄に動揺を示す。壁には、ヴァレリエのお母様の肖像が掛かっている。
 
 食堂の窓の方からは、パレードの楽隊の音が聞こえてくる。それはヘドヴィカの婚礼を祝うために招かれた芸人の一行である。大通りを行進してくる芸人達を出迎えるように、大きな館の扉の前には、ヴェールを被り花束を手にしたヘドヴィカの姿も見える。
 
 町にやって来た芸人達に混じって、不気味な相貌を仮面の下に隠した怪物の姿もある 。鼬の仮面を再び装着しまた取り外すと、優しそうな面持ちの紳士の姿になっている。しかし次の瞬間にはまた怪物の姿に戻っている。少女の期待と不安に満ちた妄想の原因あるいは結果としてこれらの不気味な異形のものや対照的に好意的な様子のものたちの姿があるのか、あるいは彼等の不可解な相貌の変化が実際に秘匿された何らかの関係性を担っており、少女の身の上にその内実を露にすることになるのかについては、結局最後まで具体的な解明がなされることはないのである。
 
 ヴァレリエがパレードの一行の中に発見した怪物のことをお祖母様に話すと、エルサもその不思議な姿を認めて、強い衝撃を受けたように椅子の上に倒れ込む。館の外の通りには町に入ってきた伝道師達の行列に歩み寄り、花を手渡す花売り娘の姿がある。
 
この花売り娘はヴァレリエの意識と知覚の偏在性を反映するように、常に等しい動作を行いながら様々の場面でヴァレリエの周囲に姿を現すこととなる。行列の御簾の中から手を伸ばして花を受け取り、彼女に祝福を授けるものがあるが、馬車の窓からは白いマルチーズの姿が見えているだけである。
 
 ヴァレリエが館でお祖母様の言いつけに従いハープシコードの練習をしているところへ、一羽の鳩が窓辺に降り立ってくる。その鳩の足には一通の手紙が入った封筒が結びつけられているのである。
 
 手紙を読むために一人温室に上がってきたヴァレリエは、中庭で卑猥に戯れる男と女達の姿を目にする。この場面で抱擁を交わす名を与えられていない男と女も、常に肉欲に任せて愛の行為に耽るものとして、この映画の中で一種の偏在性を示して繰り返し様々の場面に登場することになる。ヴァレリエは温室に隠れて椅子に身を落ち着け、こっそりと手紙に目を通す。
 
手紙の主はオルリークであった。この手紙は主人公ヴァレリエの生まれながらに背負う運命的な秘密の存在と、外界から闖入する刺激に満ちた冒険の双方を告げるものとなる。その手紙の書き手であるオルリークという名の人物も、ヴァレリエと血の繋がりを持つ兄弟であるのか、あるいは実は血の繋がりを持たない運命的な機縁で結ばれた恋人であるのか、結局いずれともつかない存在なのである。お祖母様に見つからないように、ヴァレリエは読み終えた手紙を焼き捨てる。主人公は決して無垢で純情な少女でばかりある訳ではなく、時に狡猾で移り気であったり、裏切りや嘘を自覚的に行ったりすることにもなる。
 
 娘達がミサに出席するために訪れた教会の中庭では、先ほど館の中庭で情交に身を任せていた若い娘が、今度は何故か倒れ伏した木の上で横たわり、一人怪しい快楽に耽っている。
 オルリークの手紙に書いてあった指示に従い、ヴァレリエは礼拝堂の庭の鳥籠の中に自分の衣服を隠す。しかしこの行為の持つ具体的な目的と意味は、曖昧なままで残される。自らの衣服を要求のままに他人に手渡すという象徴的な意味のみを担ったこの行為は、ある種の記号的な要素としてこの観念的仮構世界の中に導入されている。映像の持つ則物性は現象世界的概念解釈を拒む絶対意味単位素子として、純観念的仮構の中に導入され得る極めて有効な記号なのである。
 中庭にいた先ほどの娘は再び男と熱い抱擁を重ねているが、伝道師はその有り様を礼拝堂にやって来た少女たちの目から隠そうとしている。妖怪や怪物等の怪異の出現に代表される一般の“超自然”とは異なる現象的には飽くまでも自然な、しかし決して日常生活において実際にはあり得ない“不自然な”情景が現出しているのである。ファンタシーという仮構世界における“超自然”の要素の暗示する、可能世界論的に極めて興味深い事例のいくつかをこの映画は提供してくれているように思える。
 
 教会のミサでは怪物のような素顔を扇子に隠して怪しげな司祭が卑猥な言葉を吐き、娘達を禁じられた快楽の世界に誘惑しているかのようである。そしてまた町の中では何故か建物の壁面に、胸のポケットに一匹のマルチーズを収めた司祭の異様な姿が見えている。
 
 ヴァレリエは、町の噴水の脇で鎖に縛られて苦しんでいたオルリークを見つけ、彼を助けてやる。しかし彼女がどのようにして彼の縛めを解いてやったのかは、映像では明示されていない。あたかもヴァレリエの存在と意志そのものが、容易く彼の束縛を解く力を備えているようでもある。
 
 建物の壁を背にしていた怪しい司祭の姿は、オルリークを助けるヴァレリエを見張り続けていたかのようにも見える。
 そこにいきなりヴァレリエたちのところに現れて、噴水の水を鞭打つ男達の姿がある。しかし彼等がオルリークに襲いかかろうとしているのか、何らかの別な理由でたまたま彼の後を追っているのかは、映像を見る限りはっきりとしない。意味不明の儀式的な場面を構築する不可解な演出がなされている箇所である。水に溺れている鳩の姿の映像が印象的である。オルリークは男達の追跡からなんとか逃げ出して、建物の扉の中に身を隠す。
 
 ヴァレリエは町の路上で不気味な司祭と出会う。しかしヴァレリエは何故か彼を恐れる風もない。司祭に救貧院へ行く道を尋ねられたヴァレリエは、この建物へ彼を案内していく。怪物のような司祭に捕らえられたのか、あるいは自ら彼に付き従ったのか、やはりどちらとも判断のつかない場面である。
 
 ヴァレリエが司祭と一緒に入っていった救貧院の内部は、怪しげな様子の器物に満たされた不思議な部屋と通路になっている。原作にはかなり詳細な記述があるこの建物の内部構造については、この映画はいかなる具体的な情報も観客に対して示そうとはしていない。視覚芸術ならではの、即物性と曖昧性が活かされた独特の演出が行われている箇所である。
 
 司祭に導かれて救貧院の内部にあった覗き穴を通して、ヴァレリエはお婆様と伝道師グラツィアンの忌まわしい秘密を盗み見る。ヴァレリエに観測されたお祖母様の占める位置情報と観測者であるヴァレリエが位置する救貧院内部の構造の関係についての詳細は、映画では一切無視されたかのように語られていない。中庭の噴水の脇に留めてあった馬車の中と同様の空間的関係性の離脱状況が、ここにも繰り返して暗示されているのである。実は原作の小説の記述とこの映画の独自の創作戦略の重要な相違がこのあたりにある。
 
 グラツィアンに復縁を訴えかけるエルサがこの時どの場所にいたのか、救貧院とこの有り様を目にすることができた覗き穴はいかなる位置関係にあるのか、説明に当たるものは全く語られないまま、ヴァレリエの観測したおぞましい情景として映像だけが既定事項として示されることになるのである。(6)  そこにオルリークがいきなりヴァレリエたちの足許に現れて、梯子を外して司祭を落下させる。しかし彼の突然のこの行動の目的も、その行為が司祭の身にどのような結果をもたらしたのかも、やはり明瞭に語られることはない。
 
 オルリークはヴァレリエを背中にかついで館に連れ戻る。彼女を司祭の許から救い出してくれたものらしいが、司祭のヴァレリエに対する思惑やそのたくらみとオルリークと彼の関係等の詳細は、やはり不明のままなのである。  オルリークはヴァレリエを連れて館の鳩小屋に戻り、優しく音楽を奏でてヴァレリエをもてなしてくれる。
 
 しかしヴァレリエがオルリークと共に館の方を覗き見ると、そこには不気味な来訪者の姿がある。
 館を訪れたのは、パレードの中にいたあの仮面を被った怪物であった。お婆様は彼をリヒャルドという名で呼び、数十年振りの再会を喜ぶ。彼女のかつての恋人であったらしいこの男は、他の人物達と同様に名前以外の詳細は明確に語られることはない。館の噴水の傍らで、演劇的な誇張した身振りを用いて繰り広げられるお婆様とリヒャルドの印象的なやりとりである。
 
 ヴァレリエとオルリークは姿を隠してエルサとリヒャルドの会話を覗き見ている。ヴァレリエは何故か真珠の耳飾りを指に挟み、顔の上に掲げている。リヒャルドが鞭をふるうと、訳も無く館の噴水が怪しく燃え上がる。無意味さが見事に印象的な仮構的リアリティを構築することに成功している場面である。
 
 噴水は町の広場ではヴァレリエが水浴をする場であったり、オルリークが捕縛されていたりと様々なシチュエーションに独特の映像効果を担わされて繰り返し画面にあらわれるが、その都度担う象徴的な意義性は異なるもののようである。他の人物達の造形や仕草と同様に、同定的外観イメージだけは固定されているものの、その観念的内実は流動的に変化する不定的な意味を持つ存在物であるのだろう。それとは逆に広場の噴水と館の噴水は、交換可能な存在性向としての延長属性を共有している。空間において連続的に占められた座標的位置関係に基づいた同一性の認定条件とは異なる、形象と属性の相等性条件にのみ基づいた特殊な同一性解釈が別途に存在し得ることが暗示されている。
 ヴァレリエは館の鳩小屋でオルリークを送り出した後、一人で残された笛を奏でている。噴水での水浴の場面と同様に、他者との関係性に依存することなく単独で自らの官感に惑溺する放恣な感覚が暗示されている。冒頭にあったヴァレリエが食堂でジャムをほおばる場面と対をなすシーンであろう。
 
 館に招かれた伝道師のグラツィアンは、戸外でディナーの饗応を受ける。グラツィアンはヴァレリエに目を留め、彼女にもワインを勧める。お婆さまの許可を得て、ヴァレリエもこの時初めて大人の飲むワインを口にする。
 
 夜を迎えて自室の窓辺でオルリークの名を呼びながら、ヴァレリエが鳩を放すシーンが映し出される。ヴァレリエは再び真珠の耳飾りを手に取っている。しかし彼女が鳩を放す行動とそこで耳飾りの果たす機能の詳細については、一切語られていない。戸外には、ヴァレリエの目から身を隠すようにして外出するエルサの怪しい姿がある。
 その時ヴァレリエの部屋に押し入ってきたグラツィアンは、僧衣を脱いで卑猥な身振りでヴァレリエに迫って来る。伝道師グラツィアンは、実は好色な邪教徒であった。しかしヴァレリエは、真珠の耳飾りの力を用いて何とか難を逃れる。ここではヴァレリエは自ら死を選ぶことにより、グラツィアンによる不名誉な陵辱を避けることができたらしい。耳飾りの真珠を口にふくむことによって何かの効力を得られるらしいことは分かるが、その具体的な効能はやはり明確には示されていない。このあたりも原作の一意的な概念的記述に対する巧妙な改変が見受けられる部分である。
 
 館の外では、人々があわてふためいて鶏の疫病の発生を口々に叫んでいる。騒ぎ立てる人々の輪の中心には、リヒャルドとあの花売り娘の姿もある。
 意識を失って横たわるヴァレリエと、あわてて彼女を見捨てて部屋を出て逃げ去るグラツィアンである。ヴァレリエは外部から見れば死に陥った状態を偽装することができると同時に、意識と知覚は空間的束縛を離れてある種の偏在性を獲得し、人々の演じる様々な様態を彼等に知られることなく観測することができるかのようである。ヴァレリエには、この時エルサがどこか見知らぬ処で怪しげな契約書に署名をしてリヒャルドに手渡す様が見えているらしい。
 
一方ヘドヴィカと花婿は、丁度その頃婚礼の晩餐会を終えたところである。こちらの情景も同様にヴァレリエの直観的観察の対象となっているようである。町の金満家に嫁いだ新婦ヘドヴィカの姿は、あたかも生け贄か殉教者のような象徴的なポーズで画面上に示されている。この映画の中で活用されている、いくつかの演劇的な趣のある図像の一つである。
 
 婚礼の晩に臨んだヘドヴィカは、これから年老いた新郎との間で初夜を迎えることになるのを悲しむばかりである。館の自室で横たわったままである筈のヴァレリエは、何故か他所の館の内部の、新婦となったヘドヴィカの有り様を間近に覗き見ることができているのである。
 
 新郎と新婦の寝屋に潜んでいたリヒャルドとエルサが、ヘドヴィカに襲いかかる。自室で仮死状態に陥ったヴァレリエは、リヒャルドとエルサが現れたヘドヴィカの初夜の部屋の様を全方位的視線でつぶさに見守っている。意識の喪失を招く死や眠りは、肉体の桎梏を解いて空間の束縛を乗り越え、精神と知覚を様々のシチュエーションに自由に行き来させるものであるらしい。あるいはこの映画に描かれた一連の事件の全てが、少女ヴァレリエの夢想であったのかもしれない。リヒャルドとエルサの恐ろしい行動を目にしておののくヴァレリエの姿は、やはり自室のカーテンの傍らに映し出されているのである。実はこのような現象世界における論理の破綻を具現化することがファンタシーの基本戦略なのであるが、この映画では徹底的に映像表現を駆使して、この超自然の効果が実現されているのである。
 
エルサはヘドヴィカに襲いかかり、その首筋に噛みつく。その姿は正しく吸血鬼そのものである。目撃した場面のあまりの恐ろしさに、あわてて逃げ出し野原を駈けていくヴァレリエである。
 
 しかし彼女がどこから逃げ出してどこへ向かって駈け去ろうとしているのかは、必ずしも定かにされてはいない。ヴァレリエがいかにしてヘドヴィカの婚礼の儀式が執り行われる館の内部の様子を確かめ、彼等の初夜の有り様とりヒャルドとエルサによる侵犯をどの様な手段を用いて目撃し、そしていかなる手順に従って脱出することができていたのかについては、映像表現の特質を活かして、結局最後まで具体的に語られることはないのである。
 ヴァレリエは逃げ去る途中で、再び縛られて懲らしめを受けているオルリークの姿を見つける。オルリークは小川の中で杭に手足を固定されて、水責めに遭わされているのである。
 
 ヴァレリエは広場の噴水の場面と同様に、オルリークの縛めを解いて助けてやる。やはりヴァレリエの存在と意志のみでロープの結び目を解くのに十分な力を持っているのか、手を触れただけで自ずから解けて行くオルリークの縛めである。自由になった途端、水に濡れたヴァレリエの姿に好色的な視線を向けたオルリークをたしなめ、ヴァレリエはハンケチでオルリークに目隠しをする。
 
周囲の誰もが自分に対して性的な関心を示し、それを拒むことができるのがヴァレリエにとっての大きな喜びである。そして主人公にはやっかいな人間関係を無化する特権として、日常の枠を超えた重大な異変の到来が約束されている。オルリークと共に戻ってきた館の中庭では、一面に流行り病に冒された鶏の死骸が散乱している。さらに館の窓からは、前夜ヴァレリエを襲った宣教師グラツィアンが窓の外でロープに首を吊って息絶えている。
 
 ヴァレリエとオルリークはグラツィアンの死体を地下室に隠すのだが、何故か隣の棺桶の中にはお婆様のエルサが眠っている。驚きのあまり気を失ったヴァレリエを抱いてオルリークが立ち去った後、お婆様は棺桶の中で目を覚まして二人の姿を見送る。そのお祖母様の口には、恐ろしそうな牙が生えている。
 
 ヴァレリエの従姉妹と名乗る若い女エルサが、館にいきなり姿を現す。エルサは、何故か真珠の首飾りを手にしてヴァレリエに近づく。エルサの保持する真珠の首飾りも、ヴァレリエの耳飾りと対応する魔術的器物であることが暗示されているが、その効能の詳細は解明されることはない。
 
エルサは、いきなりヴァレリエに襲いかかる。傍らの壁の上には、お父様の肖像画が掛かっているのが見える。
 
 しかし何故か途中で攻撃の手を止めるエルサである。ヴァレリエも、おかしなことに何事も無かったかのように、自室に戻って扉に施錠をしてベッドで休む。しかし再びエルサが、真珠の首飾りをかざしながら部屋に押し入ってくる。そのエルサの背後の鏡には、彼女の姿は映っていない。ヴァレリエはエルサによって縛られて小部屋に押し込められることになる。部屋の中では、不思議な歯車細工の機械のようなものが動いている。
 
 目覚めたヴァレリエは、部屋の床の穴を通して地下で男を誘惑するエルサの姿を目撃する。耳飾りの力を暗示する効果音と共に、縛めを解くヴァレリエの姿がある。ヴァレリエは、情交に耽りながら男を噛み殺して血をすするエルサの姿を目のあたりにする。今度は先ほどの男の場合と同じように、エルサはオルリークに対しても誘惑の手を差し伸べる。やはりヴァレリエは、この状況も同じ部屋の扉の鍵穴から目撃しているのである。時間の推移や具体的な関係性を一切省略して、エルサの示す攻撃と誘惑の悖徳的行為は、主人公ヴァレリエの主観の中の断片的な観念のみを具現化したもののようにも見える。
 
 ヴァレリエが閉じこめられた機械仕掛けのある小部屋は、彼女を監禁する密室であると同時に、彼女の意識と視点を夢の中のように肉体を離れて偏在させる効果を与える、心霊的な機能としての象徴性を持つもののようでもある。この位置座標喪失感覚は、リヒャルドに連れ込まれた救貧院の内部の場合と等質のものである。
 オルリークはエルサの誘惑をはねのける。オルリークは、ヴァレリエが奪われた真珠の耳飾りを巧みに取り戻してくれていた。先ほどのシーンではヴァレリエは、自分の耳飾りの力のおかげでエルサの首飾りの力から解放されたようにも見えたが、この場面では耳飾りを奪われてしまっていたようにも見える。これはストーリーの記述上の明らかな矛盾点であるが、むしろ異なった選択肢の採用に基づく網羅的可能世界の一つを暗示する、意図的なストーリーの分岐が語られているものとして理解できる箇所である。
 エルサはヴァレリエを閉じ込めた機械仕掛けのある小部屋で、自分も棺桶に入って眠りに落ちる。地下室と機械部屋の両方にある棺桶や、町と館の両方にある噴水の場合と同様に、人間や建造物や器物もまた固有の存在特性を限定されることがなく、各々が異界を繋ぐ通路もしくは出入り口のような機能を有して、連続的な関係性と多義的な存在性向を保有していることが分かる。
 ヴァレリエは、再びオルリークによって助け出されることになる。ここで映し出される小部屋の鍵穴から銃口を突き出して的を狙うこともなくいきなり発砲する様は、その無意味さの故に見事に儀式的な映像効果を発揮した記号的シーンを形成している。ナンセンスが巧みに映像化の処置を施して示された、極めて印象深い場面である。
 オルリークは救い出されたヴァレリエに、図書室の書架の上からギターを演奏して聴かせる。オルリークは、エルサから取り戻した耳飾りをヴァレリエに返してくれる。しかしそれに続けて思いがけなく言い寄るような素振りを見せるオルリークから、ヴァレリエはあわてて逃れ去る。小川でのシーンにあった求愛と拒絶の動作の反復がここにも繰り広げられる。
 
 映画の冒頭に映し出されていた温室の中の二つ並んだ男女の腰元に作られた蜜蜂の巣が、何かを象徴するように繰り返して映し出されている。ヴァレリエは、館の噴水の傍らを走って逃げ去る。
 
噴水を媒介にして、シーンは町の広場に遷移する。町の噴水の周りには市が立っている。
 花売り娘がヴァレリエに花を手渡す。この花売り娘も、常にヴァレリエの姿を見守るように偏在的な登場の仕方をしている。
 
 ヴァレリエは、これから自分が取るべき行動の選択を花占いに委ねる。ヴァレリエが占いに用いたひなぎくの花には、血の染みが付いている。ヴァレリエは花占いの結果に従って鶏を盗み、救貧院の地下に赴く。そこではリヒャルドがエルサに裏切られて、死の瀬戸際に瀕しているのである。ヴァレリエは苦しむリヒャルドのところに駆け寄り、盗んできた鶏の生き血を啜って、口移しでリヒャルドに飲ませてやる。ヴァレリエの口元は、あたかも口紅を指したように血に染まっている。ヴァレリエの口付けを受けて瀕死の怪物は息を吹き返し、いきなり若々しいお父様の姿に変わる。
 
 しかしお父様は再び怪物の姿に戻ってヴァレリエに襲いかかろうとする。リヒャルドという名は、二人の役者によって共有されて演じられているのである。  
 
 しかしヴァレリエは、再び真珠の耳飾りの力を用いて怪物の許から逃れ去る。
 次のシーンでは、ヴァレリエは何事も無かったかのように町の噴水で水浴をしている。水盤の中には美と聖性の象徴である睡蓮の花が咲いている。ヴァレリエは何の不安も感じることなく、満ち足りた幸せそうな表情である。このシーンに見受けられるような作品世界を支配する俯瞰的感覚が、原作には存在しなかったこの映画独特の基調音となっているのである。

 場面は変わって、ヴァレリエは再びリヒャルドに捕まり気を失ったままで、棺桶の中に収められたグラツィアンと牢獄に閉じ込められたエルサのいる地下室に連れて行かれている。因果関係の連鎖が分離して、分岐したもう一つの可能性の別種のシチュエーションが具現化し、起こり得たかもしれない可能態の異なる別の姿が顕現しているのである。現象世界は相矛盾する可能性の併置を許すことはないが、意識は現象発現以前の潜勢力の全てを含めて統括的な同一性として認知する特殊な能力を有しているのである。
 
 ヴァレリエは今度はリヒャルドによって棺桶の中に収められる。特定の経験を示す出来事が、相応する人物やシチュエーションを入れ替えて反復して出現しているのが、この映画の独特の創作戦略を形成している。奥に見える牢の中には、若い姿のエルサが幽閉されているのが見える。しかしヴァレリエはこの棺桶の中でも何故かもう一つの意識を持続して、リヒャルドとエルサの会話を盗み聞きしているのである。
 
ヴァレリエは再びオルリークの名をそっと呼ぶ。口に含んでいたイヤリングの真珠を手のひらに吐き出すヴァレリエである。この場面では、耳飾りの力を用いてヴァレリエを捕らえて棺桶に押し込めようとしたリヒャルドの裏をかいた可能性が示唆されているが、やはり明確な概念的情報が示されることはない。
 その時ヴァレリエの傍らにあった棺桶で、グラツィアンが息を吹き返す。そこでヴァレリエは何故かグラツィアンを揶揄し、挑発するかのような仕草をするのである。特定の人物に対して主人公ヴァレリエの抱く主観的な好悪の感覚が、彼女の存在属性そのものを決定しているかのようにも見える。
 
丁度その時救貧院の表では、花売り娘が運んできた手紙を救貧院の扉にかけているところである。
 ヴァレリエは、うろたえるグラツィアンを救貧院の外に連れ出してやる。花売り娘はどういう訳か玄関の脇の彫像の陰に身を隠している。
 
 花売り娘が運んで来た手紙は、オルリークから託されたものであった。ヴァレリエは、リヒャルドを破滅から救ってやったことにより、自分がオルリークを裏切ることになってしまったことを知る。オルリークの手紙の内容は、自分を見捨ててリヒャルドを選んだヴァレリエを責めるものであった。ヴァレリエは後悔の念に涙する。そこにヘドヴィカが現れる。
 
 ヴァレリエは、誘われるままにヘドヴィカの館に行く。ヘドヴィカはヴァレリエに首筋の咬み傷の跡を見せるが、そのヘドヴィカの姿は部屋の鏡に映っていない。
 
ヴァレリエは、ヘドヴィカとベッドで一夜を共にする。一夜を明かすと、ヘドヴィカの首の傷跡は消えてしまっている。ベッドの中で親しげに口付けを交わすヴァレリエとヘドヴィカである。
 
 町の広場の噴水のあたりでは、グラツィアンが人々を扇動して、ヴァレリエを糾弾している。ヘドヴィカの館を出たヴァレリエは、町でグラツィアンから魔女と決めつけられて敢然と抗議する。
 
しかしヴァレリエは群衆に捕まえられて、火あぶりの刑に処せられることになる。町の広場には、既に火刑台がしつらえられている。教会のミサに同席していた少女たちや、噴水でオルリークを襲った男たちもその場に勢揃いしている。
 
 無実の罪で火あぶりの刑にされながらも、今度は邪悪な魔女になりきって人々を愚弄する態度を取るヴァレリエである。矛盾をふくんで分岐するストーリーは、ヒロインであるヴァレリエの好奇心に満ちた様々な願望をそれぞれに具現している。ヴァレリエの周囲を取り巻く環境のみならず、主人公ヴァレリエ自身の存在性向もまた、複数の内実を秘めた多義的なものとなっているのである。オルリークやリヒャルドを相手に時に心を許したり時に撥ね除けたりと、考えられる限りの全ての可能性を試してみることができる生の放恣な体験の試行の世界が、ヘドヴィカやグラツィアンなどの人々をも巻き込んで道連れにする自分自身の運命の網羅的選択として具現しているのである。
 
 礼拝所にいた少女たちも皆、心配そうにヴァレリエの姿を見守っている。ストーリー展開上の受難は様々に生起するが、主人公の精神の安寧に決定的な影響を与えるような疎外や絶望は決して経験されることがない。
 
楽団の奏でる華やかな音楽が鳴り響き、火刑を執り行う町の広場では刑罰と祝祭が融合して一つになった複合的様相を示している。かつて処刑の実行が一般庶民の華やかな娯楽であったように、ここでは処刑に付されるヴァレリエ自身にとっても、自らの無実の罪による処刑が興味深いイヴェントとして体験されているのである。ヘドヴィカの結婚式を祝っていた楽隊も、同様に処刑の儀式に加わっている。
 ヴァレリエは、炎に包まれる火刑台の上でも怯えることもなく再び人々を嘲笑う仕草を続ける。しかし火あぶりの炎は、魔女あるいは殉教者を演じるには好都合だが、少しだけ熱い。
 
 ここにもいつもと変わらぬ優しげな表情でヴァレリエに花を捧げようとする、あの花売り娘の姿がある。彼女の存在は変化の中の安定性と、ヴァレリエの心霊の根幹的安全を保障する役割を果たしているかのようである。
 おそらくオルリークを裏切った自分への罰として火刑の責め苦を選んだのであろうヴァレリエも、とうとう辛抱しきれなくなって耳飾りの真珠を口に含む。
 
花売り娘は、燃え尽きた後の火刑台にも花を捧げている。この映画を常に支配しているのが、ここにあるような敬虔の念に満ちた儀式的な感覚なのである。

 ヴァレリエの姿は、再び救貧院の扉の前に戻っている。耳飾りの力を用いて空間を移動したのか、あるいは時間を遡ってこの選択肢のイヴェントをやり直すことにしたのかは定かではない。ヴァレリエは再び口に含んでいた耳飾りの真珠を手の平に吐き出す。
 
 救貧院の中は、今度は売春宿か阿片窟のような有り様になっている。そこには何故か、火刑場にいた花売り娘や楽隊もいる。この映像作品の場面を形成する登場人物は常に一定であり、彼等の演じる役割が様々に様態の変化を選択する構図は、この映画の創作戦略上の基軸パターンをなすものである。
 
救貧院の内部では、若者と女を巡って諍いを起こす怪物のままの姿のリヒャルドがいる。リヒャルドに嘲笑されて激怒した若者は、ナイフを抜いてリヒャルドの背後から近づく。恋人同士を演じている男と女も、やはり常に同一の人物たちである。
 
ヴァレリエはリヒャルドのワインのカップにイヤリングの真珠を投げ入れる。ヴァレリエがリヒャルドを救おうとしているのか、それとも彼を倒そうとしているのかは、やはり定かではない。しかしワインを飲み干した途端、リヒャルドの様子に変化が起きる。リヒャルドの姿は苦しんでいるようにも、あるいは哄笑しているようにも見える。人々の仕草は、ほとんどいつも両様の解釈を可能にするような曖昧性に満ちたものになっているのである。それでも終に、リヒャルドは床に倒れ伏す。姿の見えなくなったリヒャルドの衣の下から、一匹の鼬が姿を現わす。周囲を取り巻く人々は、恐ろしい怪物リヒャルドの消滅を喜んでいるようである。
 
 阿片窟の窓の外を覗いたヴァレリエは、伝道師の一隊が行進してくるのを目にする。路上では、いつもの花売り娘が以前の時と同じ様に伝道師達に花を捧げているのである。今度は何故か御簾の中から外に花を投げ捨てる者がいるが、花売り娘は御簾に付き従って、路上に落ちた花を一つ一つ拾い上げている。この映画の前半にあった動作のモメントが逆行し、仮構世界を支配する物理的な根本原理の可逆現象が選択されつつあるようにも見える場面である。
 
 物語の物理的・意味論的構造性に対する際立って自省的な感覚は、この映像作品の特徴的な要素を形成することになる。ループ構造のターンの一つを完結させたかのごとく、仮構世界のシーンは再びヴァレリエの館に戻る。そこには以前と同様に、冒頭のシーンにあった温室の男女の木像にあつらえられた蜜蜂の巣箱の映像が映し出されている。その後には殊勝に祈りを捧げているヴァレリエの姿があらわされる。
 
温室の中には、椅子に座って安らかに眠入っているオルリークの姿がある。
 
 ヴァレリエは一人自室に戻り、ベッドの中で静かに休む。選び取った夢と妄想の一つのターンに、自ら終結を与えることを選んだようでもある。
 
 しかし教会ではやはりまだ、ミサの時に庭の木の上で怪しい快楽に耽っていた若い娘が、変わることなくいかがわしい素振りを続けているのである。類型的な夢物語との明らかな相違がはっきりと見て取れる。
 
 ヴァレリエは何事も無かったかのように、ほがらかにこの映画の冒頭にあった居間の食事のシーンを再現している。そこに以前と同様に、一見変わらぬ姿でお祖母様が食事の席に姿を現す。しかし両者の身に付けている衣服の色は冒頭の場面とは異なっており、ヴァレリエの衣服は黒から白へ、お婆様の衣服は白から黒へと入れ替わっているのである。御簾から花を投げる行為で暗示されていた時間性モメントの転換が、ここでは色彩に変換記述して反映されているのである。少女ヴァレリエのとりとめのない夢想が終わりを告げ、本来の日常が回復されたかのようにも一瞬思われたが、ここからこの映画の画面は再び激烈な変化の到来を暗示するものとなる。夢から覚めたと思われた後にさらにまた繰り広げられるもう一つの夢の世界のような、メタ構造的な夢幻世界の幕開けに似た様相が、これから次元を跳躍して展開されることになるのである。
 ヴァレリエはお祖母様の言いつけに従い、芸人達のパレードを先導してきたオルリークに窓から籠を降ろして花を渡す。するとオルリークは今度は、代わりに一通の手紙を籠に入れて戻してくれるのである。ヴァレリエは再び温室で、あぶり出しを用いてオルリークから受け取った手紙の内緒の文面を読み取る。
 
 そこで唐突に挿入されるのが、鶏を襲う鼬のシーンである。若者が銃で鼬に狙いをつけているが、ヴァレリエは鼬を見逃してくれるように懇願している。
 
そこに一見脈絡無く映し出される、野原の中を逃げて行く黒衣の者の姿がある。ヴァレリエの絶叫と共に、黒衣の者は草原の中に倒れ臥す。前回のターンでヴァレリエが演じていた草原の逃走のシーンは、今回はリヒャルドに該当する人物が受け持つことになっているようでもある。
 
次のシーンでは、何故かヴァレリエは撃ち殺された鼬の死骸からイヤリングを外して手に取ろうとしている。
 
そこに館の下女が、お祖母様が病に倒れたことを知らせに来る。ヴァレリエが館に戻ると、お祖母様は自室で床に臥している。するとお祖母様に心配そうに声をかけながら、ヴァレリエは狡猾にその耳からイヤリングを外すのである。お祖母様の部屋の背後の壁には、お父様の肖像画がかけられている。お祖母様は手鏡に自分の顔を映して耳飾りが失われたことに気付くが、手に取った手鏡の裏には、温室にあった蜜蜂の巣の木像にあったのと同様の浮き彫りが施されているのが何やら暗示的である。
 
その時、館の中庭に御者の乗っていない二頭立ての馬車が乗り入れてくる。この事実を告げられると、お婆様はこれまでヴァレリエに隠されていた過去の秘密と、不思議な予言を暴く告白をしてこと切れる。
 
お祖母様の死を待ち受けていたかのように館に乗り入れてきた馬車には、壁に掛かっていた肖像画にあった通りのお母様とお父様の姿がある。
 
 ヴァレリエは遂に館に戻ってきたお母様とお父様を迎え入れる。しかしヴァレリエを抱き留めたお母様は、何故か曰くあり気に視線を横に移しているのである。壁にかけられた鼬の死骸の傍らに、オルリークの姿も見えるが、オルリークは指を口に当てて、ヴァレリエに何かを告げようとしているようにも思われる。
 
 ヴァレリエを抱き留めたお父様も、お母様の場合と同様に曰くあり気な怪しい視線を他所に向けているのである。そのお父様の視線の先には何故か、壁にかけられた鼬の死骸がある。
 
お母様とお父様は、ヴァレリエの目を盗んでやはり怪しい目配せを交わしあっているのであった。
 
ヴァレリエは、両親の示す不審な動作に何も気付くことなく、耳飾りをお母様の耳にかけてあげる。
 
 そこに喪服に身を包んだお祖母様が、オルリークに支えられて館から出てくる。先ほどベッドで事切れた筈のお祖母様が、何事も無かったように館から姿を現すのである。お祖母様は、ヴァレリエの両親を迎え入れ、お母様と口付けを交わしながら、ヴァレリエがかけてあげたお母様の耳元の耳飾りに目を留める。それからお祖母様は一瞬お母様の首を絞めようとするのだが、何故か突然動作を思い止まるのである。従姉のエルサがヴァレリエに対して行った攻撃の試みとその放棄の動作が、形を変えてここで反復されているのである。それと同時に、何故か壁にかけられた鼬の死骸に耳飾りが移動している。
 ここからいきなり、これまでの秘匿された策略と狡猾な陰謀の存在を暗示する不気味な展開とは打って変わって、少女たちの清らかな声による祝祭的なコーラスが響き渡る。画面には何事も無かったように、幸せそうに口付けを交わすヴァレリエとオルリークの姿が映し出されている。
 
 唐突のフィナーレを迎えた映画は、形式通りのエンディングの様相を示し、少女たちの清澄な歌声による賛歌と共に、それぞれの人たちがそれぞれに愛を交わしあう様を映し出す。本編には描かれていなかった他の選択肢のもたらす種々の可能性の具現する様相が、改めて暗示されているようでもある。オルリークの御す馬車には、お祖母様とお母様とお父様とヴァレリエの4人が揃って乗り込んでいる。ここでは物語は、失われていた家族の再会と和解という幸せな主題に収束している。
 ミサで同席していた少女たちと町の広場でヴァレリエを火刑に処した男たちも、仲良く木の上で勢ぞろいしている。さらには、情愛深げに口付けを交わし合う少女たちの姿もある。
 
 怪物の姿のリヒャルドとエルサが親密に抱きあう姿もある。少女たちと楽隊も揃って穏やかな様子で水辺にくつろいでいる。
 
 花売り娘とヴァレリエの朗らかに並び立つ姿も、親しげな様子のお父様とヘドヴィカの姿さえもある。
 
リヒャルドの持っていた扇子を掲げたお父様と、従姉妹のエルサの持っていた首飾りを掲げたお祖母様の揃い立つ姿もある。この映画に登場したキャラクターたちの全ての存在性向と関係性の混淆と遷移が、網羅的に示されているのである。しかし伝道師のグラツィアンだけは、どうしてか教会にあった籠の中に閉じ込められている。
 
 そこで幼子と子羊を囲む少女たちの姿が映し出される。ここで終局を迎えると共に、全てを覆い尽くしたと思われた渾沌と猥雑は、この仮構世界の要求する支配的な祝祭のモメントの許に、一挙に聖性の様相を賦与されることになる。
 
オルリークと花売り娘が仲良く立ち並ぶ姿もある。
 
人々は集って森の中に置かれたベッドを囲んでいて、ヴァレリエはその中央でベッドの中に静かに身を休める。
 
 こうして聖歌隊の敬虔な頌歌を思わせる少女たちのコーラスと共に、ヴァレリエの奔放な夢の世界はようやく終焉を迎えることになるのである。
 ナレーションを用いて一意的な概念を選択してしまう言葉でストーリーを語ってしまったならば、そのシーンの内実は意味的に決定され、現象世界的に収束した物語像を伝えるものとなる。しかしこの映画では、シーンの一つ一つが概念を棄却した即物的な映像のみを効果的に用いて提示されているため、エピソードの各々が深い曖昧性を担わされており、ほとんどの状況において両義的な解釈を行う余地が残されたものとなっている。不吉な忌まわしい出来事が起きようとしているのかあるいは心地よい希望の実現がもたらされつつあるのか、主人公は被害者として虐げられているのかあるいはむしろ加害者として狡猾に振る舞っているのか、その答えは決して明らかにはされてはいないのである。
 ほとんど全ての重要なシーンにおいて、ヴァレリエを取り巻く登場人物たちには、表面に暗示されるものとは裏返しの筋の進行を示唆するような怪しげな仕草が用いられたり、疑わしい視線のやり取りが行われたりすることとなっているのである。
 
 映像として観客が目撃したものは主人公ヴァレリエの願望なのか畏怖なのか、あるいはそれ以外の他の何ものかでもあり得るのか、客観的な判断を行うための基幹的情報は、敢えて最後まで伏せられたままである。その曖昧性は、殊に終末とエンディングのシーンにおいて爆発的に増幅されている。エンディングにおいては、本編では描かれることの無かった可能性の暗示する様々の帰結さえもが、それぞれ一瞬の映像の断片を用いて脈絡もなく網羅的に提示されているのである。
 説明台詞に頼ることなく、さりげない些細な仕草の中に両様に解釈することのできる含みを持たせた演技は、かなりの集中力を維持して観続けることを要求するものである。この事実に見られるように、実は多くの場合言葉よりもむしろ映像の方が、その読解においてより高度の知性を要求するものなのである。そのような観点からこの映画に用いられている演技と演出上の工夫を再点検してみる必要があるに違いない。現象世界的リアリズムとは全く異なる構造原理に基づいた映像芸術作品Valerie and Her Week of Wondersにおいては、生成する事象の位相を決定すべき観測者の視点を構築する位置情報が周到に撹乱され、さらに意識の裡における空間認識と肉体感覚の双方が個体あるいは現象として発現する以前の未分化の状態に還元された結果、経験された出来事の内実を記述すべき因果関係性の概念そのものもまた解体して、これらを反映すべき映像が相反する場面のそれぞれを平行に分岐させた多義的な描像として時間軸上に再配列されて、点描的に画面上に現出することになっていたのであった。


注釈
(1)
 この映画は、日本語字幕版DVDでは『闇のバイブル 聖少女の詩』の題名で刊行されている。本稿におけるこの映画の映像の引用は、全てボックス版『チェコ怪奇骨董幻想箱』(2004)に収められた『闇のバイブル』(エプコット)から抽出されたものである。
(2)
 Vitezslav Nezval,Valerie and Her Week of Wonders, translated by David Short, Twisted Spoon Press (2005).
(3)
 本稿における論考の前提となっている相対性理論と量子力学の及ぼした現象記述と世界認識の変革に対する影響の詳細については、筆者の『アンチ・ファンタシーというファンタシー2 ピーター・ビーグル「最後のユニコーン論」(2009年)に所収の「量子理論とパラドクスと不可能世界」を参照されたい。
(4)
 本稿における論考の仮定となっている仮構世界の保持する現実世界との連続体としての位相に関する推論の詳細については、筆者の『アンチ・ファンタシーというファンタシー2 ピーター・ビーグル「最後のユニコーン論」(2009年)に所収の「“私”と“世界”と仮構/魔法―ペルソナと時空の等価原理」を参照されたい。
(5)
 量子論理的世界観の及ぼした仮構世界記述の変化系の一つとして、現代絵画におけるキュビズムや未来派が企図した創作理念をその相当物として挙げることができる。時間芸術である映画は、絵画におけるこれらの類例に比して遥かに有利な条件を約束されていた筈であったのだが、残念ながらそのようなものとして正しく認知される機会に恵まれることが無かったのである。
(6)
 原作の小説の記述と対照してみれば、実はこの疑問はあまりにもたやすく解決されてしまう。文字による意味形成的記述を意図的に省いて、概念情報の欠落を巧みに偽装し暗示効果を最大限に増幅したのが、この映像作品の巧妙な創作戦略だったのである。本稿では敢えて原作との対照の具体例を遂一示すことはしなかったが、原作小説を検証してみればこの映画の画面の進行は驚くほど原作に忠実であることが判明する。それにも関らず、様々の暗示的なシーンの挿入と意図的な具体的情報の省略によって、この映像作品は原作にあり得なかった見事な曖昧性の効果を獲得しているのである。

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