アンチ・ファンタシーというファンタシー2

(1)量子論理とパラドクスと不可能世界
─アクチュアリズムとアンチ・ファンタシー



 硬直した教条主義と低劣極まりない俗悪文化の支配する壮健な軍事国家アメリカにも、20世紀終盤を迎えてようやく、知的な屈折に拘泥する古典的教養主義と、自閉的な悦楽に浸る軟弱文化のきざしが訪れた。それは一見したところ“非模倣的な仮構世界”が、教導的でも功利的でもない純粋に現実逃避的動機から創造的作物としての遊戯的な処理を存分に施して描き出されたかのように思われる、ポストモダニズム的な特徴の色濃い新種の小説作品群の登場によって確証されることになった事実なのである。長らくファンタシーを容易に受け入れることのなかった頑迷固陋な文化的辺境国(1)にも、生硬なリアリズムの磁場から見事に遊離した超現実主義的傾向の顕著な、放埒極まり無い観念空間の展開する文学作品や映像作品等が、続々と産出されることになったのであった。この著しい文化的位相の変化をもたらした要因とされるべきものは、ベトナム戦争の不名誉な敗戦の影響ばかりでもなく、またトルキンの古典的ファンタシー『指輪の王』の海賊版が偶発的に引き起こした、現実逃避的なヒロイック・ロマンスの流行による非生産的な中世回顧的風潮の蔓延ばかりともいえない。実はもう一つの極めて重大な要因が、この強健な帝国の一枚板であった筈の世界観の揺らぎと、狭量な現実認識の壊滅的変化に決定的に作用していたのである。そのあたりの思想的・文化的状況を的確に指摘してくれているのが、スーザン・ストレール(Susan Strehle)である。ストレールは『量子論的宇宙における仮構』(Fiction in the Quantum Universe, 1992)において、量子力学的論理の普及がもたらした、これまで“現実”という言葉で呼ばれてきた、実ははなはだ不可解な現象集合体の存在論的解釈の革命的転換と、これに伴って引き起こされることとなった仮構作品世界の存在傾向における興味深い変遷を、見事に総括してくれているのである。
 『量子論的宇宙における仮構』において論考の対象とされている諸作品は、古典力学的世界描像に立脚したいわゆる19世紀的リアリズム小説とは全く異なる、独特の機構に基づいた“非現実的”な仮構であることが明確である。しかしストレールが考察における具体的な事例として本書に取り上げている作品群は、従来容認されてきた“リアリズム”という呼称の範疇には収まりきれないことが明らかではあるものの、リアリズムに対する対立概念としてこれまで一般的に“ロマンス”あるいは“ファンタシー”などという言葉で理解されていた観念複合体とも多分に異なる類いの、全くの新傾向の文芸的作物なのであった。当然のことながら、“写実”の“実”の部分に関する基幹概念が劇的に変転してしまった際には、“現実に対する意識的な反発”を基本定義とするものであったファンタシーの存立条件自体が意味を失ってしまうこととなるのである。既存のファンタシーに対するメタ構造的な反発を契機として生成したアンチ・ファンタシーの微妙な位相を考察するに際して、そのあたりの状況を先ずは確認しておく必要があると思われる。すなわち、“アンチ・ファンタシー”という視点を構築する心理学における、“現実”と“仮構”の双方が被った、存在論的位相の変化の実相に関する再検証の必要が顧慮されるのである。
 本書でストレールが論考の対象としているのは、Thomas Pynchon のGravity’s Rainbow(1973)、Robert CooverのThe Public Burning (1977)、William GaddisのJR (1975)、John BarthのLetters (1979)、Margaret AtwoodのCat’s Eye (1989)、Donald BarthelmeのParadise (1986)などの、従来の文芸批評的基礎認識からすれば仮構としての範疇区分の設定そのものにいささか躊躇せざるを得ない類いの、全く新傾向の作品群と言ってよいものなのであった。だからストレールは、これらを含む集合をジャンルとして識別するための共通する本質的属性の確証と、それらを反映して新たに採用すべき適切な呼称の選別に関心を向けることになるのである。
 ストレールはまず手始めとして、19世紀のリアリズム小説と20世紀以降のモダニズム小説の特質を截然と分別しようと企てた、オルテガ(Ortega y Gasset)の批評理論を俎上に乗せる。伝統的な論理学的二分法(binary logic)に従ってその論考を展開していたオルテガによれば、仮構世界創出の際の記述行為と記述対象の間の関係は、端的に言えば以下のような比喩によって示される類いのものであった。

Authors … direct readers to observe either the garden outside the window or the glass through which the garden appears, …


作者は読者に窓の外の庭か、あるいは庭の風景を映し出す窓のいずれかに対して目を向けるようにうながすのである


つまりオルテガによれば、文芸作品の描き出すもの、つまり仮構世界の記述とは、“realistic fictional world” 、すなわち「現実を反映した模像」か、あるいは“artistic presentation”、すなわち「技法的な表現行為」のいずれかに、二者択一的に収束して理解されるべきものであった。しかしストレールの問題提起の焦点は、長らく古典的論証の基盤にあったこの二分法に対する疑義としてあらわれるのである。確かに、厳密な範疇区分を設けて分類整理を行うことによって整然とした意味の体系を構築しようとする、アリストテレス以来の伝統的な学術的論理体系の根底にある意味性理解の主張に従えば、ここにあるような二者択一の要請は、論考の出発地点を形成する基幹部位となるべき座標原点の確定のために必要不可欠なものであった筈だ。しかしこの前提に厳密に従うならば、そこに生成する仮構世界の内実は、創造的要請と美学的見地からは、むしろ極めて貧弱な実質に乏しいものと判断されるものにならざるを得ないことを、ストレールは改めて指摘するのである。確かに読者の心象内部において仮構世界の受容の際に得られる主観的世界像は、実際にはむしろ多義性と曖昧性に大きく支配される特有の観念の場であり、論理的な二分法に基づく方法論から得られる公理系とは全く相反するものなのである。改めて熟慮すべきは、創作戦略上のこれらの二つの離反する要素の意図的な相互浸透の可能性ということになる。そしてこれは、新傾向の仮構作品作家達が共通認識として保持する要素として挙げ得る、極めて重要な特質でもあったのである。そこには、仮構世界本体論における基幹概念の重大な転換軸が隠されている。
 この問題点に対する鮮明な自覚は、本書におけるストレールの論考においては、以下のような興味深い指摘として現れることとなる。

Where there is plot and character, even in the most self-consciously aesthetic of modernist and postmodernist texts, there is inevitably also some degree of worldliness to the text. The constricting binary logic of realism and antirealism has, however, reduced fiction’s rich double interest in both art and life to a single dimension for many readers and critics.

p. 2


 少なくとも話の筋と登場人物が見受けられるテキストには、いかに自意識的な美学的配慮に満ちたモダニズム作品あるいはポストモダニズム作品であろうと、それ自体何らかの現象世界的要素を保持せざるを得ないのである。しかしながら“リアリズムであるかあるいは反リアリズムでなければならない”という制約的な二分法は、多くの読者と批評家に対して、仮構世界の本来保持していた筈の芸術と現実に対する両面的な関心を一元化させてしまい、損なってしまっている。

 芸術を現実の些末な現象性から解放し、道徳的・宗教的束縛から解き放って思念の世界における全方位的美学的拡張を可能にしたのは、20世紀以降のモダニズムの文芸作品の大きな功績であった。しかしながら、芸術作品の本質を純粋な観念の中に読み取る審美主義者として、現象性に束縛されない高邁な芸術の超然性を主張したオスカー・ワイルドが、「嘘の衰退」(“The Decay of Lying”)において、「自然が芸術を模倣する」と、見事にそれらの位相を逆転させて語ってみせた際のアート(芸術)とライフ(自然)の対照という痛快な二分法も、その適用を誤れば時には“技巧的芸術作品の捏造”であるべきか、あるいは“現実世界に対する忠実な参照”であるべきか、という硬直した観念性の中に固着してしまうこととなるのである。そして勿論、リアリズムの制約に束縛されない柔軟な脱自然的思考を展開するラディカルな芸術至上主義者ワイルドの主眼とするところも、これらを分別することにあった訳では決してなかった。
 実際のところ、原理的には現実世界とは全く異なる別種の公理系である筈の仮構世界も、その体系の末節の大部分においては、むしろ現実世界に密接に接合しており、モダニズム的な完結した芸術作品としての“アート”解釈において楽観的に考えられていた程、現象性から超然と遊離した“閉じた”系である訳ではない。しかも、仮構世界のみならず当の現実世界そのものが、極大と極小の次元界面においては物理的に異次元に連接している “開いた”系であり、結局のところある意味では世界描像としては不完全な公理系に過ぎないものであることすらも分かってきた。ニュートンの構想した万有引力の支配による定常宇宙モデルは、巨視的なシステムは微小な偏差を打ち消し合う均一化の機能を保持していて、その結果宇宙に常にコスモス的安定を保障するであろう、という経験則的な直観に支えられていた訳であったが、実は宇宙構造の多くの部分を占めている循環系とフィードバック系においては、むしろ時として微細な偏差の増幅がなされた結果不規則的な変動がもたらされることにより、世界の実相はむしろカオス的な様相を示すものであることが解明されてきたからである。(2)さらに実在宇宙の基幹的特質として、場そのものが量子的ゆらぎの結果突発的な変動を来し、全くの新しい宇宙の生成をも行ってしまうばかりでなく、意識の主体の知覚と意思との相互作用においてその現象性を実際に収束せしめるという量子論的な根本的メカニズムが発見されるに至り、あるがままの現実たる“自然”は、より一層人間理性の概念的把握を拒む不安定な系としての、不気味な実相を色濃く呈してきているのである。
 改めてその系としての様相的特質においてのみ判断を下すこととなれば、仮構世界と現実世界は実は、純理論的には情報集合体として判別するための截然とした境界線を引くことが極めて困難な、相互連関をなす連続体でもあり得るのだ。ストレールは、“ポストモダン”の流れに属する仮構作品の多くが、このような問題点に対する意識を極めて強固に反映したものであることに目を向ける。このように既にかつては盤石のものであると思われていた“リアリズム”の定義をなす基幹概念自体が、修復不能な浸食を受けてしまっていることは、もはや明らかな事実なのである。“アート”を云々する以前に描かれる対象となる、あるいは描く素材を提供することになる“ライフ”、つまり“リアリティ”の実質が大きく変質してしまっていたのであるが、それと全く同様に、現象性を超越した純然たる観念の産物である“アート”の記述という幻想も、もはや既に通用し得ないものとなってしまっている。不確定性の事象発現と相対的な存在様態記述を前提条件とする量子論理の浸透がもたらした世界観の変化は、20世紀中葉以降既に現代人の精神を支配するある種の基本認識となってしまったのであった。その結果、いかなる驚異に満ちた“非現実的要素”すらも、読者の心中においては何らかの“現象的実体験”であり得ることが、説得力ある共通認識として了解されるに至ってしまった。しかしこのような両義的な存在理念を容認する時代感覚を反映して産出され、観測や記述という行為による相互作用的な過程を経て生成するものとして受容される新世代の仮構は、ジャンルとして個別の公理系を備えるべき可能世界の一つとしては、果たして根本的にいかなる原理的特質を備えたものとして認知され、その呼称を選別して与えられるべきものなのであろうかが改めて問題となるのである。創作の当事者である作家達や幾人かの批評家達によって既にいくつかの名称の採用が主張されて来はしているものの、それらの適用の妥当性にはいささか問題もありそうである。何よりも先ず、あまりにも多数の呼称が実際に提示されてしまっていることもやっかいな事実であった。
 もう既に暫く以前から、ポストモダンの時代に代表的な、それ自身が一つの仮構世界であることに対する自意識的傾向の顕著な仮構の特質を参照する呼称として、“メタフィクション”という概念が提唱されていたのであったが、さらに加えていくつかの仮構世界の保持する個々の特有の様相を反映して、“irrealism”、 “counter-realism”、“surfiction”、“disruptive fiction”、“parafiction”等の様々な名称が、それぞれの論者から提起されることとなっていたのであった。これらに共通の見解はストレールの指摘するように、純粋理念の中に結実した芸術作品としての仮構と、作者自身と読者が実際の生を送る場としての現実が、厳然たる区別を有して各々が截然と分たれているのではなく、芸術作品自身が自らの内部に意図的に外部の現実世界を反映するのみならず、むしろ自ら現実世界に連接して積極的にこれを取り込み同化せしめようとすることを、確たる動機として自覚しているという点である。そのような意味で、ピンチョンにせよアトウッドにせよあるいはバース、クーバー、ガディス、バーセルミその他の作家達も、“ネオリアリスト”という呼称が適切でないのと同様に、“メタフィクション”という言葉で括ってしまうことも不適切であると、ストレールは確信を持って語る。

The authors I discuss in this book have all made similar statements suggesting not only that reality does exist but that art’s goal is to engage it.
These writers─Pynchon, Atwood, Barth, Coover, Gaddis, and Barthelme, as well as many others─can not be described as metafictionists, however broadly one stretches the term, any more than they can be placed as neorealists. In contrast to the neorealists, they believe art cannot efface itself or become pure transparency, unconscious of its status as created language. They affirm both art (self-consciously aware of its processes and of aesthetic traditions) and the real world (specifically, the postmodern world, with a detailed awareness of its nature and history). Their fiction admits both the garden and the glass.

pp. 4-5

私が本書において論じた作家達は、誰もが現実世界が確かに存在するばかりでなく、芸術の目的とするものは現実に関与することであるという示唆において、同等の発言を行っている。
 他の多くの作家達と同様にピンチョン、アトウッド、バース、クーバー、ガディス、バーセルミも、いかにこの語の意味の範囲を拡張しようとも、“ネオリアリスト”と位置づけられることができないように“メタフィクション”の作家と呼ぶことは出来ない。ネオリアリストとは対照的に、彼等は芸術が自らの存在を隠蔽することも創作言語としての属性に対して無自覚な透明性を得ることもあり得ないことを、確信しているからである。彼等は自意識的に、自らの経過と美学的伝統を自覚している芸術と、取り分け自身の本性と歴史に対して詳細な自覚を抱いているポストモダンの実世界の双方を、受け入れるのである。アクチュアリズ厶の作家達の作品は、庭と窓ガラスの双方を認めるのである。

 これらの新世代の仮構の作者達にとっては、オルテガの語った庭と窓ガラスの双方が確かに共存しているのである。このようなフィクションとリアリティの間の微妙な関係を、二分法の理論を用いて一方の選択がもう一方の消去を一意的に意味するという二者択一の図式で捉えるのではなく、相反する選択肢の双方を“相互作用”と呼ばれる概念をダイナミックに導入することにより、重ね合わせの存在原理を積極的に容認する相補的図式で統括的に受け入れようとする特有の心的態度は、20世紀初頭以降に急速に発展し、終にシステム理論としての基盤をも確立するに至った、量子力学的論理の影響を直裁に反映しているものであることに間違いはない。そこでは既に良く知られているように、“純粋概念としての可能態と事象としての発現”、“観測行為とその記述”、 “実在とこれに対する精神あるいは意識の関与”等の新種の概念とこれに基づく諸関係性が、これら相互の有機的な連関による流動的変容が行われることを前提として、現象と存在に関する基幹的意義性のドラスティックな変質を迫られていたのであった。ストレールの言葉を借りればそれは以下のような総括を導くものとなる。

In the realm of aesthetic theory, the longstanding duality separating art and reality, or the perceiver and the world, has been exploded by modern discoveries about the nature of perception.

p. 5

芸術批評の場においては、長らく芸術と現実世界を、そして観察者と観察対象を分別してきた二者択一の理論は、知覚の本性に関する先端的発見によって粉砕されてしまったのである。

 科学的方法論に従って定量化されねばならない現実世界構成要素の根本的実質の各々も、それらを資料として読み取るべき観測者の知覚の実質のそれぞれも、つまりかつて“実在論”という言葉で呼ばれてきた論議も、“認識論”という言葉で語られてきた関心も、従来の古典的手法を用いて定式化された分類手段では、もはや概念的措定が成立し得ないものであることが明白となってしまっていたのである。
 ストレールは彼女が本書で問題として取り上げた新傾向の作品群を参照する呼称として、最終的に“アクチュアリズム”(actualism)という名辞を選ぶことを提唱する。その根拠は勿論、厳然として独固とした存在性を有する物質世界として無条件に前提されていた、“リアリティ”=“res” (3)という概念に代替すべく持ち出されたこの“アクチュアリティ”(actuality)という語が、哲学にも造詣の深い新感覚の物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルグが、現実世界における“存在物”と“事象の生成”のメカニズムを新たに整合的に定式化するために採用した、非常に説得力のある概念であったことである。ハイゼンベルグは多義的な潜在的可能性の束である “行列”(マトリクス(4))として記述可能な言わばある種の原形質(プレローマ(5))を想定するという形で、現象としての発現以前の宇宙の基体を捉え、これらが「意識の主体による観測や知覚という操作との相互作用の結果、実在物として質量を持った“存在性”を収束させる」という図式で、かつて科学あるいはそれ以前の思考の場で伝統的に用いられていた“質料”という概念の再定式化を図ったのであった。これがいわゆる量子理論の“コペンハーゲン解釈”と呼ばれるものであったが、ハイゼンベルグに代表される一派の示したこの解式に対して、あるいは“物質波”という概念を提唱した別派に属するド・ブロイの提示した共軛的解を併記するならば、同等の原形質が「“波動”という様態を示す“現象性”を収束させる」と語り直すこともできることとなる。つまりこの定式は、アインシュタインの相対性理論の提示することになった等価原理の法則に従って、相補的な代替記述を原理的に容認するものなのであった。こうして、ニュートン以来の古典力学が固有の公理系を成立させる根幹条件として採用してきた、「3次元の空間に予め存在し、質点としてふるまう“質料”の行う、定まった物理法則に従った連鎖的運動」という、実際には限界ある力学的原理(6)に基づいた、かつての“普遍法則”の図式を根幹的に覆し、“現実世界”に何らかの“現象”が“発現する”という事象を導くミクロの次元での量子的前存在様態を新たに考察の対象に含めたニュー・サイエンス的解釈は、ポストモダンの作家と読者達の支持する新規の“世界認識”の基底となるに至っていたのである。
 このような思想的パラダイムの激烈な変転という事実を踏まえて、ストレールは以下のような宣言でもって、“アクチュアリズム”という新しい文芸思潮の勃興を認めることを提唱することになるのである。

I propose, instead, to call the new mode of fiction actualism. I believe it emerges from a widespread change in the way reality is understood by the culture at large, and I see this shift localized usefully in the new physics. To anticipate a discussion I will complete after the necessary background in physical science, I derive the term “actualism” from a distinction Werner Heisenberg makes between the actual and the real. At the subatomic level, he says, reality is not real, but it is active, dynamic, “actual.” Actualistic fiction expresses, then, a literary version of the reality constituted by fundamentally new physical theories in the first half of the twentieth century. Departing from the stable material reality underpinning Newtonian science and realistic fiction, actualism abandons and even subverts the narrative conventions of realism. It does so, however, not to replace reality with the purified aesthetics of self-reflexivity, but rather, self-consciously and theoretically, to renew art’s readiness for its perennial project: the human interpretation of a nonhuman reality.

pp. 6-7

 これらに代替するものとして、この新傾向の仮構に“アクチュアリズム”という呼称を与えたいと思う。現実というものが文化全般によって理解される様式の被った広範な変化からこの傾向が生成して来ており、この変化の起源は“新しい物理学”の中に具体的に特定することができると思われる。これから物理学関連の背景知識の検証の後に進める論の展開に先立って語るならば、この“アクチュアリズム”という用語は、ヴェルナー・ハイゼンベルグが“アクチュアル”と“リアル”の区別を明らかにするために導入した概念に依存するものである。ハイゼンベルグによれば、原子以前の状態では現実(リアリティ)は事実(リアル)ではなく、動的で流動的な“アクチュアル”な状態にある。これに倣えば、“アクチュアリスティック”な仮構とは、20世紀の前半に確立された新規の物理学理論の唱える存在解釈の文学的提示を行うものであるといってもよい。ニュートン力学的科学とリアリスティックな仮構を制動していた、静的な物質存在を前提とした現実認識から離れて、アクチュアリズムはリアリズムの伝統的語りの手法を放棄するばかりでなく、顛倒させようとさえもするのである。しかしながらそれは、純然たる美学的要請に従った自己参照を行うために客観的現実を消去しようとするためではなく、自意識的にそして純理論的に、芸術の永遠の課題である“非人間的な現実に対する人間的解釈”のための芸術の適応力を刷新していくためなのである。

このようにストレールは、彼女が“アクチュアリズム”(actualism)と名付けるポストモダニズム以降の文化に特徴的な、一見したところはかつての範疇区分にあった“非模倣的”傾向の著しいものであるらしく思われる作品群の生成を、量子力学の誕生と普及による現実認識の変化からの直接的な影響という特定の図式の許に理解しようとしていた訳なのである。ストレールの指摘に従えば、意識の主体である知性体の関与によって始めて事物としての“客観物”も生成することとなるという、いわゆる“人間原理”として定式化される宇宙論を提示することになる量子力学の理論に基づいた世界描像とこれらの文芸作品世界の実質は、“非連続的”、“統計論的”、“エネルギー的(動的)”、“相対的”、“主観的”、“不確定的”といった特質において、疑いなく符合するものだからである。(7)しかしながら改めて指摘しておくべき重要なことは、ここで提唱されている“アクチュアリズム”の定義に従うならば、これは写実的な仮構としての“小説”(novel)と、非写実的な仮構としての“ファンタシー”(fantasy)という従来のジャンル識別上の二項対立の前提を、根底から覆してしまうことともなるという事実なのである。何故ならば“現実世界の実相”としての静的な規範モデルを根本的に意識することのない新規の記述は、むしろ超現実的驚異と日常性の間の軋轢を生じることは決してなく、ファンタシーの根幹的定義として受容されていた“現実にはあり得ない出来事の顕現の様を描く”、つまり超自然の記述を行うことは、決してあり得ないからである。(8)
 実はここに挙げたような背反的な特質に基づくファンタシーの独特の記述行為は、ストレールの語る“アクチュアリズム”の創作理念の基本条件であった、現実世界と仮構世界間あるいは客観的現実世界と主観的意識世界の相互浸透の場合にも増して、はなはだ微妙な現実(事象)記述認識のあり方を裡に含んでいる筈であると言わねばならない。そのような意味で改めて、“ファンタシー”の実質に対する再検証の必要が迫られることになるのである。あるいはストレールの仮構世界変容モデルに従って、既存のファンタシーと呼ばれて来たものに対する定義を改めて定式化するならば、ニュートン的古典力学による宇宙モデルから量子論的確率論による宇宙モデルへの移行の過渡期に現出した現代人特有のゆらぎの意識構造を描いたものこそが、通例ファンタシーと呼ばれる仮構の基準様式であったと、暫定的に理解し直すこともできることだろう。そうであるならば、“ファンタシー”を「自然科学的世界観を備えた意識の主体が、この規範を逸脱した現象を眼前とした際に覚える、精神の動揺を描いたもの」として定義づけて、独自の論考の対象としたツヴェタン・トドロフの視点が、改めて別の角度から再評価されねばならないことになるかもしれない。(9)つまり、ストレールもトドロフがそうであったように、ファンタシーの終焉と絶滅をその論考の前提と結論に選ぶこととなっていたと、結果的に解釈され得るからである。
 しかしここで留意すべきことは、“アクチュアリズ厶”とストレールが名付けたジャンルの特性に対するこのような認識から浮上してきた批評上の分類的方法論が、そのままファンタシーあるいはアンチ・ファンタシーに関する我々の論考に全面的に適用可能なものとして敷衍されるべきものでは、必ずしもないということだ。ハイゼンベルグの唱えた“アクチュアリティ”という斬新な概念に注目してストレールが展開して見せた“アクチュアリズ厶”という文芸ジャンルを形成すべき観念空間が、その一部においてファンタシーと交わりの領域を持つことは確かにあり得るものの、厳密にその概念的位相を特定するならば、本質的に基本軸の異なる異種の多元空間の一つであるに相違ないことは、本書におけるストレールの柔軟でしかも堅実な考証の前提条件でもあったからだ。アンチ・ファンタシーであるかそうでないか、あるいはアクチュアリズ厶に属するかそうでないか、という二者択一の識別操作が全面的に意味を失うような界面においてこそ、ストレールのアクチュアリズ厶というジャンル概念に対する論考が有意義に展開していたのであった。
 ストレールのアクチュアリズムに関する論考の評価し得る特質は、むしろ自身の提示したジャンル概念の敷衍可能性について、以下のような高次に“自意識的で反射的な”言明を行うことができる点にあったのである。

The very nature of the literary movement I’ve discussed in this book invalidates any claim to absoluteness in critical discourse about it. My own terms, including the term “actualism,” are not final or determinate; they scarcely “pin down” the subject and surely don’t exhaust it. If terms like “discontinuous,” “relative,” “accidental,” or “uncertain” begin to describe the external world as we know it in the later years of the twentieth century, these terms are no mantra whose repetition can give us serenity in the face of what are, out there, multiple evidences of our inability to master nature with language. I subscribe to John Barth’s “Tragic View of Categories”: “Terms like Romanticism, Modernism, Late-Modernism, and Postmodernism are more or less useful and necessary fictions: toughly approximately maps, more likely to lead us to something like a destination if we don’t confuse them with what they’re meant to be maps of.”

p. 218

私が本書において論じた文学的動向の本質そのものが、その批評的論議の絶対性を無効にするものとなる。“アクチュアリズ厶”という語を含めて、私がみずから提示した用語は、最終的なものでも決定的なものでもない。これらは決して問題となる主題を特定するものでもないし、包括的に捉えきるものでもない。“非連続的”、“相対的”、“偶発的”、“不確定的”などのような用語が20世紀の後半になって我々が理解するようになった外的世界を記述するようにはなったとしても、言語をいかに用いたところで自然を語り尽くす事は不可能であるという眼前に厳としてある幾多の証拠に対して、これらはマントラのようにその反復が、我々に心の平静を与えてくれる訳ではない。私はジョン・バースの“悲観的範疇観”に全く同感するのである。“ロマンティシズム、モダニズム、後期モダニズム、ポスト・モダニズム等の述語のいずれも、多かれ少なかれ有用で不可欠な仮構でしかない。言ってみれば、我々がそれらを何の地図であるかを見誤りさえしなければ目的地らしきところまで連れていってくれる、地図といっていいようなものだ。”

ここになされている指示と指示対象、述語とその意味するものの相関に関する重層的に反射するストレールの考察は、例えばルイス・キャロルが『シルブィーとブルーノ』において持ち出した、“実物大の地図”という発想の根底にあった疑問と等質のものを強く意識しているものであろう。キャロルの固定観念であった、語る言葉と語られる内実の間の乖離は、形を変えれば現実空間と抽象的概念であるデカルト座標及びユークリッド幾何学の記述との間の如何ともし難い乖離でもあり、このような系の界面に現出するシステム間の差異性に基づく捩れの構造は、20世紀に至って系の数学的性質を記述するシステム理論の拡充と共に、物語創作行為にも多大な影響を及ぼすこととなったのであった。そしてその具体例もまた、相対性理論の及ぼした直接の影響に求めることができる。アインシュタイン自らが相対性理論に関する解説書として著した『特殊および一般相対性理論について』(Uber die Spezielle und Allgemeine Relativitatstheorie, 1916)においては、物理学的描像と現実世界の諸事象の示す観念に対する概念的相関を改めて顧慮することの必要を認め、ユークリッド幾何学のような数学的概念と現象世界における空間延長操作の対応に関する理解の全面的洗い直しの作業から、相対性理論についての考察が行われているからである。アインシュタインが古典力学の座標的描像に依存することなく、空間の延長を規定する長さの概念単位として、新たに仮想的な“計測棒”を採用していることが殊に興味深い。この計測棒は次元を拡張すれば、材質に占められていない真空空間において体積を規定することのできる仮想的な“計測箱”ともなり、『ピーターとウェンディ』においてダーリング夫人の神秘的な魅力を語る小道具として用いられていた“inner box”(心の中の箱)という概念に見事に符牒するからである。  そういう訳で、ここに仮定された“アクチュアリズ厶”という語の定義上の意味の実質に関する論議に固着してしまうならば、仮構世界の本体論を語る論考は、むしろ意味の豊かさを大幅に棄損してしまうのである。むしろストレールによって、“アクチュアリズ厶”という一連の特色ある仮構作品に通底すると思われるジャンル概念を抽出するための大胆な試行が効果的になされ、仮構と現実の相関を語る新たな次元界面を暫定的に創出することができた、という一つの非連続的な意味論上の他宇宙的“現象”の生成があることを並列的に正しく評価することができてこそ始めて、多義性の特質を示す未定義の領域である仮構世界に対する真に有意義な論考手順を推し進めることができる筈なのである。何故ならば「量子論理の確立と普及が、特定のジャンルを形成する仮構作品群を生成することとなった」という一方の記述は、そのまま「量子論理等の内包する様々のシステム理論に対する十全な理解を得た思考にとって、いくつかの仮構作品群の保持する内実をより深く鮮明に捉える概念の界面を、別な角度から照射することが可能になった」という、もう一方の反転的な因果関係的記述に変換することができるものだからである。
 つまり、「20世紀に至り量子論理の影響が現実認識を変化させ、それに伴って仮構世界の実質をも改変した」と一つの記述原理を採用して語ることができるように、その量子論理の提供してくれた根幹的なシステム理論に忠実に従って、「量子論理の浸透と普及が、近代世界において忘れ去られようとしていた古代思想の本質と、いくつかの適切な評価を得るに至っていなかった古典的名作の深層について、より適切に語る一般言葉を改めて提供するに至った」と、相補的な原理に基づいたもう一つの等価的な記述様式を採用して語り直すことも、やはり同等に可能なのである。このようなシステム的特性の言わば函数的抽出とその内実の相関的理解によってのみ、事象と概念の深奥にある、意識と理性にとっては未知の原形質的意味の本質への踏み込んだ理解が可能となる筈なのだ。  自らの投影する硬直した観念の価値基準の枠内に強引に思念の対象を押し込もうとするのではなく、ものあるいは事柄それ自体を、事象の制約を離れた抽象的な関係性の相においてあるがままに捉え直すことを目論む反省的意識こそが、“科学”という名で呼ばれた方法論の評価し得る特質であったとするならば、科学という系を成立させていた前提条件と信じられていた基本原則が崩壊した後も、科学の思想的意義性自身は損なわれることはない筈である。そのような真に柔軟な“科学的意識”の場においては、敢えて二律背反的な不合理がことさら重要な原理的特質として積極的に採用されることもある。(10)
 だからこそストレール自身も、アクチュアリズ厶の特質が量子論理に特有の世界観に対する自覚に基づくものであるとして、そのジャンルに関する論考と定義を始めてはおきながら、アクチュアリズ厶という文芸ジャンルに該当する先行的作品群の存在に関しては、むしろ時間順序的制約に束縛されることなく、因果関係を跳躍して自由に量子理論誕生以前の時代にまで遡り、その思想的特質における貫歴史的な同等性を語ろうとしているのである。むしろストレールによって提唱された“アクチュアリズム”というジャンル規定概念が有意義なものとして認め得る、最も大きな理由がここにあると言って良いだろう。

Actualism does have its precursors, to be sure, and my quick sketch of these narrative traditions has left out the dozens of figures at odds with the Newtonian vision underlying both realists and modernist fiction. The world didn’t change in December 1910, as Virginia Woolf suggested; rather, its actualistic qualities became increasingly visible after 1910, as physicists joined with others in changing the way we understand and talk about reality. But before that, even under Newton’s very nose and prism, reality was relative, discontinuous, and accidental. Some early writers saw this way and, as a result, wrote a fiction significantly allied to actualism. Among the early novelists, those Robert Alter identifies with the “self-conscious” tradition (Cervantes, Sterne, Fielding, and Diderot) are important ancestors for contemporary actualists, primarily because they focus on the problematic nature of representation. Like the actualists, they question the process by which narratives, made of words, reflect on realities not clear or predictable but contingent, shaped in part by the subjective consciousness brought to bear on them. As Alter puts it, “The hallmark of the true self-conscious novelists is a keen perception of paradox in the relationship between fiction and reality.” Another group of writers in the nineteenth century shares that perception; influenced by the romantic reaction against materialist conceptions of reality, these writers of what Hawthorne calls Romance (including Hawthorne and Melville) explore the problematic nature of consciousness. Their fiction suggests, as actualism does, that reality is not “realistic.” Common to the fictional antecedents for actualism is a skeptical response to prevailing Newtonian assumptions about art, reality, and their relation.
The actualist, by extension, not only displaces Newton’s absolute space with the interactive field theorized by Einstein, Heisenberg, and Bohr but, at the same time, necessarily reconceives art’s relation to actuality. In the field model, art can no longer be the transparent glass or reflective mirror, and fiction cannot simply represent external reality; neither, in contrast, can art replace reality with an orderly self-reflexive word-world. Instead, art participates, as an energetic force, in the interconnected field of culture. Fictional constructions refer to actuality, taking part in a large web of related discourses, including those of physics, psychology, linguistics, philosophy, mathematics, and sociology (among many others), all conjoined in meditating, from different directions, on an external world that limits, even while it responds to, the inventive power of human discourse. Neither the invisible observer of nature nor the indifferent maker of a stable narrative picture, the actualist takes a subjective, involved position in the text and destabilizes it in the process. Since actualistic subjectivity opens out on the indeterminate contingency of the external world, the author’s relation to the text both enables and provides a metaphor for its relation to reality.

pp. 18-9

 アクチュアリズ厶には先行者の存在があることは、確かな事実である。私の行ったおおまかな文学的伝統の概観の中には、リアリズムの仮構とモダニズムの仮構の根底にある、ニュートン的世界観と明らかに齟齬を来す相当数の人物達が含まれていない。ヴァージニア・ウルフが述べたように、世界は1910年の12月にいきなり変った訳ではない。むしろ、世界のアクチュアリスティックな内実が、1910年以降、物理学者達が次々と我々が現実を理解し、現実に関して語る手法を変化させることに意見の一致を得るにつれて、目に見えて顕在化してきたのである。しかしそれ以前においてさえも、ニュートンの鼻の先のプリズムの直前においても、現実は相対的であり、非連続的であり、偶発的であった。初期の作家達の幾人かはこのような世界観を抱き、その結果としてアクチュアリズ厶と連動していることが顕著な仮構を描き出した。これらの初期の作家達の中で、ロバート・オールターが“自意識的”伝統として同定するセルバンテスやスターンやフィールディングやディドロ達は、主として彼らが表現行為に付随する微妙な問題点に対して自覚的であったという点で、現代のアクチュアリストの重要な祖先だったのである。アクチュアリストと同様に、彼等は部分的には関係性を得るに至った主観的な意識によって形成された、明確さにも欠け予見可能性も持たず偶発的でしかない言葉によって構築された物語が、現実を反映する過程に対して疑念を抱くのである。オールターが述べているように、「真の自意識的な小説家であるかどうかを見極めることのできる特質は、仮構と現実の間の関連性の裡にあるパラドクスに対する、鋭敏な識別力にある。」19世紀の他の一連の作家達もこの識別能力を共有している。現実に対する物質主義的な概念把握に対するロマン主義的反発に影響されて、これらのホーソーンが呼ぶところの“ロマンス”の作家達は、(ここにはホーソーン自身とメルヴィルも含まれる)意識の問題性を探求している。彼等の創出した仮構はアクチュアリズ厶の場合と同様に、現実(リアリティ)は決して現実的(リアリスティック)ではないことを示唆している。
 アクチュアリズ厶に先行する仮構作品と並んで、支配力を強めつつあった芸術と現実とこれらの双方の関連についてのニュートン的理解に対する疑義の提示があった。敷衍するならばアクチュアリストは、ニュートンの絶対空間をアインシュタインとボーアとハイゼンベルグによって定式化された相互関連的場の理論を用いて置換するばかりでなく、同時に芸術のアクチュアリティに対する関係を再検証している筈なのである。場の理論においては、芸術はもはや透明なガラスでも反射する鏡でもない。そして仮構は、単に外的実在を表象するものではない。そしてまた、対照的に、芸術が現実を秩序ある自意識的な言語世界に置き換えるものである訳でもない。そうではなくて芸術は、動的な力として相互関連を行う文化の場に関与するのである。仮構組織体はアクチュアリティを参照し、物理学・心理学・言語学・哲学・数学・社会学その他多数を含む、相互関連を行う巨大な談話の網状組織の一部となり、これらは様々な角度から結合して、反応を返しているその時すらも人間の創造的談話能力に制約を加えている外的世界に対する熟慮を可能にするのである。自然に対する見えざる観察者としてでも、静的な語りの図像の中立の創作者としてでもなく、アクチュアリストはテキストの中に関与して主観的立場を取り、その過程でテキストの安定を破壊するのである。アクチュアリズ厶の主観性は、外的世界の不確定的な偶発性を開放するので、作者のテキストに対する関係は、その現実に対する関係を語る暗喩を可能にし、提供することになるのである。

ここに確認されたような用語の定義と主題に対する論考における柔軟な統合理論的理解の実践において、ストレールの仮構論はそのアクチュアリティに照応する妥当性を主張する資格を得ることができる。オスカー・ワイルドの示したアイロニーの思想に基づくモダニズムの芸術観を導く“アート論”を、アインシュタインの相対性理論とミンコフスキーの場の理論と、そしてゲーデルの不完全性の定理を背景にした異次元において見事に補完する、量子理論の人間原理に基づいた仮構論の可能性がここに示唆されているのである。科学に従属した批評理論のための批評ではなく、一般言語による仮構記述である文学それ自身を語る、健全な文学論の正しい解の提示の試行がここにある。
 素粒子の検出のために霧箱内に表現された実験の観測結果を記述する、純然たる数式の意味する概念と思われるものに対して、通常言語による解釈を当てはめて情念的理解を企てようとした際においては、既存のシステム理論や一般的表象からの類例の選択のみならず、むしろ古代思想や隠秘哲学などの前提理論からの緩用的借用がしばしば行われざるを得なかったのは、実は一般言語に基本思考を依存する人間知性のあり方を考えれば当然のことであった。ニュートン力学によって既に厳密な定義を与えられて見事に体系化されたかのように思われていた、“時間”や“空間”や“質料”等の基幹因子に対する新たな概念措定の必要が認識されるに至った時、ハイゼンベルグその他の人々が行ったように、ニュートン以前ばかりでなくさらに時代を遡って、アリストテレスやソクラテス以前の古代世界の思想家達の所説をも改めて再検証し、従来の科学の枠組みを遠く離れた様々の類比的記述さえもが、言語記述としての採用を再び検討されねばならなかったのである。そして当初は、語る言葉とそれによって指示されるべき実質の間の如何ともし難い乖離が、しばしば指摘されざるを得ないことがあったのも、無理からぬことであった。
 しかし量子力学の提示した仮説とそこに導入された新規の諸概念の意義性の社会通念と意識内部への浸透の結果、微分方程式や行列式等の“数式”という抽象概念の中でのみ正確に記述することが可能と思われていた、事象の延長線上に潜むものと憶測される未知の何ものかについて一般の言語的参照を行い、様々な既存の思考と関係づけるための手掛かりとなる概念連繋を、言語体系が自律的に構築してくるに至ったことが、もはや確証を持って容認することのできる事実となったのである(11)。ここに至って漸く、科学的真実と仮構的内実の豊かさの双方を極めて効果的に語ることを可能にする、包括的なシステム理論的思考パターンが存在する事実が受容されようとしていることを確認することができるだろう。その結果たとえば、“魔法”や“錬金術”や“霊性”や“精神”などの、現代科学が本質的に語ることを拒否した厳然たる事実あるいは内実ある虚構を見事に掬い取る、有用なアルゴリズムを確定することさえもが、ある条件の許では可能と判断されることとなったのである。だからこそ、ジェイムズ・M・バリの『ピーターとウェンディ』(Peter and Wendy, 1911)やピーター・S・ビーグルの『最後のユニコーン』(The Last Unicorn, 1968)のような形而上学的思弁性に優れたいくつかの作品の保持する、従来の観念空間においては如何ともし難く不明瞭であった魅力的な外形を、より鮮明に映し出す新たな視点の座標を割り出すことが可能になったのである。
 量子論理のもたらした世界観の激変と基幹的思考アルゴリズムの顛倒を強いることとなった認識機構の革変を指摘するストレールの主張は、原理的な特質条件の相違により、ファンタシーの変容の直接因としてこの発想を適用すること自体にはいささかの問題の余地があることをやはり認めなければならないとしても、むしろファンタシー文学の生成と変容という事象自体を考察する界面においてばかりでなく、実は“仮構”という概念そのものの包含する意義性の究明の企図において、極めて重要な視点を提供するものと看做されるべきものなのである。量子論的現実認識の及ぼした仮構世界描術手法の変化に関する彼女の指摘は、“意味”と“実質”と、そしてこれらの重ね合わせとして存在するこれまで“世界”という言葉で呼ばれてきた、未だ真なる理解の得られざる謎めいたあるものの本質に関する、極めて有効な科学的/形而上学的論考の手がかりを提供するものだったのである。
ストレールのアクチュアリズムの生成に関する示唆に富む検証の結果から敷衍するならば、量子力学のシステム理論としての一応の充実のお陰で、従来記述の対象として受容されていたものと、記述の手法として認容されていたものの双方を、全く異なった次元軸を通して投影された別種のある公理系の示す、全く別界面の様相として理解することが可能になったのである。そしてニュートン力学とデカルト─ベーコン的論証の前提を引き継いでダイナミックに変転したこのさらなるシステム理論が、ロマン主義とその影響下に開花したファンタシーを俯瞰して語るための新規の視座を提供してくれることになったことが、改めて誤解無く評価されねばならないこととなったのである。そのような意味でこそ、“アンチ・ファンタシー”という新たな指標が浮上して来たのであった。
 そういう訳で、この“量子論理”という、ニュートン力学の完成以来近代の科学思想を推進してきた基幹理論の上澄みに新たに浮上した新規のシステム理論の適用と、“アンチ・ファンタシー”という意味性のアイロニカルな機構を反映した指標の導入が、何故かこれまで正当な理解を得るに至っていなかった優れた仮構作品のいくつかの豊富な内実を再認識し、不幸な誤解を得ていたある特定の作品群に改めて適切な評価を下す機会を見いだすための重要な契機を提供することになったと同時に、“仮構”という概念の深層をさらに極めることを可能にするであろうと思われるのである。時代相の変転に伴って生起した特定の時期に固有の現実認識のあり方に焦点を当てて論考の前提条件とした、トドロフの採用していた先駆的なファンタシーの定義は、現実認識自体のさらなる変転に従って抜本的な変革を行う必要に迫られることになるかもしれないが、ファンタシーの基層にあったに違いない全方位的不定性の思考様式のメカニズムに照準に定めた、“アンチ・ファンタシー”という特質を指標に選んだ論考の場合においては、その定義にせよ基本認識にせよ、敢えて修正を図る必要を認めることもないと考えられるからである。
 このように“アンチ・ファンタシー”という指標の意義性を自覚した場合に、極めて示唆に富む存在であった『ピーターとウェンディ』と『最後のユニコーン』という二つの古典的ファンタシー作品が、ストレールの名づけた“アクチュアリズム”という文学ジャンルの範疇に含まれることを示唆する条件も、やはり確かに存在する。まずは『ピーターとウェンディ』に焦点を絞ってその斬新な特質を確認してみるとするならば、視覚芸術として舞台上に現出した原作の劇『ピーター・パン』とは明らかに異なり、“テキスト”としての語りの手法を全面的に駆使して純観念的記述の上に展開された散文作品『ピーターとウェンディ』における、19世紀的伝統に従った物語作法の類型を超出し、非線形的な語りの手法と波動論的な多義性を含んだ仮構世界内部の記述を試みた新傾向のアンチ・ファンタシーとしての創作手法が、ストレールの指摘した“アクチュアリズム”の量子論理の適用による仮構世界の記述という特徴の一部を既に色濃く示していることに何ら疑いの余地はないだろう。既に本書の導入部を形成する『アンチ・ファンタシーというファンタシー』において先行的考察を行ったように、物語の主人公ピーターと裏の主役フックという人格あるいは神格間の保持する捩れた相互依属性や、そしてまたピーターとネヴァランドという世界あるいは概念間の関係性の暗示する空間・意識・観念あるいは人格・想念・記憶等のそれぞれの位相の示す他の任意の位相との変換記述の融通性という多義的な特性は、従来理性と呼ばれるものが普遍的法則性として無条件に受け入れてきた筈の、曲率を考慮しない平坦な3次元空間の延長としてのデカルト座標的幾何学モデルや、二者択一的原理に基づくニュートン力学の粒子理論的な存在性記述の基準原理を明らかに逸脱する、新種の座標系と公理系の存在を暗示するものとなっているからである。『ピーターとウェンディ』において結果的に描き出されることになっていた、意識という多元空間における自己とその影あるいは同位体等の人格的存在性の示す、座標あるいは集合としての包含関係において確認する上では明らかに二律背反していると言わざるを得ない多元的な位相発現性(12)と、さらに存在性と概念性の間に現出する等価原理的な相互変換的交替特性(13)は、見事にアクチュアリズ厶の依拠していた量子論理的システム構造の特質を先取りするものとなっているのである。
 しかしながら、上でそのアクチュアリズ厶的特性を確認する要素として適用を試みたこれらの概念や述語の各々が、“量子論理”という形で確立したシステム理論としての体系的な枠組みを与えられ、互いの整然とした関係性を堅固に構築するに至ったのは、『ピーターとウェンディ』の刊行の年である1911年からさらにしばらく時代を下った、20世紀後半あるいは場合によっては漸く21世紀になってからのことなのであった。だから改めて気にかかるのは、『ピーターとウェンディ』制作の当時の作者のバリ自身の意識内部において、ストレールが“アクチュアリズ厶”という概念を提唱するにあたって前提としていたような、20世紀後期、特に70年代以降のポストモダンの時代に属する仮構世界創作者達の精神の内部において確かにその存在が共通認識として受容され、“ニュー・サイエンス”という呼称と共に意識的に導入されていた量子論的世界描像に対する自覚が、どの程度までこれらの場合と全く同等のものとして保持されていたのであろうか、という点となるであろう。
 この疑問点に従って、量子理論の誕生とその一応の理論体系としての完成に導かれるに至った過程と、さらにその前後の文化的・歴史的背景のいくつかをサンプルとして検証してみることにより、仮構論の内包する問題性のさらなる究明を企ててみる必要があると思われる。量子理論誕生の発端となったと言われるアインシュタインの相対性理論の意味するものの体系的把握の手法が完成されるに至って、実在論と認識論の双方において重大な革変がなされたことは異論の余地のない事実ではあるが、仮構世界の記述という、実はシステム理論的にはある意味で最も近接した界面にある筈ではありながら、数理論理学の界面においてなされたような実りある考究が未だなされていない次元が、ここに残されているように思えるからである。
 ストレールは“アクチュアリズ厶”という文芸ジャンルを規定するための基幹概念を、主としてハイゼンベルグによって定式化されるに至った量子理論に負っていたのであった。ちなみにこのような形で一通りの完成された世界観を提示することになった、“コペンハーゲン解釈”として知られる量子理論に関するハイゼンベルグの手による一般向け解説の著作の英語訳の出版は、ストレールも参照資料として挙げているように、以下のような年度に行われている。

 The Physicist’s Conception of Nature, translated by Arnold J. Pomerans, (1955).
 Physics and Philosophy, (1958).
 Physics and Beyond, translated by Arnold J. Pomerans, (1971).

おそらくこれらのハイゼンベルグの著作の直接の影響下にあると思われる、『量子論的宇宙における仮構』において中心的に採り上げられているアクチュアリズ厶の作品群は、いずれも1970年代以降に出版されたものであった。そしてまた、1968年に刊行された『最後のユニコーン』の作者のピーター・S・ビーグルも、1975年に出版された『アメリカン・デニム』(American Denim)の中で次のような一節を書き残している。70年代アメリカに特徴的な民衆文化の一つであった、ジーンズ等のデニムを素材に行われた手作業による刺繍や飾り付けの作品写真集に添えられた、様々な意味で興味深いビーグルのアメリカ民衆文化論の一部である。

What these people seem to have in common is not an official counterculture attitude─that hardly exists anymore, if it ever did outside the official handbooks─or a grim concern with surviving a coming holocaust, whether economic or nuclear. Like most cultural manifestations these days, it has something to do with the desire for some little control over one’s own life; but it is more specifically a growing awareness of the need for continuity, for the preservation of the old skills─not as instructive museum pieces, but because they are still needed. The universe is not the machine that you and I were taught to believe it is; human progress and human history appear to be curved, as time and space are, rather than the endless straight line we always imagined; and the glaciers will be back. It might be just as well to know how to tell stories and do magic tricks when the TV sets stop working.

p. 15

このような人たちに共通して見られるのは、表立った反権力的態度ではない。そのようなものはもしも以前に公式の便覧の中くらいにはあったとしても、今はもう見られはしない。そしてまたそれは、迫り来る経済的波乱あるいは核戦争による災厄を生き延びることへの陰鬱な関心でもない。今日見られる大部分の文化的声明と同様に、それは自分の生活を自分自身の手で少しばかり制御してみたいという欲求に関わっている。しかしこれは、さらに特定的には、博物館における教育目的の展示物としてなどではなく、まだその価値が認められる伝統的な技術の保全という、文化の継承の必要性に対する意識の高まりなのである。宇宙は我々が理解するように教え込まれてきたような、機械のようなものではないことが分かった。人類の進歩も歴史も、時間や空間と同じように、これまでずっと信じられてきたような無限に続く直線というよりは、湾曲したものであるらしい。再びまた氷河の時代が訪れることがあるのかもかもしれない。テレビの受像機が動かなくなった時には、お話を語ったり奇術の技を行ったりする方法を知っているのも、良いことだと思われるのだ。

現実認識の激烈な変革を指摘するこのビーグルの言葉の中にも明らかに、ストレールが“アクチュアリズ厶”の生成を認める前提条件として考えていた、古典力学とこれに依存した世界観の抜本的修正の必要を強く自覚する、20世紀後半に支配的となった量子論的発想の及ぼした影響の痕跡が見て取れる。我々が生きる現実世界の基盤は、これまで確実な科学的思考として躊躇いなく受容されていたようにデカルト座標に投影してユークリッド幾何学を適用して即座にすべてが理解できるようなものではなくなってしまった。丁度シェイクスピアとダンの時代に地動説の影響が人々の現実認識と世界観に大きく作用して、従来の歴史的な価値観の顛倒を招き、その基本原理の喪失感覚が時代の思考と人々の実際の人生をも決定的に支配してしまったように、20世紀以降の思想と文化には不確定性の存在原理の烙印が深く刻み込まれてしまっているのである。だからこそ本書においてこれから行うこととなる、『最後のユニコーン』の文学的主題と技法的記述との優れた特質に関する検証においても、やはり量子理論的発想の適用が極めて有効な手段となっているのである。
 しかしながら、“アンチ・ファンタシー”という指標の適用に合致する模範例として選んだジェイムズ・M・バリの『ピーターとウェンディ』とピーター・S・ビーグルの『最後のユニコーン』の二作品が、ストレールの選択したアクチュアリズ厶という文学ジャンル概念に含まれることに即座に適合する訳ではないと思われる決定的な要素は、これらがアメリカの精神文化に重大な変革をもたらした“70年代”を迎える以前に既に創出されていた、時代区分的により古い時期に属する作品であったことばかりでなく、アクチュアリズ厶がリアリティとフィクションの重ね合わせを提示するというその根幹的性質上、“私小説”というジャンル概念の裡にある未開拓の部分の潜在的可能性を強く示唆するものであったのに対して、これら二つの傑出した思弁的ロマンス作品がストーリーとしての構成上明確な“お伽話”としての外枠を有しており、その点で作品世界としての存立条件において、むしろ言わば“古典的”な仮構の特質を明瞭に主張していると思われる点だろう。さらにまたこれらの“お話”としての仮構記述の手法において際立って優れた二作品が、もはやリアルでは無くなったリアリティをアクチュアルに記述するのみでなく、リアルの界面でもアクチュアルの位相においても決して起こりえない、“不可能性”の記述を仮構世界内に極めて効果的に展開していることが、見落とすことのできない特質として理解されねばならないと思われるのである。だからこそアンチ・ファンタシーとしての存在函数を抽出すべきこれらの二作品の評価における主要な眼目は、“仮構”と“パラドクス”という概念の意味措定に関する考察に集約されることとなるのである。
 さらにもう一つ、実はJames Matthew Barrieの反転的なファンタシー物語Peter and Wendyに対して、“アクチュアリズ厶”というジャンルの誕生に関わったとされる仮構作品の実質の劇的変化が量子理論の直接の影響下に生成したとする、ストレールの前提としていたジャンル確定条件の適用の妥当性をより細密に確証しようと試みてみるならば、ここにひときわ興味深い事実が浮上してくることが理解されるだろう。実は『ピーターとウェンディ』を特徴づけているある種の独特の観念性は、ボーアやハイゼンベルグ等によって一応の定式化の完成を見た量子理論にも、あるいは彼等の想定したような宇宙認識に即座に合致するものではなかったがその定式化を促す発端となったことが確証されている、20世紀初頭にアインシュタインが構想していた相対性理論の示唆する基幹的発想にさえも先行していると思われるふしがあるのである。だから改めて、『ピーターとウェンディ』が書かれた1911年当時の社会の意識における相対性理論の示唆する革命的な時間・空間論の受容の実相と、その結果そこに浮上した仮構世界創出に関連する文化現象と量子理論の誕生並びにその一応の確立に至る過程との相関について、再検証の作業を試みる必要があるのである。これら相互の間に果たして何らかの影響関係が実際に存在したか否かが、とりわけ気になる点となるからである。振り返ってみれば、このあまりにも有名な奇想物語は、1904年に初演がなされた原作の劇『ピーター・パン』(Peter Pan)をもとにして、1911年に改めて小説化の操作を施されて創出されたものであった。量子論理による現象記述と古典力学的自然描像の落差が及ぼした仮構世界記述手法への影響を考えるにあたって、丁度1905年と1916年に引き続いて発表されたアインシュタインの相対性理論を間に挟む形で、これら二つのバリの手になる特徴的な仮構作品が交互に創出されていることは、いかにも印象に深い事実なのである。よく知られているようにアインシュタインの相対性理論は、“特殊相対性理論”として理解されている1905年発表の論文「運動物体の電気力学について」(“Zur Elektrodynamik bewegter Korper”)によって論としての端緒を切られ、そこに示された運動・空間概念の解釈問題が様々の哲学的論議を引き起こすこととなったが、その後暫くの間を置いて1916年に発表された“一般相対性理論”(『特殊および一般相対性理論について』Uber die Spezielle und Allgemeine Relativitatstheorie)の提示によってようやく、ニュートンの古典力学に代替すべき統括的な視野を備えた新規の実在・現象記述理論としての一応の地盤の確立を果たしたのであった。このように相対性理論の完成と『ピーターとウェンディ』の独特の仮構記述の手法の確立は、言わば並行的に進行していたのであるが、むしろ『ピーターとウェンディ』の方がいくらか先行した形でその特質の拡充に導かれていたことが明らかとなるのである。
 相対性理論の発端となる理論の発表からその統括的な理論的完成に至るまでの間の11年間と、そしてその後しばらくの間に世界が経験したと思われる哲学的・科学的パラダイムの激烈な振幅と、さらにその文化的反映の実態を包括的に、かつ厳密に確定しようと試みることは、困難を極める作業となると思われる。しかしながらいくつかの傍証を検証してみることにより、バリの『ピーターとウェンディ』を特徴づけていた特異な存在論的発想のいくつかが、実はハイゼンベルグその他の物理学者達の提示することとなった量子論として完成されるしばらく以前から、既に人々の意識表面に上っていたばかりでなく、アインシュタインの革命的な発見にさえも明らかに先行していることが分かるのである。このあたりの事実関係を再確認しておくことが、我々の仮構とファンタシーの本質に関する再考察の作業において欠かす事のできない眼目となるであろう。
 アインシュタインの唱えた相対性理論は、確かに物理学としての体系を盤石のものとしていたニュートン力学の支持した世界観を根底から転覆するものであったが、実はニュートン批判はアインシュタインによって始めてなされた訳では決してない。ニュートンと彼に代表されるロイヤル・ソサエティ的世界認識に対しては、ロマン派の見霊者詩人ウイリアム・ブレイクの示した激烈な反発を見るまでもなく、当初から様々の反論が企てられてきたし、ニュートンの構築した思想体系を継承した筈の当の純然たる自然科学の陣営においてすら、ニュートン的システム理論の前提を根底から覆す主張が、量子力学擡頭の遥か以前から、実はいくつか既になされていたのである。
ニュートンの仮定した“真空”の空間に浮遊する“質量点” としての粒子や、デカルトの想定した“延長”という特質を有する“物質”という観念の与える描像とは全く異なる原理に基づいた現象の存在解釈が、既にマクスウェルとファラデーによって提示された電磁気理論によって確証されていたのであった。ニュートンによって体系化された古典力学の基本前提と、デカルト─ベーコンの導入した科学思想の依拠する厳密な仮定を正しく理解するならば、既に物質粒子の衝突に依らずに作用の伝達が行われる“電磁場”という概念の発見がなされた際に、従来の古典力学的世界観はその空間規定において大きな侵食を受けていたのであった。歴史上実際に古典力学体系に大打撃を与える直接因となったのは確かにアインシュタインの相対性理論ではあったが、相対性理論が真に革新的であったのは、正しく古典的な自然科学の前提に従うことのない“物理現象”の存在が確固とした理念として語られてしまったためであり、そうであるならば実は、当該する例外的現象が実験の結果認証されたその時点で、古典力学的“物理学”の存在基盤が既に覆されてしまっていたと言ってもよい。ならばこの認識論上の問題点の総合理論的解釈を成し遂げたアインシュタインは、ある意味においてはむしろ物理学者である以上に世界の本質を考える哲学者であり、時代精神を牽引する思想家であったのである。さらに、純粋に物理現象としての慣性系における時間と空間の相対性の定式化については、既にこの変換式の定立そのものが、アインシュタイン以前に“ローレンツ変換式”という形で先行して提示されていたものであったという事実も、この判断を裏付ける説得力ある証拠として挙げられることだろう。アインシュタインの功績は、むしろこれらの解析手法の実在論的定式化という、形而上学的革新を果たした面にこそあったのである。そのあたりの問題性を哲学の陣営から明敏に指摘しているのが、廣松渉の『相対性理論の哲学』(1986)なのである。
 廣松は、力学的作用を単なる局所的作用ではなく宇宙の全質量との相関規定として捉える新たな全体性の視点を提示したマッハのニュートン力学批判に目を向け、現象主義的世界観と実在論的存在感の対比による検証を通して、ニュートンの“力学的自然観”に対するマッハ並びにアインシュタインの行った批判の視点を洗い直しているのである。マッハによればむしろ、“純粋な力学的現象等は存在せず実在する物理現象は熱的・電磁的・磁気的・化学的”なものとして捉えられるべきであるとされたからであった。ニュートン的古典力学とは大きく規範を違える物理現象解釈におけるマッハのこれらの指摘は、彼の『仕事〔エネルギー〕の保存則の歴史と根源』(1872年)や、“心理学的空間”が論じられている『感覚の分析』(1886年)、さらに『物理学的研究の観点からみた空間と時間』(1903年)等の著作に明らかなように、アインシュタインその人に彼の革命的な理論の形成に多大な影響を与えた、形而上学的発想の源泉となっていたのである。バリの『ピーターとウェンディ』において語られている、後の量子論理にあまりにも見事に適合すると思われる多元的な存在論あるいは相互依属的な現象観は、むしろこのような宇宙論解釈の革新を目指す急進的な精神土壌の許に生成したものであろうことが理解されるのである。当然のことながら、マッハ、アインシュタイン双方に対する哲学的批判も様々な方面から沸き起こっており、廣松によれば“「マッハ─アインシュタイン」問題は1910年代から20年代にかけて第一次のピークを経験し”(p. 13)とあるように、『ピーターとウェンディ』の生成の背後には、既にはなはだ先進的な時間・空間と精神・意識の相関に関する議論が沸騰していたことが理解されるのである。このような欧州での思想的・科学的規範の激烈な変転状況を反映して、日本でもいち早く1921年(大正10年)には桑木或雄、池田芳郎訳による『相対性理論講話』(岩波書店)の刊行が行われ、1922年(大正11年)にはアインシュタイン訪日が実現していたのである。引き続いて、1925年に刊行されたバートランド・ラッセルの『相対性理論の初歩』(The ABC of Relativity)と、さらに1926年に刊行が行われているベルグソンの『持続と同時性』(Duree et Simultaneite)があることは、このような論議に対する当時の社会の機敏な哲学的反応のあり方をよく示している。 アインシュタインの成し遂げた相対性理論の提示における哲学的功績に対する廣松の総括は、“相対性理論のパラダイムが、マッハ主義及びカント主義をそれぞれの浮標とする「経験論的実証主義」と「先験論的批判主義」との対立地平そのものを超出している。”(p. 31)という、カントの批判主義の存在を視野に含めた、純粋に哲学的界面から下された独特の弁証法的評価を示す、積極的な言明において確証されている。さらにまた、アインシュタインの相対性理論の哲学理論としての特質については、“相対性理論は、さしあたり物理学という次元においてではあるが、近代知の地平において最も科学的に確実でしかも基礎的であると了解されてきたところの物理学的な対象的事実・対象的認識に関して、絶対的な観測系(特権的な観測的認識の視座)は存在しないということを顕示したのである!”( p. 68)という、科学の本来の思想的立脚点に対する再点検を通して、独自の認識論をも包含する観測系のシステム理論の拡充としての位置づけを行う作業において、その思想的内実が評価されているのである。
 廣松はさらに、アインシュタインの相対性理論を補完し、結果的にニュートン力学に代替するシステム理論としての地位を約束することとなった数学的記法であるテンソル解析と、時空での回転と投影を考慮に含めて、相対性理論は重力を時空の幾何学的ゆがみに置き換えたものとして次元の概念そのものの革変を果たした、ミンコフスキーの時空理論をも見事に自身の統括的な理論体系の中に組み込むことに成功したアインシュタインという思想家の、むしろその実質においては極めて形而上学的な仕事の心理的本質をも指摘するに至るのである。

…いまや直接的には不可能となった観測・測定連関への定位にかわって、一般相対性理論の体系構成における中心的な役割を演ずるのがテンソル解析の手法にほかならない。もっともテンソル記法の使用は、ミンコフスキーによる特殊相対性理論の再定式化に際して早くからなされており、後年のアインシュタインはこのことの意義を次のように捉え返している。

ミンコフスキーの研究以前には、ある法則のローレンツ変換をほどこさなければならなかった。それに対し彼は、法則の数学的形式そのものがローレンツ変換に関する不変性を保証するような定式を導入するのに成功したのである。

アインシュタインはテンソル形式のこのような意義に着目しつつ、それを一般相対性理論の定位に際して系統的に採用し、後には特殊相対性理論、さらにはニュートン物理学にまでさかのぼって、それらをテンソルを用いた一貫した手法によって再定式化するのである。ここにおいてテンソル形式は、物理法則の共変性をすでに自らのうちに組み入れているがゆえに、概念体系の間主観化の機制はテンソル方程式の形成という数学的準位へと移しおかれる。したがって理論的考察者は、物理量のテンソル性を数学的に確認するやいなや、個々の観測視座の扮技をまたずして間主観的に妥当する概念体系を得るのである。このような方法論的構図の特質は、しかも心理的には容易に認識論的な次元へと移し入れられることになる。すなわち、ここにおいて概念体系の間主観的妥当性があらゆる観測・測定行為に先立っていわばアプリオリ的に保証されているとの思念が生じ、それと相関的に、物理学的概念形成はいまや単位の学的主観によるモノローグ的な作業として了解されるのである。この学的主観は、特定の(絶対静止系というような)観測視座を重ね合わせてきた旧来の学的主観に比べて、ある意味でさらに高次の超越性を帯びたものとならざるを得ない。


廣松は、“共変性”という概念を軸として、アインシュタインが行ったテンソル解析の適用によるシステム理論の定式化作業における、思念と心理と観測との相関を対象に考察を進め、“間主観化”としてここに洗い出されたような“函数の抽出と抽出された函数の函数的記述”とでも言うべき操作において、そのメタシステム的特性を相対性理論の定式化作業の中に確認すると共に、物理現象と心理現象の統合解釈を企図するというもう一つの視点からも、アインシュタインの思想の形而上学的特性を改めて指摘していくこととなる。このような論点の中で、ミンコフスキーによって1907年から1908年にかけて発表された特殊相対性理論の四次元的定式化についての廣松の評価は、“ミンコフスキーの記法の特徴は、そこにおいて空間と時間とが座標変換に際して相互依属関係におかれるばかりでなく、両者が形式的に等価なものとして現れるという点に存する。”( p. 205)という表現を取ることとなる。実は科学への造詣の深い哲学者廣松によってここに見事に指摘されてあるような、事象あるいは属性の概念規定における“相互依属的”な変換によって位相を選択的に決定される事を前提とする “等価原理”に着目して、存在と事象の言わば位相遷移的同定を可能にする視点の主張こそが、本書における我々の宇宙論と心理学を連続体として捉える仮構論再考の論議の基軸となるものを与えることになっているのである。そしてまた、廣松のこの総括が、一般相対性理論の完成にさえも先立って、バリの『ピーターとウェンディ』が後のアクチュアリズムを予兆するような統合宇宙論の特質を保持し得ていた事実の解明にも結びつく、重要な証言となると判断されることだろう。
 『ピーターとウェンディ』の公刊の1911年に焦点を当てて量子理論的発想の生成の過程を辿り直してみることを企図するこのような観点から、改めて量子理論擡頭の前後にあった科学的新発見の状況を年代記的に概観し直してみると、以下のような興味深い経緯を確認する事ができるのである。
 まず1881年には、アルバート・マイケルソンによるエーテル検出実験が開始されている。これは、空間・実在論議の紛糾の発端の一つを提供したエーテル仮説の検証を行うために実施されたもので、これ以降エドワード・モーリーの参加を経て、様々な手法に基づく同種のマイケルソン・モーリー実験が行われていくことになる。
 1895年には、ヘンドリック・アントン・ローレンツによる電子論の発表が行われた。後にローレンツとジョセフ・ラーマーによって提案された“ローレンツ変換”は、電磁気学と古典力学間の矛盾を回避するために、二つの慣性系の間の時間座標と空間座標を結びつける線形変換を試みるものであり、マイケルソン・モーリーのエーテル検出実験の結果を矛盾なく説明する手段として提案されたものだったのである。
 1904年には、モーリーとミラーによるエーテル検出実験が再び試みられている。しかしあらゆる物質と真空中に等しく充満しており、光の伝導媒体としての役割を果たすものとして想定された“エーテル”は、予想に反して実験の結果その存在を確証されることは無かったのである。
 1911年には、アーネスト・ラザフォードによる原子模型の提示が行われ、粒子としての物質構成単位である原子の、従来の物質概念を覆すことになる電子という構成単位を含む描像がいよいよ輪郭を露にしてくる。そしてこれらの歩みの後、『ピーターとウェンディ』の出版の後に位置する年代になってからようやく、より具体的に電子の特有の様態を記述する量子論理的特徴を示す科学上の発見がなされていくのである。
 1913年には、ボーアによる原子論の提示がなされ、原子の保持する“基底状態”と“励起状態”という、量子的現象を反映した独自の存在解釈上の重要概念が提唱されることとなるのである。さらに、1925年夏には、ハイゼンベルグによるマトリクス力学が誕生する。そして、1926年には、シュレーディンガーによる波動方程式の提示と、ボーアによる確率波という概念の提示が相次いでなされ、ここに至って愈々量子理論の骨格が明らかになってくるのである。
 1927年には、量子力学のコペンハーゲン派解釈の提示が行われて量子論理の集大成が一通りの完成を示し、同年にソルヴェイ会議の開催がなされるに至る。
 ここに確認した大まかな年表上の経緯からも、1911年刊行の『ピーターとウェンディ』が、明らかに量子理論の存在論的枠組み構築の完成に先立って、その独特の世界観と記述手法の完成に導かれていた事実が読み取れるだろう。
 さらに、これらの科学史上の重要事件の周囲にあったと思われる哲学的論議の経緯について、今度はハイゼンベルグの『量子力学の哲学』(Physics And Philosophy, 1958)に焦点を当てて改めて追い直してみることにしよう。宇宙論と心理学を一つの連続体として捉える統括的な視点を保持する哲学者としてのハイゼンベルグは、本書においては“リアリズム”という概念に対する再検証の作業を行って、“実際的なリアリズム”、“独断的なリアリズム”、“形而上学的なリアリズム”などの呼称を採用し、むしろある意味で文学的なリアリズム解釈ともいえる論議をも展開することとなっている。その過程で、ニュートン以前にあった既存の宇宙論的観念の内実の再評価もが、確実に行われていくこととなるのである。例えば、マックス・ボルンの提唱した“確率波”という概念については、ハイゼンベルグはアリストテレスの唱えた“ポテンツィア”という概念を掘り起こして、以下のように語ることとなるのである。

[確率波は]アリストテレスの哲学における昔の「ポテンツィア(潜勢力)」の概念の量的な表現である。それは事象についての観念と現実の事象との中間にある或るもので、まさに可能性とリアリティとのちょうど中間にある、奇妙な一種の物理的リアリティである。

pp. 16

このように、主として科学の領域から沸き上がったと思われていた実在解釈に関する議論を、ハイゼンベルグが見事に哲学的観点から捉え直してその意義性の再構築を果たしていることは、とりわけ注目に値する事実なのである。本来は数学屋であったアインシュタインが『特殊及び一般相対性理論について』(1916年)において哲学的に語ろうとして及ばなかった部分を、このバランス感覚に優れた教養人が、見事に補完することができていると思われるからである。こうしてハイゼンベルグは、デカルト批判、カントの空間論についての検証、マクスウェルの電磁気理論、マイケルソン・モーリーのエーテル検出実験、カントの先験論、ボー厶の配位空間と“リアル”概念等を的確に振り返り、アリストテレスの“質料”やデカルトの提示していた“物質”の概念を改めて検証し、さらに“四次元多様体”という概念の提示による新規の実在解釈や、アンリ・ポアンカレやジョージ・フィッツジェラルド等の成し遂げた数学的業績を勘案して、以下に示されたような相対性理論の提示する重大な哲学的課題に対する対処のあり方を、様々に模索しているのである。

概念のいろいろちがった組の間にはどんな関係があるのか。もし、たとえば、同じ概念または言葉が二つのちがった組に現れるとき、そうしてそれら互いの関連や数学的表現について、ちがった形で定義されているとすれば、どういう意味で概念はリアリティを表しうるのであろうかという問題である。
 

pp. 86

ハイゼンベルグがここに語っているように、この問題は特殊相対性理論が発表されたと同時に、当時の知識人達の心中に即座に発生したのであった。世界の本質に対する人間の知的把握のあり方そのものに関する根源的疑問を突きつけられた20世紀初頭の人々は、様々な意味で二律背反した表記あるいは様相の形態の示す、真実あるいは実在の暗示する“パラドクス”の問題性に直面させられたのである。
 不可解極まりない発現様態を示す現実世界の基底をなしていると思われる宇宙の原存在の不気味な実相に、20世紀人は歴史上かつてない驚愕と戦慄を体験せしめられることとなった。(14)そして、質量・空間、運動・時間等の物理現象を規定する諸要素に通底するであろうと思われる、宇宙の内部関連の深層に厳としてある理解不能性というこの問題性は、反転的に思考システム自体の裡に内在する“パラドクス”という概念の措定の許に集約されることとなる。さらにこれらの物理的事象解釈に関する直接的な存在論的論議とは方向の異なる別界面からも、“パラドクス”という概念の内包する存在論上の様々な解釈の可能性が、自発的に掘り起こされていたのである。
 このような相対性理論あるいは量子力学の誕生に関連してあった周辺的、あるいは同時発生的思想状況について、数理論理学としての側面からむしろより統括的に要点を語ることに成功しているのが、大出晃の『パラドックスへの挑戦─ゲーデルとボーア』(1991)である。大出の眼目は、その著書の表題にもあるように、“パラドクス”という概念あるいは現象の示す特異な問題性にある。大出によればまさしく、“20世紀始めはパラドクスの時代”であったのである。大出の主張に従って実際の20世紀当初のパラドクスの論理学の進展の跡をたどってみると、これらの数理論理学的成果が見事にアインシュタインの相対性理論に先行しており、『ピーターとウェンディ』の特徴的な概念構造を裏打ちしているばかりでなく、さらに後のファンタシーとアクチュアリズムの勃興を導く精神土壌にとっても、欠かす事のできない素地を形成してくれていることがよく窺えるのである。
 大出はまず、様々なパラドクスの事例の発見の具体的な経緯を追うことから論の展開を図っている。1902年には、バートランド・ラッセルからゴットロープ・フレーゲへの手紙の中で、「ラッセルのパラドクス」と呼ばれている、“無限の順序数”の問題が語られていた。これは良く知られているように、フレーゲの著書『算術の基本法則』の中にある集合論の矛盾を指摘するものであった。集合論という数学の一分野と思われていたものの中に、数学そのものを語り直し、そればかりでなく重大な宇宙論の転換をももたらす鍵が潜んでいたのである。続いて1905年には、「リシャールのパラドクス」、すなわち“集合濃度のパラドクス”として知られている議論によって、実数の数列における数の一対一対応を追っていけば、部分集合の“濃度”は全体に等しいことになってしまう、という数学上のいかにも常識的直観からは乖離する、経験則に矛盾する事例の指摘がなされたのである。これは日常言語の“部分”と“全体”という概念の関係性に対して抜本的な再検証を迫るかのような、集合論からの人間知性に対する極めて挑戦的な事実の宣言なのであった。このリシャールのパラドクスにあるような、集合概念の定義に関わる意味論的パラドクスが、この後様々に顕示されていくことになったのであった。動的な世界理解の革変を示すそのような思想的地盤から、「ヒルベルトのメタ数学」にあるような、系としての数学それ自体を数学的に捉えようとする、メタ概念が論理学の中に浸透していくこととなる。
 これらの数学あるいは論理学の内部に潜伏するパラドクスとメタ論理の存在の指摘は、現象面での実在解釈に関する物理的発見や自然現象の中の法則性の発見と、図らずも符合していくこととなった。大出がその例の一つとして挙げているのは、1900年に提示された「プランクの放射式」、つまりすべての波長に対して成立する、黒体放射のエネルギー分布則である。これは1900年ドイツ物理学会において、マックス・プランクによって発表されたエネルギーと振動数のあいだの関係式であり、プランク定数(h)を用いてE=hvという数式で表現されたものであった。この“波動”という概念に関する新理論の発表は、その本質において量子力学の基幹概念を形成するものであり、大出が“ゾンマーフェルトがこの日を《量子論の誕生の日》と名づけた所以である”と語る通りである。“偏光”という重ね合わせの様態の許に不可解極まりない現象を示すこととなる、“波動”という新たな物理量を示す概念は、従来の質料概念を転覆するような、極めて異様な特質を秘めていたのであった。周波数の合成から成り立つ波動として、現実の存在物それ自体が自在に合成することも、あるいは変換することもできることを示唆するこの属性記述の手法は、伝統的な物質観とは全く相容れないものであったからである。さらに1913年には、ボーアの振動数条件v=1/h(En-Em)が提示されることとなる。この理論は、1913年7月に「原子と分子の構造について」において語られたもので、「量子ジャンプ」、すなわち“原子の定常状態における力学的な均衡は通常の方法で扱われるが、定常状態から別の定常状態への遷移はプランクの理論にしたがう均質な放射によってなされる”という、「不連続的な推移」という特質を持つ典型的な量子論理に基づいた物理的事実の指摘だったのである。
 このように数学体系についての“体系”を語る手法の実際の物理的実在に対する適用の応用例の充実が、伝統的な経験則的な科学理念に捕われることのない、量子力学の独特のシステム理論としての拡充へと導かれていくこととなったのである。このような背景のもとに、いよいよ1926年夏にはハイゼンベルグの行列力学と、シュレーディンガーの波動力学が相次いで発表されるに至るのである。さらに加えて1926年には、アーサー・コンプトンによる電子の角運動量とスピンという、全くの新種の属性概念の提示がなされていることも無視することのできない事実である。コンプトンは1923年に「コンプトン効果」の実験による確証を得て、アインシュタインの予測した光子の持つ運動量を測定することに成功して、光あるいは電磁波の粒子性を証明していたのであったが、彼のその後の研究はその“粒子”の保持するさらに未知の属性の発見をも導くこととなったのであった。そして1927年においてハイゼンベルグによる「不確定性原理」とボーアによる「相補性」の原理が発表されるに至り、量子論理はその全くの新種の系としての姿を明確にすることになったのである。1927年の春にハイゼンベルグが発表した 『量子理論的運動学と力学の直観的内容について』は、ボーアとの2ヶ月の議論の果てに合意された、かつての“リアリズム”解釈のパラダイムを変転させる量子理論の確立をもたらすものであった。
 このような革新的状況の中で“パラドクス”は、また異なった位相を示して実在解釈における思考メカニズムの問題点を洗い出すことともなった。それはアルベルト・アインシュタイン、ボリス・ポドルスキー、ネイサン・ローゼンの3人によって1935年に提示された、“EPRパラドクス”である。この場合にはパラドクスの論理学は、新興の量子力学の提示したあまりにも斬新な理論に対する、古典力学陣営からの反証の武器として採用されることとなったのである。大出のまとめてくれた表現に従えば、“EPRパラドクス”の骨子は以下のような記法を用いて示されるものである。アインシュタイン達3人は、“物理的実在の量子力学的記述は完全とみなされうるか”という命題について、「実在性の条件」と「物理理論の完全性の条件」という二つの案件を提示し、以下のような指摘を行ったのである。

1 実在性の(十分)条件:もしもある系にどのような仕方でも撹乱をあたえることなくある物理量の値を確実に(つまり、1に等しい確率で)予測できるならば、この物理量に対応する物理的実在のある要素が存在する。
2 完全性の(必要)条件:ある物理理論が完全であるのは、物理的実在のあらゆる要素がその物理理論にひとつの対応物をもつ場合に限られる。
 このふたつの条件を基本的な前提として、議論は次の形をとる。
もしある物理理論が完全であって、xが物理的実在のある要素であるならば、その理論のうちにxをふくむ状態記述がなければならない。
 量子力学的状態記述にはともにふくまれることのない物理的実在の要素x,y,が存在する。
それゆえ、量子力学は完全な物理理論ではない。

p. 175

しかしながら、ここでEPRパラドクスによって図らずも語られた“実在性”、“理論の完全性”そして物理的実在と物理理論の“対応”という概念は、これら自体がさらなる論議の対象として、その内実を深く考究されていかなければならないこととなるのである。そしてここに指摘されたような、系の内部にある論理を超出する矛盾例である“パラドクス”というシステム的様態の現出の例示は、結局のところ量子論理というシステムの妥当性を否定する方向にではなく、むしろ量子理論の基幹条件を示す顕著な特質を検知する一種の指標として、この後量子理論確立のための特徴的な条件として積極的に採用されていくことになったのである。そこに発展的に得られた新種の概念が、“実在性”を充当することもなくシステムとしての“完全性”という条件に該当することもない、量子的存在特有の重ね合わせの状態を容認する“多義性”であり、その原理的メカニズムを保障する“相補性”なのであった。そして非局所的に作用を行う“全体性”という概念が、新たに注目を浴びなければならないこととなった場合には、“対応”という概念の意味するものそのものをも、改めて見直す必要に迫られることとなったのである。
 1935年には、ニールス・ボーアによって『量子力学と物理的実在』が発表され、この中でボーアの提示した“相補性”という概念は、時空座標の記述内容における因果関係性の解釈と、波動と粒子の現象あるいは存在としての背反的な描像を理解するための欠かせない基幹理念として、全体性の世界解釈の一つの規範を提供することとなるのである。これらの論議は“コペンハーゲン解釈”として、ハイゼンベルグの「実証主義的議論」とボーアの「実在論的議論」を大きな柱として、既にストレールが語っていたように、後の世界の宇宙論及び現実認識に多大な影響を与えることとなったのであった。
 『パラドックスへの挑戦─ゲーデルとボーア』におけるパラドクス論議の展開に関する大出の指摘の中で殊に興味深いのは、これまでに存在し得ないと思われていた新規の論理システムの構築可能性の提示がなされた事実が具体的に語られていることであろう。伝統的な論理学を支える公理の一つであった“排中律”の否定が、大胆にも試みられるに至った例がそれであった(15)。大出は、ライツェン・エヒベルトゥス・ヤン・ブロウェルが新規に開拓した、これまでとは全く別種の公理に基づく集合論を紹介しているのである。大出によると、“オランダの数学者ブロウエルが排中律の妥当性にたいして異議を唱えたのは、集合論による数学の基礎づけというコンテクストにおいてであった。”ブロウエルは、従来の数学的論証の規範の一つであった“背理法”という“間接証明”の妥当性に対して、疑義を提出したのである。背反する二つの命題のうちの一方の命題の反証がそのままもう一方の命題の証明へと結びつく、一意的な原理に則ったこの論証操作に対する彼の疑問は、“直観主義的論理学”という新しい系の生成に寄与することになる。大出によれば、このシステム破壊的発想はさらに時を経て、一つの新たなシステム理論としての完成へと導かれることになった。「このような発想の結果、排中律を認めない論理学の体系、いわゆる“直観主義的論理学”のシステムが提出されることになった。ブロウエルの努力は1912年以来つづけられていたが、その論理のシステムをはっきりと規則のかたちであたえたのはかれの弟子ハイティングであって、1930年のことである。」(pp. 194-5)実は、“排中律の否定”という論理操作を介して存在性発現条件の拘束を緩和し、重ね合わせの存在原理に基づく事象発現以前の可能性の束として宇宙の潜勢力の姿の描像を導くこの世界解釈は、伝統的な二者択一的論理展開と一意的存在解釈の原理を根底から覆す、“多義性”という統括的宇宙論の構築において枢要なものとなる概念に結びつくものとして、仮構世界存在論再考の全方位的論理地盤を模索する我々のアンチ・ファンタシー論との関連において、殊に興味深いものとなるのである。考えてみれば、長らく“謎”の現出例として神秘の存在を暗示する典型例となっていた、ゼノンの“アキレスと亀のパラドクス”に代表されるような永遠性の与える難題が、無限概念の数学的処理という形で克服された後に、人類の知性に対する挑戦として新たに姿を現したのが、捻れあるいは捩れの構造性にその特質を窺うことができる、多義性と曖昧性を備えた世界の実質であったと思われるからである。
 大出はさらに、この直観主義理論とゲーデルの定理とブール代数のそれぞれの系としての形式に注目し、以下のような興味深い指摘を行っているのである。

直観主義理論による数学の基礎づけは実数論の展開をめぐって困難があり、その意味では完全に成功しているとはいえないが、その論理システムそれ自体は通常の古典論理のシステムの部分系をなしており、その点では古典理論の構造についても得難い知見を提供してくれる。ゲーデルは本来古典論理論者といってよいであろうが、かれは同時に直観主義論理にも尋常でない関心を示していた。この関心の由来がどこにあるのかわたしにはわからないが、この事実は少なくとも直観主義が古典的数学の本質にたいするある理解をあたえてくれる証左と思われる。さらに、古典理論がブール代数と同型であるように、直観主義論理は位相空間の閉集合の族のつくる束と同型であるという事実も「論理の本質」についての新しい反省の材料を提供してくれる。

p. 195

ここで行われているような、古典理論・直観主義論理の間に確認することのできる系としての集合的包含関係の検証と、さらに古典理論とブール代数との同型性、及び直観主義論理の“位相空間の閉集合の族のつくる束”との同型性に着目して、“同型であること”の同定条件に関与する“同一性”の考察から「論理の本質」への理解を語ろうと企図する大出の関心は、パラドクスの検出を積極的に系のメタ理解の考察へと繋げる次元軸の拡張を図ることによって、ハイゼンベルグの場合と同じように全体性の汎論理の存在に対する考証の糸口の導出を目論むものであるだろう。実質あるいは属性あるいは形象における同一性は、位相変換の操作を加えることによって他の任意の次元枠の任意の様相に遷移可能であることを示唆するものである。位置座標のみならず、存在、属性、関係性を規定する要素となる意味座標の基本軸あるいは変数の各々の値が、恣意的に他と変換あるいは自発動的に変動する多様性のゆらぎ構造においては、“類似性”と“同一性”を截然と分つ原理の存在が失われることが示唆されるのである。そして、“パラドクス”というはなはだ問題性の深い概念に焦点を当てた論理のシステム構造に関する大出の論議の、ファンタシーとフィクションの相関についての再検証を試みる我々の考察にとってとりわけ示唆に富むと思われる部分が、量子の存在論的・現象論的記述の上で無数に分岐した平行宇宙の存在を認める形で採用されることとなった、“多世界解釈”という斬新な宇宙論に対する、「純粋に論理のシステムのモデル論の立場から見たとき、量子論理のモデルは“多世界モデル”である」(p. 197)という言明となるのである。ここにおいて“対応”あるいは“同一性”は一対一対応に限ることなく、むしろ“一対無数”対応を行い得るような弛緩的対応関係においてこそ、その本質的意義を理解されねばならないこととなる。個々の量子の示す変動値のあらゆる順列組み合わせに対応して、網羅的に分岐して生成されるものとして構想された平行宇宙である多世界間に通底して現出する事物のみならず、事象あるいは属性等の概念そのものの貫世界的“同一性”あるいは“個別性”という対応関係について、我々は改めて意味と存在の中にある未知の内実を洞察する必要があるからである。そのような意味において、以下の大出の指摘は極めて示唆に富むシステム理論的考察の手法の提示となっているのである。

ゴールドブラットの提出した量子論理のモデル[中略]はクリプキのアイディアにもとづく「可能世界論」に発している。このモデルの特徴は、可能な多くの世界のあいだを結ぶ“近接関係”が反射的かつ対称的な関係だ、ということである。これは注目すべき特徴である。というのは、おなじような方法で直観主義論理と古典論理のモデルを構成してみると、直観主義論理の場合にはこの近接関係は反射的かつ推移的であって、これは各世界が時間的に直線的な樹枝状に配置され、それら世界を通ずる「数学的真理の蓄積可能性」を表現していると解釈されるからである。数学の定理はひとたび証明されれば、以後、真理として承認されつづける。一方、古典論理のモデルの近接関係は、反射的、推移的、かつ、対称的であって、このモデルでは各世界が円環状にならんでいる。これはきわめてギリシャ的な宇宙像というべきであって、そこで確定した真理は「永遠に存続しつづける」ことをイメージしているといえよう。
それに反して、近接関係が推移性をもっていない量子論理のモデルは、このような真理の蓄積可能性も永続性も表現せず、むしろ真理が非推移的で、それゆえ、「反証可能」であることを表現しているということができる。そこでは、真理がなによりも経験依存的であると主張されているのである。

p. 197

こうして大出は、諸世界間の“近接関係”における“反射的”あるいは“対称的”という特質と、直観主義論理と古典論理という論理システム間のそれぞれが“反射的かつ推移的”という特徴と“反射的かつ推移的かつ対称的”という特徴を示すことの特質に注目して、そこから“真理の蓄積可能性と真理の永遠性”というモデルの抽出を行い、これらと比較して量子論理の近接関係が推移性を保持していないという特質から、この系が“真理の蓄積可能性も持たず、永遠性も表現せず、真理が非推移的でしかも反証可能であること”を指摘することにより、そこにある“真理の経験依存的な特質”という一種のパラドクスの形成さえも示唆することとなっているのである。
 大出がこのように、論理構造体の各々のシステムとしての型を確認することによって、「真理」そのものの主張妥当性の再検証という作業を実際に行い得ていることは、極めて注目に値する事実だろう。経験的に絶対であることがその内包であるとして信じられて来た筈の“真理”を、条件依存的で相対的なものとして捉え直す大出の視点は、言説の“ファンタシー・モデル”の一つの典型を構築しているからである。さらにここで「真理」を「事象」あるいは「存在」あるいは「属性」と置き換えてみることによって、我々の仮構世界存在論に関する反射的考察は、論理学的あるいは超論理学的に有効な、さらなる論証手順あるいは次元軸拡張の方法論を付加されて、一つの“公理系”としてのファンタシーの位相を顧みることをも可能にする、内実ある文学作品論を展開することができるはずだからである。
 そのような意味においてことさらに興味深いシステム理論の生成と発展の状況を、さらにまた別な角度から語ってくれているのが、ストレールの『量子論的宇宙における仮構』と同年に出版されたファンタシー論集『ファンタシーへ架ける橋』(Bridges to Fantasy)(16)に収められている、アーレン・J・ハンセン(Arlen J. Hansen)の「平行線の交点:科学(サイエンス)と仮構(フィクション)とサイエンス・フィクション」(“The Meeting of Parallel Lines: Science, Fiction, and Science Fiction” )(17)である。ハンセンは論理学における“システム理論”の拡充という面に着目して、閉鎖系システム(closed model)から開放系システム(open model)へ、さらにまた循環系システム(loop model)へ、というシステム理論の構造的規範の推移から、科学思想的パラダイムの劇的な変遷を指摘し、さらにファンタシーの根幹にあるはずの重要な形而上学的関心をも語ることに成功しているのである。今度はハンセンの展開する科学システム論に従って、そのあたりの状況を追ってみることにしよう。
 ハンセンはまず、1855年のケンブリッジ哲学学会においてジェイムズ・クラーク・マクスウェルが行った、「ファラデーの力線について」という論文の発表内容から論の口火を切っている。マクスウェルはファラデーの発見した電磁気の理論について、「純粋に仮想的な液体の幾何学的な運動」を考慮に含める一つの“科学的モデル”の採用を提唱したのであった。マクスウェルに従えばこの材質は、自由な運動性と圧縮に対する抵抗性以外のいかなる属性も有することのない、仮想的な特性の集合としてのみ理解されなければならないものであった。マクスウェルがここで提示したものが、ハンセンによれば“ファンタシー”の具体例として記されていることは、注目に値する事実であると思われる。ハンセンは、「結局のところマクスウェルは、一つのファンタシーを創出していたのである。彼は不自然なあり得ない現象を持ち出して論を展開していたのである。」(p. 52)と記述を進めている。ここにあるハンセンの表現によれば“ファンタシー”とは、“不自然”、つまり古典力学的な機械論的解釈(自然)によらない、全く別種の公理系に属する体系であり、さらに“不可能性”という際立った特質を備えていることがその規範条件ということになる。しかしここでのハンセンの眼目は、このファンタシー・モデルがその特徴として、「開放系」のシステム構造を備えていることを指摘することにあったのである。

In looking back over the past century, one can see three basic structures that have dominated scientific theorizing: the closed structure, the open-ended structure, and the looped structure. The late-nineteenth-century physicist and naturalist tended to prefer the closed model. In the 1920s some radical young physicists cast their theories in open-ended fantasy-models. And in the 1950s computer scientists and mathematicians embraced the loop model.

p. 54

過去1世紀を降り返ってみると、科学理論の形成を支配した3つの構造があることが分かる。閉鎖系構造、開放系構造、循環系構造の3つのシステム構造である。19世紀末の自然科学者達は、閉鎖系構造を好んで採用した。1920年代には、急進的な若い物理学者達が、開放系構造のファンタシー・モデルに基づく理論を打ち出した。そして1950年代には、コンピュータ科学者と数学者達は循環系構造を選んだのである。

 ハンセンによれば、量子理論確立の黎明期にあった開放系のシステム構造に属することが、“ファンタシー・モデル”と呼ばれることの一つの理由にもなっていることが分かる。さらに量子理論の、古典力学の制約を跳躍する革新性を指摘するハンセンは、「マクスウェルの悪魔」と呼ばれる量子理論において容認される特有の偶発的変動に対しても、“fantastic coincidence”(突拍子も無い偶然)という言葉を当てはめて語っている。(pp. 55-6)これらの例におけるこの語の使用は、システム理論的位相においてファンタシーという現象を語ろうとするハンセンの論考において、従来の規範を覆すような新規のシステム構造の顕現を示す際の、一つの定式を形成しているものと見なし得るだろう。だからソルヴェイ会議の際にアインシュタインの固持した古典力学的主張に対して、その反論としてボーア達が唱えた事象記述モデルが、やはり“ファンタシー・モデル”と呼ばれることとなっているのである。

At the Solvay Conference, Bohr and his associates proposed a conception of things that ran counter to Einstein’s. They described some aspects of the physical world in a fantasy-model that incorporated indeterminacy and probability.

p. 55

ソルヴェイ会議の席で、ボーアと彼の協賛者達は、アインシュタインが提示したものに真っ向から反対する概念を提示した。彼らは不確定性と蓋然性を組み込んだファンタシー・モデルの中に、物理的実在世界のいくつかの様相を語ってみせたのである。

ハンセンがここで開放系構造を採用した量子論理に“ファンタシー・モデル”という呼称を当てはめてその構造特質を語っているのは、ストレールのアクチュアリズムに関する論議と結びつく、現実―ファンタシー間の微妙に潜伏した連続性あるいは相互依属性についての興味深い示唆が、量子論理の“不確定性”と“蓋然性”という概念の中に潜んでいることを明確に意識しているからであろう。その意味においては、アクチュアリズムはファンタシーの集合に含まれる部分集合であると呼び得ることにもなるだろう。
 このようにハンセンは、従来の古典力学の規範から大きく逸脱した量子論理の構造性の変化を、“閉鎖系”から“開放系”への移行として捉えているのである。ボーアの提示した“相補性”という概念が“開放系”という特質を担うとされる理由が、電子の存在に確認されるように量子存在が粒子としての様相と波動としての様相の、相矛盾する双方を重ね合わせの原理として保持する、曖昧な構造性を秘めていることにあるのは疑いのない事実であろう。

Bohr’s notion of complementarity also requires an open-ended model. In addressing the question “Are electrons particles or waves?” Bohr discovered that they are either, depending on what we are looking for. An electron is both an orbiting bit of matter and a smear that appears to be all places at once. That is, we can measure electrons either as discontinuous quanta or, if we like, as continuous wavefields.

p. 56

ボーアの提示した相補性という概念は開放系システムの存在を必要とするものでもある。「電子は粒子であるのか、あるいは波動であるのか?」という疑問を提起するにおいて、ボーアは我々がいずれを観測しようとしているかに従って、電子はそのいずれでもあり得ることを発見したのである。電子は軌道を描いて運動する質量点でもあれば、同時にあらゆる場所に発現するかのように見える痕跡でもある。つまり、我々は電子を不連続的な量子としても、連続的な磁場としても恣意的に記述し得るのである。

ここに明らかなように、“相補性”という論理システムにおいて一意性の拘束を棄却する、多義性の存在論の原理をその裏面に示唆する概念が、ハンセンの指摘するシステム構造分析における“開放系”の検出の指標となっているのである。しかしながら、古典力学の特質であった閉鎖系のシステム構造に対して、ただ開放系の構造を持つことによってのみ、量子力学の構造的特質の全てが捉えられている訳ではないことが、以下の論の展開から分かるのである。ハンセンは量子論理のさらなる発展を示すものとして、ループ・モデル(循環系構造)の存在を指摘し、この構造体に対しても“ファンタシー・モデル”という呼称を同様に採用して紹介しているのである。ここにおいて“ファンタシー”という述語の定義不能性を示す、不定性の特質が意図的に活用されて、3つの異なる構造モデルと量子力学の相関が語られていることが改めて確認されるのである。ハンセンの論議においてむしろ興味深いのは、このようにして副次的に得られた“ファンタシー”という述語の内包性に関する、観念性理解の拡張の可能性の示唆なのである。

In the 1950s and ‘60s, while physicists continued to theorize in open-ended terms about gravitons that may or may not exist, about black holes that cannot be seen, and about foamy space that has no geometry, a new fantasy-model gained popularity among mathematicians and computer scientists. I am referring to the loop, a fantasy-structure that has made possible amazing developments in computer technology and artificial intelligence systems.

p. 56

1950年代から60年代にかけて、物理学者達が存在するかもしれないし存在しないかもしれない重力子や決して目に見えることのないブラック・ホールや、いかなる幾何図形的配置も持たない泡宇宙等についての理論化を、開放系構造を用いて行い続けていた時、新規のファンタシー・モデルが、数学者とコンピュータ科学者達の間で受け入れられるようになった。それはファンタシー構造である循環系モデルで、この理論はコンピュータ応用技術と人工知性研究において、驚くべき発展を可能とすることとなったのである。

こうしてハンセンは、バッハの音楽、ゼノンのパラドクス、エッシャーの絵画等におけるループ構造の発現の例を挙げ、さらにルイス・キャロルの寓話、ジョン・バース、ホルヘ・ルイス・ボルへス、アンソニー・バージェス、サミュエル・ベケット、ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』等の文学作品の中に現れたループ構造の指摘を行うことにより、最新の発見であるループ構造理論の興味深い特質を述べることとなっている。(pp. 56-7)  当然のことながら、論理構造体の示す特有の形態に注目してシステム理論を適用することによりファンタシー論を展開しようと目論むハンセンの議論は、“自己言及”という命題の特性に対して卓越した分析を行い、系の有する自己の正当性の論証不能性という制約について論証することに成功した、ゲーデルの定理へと集約して及ぼされることになるのである。系を指示する論理構造体と、そこに指示される対象としてある論理構造体それ自体が、紛れも無くその論議の意味性の中に見事な論理の一つのループを隠し持っているからである。ファンタシー論集の一つとして書かれたハンセンのこの小論は、ダグラス・ホフスタッターの刺激的な著書、『ゲーデル、エッシャー、バッハ』に対する参照で締めくくられている。

But it was Kurt Godel, the mathematician, who gave special scientific endorsement to the loop model in his 1931 attack on Russel and Whitehead’s Principia Mathematica. Godel demonstrated, in effect, that our logical systems, including mathematics, are loops whose power derives ultimately from some larger, external construction that contains the looped system. Godel’s proof opened the door to a new appreciation of set theory, to new ways of conceptualizing systems of logic and games, and to a new understanding of intelligence. Rather than attempt here to indicate the manifold and complex ways in which the loop model has revitalized mathematics and computer science, I direct you to a thorough and stimulating discussion of mathematical loops and their nonscientific isomorphs: Douglas R. Hofstadter’s brilliant book, Godel, Escher, Bach: An Eternal Golden Braid.

p. 57

しかし循環系システム(ループ・モデル)に取り分け大きな科学的裏付けを与えたのは、ラッセルとホワイトヘッドの『プリンキピア・マテマティカ』への批判を1931年に行った、数学者クルト・ゲーデルであった。ゲーデルは、事実上我々の論理システムは、数学も含めて、その機能が究極的にループ・システムを含む、より大きな外部構造に依存する、ループであることを主張したのである。ゲーデルの証明は、集合論に対する新規の理解の扉を開くこととなった。そして論理とゲームを改めてシステムとして概念化する手段を示し、知識の再理解へと導いたのである。ループ・モデルが数学とコンピュータ・サイエンスを再活性化させた様々の複雑な事例についてここで語るかわりに、数学的ループとその科学外同形体に関する包括的で刺激的な論議を紹介しておくことにしよう。それはダグラス・R・ホフスタッターの異彩を放つ著書、『ゲーデル、エッシャー、バッハ―永遠の黄金の組み紐』である。

ハンセンがここに選んだ結びの言葉の中で、ホフスタッターがループ構造の類例として見事に語ってみせた種々の文化的作物を呼ぶ言葉として、“同形体”(isomorph)という語が用いられていることが興味深い事実となる。システムとしての構造の形に着目して語る論議において、その構造の同形性に注目して形態あるいは実質の同一性を判別する際の、基準あるいは根拠の所在を如何に定めるかが改めて問題となると思われるからだ。外部のより巨大な系からの投影あるいは系内部の上位階層に属する部分の、位格的同等性を保持する他の系との変換記述という要素を含めた際に、“同形性”と“同一性”の差異をいかに認め得るか、という同定作業上のやっかいな問題が生起することとなる。仮に貫世界的同一性が確証された存在あるいは概念があったとすれば、これらに対して等価原理に基づく実質と属性の相互変換を企てた場合と同等の操作手順に従い、超越的個別性内部における貫世界的発現可能条件という反転的な普遍的属性あるいは対応物を記述する試みも成立しそうだと思われるからである。こうして時間的連続性によって同一性を判別することのできていた“それ性”(haecceity)、あるいは概念の対応物を成り立たせていると思われる“そのもの性”(quiddity)等の言葉を用いてかつて語られてきたものの多世界解釈における貫世界的実相に対して、さらなる理解を深める必要が認められることになるだろう。殊に対象領域を現実・仮構の連続体空間に拡張した際に現実と仮構間、さらに仮構と他の仮構間の相似的なイソモルフ(同形体)の同定条件が如何に変質し得るかについては、未だ確かな論拠が得られていないと思われるのである。たまたま現実の中で創出された作品としての仮構世界は限定的に切り取られたもので、描かれた世界内事実の延長範囲は実はあまりにも狭小であり、記述の空白部分が殊の外大きいものであることが既に指摘されている。しかし可能態としてある断絶の無い総体としての本来の仮構世界の全体像は、むしろ現実を規定する諸条件の制約から自由であることから、その集合として占める領域はむしろ広大なものであり、その一部を参照した現実世界そのものをその内部に含む、現実世界に比して遥かに巨大な外部の系をなす集合であることが予測されるだろう。このように仮構世界と現実世界の相互の包含関係自体が、常時反転的な不定性のゆらぎの構造に似た特質を示しているのである。仮構世界の記述行為あるいは仮構世界に対する言及行為は、メタフィクション的な明示的自己言及の場合に留まらず、むしろその言及行為そのものの中に自分自身の存在原理に離反してその存在の否定をも暗示する、自己生成と自己消却の両極を振幅するループ構造を凝縮した見事に完結的な二律背反的特質を含んでいるのであった。このようにして自己言及やメタ構造性に焦点を当てることによって検出されたループ(循環)という論理、現象、様態その他様々の姿で発現する特有の構造性は、あるがままの現実と仮構そのものに対しても適用可能なことが理解されるに至るのである。かくして同形性と同一性を再検証することにより、アクチュアリズムとアンチ・ファンタシーの裏面に隠されていた重大な仮構的パラドクスの検出が成立するに至るのである。



(1)
 本国アメリカにおいて決して十分な理解を与えられることのなかった、才気溢れた詩人であるばかりでなく卓越した科学思想家でもあったエドガー・アラン・ポーの著作と人生の哲学的・芸術家的神髄を、腐敗した旧世界の先進国フランスから正しく称揚した異国の批評家・詩人ボードレールが採用していた、ポーとその周囲の文化的環境の位相に対する1世紀以上前の評価のスタンスをここで踏襲しておくことは、ビーグルという希有な資質に満ちた芸術家自身の本質に対する現在の一般的評価と、さらに彼の代表作『最後のユニコーン』における最も謎に満ちた存在であったレッド・ブルの担っている主題的位相を再評価するにあたって、やはり欠かすことのできない前提条件であると考えられるのである。いささか独断的と思われるかもしれないこの国の文化的成熟度に対するこの総括に対する弁護としては、アーシュラ・ル・グインの“Why Americans Are Afraid of Dragons”(『夜の言葉』、The Language of the Night: Essays on Fantasy and Science Fiction, 1992に収録されている。)におけるアメリカにおけるファンタシー受容を頑に拒む意識状況を語る論評を、その拠り所の一つとして挙げることができるだろう。この小論の中でル・グィンは、アメリカ人一般のファンタシー受容に抵抗する頑迷な反発的態度を指して、“Americans are anti-fantasy.”というフレーズを用いて語っている。ここで用いられた“antifantasy”という語は、“ファンタシー嫌い”程の意味で使用されていた訳であるが、この時点ではファンタシー自身の裡に潜む内在的な“反ファンタシー”の要素としての二極的対立の図式は、この語の内包としては考えられていなかったのであった。

(2)
 この典型的な例が、いかに微小な作用であっても総体的な因果関係の複雑な連鎖の中では大変動を引き起こす引き金として機能し、重大なカタストロフィをもたらし得るという、“バタフライ効果”という言葉で知られている事実である。

(3)
 ラテン語の「もの」に相当するこの語によって、認識や知覚の対象となり、現象を生起させる核となる根源的な存在としての確固たる概念が想定されてきたのであったが、この仮説的な概念を基底に置くことのない、知覚や認識という“作用”や現象の生成という“出来事”の存立可能性自身に対する全く異なった角度からの現象理解が提示されるに至った時、この語は一つの不完全な仮説としてその存在論における根幹的意義性を後退させられることとなった。

(4)  数学における“マトリクス”は、加法や乗法などの算術を行うことができる縦横の数列からなる表によって記された数量であるが、語源的には“基盤”、“母性”等の意味があり、ハイゼンベルグの関心にあった宇宙の原初的構成単位としての概念に様々な角度から相応している。

(5)
 “プレローマ”という語は、元来はグノーシス思想において考えられていた、現世とは異なる天上界を指す神話的概念であったが、ユングによって全ての存在性の根幹としてある原存在物としての意味合いを持つ述語として新たに用いられることとなった。ニュートン力学によって完成された意味の体系が崩壊した時、様々な歴史的に先行する概念と述語が新解釈の許に再選択されねばならなかったということを示す、説得力のある実例の一つであろう。ファンタシーの誕生と、衰退の後の復権の要因となったものを理解するための鍵となる発想がここにある。

(6)
 これがいわゆる“物理学”(physics)の前提とするところであったが、ニュートン力学を規定する諸概念に対して拮抗して作用する相補的概念を新たに設け、例えば“materia”に対しては“spiritua”を、“atom”に対しては“monad”を、“gravity”に対しては“repulsion”等を構想して拡張された統括系の構築を図るのが、“形而上学”(metaphysics)の企図したところであったと言えよう。

(7)  Fiction in the Quantum Universe, p. 8

(8)
 西洋における“自然”(Nature)は、合理的な運行規則に則って常に予測可能な結果をもたらす、世界の機械的な規則性を内包する概念であったが、これに反して東洋の文化的辺境国日本における全てを包含する全体性としての“自然”とは、むしろ人知を超えた神秘に満ちた予測不能な、すなわち“超自然”(supernatural)に相当するものであったことが興味深い。日本の伝統文化においては科学的世界観に則って展開された模擬実験的仮構、すなわち“小説”(novel)は実際には存在しなかったし、その対立物である“ファンタシー”も結局はあり得なかったと仮定することのできる一つの根拠がここにある。

(9)
 CF. Tzvetan Todorov, The Fantastic: A Structural Approach to a Literary Genre, trans. Richard Howard (Cleveland; Case Western Reserve University Press, 1973)
 トドロフは、“ファンタシー”に通底する基本概念として、“the fantastic”という語で規定された “that hesitation experienced by a person who knows only the laws of nature, confronting an apparently supernatural event”という定義を採用したのであった。これに対する“the marvelous”という語で規定された“in which characters are confronted with unquestionably supernatural happenings”という定義に基づく仮構世界は、トドロフの関心の中核には無かったのであった。本プロジェクトにおいて採用された“アンチ・ファンタシー”という指標は、これら双方の概念を含む統一場の構築を模索するものである。

(10)
 20世紀以降に急速に発展した現代の集合論と論理学がこれに該当するものであるが、例えば古代ギリシアの思想家のパルメニデスが語ってみせたような、さりげない常識論の提示の裡に隠蔽された自己矛盾という言説の保持する論理的内包性をも考慮に含めるならば、その起源は遠く歴史を遡るのみならず、適合する事例も公汎に範囲を拡張して認知されることとなるだろう。さらにまた、ファンタシーにおいてばかりでなくファンタシーを語る言説においてもまた同様に、この自己矛盾の要素が効果的に導入されていなければならないこととなる。ファンタシーの定義を“基本原則の180°の転換”とするところからこの現象に対する論考を出発しておきながら、その帰着点においては“総てがファンタシーである。”としてみせたエリック・ラブキンの主張が、そのような意味でこそ正しく評価されねばならないのである。
 Cf. Eric S.Rabkin, The Fantastic in Literature, (1976).

(11)
 ハイゼンベルグは『現代物理学の思想』(Physics and Philosophy)において、量子論理の知見の導入した新規の概念とこれに対応する日常言語の関連について、丸ごと一つの章を割いて考察を行っている。(CF. 第十章:「近代物理学における言語とリアリティ」)ここで一般言語自身が新種の概念に対応する自律的な系としての修復・拡張機能を有していることが論じられていることは、殊に注目すべき事実である。ハイゼンベルグの提示した一つの印象的な具体例が、“シュレーディンガーの猫”の場合に示されるような量子の持つ重ね合わせ的属性の論理学的処理に関して、「ある」と「無い」の関連を記述するための新たな真偽値の策定として、ヴァイツゼッカーの導入した「真の程度」という概念であった。(pp. 188-9)

この事情に対処するためにヴァイツゼッカーは「真の程度」という概念を導入した。たとえば「原子は箱の左(または右)半分にある」というような二つのうちどちらかという命題に対して、その「真の程度」の測度として一つの複素数を定義する。もしこの数が1ならば命題は真であることを意味し、この数が0ならば、命題は偽であることを意味する。しかしもっと別の値も可能である。複素数の絶対値の半分はその命題が真であることの確率を与える。二つのうちどちらか(この場合、左半分か右半分かというような)という二つの部分についての確率の和は1でなければならない。しかしそのどちらかという二つの部分に関するおのおのの一対の複素数は、ヴァイツゼッカーの定義によると、もし数がちょうどそれらの複素数の値になっていれば、命題が確かに真であるような、そういう命題を表している。たとえば、この二つの数は我々の実験における散乱光の強さの分布を決定するに十分である。もし「命題」という語をこのように使うことにすれば、「相補性」という語をつぎの定義で導入することができる。二つのうちどちらかという命題―この場合には「原子は箱の左半分にある」または「原子は箱の右半分にある」という命題―のどちらとも一致しない命題はすべて、これらの命題に相補的であるといわれる。どの相補的命題に対しても、原子が左にあるか、右にあるか、という問はきめられない。しかし、「きめられない」という言葉は「わからない」という言葉とは決して同じではない。「わからない」という意味は、原子は「実際」に左か右にあるが、ただ我々はそれがどちらであるかを知らないということである。しかし「きまらない」ということは、それとは別の状況を示すもので、相補的な命題によってのみ表現することができる。

(12)
 Cf. 『アンチ・ファンタシーというファンタシー』。子供達個々の心の中の存在としてピーターという人格性を備えた個体としての意識体があり、そしてまた彼らをその裡に包含するネヴァランドという世界もが展開しているという捻転的包含関係を備えた機構や、大人と子供/快活と憂鬱等の抽象的な対立概念の具象的存在物としての分離という形で具現した、ペルソナ的位相におけるピーターとフックの間の心霊的関係性などがこれである。

(13)
 Cf. 『アンチ・ファンタシーというファンタシー』。ダーリング夫人の口許に浮かぶ“キス”とピーターとウェンディの意識の交わりの空間に現出した“キス”、そしてまたピーターとキャプテン・フックを結びつける“謎”(riddleとenigma)という概念、あるいは反転的に彼らの捩れた関係性を規定する“憂鬱”と“ハートレスネス”(無慈悲)という概念、さらにピーターの“生意気さ”という外見的特徴とキャプテン・フックの“内省”という心的作用の対応関係等がこれである。

(14)
 この既存の原理感覚喪失の与えた衝撃を通して得られた、新規の世界観として量子論的現実認識のあり方を語る証言の一つの典型的な例として、ニック・ハーバート(Nick Herbert)の『量子と実在―不確定性原理からベルの定理へ』がある。ハーバートは本書において“シンセサイザー定理”という述語を採用して、実在を記述するあらゆる概念要素がその波動としての本来の特性に従って、任意の他の概念要素と変換可能なものであることを指摘している。
 Cf. ニック・ハーバート、はやしはじめ訳、『量子と実在』、白揚社(1990)。

(15)
 当然ながら“排中律の否定”という原則のもとに新規に採用された暫定公理は、ガウスによる虚数の発明や、ロバチェフスキーとリーマン等による非ユークリッド幾何学の構築の場合と同等の、パラドクスを軸とした独特の生成機構による公理系を示唆するものとして、拡張された裏の系の存立可能性を示唆するものとなる。物理学者スティーブン・ホーキングが“虚数時間”をビッグ・バン以前の状態にあった宇宙を記述する時間軸として選び、時空概念のさらなる拡張を図った例が思い起こされることだろう。

(16)
 Bridges to Fantasy, (1982). Edited by George E. Slusser, Eric S. Rabkin and Robert Scholes.

(17) “The Meeting of Parallel Lines: Science, Fiction, and Science Fiction” in Bridges to Fantasy, (1982).

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