スー・マシソン「ピーター・S・ビーグルの『最後のユニコーン』における霊的変成と言語の再生」


 以下は、2005年9月発行の『ライオンとユニコーン』29巻3号に掲載された、Sue Mathesonによる“Psychic Transformation and Regeneration of Language in Peter S. Beagle’s The Last Unicorn”の翻訳および評釈である(1)。黒田による注釈は、マシソンの著したこの論文の保持するビーグル評価とファンタシー文学理解における重要な意義性と、統括的宇宙論を自覚した仮構論考察に関わる問題点についての論評を行うことを目的とするものである。

**************************************************************************

 一見したところ、ピーター・ビーグルの『最後のユニコーン』(1968)は、伝説上の生き物を題材にした、よくある子供向けの他愛のないお話のように見える。自分が世界でたった一頭だけ残されたユニコーンであることを知り、ビーグルの描く神話的主人公は、他のユニコーン達の消息を求めて旅立つ。その探求の冒険の過程で、彼女は魔法使いと料理番の女を仲間に加え、その後人間のお姫様に姿を変えられて愛の思いを知ることになるが、最後には本来の姿を取り戻すことができる。彼女の冒険は成功のうちに幕を閉じ、失われていたユニコーン達は見つけ出され、再び世界に満ち溢れるが、結末にはしっくりしない部分が残る。王子様は大方のお伽話の常套に従ってお姫様と結ばれる、という結果にはなっていないのである。(2)
 その代わりに、人々ではなく世界そのものが変質し、より良いものへと変るのである。それにもかかわらず『最後のユニコーン』というお話は、人間の霊性の変転の在り方というものを語ろうとしている。一見単純極まりないお話のように目に映るものは、実は入念なお伽話の要素の再検証の試みなのである。この作品は、言語の保持する意味の再変革と、そして人間の霊性の変化の過程という主題を強く意識した、はなはだ自省的な物語なのである。(3)

 現在の批評状況を支配している、メタフィクションと言語における意味の存在あるいは欠如に対する関心にも関わらず、『最後のユニコーン』は1989年以来大した批評的反応を得るには至っていない。今日までのところ、この作品に対する批評的評価は二つに別れている。この『最後のユニコーン』をマイナーな傑作と看做すものもあれば、単純なだけの、そしてかなり胡散臭いものと見る見解もあるのである。(4)
 ロバート・ボイアーとケネス・ザホースキは、『幻想家幻想を語る』(Fantasists on Fantasy)において、『最後のユニコーン』を現代ファンタシーのベスト・テンに含まれるべきものとして評価している。ジーン・トービンは「神話、記憶、もしくは願望の狐火」( “A Myth, a Memory, a Will-o’-the Wish,”(5))において、『最後のユニコーン』は“新鮮で、上品で、心に残る作品”と賞讃している。またR. E. ファウストは『外挿』(Extrapolation, 1980)における論評で、この作品の存在を根拠として、ビーグルはドナルド・バーセルミやロバート・クーバーやトマス・ピンチョン等と肩を並べるべき存在であると主張している。しかしC. N.マンラブは、『ファンタシー文学の衝動』(The Impulse of Fantasy)において、この作品は破綻したものであり、描かれている魔法が感傷へと、現代的な語り口が的を外したジョークへと失墜している点で、トルキンに対するオマージュになり得ていないと批判しているのである。(6)

 この作品に対する批評界からの反応がどのようなものであれ、一般読者の『最後のユニコーン』に対する評価には絶大なものがある。ジョン・ペニングトンは「ピーター・ビーグルの世界における無垢と経験」において、この物語のベスト・セラーとしての成功の秘訣は、作者の“お伽話の類型を際立って現代的であり、しかもアメリカ的な感覚に”再構築する技量にあるとしている。確かにビーグルの現代アメリカ市場における受けの良さは、この作品の人気の秘密を部分的には説明できているだろう。『最後のユニコーン』は1968年の初版以来、アメリカのみならずカナダでも40回以上の版を重ねてきている。しかしこの物語の人気の本当の秘密には、アメリカという国の特異性を越えたより普遍的で伝統的なものがある筈である。(7)
 カール・ユングが『人間と象徴』において語っているように、人間の霊魂の集合的無意識の中に深く根ざした原初的な心理的構造である“原型”は、全ての人間に共通して存在するものである。この原型は幾度となく「いかなる時代においても、世界のいかなる地域においても、血統の直接の伝播や相互交流による知的促進が除外されている筈の地域においても」繰り返し姿を現して来たのである。原始的な夢想や想像的な幻想から流出した集合的表象として、“原型”は人々の年齢や性や民族性に関わりなく喚起する強力な情動的反応のおかげで識別可能なものとなっている。しばしば驚くべき常道を外れた形を取ることもありながら、これらの霊的構造は象徴的な図像や神話や神話形成的文学作品の中に現出しているのである。(8)
 「子供達のためにお話を書く3つの方法」においてC・S・ルイスは、お伽話は今でもまだ廃れていない、なぜならこれらは「集合的無意識の中に潜む原型を解き放つからだ」と述べている。現代のお伽話として『最後のユニコーン』もまたこの原型を解放し、そうすることによって読者から力強い情念的反応を引き出すのである。(9)

 発動している原型の属性と霊性の生得的な構造を示す象徴が、『最後のユニコーン』において自律的な一つの特性を表している。ハーピーのセラエノとロビン・フッドとそして当然ユニコーン自身の3者が、そのような神話的存在としてあげられる。彼等の原型的属性を例証するものとして、彼等が喚起する情動的反応のみならず、彼等の姿を目にした者達の示す反応をもあげることができるだろう。例えばマミー・フォルチュナの旅回りのサーカスで見せ物に供されたユニコーンは、ルークが見物人達を彼女の檻の前に連れて来た時、彼等が「胸を躍らせ、目に涙を滲ませ、息を呑む」のを聞く。「彼等の顔に浮かんだ悲哀と喪失感と和んだ表情から」ユニコーンは彼等が彼女をユニコーンとして受け入れたことを理解する。ハガード王さえもがユニコーン達を目にした時には、この見物人達と同様の反応を示す。彼がユニコーン達を封じ込めた海の方に目を向けている時には、“歓喜”の表情が彼の相貌を「信じ難い」程に変化させる。「彼等は儂の心を喜びで満たしてくれる。」ハガード王は語る。「これこそ歓喜というものだ。始めてこの気持ちを味わった時、儂はもう死ぬかと思った。」(10)
 ユニコーンの場合と同じように、ハーピーのセラエノもまた彼女を眼前にした者達の情動的な反応を喚起する。しかしこの場合の反応は歓喜ではなく、背筋を凍り付かせるような恐怖である。ユニコーンさえもがハーピーのおぞましさに体を震わせ、「胸の中の息までもが、冷たい鉄のように変わってしまう。」(11)
 文化的英雄像もまた、ビーグルの形而上学的世界の要素の一部をなしている。ユニコーンやハーピーと同様にロビン・フッドの存在が、この物語における物事の真実性に関する確認を行う複雑な機構に大きな寄与を果たしているのである。シュメンドリックがロビン・フッドを魔法の力で呼び出した時の、カリーの率いるならず者達の示す反応は、民衆的英雄像の持つ神霊的能力を暗示するものである。ウィリー・ジェントルの声は「ひな鳥のように丸裸な」ものとなったと語られている。ロビン・フッドの顕現の正にその一瞬、原型がアダムの堕落以前の人間の姿としてその本体を現すのである。(12)ロビンとマリアンの「相貌は限りなく美しく、かつて一度も畏怖の感情を抱いたことが無いかのようである。」カリーの手下達が、彼等自身の森の中での干涸びたような下劣な生き方よりも、ロビンとその一行が示してくれる存在感の方に心惹かれるのも、不思議なことではない。さらに重要なことは、モリーがカリーに語ってみせるように、「あんたやあたしや、他の連中だって、本当の人間なんかじゃない。ロビンとマリアンは本物だけど、あたし等はみんな伝説に過ぎないんだ。」(13)
 この作品においてビーグルが語ろうとする“真実”は、一般の認識から極めて遊離したものであり、物語はプラトン的体系の顛倒を示唆するものである。そこには主人公であるユニコーンが、存在の階梯における上昇ではなく、むしろ下降を体験する様が描かれているのである。ユニコーンが仲間達の消息を尋ねて世俗の世界を旅していく際には、彼女は影の世界を訪れたイデアの表象となる。イデアの顕現を示すものとして、ユニコーンは集合的無意識から浮かび上がった原型としての機能を発揮するのである。しかしながら彼女が旅をしていくことになる現実世界の有り様は、それ自体が彼女が後に残して立ち去った森の場合と同様に、象徴的なものとなる。(14)
 『象徴辞典』におけるJ. E. サーロットの意見によれば、森の象徴するものは複雑であり、全ての界面において自然と地母神に関わりを持つものである。森は、植物が農耕のいかなる支配をも受けることもなく、豊かに繁茂する場所である。木々が陽の光を遮るので、森はしばしば太陽の力に反発する存在と見なされ、大地の象徴として理解される。『最後のユニコーン』の出だしでは、ユニコーンの住む“ライラックの森”が、彼女の体現する再生的な原型を暗示している。傷を癒し、死者を蘇らせる力を持つユニコーンの角と同様に、森は衰亡と死から無縁の場所である。彼女の森は、季節の変化の影響を受けることのない場所である。ユニコーンの住む森には「決して木の葉が散ることはなく」、冬が訪れることもない。(15)
 端的に言えば、この森はユニコーンが体現する女性原理が栄える場所として機能しているのである。「森はユニコーンがそこにいるおかげで、いつも春だった。そしてユニコーンは、大きなビーチの木の間を一日中さまよい歩き、地面の下や木の上の巣や洞穴や窪地や木の梢にねぐらを構えている、様々な動物達を見守っていた。」この部分が示唆するように、ユニコーンの森は堕落以前の世界でもある。ユニコーンが、それ自体無尽蔵の生命力と不死の象徴である木々を後にして立ち去るや、彼女は“時間”への転落を経験するのである。物語の語り手が述べるように、「時間は森の中ではいつも彼女の脇を通り抜けていった。けれども今は、ユニコーンが旅を続けながら時間の中をくぐり抜けていくのだった。」(16)
 ユニコーンが足を踏み入れた堕落以降の世界は、「平らな地面と山々と、石ころの転がった荒れ地と、そこから広がった草地」から成り立っている。“時”の支配する領域は不毛の地である。ユニコーンが訪れたところはどこでも、何らかの形でその不毛性を反映している。典型的な例が、“ハガードが王として支配する国”である。そこでは山々の全てがナイフのように痩せて尖っていて、草も木も、生えるものは何もない。ハガードの王国の、敵意に満ちたナイフのような山々が暗示しているように、彼の王国は何物も生まれいずることがなく、ただ死があるだけの世界である。(17)
 ユニコーンの森が女性原理と結び付けられるのに対して、ハガードの王国の不毛な大地と、悲惨で排他的な村は、男性原理を連想させるものである。最初は、情念的な女性原理を連想させる実り豊かな自然と、干涸びた知性中心的な男性原理を思わせる文明社会の示す対立の様相が、ユニコーンの旅が伝統的な西洋的二項対立の図式を示しているものであるかのように思われる。しかしユングが指摘するように、象徴の解釈は機械的作業に陥ってしまうことがあってはならない。物語が進行していくにつれ、女性原理や男性原理に対して適用されたシニフィアンは、極度に遊戯的な用い方をされていることが分かる。このような遊戯性は決して異常なものではない。何故ならば象徴というものは、個別的なものでもあり、また同時に普遍的なものでもあるので、それ自身の持つ複相性のために、単一の意味というものを固定してしまうことがなく、従って読者に対して多様な解釈の可能性を暗示するものである筈だからである。(18)

 『幻影の景観』においてポール・ピーラーは、古代の文学においてはしばしば森に象徴されていた原野の示す敵対性は、都市の創設者達が克服する必要のあったものであることを指摘している。結局のところ、英雄的行為が語られた文学作品というものは、合理的な知性が版図を広げることとなった戦いの勝利の記録としばしば関わりを持つものなのである。『最後のユニコーン』においても、原野は同様の仕組みでその機能を果たしている。しかしそこに描かれた象徴的属性は、重要な遊戯的逸脱の余地を残すものでもある。それは同時に文明の特徴ともなっているからだ。皮肉にも、伝統的に女性性と非合理性の象徴であった原野は、合理的知性の領域を体現しているのである。自然を征服した後、ハガードは明らかに自分の支配原理をそこに強制している。古代ギリシアの場合と同様に、国王の属性が国土に反映されているのである。ユニコーンの森にあった女性原理の豊穣性を失い、ハガードの王国は“海のほとりの不毛の地”である原野となっている。そしてハガード自身も、王位を継承すべき息子を得ることができない。不毛性が、過重な父権的支配のもたらした結果であるとするならば、男性原理を代表する合理的思考の帰結とも、やはりなっているのである。ビーグルは、合理的思考が極度に押し進められた場合には、一種の狂気として現れることに疑いの余地を残さない。ハガードの王国のハグスゲイトの町の人々は、合理的思考を行った結果、自らの子供がこの町を滅ぼすことになるという呪いに縛られて、20年以上に渡って性交を控えるという不合理を行っているのである。(19)

 『最後のユニコーン』においては、風景はしばしば木々や岩石の集合体以上のものとなっている。それは心象風景であり、心霊の肖像なのである。ハガードの王国では、過大な男性的影響力が総体としての心霊の均衡を失わせしまっている。そしてこの不均衡が、自然物の調和の失墜に反映されているのである。その一例として、シュメンドリックがモリーに語る言葉がある。「ハガードがこの王国を征服するまでは、ここは“緑豊かな潤いに満ちた国”であったという。けれどもハガードのものとなるや、この国は“萎れ果てた”のだそうだ。」

 ビーグルは自然の風景のイメージを、個々の登場人物の心霊的状況を描く際にも活用している。ユニコーンの影響のもとで、モリーの心霊は変化を遂げていく。モリーは「湖や洞穴に溢れた、よりしっとりとした国になっていった。昔あった花が地面から燃え上がるように現れ、ごわごわしていた髪もほころぶように変化し、肌も潤いを取り戻し、眼は大地の中で再び目覚めた。」これに反して、ユニコーンの力でも救うことのできないシュメンドリックの場合は、モリーを蘇らせた雨も彼を潤すことはない。シュメンドリックは、「ハガードの王国の有り様そのままに、干涸びて荒れ果てていった。」(20)

 自然界に関連を持たない、もう一つの播種的主題に関わるイメージが、この国の心霊の属性について語るものとなっている。すなわち、建築物に精神状況を反映させるために用いられる象徴的な伝統的技法の一例である、絶えず変形する石造りの迷路である。ハガードを内部に収めるこの迷路は、彼の常に内省へと向かう意識の冷えきった論理的迷宮性を映し出しているのである。同様に、レッド・ブルを内部に収める湿っぽい地下通路は、ハガードの心霊の原型の潜む、闇に覆われた深淵をあらわしている。極限的な貪欲と圧倒的な欲求に苛まれて、ハガード自身も、自分が牡牛の奴隷であるのかあるいはまた牡牛が彼の僕であるのか、区別がつかなくなってしまっている。この城の主であるレッド・ブルの方が、実際にハガードの心霊を支配しているかのように思われるかもしれない。しかしこの牡牛は、「確かな形など持たない、旋回する暗闇のようなものだった。痛みに眼を閉じた時に見える、赤い暗闇のようなものだった。」と語られているのである。(21)
 一旦ハガード王の城の内部に足を踏み入れるやいなや、モリーとシュメンドリックは、石の迷宮の中に自分達が迷い込んだことが分かる。「巨大な大広間の向こうにはもう一つ扉があり、そのまた向こうには狭い階段が続いていた。窓はわずかしかなく、灯りは全く灯されていなかった。階段は登るに従ってさらに狭く巻きあがっていった。一段上がっても、また同じ段を踏み締めているようだった。そして塔が、汗ばんだ拳を握りしめるように、彼等を包み込んでくるように思えた。」寓喩的に解釈するならば、この部分はハガードの自意識がゴシック様式そのままに、自らの方へと転回していることを示す。この塔の示す自閉的転回状況は、ハガードの自己中心的吝嗇性向と、肛門保持的傾向を反映するものである。しかしながら象徴的に解釈すれば、この部分はここに提示したゴシック様式的読解とは全く異なった、別種の理解の可能性を示唆するものでもある。(22)

 サーロットの『象徴辞典』によれば、迷路あるいは迷宮のイメージは、ネオ・プラトニズムの感覚において“堕落”を意味することがある。そうした含意に従って解釈するならば、迷宮は創世の過程における精神の失墜と、それに付随する“中心”を経て精神の回復を図ることの必要性を暗示するものとなる。ユニコーンは探求の旅を続ける過程において、自らが堕落した世界にあることを見いだす。この堕落した世界は、堕落した意識そのものを象徴していると考えることもできよう。何故ならば、ハガードほど超絶の階層において、どん底に近いものはないからである。彼は殺人者であり、嬰児誘拐者であり、口汚い父親なのだ。ハガードの心霊であるかのように、城はレッド・ブルを内部に擁している。そして皮肉にも“中心”があるのは、この牡牛のねぐらの部分なのである。(23)

 ミルチャ・エリアーデが『永遠再帰の神話――宇宙と歴史』において指摘しているように、“中心”は聖なるものの領域として定義づけられるだろう。この“中心”に向かう道筋は、困難にあふれたものである。そこで遭遇する難関は、現実のあらゆる階層において確証される。「寺院内部の回旋において、聖地への巡礼において、危険に満ちあふれた航海において、そして迷宮内部の彷徨において。」ハガードの城へと向かうユニコーンの旅は、そういう意味で、原型のイデア界から俗界への移行が行われる、形而上的な通過儀礼として読み取ることができるだろう。終局的に、原型の俗界への下降は、人間化という経過となる。適切にも、探求の旅の結末を迎えるあたりでは、ユニコーンは“自分自身の謎”を解くために、人間の姿に変わるのである。このような探求を行う際に要求される条件を満たすためには、結局のところ人間になるしかないように思われる。究極的には聖なる中心は、人間の霊性それ自体の中に見いだされるのである。(24)
 一連の心霊的体験である探求の旅は、その冒険を行うものに、中心に到達することにより自分自身の謎を解く答えを見つけ出し、個体化することを可能にするためのものであった。エリアーデによれば、迷宮の機能は“中心”を守ることにある。迷路の中を旅して行くことは、一面では通過儀礼の要素を持つ。ハガードの城は、その王の秘密を容易く明け渡すことはない。「牡牛のねぐらへ続く通路を警備するために配置された」ハガードの部下の骸骨が語るように、迷宮の中心に到達することが可能になるためには、伝統的に死者の保有するものであるとされている神聖なるものの秘密を理解する必要がある。骸骨がシュメンドリックに語る通り、「俺も生きていた頃はお前達と同様に、自分自身と同じように時間も、堅固なしっかりとした“壁のような”ものであると思い込んでいた。今は俺には分かる。いつでもこの壁を突き抜けていくことができたんだ。」(25)
 死者達の秘密を学ぶ行為は、地下の世界への下降を要求するのである。このことを理解したモリーとシュメンドリックとユニコーンは、地下の城の中心に当たる部分に自分達が到達しているのを知る。その通路の果ては、周囲の壁が「喉の中のように赤く染まった」暗い洞穴である。“中心”に到達することは、それがこの牡牛の場合の暗示する冥界であってさえも、通過儀礼であることに変りはない。エリアーデが指摘しているように、“中心”が極められたならば、「これまでの汚穢に満ちた幻のような存在は……意味を持ち、恒久的な本物の世界へと変質する」のである。洞穴の中でアマルシア姫が再びユニコーンに変身を遂げ、ハガードが死ぬや城が消え失せてしまうのも、驚くべきことではない。ユニコーンが示唆する実在の再発見は、心霊的な出来事なのである。海からユニコーン達が溢れ出る際には、彼等は通例神性の顕現(エピファニー)を語る時にのみ用いられる表現で描写されている。記述は以下のような描写で行われている。「モリーの身の周り一面に、燃え盛った雪のようにあり得ない光の帯が吹きこぼれ、花開いていた。幾千もの二つに分かれた蹄が、シンバルのように耳許で轟いていた。」モリーはあまりにも強い歓喜の念を覚えるので、その気持ちを述べる言葉を持たない。彼女は「ただ身動きもせず、泣くでもなく笑うでもなく、立ち尽くしていた。彼女の得た喜びはあまりにも大きく、彼女の体がそれを受け止めることが出来なかったからだ。」(26)
 さらに重要なことは、探求の冒険が完遂された時、大地そのものが変化を遂げることである。“ユニコーン達の徴”はあらゆるところに見出される。春の到来によって象徴されるように、大地の再生はその住民達の再生をも意味している。「微小な生き物達もが互いを呼び交す。」これまでと同様に、ビーグルは細心に自然の情景の象徴的な意味性を印象づけている。モリーは“春”が自分自身にも訪れたことに気付く。その春は到来が遅れた分だけ、永続するのである。

 ビーグルのテキストにおいては、心霊的な再生は単純な作用としては描かれない。この主題は象徴の、強力でありながらしかも相反した情動的反応を喚起する能力に深く関わるものである。レッド・ブルのような原型的存在を目にする時、D. H. ロレンスが“複合的効果”と呼ぶものが描かれていることにまもなく気付くことになる。明らかに、レッド・ブルはただ一つのもののみを意味している訳ではない。それはロレンスの呼ぶところの“ミーニングズ(多層的意味)”である。つまり「意味の中にある意味ではない、意味に反する意味である。」伝統的には牡牛という存在は、天や父親などの男性原理をあらわすものであった。しかしながら、月とも太陽とも関連を持つ動物として、牡牛は死と犠牲と自制と貞節のみではなく、再生と多産性とも結び付けられるものである。あらゆる原始指向的文化において、牡牛は権力という概念をあらわしている。『最後のユニコーン』においても、レッド・ブルが多様なものであり得ることは驚くに当たらない。「レッド・ブルは実在する、…幽霊に過ぎない、…正体はハガードである、…実は悪魔で、ハガードは魂をこれに売ったのだ、…ハガードはこれを手に入れるために魂を売ったのだ。」ハガードの城の地下に潜んでいることから、レッド・ブルはクノッソスの迷宮に住む怪物の伝説を思い起こさせる。城から出た後の、海に身体を没する時の盛り上がった肩と傾斜した背中は、ゼウスによるヨーロペの陵辱を思い起こさせる。(27)

 矛盾した多様な反応を引き起こすことにより、原型的な存在物と状況を包含するテキストは、心霊それ自体の常時変化しつつある構造性をあらわすのである。心霊の遷移する属性を表現することにより、その作品は迷宮のような構造性を持つこととなる。『最後のユニコーン』は象徴の自律性において、その意味の意味に対する並置構造に注目する時、言語の迷宮を形成している、とさえ言うことができるだろう。ジャック・ラカンに従えばファンタシーとは、現代のあるいは語られあるいは書かれた言葉であるシニフィアンと言葉が代表するシニフィエとの間の断絶によってもたらされた、言語における意味性の欠如とその主題となるものとの仲を取り持つために構想された構成体ということになる。しかしながら『最後のユニコーン』は、この理論の例外の一つとなっていることを示す。情念を生成し、そこから理解を得る能力を持つおかげで、この作品における象徴と原型は言語に意味性豊かな活動性を与え、そうすることによって、ラカンの象徴の序列にはその中心部に外傷性の要素、つまりシニフィアンのシニフィエからの分離を持つという理論に、異論を唱えるものとして理解することができるのである。作品全編に渡ってビーグルは、言語の本性というものに極めて重要な意義を担わせている。冒頭の場面ではユニコーンは、言語が意味性を深く持つものであり、言語の機能がシニフィアンとシニフィエを結び付けるものであると見なしている。物語の出だしの箇所では、この機能が破綻しているかのように見える。ユニコーンが「仲間達を探し求めても、何の痕跡も見出すことができない。」そして「人々の語るどの国の言葉にも、もはやユニコーンのことを呼ぶ言葉は無かった。」言葉は自然界と自然界を超越するものとを結び付ける働きを持つので、ユニコーンは「期待の気持ちと驕りの気持ちにもかかわらず、ユニコーンがいなくなってしまったために、人々がどうしようもなく変わってしまい、そして人々と共に世界が変わってしまった」ことを知るのである。(28)
 聖なるものが直接語りの対象とされ得ない時には、暗喩がこのような行為が意味あるものと認められるための手段として用いられる。暗喩はその本質上シニフィアンとシニフィエを結びつけ、抽象的なものを具象化するものである。そうして、ユニコーンは、自分が馬には似ていないのは明白であるにもかかわらず、白い雌馬と誤解されるのに気付く。このような記述は、正確なものではないとしても、ユニコーンの本質を伝えることに成功している。ユニコーンは“美しい”のである。

 『最後のユニコーン』においては、言語は暗喩的であるばかりでなく、換喩的でもある。ビーグルの換喩を用いたナンセンスの語法の導入は、ビーグルの活用する暗喩の擬装としての効果を持っている。『最後のユニコーン』においては俗世界の持つ断片的で刹那的な性向は、ユニコーンが旅立ってまもなく出会うこととなった、蝶の語る言葉に最もよく示されている。蝶の語る言葉は古代の歌謡の断片と、大衆文化の寄せ集めから成り立っている。この蝶の意識の不完全な状況を理解して、ユニコーンは心の中でつぶやく。「蝶なんかに自分のことを分かってもらおうなんて、考えるべきではなかった。彼等は悪気がある訳ではない。ただ物事をきちんと理解することができないだけだ。それも仕方のないことだ。あまりにもすぐに死んでしまうのだもの。」(29)
 あるものの名前を他のものの名前と置き換えることにより、蝶の調子外れの換喩的な会話は、シニフィアンをシニフィエから引き離すことになる。蝶は歌う。「僕は地面を這っている恐い夢を見るんだ。子犬達、トレイにブランチにスー。奴等が僕に吠えかかる。小さな蛇達が、僕を脅す。乞食達が町にやって来る。そして最後に、はまぐり達が来る。」シニフィアンとシニフィエが暗喩において癒合する時、その結果は含蓄に富んだ発言となる。ビーグルはこの事実を、蝶の会話の中に辞書的定義の引用を挿入することで強調している。「ユニコーン:古代フランス語ではunicorne、ラテン語ではunicornis、字義的には一つの角。unusすなわち“一”、cornuすなわち“角”。空想上の生き物で姿は馬に似るが、一本の角を持つ。」この部分で蝶の発言は意味を持つものとなる。ユニコーンが「あなたは、私が何だか分かるのね。」と叫ぶからである。
 全編を通じて、シニフィアンとシニフィエを融合させようとする試みは、何度も繰り返されている。魔法は暗喩の重要性が最も的確に語られる際の媒体となるものである。しかしほんの些細な魔法の技さえも振うことのできないシュメンドリックには、これができない。抽象性を具象化する替わりに、彼は一方を他方で置き換えてしまう。その結果彼の実行する魔法の技は、換喩的なナンセンスというべきものになってしまうのである。シュメンドリックは「説教を石に変え、コップ一杯の水を掌にすくった水に変え、スペードの5をスペードの12に変え、ウサギを金魚に変えたが、金魚は水の中で溺れてしまった。」これに対してマミー・フォルチュナは、ライオンや猿をもとにマンチコアやサチュロス等の神話的生物達を造り出し、この世の生物のように眼前に現出させてしまう。皮肉なことに、ユニコーンがその身に担っている真実性は、見世物小屋に来た観客の視認することのできる暗喩的な表象とされた時にだけ理解されるのである。マミー・フォルチュナが指摘するように、「昨今では、人々にユニコーンの姿を見えるようにしてやるためには、安っぽい見せ物小屋の魔女の助けが必要なのさ。」(30)

 マミー・フォルチュナが本物のハーピーの爪にかかって最期を遂げることが、印象が人間によって捕捉されるのではなく、人間が印象によって捕捉されるのであるというラカン的な発想に対するビーグルの巧妙な検証作業であると見なし得るのに対し、『最後のユニコーン』の全編に渡ってユニコーンと彼女の連れ達が行う原型的な探求の旅は、ソシュール的な実証となっていることに目を留めておく必要がある。フェルディナン・ド・ソシュールが古典的な意味論的議論として、言語はシニフィアンとシニフィエとの合体から生起すると語ったように、ユニコーンの旅の目的は言語と体験を連結することなのである。この目的は最後に達成されている。ビーグルが、枯渇した大地へのユニコーンの回帰を記述する時の手段として用いているのが、暗喩である。ユニコーン達は、“燃え上がった雪のようにあり得ない光”と語られている。(31)

 物語の筋立ての構造も、言語が現実世界を反映しているという発想を補強するのに役立っている。最初のうちは、ユニコーンの行う旅は偶然に左右されてばかりいる。ユニコーン自身が、自分がどこに向かおうとしているか理解していないため、テキスト自体があてどなく彷徨うこととなる。どの出来事も偶然の結果として起こる。マミー・フォルチュナは、偶然に眠りに落ちているユニコーンを見つける。蝶は偶然に、ユニコーンと出会う。シュメンドリックも偶然に、ユニコーンの旅の連れとなる。ユニコーンの旅は、行き当たりばったりの思いつきで進行する、俗界への沈降として読み取ることができる。シュメンドリックがリア王子の存在を知った時、彼は語る。「これで安心したよ。僕はずっと、このお話を先導してくれる登場人物が現れてくれるのを待っていたんだ。」シュメンドリックが指摘するように、ユニコーンの探求の冒険は、その冒険の内実が明らかにされるまでは、意味を持つものとはならないのである。(32)
 ユニコーンの行う旅の物語は、シニフィエ(聖なるもの)とシニフィアン(俗世界)を連結させることにより、現実世界そのものを変質させようとする筋立てとしても、読み取ることができるものかもしれない。ビーグルの語るこの物語は、単にユニコーンという姿で聖なるものを見つけ出すというだけの話ではない。むしろ、ユニコーンが世界を旅していくにつれて、読者は実世界の聖なる面を再発見するのである。エリアーデが語っているように、世界自体が聖なるものではあるのだが、この世界が神聖なる一つの劇であることを発見するまでは、世界の聖なる側面を理解することはないのである。つまり俗性は聖性の暗喩であることを知る必要があるのだ。(33)そのためには、世界の本質に対する固定した既成概念を捨て去る必要がある。ハガードの手下であった骸骨が、時間の本質に関する議論を通して、この事実をシュメンドリックに指摘している。骸骨は言うのである。「だが大事なことは、お前が時計が次に10時を打とうが7時を打とうが、15時を打とうが、そんなことはどうでもいいということを理解することなんだ。お前は自分の時を自分で打って、どこからでも好きなところから時を数え直すことができる。それさえ理解すれば、いつだってお前にとっての正しい時ということになるんだよ。」(34)

 ビーグルはまた、この物語に対する知性偏重的な解釈を転覆させることによって、現実世界の本性に関する固定観念を捨て去るように、読者に対して要求するのである。『最後のユニコーン』においては、論理も因果関係もお話の筋の展開を決定することに役立っていない。知性に頼ることが不可能となり、読者は物語の首尾一貫した内実を把握するために、情念的な反応に頼ることとなる。コーラス的な機能を備えた存在達が、この反応を支援することとなっている。ユニコーンに対しては恋に落ち、ハーピーに対しては恐怖にかられるのはごく自然なことである。この物語において用いられている象徴的な言語は、物語を読み取る際に本能的な界面において機能することとなり、これらの反応を誘引するのである。

 最終的な分析において、意味の多様性にも関わらず、これらの象徴のもたらす効果は曖昧性でも、混沌性でも、無意味性でもない。『最後のユニコーン』を自身の情動的な反応を活かして読むならば、この物語を理解することは満足の得られる、そしてむしろ分かりやすい作業となる。C・Sルイスが「子供達のためにお話を書く3つの方法」において述べているように、「我々が優れたお伽話を読む際には、我々は“自分自身を知れ”という古くからの格言に従っているのである。」『最後のユニコーン』を読む際には、我々は自の心の内部に潜んでいる夜の生き物達が陽光のもとに現れる、無意識のカーニバルと言語の迷宮の世界を訪れているのである。(35)



(1)

  “Psychic Transformation and Regeneration of Language in Peter S. Beagle’s The Last Unicorn”, in The Lion and the Unicorn -- Volume 29, Number 3, September 2005, pp. 416-426
 この論文には、次のような要約が付加されている。
  [マシソンは、ピーター・ビーグルのカルト・ファンタシー小説『最後のユニコーン』を、霊的変成の過程と言語機能の再生に対する意識の際立った、極めて自省的な物語として論考を試みている。ビーグルの語る“真実”は一般の認識から極めて遊離したものであり、物語はプラトン的体系の顛倒を示唆するものである。つまり、そこには主人公であるユニコーンが、存在性における位格の上昇ではなくむしろ下降を体験する様が描かれているのである。]
 マシソンの『最後のユニコーン』に対する読みの視点は的確で、彼女の論文の内容に対するこのアブストラクトの理解も妥当なものである。しかしながらこの要約による総括は、ビーグルという極めて優れたファンタシー作家に対する評価としては、むしろ例外的なものだったのである。『最後のユニコーン』が未だに“カルト”と記されていることが、言外の情報を雄弁に語っている。ことにこの作品が、同様に“魔法”という主題を展開して世界の存在原理と意識の相関を掘り下げたことを高く評価された、アーシュラ・ル・グインの『影との戦い』と同年に出版されたものであったことを考えれば、アメリカにおける両者に対する受容と評価のあり方の差には、驚くべきものがあると言うべきだろう。

(2)

『最後のユニコーン』は、一見したところロマンスやお伽話のように、典型的に伝統の常道に従った物語の進行を踏襲しているかのように見えるが、実は肝腎な部分では類型の枠組みを巧みに顛倒させているのである。丹念にこの物語の細部を検証してみると分かることは、この極めて自省的な要素がむしろ、この例外的なファンタシー作品の基幹的な創作戦略ともなっていることである。マシソンがしばしば看過されやすいこの部分に正しく焦点を当てて、彼女の論説の口火を切ろうとしていることがここで判断できる。このお話に内在する、常に類型的展開を転覆する試みを持続する反射的な体制破壊的要素は、実は黒田が“アンチ・ファンタシー”という述語を用いて指摘したものである。Cf. 『アンチ・ファンタシーというファンタシー』(2005)、及び『アンチ・ファンタシーというファンタシー2──Peter S. Beagle The Last Unicorn 論』(2009)

(3)

 マシソンはここで、『最後のユニコーン』のこれまでしばしば見逃されやすいものであった、極めて重要な特質を的確に捕捉している。人々とこれを包含している筈の世界とが、あるいは言語とこれを用いて記述される対象たるべき存在の基体つまり“霊性”とが、それぞれ相互に交替可能な変換原理に基づく連続体として理解されているのである。全体性の世界の統合的変化と個別的存在の霊的変成というそれぞれの事象が、相等的な関連性を持った連続的概念として提示されているところに、この思弁的なお伽噺の形而上的な特質を窺うことができるのである。ここに見るような理性の枠組みを超出した主客の反転現象は、仮構記述における語る言葉と語られる対象の相互委属的な微妙な関係性として現出することになる。原型的実在の基質についての存在論的/意味論的把握を可能にする一つのシステム理論的特質の抽出を、緻密な記述行為を通して遂行しようと目論む思弁的なファンタシーである『最後のユニコーン』の形而上的関心が、全てに先立って指摘されているのである。マシソンによって選択された“霊的本質”という言葉が、ニュートン力学的現象認識を根幹的に超出した実在解釈を試みるために採用された、極めて柔軟な概念操作に基づく特殊な述語であることをまず理解しておく必要があるだろう。
 純粋に抽象的な概念把握を試みる“思弁”と呼ばれる作業を進めていく上で、その表象として現れる物語世界を描写・記述していく際に用いられている、自らの語る言葉そのものの保持する捻転した意味性に対する絶えざる反省作用に対する指摘が、これから繰り返して行われていくことになる。この際立って鋭敏な独特の意識を呼ぶものとして採用されているのが、“自省的”という言葉なのである。意味と理解と記述の相関を、常に類型的規範の踏襲に陥ることなく新鮮に反芻し続けようとする鮮烈な自覚が、その背後にはある。そのような文脈で“物語の記述”と、取りわけそこに採用される“修辞法”という主題が、改めて考察の対象とされなければならないことになるだろう。

(4)

マシソンの問題意識は明確である。はなはだ当時代的な魅力的な主題性をこの作品が堅固に保持しているにも関わらず、それが意外にも適正に受容されていないのである。マシソンの指摘によれば、見落とされているビーグルの真価は“メタフィクション”と“意味論”の根幹的内実に関わる部分にある。それにもかかわらず、そのようなものとしてこの作品が受け入れられることが稀であった原因を、明確にしておく必要があるだろう。この疑問に対する一つの解答としては、『最後のユニコーン』が保持している極度に反射的で“戯画的”な要素が、残念なことにアメリカという精神風土に適合するものではなかったことが挙げられると思われる。このビーグルの著作に含まれる独特の要素、つまり“漫画性”という特質に焦点を当てて考察を企てた例として、黒田の「アンチ・ファンタシーのポスト・モダニズム的戦略――ビーグルの『最後のユニコーン』と“漫画性”」がある。『アンチ・ファンタシーというファンタシー』(以降FAAF)に所収。

(5)

この論文の題名は、『最後のユニコーン』の中で魔法使いシュメンドリックが、ユニコーンの姿を目にしてもそれが人々の憧憬の具現化であるユニコーンそのものであることに決して気づかない愚かな人々を相手に行った、遊戯的発話行為の一部から取られている。ユニコーンを語る際の独善的な謎掛けの言葉として考案した対句表現の片割れが、この語句なのであった。「あれ(ユニコーン)は“願望の意思であり、嘆きの影”なのだ。」 と語られた“will-o’-the-wish. wail-o’-the-wisp.”という表現において、本来ならばここで語られるべき最初の言葉は、“will of the wisp”、つまり人によって正しく感知されることの出来ない、曖昧で不確かな存在あるいは現象として知られる“ghost light”つまり“狐火”、あるいは“火の玉”であった。シュメンドリックはこの語に形態的、音韻的に対応するもう一つの対句的表現“wail of the wish”つまり“a groaning uttered in unfulfilled wish”(叶えられない願いを秘めて口に漏れる呻き)を着想し、さらに対句となる行の語を入れ替えて攪乱することによって謎をかけるという、はなはだ身勝手な言語遊戯を行っていたのである。

(6)

 マシソンはいくつかの研究書、あるいは論文を取り上げて、『最後のユニコーン』に対する批評界の評価が見事に両極端に分裂していることを例証している。ビーグルを酷評したC. N.マンラブは、Modern Fantasy (1975) においてトルキンの『指輪の王』に何等積極的な価値を認めようとしなかったので悪名高い。彼の、上に参照されている『最後のユニコーン』に対する総括は、ブライアン・アテベリーの 『アメリカ文学におけるファンタシーの伝統』 (1980)の記載を踏襲したものだろう。アテベリーのファンタシー全般に対する理解は柔軟で、十分に好意的なものであったのだが、不思議なことにビーグルに対しては何故か拒否反応とも言える冷淡な対応を示している。どういう訳か、その優れた特質にも関らずビーグルは研究者達の正当な理解を得ていないのである。

(7)

 ビーグルに対する一部の批評家の評価と一般大衆の絶大な支持も、必ずしも『最後のユニコーン』の作品としての神髄を的確に物語るものとなっている訳ではないかもしれない。未だ適切に指摘され得ていない、未確認の基幹的要素がある筈である。マシソンは論点をそのあたりに絞ろうとしている。

(8)

 マシソンは『最後のユニコーン』の真価を理解するために、ユングの唱えた「集合的無意識」理論と「原型」説の確認作業から手をつけている。しかし『最後のユニコーン』の特有の反射的記述による創造性の評価を、個人内部の意識の力学として捉えた“心理学”という概念の中でのみ行ってしまうならば、この傑作の全体像を捉え損ねることになってしまうだろう。むしろマシソンが行おうとしているように、 “psyche”という概念を、包括的宇宙論あるいは精神と物質の全てを総合的に記述する仮想的統一理論の提示を可能とする理念として理解しておく必要がある。そのような意味で、この“原型”という概念が捕捉されねばならないのである。ユングその人が量子理論の探求者達との討論を通して再認識した、全一性の宇宙の保持する統合連続体としての存在論的属性に対する全方位的自覚の内実がその根底にあることを、見逃してはならないからである。

(9)

 トルキンと並んで20世紀におけるファンタシー文学の復活の担い手となり、『ナルニア物語』の著述のみならずいくつかのファンタシー文学理論を語る文献をも残しているC・S・ルイスを持ち出して、原型理論によるビーグルの弁護を図っている部分である。しかしこれらの議論はまだ本題に至る前の序章に過ぎない箇所である。ビーグルが独自に採用した事物の形而上的存在解釈と、これを反映した独特の仮構記述の手法に対する指摘こそが、的確に執り行われなければならないからである。そこで“情動的反応”という言葉で語られたものと、その情動的反応を生起せしめた筈の従来“物理現象”という概念で語られてきたものの双方を、一つの連続体としてある原型の示す共軛的な様相として容認する、極限的に“反射的”な存在論的思考が要求されることとなる。

(10)

 上で“霊性”と訳した“psyche”という語は、“霊的変成”という表現をとってこの論文の題目の一部に用いられている。このあたりで改めて、マシソンの採用したこの“psyche”という概念の保持する背景的な意義性について検証をしておく必要があるだろう。ギリシア語のプシュケーを語源とし、“霊魂”とも訳されることが多いこの言葉は、非科学的な迷信においてしばしば用いられるような、怪し気な述語などではないことを先ず理解しておくべきである。事物の根源的な存在様態を、還元主義的に膠着した自然科学的前提のみに捕らわれることなく、新次元の思考界面において柔軟に再解釈しようと試みた際の、人間性を構築する要素の一つとして構想された概念が、この“霊性”だったのである。 (br)  現実世界の有り様の全てをデモクリトスの原子論に倣って分割不可能な粒子の作用として捉え、その連鎖的運動に還元して諸現象を記述する理論であるニュートン力学や、様々な波長の重ね合わせとして全ての存在と様態あるいは属性を“波動”という概念で統一解釈することを試みる波動論の記述手法や、さらにまた全く発想を改めて10次元あるいは16次元の位相空間における特定の周波数を持って振動する“ひも”(string)という別個の存在単位でもって、物理的実在の総合記述を行おうと企図する超ひも理論などの解釈・記述システムと理論的には同等の妥当性を持つ仮説として、全一性の宇宙の様相として顕現する“霊性”に基づく代替記述の理論を構築することもできるのである。上に挙げたいずれの学説も体系も、あるがままの原存在的実在を人間的思考に適合させて都合良く解釈あるいは簡便に計算を行うために採用された、仮想的な記述手法に過ぎないからである。だから“重力”というニュートンが採用した“力”としての原理的な要素についても、粒子理論に従えば“重力子の伝播と仮想粒子の交換による相互作用”などというモデルで変換記述が行われたりもしている。さらに“時間”という次元や生命体の保持する“意識”や“精神”あるいは“感覚”等の、物理的には記述不可能な多様な要素をも含む統合的把握が試みられる際には、従来のものとは全く異なる新たな座標基盤を用いた仮想的統一記述理論が提唱されることもあり得るのである。 (br)  その一例として、人間存在を肉体と霊魂の二者から成り立つものと考える図式が一般的であるようだが、例えばオスカー・ワイルドの短編「漁師と彼の魂」などの場合では、人間存在を肉体、霊魂、心の三者に分裂可能なものとして語る別種の図式が提示されていた。ワイルドの場合は“霊魂”が伝統的なキリスト教的束縛性を、“心”が古代ギリシア的解放性を暗示するという側面を示していたが、それぞれの要素が占める意義性は、思想体系あるいは個々の仮構世界の主張する固有の透視図に従って、様々な変化形を取り得ることだろう。錬金術や神智学などの体系における種々の変化形において、人間存在を成り立たせているとされる諸要素が、上とはまた幾分異なった別の諸概念で語られることもあったのである。 (br)  『最後のユニコーン』という物語の全編が、マシソンがここで語った“psyche”という概念の示唆する豊かな内実を含んだ、いくつかの相互に関連を持った独特の“自律的な特性”の定義として、確かに機能しているのである。そこではマシソンがこの上なく適切に指摘しているように、存在物の本質はこれを観測するものの情動的反応という様態との交換記述が可能なものとなるのである。時空とさらに精神その他をも含めた統合連続体としてある原形質的な宇宙の一断面を語る概念として、“心霊”という言葉が的確に理解されなければならないのである。

(11)

 ユニコーンやハーピーの姿を目にした者達の示す反応が、単なる個別の存在物によって経験された因果関係の帰結である現象的事実としてではなく、世界全体の中で占めるユニコーンとハーピーという神話的存在の物質的・精神的存在属性を様相面から明らかにする、一種の試薬のようなものとして機能しているのである。このような原初的反応を普遍的に引き起こすのが、神話的存在の体現する“心霊”(psyche)の個別的属性なのである。つまり彼等の姿を目にした者の示す反応と、その反応を引き起こす独個の神話的存在との関係は、力学法則にあるような単一方向的な因果関係の過程と帰結として理解されるようなものではなく、本来分別不可能な連続体に帰属する共軛的位相を保持する、根幹的に等質のものでもあり得るのである。だから個別的人格/神格と抽象概念および心理的情動が等価性を保持するという、ペルソナ的/モナド的存在原理が提示されていることが正しく理解されなくてはならないのである。

(12)

マシソンはウィリー・ジェントルの声を描写するために用いられた “as naked as a baby bird” という記述を、堕落を知る以前の無垢と純粋を示唆するものとして解釈している。この“丸裸のひな鳥”という記述の裡に潜む主題性理解については、マシソンの採用したものとはまた異なった角度から行われた別解釈が、黒田の「ユニバーサル、ユニコーン──『最後のユニコーン』におけるユニコーンの存在論的指標」(『アンチ・ファンタシーというファンタシー2』に所収。以下FAAF2と記載。)において提示されている。ユニコーンを形容するために作中に一貫して用いられている “old” という、一見したところ意外な趣のある語の保持する特有のパースペクティブとの有機的連関を形成する一種の反転的同意語として、 “young” や “baby” などの語の使用が念入りな記述操作の適用を施されて行われていることを、この形而上的お伽噺の特有の修辞法として考察したのが上の論考である。

(13)

 『最後のユニコーン』という一見のどかな風を装ったお伽話世界の中に潜む、確たる構造性を備えた“形而上学”の存在を見落としていない部分が、マシソンの論文の評価し得る特質であろう。原型や集合的無意識の理論が意味をなすのは、逆にこれらの要素の抽出によってビーグルの仮構世界を成り立たせている緊密な形而上的構造性を明瞭に指摘することができるからなのである。そしてその形而上学的存在原理に従えば、“真実”という概念の適用において、現実と仮構の大胆な位相変換が試みられることともなる。

(14)

 あるがままの現実である“リアリティ”が、真性なるイデアからかけ離れた“影”でしかないと判断される時、輝きを失った俗界において唯一光輝を保つ“リアル”な存在は、徹頭徹尾非現実的なものでなければならなくなる。“リアル”という概念の意味の顛倒がなされていると語られる由縁である。そしてこのような“リアリティ”認識のドラスティックな転換と変容は、20世紀に至って量子存在の属性記述に関する実在解釈を巡る論議の沸騰から触発されたものでもあった。時間―空間、粒子―波動のみならず、他の種々の概念間の相互交替的原理特性がそこに見出されることとなったのである。

(15)

 定説となっている森の象徴的解釈のおさらいの部分とも見える箇所である。太陽は理性と昼の原理を司るアポロと一致するので、その光明を遮る森が太陽に対して対立的な存在とされるのである。太陽の光が森を育むというような因果関係的側面は、ここでは考慮されていない。しかしマシソンの考察は、既存の象徴解釈の枠組みをただ踏襲しようとするものでもない。むしろ主人公のユニコーンの保持する原初的な異教的豊穣性を洗い出す作業として、彼女の象徴解釈の手順が効果的になされているのである。

(16)

マシソンは森や木に関する象徴解釈から、『最後のユニコーン』の作品構造に見られる独自の象徴的図式に指摘を移行させる。『最後のユニコーン』が瑞々しい詩的感性に付け加えて、堅固な論理的システム構造性を保有しているのは、疑いようの無い事実である。ことに“時間”という主題を巡ってのユニコーンの行動に関するマシソンの解釈は、異論の余地の無いものであろう。硬直したアレゴリー解釈は、読みの作業を干涸びたものにしてしまうことが多いが、アレゴリー的意味性がしばしばキャラクター造形に見事に活用されているのも、確かな事実なのである。
 “堕落以前”や“転落”等のキリスト教神話的イメージが侵入してくるのは、こうした場合致し方ないことであろう。本作冒頭に示されたような情景は、西洋人にとっては、常に“原罪以前”という観念と連絡するものである。しかし、むしろキリスト教誕生以前の、古代ギリシア・古代エジプト的感覚あるいは東洋思想にも合致する象徴哲学の裡にある思想的要素が強く保持されていることを見逃してはならないだろう。

(17)

 マシソンは象徴解釈から作品世界を支配する図式的意味生成機構へと巧みに論点を進行させている。これらをただ指摘するだけでは意味がないが、これらの的確な指摘を行いつつ、文学作品の内実を支える意味形成機構としての本当に言及すべき本作品の根幹的特質へと、話題の界面が潜行しているのである。

(18)

マシソンがこの論文において西洋人、殊に学術関係者にもっとも理解され難い『最後のユニコーン』の重要な特質を確かに指摘することができていることを示す部分である。多義性のもたらす豊穣と曖昧性の暗示する解放性を正しく感受することのできる研究者は、意外と多くはなかったのである。ことにシニフィエとシニフィアンの関係性に関わる遊戯的な操作性は、これを容認するシステム理論的枠組みが未だ正しく構築されてはいないのである。ここでマシソンが『最後のユニコーン』の特質として指摘している“遊戯性”は、黒田が“漫画性”という述語を用いて論考を行ったものと同等のものであろう。Cf. 「アンチ・ファンタシーのポストモダニズム的戦略──ビーグルの『最後のユニコーン』と“漫画性”」(FAAF
 その効果が畳み込まれて増幅し、印象的な一つの情景として具現化しているのは、シュメンドリックの助力によってなんとか檻から逃れ出たユニコーンが、今度は彼女自身の魔法の力を用いてハーピーを檻から解放しようとする場面においてである。

(19)

 象徴機能が時において反転して、逆の指示を行うこともあり得る。ビーグルの場合のように、このような裏返しの論理の適用可能性の自覚は、主張の反転的解釈の妥当性を容認する全方位的記述の模索という創作的願望を考慮して常に理解しておく必要がある。殊に典型的英雄像の評価における反転的描写という風刺的/戯画的要素が、ユニコーンのみならずリア王子やロビン・フッドにも適用されて、特有の“アンチ・ロマンス”的記述が展開していることは無視することが出来ない事実なのである。これは実は、黒田が“アンチ・ファンタシー”という指標でもって指摘した、紛れも無いファンタシーの基幹的特質である。『最後のユニコーン』における“アンチ・ロマンス”という様相を顕示したアンチ・ファンタシーの具現化例についての論考としては、黒田の以下の考察がある。「アンチ・ファンタシーの中の英雄 ──『最後のユニコーン』のアンチ・ロマンス的諧謔性とファンタシー的憧憬」(FAAF2

(20)

 象徴解釈と修辞的技法についての指摘から、本論文の核心をなす主題である“心霊”という概念の内実に、論点が遷移していこうとしている。“心霊”という概念をこのように導入することによって、ユニコーンばかりでなく他のそれぞれの登場人物にも同等に適用可能な、風景と心霊の位相としての等価原理的変換記述が成り立つ同位体的関係性という宇宙論的統括主題の提示が導かれることとなるのである。

(21)

心霊の状況を反映するものとして用いられている外形的イメージについての論議から、ハガードの体現する理性的迷宮性の指摘を経て、ハガードとレッド・ブルの間の不可解な多義的関係性に関する曖昧性の考察へと論点が潜行している。このアンチ・ファンタシー的性向を顕著に備えた傑作の、もっとも興味深い内実に関わる部分であろう。
 『最後のユニコーン』に描かれている種々の曖昧性と記述の不定性に対するさらに精細な論考としては、黒田が『アンチ・ファンタシーというファンタシー』(FAAF)において展開したレッド・ブルとハガード王の関係性についての議論(「不毛の王国の貪欲なストイスト──フック的アンチ・ヒーローと神格化された無知」)及び、『アンチ・ファンタシーというファンタシー2──ピーター・S・ビーグル 最後のユニコーン論』(FAAF2)において改めて別の角度から展開した、レッド・ブルとユニコーンとの間の存在論的関係性についての議論(「レッド・ブル──無知と盲目の影」)を参照して頂きたい。

(22)

 深層心理学の図式等に依存する既存の類型的理論に当てはめれば、文学作品の意味するものについて存外に容易な解釈を機械的に抽出することが可能である。しかしマシソンの優れているのは、フロイト心理学的な定型的な読解の手法を模範的に押さえておきながら、決してその理論に縛られることなく、多面的な作品理解の余地を模索しようと試みているところであろう。実はこのような多義性と複層性に対する反射的省察こそが、『最後のユニコーン』の根底に潜む見逃せない主題でもあるのである。
 ハガード王の示す自意識の様態については、上のマシソンのものとはまた別な角度から、『ピーターとウェンディ』の悪漢キャプテン・フックの体現していた自意識の発展形として捉えた議論として、黒田による以下の二つの考察がある。「グッド・フォームと内省──キャプテン・フックの憂鬱」(FAAF)と、「不毛の王国の貪欲なストイスト──『最後のユニコーン』のフック的アンチ・ヒーローと神格化された無知」(FAAF)がそれである。

(23)

 マシソンは、多義的な象徴解釈から、いかにも謎めいて計り知れないハガード王とレッド・ブルの間の不可解な関係性の秘密に迫ろうとしている。彼女はここでは、超絶の階層、つまり霊的な変成を遂げる経路において、ハガードが最下層に位置するものであると見なしている。ハガード王のこの物語世界における存在的位階についての、上とは全く別方向からなされた解釈が、黒田の以下の考察において行われている。「不毛の王国の貪欲なストイスト──『最後のユニコーン』のフック的アンチ・ヒーローと神格化された無知」(FAAF

(24)

 マシソンの提示する宇宙論的心理学の“人間原理”的な一つの説得力ある解釈である。そこで改めて、ユニコーンの“自分自身の謎”とはいかなるものとして解明されることとなるのかが、問題とされねばならないだろう。これに対する黒田のさらに踏み込んだ宇宙論/仮構論的解釈が、以下の論考において示されている。「ペルソナと時空の等価原理──私と世界と魔法/仮構」(FAAF2

(25)

エリアーデの宗教現象学の理論を当てはめて、ハガード王の城の迷宮性とそこに秘匿された謎に対する魅力的な指摘がなされている部分である。骸骨の語る秘密と、ハガード王とレッド・ブル及び他のキャラクター達との関連に対するまた別の角度からの論考としては、黒田の以下の考察を参照して頂きたい。「意味消失による意味性賦与の試み──『最後のユニコーン』における矛盾撞着と曖昧性」(FAAF2

(26)

 エリアーデの語る空間的位相における“中心”の示唆する、堕落と上昇、絶望と希望の意味転換がなされる位相反転のメカニズムの存在が指摘されている。これらの概念との相関において、“心霊”という語が改めて宇宙形成単位としての妥当な意味を主張し得ることになるのである。この興味深い反転原理のシステム理論的特質に関しては、『最後のユニコーン』における修辞法と主題提示の見事な連関として、エドガー・アラン・ポーの詩的表現との関連から黒田が行った以下の論考がある。「『最後のユニコーン』の非在性のレトリック──あり得ない比喩と想像不能の情景」(FAAF2

(27)

『最後のユニコーン』における最も重要な主題の一つである“多義性”に焦点を当てて、殊にレッド・ブルの本性に関する記述の内包の複相性が指摘されている。レッド・ブルの保持するこの興味深い特質と、集約的悪漢像を担うハガード王との関係性についての量子論的世界解釈を踏まえた論考としては、黒田の以下のテキストがある。「不毛の王国の貪欲なストイスト──『最後のユニコーン』のフック的アンチ・ヒーローと神格化された無知」。(FAAF)さらに『最後のユニコーン』全編を支配する記述と描写の曖昧性の保持する、本作品の根幹的主題との関連に対する論考としては、黒田の以下の考察がある。「意味消失による意味性賦与の試み──『最後のユニコーン』における矛盾撞着と曖昧性」。(FAAF2)また、『最後のユニコーン』第一章において蝶が語っていた牡牛の情報に関して、欽定訳聖書における誤記載のもたらした「申命記」の牡牛の記載の二重性が示唆する、さらにもう一つのレッド・ブルの正体に関する解釈の可能性に関する論考として、黒田の「レッド・ブル──無知と盲目の影」(FAAF2)がある。

(28)

『最後のユニコーン』の創作戦略を、言語の意味性の破壊と再構築という文脈から積極的に評価する、従来見られなかった実りある試みがマシソンによってここになされようとしている。このような界面における精緻な考察を行わない限り、この稀に見る傑作の真価を捉えることは不可能な筈であったが、実際にビーグルは残念なことにそのような例にこれまで恵まれてこなかったのである。  これに付け加えるならば、さらにビーグルという作家の優れた本質を理解するためには、この作家特有の諧謔性に対する正しい評価が必要とされることになると思われる。その上で、このお話の最も重要な主題である“魔法”という概念の暗示する重要な意義性が初めて理解されることとなるのである。量子論理によって導入されることとなった“アクチュアリズ厶”という仮構記述と現象認識の相関に関わる鮮烈な意識と、全体性の枠組みの中で世界に対する意味性賦与を行い得る“個”の存在論的可能性が、“魔法”という主題を通してこの寓話の中で語られているからである。マシソンがシニフィアンとシニフィエの関係性の修復機能として指摘した『最後のユニコーン』の独特の創作戦略については、宇宙創成における“意味性賦与”の可能性という観点から検証した黒田の「“私”と“世界”と仮構/魔法──ペルソナと時空の等価原理」(FAAF2)を参照して頂きたい。

(29)

 マシソンは、言語の指示能力に関する考察から、比喩の手法へと議論を発展させている。『最後のユニコーン』における仮構記述の工夫に対する評価として、ごく順当なアプローチであろう。  ビーグルの比喩表現におけるアンチ・ファンタシー的特質と比喩表現、特に“換喩”の用法と記述内容の本質に関するさらに踏み込んだ考察としては、黒田の以下の論考がある。「『最後のユニコーン』の非在性のレトリック──あり得ない比喩と想像不能の情景」(FAAF2

(30)

 マシソンは魔法の果たす根幹的な機能を、言語の実質からの乖離に対する精神的修復機能という側面から解釈していく。マシソンの指摘するように、蝶とユニコーンが交わした会話と、シュメンドリックとその他の魔法使い達が用いた魔法の呪文とその効果の記述とは、主題的に極めて密接な連関を持つものなのである。
 蝶の語る言葉の引用の出典に対する検証としては、黒田が編纂した『最後のユニコーン』に対する注釈書Annotated Last Unicorn (2004)に詳細な記載がある。またビーグルの用いる独特の記述の工夫を、“非在性の記述”として評価し、言語の語る指示対象の発現する界面の次元拡張を試みることによって、魔法の原理との関連を考察した論考が、黒田の以下のテキストに含まれている。「意味消失による意味性賦与の試み──『最後のユニコーン』における矛盾撞着と曖昧性」(FAAF2

(31)

マシソンがこのお話の創作戦略の一つを“言語と体験を連結すること”と捉えたこの視点は、“存在と思惟の一致”をシステム理論的に容認する形而上的等価原理の法則に従えば、意味と実質の反転記述を許容する原形質的実質の多義性に対する反射的論理/情念操作として理解することも可能なものである。作中に繰り返し描かれる主客の関係の顛倒を通じて、『最後のユニコーン』においては意味と実質、仮構と現実の変換記述の可能性が限りなく追求されているのである。

(32)

 よくも悪くも、西洋的な因果関係性を意識した、線的論理構造理論を適用した解釈の一例がここにある。確かに『最後のユニコーン』は、あてどなく偶然に導かれて物語が進行する。しかし果たして無意味が意味性に収束するきっかけや転回点をこの物語に見出し得るのかどうかは、意見の分かれるところかもしれない。「何らかの意味が色濃く浮かび上がっていると解釈したならば、それはその他様々の無数の意味の可能性を遠ざけることとなる。」という反転原理に対する切実な指向が、この作品において他のいかなる意味性をも転覆しようとする恒久的な衝動を招いているようにも思われるからである。蝶や猫の果たす先導者的機能の偶発性をもっと原理的に評価してみたいとも思われよう。シュメンドリックがリアや自分自身や、そして実はユニコーンさえも、ストーリーの中に捕捉された他愛のない幻の一つに過ぎないことをどこかで意識していたりする、滑稽極まりない漫画的感覚の内実を無視することができないと思われるのである。

(33)

 世界そのものが紛れも無く直裁に他の何物かの暗喩としてあり、人間や神等の存在性自体もまた他の諸概念と暗喩としての関係性を持って結ばれているという、意味と実質をまたがって支配する存在原理がここに掘り起こされていることになる。“霊性”や“魔法”という異次元的概念が不可欠となる所以である。

(34)

 ソシュールやエリアーデ等の理論を当て嵌めて、『最後のユニコーン』に含まれる不定性の意味の豊穣性の一部を意味論的に語ってみれば、このような結論に導かれて来ることになるのだろう。そしてこれは、この優れたファンタシー作品を読み取る一つの優れた方法ではある。しかしこの物語の場合のように、首尾一貫した矛盾性と曖昧性が効果的に導入されている場合には、その矛盾撞着と意味拡散性をより色濃く反映した、さらに別次元の読解の手法を企ててみたくもなることだろう。「聖性」や「記号論」とは別界面にある、東洋的な諧謔と風狂の感覚がそれである。例えば黒田の以下の論考においては、骸骨の語る時間論が、より深く潜行してこの物語全体の主題性と関わることになる。“お話”という形を取った記述における意味性破壊行為の暗示する世界全体に対する意味性賦与の可能性が、観測効果と人間原理の宇宙論を踏まえて模索されねばならないからである。「意味消失による意味性賦与の試み──『最後のユニコーン』における矛盾撞着と曖昧性」(FAAF2

(35)

 短いながらも『最後のユニコーン』という実は際立って高踏的な趣のある文芸作品の本質を正しく把握した、優れた論評である。しかしながら、1968年に出版されて以来、36年後になってようやくこのような形でその“心霊的実質”が評価されねばならなかったところに、この作品自身というよりも、むしろアメリカという国の文化的問題性が窺われるような気がしてしまうのも事実である。『最後のユニコーン』の作品世界に種々の確かな手応えを感じながらこの物語の芳醇な語り口を楽しんで来た人々は、コンパクトにまとめられたこの論評には含まれていない、この作品の保持するその他の数多くの魅力的な主題性を想起することだろう。
 それは例えば、作品自体が示す“ファンタシー”というジャンル概念そのものに対する鮮明な自覚性と潜伏する主題自体との見事な相関性であったり、エドガー・アラン・ポーという芸術家/批評家の及ぼしているロマン主義に連接する思想的影響であったり、“アナクロニズム”や“ペテン性”等の要素の示唆するそれぞれに興味深い問題性を含めた個別の主題性であったりするだろう。あるいはまた、あえてマシソンが結論として選んだ“情動的理解”(心情的理解)という言葉の裏面を穿ち、“無意味性という意味”と“無関係性という関係”を敢えて論議の対象として、“二律背反性あるいは非在性の原存在”という形而上学的論考への逸脱を企てることも、この物語をより入念に味わうための実直な仮構世界構築作業の一つとして認められなければならないことだろう。つまり、マシソンがここで“曖昧性や混沌性や無意味性”という言葉で語って終止符を打ったものの内実を、さらにもう一歩踏み込んで改めて論理と脱論理の挟間で語る、詩的/奇術的パフォーマンスにおいてこそ、この作品に対する真摯な意味性賦与行為がなされ得ると言うこともできるのではないかと思われるのである。

戻る