アンチ・ファンタシーというファンタシー(15)

レッド・ブル―無知と盲目の影


 独特の形而上学的主題性を、巧妙にそのストーリーばかりでなく記述の襞の内部にも畳み込んでいる、極めて洗練されたアンチ・ファンタシーである『最後のユニコーン』(The Last Unicorn, 1968)においては、主人公のユニコーンの体現する象徴的な存在属性そのものが、物語の主題面における全体的位相を決定する最も重要なファクターとなっていた訳だが、彼女の敵役として登場する妖獣レッド・ブルについて行われている記述と描写も、実はこのユニコーンという存在を見事に背面から照射するものとなっているのである。本章ではこの新機軸の悪漢/怪物/さらにその他のもう一つの極めて重要な役割をもまた果たしている存在の属性記述における興味深い特質と、巧妙に擬装されていたその不可解な存在論的位相について、さらなる検証の手を加えていくこととしよう。
 最初にこの不可思議な怪獣の名が語られたのは、物語の冒頭あたり、これまで長い間自分の守ってきた常春の森を離れて、外の世界へと旅立ったばかりのユニコーンが路上で出会った、意味なく歌を口ずさむことしか知らない、気の触れたような蝶によってだった(1)。ユニコーンの尋ねた質問をはぐらかすように、とりとめの無い戯言を延々と繰り返した後に、漸く彼は先程尋ねられたユニコーンの問いに答えるかのごとく、遠い昔に世界のあらゆるところから失われてしまった他のユニコーン達の消息と、その運命的な事件に関与したというレッド・ブルという存在について語ったのである。

You can find your people if you are brave. They passed down all the roads long ago, and the Red Bull ran close behind them and covered their footprints.

p. 15

勇気を失うことが無ければ、失われた仲間達を見つけ出すことができます。彼等は遠い昔に世界のあらゆる道を駆け去り、その後をレッド・ブルが追って、彼等の足跡を消し去ってしまったのです。

しかしこの風のように希薄で極楽蜻蛉そのもののように脳天気な蝶は、助言者としてはいささか当てにならない、むしろはなはだ頼りない軽佻浮薄な情報提供者なのである。何故ならば、“レッド・ブル”という始めて耳にする名について、改めて尋ねたユニコーンに対する蝶の答えは、以下のようなものであったからだ。

“His firstling bull has majesty, and his horns are the horns of a wild ox. With them he shall push the peoples, all of them, to the ends of the earth.

p. 15

「彼の第一子は王となり、その角は野牛の角。これを用いて牡牛は、全ての民を地の果てまで追いやるであろう。」

 実はこの言葉もやはり、ユニコーンの問いに答えて語ったものとは、必ずしも言い難いものなのだ。これはひょっとしたら、旧約聖書の一つ「申命記」(Deuteronomy)33章17節に、エジプトを脱出したモーセに対して神によってなされた予言として記載されている言葉の、あるがままの引用に過ぎないものであるかもしれないからである。ちなみにこの節を導く直前の第16節は以下のようなものであった。

And for the precious things of the earth and the fulness thereof, and the good will of Him that dwelt in the bush; let the blessing come upon the head of Joseph, and upon the crown of the head of him that is prince among his brethren.

そして大地の上にあるものの掛け替えの無い豊かさと、茂みの中におわす尊きものの恩寵に対しては、ヨセフの額と輩達の君たるものの額の上の王冠に、祝福を与えたまえ。

だからここに語られている牡牛とは、次の第18節以降に語られていたようにイスラエルの民の全てを、エフライムの一万の民もマナセの数千の民も、共に地の果てへと追いやることになると予言されている、世界の王たる権威と審判を下す権力を持った、驚異的な存在のことを示すものだったのだ。蝶はこれまでのユニコーンの問いに対する他の返答と同様に、実はユニコーンの発した疑問にはいささかも関わりを持つことのない、全ての時と場所と個別の存在性の限界をも越えてたゆたっている、記録と発声と想念の集合体である無限大の無意識から脈絡無く無差別抽出したフレーズを、一人口ずさんでいただけなのかもしれないのである。
 蝶の語った“レッド・ブル”という存在については、この覚束無い情報提供者の与える言葉の真偽についてのみならず、『最後のユニコーン』という物語の記述に用いられている言葉によって描き出されたかのように見えるその姿形と、さらにこの存在性向の暗示する彼の本質的属性についても、限りない反省の許に精細な検証を企てて行く必要があるものなのだ。そこにはファンタシーの源流となっているロマン主義思想の根幹的理論となるものと、精妙なアンチ・ファンタシーである本作品の占める際どい位相を確定する手掛りが隠されている筈なのである。先ずはこの物語において採用されていたレッド・ブルに関する記述の実体を、ストーリーの展開に即して入念に追い直していってみることにしよう。
 いよいよ失われた仲間達を求める探求の旅の目的地であるハガード王の城を真近にしたユニコーンとその一行の前に、突然蝶の予言に語られていたあの牡牛が姿を現した時の記述である。

The Red Bull did not know her, and yet she could feel that it was herself he sought, and no white mare. Fear blew her dark then, and she ran away while the Bull’s raging ignorance filled the sky and spilled over into the valley.

p. 109

レッド・ブルはユニコーンがユニコーンであるとは分らないのだった。けれどもユニコーンは彼が白い雌馬などではなく、自分のことを捕まえようとしていることが分った。その時恐怖が彼女に襲いかかり、体の輝きを失わせた。そしてユニコーンは踵を返して逃げ始め、牡牛の猛り狂う無知は空を覆い、溢れて谷間に流れ込んだ。

 初めてユニコーンの前にその姿を現した宿敵レッド・ブルとユニコーンとの対決の有り様は、通例のロマンスやファンタシーの場合とは決定的に異なった角度から描かれているのである。他の全てのユニコーン達をこの世から駆逐してしまったと述べられていた強大な力を秘めたこの怪物は、実はユニコーンを視認し同定することさえも出来ない愚鈍極まりない無知の持ち主だというのである。ここでは彼の与える莫大な体躯とその驚異的な力のもたらす恐怖感以上に、彼の固有の特質である無気味なばかりの無知性が、独特の修辞法を用いて強調されていることがむしろ興味深い。この怪物の保持する不可解な属性である無知は、空気や水のように特有の材質性を持ち、目に見え、手に触れることさえもできるものなのである。
 猥雑な世俗的知識の欠落は愚かしい蒙昧な無知とは異なり、むしろ無意識と連接して深遠なる叡智ともなり得るものであった。しかしここに語られたレッド・ブルの体現する無知性とは、もっと密度の濃い、醜く汚濁したものであることが暗示されている。つまり無知性とは、世界と自身の存在意義との関係性も、自らの生の目的性と使命をも全く顧みることの無い、アメリカという文化的辺境国に独特の、荒廃しきった現世主義を呼ぶ別の名前として語られるものであった。この点についてのレッド・ブルの占める存在論的位相に関する考察は、既に『最後のユニコーン』論の序章として、「不毛の王国の貪欲なストイスト」(2)において展開されていた通りである。上記の論考においては、ハガード王という象徴的悪漢の影として検証の対象としていたこの怪物の暗示する、さらにもう一つの興味深い側面について、ここで改めて考察の糸を手繰っていくことにしよう。
 何故かユニコーンは、漸く登場したこの怪物の体現する謬質の無知という性向に気付くや、かつて知ったことのない恐怖感に襲われ、当初の目的であった筈の戦いを忘れて、一方的な逃走へと追いやられてしまうのである。そして走り去るユニコーンの後を追っていく牡牛に関する描写は、以下のようなひときわ興味深いものとなっているのである。

Yet without looking back, she knew that the Red Bull was gaining on her, coming like the moon, the sullen, swollen hunter’s moon.

p. 110

けれども振り返る必要もなく、ユニコーンはレッド・ブルがむっつりとして膨れ上がった狩人月のように迫ってくるのが分っていた。

圧倒的な力でユニコーンを追い立て、軽やかで素早いユニコーンにもたやすく追い付くことさえできる不可思議な能力を備えた妖獣レッド・ブルが、距離感と大きさの感覚の双方を失わせる、無気味な月の姿に喩えて語られているのである。あまりにも彼方の遠方にあり、そしてあまりにも巨大なために地上の日常感覚を幻惑させてしまい、実際には静止しているはずなのに、いつまでも離れることなく後を追い続けてくるような異様な錯覚を与える月と同様に、莫大な体躯とは裏腹に、どこか実体感を欠いた現象世界から遊離したような希薄な印象さえ帯びている奇妙な怪物が、全てのユニコーンを世界から駆逐してしまったという、このレッド・ブルなのである。ここで彼が喩えられている月の暗示する存在性向における際立った不定性あるいは非在性の感覚は、彼についてこの後も繰り返し語られることとなっているのである。

He had been huge when she first fled him, but in the pursuit he had grown so vast that she could not imagine all of him.

p. 110

レッド・ブルは最初にユニコーンが彼の前から逃げ出した時、既に巨大な体躯をしていた。けれどもユニコーンを追い立てていくうちに、彼の身体の大きさはさらにふくれあがり、もうユニコーンには彼の身体の全てを頭に思い浮かべることもできない程になっていたのだった。

 この場面は、レッド・ブルの質量としての存在属性の不定性と、さらにまた材質と性向、あるいは実体と表象という存在傾向あるいは発現様相の占める筈の形相をも分別すること自体が全く意味をなさなくなる、他者の主観の内部に得られた一印象に過ぎないものとしての疑似存在性向までをも含めた、総合的連続体としての独特の原存在的非在性を強く暗示する部分なのである。現象物あるいは超越的存在を記述の対象として選ぶにあたっての、一意的な客観的対象把握の原理的不能性を先鋭に自覚するこの感覚は、『最後のユニコーン』の物語全体を支配する、際立った思想的特質を反映するものともなっているのである。
 レッド・ブルとはむしろ一個の存在物であるばかりでなく、全てを包含する自然界そのものの現す、多面的な様相の網羅的叙述の一側面のごときものでもまたあるらしい。次の描写の部分が、このような解釈に対して説得力のある弁護を与えると思われる実例を提供してくれている。

Now he seemed to curve with the curve of the bloodshot sky, his legs like great whirlwinds, his head rolling like the northern lights.

p. 110

今はもう、レッド・ブルの身体の輪郭は、血の色に染まった空の輪郭と重なっていた。彼の足は巨大なつむじ風のようで、彼の頭は極光のように旋回しているのだった。

 このようにレッド・ブルの身体は、一個の生命体としての限界性を捨て去り、ともすれば世界そのもの、自然そのものと同化しようとさえするものであるかのように、入念な暗示的記述の手を加えられているのである。世界の中に含まれる個別の存在物として発現すると同時に、世界そのものの示す局相の一つでもまたあり、あるいはギリシア神話の神々がそうであったように、事象性と対極にある抽象概念としてもまた同等にあり得るかのごとくである。(3)そして彼の保持するであろう抽象概念としてのもう一つの名は、おそらく“盲目”というものなのであった。

His nostrils wrinkled and rumbled as he searched for her, and the unicorn realized that the Red Bull was blind.

p. 110

レッド・ブルはユニコーンを探し求めて鼻をうごめかし、途轍も無い鼻息を立てた。そしてユニコーンは彼が盲目であることに気が付いた。

 ユニコーンさえ立ち向かうことが出来ない圧倒的な力を持ったレッド・ブルの、不可解な属性である盲目性が、無知性という特質に引き続いてここで言及されているのである。無知と盲目という彼の示す特質は、本作品の20世紀アメリカという精神土壌の許に生まれた異質のファンタシーとして保持する、アンチ・ファンタシー的性向の必然性を理解するための時代的背景を提供する、含蓄に富む条件として看做されなければならないものであろう。この物語の主題上の核を形成しているユニコーンの存在属性も、むしろ彼女を脅かす悪漢の役を担って登場したこの怪物の存在性向を中心に据えてみることによってこそ、よりその実相が明らかになってくる筈なのだ。
 例えば以下の引用が、この考察を支持するであろう説得力を持つ証言の最初の一つとしてあげられるに違いない。

With low, sad cry, she whirled and ran back the way she had come: back through the tattered fields and over the plain, toward King Haggard’s castle, dark and hunched as ever. And the Red Bull went after her, following her fear.

p. 110

低い、悲しげな叫び声をあげて、ユニコーンは身体の向きを変え、今来た道を引き返した。引き裂かれた畑をまた戻り、草原を横切り、元のまま黒く背を丸めたままのハガード王の城の方へと行くのだった。そしてレッド・ブルは彼女の怯える心の後を付いて行くのだった。

追うものが追われるものに対してその追跡という行為により恐怖感を与える、という基本的な主客の関係の許に成立する筈の因果関係が逆転し、あまりにも無知なるが故に本来の目的性も独自の意志をも持つことがあり得ないこの怪物は、ユニコーンの怯える心によって生成し、その恐怖の後に付き従うことによって始めて、個別の行動とそしてその存在をも具現化するのであるかもしれない。レッド・ブルの存在属性を照射すると思われる同様の反転的因果関係を示す記述は、追う牡牛と追われるユニコーンの後をあたふたと着いて行く、シュメンドリックとモリーの姿を語った以下の描写にも再び繰り返されているのである。

Molly and the magician scrambled over great tree trunks not only smashed but trodden halfway into the ground, and dropped to hands and knees to crawl around crevasses they could not fathom in the dark. No hoofs could have made these, Molly thought dazedly; the earth had torn itself shrinking from the burden of the Bull.

p. 111

モリーとシュメンドリックは巨大な木々の残骸の上を乗り越えて進んで行った。それらは打ち砕かれているだけでなく、踏み付けられて地面の中に半分埋まり込んでいるのだった。四つん這いになって、暗闇の中では深さも知れない地の裂け目を避けて進まなければならなかった。モリーは頭をくらくらさせながら思った。「レッド・ブルの蹄がこんな裂け目を穿った筈はない。牡牛の重さを嫌って、地面の方が自分から裂けてしまったのだ。」

 レッド・ブルの途轍も無い巨大さが残した破壊と蹂躙の痕跡として、倒された木々や裂けた地面が確かに残されてはいる。しかしそのあまりの凄まじさに、実際にこのような出来事が起こったとは俄に信じ難いばかりではなく、むしろ原因となる牡牛自身の実体性そのものに、却って疑念が持たれてしまうのである。事象の生成に対して、動作を行った主体と変化をもたらされた客体という本来あるべき関係性の見事な喪失の有り様がここに改めて明示されているのである。レッド・ブルとはむしろポジティブな存在性を持つことのない、他の何者かのネガティブな自壊、あるいは喪失、もしくは逡巡さもなければ保持する性向あるいは属性の一部分の放棄が形象化したものであると呼んだ方が、より適切なものであるのかもしれないのだ。(4)そう言えば最初にあの蝶がレッド・ブルの名を口にした際も、この牡牛は「ユニコーンを追い立てて行った」とは語られてはいなかった。「レッド・ブルは、走り去るユニコーン達の後を走って行った」と述べられていただけなのであった。
 現代の世界観を支配する西洋論理的因果関係の理解に従えば、先ず現象を起こすべき本体が予め存在し、一方がもう一方の存在物に対して何らかの動作を働きかけるものとされる。そこには能動と受動の関係が、時間軸の単一方向的支配の許に厳然と存在せねばならないのである。しかしこれに対して、例えば古代世界あるいは伝統的な東洋思想における事象の生成とは、絶えず遷ろい変化し続ける全体のある意識の主体に対して仮に示す、一つの相対的な局相として理解されるに過ぎないものであった。行為を行うものとその働きを被るものとを分別する感覚は、統括的な全体性を前提とする思想の裡には、もともと存在しなかったのである。
 ユニコーンを狩るレッド・ブルと、レッド・ブルによって狩られるユニコーンは、それぞれ個別の存在性向を保持する実体であるのではなく、仮定された一つの存在あるいは現象の示す、対極的に分離した二つの位相でもあるかのごとくである。だから彼等の身体が実際に触れ合うことは、おそらく決してあり得ないのだ。

Molly Grue, a little crazy with weariness and fear, saw them moving the way stars and stones move through space: forever falling, forever following, forever alone. The Red Bull would never catch the unicorn, not until Now caught up with New, Bygone with Begin.

p. 111

モリー・グルーは、疲れと恐怖のために正気を半分失ってしまい、星や石が宙を移動していくのを見るような気持ちで、ユニコーンとレッド・ブルの姿を見ていたのだった。彼等はいつまでも二人きりで、いつまでも一方は落ち続け、いつまでももう一方がその後に続いていくかのようだった。「レッド・ブルは決してユニコーンに追い付くことはないのだろう。“今”が“新た”によって追いつかれ、“過去”が“始まり”によって追いつかれるまで。」

 逃げるユニコーンと追う牡牛の姿を見守るモリーの視点は、奇妙なことに現世的束縛から離れて、無限遠の彼方から全てを俯瞰するかのごとく浮き上がっているのである。時間の奴隷として些末な現象性に翻弄されるがままに生き続ける人間の主観の裡に、束の間永遠の彼方を見通す超越的把握力の来訪が可能であることを暗示するかのごとくである。この現象性離脱の感覚は、このお話のクライマックスを迎える場面でさらにもう一度繰り返して語られることとなるのだ。(5)これは肉体的疲労と精神的緊張の極みが、あたかも宗教的苦行の結果のように瞬間的にモリーに与えた、全体性の知覚あるいは記憶とも言うべきものなのであろう。そこでは時間軸の向きの影響と因果関係の辿る方向性の支配をも受けることなく、総ての関係性の本質が全方位的に把握され得ることとなる。瞬間の背後に存在する永遠性の本質に従えば、ユニコーンとレッド・ブルは、磁石の両極のように常に不即不離の関係を保つ、実はこの上なく近接したもの達である筈なのだ。

The unicorn fled once more, pitifully tireless, and the Red Bull let her have room to run, but none to turn.

pp. 111-2

ユニコーンはもう一度、レッド・ブルの許から逃げ出した。その疲れを知らない走り方が、哀れなほどに思えるのだった。そして牡牛は、走り続けるだけの猶予は彼女に与えたものの、向きを変えるだけの余裕を与えることはないのだった。

 疲れを知らないほどに軽やかに走るユニコーンの姿だからこそ、却ってその素早い身のこなしが哀れに感じられてしまうというのである。しかしそのユニコーンをレッド・ブルは余裕たっぷりに追いつめていく。けれども牡牛は彼の餌食を決して捕まえてしまおうとはせず、執念深く一つの方向へと追い立てていくばかりなのである。あるいはユニコーンの動きに引き付けられて、その直後に従順につき従っているだけなのかもしれないからである。
 だから魔法使いシュメンドリックの魔法の力によって人間の娘へと変身させられてしまった、彼の先導者であるべきユニコーンを見失ったレッド・ブルの姿は、やはり決定的に実体性を欠くものとなってしまわざるを得ないのである。

The Red Bull raised his huge, blind head and swung it slowly in Schmendrick’s direction. He seemed to be waning and fading as the gray sky grew light, though he still smoldered as savagely bright as crawling lava. The magician wondered what his true size was, and his color, when he was alone.

pp. 114-5

レッド・ブルはその巨大な盲目の頭を上げて、ゆっくりとシュメンドリックの方に向けた。その牡牛の姿は、地面の上を這って流れる溶岩のようにまだ荒々しくくすぶっていたにもかかわらず、薄暗い空が明るさを増すに連れて、薄くかすんでいくように思われたのだった。シュメンドリックは、牡牛が一人きりになった時、牡牛の本当の大きさはどのくらいなのだろう、本当の色はどんな色をしているのだろうと思わず考えた。

 レッド・ブルの圧倒的な体躯の大きさと相反して、彼のあっけない程の実体感の脱落の様が、改めてその具体的な大きさと実際の色合いに焦点を当てて、ここでも再び言及されているのである。 “牡牛が一人きりになった時”とは、つまり“ユニコーンの姿が見えなくなった時”と同様である。ユニコーンがその輝きに満ちた姿を隠したと同時に、牡牛の姿も突然色褪せてしまったというばかりではない。ユニコーンという一方の存在があって初めて、この牡牛の存在自身がかろうじて可能となるのだ。単独では存在物としての実体性すら満足に維持することがあり得ないのが、全てのユニコーン達が遭遇したと語られたあまりにも巨大過ぎるという、そして後にはユニコーンよりもさらにオールドであるとさえ語られていたこの怪物の唯一の実質なのだろう。(6)ユニコーンの存在をある種の核として持つことによってのみ、レッド・ブルの身体の大きさもその色合いも、そしてその力もまた、堅固で明瞭な具象性あるいは意味性を保有するものとして感じ取られることとなるのである。とすればやはり、ユニコーンがその本質的な属性あるいは形状を失ってしまった時には、牡牛の存在性そのものが揮発性の残像として瞬時に失われてしまうことになるのも、至極当然のこととなるのであろう。

Schmendrick had a last vision of him as he gained the rim of the valley: no shape at all, but a swirling darkness, the red darkness you see when you close your eyes in pain. The horns had become the two sharpest towers of old King Haggard’s crazy castle.

p. 115

レッド・ブルが最後に谷間の端まで来た時、シュメンドリックには彼の途轍も無い大きさが改めて分った。それは形といってよいものではもはや無く、痛みに思わず目を閉じた時に感じられる赤い視界のような、渦巻く暗闇だった。牡牛の二本の角は、ハガード王の馬鹿げた城の二本の細い尖塔に重なっているのだった。

 ユニコーンとの一回目の遭遇の折に、レッド・ブルが最後にその姿を消そうとするこの場面においては、レッド・ブルの圧倒的な巨大さに相反するその実体性の希薄さがさらに極まり、自然界に実在する客観的存在物としてではなく、個人の意識の内部機構に属する主観的幻影あるいは錯覚でさえもあるかのように、よりいっそう退縮した様態を通して語られているのである。その存在性は発現当初の印象に反して重厚な実体性を限りなく喪失した結果、むしろ朧げな心象あるいはとりとめの無い奇想にさえ近い、はなはだ危う気な別物に転換してしまっているのであった。意識内部の仮想的概念として、あるいは印象的疑似存在物としての超自然的な非在性をも含めたその純観念的存在性向は、アンチ・ファンタシーとしての特質を誇示した先行的な作品であった、『ピーターとウェンディ』において語られていたネヴァランド(Neverland)という疑似世界/意識機構と、そしてまたこの陥穽に満ちたお伽話の表の主人公であったピーターという抽象概念/心象とも、共通する部分が極めて大きいもののようにも思われる代物なのだ。
 レッド・ブルの担う独特の存在性向について改めて別の角度から考察してみるために、レッド・ブルに関する情報としてこの蝶のもたらした発言における、既存の聖書からの引用を語っていたと判断されていた部分に関して、その具体的な出典に関するもう少し精細な検証作業を企ててみることにしよう。蝶が実際にユニコーンに述べていた言葉は、先にも引用した通り、以下のようなものなのであった。

His firstling bull has majesty, and his horns are the horns of a wild ox. With them he shall push the peoples, all of them, to the ends of the earth.

ここにあるような神の託宣を記録した内容が、教説という体裁のもとに記載されているという『申命記』とは、ユダヤの神ヤハウェがエジプトを脱出したモーセに語った教えと予言を記した、旧約聖書の中で“律法の書”と呼ばれることもある“モーセ五書”の最後の一つとなる書物である。蝶の語っていた牡牛の到来を予言する内容も、モーセがヤハウェの言葉をイスラエルに伝えたという形で記述されている部分に該当するものだ。原典はヘブライ語で書かれていたものだが、この書物にはギリシア語に訳された『七十人訳聖書』以外にも、この後作成された様々な英語訳のバージョンが存在する。これらの複数の英訳版聖書の中で、あの蝶が語った予言の言葉は、果たしていずれの版からの引用を行ったものであるのかを厳密に確かめようと試みてみると、いくつかの興味深い事実が明らかになってくるのである。実は『最後のユニコーン』の中で蝶が語っていた言葉は、確認可能ないずれの英語訳とも微妙に異なったものとなっているからである。参考のために、該当の部分の記載のある『申命記』33章17節を、いくつかの英訳版聖書を並記して対照してみることによって、それぞれの『最後のユニコーン』の蝶の言葉との異同の箇所を確認することにしてみよう。(7)各々の訳における蝶の科白との異なりを示す箇所には、下線を施して記すこととしよう。

The firstborn of his herd, majesty is his. His horns are the horns of the wild ox. With them he shall push the peoples all of them, even the ends of the earth: They are the ten thousands of Ephraim. They are the thousands of Manasseh.

World English Bible

The firstling of his herd, majesty is his; And his horns are the horns of the wild-ox: With them he shall push the peoples all of them, even the ends of the earth: And they are the ten thousands of Ephraim, And they are the thousands of Manasseh.

American Standard Version of 1901

He is a young ox, glory is his; his horns are the horns of the mountain ox, with which all peoples will be wounded, even to the ends of the earth: they are the ten thousands of Ephraim and the thousands of Manasseh.

Bible in Basic English

His majesty is as the firstling of his ox; And his horns are as the horns of a buffalo. With them shall he push the peoples Together to the ends of the earth. These are the myriads of Ephraim, And these are the thousands of Manasseh.

Darby Translation of 1884 / 1890

His glory is like the firstling of his bullock, and his horns are like the horns of unicorns: with them he shall push the people together to the ends of the earth: and they are the ten thousands of Ephraim, and they are the thousands of Manasseh.

King James Bible, Authorized Version of 1611

His glory is like the firstling of his bullock, and his horns are like the horns of unicorns: with them he shall push the people together to the ends of the earth: and they are the ten thousands of Ephraim, and they are the thousands of Manasseh.

Webster Bible of 1833

His firstling bullock, majesty is his; and his horns are the horns of the wild-ox; with them he shall gore the peoples all of them, even the ends of the earth; and they are the ten thousands of Ephraim, and they are the thousands of Manasseh.

1917 Jewish Publication Society Tanakh (Old Testament)

His honour ‘is’ a firstling of his ox, And his horns ‘are' horns of a reem; By them peoples he doth push together To the ends of earth; And they ‘are' the myriads of Ephraim, And they ‘are' the thousands of Manasseh.

Young's Literal Translation of 1898

上の結果からも明らかなように、『最後のユニコーン』の蝶の語った言葉は、実は現存する『申命記』のいずれの訳とも完全に合致することのない、出典の正体の極めて不明瞭なものなのである。一見して気が付くのは、ヤハウェが予言として語った王の権力を授かることとなるヨシュアの長子を呼ぶ言葉として、牡牛(bull)という語以外にもいくつかの言葉が用いられている点だ。いずれもほぼ“bull”の同義語であるとは言えるものの、実際に記載された語は冠詞の選択や単複の別などの細かな記述上の異同があるばかりでなく、“ox”や“bullock”等のように、いくつかの異なった訳語が用いられていることが分かる。しかもさらに興味深いことは、彼の絶対的権力者としての権勢の象徴となる角をなぞらえる言葉として、この牡牛自身の角のみならず、さらに他の動物の角が持ち出されている例が3つあることだ。すなわち“buffalo”と“reem”と、そして“unicorn”がそれである。殊にKing James Bible(欽定訳聖書)とWebster Bibleの二つの翻訳においては、この部分に“unicorns”という語の適用が見られ、『最後のユニコーン』に登場する宿敵同士である筈のユニコーンと牡牛の双方が、何故か同一箇所の訳語として採用されていることが、際立って目を引く意外な事実と思われることであろう。
 引用と参照が明確な意図の許に個別的な言及に収束することなく、むしろ限りなく焦点を散開させるかのような漠然とした結果を招くことになるこの蝶の徹頭徹尾散漫であり続ける発言の特質と、そして彼の示す脈絡のない連想の流れの中の透明性の意識のあり方という特性を思い起こしてみれば、疑いなく『申命記』である筈ではありながらいかなる実際の『申命記』とも合致することのない蝶のこの場面での科白は、この物語の不定性の全方位的真実の記述という主題性と、見事に照応するものとなっているのである。しかしながらやはり素朴な疑問が感じられるのは、本来のヘブライ語原典における、この強大な力と能力の持ち主であるとされる動物についての実際の記載であろう。
 “モーセ五書”の第四番目にあたり、最後の五番目となる『申命記』の直前に位置する『民数記』(Numbers)を検証して同等の操作を企ててみると、ヘブライ語原典の旧約聖書と解釈の様々に分岐した英語訳との関連がさらに明らかになってくる。結論を導出する好便な例として、『申命記』の場合と類似した“牡牛”に関する記述がある、『民数記』第23章22節について、先程と同様の比較対照の作業を行ってみることにしよう。今度はイスラエルの民をエジプトの虜囚の身から解放する大いなる神の力が、力強い“牡牛”になぞらえられている箇所である。(8)

God brings them out of Egypt. He has as it were the strength of the wild ox.

World English Bible


God bringeth them forth out of Egypt; He hath as it were the strength of the wild-ox.

American Standard Version of 1901


It is God who has taken them out of Egypt; his horns are like those of the mountain ox.

Bible in Basic English


God brought him out of Egypt; he hath as it were the strength of a buffalo.

Darby Translation of 1884 / 1890

God brought them out of Egypt; he hath as it were the strength of an unicorn.

King James Bible, Authorized Version of 1611


God brought them out of Egypt; he hath as it were the strength of a unicorn.

Webster Bible of 1833


God who brought them forth out of Egypt is for them like the lofty horns of the wild-ox.

1917 Jewish Publication Society Tanakh (Old Testament)


God is bringing them out from Egypt, As the swiftness of a Reem is to him;

Young's Literal Translation of 1898

神はイスラエルの民をエジプトから連れ出すであろう。神の力/素早さ/角は、野牛/ユニコーン/リームのもののごとくである。

ここでも先程の『申命記』の場合と同じように“wild ox”、“mountain ox”、“buffalo”等と並んで、“unicorn”と“reem”という訳語がそれぞれの英訳版において用いられている事実がやはり確かめられる。結局のところ、ヘブライ語原典にあった同一のある動物の名が、いくつかの英訳版においては異なる名称を用いて翻訳される結果となっており、その解釈の分岐した結果として、“牡牛”とされる例と“ユニコーン”とされる例の双方が存在しているのである。
 これらの検証作業から明らかに判別されることは、旧約モーセ五書において幾度か王権を所有するものの保持する強大な力を象徴するものとして言及されている動物は、二本の角を持った牛、あるいは鹿に類する偶蹄類の一種の生物であり、それが時に“buffalo”や“mountain ox”等の訳語を当て嵌めて翻訳されていたのであろうということだ。この生物が何らかの現存する生物と正確に対応するものであるのか、あるいは既に絶滅した、イスラエルの民の出エジプトの当時シナイ半島に生息していたであろう偶蹄類の一種のことを呼ぶものであったかは、厳密に特定することは困難だろう。しかしこの生き物が当時ヘブライ語で“reem”と呼ばれていたものであろうことは、“Young's Literal Translation of 1898”版の訳と他の諸テキストとの対照からも、ほぼ類推可能な事実と言えるだろう。しかしながらここでとりわけ興味深い事実は、英国において伝統的に最も親しまれて来た“欽定訳聖書”(King James Bible)と、さらにもう一つWebster Bible of 1833においては、この生物が“unicorn”と記述されていることなのである。これに従えば“ユニコーン”という架空の生物の名をあらわす語の保持する内包として、牛あるいは鹿に類した偶蹄類の一種の動物であるという特質が主張されても良いことになる。確かにビーグルの『最後のユニコーン』に登場するユニコーンは、中世ロマンスにおいてしばしばタペストリーに描かれていたような、馬の姿をして1本の角を額に生やしたという形状の生き物としては語られていなかった。物語の冒頭において

She did not look anything like a horned horse, as unicorns are often pictured, being smaller and cloven-hoofed,

p. 7

彼女はユニコーンがしばしば絵に描かれていたように、角のついた馬のような姿はしていなかった。体は馬よりも小さく、蹄は二つに割れていた、

と語られていたこの物語のユニコーンは、その偶蹄類としての特徴をひときわ明示されている点において、『欽定訳聖書』においてなされていた“reem”がすなわちユニコーンと同一の生物である、という解釈を忠実に反映したものであるかのようにも思われるかもしれない。
 するといささかやっかいな事態が生じることになる。結局のところ欽定訳聖書の採用した“reem”という語の解釈に従って、蝶の語った予言の言葉の内実を理解しようとするならば、ユニコーンがユニコーンによって追い立てられ、世界から駆逐されてしまった、という見事に二律背反した不可解な状況を示唆する結果を招いてしまうことになってしまうからである。
 しかしながら実は欽定訳聖書のこの部分の記載は、当時のヘブライ語解釈上の誤解から生じた、明らかな誤記載であることが判明しているのである。例えばブライアン・テガート(Brian Tegart)のMythological and Mysterious Creatures in the KJV(9)に、このあたりの状況に対する具体的な指摘がある。テガートによれば、

The Hebrew word translated “unicorn” in the KJV is “reem” (Strong’s #7214, and defined as a “wild bull” in Strong’s Dictionary). It’s exact identity is not known. The “wild ox”, the rhino, the “unicorn”, and various other creatures (bison, antelope, etc) have been suggested.

『欽定訳聖書』において“ユニコーン”と訳された単語は“リーム”なのである。(『ストロング辞書』においては“野牛”として特定されている。Strong#7214。)この動物が厳密にいかなる種の生物であったかは定かではない。“野牛”、“サイ”、“ユニコーン”と並んで、バイソンやアンテロープその他の様々な動物がこれに対応するものとして示唆されている。

とある。テガートの示唆するところに依れば、実はこの“reem”という生物こそが、ユニコーン伝説の発祥となるものなのだ。“wild ox”、“antelope”、“bison”等の2本の角を持った動物達と並んで、この語に対応する訳の候補として、1本の角を持つサイ(rhinoceros)があげられているからである。サイもまたユニコーン伝説の起原として指摘されていることは、よく知られた事実である。神話上の存在物としてのユニコーン伝説の起原となる動物に関する論議は、『最後のユニコーン』というアンチ・ファンタシーの内包するもう一つの興味深い主題を導くことにもなるのだが、先ずは欽定訳聖書の誤記載の実体を確認しておくこととしよう。テガートの指摘によれば、『欽定訳聖書』(KJB)の矛盾点は以下のような部分にある。
 テガートは先ず、King James versionに加えてさらに幾つかの“reem”という生物についての記載のあるNew International Version(NIV)、New American Standard Bible(NASB)、New King James Version(NKJV)、New Revised Standard Version(NRSV)等の聖書を並列的に排列し、各々の記載の異同を見比べることのできる対照表を提示している。下に彼の作成した対照表をそのまま引用させて頂くことにしよう。

VerseKJVNIVNASBNKJVNRSV
Numbers 23:22unicornwild oxwild oxwild oxwild ox
Numbers 24:8unicornwild oxwild oxwild oxwild ox
Deuteronomy 33:17unicornswild oxwild oxwild oxwild ox
Job 39:9unicornwild oxwild oxwild oxwild ox
Job 39:10unicornhimwild oxwild oxit
Psalms 22:21unicornswild oxenwild oxenwild oxenwild oxen
Psalms 29:6unicornwild oxwild oxwild oxwild ox
Psalms 92:10unicornwild oxwild oxwild oxwild ox
Isaiah 34:7unicornswild oxenwild oxenwild oxenwild oxen

これに基づくテガートの分析結果は以下の如きものである。

In the comparison chart above, you’ll see that the KJV has "unicorns" (PLURAL), while the other translations have "wild ox" (SINGULAR -- “oxen” is the plural as in Psa 22:21). Why the difference? The answer is simple. In the Hebrew, the word is SINGULAR. But notice the verse says “the horns of unicorns” (KJV). In other words, in the Hebrew, the horns are plural while the creature is singular. It appears the KJV translators saw the contradiction this would create by using the singular “unicorn”, so instead of using a different creature, they pluralized the word! Thus, in there effort to retain the identity of the unicorn while eliminating a “contradiction”, they in fact produced two errors in this verse within the same word:
* they changed the singular to a plural
* they tell us the creatures are unicorns (which cannot have two horns as the Hebrew says)

上記の表を対照してみれば、他の訳では“wild ox”と単数であるところに、欽定訳聖書では“unicorns”と複数形が用いられていることが分かる。この違いはどこにあるのだろう。答えは明瞭である。ヘブライ語原典ではこの語は単数形であった。しかし欽定訳では“the horns of unicorns”と記載されている。つまりヘブライ語ではこの動物は単数であり、その角は複数だったのである。欽定訳の翻訳者は1本の角しか持たないユニコーンをこの部分の訳語に用いることによる矛盾に気が付いた。そしてユニコーン以外の動物を持って来る代わりに、彼等はこの動物を複数形にしたのである。こうしてユニコーンの1本の角という特徴を維持しながら矛盾点の解消を試みるために、彼等は結局一個の単語を訳す際に二つの間違いを犯すという結果を招いてしまったのである。
つまり単数形の語を複数形の語へと変え、さらにこの動物をヘブライ語が語るように2本の角を持つことはあり得ない、ユニコーンに変えてしまったのである。

大筋においてこのテガートの指摘は説得力を持つ見解として受容され得ることだろう。欽定訳聖書において形成されたこの致命的な矛盾点が、当然この部分を示唆して語った蝶の言葉の内実にも、大きな影響を及ぼすことになってしまっていたのであった。
 しかしながらこの矛盾撞着したあり得ない筈の状況が、必ずしも『最後のユニコーン』という物語において、主人公と悪漢の位相をそれぞれ占めているユニコーンとレッド・ブルの関係性を破綻に陥れ、彼等の担う象徴的意味性を完全に無化するものとなってしまう訳ではないことは、この物語を成立させる基本条件の実質を改めて考慮し直してみれば、むしろことのほか興味深い事実となるのである。『最後のユニコーン』の他の場面においてもしばしばユニコーンの存在自身が、実際にこの物語の中で否定されもしているからである。非在性の存在原理は、この物語の主要な題材となっているものでさえあるのであった。例えばユニコーンに唯一の原理的意義性の確証を求め、ユニコーンに付き従うことに至上の行動目的を求める真理の探究者である魔法使いシュメンドリック自身が、以下のようにユニコーンの実在を否定し、彼女が誤解による伝承に基づいた仮構的存在に過ぎないことを明示するかのような言葉を発しさえもしているからである。ユニコーンを魔法の力を用いて人間の娘の姿に変身させてしまった行為の弁護として、彼はこのような言葉を語っていたのであった。

“It would make no difference to you if I had changed you into a rhinoceros, which is where the whole silly myth got started. But in this guise you have some chance of reaching King Haggard and finding out what has become of your people. As a unicorn, you would only suffer their fate―unless you think you could defeat the Bull if you met him a second time.”

p. 118

「もしも僕があなたをサイに変身させてしまったところで、あなたにとっては何の違いもないことだったでしょう。この馬鹿げた神話が生まれたのは、このサイのせいだったのですから。けれどもあなたはこの人間の娘の姿なら、ハガード王の城にたどり着き、あなたの仲間のユニコーン達に何が起こったのか確かめる機会は得られます。ユニコーンのままの姿では、あなたは仲間達と同じ運命をたどるだけです。次にレッド・ブルに出会った時に彼を打ち倒すことが出来るというのでもない限り。」

シュメンドリックはこの台詞を語ることにより、自分の目の前にいて彼がこの言葉を投げかけつつある当の相手のユニコーンに対して、彼女がサイについての伝承から生まれたとりとめの無い神話的虚像に過ぎないことを、あからさまに指摘していることになるのである。(10)
 しかしこの魔法使いの一見奇妙な発言と、気まぐれな蝶の語っていたレッド・ブルとユニコーンの関係を語る不可思議な言説の秘める謎を解く糸口は、実はやはりこの透明性の意識の持ち主である蝶の言葉の中に隠されていたのであった。仲間達を探し求めるユニコーンが発した、他のユニコーン達の消息を尋ねる言葉に蝶が返した言葉の全体像は、次のようなものだったのである。

Over the mountains of the moon,” the butterfly began, “down the Valley of the Shadow, ride, boldly ride.” Then he stopped suddenly and said in a strange voice, “No, no, listen, don’t listen to me, listen. You can find your people if you are brave. They passed down all the roads long ago, and the Red Bull ran close behind them and covered their footprints. Let nothing you dismay, but don’t be half-safe.” His wings brushed against the unicorn’s skin.

p. 15

月の山々を越え、」蝶は語り始めた。「影の谷間を下り、勇敢に、進め。」それから突然言葉を切ると、奇妙な声でまた言った。「いや、駄目だ。聞け、聞くんじゃない、聞け。もしも勇気を失うことがなければ仲間を見つけることができます。遠い昔、彼等は世界のあらゆる道を走り去り、赤い牡牛がその直ぐ後を駆け、足跡を消し去りました。何にも挫けてはなりません。でも油断してはなりません。」蝶の羽はユニコーンの肌をかすめた。

ここで蝶が語った“valley of shadow”という語句もやはり、旧約聖書の一つ、『詩編』(Psalms)にあるものだ。参考のため、以下に『詩編』第23章4節を引用することにしよう。

Even when I walk through the valley of shadow and death, I have no fear, for my Father is with me, protecting and guiding me all the way.

私が死と影の谷間を歩む時でさえも、私の心には恐怖はない。我が父が私と共にあり、常に私を守り、導いて下さるからである。

 “影の谷間”というフレーズは、旧約聖書“詩編”に記載された印象深い言葉としてあまりにも有名なものである。しかし先程の蝶の科白の中で、この“影の谷間”という語句を含む詩の一節をなす以下の2行は、実はそっくりエドガー・アラン・ポーの詩“エルドラド”(Eldorado)にあったものでもまたあるのである。

“Over the mountains of the moon, -- down the Valley of the Shadow, ride, boldly ride.”

「月の山々を越え、影の谷間を下り。―挫けず馬を駆って進め。」

 実はエドガー・アラン・ポーの短詩“エルドラド”においてのみならず、本書において論考の基軸となっている“影”という概念について、ポーは示唆に富むいくつかの興味深い解釈の例を提供してくれているのである。ポーは実は、『最後のユニコーン』の中心的な主題となっている形而上的原理機構を成立させるための基本命題を提供する、キーパーソンとも目されるべき存在なのである。先ずはポーの短詩“Eldorado”(1849)をここに引用してみることにしよう。

ELDORADO

Gaily bedight,
A gallant knight,
In sunshine and in shadow,
Had journeyed long,
Singing a song,
In search of Eldorado.

But he grew old--
This knight so bold--
And o'er his heart a shadow
Fell as he found
No spot of ground
That looked like Eldorado.

And, as his strength
Failed him at length,
He met a pilgrim shadow--
"Shadow," said he,
"Where can it be--
This land of Eldorado?"

"Over the Mountains
Of the Moon,
Down the Valley of the Shadow,
Ride, boldly ride,"
The shade replied--
"If you seek for Eldorado!"

 “エルドラド”において描かれた、永遠の国の黄金の都を求めて探求の旅を続ける騎士は、その遠征の目標とするものの内実を改めて考慮するならば、失われた神話的存在である他のユニコーン達の消息を求めて旅に出たユニコーンの姿と見事に重なるものとなっているのである。しかし、とりわけ“エルドラド”において興味深いのは、理想と永遠の象徴である黄金の都を求めて彷徨う騎士が旅の途上で出会った巡礼が、“影”という言葉で呼ばれていることだ。“エルドラド”の騎士は道辺で遭遇した巡礼に彼の目的地へ続く道を尋ねるのだが、『最後のユニコーン』の蝶の引用にある通りの答えを語ったこの巡礼は、この詩の中では“shadow”とも、そしてまた同時に“shade”とも呼ばれているのである。
 つまり“shadow”は存在物の外形の投影する“影”であり、“shade”は存在物の様相の裏面をなす“影”なのであろう。実は騎士自身の自覚せぬ自分自身の隠された本性である無意識の基体であり、そしてまた彼を常に見守る表裏一体の別人格とも看做し得る守護霊でもある“影”が、騎士が探求の旅の途上で出会ったというこの巡礼の正体なのだ。(11)
 様々な点において仲間達の消息を訪ねて旅に出かけたユニコーンと、彼女が路上で出会った蝶という両者の構築する存在論的位相を見事に反映しているのが、ポーのこの短詩に描かれた騎士と巡礼の姿なのである。つまり蝶の語った言葉は結局は、ユニコーンに彼女の発した質問に対する答を与えて物語を進行させるための有用な情報を教授すること以上に、“エルドラド”の騎士の問いに答える影の台詞を反復して演じることにより、永遠の真実を奪還する探求の冒険に赴き旅の途上で影に出会った彼女とその影である自分自身の姿を描き出す、自己参照の構図を反射的になぞることになっているのだ。
 実はユニコーン自身の無意識そのものであり、全てを映し出す透明性の意識を備えた千里眼の覗き込む水晶のような全方位的不定の視界を備えた蝶は、ここで明らかにポーからの引用を行っていると理解するべきものなのであった。ポーに対する潜伏した参照は、この作品の言語表現の技法に対する先鋭な自覚性と世界認識の方法論に関する思想的類似点を暗示するのみならず、この物語の秘められた謎を解く重要な手懸りを導くものともなっているのだ。聖書への参照の背後にさり気なく隠されていたポーに対する言及が、この蝶自身とこれまで検討を進めて来たレッド・ブルの存在論的位相の双方に対する、重要な手懸りを与えてくれるものとなっているからである。
 ここで改めて、これまで特に厳密な定義を行うことなく用いて来た“影”という言葉の内実を改めて理解するために、19世紀アメリカにおける先鋭的なロマン主義の思想家であったポーの他の作品から、“影”の暗示する意味性をさらに掘り下げていってみることとしよう。
 ポーはこの「エルドラド」を書いた同年に、短編の散文詩「影」(“Shadow”)(12)を発表している。この奇妙な趣を備えた無気味な書簡詩において、不吉な惑星直列の影響下に現出した古代のおぞましい天変地異の有り様を後世に伝えるために記録を書き留めつつある話者オイノスに対して、究極の恐怖感を与えることになる対象物である無気味な“影”として描き出されることになっていたものが示唆していたのは、死と消滅による無化(annihilation)が暗示する断絶と喪失の思いが与える不安や絶望などでは決してなかった。不思議なことに話者の極限的な驚愕と慄然を導くこととなったその原因は、その影の姿をしたものが発した声そのものの中にあったのである。友人達が集い、今通夜を行いつつ有る亡き友人ゾイラスの亡霊であるかのごとく現れ出た影が、当該の一人物の霊魂が目に見える姿として現れたいわゆる幽霊であるばかりではなく、実はそれが話者オイノスのかつての知己であった死者達の全ての亡霊でもまたあり得たという驚くべき事実の発覚こそが、彼の恐怖の念を喚起する集約的な条件として語られていたのである。影による吸収のために自と他の分別の感覚が失われる同化と統合(conglomarization)の果ての避け得ぬ単一性への回帰と、そして同時にそこに予測される截然とした分別を拒む多様性と輻輳性の無限の重ね合わせという二分法的思考過程の破綻という展望が及ぼした畏怖の感覚こそが、この場面でこの印象的な物語の恐怖の条件として提示されていたものだったのである。
 一見したところ的外れで意外な印象を与えるかもしれない、太古の文明世界の識者の抱いたとされるこの不可解な恐怖感の実質を理解するためには、このオイノスという名の記録者がギリシア人として設定されていることの意味を正しく読み取っておく必要がある。ギリシア的な整然としたコスモス空間の中におけるロゴス(理性)の支配には、観念の対象となるものの全てを分別し、その階層を明らかにして秩序付けることが欠かせない条件であったのだ。知る“私”と私によって知られる“知識”が有り、知識を所有する“私”と私によって所有される“もの”あるいは“理解”という概念的対象が得られることの保証が与える安心感は、ギリシア人オイノスにとってはことの他重大なものであったのである。
 理解と認識という行為において対象を客体として分別し、“私”によって見られるものとして世界の一部を周囲から切り離し、さらに特定の体系的観念の枠組みの中に封じこめ、その概念を操る観念操作を行うものとして独立した個別の超然たる“私”を形成しようとする願望が、ギリシア的ロゴス(理性)の中心にはあったのである。しかし太陽光に晒されてくっきりとした輪郭を得ると同時に、そこには嫌応もなくその私のもう一つの似姿である影が生じる。そして影の中にはもはや境界は存在せず、限りない階層の連続性と意味と存在の無限の重ね合わせをその裡に含むことを、その暗黒は示唆するのである。自と他とその他全てのものの分別を成立させる境界概念の構築感覚自体を決定的に瓦解させ、実はこの分別操作の上に立脚していた理性と観念という基幹的概念そのものの立脚点をさえ抹消する力を持った不吉な“影”は、おそらく精神が意識の底においては遠い以前からその存在の影響を感知していないでもなかった、全体性の渦の中に圧倒的な浸食力でもってあらゆるものを巻き込む絶大な力を及ぼす原初的な魔力(カオス)の闇からの顕現として、ギリシア人オイノスに測り知れない恐怖を与えたのである。影の保持していた複数の人物の声の発見の背後にある恐怖感とは、話者を待ち受ける自己同一性消滅と理性喪失と、そして何時の日か必ず待ち受けている筈のコスモス空間崩壊の避け得ない展望でもあったのである。そこに示唆されるのは二分法(binary logic)の論理体系の界面下に無気味に横たわる、存在属性要素の行列的選択により重ね合わせ的様態を発現するという無気味な世界の実相なのである。奇しくもこのおぞましい感覚は、20世紀以降に量子論的世界描像を目の当たりにした現代人が改めて経験し直した戦慄と等しいものなのであった。
 このようにポーの“影”においては、自と他の区別が解消するばかりでなくあらゆる個別性の概念をも無化させて、全てを呑み込む影の浸食を目の当たりにしたことの自覚こそが、話者であるギリシア人オイノスの恐怖の念の正体となっていたことは間違いない。しかしながらポー的なロマン主義思想の仮説が暗示する極限における反転原理への信奉をそこに当てはめれば、この物語は全く異なった印象のもとにこの場面を再構築することも可能なものと思われるのである。ポーの様々の作品の中で描かれる種々の破壊と消滅というカタストロフィは、その絶望の果てに意外な光明と救済の扉を開く鍵を隠し持っているからなのである。
 殊に精神と物質の究極の統合理論となることを企図したと宣言されているポーの形而上的宇宙論「ユリイカ」(Eureka, 1848)においては、ニュートン的普遍宇宙モデルの根幹をなす万有引力(gravityあるいはattraction)という原理と、これに拮抗する斥力(electricityあるいはrepulsion)という新たな相補的原理機構が、光や熱や電磁力等と共に質量と精神という概念を根本的に定義付ける基本概念として提示されていたのであった。唯一なる一者からの流出を発端として生成した宇宙が、全てのものに対して働く引力の作用による再統合のモメントに従って万物の凝集という過程を経て、再び原初の分かつものを知らない単一へと回帰した時に、万物が保持する固有の質量の大きさに従って互いを引き付け合うという言葉で定義される引力も、これに拮抗して他者と互いに反発し合うという定義の許にある斥力もその意味を全く解消してしまい、その当然の帰結として引き付け合うものとして定義された物質と反発し合うものとして措定された精神という基本概念自体が瓦解した時に、破滅と絶望という究極の判断もまた完全な反転現象を来たしてしまう可能性が示唆されることになるのである。これらの事象地平の果ての究極的総転移の帰結が、最終的な光明と至福に導かれるものであると解釈されても何の不思議もない。この仮説の可能性を意識した際には、眼前の苦痛に対する衝動的忌避の代りに限りない霊的誘引力を感じる典型的な“天の邪鬼”の感覚は、外界の及ぼす知覚の惑乱に決して冒されることのない、グノーシス的覚知として再評価されることとなるのである。魔法の機構を支える反転原理は、究極的には統合宇宙論の解式へと収束されるべきものなのであった。分極生成の結果創出された対立物こそ、その無限遠の本性において最も深い同一性を見出されなければならないものであったのである。
 意識の空白性と因果関係と存在性の輻輳による狂気を体現していた蝶が語った申命記の一節は、正しくユニコーンとレッド・ブルの永遠相における同一性を暗示するものに他ならなかったのである。物理過程の終局に予見される全ての凝集と再統合と共に、自と他を分かつ分別性という素因そのものが意味を解消し、物質と精神を特徴付けていた引力と斥力という二次的原理の支配をも超克し、全ての二分法的な論理と共にその結果想定された種々の下位階層の存在様態も、それを語るいかなる概念も意味を消失した果ての、恐怖と絶望の彼岸にある単一性と多様性を併呑した無限遠の至高の真実のみに心眼を向けているという確信がそこにはあるのだ。



(1)

 1982年に公開されたアニメーション版The Last Unicornでは、ユニコーンが故郷を捨てて外の世界に出ていく前に、自らの森の中でこの蝶と出会うこととなっていた。この不可解な助力者である蝶が、ユニコーン自身の自発的な揺らぎの結果誕生した対生成的存在物の一つであることを暗示するこのストーリーの変更は、蝶の“無意識の影”としての存在性向を語るのによりふさわしい展開と判断された結果であると思われる。

(2)

レッド・ブルという、飽くまでも正体の不明瞭なままで有り続けるかのような謎めいた神話的存在と象徴的悪漢ハガード王との間の輻湊した曖昧至極で不可解な関係性とは、正しく本体とその影との不即不離の微妙な合体/離反状況を、揺らぎと共に同調する重ね合わせとしての存在原理そのものとして、網羅的に不確定性のまま取り込む、典型的に20世紀的な事象の記述様態を示すものに他ならないものでもまたあったのである。

『アンチ・ファンタシーというファンタシー』(近代文藝社、2005)、p. 36

(3)

…ギリシア神話の神々を抽象概念や人間の感情を「擬人化」したもの、として理解する発想とは全く別個の図式でもって人間存在と世界存立機構の核心を捉える発想がここにあるといえよう。内面心理の一要素が実在としての外部構造に直截に反映されていることを前提として、これらの神と妖精の類いが心中に発現する抽象概念や感情を表す語と同義のものとして呼ばれ得ていたのであった。「愛の女神アフロディーテのコスモス空間における顕現」という事象は、記述モードを変換するならば「一個人の意識内のある特有の情動の変化」という一方の現象でもまた実際にあり得た訳だ。

『アンチ・ファンタシーというファンタシー』(近代文藝社、2005)、p. 54

(4)

 このお話のエピローグを形成する、ユニコーンの解放とレッド・ブルの消滅が訪れた後の世界の様相の変化を語る描写は、以下のようなものとなっている。

But when they came to Hagsgate, deep in the afternoon, a strange and savage sight awaited them. The plowed fields were woefully torn and ravaged, while the rich orchards and vineyards had been stamped down, leaving no grove or arbor standing. It was such shattering ruin as the Bull himself might have wrought;

p. 203

けれども彼等が夕刻近くにハグズゲイトの町にたどりついて来てみると、荒れ果てた不思議な光景が彼等を待ち受けているのであった。美しく耕されていた畑は、引き裂かれたように蹂躙されていた。豊かな果樹園や葡萄畑も徹底的に踏み付けられ、木一本も残されているものは無かった。それはまるであの牡牛が自ら行ったかのような破壊の痕跡であった。

ユニコーン達が通り過ぎた後に残された破壊と蹂躙の痕跡が、ここでもやはりレッド・ブルが残した形跡とあたかも同等のものであるかのように記述されているのである。

(5)

For Molly Grue, the world hung motionless in that glass moment. As though she were standing on a higher tower than King Haggard’s, she looked down on a pale paring of land where a toy man and woman [傍線筆者]stared with their knitted eyes at a clay bull and a tiny ivory unicorn. [傍線筆者] Abandoned playthings―here was another doll, too, half-buried; and a sandcastle with a stick king propped up in one tilted turret. [傍線筆者]

p. 193

モリー・グルーにとっては、この凍り付いたような一瞬、世界の総てが動きを止めて宙に浮いているように思えた。あたかも彼女がハガード王の立っている城よりもさらに高い城の上に立っており、白っぽい砂浜の切れ端の上でおもちゃの男と女が眉をひそめて粘土細工の牡牛と象牙細工のユニコーンを見つめているのを見下ろしているとでもいうかのように。それはまるで遊び飽きて捨てられたおもちゃさながらだった。もう一つの人形が半分砂に埋もれ、砂の城が傾いた塔に棒切れのような王様を寄り掛からせていた

(6)

“The Red Bull,” the girl whispered. “Ah!” She was trembling wildly, as though something were shaking and hammering at her skin from within. “He was too strong,” she said, “too strong. There was no end to his strength, and no beginning. He is older than I.

p. 117

「赤い牡牛は、」小さな声で娘は言った。「ああ、」娘は、まるで何かが彼女の肌の内側から恐ろしい力で打ち付け、揺さぶっているとでもいうかのように激しく身を震わせていた。「牡牛はあまりにも強すぎます。どうしようもありませんでした。あの牡牛の力には終わりも無く、始まりも無いのです。牡牛は私よりも年とっています。

初めてレッド・ブルと遭遇した直後にユニコーンが語るこの怪物の印象である。「彼の力には終わりはなく、始まりもありません。あの牡牛は、この私よりもオールドなのです。」とある。ここにはポーの散文詩“影”においてギリシア人オイノスが覚えたという、太古の真実の暴露に対する愕然と同様の思いをユニコーンが抱いたであろうことを窺わせるものがある。

(7)

Online Parallel Bible: Deuteronomy
http://bible.cc/deuteronomy/33-17.htm

(8)

Online Parallel Bible: Numbers
http://bible.cc/numbers/23-22.htm

(9)

Mythological and Mysterious Creatures in the KJV
http://www.tegart.com/brian/bible/kjvonly/unicorn.html

(10)

 アニメーション版『最後のユニコーン』(1982)では、この感覚が視覚表現として見事に変換操作を施されて描かれていた。海の上に映ったユニコーンの影と見えたものが実は槍を構えた騎士の影に過ぎず、さらにこの偽りの影の周囲を泳ぐ1本の角を額に生やした魚のような姿をしたもの達は、実はユニコーン伝説の起原となったとされている一角鯨(nar)だったのである。ユニコーンについて語る筈のお話の中にその原型である実在の動物の姿を挿入することによって、限りなくユニコーン自身の非実在性を示唆するという際どい映像表現が行われていたのである。

(11)

 アニメーション版『最後のユニコーン』(1982)では、レッド・ブルについて語る蝶は、ユニコーンの顔の上に映った影として描かれていた。

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