8)“私”と“世界”と仮構/魔法─ペルソナと時空の等価原理


 通例“ファンタシー”という言葉で呼ばれている文学ジャンルの勃興が、歴史的位相においては、世界認識のあり方におけるニュートン力学的一元化モデルに対する思想的反発を契機に生成した、いわゆる“反啓蒙主義”(anti-enlightenment tradition)の影響下に19世紀から20世紀初頭にかけて展開した、近代ヨーロッパに特有の思想的風潮を反映した文化現象の具現化の一つであったことに間違いはないだろう。だから文化的位相においては、西洋文明が近代において経験した科学思想的世界観の劇的な変転を直截に反映した、心理的一局相として同定し得るものでもある。しかし、その内奥にある潜在的可能性としての内在的本性においては、むしろ時代感覚を越えた人類の文化現象における普遍的な思考と、さらに宇宙内部にある本源的な意味性自体のシステム理論的構造にこそむしろ大きく関わっているものと考えられるのである。それはこの独特の仮構世界記述様式が、微視的な人間的知覚と巨視的な永遠的真実と仮定されるものの間に現出する特有の偏差を浮き彫りにすることにより、宇宙の俯瞰的な展望から得られる世界像の固有の一側面を強く示唆しているものであると判断されるからだ。
 様々な様相を取って顕現したその偏差の構造的捩れ(1)の具体的な類例と思われるものを、現代に至って我々が経験した特徴的な出来事の中から求めてみることにするならば、光子対の偏光状態の検出実験という事例から導出されることとなった“ベルの定理”を挙げることができるだろう。事象の観測行為が及ぼす物理状態の確定とその局所的因果関係の範囲を超えた作用伝達は、経験則から得られた従来の“科学”の示唆する法則性を逸脱する、新規の実在記述機構の存在を示唆するものなのであった。そしてこの発見が提示するに至った実在宇宙の保持する根源的な原理機構と思われるものの意外な姿は、全体性の構造性に由来する事象の生成と様態発現における作用の“非局所性”を主張する一方、そこから結果的に導き出される時・空・精神統一理論構築のための有力な仮説の一つとして、「カオス的な混雑した“情報の海”としてたゆたう場としての原存在の基盤から、意識が能動的に焦点を与えることによって引き出される結果として生起する“存在”あるいは“現象”」という事象発現メカニズムに基づく、新たな宇宙レベルでの世界に対する総括的意味性賦与の可能性を示唆するものでもあったのである。つまり、意識の主体による観測/知覚/記述等の行為が、生成/創出/理解等の主体的関与を行うことによって始めて、存在/現象/属性等の従来客観的事象性とされてきたものを現出せしめるという一般公式を導入することにより、あらゆる概念要素を相補的な行列的重ね合わせとして再変換し、相異なる範疇に属する概念の全てを仮定された任意の基礎概念の相互作用的表象として理解/記述することさえもが可能とされることとなったのである。これに従って、オスカー・ワイルドが行った“芸術論”としての位相における「自然が芸術を模倣する」というあまりにも有名な言明が、実はこの観測効果の原理に対する心霊面的様相としての表現形であったものとして看做すことにより、世界の保持する意味性に対するより発展的な宇宙論的考究を推進していくことも可能になるのである。当然のことながらそこには、新たな統合的世界解釈を進めることを容易にするさらなる場の概念の拡張の模索の必要性が示唆されねばならないこととなる。だからこそ、例えばルソー以来のロマン主義の延長線上にあると思われるこの仮説の主張に従うことにより、しばしばファンタシー世界の欠かすことのできない構成要素となっている神霊や魔術等の及ぼす効果とされるいわゆる超常現象や、あるいは個別の意識体のうちに潜む予知や精神感応等のパラサイコロジーという言葉で理解されている諸現象も、意味構築を行う概念の基礎単位として機能する仮想粒子(ドーキンスの“meme”=模倣子に倣うならば、“seme”=意味素子とでも呼ぶことができよう)がゆらぎのなかで生成消滅を繰り返す相互作用という形で異次元の情報の海から引き出されてくる次元的捩れの位相の各々として、光や重力や時間の場合と同様に物理学的あるいは形而上学的に理解することが可能ともされることとなるのだ。かつて古代ギリシアで、意味の複合体として存在するコスモスとしての世界を構築する基幹的意味単位である各々の抽象概念が、それぞれ神格としての別の位相を保持していなければならなかったように、自然(Nature)の背後には全体性の意味の階梯と関係性を保障する超自然的(supernatural)作用因がシステム理論的に必要とされることになるのである。そして存在の基底にあるとされる原理的意味性の確証という、ここに得られた存在論/認識論的解釈を我々のアンチ・ファンタシーに関する論考に適用するならば、意味の複合連鎖として最大限の信仰を反映した懐疑を描いた『ピーターとウェンディ』(Peter and Wendy, 1911)という仮構の発現に対して、『最後のユニコーン』(The Last Unicorn, 1968 )では最大限の懐疑を反映した一つの信仰の形が描かれている仮構が現出しているという潜在的意味の反転的連鎖が成立しており、これら双方が極めて緊密な相補的同位体の相を成しているという仮構世界の中のシステム構造性を反映した、ある種のペルソナ(2)の反転相もが具現されているという、新たな属性同定上の函数的意味単位の存在もまた浮上してくることと思われる。例えばツヴェタン・トドロフの与えたファンタシー(the fantastic)の定義である“科学的世界観を保持する意識の主体がその理解の範囲を超えた現象を眼前にした際に覚える精神の揺らぎ”を反映する仮構が『ピーターとウェンディ』においてアイロニカルな反転現象を生起せしめているとするならば、トドロフが対照的な定義を与えながらも敢えて掘り下げた論議の対象とすることの無かったとされる“マーベラス”(the marvelous)においてアイロニカルな反転現象が生起したことを確証するための事例に適合する模範的実例として、『最後のユニコーン』の保持する位相を割り出すことも出来そうだからである。そこでは現象として存在する意味の複合体である現実と、現象としては存在していない意味の複合体である仮構と、さらに現象として決して存在し得ない特殊な意味の複合単位であるまた別種の不可能世界たる仮構のそれぞれが、相補的な関係性を示して相互作用を行いつつある可能態の意味連関の場が、4次元時空の場をさらに拡張して新たに想定されることとなるのだ。
 そのような思考界面においては、量子力学と共に20世紀初頭に鮮烈に展開した新規の集合論と、跳躍的に拡張した新傾向の論理学の磁場の及ぼしたシステム理論的発想が、その直接の影響のもとに『ピーターとウェンディ』や『最後のユニコーン』のような脱伝統論理的に極めて高度な観念操作を反映した形而上的仮構を産み出したと理解されなければならない理由は全く認められない。むしろ、意味の破壊作用をもたらすパラドクスも、仮構と現実と自然と超自然の従来の定義を根本的に覆す新理念として登場したアクチュアリズ厶も、そしてファンタシーとリアリズムの双方を解体して包括する秘められた潜在力を示唆するアンチ・ファンタシーという指標自体も、それぞれが“仮構”という多義的な基質の反映する豊かな内実の表層に浮上した、共軛的位相の各々に過ぎないものであったことを過たずに理解しておきさえすればよいことになるのである。こうして“仮構”が本来有していた筈の多義的な反射的指示機能と、“現実”という名で従来理解されてきた本源的には限界ある存在論的仮説に対する関係性において、“アクチュアリティ”という発想との間に構築することが可能な微妙な相関性あるいは対称性の一部を、改めて効果的に記述する視点が実際に提示されることとなった。つまり、「現実的な存在ではない、想像によって捏造された疑似存在」という一般的定義の許に受容あるいは認識されているこれまで“仮構”という言葉で呼ばれてきた、論理的にははなはだ意味措定の困難な曖昧な概念に対応すべき相関対象を、別次元の観念空間上に見事に投影することに大きく寄与したのが、20世紀初頭以降急速に発展したパラドクスの論理学やアクチュアリズ厶の文学ジャンル等々にその成果が代表される、これらの相対性理論と量子力学的発想に裏打ちされた柔軟でしかも堅固な意義性を備えたシステム理論だったのである。
 このように、一方で実在論の角度から掘り下げられた量子理論と両輪の関係をなすものとして、もう一方では現象論の角度から掘り下げられた目覚ましい論理学の革新とシステム理論の拡充があったお蔭で、仮構の保持するいわばプレローマ的特質を再検証する体勢が改めて整ってきたのである。しかしその現実・仮構連続体の探索を企図する傾向の端緒もまた、実際には歴史を遠く遡るものであった筈であるし、相対性理論誕生の直前の19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパの文化状況を射程に入れるならば、神智学(theosophy)の模索した霊性理論や数理論理学者ルイス・キャロルの奇想的著作等にも、その痕跡あるいは予兆が既に明らかに見て取ることができるものなのだ。妖精や精霊などの概念が宇宙論と心理学に深く関わる仮構空間における相対物として、これらの形而上的思念の直接の産物であったことは既によく知られている事実である。例えばキャロルの『シルヴィーとブルーノ』(Sylvie and Bruno, 1889)において描かれた、個人の意識構造内部という精神の界面において発現する妖精界と人間界という二つの物理空間次元の重ねあわせを記述することを目論む発想は、数理論理学者らしい著者キャロルの思考の純粋に思弁的な特性を反映しているのみならず、ファンタシー文学を生み出す思想的土壌となったロマン主義思想の根幹にある、形而下的(ニュートン力学的)偏心性に激烈に反撥する先鋭な形而上学指向的傾向を如実に示すものなのでもあった。明らかに量子理論とアクチュアリズムの誕生以前に、知性体の想念の及ぼす現象世界への霊的影響と意識の保持する特有の具現化作用は、宇宙解式の包括的システム理論としての意義性を明確に自覚して思考過程の中に導入されていた。そして一切の現象世界的逡巡を放棄してこのような極限的抽象思考に全てを委ねるならば、古典力学の完成以降にこれまでに理性と科学によって確証されてきたような観測と知覚によってのみならず、思念や情念を通じて非局所的に全体性の相互作用を行っている、さらなる未知の意味界面の存在が、むしろ“仮構”という包括的意味性の場の中にこそ新たに開拓されねばならないことになるのである。さらにまた、精神作用の範疇を越えた別種の観念空間においても同等の意味構築の可能性が示唆されることが認められることにより、妄想と奇想の産物である明らかな矛盾を含んだ荒唐無稽な仮構の占める一つの可能的実在世界としての意義性さえもが、その原理的不能性という特質においてこそ改めて評価されねばならなくもなるに違いない。(3)
 『最後のユニコーン』の終局近くの場面で、遂に宇宙の極限の真実を見極める力を有する本物の魔法使いとなったシュメンドリックが語る以下の科白は、このような意味で彼が遂に存在と意識と非存在と仮構の間にある、貫事象平面的真実の超論理的関連を把握し得たことを示しているのである。ハガード王の後を継いで不毛の王国を統べる王となったリアに、再び永遠性の存在属性を回復したユニコーンの記憶と想念と思われるものについて語る言葉である。

As for you and your heart and the things you said and didn’t say, she will remember them all when men are fairy tales in books written by rabbits.

p. 207

陛下と陛下の心と陛下のおっしゃったこと、あるいはおっしゃらなかったことについては、ユニコーンはそのすべてを決して忘れることはありますまい。人間達の世界が兎達によって書かれたお伽話となった時でさえも。

ここで語られているような永遠性の存在の思念によって把握された真実の位相である具象性を超出した函数的関係性においては、事象として発現したことと事実たり得なかった潜在的可能性の差異が全く認められないこととなる。同様に例えば、現実─仮構─不可能態統合次元においては、“人格の同等性”あるいは“存在の個別性”さえもが、致死性の人間知性によって信じられていたものとは全く異なった図式において語られなければならないことになるのは言うまでも無い。これと同等の彼岸的思考による、意識の主体である“私”性の示し得る位相の記述の興味深い一つの例が、やはり思弁的な霊性の探求者であったジョージ・マクドナルドのファンタシー『ファンタステス』(Phantastes, 1858)において既に語られていたのであった。複数の仮構領域にまで通底して主張し得る貫世界的“私”性の存立可能性の提示が、以下のパッセージにおいて鮮烈になされているからである。全てが不可分である無意識の魂の領域であるフェアリーランドに赴いた主人公アノドスによって、知と意識と経験の統合体である“フェアリー・パレス”の図書館で発見された、霊性の位相発現の一側面の凝縮的投影である“フェアリー・ブック”に記されていた仮構のペルソナ的内実を語る一節である。

One story I will try to reproduce. But, alas! it is like trying to reconstruct a forest out of broken branches and withered leaves. In the fairy book, everything was just as it should be, though whether in words or something else, I cannot tell. It glowed and flashed the thoughts upon the soul, with such a power that the medium disappeared from the consciousness, and it was occupied only with the things themselves. My representation of it must resemble a translation from a rich and powerful language, capable of embodying the thoughts of a splendidly developed people, into the meagre and half-articulate speech of a savage tribe. Of course, while I read it, I was Cosmo, and his history was mine. Yet, all the time, I seemed to have a kind of double consciousness, and the story a double meaning. Sometimes it seemed only to represent a simple story of ordinary life, perhaps almost of universal life; wherein two souls, loving each other and longing to come nearer, do, after all, but behold each other as in a glass darkly. (4)

お話の一つをここに再現してみることにしよう。けれども、残念ながら、それを行うことは、折り取られた枝と枯れ葉をもとにして、森全体を復元しようと試みるようなものだという気がする。フェアリー・ブックの中では、それがどのようにしてかは言葉を用いても他の手段を用いてもうまく語ることはできないが、すべてがあるべき姿で描きだされていた。その話は、どのようにしてなされたかを意識することができない程に、そして描かれたもの以外のことを考えることができない程に力強く、魂の上に想いを閃かせたのである。ここで私が語るその話の内容は、豊かで力強い素晴らしい知性を備えた人々の思考を実体化させることのできる言語から、未開の人々のたどたどしい粗末な言語に翻訳を行ったようなものに近い。勿論私がこの話を読み進めている時は、私は主人公のコスモであり、彼の経験は私のものであった。けれども読みつつあるその間、私の意識は二重のものとなり、その話は二重の意味を備えているように思えたのであった。時にはこの話はありふれた生活のありふれた出来事を語っているように思えた。そこでは二つの魂が互いに愛の思いを抱き、寄り添いたいと願いながら、結局はほの暗い鏡の中でお互いの姿を見つめているだけなのだった。

 時空座標の一点として規定される指示対象としての一意的な個別性を越えた、普遍性の相における至高の次元の極限概念に基づいた意識の主体もしくは属性の基体としての“私性”たるものが、量子理論的多世界解釈における貫世界的同一性のみならず、むしろ現実と複数の仮構世界をこそ通貫して精神作用の中に存在し得る、ある種の奇跡的可能性としてここに語られようとしていることが分かる。そして時間の同時性や空間座標の一意性が制約的な意味を持たなくなった時には、“私”という概念が日常的に含意していた“単一性”の意味合いが大きな修正を受けることとなり、未だ見知らぬ“私”の深層と裏面が世界の枠を超えて様々に網羅的に発見されていかねばならないこととなるのである。(5)“類比思考”(アナロギア)と呼ばれて来た伝統的宇宙観を評価するにせよあるいは批判するにせよ、その実質を正しく理解するにあたって見逃すことのできない世界観の根幹をなす要素がそこにある。
 この理念に従えば、人格性あるいは霊性すなわち意識体の示す様相である“ペルソナ”は、個体としての座標上の個別性においてのみ一個人あるいは神格として規定されるものでは決してなく、経験や記憶や存在物としての形成・現出という因果関係性の諸制約をも超えた条件下で、その特殊な本質的同一性を語ることが許されるべき崇高な概念ともなり得るのである。つまり複数の異なった座標あるいは仮想的な存在空間である“象限”に分散して一つの事象の姿が多面的に投影して記述されることが可能であるように、あるいは無数の行列のセルの束として事物の属性あるいは存在性自身が展開的に分散して表記され得るように、“私”やその反転的記述である私を取り巻く“他”あるいは“皆”等の概念も、他の諸要素と緊密に結ばれた筈の事象的因果関係性をも離れて、線的な連続性を持つ必要さえもない波動的あるいは行列的な純観念的記号として記述することが可能となるのである。
 丁度、超ひも理論の完成において採用が模索された大統一理論である“Mセオリー”(6)の場合のように、異なる別種の様式に従って構築された独立理論だと思われていた、皮肉にも五つに分岐してしまった“統一理論”の構想の各々が、改めて11次元からなる立体空間を想定することにより、そのいずれもが一つの完成形である理論の保持する多面的な様相の局所的な投影的現れに過ぎないものであることが確証され、異質のものとされていた存在のより高次元における根幹的同一性が認められるに至った例と同様の、ペルソナ変換的な統一システム理論の存在がここに想定されることになる。(7)とするならば、全体性の宇宙像の探索を企図した際に未知の領域として新たに開拓されるべき科学的次元が、むしろ“仮構”と“私”の内部にこそ潜んでいるのである。そこでは未だ自覚せぬ“私”のさらに様々の秘匿された実相が、全体性との関連の中で改めて発見されねばならないこととなるだろうからである。だからこそ、『ファンタステス』の一節において“フェアリーランド”という仮想世界の中の“フェアリー・ブック”という言葉を用いて語られていた別種の仮構世界が、マクドナルドがドイツ・ロマン派に倣って追求した意識の中の異世界であるフェアリーランドと、これを知覚・発現・記述し得る能力・感覚である“フェアリー”という心霊的概念と、そして“フィクション”という言葉の意味の次元界面としての玄妙な特質を見事に語っていると共に、ピーター・S・ビーグルの傑作『最後のユニコーン』という一つのフィクションの意識内部に占める全体性の宇宙の霊妙な位格的内実をも、実は雄弁に語るものとなっているのである。
 これらの思念の全てを包含する潜在力を自覚した仮構の記述とは、ユングがパラケルススの錬金術に関する世界心理学的考察において展開してみせたような、全体性の機構を意識した魔術的世界修復機構を企図する精神の調整理念に従うならば、現象性への様相勾配を増加して一意性への縮退を加速度的に進行しつつある世界の意味性崩壊の過程に対して、そのエントロピー増大則にも似た慣性力の減速を企てようとする、意識内部/宇宙総体機構の保持する魔的な衝動が及ぼす霊的な自律調整機構としての、反射的な力学的作用因を無視することができなくなってくることだろう。あるいはまたエピクロスの唱えた“クリナメン”とある意味で等質の潜勢力とも理解することができるこの宇宙創世場そのものに内在的な誘発力は、ポーが形而上詩「ユリイカ」において示していたように、“引力”という物質面に作用する統合的な原理に対して相補的に機能する、“斥力”という精神面に及ぼされる拮抗作用の存在のシステム的意義性に対する反射的自覚として見做され得るものでもあるだろう。
 こうして相対性理論と量子力学の解式によって波動と粒子、あるいは質量とエネルギーが、相補的にその様相を顕現する共軛的な素因として、何らかの連続体に帰属する概念の一形態に過ぎないことが認められるに至ったように、宇宙の基体となるものが示し得る多義的な様相群のまたそれぞれの影と本体としての個々の様相と、これらを統合して記述する包括的な高次システム上の意義性概念が、フィクション世界をも包摂した場の理論の中に切実に開拓されねばならないこととなるのである。そこでは当然ながら“エネルギー”と“質量”の場合と同様に、 “意味”と“実体”という概念が対称的に相補的様相を保持する連続体である可能性が真摯に模索されねばならないこととなり、その結果が時には、アーヴィン・ラズロ(Ervin Laszlo)が“アカシック・フィールド”(akashic field)(8)という、“意味”からなる別次元を隠し持つ宇宙の統合連続体としての機構を前提とした仮説を通して提示したような形で導かれるのも、人間知性の裡に得られる宇宙像の論理的あるいは形而上学的帰結としてはむしろごく自然なことだろう。考え得る限りの全ての意味性次元を拡張した宇宙の全体像は、想念と現象、さらにまた仮構と現実というそれぞれの表現形を選択的に取り得る観念の統合連続体としてこそ、その存立可能性が真摯に模索されねばならないこととなるからである。
 本書において仮構と科学、魔法と現実のそれぞれを統括して理解すべくこれまでに論じてきたような存在論的仮説に実際に従って、見事にその生を全うした実存と芸術の実践者が、既に日本には存在していたのであった。本書におけるファンタシーと量子力学との相関に関する論考と最も深い関連を持った人物として、第一に挙げるべきだと思われるのは宮澤賢治の名前であろう。“詩と科学と宗教を一つのものにする”という霊的スローガンを掲げて“心象スケッチ”という生の芸術活動を実践した賢治の理論的拠り所が、アインシュタインの提示した相対性理論にあったことは既に良く知られた事実である。例えば賢治の代表作と言えるであろう、精神と霊的知覚の極限を模索した『銀河鉄道の夜』の舞台を提供する進行中の鉄道車両という印象的なシチュエーションが、等速直進運動を行いつつある慣性系における時間・空間の位相を再考察するためにアインシュタインの採用した思考実験の機構に触発されたものであることに間違いはないと思われる。そればかりでなく、相対性理論の提示した素粒子の存在論的解釈とその哲学的影響を巡って1920年代に切実な関心を持って論議されつつあった、量子理論の開拓した実在の波動論あるいは確率論的解釈法についても、賢治が“心象スケッチ”において敏感に同時代的反映を示していたことが分かっている。1924年9月17日の作である『春と修羅』第2集に所収の作品番号304、「半蔭地撰定」などに、その顕著な実例を見ることができる。量子論理における実在の存在論的解釈を巡る、ボーアやハイゼンベルグの論議の影響を直接反映していることが確実である例として該当すると思われる箇所を、下に引用してみよう。

半透明な緑の蜘蛛が
森いっぱいにミクロトームを装置して
虫のくるのを待ってゐる
にもかゝはらず虫はどんどん飛んでゐる
あのありふれた百が単位の羽虫の輩が
みんな小さな弧光燈(アークライト)といふやうに
さかさになったり斜めになったり
自由自在に一生けんめい飛んでゐる
それもああまで本気に飛べば
公算論のいかものなどは
もう誰にしろ持ち出せない
むしろ情に富むものは
一ぴきごとに伝記を書くといふかもしれん

(9)

 宮澤賢治という個人の存在の反転的写像である、彼を取り巻く風景に対する主観的描写の中に採用された“公算論”(probability)という語が、物質粒子あるいは一個の生命体すらも“確率関数”として記述することを主張する、古典力学における運動方程式に代替するものとして量子力学が提示した存在性記述理論を示唆するものである。アインシュタインの提示した相対性理論の主要な課題点である時空連続体としての世界認識と慣性系における作用伝達の新解釈についてばかりでなく、素粒子の振る舞いについての存在論的考察としてそこから必然的に展開した実在と記述の相関についての様々な議論を、賢治は量子論理生成期の同時代人として重大な関心を持って把握していたのだった。そしてこの従来の決定論的現象解釈に取って代わるべき新機軸の実在記述理論の誕生が、結局は賢治に対しては揺るぎない信仰の道と情熱的な科学の探求の道の双方を包含する統合的世界解釈として、生の哲学の実践の道への接点を提供することになったのである。それは、『春と修羅』の序詩として提示された以下の創作理念の宣言に、あまりにも直裁に語られるものとなっている。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)
これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです
これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
   (あるひは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史、あるひは地史といふものも
それのいろいろの論料(データ)といつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発堀したり
あるひは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません
すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

     大正十三年一月廿日   宮澤賢治

(10)

賢治がここで「わたくし」と名乗る自らを“存在”とは呼ばず“現象”と定義づけ、“透明な幽霊”すなわち心霊あるいはペルソナの“複合体”であると認識するのは、相対性理論の成し遂げた実在解釈の方法論の革変に見事に対応している。おそらく賢治にあっては、全体性の示す一様相を意味単子として構想するライプニッツのモナド論の発想は、相対性理論の示す宇宙観に対する独自の考察を通して受け入れられたものであろう。そしてアインシュタインの提示した時間と空間の連続体としての世界像に対しては、この序詩では“時空”という言葉ばかりでなく、さらに“第四次延長”という言葉をも用いてその骨子が反映されている。“因果の時空的制約”という言葉にあるように、事象と存在の記述とその意識の主体の認識において示される様々な様相の等価原理的な相異なった具現化という基本認識そのものが、相対性の原理の実存的反映としてこの序詩の全体に展開する基幹理念となっている訳だが、これらは仏教思想的関連から“六道”の発想を暗示させもする“人や銀河や修羅や海胆”といういかにも賢治らしい大胆な字句を用いて、また集約的に語られ直すことになっている。これらに代表される考え得る限りの種々様々の存在物達が“宇宙塵をたべ、または空気や塩水を呼吸しながら”各々の知覚や思考アルゴリズムに従って、“それぞれ新鮮な本体論”を考えることがあろうとも、おそらくはそのどれ一つとして“ほんとうの真実”ではあり得ない。しかし賢治には、“それらも畢竟こゝろのひとつの風物です/たゞたしかに記録されたこれらのけしきは/記録されたそのとほりのこのけしきで/それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで /ある程度まではみんなに共通いたします”という一つの得心がある。おそらく賢治の得た確信に当たるものを物理的事象解釈の例に置き換えるならば、宇宙の基幹概念として想定されるものが「真空」であっても、「エーテル」であっても、あるいは「場」と呼ばれるさらに別の概念であっても一向に構わないものであり、またそれが哲学的言辞に帰着せしめられるならば「実在」(entity)であっても「本体」(ontos)であってもやはり一向に構わない、これら総ての仮象を通じて感知される関係性そのものの主観的解釈という動的意義性に還元されるものとして、その究極の“真実”が捉えられているからだ。しかし賢治の創作理念において最も枢要な相対性理論と量子力学の存在解釈を反映した思想的核心が述べられていると思われる部分は、実は“すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから”という一節であろう。この言明に示唆される全と個の反転的合一を前提とするシステム理論的存在解釈こそが、近代西洋思想が結局は帰着してしまった、存在性における意味の喪失と生の根本原理の破綻を救済するための、重要な契機を提供するものだからである。
 ニュートンの古典力学体系を推進する王立協会組織として設立されたロイヤル・ソサエティに代表される近代的な科学思想と応用技術をいち早く発展させ、他国に先んじて産業革命を成功させてヨーロッパ随一の強国となったイギリスに、その一流の先進国としての思想と文化の本質を学ぶために明治政府によって留学生として派遣された夏目漱石は、20世紀初頭の俗物主義の王国イギリスにおける実際の思想的現状に、学ぶべき理想とはかけ離れた現代科学文明の病理と共に、古典力学とその示唆する哲学そのものの限界点をいち早く痛感することとなり、世界の将来の思想的展望に対する深い憂慮に捕われることになったのであった。科学思想と個人主義の抱え込んだ思想上の根幹的限界性は、後には“断絶”(deracination)という言葉で広く一般に理解されるようになったが、漱石はいち早く人間存在の基本的意義性の全体性の宇宙からの乖離をもたらす近代西洋思想の問題点を見極め、一人暗然とした思いにかられたのであった。黎明期の量子力学が突きつけた、あまりにも革新的な伝統理論体系に対する破壊的側面を、漱石は留学先のイギリスで身をもって体感していたのである。しかし漱石に現代文化の展望に対する思想的懐疑に導かれた深い懊悩を与えることとなった20世紀の新知識は、逆に少しばかり時代を下って賢治の心中においては、反転的に既存の宗教と思想の限界点を跳躍することを可能にするであろう、科学的/宗教的発心となり得たのである。その力強い希望に満ちた宣言を、『春と修羅』に収められた心象スケッチの作品の全編を通して確かに窺うことができるのである。そしてこれら全ての詩作理念の根底としてあるのが、先ほど見た“すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから”という宇宙論的/存在論的確信だったのである。
 しかしながらこの信念を確証すべく『春と修羅』において賢治の採用したこれらの科学的発想と新感覚の専門用語は、“心象スケッチ”としてまとめられた詩作品の各々の中では、孤独な精神世界を逍遥する作者自身の姿と、その心眼に映ったとりとめのない夢想を語る一つの道具立てとして用いられていることはあっても、これらの述語の示す科学上・思想上の本来の微妙な意義性が、ことさら個々の作品自体の内部機構において主題的に緊密に構築された関係性を与えられて、計算づくの結果語られている訳ではないように思える。飽くまでも“心象”の“スケッチ”としての断片的な独白の中で、これらの全体性の世界観を示唆する新機軸の科学用語は、賢治の駆使する一般の諸分野の専門用語に紛れて、単に恣意的に挿入されているばかりのようにも思えてしまうのである。だからこれらの専門知識の保持する科学的・哲学的発想と現代物理学と現代思想の微妙な関連についての基礎知識に対する十分な理解を持たない者にとっては、賢治の使用する“科学用語”は、時として機械論的な古典力学的科学観や、エジソンによって代表される科学的応用技術(テクノロジー)をのみ示唆するものであるかのように、浅薄な誤った理解をされてしまうこともあるだろう。これらの先進的な知識が暗示する筈の、自省的な創作行為を行いつつある重要なメッセージの発信者としてはあまりに不用意なものとも見なされかねない用語の選択が、素朴なほどに無計画になされてしまっているかのように見えてしまうのである。このように宮澤賢治という本来は極めて思想的な要素の色濃い詩人においては、読み手の側の新傾向の専門用語と思想的発想に対する理解の程度を推し量り、これらの一般には極めて難解であった筈の思想あるいは知識を作品世界に導入する上で、書き手として払うべき説明的顧慮を全く欠いたかのようにも思われる、言わば独善的な創作行為を行っていると判断されかねない危うい部分が確かにあるのである。多くの懐疑的な思考を行う人々に時として疑心を抱かせる、賢治という思想家/芸術家の裡にある一見したところ極めて不可解な矛盾点がここにある。
 しかしながらこれらの、全くの説明不足としか言い様のない程の素朴な語の選択と無軌道で放埒なほどの発話行為こそが、むしろ賢治の詩作上の特徴的な傾向であると同時に、彼の芸術哲学の基底をなす根本理念ともなっているのである。賢治の詩作行為における、読者の確実な理解を省みない徹頭徹尾独善的とも見なされかねないこの野放図な用語の使用を許した根拠としてあるものこそが、このかつて例を見ない独特の思索者/行動者の本質を語る重要な手がかりとなるべきものである筈なのである。実は『春と修羅』の中に散見されるアインシュタインの相対性理論とハイゼンベルグ、ボーアその他の展開した量子力学理論に関する言及の例にも増して、むしろ相対性理論の発想が賢治に与えた重大な確信の直截な影響を見ることができるのは、「グスコーブドリの伝記」の中の以下の一節である。物語の序盤で、主人公ブドリが彼の人生の師となる科学者クーボー博士の授業を始めて目にする際の場面である。

…向こふは大きな黒板になっていて、そこにたくさんの白い線が引いてあり、さっきのせいの高い眼がねをかけた人が、大きな櫓の形の模型をあちこち指しながら、さっきのままの高い聲で、みんなに説明して居りました。
 ブドリはそれを一目見ると、ああこれは先生の本に書いてあった歴史の歴史といふことの模型だなと思ひました。先生は笑ひながら、一つのとってを廻しました。模型はがちっと鳴って奇體な船のやうな形になりました。またがちっととってを廻すと、模型は今度は大きなむかでのやうな形に變りました
みんなはしきりに首をかたむけて、どうもわからんといふ風にしていましたが、ブドリにはただ面白かったのです。
 「そこでかういふ圖ができる。」先生は黒い壁へ別の込み入った圖をどんどん書きました。

(11)

 クーボー先生の語る講義の主題を具現化したものであると思われる、ブドリが教室で目にした不思議な模型が示す“歴史の歴史”という概念のメタ構造と、さらにまた“歴史の模型”という異次元的意味空間の交錯が撚り合わされた、とりわけ興味深い観念性の記述の例が、ここにあることを確認することができる。賢治が詩作と人生の統一スローガンとして掲げた、“詩と科学と宗教の統合”(12)という理想を実現可能にすることができる、おそらく賢治にとっての宗教的回心として作用していたに違いないシステム理論的根拠を照射する理念が、実はここに浮上しているのである。何故ならばこのメタ構造概念は、アインシュタイン自身が彼の相対性理論の着想に多くを頼っていることを言明していた、マッハの哲学の以下のような原理性志向的関心を見事に反映しているからである。

「経験的所与のあいだの諸関係」を函数的に表現し、それら函数の函数を定式化しようとする

 つまり、極限の真実追求を旨とする科学者/思想家にとっては、意味空間の中で多元的に分岐して個々の内実を主張し得る“函数”となって現われる概念/現象の全体像を正しく把握して論考に組み入れるためには、“函数に関する函数”としてのメタ数理理論化の手順が不可欠であり、常に構想し得る限りの種々の座標界面を構築し得る基体となるべき、従来の理性の及ぶ範囲であった限界ある次元を跳躍した、多元空間/多元概念座標における関係性の函数的表現を柔軟に行う不断の行為と思索こそが、自身の生の哲学として切実に模索されねばならなかったのである。同様にまた宗教あるいは文学の探求者においては、欺瞞行為に対する究極の弾劾精神から行われたイエス・キリストの“目にて犯すことなかれ”という言明の反転相を考えるならば、あつらえられた真理の探求の論議の場のみならず、日々の例えば性行為や飲食その他の日常生活の瑣末事の全てにおいてこそ、倫理や哲学の問題が真剣に顧慮されなければならないのは、むしろ当然のことなのである。法廷や教場や説教檀等の限定された場にのみ構築された倫理や真理は、むしろ実存的な原理の探求者にあっては典型的な欺瞞の産物であり、むしろそのようなものとして制約されてしまうことこそが唯一の確証可能な悪の実体であるとも判断されることになってしまうからである。
 現実世界の倫理は、残念ながら現象世界としての諸制約を負っているが故に、結局は限りある暫定倫理でしかあり得ない。むしろ仮構世界において確証される倫理こそ、生起可能な全ての条件と起こりえないあらゆる状況にも敷衍して適合する究極倫理あるいは絶対倫理として、真の普遍倫理を体現し得るものであるのかもしれないことになる。フィクション世界の中では倫理の制約から自由でいられると考えるのは、大きな間違いである。むしろフィクションと現実の界面においてこそ、根源倫理の実相が切実に開拓されねばならないこととなる。だからこそ、フィクションの題材を制約ある現実世界の倫理で拘束することがあってはならないのである。実生活と修身の場にも増して、仮構の内実と堕落の実相においてこそ倫理の問題はより真摯に追求されねばならないのである。罪の中の幸福と、禁欲的な放蕩と、堕落の底の敬虔と、狂気の裡に潜む理性こそが仮構の中に追求されねばならないものとなり、これらは皆ファンタシーの同形体として、その存立理念が確証されることとなるのである。不可能領域にまで敷衍する多世界における、“推移可能な真実の全てに通貫してある不変の倫理”というパラドクスの結実が、仮構の中には求められなければならないこととなるのである。当然ながらそこでは、慈悲の心自体と贖罪行為そのものの根底にあるかもしれないパリサイ主義と非人情の要素を弾劾する試行を、全方位的に展開していくことすら可能になる。かつてサドやワイルドやドストエフスキーや、そしてル・グインが“サイコ・ミス”と呼んだ寓話の中において追求したように、仮構はいかなる非倫理的な主題をもその中に含み得るからこそ、永遠性の倫理にのみその基準点を合わせる、峻厳な影の道徳を隠し持っているのである。
 かくして永遠的真実の探求を企図する求道的精神においては、カオスの内部に押し込められた、信仰の力によってかろうじて神々の支配の領域として確保された、閉じられた城塞のような孤絶したコスモスを生きることに満足するのではなく、むしろカオスを基盤に捩れと捻りを軸に伸展する全方位的存在性の展開を許容する閉塞を知らない世界構築理論が新たに構想され、考え得る限りの全てを含む本来の意味での普遍性の宇宙に意識を開放せねばならないこととなる。その結果例えば、歴史哲学を実存哲学へと変換し、あるいは楽曲を絵画へと翻訳することにより、乖離した次元界面における潜伏した同一性や共通性もしくは対照性を目ざとく読み取ることによって万物の照応を検知し、現象世界における意味の断絶や矛盾を克服することが始めて可能となるのである。意味の関係性を切り離した質点あるいは波動として量化された数値のみに着目して、力学あるいは波動関数としての数式的構造性を抽出することばかりで終わりとするのではなく、むしろ意識体の保持する相関した主観的意味単位である感覚性にこそ焦点を当てて、それらの相互変換作用を含めた網羅的な意味の関係性を記述することを企図した場合には、時として視覚が聴覚に、あるいはまた触覚等の別種の感覚に置き換えられて語られ得るように、“クオリア”(13)の相互変換性がむしろ意図的に開拓され、記述されねばならないこととなるからである。先鋭的なロマン派の詩人エドガー・アラン・ポーがその詩作の上で印象的に行ってみせたような視覚と聴覚等の感覚の交錯の記述は、単なる斬新な表現技法としてのレトリックの技巧の模索という範疇に止まらず、全体性の宇宙の原理的な記述と普遍相における意味の把握にこそ係わる、思想上の枢要な基幹原理を示すものとなっていたのである。こうして全ての不和と矛盾と差異を言わば意味の函数化を介して調和させることのできるアルゴリズムを、数学的演算処理のみならず、その処方そのものに適用することによって、実際の現象物体(マテリア)自身の奇跡的な変身(メタモルフォシス)と、そればかりでなくプレローマ的場の根幹的意味性そのものの変成を具現化する手立てが発見され得るのである。そのような意味で人格や個別性の裏面に横たわる同一性や対称性が再発見された時、改めて『春と修羅』の序詩の「すべてがわたくしの中のみんなであるように/みんなのおのおののなかのすべてですから」の一節が示唆する、量子論理的/仏教理念的な、宇宙理解/世界救済の可能性も垣間見えてくることだろう。
 六道の発想の根幹にあったような、“世界の中の私”と“私の中の世界”という反転的描像が共軛的に成り立ち得るような精神界面においてこそ、真に創造的な仮構の記述は成立するのである。このような意味で常に切実な思惟を巡らせ、見て語り全ての事物に霊的に関与し、一つの個人の生を深く生きることによって全ての生と現象を意義づけ、大乗の教えを具現化して他者あるいは“みんな”の救済をも実際に企てることが可能にもなるのである。時・空・精神連続体の全体性を構想する場合に理解や把握の基礎単位を形成すべき“意味”とは、物質主義的宇宙観を前提としていた現代科学が仮定していたような、属性や特質として質量や現象の中に帰属するものとして仮定された、量化して読み取られるべき仮象情報としてあるのでは決してなかった。宇宙の根源的実質単位として存在すべき“意味”とは、“質量”や“エネルギー”や“波動”や“場”を生成する原形質として本源的に全てに先立って存在すると同時に、むしろこれらの現象を観測し記述する意識の主体とそれらの行為自身との相互作用という描像それ自身と等価的な定義を保持するものとして、その他のあらゆる個々と全体との関係性を常に意義性の階梯と機縁を増幅しながらさらに新たな固有の意味としてその流動的な内実を賦与されつつ、総合的に展開していくべき基礎概念だったのである。記述者からは独立して厳然としてある客観的な事象の存在という古典物理学的仮定と、機械論的過程に従った模擬実験による科学的真実の普遍的物理法則としての確証という、“ノヴェル”が担っていた硬直した幻想により損なわれてしまった仮構のエネルギーを再び解放することに成功したのが、“心象スケッチ”と宮澤賢治が名付けた、文学的表現技法の枠を超えた芸術的生のあり方であった。
 “意味”の中に見いだされるべき、これによって全ての概念が共変的に変換されるべき“意味を形成する意味”とは、常に能動的にあるいは恣意的に構築され、個々の意識の主体によって意図的に賦与され得るものでもあったからこそ、現象性の中の些末な事象への任意的関与とその恣意的記述そのものが、賢治にとっては意味の複合的連鎖として紛れも無く世界の総体としての真言と共振し、人にとっての“真実の言葉”となり得ていた訳なのであった。この優れて祭礼的/祝祭的/祈祷的実例を、『春と修羅』に収録された他のいくつもの心象スケッチの中に豊富に見いだすことができるのである。そのうちでも最も特徴的な成功例の一つとして挙げ得る作品が、「アンネリダタンツェーリン」であろう。

蠕虫舞手(アンネリダタンツエーリン)
(えゝ 水ゾルですよ
  おぼろな寒天(アガア)の液ですよ)
日は黄金(きん)の薔薇
赤いちひさな蠕虫(ぜんちゆう)が
水とひかりをからだにまとひ
ひとりでをどりをやつてゐる
(えゝ 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア) ことにもアラベスクの飾り文字)
羽むしの死骸
いちゐのかれ葉
真珠の泡に
ちぎれたこけの花軸など
 (ナチラナトラのひいさまは
  いまみづ底のみかげのうへに
  黄いろなかげとおふたりで
  せつかくをどつてゐられます
  いゝえ けれども すぐでせう
  まもなく浮いておいででせう)
赤い蠕虫舞手(アンネリダタンツエーリン)は
とがつた二つの耳をもち
燐光珊瑚の環節に
正しく飾る真珠のぼたん
くるりくるりと廻つてゐます
(えゝ 8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア) ことにもアラベスクの飾り文字)
背中きらきら燦(かがや)いて
ちからいつぱいまはりはするが
真珠もじつはまがひもの
ガラスどころか空気だま
 (いゝえ それでも
  エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
   ことにもアラベスクの飾り文字)
水晶体や鞏膜(きようまく)の
オペラグラスにのぞかれて
をどつてゐるといはれても
真珠の泡を苦にするのなら
おまへもさつぱりらくぢやない
   それに日が雲に入つたし
   わたしは石に座つてしびれが切れたし
   水底の黒い木片は毛虫か海鼠(なまこ)のやうだしさ
   それに第一おまへのかたちは見えないし
   ほんとに溶けてしまつたのやら
それともみんなはじめから
おぼろに青い夢だやら
 (いゝえ あすこにおいでです おいでです
  ひいさま いらつしやいます
  8(エイト) γ(ガムマア) e(イー) 6(スイツクス) α(アルフア) ことにもアラベスクの飾り文字)
ふん 水はおぼろで
ひかりは惑ひ
虫は エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
    ことにもアラベスクの飾り文字かい
    ああくすぐったい
  (はい まつたくそれにちがひません
    エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
    ことにもアラベスクの飾り文字)

(14)

『春と修羅』に収められたこの心象スケッチの短詩においては、詩を詠む作者の姿自身が反転的に作品の中に描き込まれているのである。しかしその作者は手水鉢の底に沈んでうごめいている蠕虫という、現象世界の具現する小さな一側面に目を留め、これを観察・記録するという体を装いながら、実は神話と科学と音楽を綯い交ぜにしたとりとめのない夢想を心中に展開しているのである。一見したところ伝統的な “叙情詩”と呼ばれてきたものと同等の道具立てに基づいた、孤絶した内面世界を描いた作品空間がここにはある。しかし“心象スケッチ”としてのこの作品の成立基盤は、一般の叙情詩の類型に従って、作者個人の孤独や哀れの想い等を歌った、感情の吐露や想念の告白として成立するものとは、実は全く異なるところに立脚するものなのである。
 他の心象スケッチの作品群と同様に、「アンネリダタンツェーリン」においては、意識の主体たる“私”によって、様々な“見立て”による実に豊かな“連想”が行われていることが分かる。“日は黄金の薔薇”という鮮烈なフレーズに見られるように、“私”を媒介として放埒極まりない程の雑多な概念と表象が、種々の科学的・思想的・文化的知識と共に瞬間的な連想として“連接”され、単に一匹の蠕虫の姿を写実的に描写/形容するばかりでなく、むしろ甚だしく恣意的/主観的に、あるいはむしろ際立って創造的/造形的に、あえて自然法則の枠組みに従うことなく、限りなく自由に奔放に世界の一断面が語られていくのである。そこでは様々の神話や生物学や音楽等の専門用語や学術的語彙の各々が、それらの本来保持していた系の内部機構の意味連関の全てを担わされて、さらに他の分野の系の種々の意味連関と跳躍的に連接されることにより、“超自然”の意味の複合体を活性化させているのである。
 太陽の光の差し込む手水鉢の中の水は、記録を行いつつある観察者には特有の質感を持って見えるらしく、“寒天”という一般には菌類の培養素地として用いられる半透明の材質つまり“ゲル”(膠質)を語る言葉で記述されている。この語からの連想としてここではさらに、特有の分子活動を与えるコロイド状の“ゾル”という混雑溶液を呼ぶ言葉が喚起されることとなる。コロイドの中で観察される独特の分子の不規則運動は、微細なパスタであるバーミセリにあたかも生命体であるかのような有機的な動作を与えることから、無生物の生命化現象と誤認されてかつて科学界で様々な論争を引き起こしてきたものであった。後に植物学者ロバート・ブラウンによって、水面上に浮かべた花粉から容出した微粒子の示す不規則運動として研究され、“ブラウン氏運動”と名付けられたこの現象は、1905年にアインシュタインによって、コロイド溶液中にもたらされる特有の不規則な分子運動として、その根本的メカニズムを物理学的に解明されたものであった。ノーベル賞受賞論文である「光量子論」と「特殊相対性理論」に並んでこの年に発表された「ブラウン氏運動の理論」は、宇宙の現象としての具現化過程を条件づける素粒子の量子的ゆらぎの発見に先行して、実は根本的宇宙認識のニュートンモデルからの修正を迫る重大な科学的事実の一つなのであった。20世紀初めの科学思想の世界において、自然の中にある根幹的意義性を再検証する上で殊に注目の的となっていたのが、これらの用語の示唆する哲学的内実だったのである。
 しかしこれらの純然たる科学史上の事実と平行して、賢治の想念の中には、踊りと音楽で構成された一つのフィクションである演劇的な枠組みを持った寓話世界が、同時に展開しているのである。手水鉢の水底で身をくねらす蠕虫の動きは、何故か“タンツェーリン”というドイツ語(“舞手”、英語ならば“dancer”に相当する語である)を用いて語られている。あるいはホフマン原作、チャイコフスキー翻案の『くるみ割り人形』のようなバレー組曲作品か、もしくはアンデルセンの異境を舞台にした不可思議な童話作品の世界でも頭に想い描いているのであろうか、正体不明の侍従のような人物によって “ナチラナトラのひいさま”というこれまた意味不明の異国的な名で呼ばれることとなっているのが、この心象スケッチの中で記述の対象とされている、謎めいた蠕虫なのである。そしてこれらの取りとめのない夢想を展開する、一個の観察者であり記述者である“私”は、“水晶体や鞏膜”という観測実験機器のアパレイタスを模して解剖学的に突き放したように客観的に語られ、その“私”の得た想念自体が作品自身の中でとりとめの無い幻想としてあからさまに否定されもしている。作者の想念としてある幻想と、その幻想を繰り広げつつある作者自身が双方向的にその姿を投影しつつある次元階層を延展した場が、そこに繰り広げられているのである。「真空溶媒」等の他の心象スケッチにも、この現実・幻想・仮構連続体の記述が及ぼす意味の豊穣の感覚を確認することができるだろう。このように語られた観測者/記述者の姿とその脈絡の無い幻想は、オルテガの語った“窓ガラス”とも、ハムレットの主張した“自然を映し出す鏡”とも異なる、全く別種の定義に基づく機器であり“存在”であり“現象”なのである。かくして“意味”として物理的広がりを持たず、従って他のいかなる同一カテゴリーのものにも含まれることはなく、全体性の宇宙の意義性の一様相として示される“モナド”にも似た意識の自覚として、“私”という独特のペルソナが想定されることとなる。
 しかし取りわけこの詩の固有の成立条件をなすものとして印象的なのが、水底で蠢く蠕虫の姿を“エイト ガムマア イー スイツクス アルフア”という独特の言葉で描写している部分であろう。そこには身をくねらす蠕虫のとる様々の姿形が、ギリシア文字や英語の活字やアラビア数字記号になぞらえられて、“8 γ e 6 α”と見事な視覚的形象を与えられて表現されている一方、これらの文字・記号の本来の読みに従って、一種独特の音楽的旋律まで奏でることとなっているのである。身をくねらす孑孑をあえて学名を用いて“アンネリダ”と呼び、ドイツ語の“タンツェーリン”と強引に繋げて“アンネリダタンツェーリン”という独特の音韻効果を備えた語を用いて呼び替える、斬新な音楽的見立てと連動するのと同種の特異な言語的創造感覚がここにはある。様々な見立てと観念の連接と新しい意味の付加を行う“私”という“現象”が、世界の中で力学的因果関係に従って機械論的にもたらされた事象の一つであるばかりでなく、同時に遡及的に歴史と出来事の総体に対する意味連関を再構築する、能動的な作用をも及ぼす機能を果たすこととなっているのである。
 こうして“心象スケッチ”においては、“連想”という精神活動と“言及”という実際の行動が、時空を超えた意味と精神の連続体である世界そのものに対する有機的な注釈賦与となる。世界から受動的に意味を読み取り、そこに内包された客観的真実とされるものを単一方向的に解明するばかりでなく、同時に世界の根源的原理の意味の豊かさを、自らが主体的に附託することができるのである。何故ならば局所的な作用による因果関係に頼ることのない、時間軸の方向性を跳躍した全方位的な関係性の構築が、思念と夢想の裡においてこそ可能となり、観測と記述による様相波動の収束が直裁に機縁と因縁を構築することにより、全一なる宇宙そのものの意味性賦与に貢献しているからである。つまり、参照して語る注釈賦与の行為が、紛れもなく根源的意味連関の構築として始原的な創世行為と等価のものであり得ることとなるのである。仮構とその創り手の生きる現実が分ち難く融合した和歌の世界の存在論的位相と次元軸を共有する、見事な脱現実的汎実存的生のあり方がここに成就されている。社会による功績の実利的認知や既存の思想や組織の評価基準による功利的判断などとは全く異なるものを射程に置いた、これらの無意識の深奥にある一種音楽的な共鳴に似た霊的活動を語る想念こそが、賢治が“真の言葉”と呼んだものであった。このようにして思念の中で世界の複合的意味性の位相変換と再生産を行い、プレローマ的原形質における可能態の醸成と、現象界におけるメタモルフォシスの錬成を成し遂げることが実際に可能となるのである。
 賢治が“心象スケッチ”を語るものとして演じた、和歌における“生活実感”を“歌に詠む”、あるいは叙情詩における“心情の吐露”の“記述”という体を装った実は巧妙な捻りのある“仮構”でもあり、あるいは徹頭徹尾突き抜けて純真無垢な即興的詠唱行為でもあるスケッチ的記述は、古典力学的世界観に基づく“リアリズム”と呼ばれるいびつな仮構とは、全く対照的な原理に基づくものだったのである。実は賢治という“現象”は“心象スケッチ”の記述/発話行為において、『最後のユニコーン』の第一章に登場していたあの饒舌な蝶のように、とりとめのない連想と奇想を一人つぶやく極楽蜻蛉を振る舞っていたのであった。そしてこのような疲れを知らぬ道化を演じてみせる天真爛漫な想念と、全てに対する興味と関心に溢れた比類ない上機嫌の精神活動においてこそ、浅薄な限りある実証主義的科学の理解にしか基づかない断絶の精神世界を根底から解体して鮮やかな再構築を成し遂げることが可能となり、世界に対する真の意味性賦与を導出する健全な精神の回復が見込まれることとなる。
 かくして賢治にとっては、言葉と想いを用いて交響曲的な世界の意味の連鎖に没入し、そして自らの手によって外挿的にその世界を調律する試みが、紛れもなく科学と宗教の共通目的となるべきものとして芸術的生に連接することができていた。このような宇宙的オーケストレーションへの全人格的参入行為こそが、賢治の宣言にある“詩と科学と宗教を一つのものに”統合して観測/記述/創作行為を行う営み、すなわち“心象スケッチ”なのであった。他者の救済のために行われる個人としての自己犠牲の行為につきまとうパラドクス(15)と、個別的存在性の引きずる行為の展開範囲の因果関係的限界のディレムマを解消し、この誠心からの根源的願望を補完し代替する方途を約束したのが、賢治の出会った新しい科学、相対性理論と量子論理だったのである。だからこそ賢治にとっては、音声のみならず観念と概念と、そして材質や属性すら自在に“オノマトピーア”(擬音)に変換する術、すなわちしばしば魔法の究極の原理とされる“メタモルフォシス”を具現する操作が、確かに存在し得ていたのである。賢治が“科学”という言葉を用いて語った理想郷の夢想を通して垣間見ることのできるものは、20世紀後半に空疎で浅薄な偽りの隆盛を極めることとなった科学的応用技術の成果による物質的豊かさとは根本的に異なったものだったのである。70年代以降アメリカを舞台として、芸術作品の特異な表現行為として仮構世界の内部からの現実世界に対する浸透を企図したアクチュアリズ厶の手法が勃興したが、アクチュアリティの芸術と生の先駆的な実践者が、実は1920年代の日本に既に存在していたのであった。機械論的自然観の束縛を持たない言の葉の生きる国日本の、仮構と現実の融合を果たすばかりではなく、全体性の宇宙と仮象としての個である“わたくし”の融合を夢想する実践的アクチュアリストが、農民詩人でもない社会改革派文学者でもない汎宗教の統合的思想家である宮沢賢治だったのである。そして宮澤賢治にとっての“詩と科学と宗教”の統合体であったものに見事に照応するものとして、現代アメリカのファンタシーの形而上詩人ピーター・S・ビーグルの『最後のユニコーン』においては、“魔法”という主題が独特の意味性を担って導入されていたことは、ことさら興味深い事実だと思われるのである。
 『最後のユニコーン』においては、知性と意識を備えた観測者の関与によって始めて現象を収束するという、宇宙の基幹的原理機構である“観測効果”と全く同様の機構に基づいて、魔法は人々の魂の願望と心の渇望に照応して生起せしめられていたのであった。日常の感覚を超えた怪物達の異形の姿を目にすることを欲する観客達の欲求を核として、神話と伝説の世界の超越的存在達の姿を具現化させて見せていた、ミッドナイト・カーニバルの魔女マミー・フォルチュナの駆使する魔法がそうであった。魔法使いシュメンドリックもまた同様に彼女のこの手法に倣って、森の盗賊達の伝説の義賊ロビン・フッドに対する憧憬の念を軸として、光り輝く永遠性の幻影を招来することに成功したのであった。人々の集合的な霊的位相の現出する一様相である“願望”を掬い採り、その照応物である非在性の幻影を永遠性の投影として現象世界に顕現させることを試みたマミー・フォルチュナとシュメンドリックの魔法の技の施行は、自らの保持する意図を全面的に放棄することによって宇宙の運行規則に身を委ねることを選択した魔法使いの心霊に照応して具現するという、真の魔法の姿を見事に反転的に反映しもして、その折々のあるべき姿を自在に選んで具現化するのであった。これらの量子的ゆらぎにも似て時としてあらわれまた時として去っていく魔法の力の発現は、賢治が試みたようにしばしば言葉の“意味”と“発声”を媒介として具現化し、またその効果は見事に音楽に位相変換して語られることとなっていたのであった。存在物の階梯とその意味の限りない変容と、そしてその変化の反映する宇宙の根源的な意義性を例証すべく行使されるのが、このお話の中で魔法使いの用いる深遠な魔法の技なのであった。だからこそこの辛辣極まりないお伽話の中で、しばしば魔法の力の発効が失敗に終わった際に、破綻した言葉の意味連関の図式が強調して語られているのは、むしろ反転的に理性の限界を超えた宇宙の根幹にあるこの峻厳なシステム理論の核心を突いているのである。
 その好例の一つとして挙げられるのが、キャプテン・カリーの手下のみすぼらしい盗賊達を観客として、魔法使いシュメンドリックが奇術/魔法(magic)の技を披露しようとして無様に失敗してしまう、はなはだ滑稽な場面の記述なのである。

They applauded his ring and scarves, his ears full of goldfish and aces, with a proper politeness but without wonder. Offering no true magic, he drew no magic back from them; and when a spell failed─as when, promising to turn a duck into a duke for them to rob, he produced a handful of duke cherries─he was clapped just as kindly and vacantly as though he had succeeded. They were a perfect audience.

p. 73

盗賊達はシュメンドリックの指輪とハンカチを使った手品に歓声をあげた。金魚とトランプが耳から溢れて飛び出す手品をはやし立てたが、それはいかにも儀礼的なもので、本当の感動を得た様子はなかった。本物の魔法を提供することが出来ないものだから、観客の方から魔法を引き出すことも出来ないのだった。そしてシュメンドリックが盗賊達に、アヒル(ダック)を公爵(デューク)に変身させて略奪させてやると約束しておきながら、実際に出してみせたのが一握りのサクランボ(デューク・チェリー)だった時も、この手品の出来が上々であったかのように、優しくはあるが心のこもらない拍手を返されたのであった。彼等は観客としては完璧だった。

 本来ならば宇宙の根源的な意味性自体に作用する筈の魔法の技があえなく失敗に終わってしまった時には、言葉の音韻の類比のみによる不恰好な換喩に変形して、その霊妙な効果はみっともなく脱臼した形で具現化してしまうのであった。そしてまた魔法は、かける施術者とかけられる被施術者の双方の精神の感応による、はなはだ玄妙な相互作用でもあった。本源的な意味中核と心霊との同調がなされた時にのみ、魔法は顕現してその類い稀な芸術的効果を発揮するのである。だから真の魔法の力の発現を得るに至らない、外殻からの魔法の本質への言及がつたなく行われる際には、記号としての語の外見上の相似にのみ縮退したいびつな形、すなわち破綻した換喩へと誤認されてしまうこととなってしまったのである。これと全く同等の、意味と言葉の間にある繊細極まりない相関関係の暗示する魔術的原理を示すもう一つの変化形の例が、未完成の魔法使いであるシュメンドリックが、卓越した魔法の使い手である彼の師のナイコスの振るう真の魔法の力の実例を語ろうとした際に用いられた言葉の選択にも、やはり見事に見てとれていたのである。

As a child I was apprenticed to the mightiest magician of all, the great Nikos, whom I have spoken of before. But even Nikos, who could turn cats into cattle, snowflakes into snowdrops, and unicorns into men, could not change me into so much as a carnival cardsharp.

p. 119

子供の頃僕は、前にもお話ししたことのある最も卓越した最高の魔法使いナイコスの許で修業をしていました。でも猫(cat)を牛(cattle)に、雪のかけら(snowflake)をスノードロップ(snowdrop)に、そしてユニコーンを人間に変えることさえできるナイコスでさえ、僕をサーカスの客寄せの奇術師以上のものに変えることはできませんでした。

本来の理想的な励起状態においては意味と実質そのものの変成を成し遂げる筈の魔法も、その本質に対する不十分な把握をしか得られない未熟な術者あるいは話者にとっては、事物本来の内実からあえなく乖離した不完全な記号に過ぎない言葉の表面的な類比をたどるという形に縮退して収束せざるを得ないのである。科学と論理と人間理性の限界を鋭く暴いて示すかのようなこの究極の原理機構を裏打ちするかのように、これと全く同等の深遠な魔法のシステム機構に対する破綻をきたして脱落した意味性の言語表象の例が、やはり魔法の技については素人のモリー・グルーの口によっても繰り返し語られることになっていたのであった。

“I know why you did it too. You can’t become mortal yourself until you change her back again. Isn’t that it? You don’t care what happens to her, or to the others, just as long as you become a real magician at last. Isn’t that it? Well, you’ll never be a real magician, even if you change the Bull into a bullfrog, because it’s still just a trick when you do it. You don’t care about anything but magic, and what kind of magician is that?”

p. 186

「そして私は、どうしてあんたがリア王子にそうするように仕向けたのかも分かる。あんたはアマルシア姫をもう一度ユニコーンの姿に戻すまでは、不死の呪いから逃れることはできないんだ。そうじゃないのかい?あんたはアマルシア姫がどんな目に遭おうが知った事じゃないし、他の誰のことだって同じなんだ。自分が本物の魔法使いになれさえすれば、それでいいんだ。そうでしょ。でもね、あんたは決して本物の魔法使いなんかにはなれはしないよ。あんたがレッド・ブルをウシガエル(ブルフロッグ)に変身させようがね。あんたに出来るのはごまかしの技だけさ。あんたには魔法のこと以外はどうだっていいんだ。でもそんな魔法使いが一体何だっていうんだろうね。」


ここでモリーが語ったようないかにもグロテスクな未熟な言葉の類比は、低質の駄洒落以上の効果をあげることはない。しかしこれらの意味の飛躍が真の魔法の発現として類い稀なる成功に導かれた際には、その結果はしばしば現象世界の限界を跳躍する“非在性の比喩”として結実し、見事に意味の変成そのものを成し遂げると共に、現象性を脱却して即物的意味を消却した、永遠性の一様相である音楽を暗示する言葉に変換して語られることとなっているのである。その時こそが、言葉を通じて啓示的な“謎”の成立が得られる奇跡的な一瞬となる。それは言葉を換えて語るならば、ビーグルが敬愛したJ. R. R. トルキンが“幸いなる大団円”(16)(eu-catastrophe)と呼んでみせた、ファンタシー世界における約束された恩寵の顕現でもある。
 ミッドナイト・カーニバルの座長である魔女マミー・フォルチュナは、自身の持つ並外れて強大な魔法の力を誇り、真実の存在であるハーピーを是が非でも支配して幽閉しておこうとする確固たる意志があることを、高らかに宣言して語るのである。自身の身の破滅さえ厭わない彼女のその自暴自棄の確信の裡には、宇宙の本源のエネルギーである魔法の根本原理と霊的存在の保持する潜在的可能性との照応を希求する、実存の探究者としての魔女の切実な意思が反映されている。

“I can turn her into wind if she escapes, or into snow, or into seven notes of music. But I choose to keep her. No other witch in the world holds a harpy captive, and none ever will. ...”

p. 35

「あのハーピーが逃げ出しでもしたなら、風にでも、雪にでも、あるいは音階の七つの音にでも変えてやることができるよ。逃げさせてなんかやりはしないよ。他のどの魔女だって、ハーピーを虜にすることができたものはいなかった。そしてこれからだって、そんなことができるものは、他に誰一人いはしないだろう。…」

この醜い邪悪な魔女は、真実の永遠的存在であるユニコーンさえもが思わず“She knows more than she knows she knows.”(あの魔女は自分で知っていると知っている以上に知っている。)とその発揮する魔法の幻視的内実と芸術的効果に望外の感銘を受けて語るように、実は現象性と致死性の限界を超えた不思議な能力を備えた存在だったのである。この醜悪な魔女もまた、本来は時間性の存在ではありながら、刹那においてはユニコーンに備わっていたものと等質の永遠性を体現し得る格別の存在なのである。彼女が上で語ってくれた魔法の内実は、音楽との接点を備えている点において実は真言と連接しているのである。おそらくは具象性の醜い束縛を持たない純粋な意味と形象の複合体である音楽こそが、偽りの意味を指示する一般の人間達の言葉の限界性を超えて、宇宙の根幹にある実質としての真の秘匿された意味とその正しい変容を図る技であるメタモルフォシスの原理にもっとも近接した効果をうながす、意識体における知と実在的存在物の媒体となるべき、根幹的意義性の反映物となるものだからである。だからこそ、ようやく真実の魔法の力を得た魔法使いシュメンドリックが、初めて自信に溢れて魔法の技を実際に行使してみせる場面もまた、見事に音楽のイメージを用いて以下のような印象的な記述を用いて描かれているのであった。

He touched Molly as well, said something that was more of a whistle than a word, and the three of them floated up the air like milkweed plumes to the top of the cliff. Molly was not frightened. The magic lifted her as gently as though she were a note of music and it were singing her.

p. 200

シュメンドリックはモリーにも手を触れ、言葉というよりは口笛のようなものを一言ささやいた。すると3人共ミルクウィードの綿毛のように宙を舞って崖の上まで昇っていった。モリーは怖さを感じることもなかった。魔法はあたかも彼女が音楽の音色の一つで、その魔法が彼女のことを歌に歌っているかのようにやさしく彼女の体を持ち上げたのだった。

魔法はかける術者とかけられる被施術者の双方の精神の感応による相互作用であり、これら双方の霊的位相の共和の具現化でもあるからこそ、魔法に関する知識と理解を持たないモリーにも、上のような形で音楽という表象を通してその類い稀なる来訪を一瞬の間感知させることができたのである。このような形で意識体の各々の霊性の一部に確かに感応するものとしてその位相の共変性が語られているところに、このお話の保持する魔法の切実な意義がある。
 そしてまた、ユニコーンやハーピーの存在自体が魔法そのものであったように、人間存在の知覚やその構想する概念とは全く異質の様相における魔法の潜勢力の発現は、無意識を仲介して饒舌な予言を語る蝶の発話としてあらわれることともなれば、人間存在と神的存在の双方に関与して気まぐれに謎の言葉ばかりをつぶやく、異教の神のような正体不明の猫の姿を取って現象界での具象性を選択することともなる。意識と言葉と音楽の様々のペルソナ変換を通して想念の全てに浸透して作用し、その意味性を具現する宇宙の根本原理として、魔法使いや魔女やユニコーンを代表とする超越的存在達の体現する魔法の姿が、このお伽噺には描き出されていたのである。このようにして魔法は時として芸術ともなり、場合によっては宗教ともなり、至高の知的活動ともなり、しばしばこの上ないエンターテインメントともなる。
 『ピーターとウェンディ』においては、ダーリング夫人の口許に“キス”が浮かんで見えるのと全く同等の原理機構に従って、あらゆる物質と全ての精神を包含する全体性の宇宙の示す一様相として、ピーターという霊格がネヴァランドという精神世界を顕現させていたのであった。そしてまた、『最後のユニコーン』ではこれと全く同様の心霊的メカニズムに基づいて、ユニコーンやレッド・ブルやハーピー等の存在があり、魔術師の操る魔法の来訪が実現可能となっていたのである。
 さらに『最後のユニコーン』における魔法は、宮澤賢治の心象スケッチが企図していたように、時間軸の向きと因果関係の拘束をも離れて、原存在的な世界の本源との関わりを強く暗示するものともなっている。暴君ハガード王の滅亡の後、再び不毛の地へと戻ったハグズゲイトの町の今後を語る魔法使いシュメンドリックの言葉は、時間次元をも包含した全体性の宇宙の本質と人間精神の知覚との霊妙な関係性を語っているものなのである。偽りの繁栄の哀れな終局を迎えて絶望に沈む虚飾の都ハグズゲイトの町の人々に向かって語る、魔法の核心にある霊的真実を語る予言的な言葉である。

“You may plant your acres again, and raise up your fallen orchards and vineyards, but they will never flourish as they used to, never─until you learn to take joy in them, for no reason.”

p. 206

「再び小麦畑に種をまき、倒れ付した果樹園と葡萄畑を作り直すことはできます。でも、どれも以前のように豊かな実りをもたらすことはないでしょう。何の理由も無しにこれらの畑から喜びを見いだすことを、あなた方が覚えるようになるまでは。」

 当然のことながら、人間精神が打算と功利主義に頼る限り、真の心の喜びを得ることはできない。真言と同調すべき心霊の内面の満足は、他の価値基準に則った仮象を基準とする評価によっては、決して推し量ることができないものなのである。理不尽なるが故に信じ、劣悪なるが故に愛する心が喜びをもたらすのである。そして心に得たその喜びが、逆に豊かな実りをもたらすというのである。正義と利得が胡散臭くなってしまった霊性喪失の時代に、臆面も無く真実と善と美を語ろうとするあまりにも真摯な態度がここにある。
 こうして結局は『最後のユニコーン』における魔法は、ストレールがアクチュアリズムの文学の特徴的な機能としてこの上なく適切に語っていたように、芸術の神髄を精製したものとなり、「動的な力として相互関連を行う文化の場に関与」し、さらに“仮構組織体”として「アクチュアリティを参照し、物理学・心理学・言語学・哲学・数学・社会学その他多数を含む、相互関連を行う巨大な談話の網状組織の一部となり、これらは様々な角度から結合して、反応を返しているその時すらも人間の創造的談話能力に制約を加えている外的世界に対する熟慮を可能に」する役割を見事に果たしているのである。堕落し果ててしまった“学”の本来担うべきであった、趣味と教養と娯楽と思考と情報伝達のあるべき姿がここにある。
 『最後のユニコーン』という仮構世界の基底には、このような深遠な原理であり、また普遍の目的である魔法を軸として宇宙に共鳴する、静謐な惑星の音楽が響いている。ビーグルはポストモダニズムを予兆するメタフィクションの機構をいち早く作品世界の中に取り入れ、量子理論の示唆するアクチュアリズ厶の世界感覚を見事に創作行為の中に反映させているが、このあまりにも品格に優れた詩人は、後に多くの例が示したようなポストモダニズム的堕落とは無縁の、むしろピタゴラス学派やスコラ哲学の世界の方により近接していると思われる、古典的な雅味と風趣に富んだ孤高の芸術家だったのである。カオスに野放図に身を任せてグロテスクな悪夢を呼び起こす猥雑な感覚は、ビーグルの澄明な精神世界の裡には全く見られない。ストレールがポストモダンの仮構の混迷したカオス的様相を示す特徴的傾向として語ったような、“…postmodern fiction becomes a tainted-glass window through which nothing is visible”(ポストモダンの作品は何も透かして見ることができない色つきのガラス窓となる)と呼ぶような霊性の混濁を示す猥雑な要素は、ビーグルとは無縁のものである。清澄なコスモスと色も形もないカオスの双方を豊かに同調させ、優れて反射的な記述手法に従ってアクチュアリズ厶と魔法と神話を題材に織り込んだ、古典的で高雅な“アンチ・コスモス”のお伽話がそこには展開している。決して荘重を気取ったり重厚を装ったりすることがない、苦さと甘さが綯い交ぜになった諧謔と風雅の混淆の世界が、紛れもなく『最後のユニコーン』を現代の古典になさしめているのである。ビーグルの用いた皮肉と風刺に満ちたはなはだほろ苦いお伽話作法は、一方で新鮮で純朴なファンタシーを語りながら、同時に辛辣で痛烈きわまりないアンチ・ファンタシーの磁場をも展開することに成功しているのである。『ピーターとウェンディ』のキャプテン・フックも、『最後のユニコーン』のハガード王も、いかにもニーチェ的な自我に固着した意志を備えた苛烈な実存の探究者であった。しかしこれらの人物の愚かしくも崇高な破滅を反射的な陰影を交えて描き出す、徹頭徹尾アイロニカルではありながら、しかも意味の喪失に陥り切ることのない健全で柔軟な精神は、キルケゴール的実存の裡にあった篤実な信仰とある意味で等価的ものさえも感じさせるのである。あるいはむしろこの作品の古典的風趣を特徴づけているのは、強張った実存だの自我だのが生成する以前の、原意識的存在性の示す世界霊的実相に対する鋭敏な感応性であるというべきなのかもしれない。そこにはパルメニデスの「有るものは有る、無いものは無い」という主張の、“有無”に関する一見あっけらかんとした常識主義を装ったエクリチュールを通して語られた、実は深遠な神秘主義的洞察と根源的には等質の、思索と仮構を記述する術の裡にある曖昧性と多義性に対する深い反省的洞察が潜んでいるからである。20世紀の思想的特質を決定づけるといわれる理知主義的なアイロニーとは全く別種の、古典的な“高貴なアイロニー”とも呼ぶべきものがその根底にはある。そして信仰ばかりでなくニヒリズムの自覚さえも失った霊性喪失の時代に、人々の集合的無意識が渇望する意識の表層からは失われた喪失感覚を満たしてくれる、欠かすことのできない補完物としての影の世界の、“反世界”と“反自分”に裏返しに相当するのが、このお話の中心的主題であるユニコーンであり、魔法だったのである。このような反射的自覚が伸びやかに無意識に連接するその限りにおいて始めて、存在と思惟の一致という奇跡がなされ得るのである。時代を先取りするかのような斬新な仮構記述手法に見られた卓越したレトリック感覚と共に、他の何よりも古い時間性と永遠性の分離以前の全体性の霊的位格の記憶を蘇らせてくれるのが、ビーグルの描いたこの辛口のお伽話なのであった。そのような意味でビーグルはやはり、バリがそうであったように、アクチュアリズム以前の作家であり、その希有な詩人としての資質が、アクチュアリズ厶を作中の主要な題材として採用することを、アクチュアリズ厶の生成に先立って可能にしていたのである。
 ジェイムズ・バリの時代、20世紀初頭の科学の進展と宇宙観の革新によって導かれた哲学的/形而上学的洞察の深化は、かつて歴史上存在し得なかった程の人類の優れた超越思考の基盤を形成していた筈であったが、これも第一次世界大戦後、1920年代から急速に発展したアメリカの大量消費文化と、引き続き勃発した第2次世界大戦による思想的・社会的混乱に覆い尽くされ、その優れた希有な内実が壊滅的な損壊を受けて見失われ、結局は見事に忘れ去られることとなってしまったのであった。戦乱の世紀と呼ばれる20世紀におけるアメリカ帝国の無知主義による世界支配の始まりであった。しかしながら実は、ビーグルを生み出した20世紀後半におけるアメリカは、ディズニー・ランドやハリウッド映画に代表される圧倒的な無知の蔓延とは裏腹に、むしろおそらくその文化的腐敗の極みの故にこそ、欺瞞に満ちたヴィクトリア朝英国や天下泰平の江戸文化の場合と同様に、分極生成という宇宙の原理的特質に見事に照応して、科学とポスト科学と魔法と非在を見事に綯い交ぜて語る豊かな形而上的フィクションをも創出する、類い稀なる新しい知の教国へと変容してもいたのだった。とはいえそこに得られた高邁な知性と鋭敏な芸術的感覚と、洗練されたアイロニーに満ちた卓越した思想的遊戯性も、それらを実際にそのようなものとして観測し、把握する術を持たないPTAや教育委員会的に膠着した貧しい意識の主体にとっては、逆に貧困極まりない低劣な俗悪主義そのものに紛れもなく変質させられてしまうことになるのである。『最後のユニコーン』は現代の様々なサブカルチャーやオタク文化と共に、趣味と教養と豊かな想念をかろうじて世界に繋ぎ止めることを可能にするか、あるいはそのようなものはそもそも最初から無かったことにしてしまうかを決定する、いくつもの“私”の心の中の試金石なのである。宮澤賢治が心象スケッチを通して見事に仮構と実人生を生きてみせたのとは裏腹に、一方では断絶への深い絶望にかられた不毛の王国を統べる禁欲的な強欲の持ち主である孤高の専制君主ハガード王が語る、以下のような峻厳な哀しい真実があるからだ。

“In a moment I will have forgotten you quite entirely, and will never be able to remember just what I did with you. What I forget not only ceases to exist, but never really existed in the first place.”

pp. 127-8

 お前達のことなど、儂はすぐさま忘れ去ってしまっていることだろう。そしてお前達と何を語らったかなど、決して思い出すことはあるまい。儂が忘れてしまったことは、存在することを止めてしまうばかりではなく、最初からありもしなかったことになってしまうのだ。




(1)
 何故かこの宇宙には人知の限界を超えた“謎”と呼ばれる現象あるいは存在が多々現出するが、これらの多くが理性の依存する演算アルゴリズムを逸脱する“捩れ”の構造体をとっていることが多いのは、殊の外興味深い事実であると思われる。平面的捩れの構造であるメビウスの輪や立体的捩れの構造であるクラインの壷があるように、その他様々の多次元的捩れを示す位相幾何学的構造体や、意味連関におけるシステム的捩れとして重複的あるいは複合的捩れの構造を保持する存在並びに概念が発見されることが予想されるだろう。ブラック・ホールとホワイト・ホールというそれぞれの対となる現象を特有の捩れ構造で連接すると思われるワーム・ホールや、あるいはフィクションという異次元世界のお話の中のお話や、さらにまた現実とフィクションの間の実は見事に捩れた関係性等、多義的な意味の場の反転的連鎖が、謎と神秘を介して究極の普遍原理の存在を示唆しているかのようでもある。これらの捩れの構造の中でも殊に目新しい例の一つとして指摘できるのが、超ひも理論の物理学者ブライアン・グリーン(Brian Greene)の示唆した“ブラック・ホールの成長の果ての一量子への変転” という、宇宙の存在性発現過程における捻転的循環を主張する仮説である。CF. Brian Greene: The Fabric of the Cosmos, (2004).

(2)
 物質とエネルギーが、あるいは粒子と波動が、その位相を相互変換して記述され、もしくは重ね合わせの状態として共軛的に観測され得るように、人格や神格、あるいは個別性と普遍的存在もしくは属性とされてきたものもまた、時空と因果関係の制約を脱却した原初的意味空間においては、全くの新たな位相の裡にその姿が理解されることとなるだろう。その位相の各々、あるいは位相を形成する要素の各々が、かつての“ペルソナ”という概念を用いて改めてその深奥にある実質を理解して呼ばれ得ることとなろう。

(3)
 エヴェレットの多世界解釈においては、素粒子の確率分布に対応するだけの膨大な順列組み合わせに従った世界像が網羅的に現出し、これらが分岐した平行宇宙として無数の多世界を形成していくことが想定されていたが、個々の素粒子を“意味素子”に置き換えて同様の観念操作を適用するならば、様々な錯綜した意味の連関が実体化したさらに無数の平行宇宙が、仮構領域にまで及んで具象化することが予想されるだろう。その典型的な例として、『ピーターとウェンディ』において示唆されていた、ピーターとウェンディの意識の交わりの空間に現出した“キスとドングリが意味交換をした意識世界”や、年少の末っ子のマイケルが夢想したような“フラミンゴの上を礁湖の群れが飛んでいるネヴァランドの姿”等の脱臼した意味連関世界の具現化等が指摘し得るだろう。これらは、“ナンセンス”という制約的な概念を完全に排した条件下の意味空間においてのみ顕現可能な、特有の多元的意味の組み合わせの結果なのである。

(4)
 George MacDonald, Phantastes, Everyman’s Library, (1983), p. 106

(5)
 ドイツ・ロマン派の影響の色濃い、現代ファンタシーの元祖とでもいうべきこの作品においては、ピグマリオンの神話にも似て、自らの理想を彫像の中に具現化する人物の姿が語られている。しかしこのはなはだ内省的なお伽噺では、己の想念の内部の願望と憧憬を反映させて無垢の雪花石膏の中から自ら彫り出した、約束された恩寵でもあるかのように思われていた筈の分身が、結局は主人公を裏切る悪しき偽りの影であることが分かり、さらに彼の真実の影は全く想いもよらなかった別種のおぞましい悪霊として、彼に憑依することとなっていたのであった。典型的な願望充足とその願望自身の持つ絶望的な暗黒面の暴露が見事に捻転して、自身の中に反転的ループを形成する特殊な系としての仮構と、仮構を妄想する精神機能の不可思議な特質を最大限に敷衍して語られていたのが、この反射的仮構の典型例を示す夢物語だったのである。そこにはファンタシーとアンチ・ファンタシーという拮抗的な側面を合わせ持つ、多義的な原理に基づく仮構の姿の本源的な内実を見事に窺うことができるのである。

(6)
 Cf. Brian Greene, The Fabric of the Cosmos, pp. 378-412

(7)
 アインシュタインの相対性理論のもたらした、従来の物理学の範疇を超えた哲学的あるいは形而上学的存在論の再考を促す問題性の影響がここにあらわれている。廣松渉の『相対性理論の哲学』においては、この等価原理的法則性の主張が内包する思想的意義性が、以下のような表現を用いて語られていたのであった。

電車の中央から発した光が前後壁に到達したというのは一個同一の事件であり、「相対性原理」からして、この事件は「互いに等速直線運動している二つの座標系のどちらに則してもその形は相等的」な筈である。「相等的」というのは「共変的」の謂いであって、二つの系に則した観測的事実が相貌的には相異なるとしても、一定の仕方で「変換」してみれば直接的な両定式が同一事態の双貌的描写にはかならないことを含意する。

p. 40


ここで“相等的”現象の“双貌的描写”として等価原理の本質を捉えたところに相対性理論の哲学的総括を企図する廣松の指摘の核心がある。何故ならば、アインシュタインが提示したこの物理学上の重大発見とされる一つの法則性が、むしろ本質的には存在性の普遍相における“共変性”に関する哲学的な洞察としてこそ理解されねばならないものであることが、以下のような論述を通してより明確に提示されることになっていたからである。
古典力学にせよ、日常的対象“確知”にせよ、そこでの“変換的”“統一的”把握は謂わば暫定的なものであり、認識論的には、終局的に“絶対的な”あの“真の”“客観的実在”を想定するかたちになっていた。しかるに、相対性理論の場合には、対自的認識相と対他的認識相とを一定の方法で“変換的”“統一的”に把握した所知態が―暫定的な相対知としてではなく―まさしく認識論的な意味次元における“真の”“客観的事実”として定立されるのである。
p. 69

アインシュタインの構想した物理的事象解釈の理論を哲学の場から統括評価する、「“変換的”、“統一的”把握」の所知態を認めるこの“客観的事実の客観的把握”を試みる視点こそ、ポスト科学の時代にファンタシーとフィクションを再評価すべき形而上的視点の基軸の存在を照射する理念となるのである。

(8)
 システム理論学者アーヴィン・ラズロは、古代サンスクリット語のアカシャ(akasha)という概念に着目して、意識体の記憶や想念等の精神の基底をなす要素を、空間や時間等と同等に拡張し得る物理あるいは超物理次元に展開された、意味/情報空間次元として捉えることを提唱している。記憶や情念の保存あるいは生成領域を、脳内局在論を適用して理解しようと試みた際に認知科学や脳科学が直面した様々な難点を解消する有力な仮説として、脳の保持するホログラフィー的機能に整合的な解釈を与える統合解式を可能とするものであると考えられるのが、“意味”という独立要素を世界を構築する一つの“次元”として捉えたラズロのアカシャ理論である。
Cf. Ervin Laszlo: Science and the Akashic Field: An Integral Theory of Everything, Inner Traditions, (2004).

(9)
 『ザ賢治』、宮沢賢治、第三書館、1985、pp. 446-7

(10)
 『ザ賢治』、宮沢賢治、第三書館、1985、pp. 355-6

(11)
 『ザ賢治』、宮沢賢治、第三書館、1985、p. 24

(12)
 賢治の芸術活動の思想的基盤となったこの理念は、ロマン主義の詩人・思想家であるコールリッジ(Samuel Taylor Coleridge)の基本理念であった「科学と哲学の合体」を踏襲し、量子理論の知見を加えて新たな角度から再構築したものであろう。

(13)
  “光”を対象とした様々な観測に加えて知覚と概念形成の相互作用の集積として、ニュートンが行ったようなプリズム分光と波長による分類作業から得られた光学理論とは全く異なる、“色性”という全くの別界面から捕捉された理論体系が得られる。人間の知性と感覚を通して認識された、色や印象などの“クオリア”と呼ばれる概念についての考察がこれである。ニュートンの分光理論に真っ向から対抗してゲーテが唱えた“色彩論”の中に、既にその先鋭的な問題性を窺うことができるだろう。実在論と認識論の区別を設けることなく現象/存在を理解しようとするこのような統括的関心は、精神の主体である個々と世界それ自身をも統合的な連続体として有機的に結びつけることを可能にする、しばしば世界からの離反と自分自身との不和に苦しむ人間存在にとっては、世界を受け入れ自分自身を恕する免罪行為さえもたらす方途を拓く、積極的な内面的救済行為と繋がる着眼の可能性を示すものであると考えられるのである。
 “ファンタシー”という精神機能は、スペクトル分光による光学理論に対して情感と対応する色彩を問題にする意識であり、質量点としての粒子に全てを還元しようとする統一解式に対して、意味と霊性という概念を適用した記述から世界の異なる解法を提示する意識なのである。

(14)
 『ザ賢治』、宮沢賢治、第三書館、1985、pp. 367-8

(15)
 Cf. “贖いのパラドクス”、『アンチ・ファンタシーというファンタシー』pp. 34-35
 硬直した思念による類型的な意味性理解に従って、“救済”や“贖罪”等の概念を無批判に受け入れる“無知性”の理念を大胆に反転させたところに、“強いられた犠牲”としての生け贄である無様な“反英雄”と“反救済者”のペルソナが浮かび上がることとなる。これらの絶対悪あるいは必要悪の存在そのものを自身と世界の紛れも無い影として雄々しく同定し、その判断自身を自らの霊的進化として捉えて宇宙規模の事象として迎え入れることのできる可能性を暗示するのが、善くも悪くもファンタシーの基本理念であり、アンチ・ファンタシーの誘発因なのであった。

(16)
 世界に対する積極的な意味性賦与の企図に基づいて行われる、創作者の手による意図的な干渉として仮構世界の記述あるいは描写等の行為を捉える視点は、既にホーソーンが『七破風の館』(The House of the Seven Gables, 1851)の序文の中で“ロマンス”という呼称のもとに語っていたものであった。このような論点から行った“公理系”としての仮構世界構築におけるコンヴェンションについての論考が、本書の先行的論考となる『アンチ・ファンタシーというファンタシー』第10章においては、物語論と語りの手法の相関として既になされているのである。 Cf. “公理系”と“コンヴェンション”、『アンチ・ファンタシーというファンタシー』p. 113

戻る