召喚魔法と個人存在—『Fate/stay night』における存在・現象・人格概念

召喚魔法と個人存在—『Fate/stay night』における存在・現象・人格概念

1 ゲーム的仮構の新しい特質
 『Fate/stay night』は、Type Moon社により2004年に発売された奈須きのこのシナリオによるエロゲーである。魔法の力により神話や伝説の世界から召喚された英雄達をサーヴァントとして使役し、絶大な願望を叶える力を持つという聖杯を勝ち取るための魔術師達の戦いを題材としたこのゲームは、最初はウィンドウズ版のコンピュータソフトとして発売されていたが、現在ではいくつかの家庭用ゲーム機にも移植されて一般作として広く受け入れられている。他にも『Kanon』や『Air』等の水準の高いエロゲーの多くがこれと同様の経過をたどって一般ゲーム作品やアニメ作品として当たり前に世間に受容されることとなっているのは、現在の日本の最先端の仮構表現と仮構世界創出の場の実態を語る一際興味深い事実であると思われるのである。
 作品世界の賞玩においてエロ要素を鑑賞あるいはプレイの動作目的にしたゲーム作品は一般的に総称して “エロゲー”と呼ばれているが、作品個々の内容的特質を反映してエロゲーも種々の下位区分に分類されており、それぞれ毎の個別カテゴリー名称が付け加えられていることも多い。『Fate/stay night』の場合は、“伝記活劇ビジュアルノベル”というサブジャンル名称が平行して与えられている。文学作品において歴史小説や恋愛小説や推理小説等の種々のカテゴリー区分があり、また映画作品においてサスペンスやアクションやロマンス等の様々なジャンル名称が認められるのと同様に、“ゲーム”という形で現出した仮構メディアの中においても、いくつかの選別的特質が作品固有の傾向を醸成することとなっているのである。殊にゲーム作品の場合は“エロゲー”や“ホラーゲーム”等の題材的要素から分類される範疇区分のみならず、プレイヤーによる操作手順の側面からも特有のカテゴリーが構築され、いくつかの特徴的なコンピュータ・ゲームとしての下位ジャンルが形成される結果となっている。アドベンチャー・ゲーム(ADV)、シミュレーション・ゲーム(SLG)、アクション・ゲーム(ACT)、ロールプレイング・ゲーム(RPG)、テーブル・ゲーム(TBL)、シューティング・ゲーム(STG)等がその代表的なものである。
 これらのサブジャンル区分は、小説や詩の読者あるいは演劇や映画の観客の場合のように作品世界の展開に対して受動的な鑑賞者としての視座に留まることのない、双方向的関与を行って仮構世界展開の推進を行う“プレイヤー”の存在を前提とする新種の仮構世界の実質を具体的に物語る実例として、殊に興味深いものと思われるのである。それのみならず、既存の種々のメディアにあった先行例となる諸要素にかつての文藝作品や映像作品には存在し得なかった新規の諸要素が順列組み合わせに従って網羅的に適用された結果、多様性に満ちた芸術表現の複合形態が能動的鑑賞/個人的体験の対象となるゲーム作品として実際に制作され、種々の妙味ある仮構作物として具現化しつつあるのである。仮構とメディアの連続的な複合体として文学作品世界とゲーム作品世界を包括的に捉えるならば、従来の小説や詩などの伝統的な文学作品はいわばページをめくって文字を読み進めることによってのみプレイを進行する、機能を大幅に制約されたゲームの一形態であるとも看做し得ることになるだろう。
 エロゲーにおけるジャンル区分はかなり一般的に認知されて既にジャンル呼称が定着したものもあるが、現状では基本的に制作者側の申告による恣意的な名称賦与がなされているので、個別の作品に付加された実際の下位ジャンル名称を確認してみると、エロゲー作品の総体的な概念的枠組みの展開軸の範囲を改めて考察する上で取り分け興味深い指標となりそうなものも数多くある。以下にエロゲー専門雑誌に掲載された付加的ジャンル名称の印象的な実例のいくつかを挙げてみることにしよう。

 『Fate/stay night』:伝奇活劇ビジュアルノベル
 『マブラヴオルタネイティブ』:あいとゆうきのおとぎばなし
  (“ご都合主義結構”とのキャプション有り)
 『To Heart 2 XXRATED』:ビジュアルノベル
 『ef』:インタラクティブ・ノベル
 『CHAOS; HEAD』:妄想科学ノベル
 『戦国ランス』:地域制圧型SLG
 『つよきす』:強気っ娘攻略ADV
 『D. C. ~ダ・カーポ』:こそばゆい学園恋愛ADV
 『夜明け前より瑠璃色な』:月のお姫様ホームステイADV
 『君が望む永遠』:多重恋愛ADV
 『恋姫+無双』:妄想満載煩悩爆発純愛歴史ADV
 『プリズム・アーク』:S RPG style ADV
 『Really? Really?』:想い出修復ADV
 『ここより、はるか』:新たな世界で大切な何かを掴み取るADV
 『彼女×彼女×彼女』:同居型エロ萌えADV


 ゲーム作品の多くが複数のキャラクターを登場させストーリーを持つ“物語”の特質を保持することから、“ビジュアルノベル”や“インタラクティブ・ノベル”等の文学作品との類比とこれに対する付属的な特質を示唆するカテゴリー名称が与えられていることが理解出来るだろう。それと同時に物語系ゲーム世界独特の様式として“アドベンチャー・ゲーム”(ADV)という呼称が定着し、このジャンルの主流を形成しつつあることもまた分かる。上に例示した題名とサブジャンル名称の選択に反映される一見純朴でありながらも極まった諧謔性を備えた捻転したアイロニー感覚は、これらの仮構作品制作者達と受け手であるゲーマー達双方の決して固着した価値基準に容易に束縛されることのない、実はかなり高踏的な意識のあり方を反映しているものだろう。“萌え”的幼児性とゲーム的ナンセンス感覚の重合意識を正しく理解するには、それなりの知性が要求されるからである。しかも “エロゲー”としての主軸となる“エロ”要素を補完あるいは延展的に拡張して多様性に富む題材と手法が様々に導入され、このジャンルの秘める潜在的特質が全方位的に展開されつつあることがここに読み取れる。
 実は殆どの芸術作品の主軸を成す基幹的要素は、生に対する鋭敏な感受性と偽らざる現実認識を可能にする熾烈な知性とさらに判断を制約されることのない柔軟なアイロニーを凝縮した結果であるエロとグロとナンセンスにある筈なのである。だから演劇や文学や映画等の魅力の核心となる“芸術性”の実質がこれら三つの要素に還元されるのも、実は至極当然のことなのであった。伝統的な文学作品や美術作品に内在する“エロ要素”の占める意義性は今更言うに及ばないが、いわゆる“エッチ”要素を作品的特質として明示的に掲げる“エロゲー”における“エロ”の選別的特質については、改めてその実質を確認してみる必要があるだろう。
 システム的には、様々な芸術表現において創作行為と鑑賞を有機的に連関する価値基準を構築すべき内在原理が、“パースペクティブ”として個々の作品中に必然的に仮定されることとなる。『ハムレット』が復讐劇としての枠組みを持ち、『忠臣蔵』が“仇討ち”という消失点の裡に作品世界の奥行きを定められているのと同様に、“エロゲー”における作品世界鑑賞の基軸あるいはプレイヤーとしての能動的体験試行を実行するための固有の流儀は、個々のヒロインを対象としてそれぞれ毎の“攻略”を行うために選択肢の抽出を推進するという、特有の様式の裡にある。攻略対象となるヒロイン毎の基本属性に従って予め設定された“好感度”等の条件の蓄積が一定水準に達すると用意されていた“イベント”が発生し、ヒロイン個々との可能的関係性として潜在していた“ルート”の発現が確認され、最終的には攻略対象となるヒロインとのエッチシーンが導かれることにより進め手のヒロイン攻略の試行が完遂されることとなる。これは恋愛小説や冒険小説あるいはアクション映画やミステリー映画等それぞれの仮構世界において暗黙の了解として仮定されていた、仮構作品賞玩における意味的基盤を形成する目的意識や価値基準等を裏付ける基幹座標軸と等質の、送り手と受け手の間の契約事項なのである。エロゲー世界の進行を支配するこの内在的ルールは、鑑賞者の意識内に仮構が意味をなす世界として受容されるための前提条件となる意味性構築機構を決定する、純システム的な暫定原理なのである。特徴的なことは、エロゲーの大部分においてヒロイン攻略ルートは線的に単一の結論へと収束することは想定されておらず、むしろ選択肢の組み合わせの結果相反する物語描像が個別的に現出して、複数の拡散した“ストーリー収束”場面が実際に導かれることにある。 (1)
 多くの場合プレイヤーの満足度を満たさないこれらの派生的収束結果は“バッドエンド”と呼ばれて再プレイを要求する転回軸となるが、これらも実は厳密な一つの可能世界のストーリー描像としては確かな“結末”の一つであったことには変わりはない。これは完結した“意味を持つ世界”でなければならないという制約を背負った従来の文芸的仮構が保持することを困難にしていた、期待に反する“無意味的収束”というはなはだ即物的でしかも極めて“現実的”な様相を包含する機能をゲーム的仮構が新たに獲得したことを示す実例なのである。感動的でもなくカタルシスを与えるものでもないあっけない結末が大部分を占めるのが、多くのゲーム世界に共通する一つの特徴である。さらにこの事実は、複数の期待外れの結末として同位体的に発散した無意味的収束結果の総覧的対置を図ることにより、意味性構築機構の背後にあって多世界に通貫的に存在することを予測される、世界を支配するメタレベル的な意義性の本質そのものを検証する原理的特質を、ゲームという仮構形態が積極的な要因として備えていることをも示している。ゲーム作品は現実世界がそうであるように波束を収斂した“現象”として捕捉されるべきものではなく、波束の重ね合わされた原形質的な多義性のままにこそその“個別性”を判断されるべき新種の仮構世界なのである。
 仮構世界的意味性を一定水準で完結させるだけの説得力を備えたエッチシーンが導かれた後も、ゲームのプレイ自体がそこで終結することは実は稀である。多くの場合ゲーム世界はそこから“裏ワールド”へと進展し、既に体験した筈の同形のストーリーを文字通り新たな視点から再び辿り直して拡張次元における反転的世界描像を検証し直すこととなる。(2)この手順は通例攻略対象となり得るヒロイン毎に用意されており、数度に渡って繰り返されることが普通である。その結果得られた新たな統括的仮構世界描像は、時に次元超出的な秘匿された世界解式の存在を確証する跳躍的手順をも示すこととなるのである。 (3)各ヒロイン個々に対する個別の具体的攻略手順であると共に、世界レベルにおいては分岐した無数の平行世界の内実の網羅的な経験による検証と、さらに意識存在にとって世界の原理的意味性賦与を支配する情報次元の展開範囲の延展をも暗示する、従来の芸術作品においてこれまでかつて具現され得なかった新様式の構築が実現されていると看做し得る顕著な特質がこの辺りにある。(4)
 “聖杯戦争”に参加した7人の魔術師達がパートナーとして一人ずつ歴史上の英雄達を召還して戦いを繰り広げ、魔術的願望器である聖杯を勝ち取ろうと互いに競い合う、というのが『Fate/stay night』の伝奇活劇的な基本設定であったが、このビジュアルノベル作品は決して既存の神話や伝説等の依拠する固定した世界観を暗示する類型的パターンに収束してしまうことはなく、ストーリーを裏で支える仮構内存在者達の保持する価値判断や目的意識等が様々な側面から深く掘り下げられ、存在と現象と世界自体の意義性に関わる懐疑と再定義を企図する熾烈な主題性が窺える演出となっている。つまり召還される英雄の一人一人のキャラクターを、伝説を裏付けていたかつて英雄を英雄足らしめていた一意的な価値基準に基づく狭隘な見通し図に束縛されることなく、むしろこれらを反転的に脱却させてみせる大胆な思考操作を通じて伝説的存在を幻想を配した生身の人物像として再検証することにより、歴史上の“英雄的行為”や“悪逆行為”とされてきたものの内実について徹底的に批判的な精査がなされる結果となっているのである。本作の中心主題として採用された“聖杯戦争”という語に導入された“聖杯”も、実はアーサー王伝説における騎士ガラハドやパルシヴァル等との関連において語られて来た聖杯とは直接の関連を持たない呼称上の類比概念なのである。同様に、英雄存在を一般人と截然と分つことになる筈の“運命的出来事”と、平凡な一個の人間存在が日々の体験として実際に享受する飲食や性行為などの日常茶飯的出来事の双方が、ゲームプレイヤー自身の疑似体験としてあるがままの経験的事実であるかのようにごく自然に等価的に受け入れられることにより、一個の意識体にとっての切実な経験としての生の実相に対する徹底的な内省的検証もなされていく。神話を彩った神々の姿を語り伝えるのではなく、神話を個人の想念の中にまざまざと生きることを可能にしているのが、これら様々のゲーム作品の功績である。
 だからこそ『Fate/stay night』においてそれぞれの主要女性キャラクターが繰り広げるエッチの過程と、極めて丁寧に描き出される日々のお料理の献立(5) の双方に見られる細部へのこだわりは、具体性を持つ陰影の豊かなストーリーの展開と人間関係の緻密な構築を目論むという仮構世界的リアリズム達成のための演出的要請以上に、むしろ枢軸的な主題的必然性を主張するものなのである。崇高性を帯びた英雄的行為と卑近な日常的瑣末性の双方の内実を、予め方向軸を定めたフィクション世界構築の都合のための陳腐な類型に決して陥ることなく探査し尽くし、そこに取得される実存的な真の運命性を極限に至るまで可能世界の中で味わい尽くそうという、苛烈な覚悟がその背後に潜んでいることが窺えるからである。
 さらにまた『Fate/stay night』に限らず大半のビジュアルノベルでは、プレイヤーが特定場面で選択肢を選び取るという形でゲームとしてのストーリーを進行させるため、設定上の枢軸となっている前提条件に対して選択可能な結末の展開が複数に分岐するだけでなく、物語世界の描像は可能態の順列組み合わせのすべてをなぞることができる仕組みとなっている。(6) こうしたゲーム的可能世界の束としての仮構の全体像は潜在的に想定される事象の各々を網羅的に具現し、結果としてそこに得られる状況の各々の収束が示すそれぞれの事象の発現形に対し考え得る限りの角度からその倫理的本質と実存的意義性を確証することができるという構造になっている。一個のキャラクター像が被害者から傍観者、さらに加害者に至るまでの劇中における役割の全幅を実際に演じきる姿が、それぞれに相応したストーリー背景の許に描かれるのである。これは時間軸に沿った因果関係の連鎖という線的な事象発現の記述という制約を負った従来の“物語的仮構”が原理的に棄却することを選択することによって成り立っていた“物語”性に対立する、一種背反的な新分野の仮構的特質なのである。(7) 演劇や映画等におけるキャラクターは、ある特定の結果を招来した原因となる主体としてその存在性向を決定されていたが、ゲーム世界的キャラクターにおいては敗残者/脱落者/成功者/傍観者等様々の全ての相反する姿を一人で演じきることが要求されているからである。ゲーム的仮構様式が人格特性に対して与えるこのような属性は、さらに“タイムループ”や“平行宇宙間移動”などの多世界間の貫同一性概念再考察に深く関わる固有の主題を導入することによって存在と現象の“個別性”概念の再検証を要請するものとなり、原形質的レベルでの“個人存在”という概念の新たな位相の発見にも深く関わることになるのである。現在“エロゲー”として受容されている一連の仮構作品の要求する歴史的・文化的評価は、実はこのようなコンテクストの中にこそ確証されるべきものなのである。
 『Fate/stay night』とその続編とされる『Fate/hollow ataraxia』においては、魔法概念を通じて量子的存在論と心霊的宇宙論の合一を図ろうと企図する、既にエロゲー界の伝統ともなった科学的世界観の仮定に満足することがない頑強な全方位的知への願望が、やはり制作者の根幹的な問題意識としてあることが読み取れる。(8) 殊に『Fate/stay night』において特徴的な状況設定としては、過去の自分である主人公衛宮士郎を抹殺することを決心した未来の自分である英霊となったアーチャーを志郎が倒すことにより、生と存在の不毛なループを選び取るという可能性が潜行して示唆されている事実が挙げられる。また続編の『Fate/hollow ataraxia』における、成果の得られない4日間の聖杯戦争を時間軸を捻転させて限りなく繰り返すなどという、ループ構造性とその主観意識的反映である永劫回帰という可能性に対する覚悟への偏執的な程のこだわりも同様で、これらは実存的生のあり方を不断に意識する制作者の精神の類い稀な強靭さを感じさせるものなのである。
 ここに見られるようなゲームの中の仮構的な人物像をゲームプレイヤーとしてその役割を演じながら進行させていくというシステム的機構と、双方向的な選択行為により世界の全体像が多義的に変化するというゲームの枠組み的特質自体をゲームの中に箱庭的に挿入して、一つの仮構世界を成り立たせる存立条件そのものとして採用した入れ子的枠構造の導入の試みは、全方位的反射性に対する鋭敏な意識と共に、アルゴリズムを超えたアルゴリズムをどこまでも探索していこうとするメタ構造性に対する尽きない探求心を主張するものでもあるのだろう。
 だから本編『Fate/stay night』に対置された続編『Fate hollow ataraxia』の関係自体も、単に前作の設定をなぞってストーリー的にフィクション世界を時間軸上に伸展させた後日談的な局相とはなっておらず、断片的な疑似体験のパッチワークを繋ぎ合わせて概念空間の背後に隠された基幹設定を論理的に焙り出そうとする、純観念的な情報操作的要素を増幅したゲーム構造となっている。(9) その結果浮かび上がってくるメタレベルにおける副次的物語像は、むしろ前作の示した切実な意図と壮大な達成の意義性自体を反転させ、その結論として選ばれたものを敢えて転覆したところに、さらなる仮構的真実の考究の主題性を開拓することを企図するものとなっているのである。あたかも、キリストに対してユダに敢えて焦点を当てることによってキリスト教の本質を語ろうとするような、反転的描像の対置を試みる試行を通じて無限遠の思想的焦点を措定しようと試みる思い切った記述の趣向がそこに採用されているのである。そしてこのような捻転的主題性は、実は本編『Fate/stay night』において既に可能態として暗示されていた、潜伏した基底的主題性と看做すべきものでもまたあったのである。『Fate』シリーズのこのような複合的な視点を理解するための両編における重要な通貫的キャラクターが、アヴェスター語で“アンリマユ”と呼ばれるゾロアスター教の悪神である。常に正義の味方であらんと偏執的に欲する主人公衛宮士郎の性格的・存在的危うさが正しく理解されなければ、この思想的内実豊かなエロゲーである伝奇活劇ビジュアルノベルの本質を読み取ることはできないと思われる。常に善人の側に自身を置いておきたい人間達の都合によって作られた哀れな生け贄としての“絶対悪”は、それらの人々の心の身勝手な願望に忠実に従って悪を演じ続けているからである。

2 タイポグラフィーと魔法の原理
 『Fate/stay night』においては、取り分け“魔術”という知と技術のメカニズムの裡に暗示される“召喚魔法”において具現化された“英霊”と呼ばれる存在の選別的特性が人格概念に対する再考察を要請する思弁的企図として提示されており、さらにキャラクターの保持する“萌え”要素、即ちエロ・ファクターの構築にも重要な役割を果たす結果になっている。
 『Fate/stay night』では本編が開始する前に予備的に展開されるプロローグとして、主人公とは異なる別の人物の視点を採用することにより、英霊召喚とされるものの具体的手順とその根本理念を紹介して、召喚技術と魔法原理に関する科学概念を跳躍した思弁的設定が語られることとなっている。しかしこの“プロローグ”は、一見したところ本編の物語開始以前の序章に当たる枠外のエピソードであると共に、実はメインストーリーの中で“バッドエンド”を迎える最初の分岐ストーリーの展開の役目をも果たしているのである。中心と辺境の概念的差異を失った現代的宇宙観の思想的位相を反映した仮構世界的対応物として、この演出的特質を踏み込んで捉えることも可能だろう。
 プロローグの第1日目、聖杯戦争において主人公衛宮志郎のライバルとなるヒロイン遠坂凛がサーヴァント召喚を試みるあたりでは、この仮構世界の基本原理を形成すると思われる特殊な概念群とそれらの織りなす特有の関係性が様々な手法を用いて紹介されている。興味深いのは、文字列とそこに振られた読み仮名(ルビ)とが意味を乖離した二重構造を形成するという、独特のタイポグラフィーの工夫を活用してこの概念操作が試みられている点である。例えば最初に凛の発する魔法の呪文は以下のような表記を用いて示されている。

 「Schliessung(ロック). Verfahren(コード). Drei(3).
 短く、魔力を込めて言葉を紡ぐ。」

凛の用いる魔法の呪文はドイツ語表記を基本とするものになっているが、ドイツ語の文章に添えられた英語読みのカタカナ表記の例に見られるように、様々な様相におけるルビの活用によって魔法の裡に秘められる概念次元の越境と存在様相の跳躍の可能性が示唆されることとなっているのである。
 これに続いて、召喚魔法の実施を試みようと魔法陣の敷設に臨む魔術師である東坂凛の独白を通して、魔法技術の基幹設定を暗示する諸概念とその基底にある原理機構が具体的に語られて行くことになる。

 「聖杯戦争に参加する条件。それはサーヴァントと呼ばれる使い魔を招集し、契約する事のみだ。
 ——
 サーヴァントは通常の使い魔とは一線を画す存在だ。その召喚、使役方法も通常の使い魔とは異なる。」

魔術師同士の直接の対決よりもむしろその分身とも言える“サーヴァント”の間の抗争が中心となって競われるのが、このゲーム世界の中心主題となる“聖杯戦争”の仕組みだが、ここでは魔法を題材にした仮構世界にしばしば登場する魔法使いの下僕的存在である“使い魔”(familiar)を引き合いにして、召喚されるサーヴァントとの類似と相違がさりげなく語られている。この場合のような周知の類似概念に対する対比的言及に留まらず、この後には慣習的に容認された述語の本来の意味を乖離する意図的な越境的使用が行われていることが、『Fate/stay night』の採用したさらに巧妙なテキスト操作として指摘することができるのである。その布石として導入されていた語が、キリスト教伝説の中の秘蹟である筈の“聖杯”であった。このような概念と表象の次元跳躍的連繋の試行は、この哲学的企図に基づくビジュアルノベル作品における一つの創作戦略となっているようである。

 「……サーヴァントはシンボルによって引き寄せられる。強力なサーヴァントを呼び出したいのなら、
  そのサーヴァントに縁のあるモノが必要不可欠なのだ、かぁ……」
  ——
 「つまり、そのサーヴァントが持っていた剣とか鎧とか、紋章とか、そういうとんでもない値打ち物だ。」

召喚魔法の施行に関する重要案件として、対象となるサーヴァント存在との歴史的な意味上の連関を備えた固有の物品の保持が、この魔法の成否に関わるものであるとされているのである。キリストが最後の晩餐の際に口をつけた器である聖杯であるとか、その亡骸を包んだとされる聖骸布とか、さらに延長概念としては磔刑に処されたキリストの掌と足の甲に残された聖痕等が、これと同様の意味的連係を備えた具象物である。ここには事物の中に歴史を通して醸成された、通常“機縁”という言葉で理解されている意味性の保持する質料概念との相関、あるいはそこから類推される概念と存在のアナロジーを介した原形質的変換記述の可能性が示唆されている。この視点は全体性の宇宙の中で局所性の作用を跳躍した存在物同士における相関として現れる“エンタングルメント”という概念を通じて、空間的断絶の裡にも主張し得る“同一性”の一側面に対する再考察を要求することともなるものだろう。ここに示唆されている物質的延長性を超越した相関性とその基盤にある相当性は、“アナロギア”という魔法概念の枢軸を形成する基本原理であると共に、人格概念そのものの意義性に関する根幹的検証にもこの後深く関わって来ることになるであろう、『Fate/stay night』の中心主題なのである。
 凛の発した次の魔法の呪文は、日本語表記に対してさらに異なった内実の日本語の読み仮名を重ねて配した、概念と記法の二重構造性をことさら強く意識したものとなっている。同一性と相違性の双方が重ね合わせ的に指摘し得る曖昧性の論理空間の中でこそ、魔法の原理はその特質を主張されるのである。

「閉じよ(みたせ)。閉じよ(みたせ)。閉じよ(みたせ)。閉じよ(みたせ)。閉じよ(みたせ)。」
 繰り返すつどに五度。ただ、満たされる刻を破却する。

 存在と現象と概念の位相変換的相関を多義性の存在論空間の中に切実に模索することを意識した、科学が目を塞いだ/破却した裏の世界の多元的なシステム理論構造である魔法の原理の特質を端的に示唆している記述である。各概念が意味の多元立体空間に浮遊しており、それぞれの概念間の同等性と相当性を決定することになる論理座標軸もまた無数に漂っている。だからある特定の座標軸配置においては、“満たされる”が“破却する”に直裁に連接し得ることとなる。

 「——Anfang(セット)」  わたしの中にある、カタチのないスイッチをオンにする。
 かちり、と体の中身が入れ替わるような感覚。
 通常の神経が反転して、魔力を伝わらせる回路へと切り替わる。
 ——
 ……指先から溶けていく。否、指先から満たされていく。
 取り込むマナがあまりにも濃密だから、もとからあった肉体の感覚が塗りつぶされていく。
 だから、満たされるという事は、同時に破却するという事だ。
 ——
 全身に行き渡る力は、大気に含まれる純然たる魔力。
 これを回路となった自身に取り込み、違う魔力へと変換する。
 魔術師の体は回路にすぎない。
 幽体と物質を繋げる為の回路。
 その結果、成し遂げた様々な神秘を、我々は魔術と呼ぶ。
 ——
 魔術刻印は術者であるわたしを補助する為、独自に詠唱を始め、わたしの神経を侵していく。
 取り入れた外気(マナ)は血液に。
 それが熱く焼けた鉛なら、作動し出した魔術刻印は茨の神経だ。
 ——
 始めよう。取り入れたマナを“固定化”する為の魔力へと変換する。
 あとは、ただ。
 この身が空になるまで魔力を注ぎ込み、召喚陣というエンジンを回すだけ——
 ——
 視覚が閉ざされる。
 目前には肉眼で捉えられぬという第五要素。
 故に、潰されるのを恐れ、視覚は自ら停止する。」

凛の召喚魔法施行の過程を記述する上の文章において“外気”という日本語表記に添えて振り仮名として配された片仮名表記の“マナ”は、イギリスの宣教師コドリントンによって著書『メラネシア人』の中で報告された、太平洋島嶼において保持されている呪術的概念と重なるものだろう。東洋思想における“気脈”や古代ギリシア哲学における“プネウマ”とも一脈通じるところのあるこの概念は、科学思想が力学として仮定した“現象”という描像とは、全く相容れないものである。力学においては存在単位として座標性を備えた質量点が想定され、これら相互の局所的作用として現象は記述されることになる。世界に漲る“被人格的力”に相当する“マナ”という概念は、ニュートンの構築した力学的世界観の裡で厳密に定義づけられた存在物と現象という概念を超出する、異界面の論理に従った言語体系の許で主張されているのである。“マナ”は他の同位体的概念との併置を通して、殊にこの仮構世界における“魔法”と魔法使いの関連を暗示する主要概念として、意識存在と客観的物理存在の裡にあるさらなる緊密な関係性を物語ることとなるのである。そのための布石として“固定化”や“第五要素”等の語が用いられている。
 引き続いて召喚された英霊に対して霊呪の力を用いて命令権を実行するために凛の行う呪文詠唱は、やはりドイツ語表記と日本語表記の併記を用いてその記述が行われている。

 「Vertrag(令呪に告げる)…! Ein neuer Nagel(聖杯の規律に従い、) Ein neues Gesetz(この者、我がサーヴァントに)
  Ein neues Verbrechen(諌めの法を重ね給え)——」
 ——
 ―—右手に刻まれた印が疼く。三つの令呪。聖杯戦争の要、サーヴァントを律するという三つの絶対命令権が行使される。

 圧倒的な存在密度と力量を保持する英雄達を、一介の人間存在に過ぎない魔術師がサーヴァントとして使役することを可能にする基本原理が、上に語られた“霊呪”である。東洋神秘思想の裡で“神札”や“護符”の中に仮定されていた、形象の中そのものに充填し時に放出することもまた可能な想念との相関を持つ“意味的エネルギー”の存在が、ここに暗示されている。この場面での凛のサーヴァント召喚は半分成功し、半分は失敗に終わっていたのだが、当初の意図とは異なり未知の要因に従って召喚されてしまった意外な英霊存在である“アーチャー”との会話を通して、次のように“霊呪”という言葉を介して魔術原理の核心と、召喚される英霊存在との間の潜伏した関係性が語られることになる。

 「……はあ。いいかね。令呪はサーヴァントを強制的に行動させるものだ。
 それは“行動を止める”だけでなく、“行動を強化させる”という意味でもある。」
 ——
 「そっか。サーヴァントは聖杯に呼ばれるけど、呼ばれたサーヴァントをこの世に留めるのは。」
 「そう、マスターの力だ。サーヴァントはマスターからの魔力供給によってこの世に留まる。」

 魔術師であるマスターは召喚された英霊であるサーヴァントに対して禁令の権限ばかりでなく彼等の能力促進の権能をも同時に持つ訳だが、これらは実は同質のメカニズムに基づく双方向的な潜在力であるのだろう。マスターはサーヴァントに対して“魔力供給”という概念を用いて語られる特殊な霊的関係性を持つとされているが、この魔力の授受という関係性は、力学的宇宙観による因果関係的能動/受動という構造に束縛されない、魔術師である人と英霊との間の現象性を超えたメタレベルでのある種の“同一性”という概念をも示唆することとなるのである。
 こうして『Fate/stay night』では魔術師によって召喚された“英霊”、つまり神話・伝説上の英雄的存在達が“サーヴァント”としてマスターである魔術師に仕え、戦いを繰り広げて行くことになる訳だが、ここで興味深いのは召喚の対象となる英霊達の素性である。彼等は、各々がギリシア神話や古代アイルランド神話等の中で活躍した、“英雄”と目されるものであったのだが、それぞれの存在する次元界面が異なっていることから、本質属性においては密接な共通性を持つがためにむしろ互いに関わり合いを持つことがあり得ない、独立したキャラクター同士だった。しかしこの『Fate/stay night』という一つの仮構世界の中において、彼等の存在性向を束縛していた次元的断絶が超克され、聖杯を中心とした一つのルールと見通し図のもとに“戦い合う”という関係性を賦与されて、結果的にこれらのキャラクター達を媒介軸として、複数の神話・伝説の世界の統合と融和がなされる結果が招来していることになる。
 そればかりでなく、聖杯戦争に召喚された英霊の一人の佐々木小次郎などは、本人が自分が神話や伝説を通して醸成された歴史上の存在とは根本的に異なる、純粋にフィクション作品の中に捏造された一切の現世的実体性を持たない擬似的存在であることを自覚しているのである。このビジュアルノベルにおいては、何らかの歴史的事実を核としてその存在傾向を民衆の想念の中に確定させていた神話・伝説上の存在達に加えて、さらにとりとめの無い個人の空想上の妄想的キャラクターまでもが同一空間に勢揃いして、互いの存在論的意義性を付託し合うことが可能となっていることになる。このような断絶した筈の世界間の跳躍が可能となるメタ可能世界次元として、『Fate/stay night』というフィクション空間を成立せしめている世界の肌理の構成単位、あるいは宇宙論的“場”がいかなる特質を持っているものとして仮定されているのかが、重要な論考の対象とならなければならないはずである。取り分けシステム理論的には、この『Fate/stay night』という伝奇活劇ビジュアルノベルにおけるオリジナルの“英雄”像であるアーチャーの存在までもが、召喚された英霊達の一人として潜伏してさらに付け加えられていることが、見逃すことのできない構造的特質となるのである。
 凛パートのプロローグは更に引き続き2日目(2月1日)を迎える。魔法とサーヴァントとの関連が固有の専門用語の導入を通して語られている重要箇所と思われる部分のテキストを、続けて以下に示していくことにしよう。やはり殊に興味深いのが、“英霊”とされるものの存在論的内実を語る独特の概念と、その記述のあり方なのである。

 聖杯に選ばれた魔術師はマスターと呼ばれ、マスターは聖杯の恩恵により強力な使い魔(サーヴァント)を得る。
 ——マスターの証は二つ。サーヴァントを召喚し、それを従わせる事と。
 サーヴァントを律する、三つの令呪を宿す事だ。
 ——
 アーチャーを召喚した事で、右手に刻まれた文様。これが令呪。
 聖杯によってもたらされた聖痕(よちょう)がサーヴァントを召喚する事によって変化したマスターの証である。
 強大な魔力が凝縮された刻印は、永続的な物ではなく瞬間的な物だ。
 これは使う事によって失われていく物で、形の通り、一画で一回分の意味がある。

ここでは既に導入されていた“聖杯”という語と並んで、“聖痕”というキリスト教神話の中で語られていた特有の概念が導入されているが、そこには“よちょう”という異界面の概念を示すルビが施されている。“予兆”を暗示する振り仮名を配して呼ばれた英霊に対する命令権を具現した“刻印”は、マスターの手の甲等に記された一つの記号であると共に、時間順序を跳躍して因果関係の顛倒を及ぼす超自然的な力を示唆する、現象性を超越した概念とも連接するものとなっているのである。そのようなプログラム記述を可能にする“場”でもあり、“エーテル”のように全てに充満して世界を満たしている材質/力とされているのが“マナ”であるのだろう。キリストの行った秘蹟の一つとして聖書の中に記述されている“マナ”とは明らかに異なる音韻上の類比のみに基づく関連概念として世界の構成原理である“マナ”が導入されていたように、キリスト教上の概念になぞらえて他にも様々の類比的/逸脱的概念が導入されているのである。厳密な定義の許に純思弁的な記号記述を行う数学の記法とは対蹠的に、一般言語による暗示的な記法を通して既存の知識と連想の全てを参照しながら、いかなる規定された体系にも束縛されることなく独特の仮構記述を進めることができる、文学的創作技法の極まった手法がここに指摘出来るだろう。
 凛のサーヴァントとして現れたアーチャーは、意外なことに本来の自身の素性を忘却してしまっていた。彼の正体である“真名”と彼が凛の召喚に応じることになってしまった隠された因縁と関係性が、このビジュアルノベルというフィクションのミステリー的要素として、さらに人格同一性に関する主題性を掘り下げる鍵となって機能することとなるのである。  凛は一人で呟く。

 「……あいつの記憶が戻るまで宝具(きりふだ)は封印か……
 思いだせないんじゃ使いようがないしね。」

この仮構世界の中で採用された、サーヴァントの用いる魔力の籠った特殊な武器である“宝具”に対しては、“きりふだ”という振り仮名が適用されている。“きりふだ”と“宝具”の相当性が認められる概念決定軸は、魔術師の行動原理と英霊存在の属性記述が偶々合致する聖杯戦争という背景の裡において仮定される見通し図の一つである。主題形成上の要点となるルビの使用において統一的な一貫したメカニズムに従うことを避けて多元的なシステム構造を敢えて当て嵌め、自然言語の保持する多義性と曖昧性を存分に参照しながら独特の仮構記述の進展が図られている部分である。魔法概念に関する描写においては、一意的な推論手順に従った線的論理記述とは対蹠的な、言うなれば経路総和法的な過程が意図的に選択されているのである。
 現界したサーヴァント存在の本来の次元における存在様相は、“霊体”という特異な言葉を用いてその特質の一斑が語られることになっている。使い魔としての異様な外見を気にかけた凛に対して、アーチャーは答えて言う。

 「それも問題ではない。確かに着替える必要はあるが、それは実体化している時だけでね。
 サーヴァントはもともと霊体だ。非戦闘時には霊体になってマスターにかける負担を減らす。」
 「あ、そっか。召喚されたって英霊は英霊だものね。霊体に肉体を与えるのはマスターの魔力なんだから、
 わたしが魔力提供をカットすれば。」
 「自然、我々も霊体に戻る。そうなったサーヴァントは守護霊のようなものだ。
 レイラインで繋がっているマスター以外には観測されない。
 もっとも、会話程度は出来るから偵察ならば支障はないが」

現象世界にサーヴァントとして発現した英霊の姿は、言わばマスターの存在との相互作用として現象界面に投影された、原形質存在の及ぼす重ね合わせ的位相として理解されるものなのだろう。ここで“霊体”と共に殊更説明手順を弄することなくその概念の媒介軸として用いられた“レイライン”という語は、イギリスのウェールズ地方やフランスのガリア地方等に伝えられる地のエネルギーの“気脈”を呼ぶ“レイライン”(leyline)とは明らかに異なる、“霊”の原存在的連携を暗示する造語となっている。英霊存在の本来の姿であり、また彼等がサーヴァントとなった際に選択し得る位相の一つとして“霊体”という概念を持ち出し、さらにマスターとの関係性を東洋医学の“経絡”を暗示するような“レイライン”という造語概念で語ることによって、科学的存在/現象解釈の超出を図ることを可能にする極めて戦略的な記述手法が用いられていることが確認出来るのである。そのような意味で、物理存在とは原理的に異なる“霊体”という言葉で仮称されたものが、既存のいかなる概念連合とどのような関わりを持つものとして読み取り得るのかが、この伝奇活劇ビジュアルノベルをプレイする上での最重要関心事項となるだろう。
 英霊存在を周辺から定義づけることになるであろう補足情報を、このゲーム作品はさらにいくつか用意している。アーチャーによれば英霊は本質的に概念存在であり、その実質は“固有結界”と呼ばれる一種の場の概念とも隣接するものであるらしい。

 ————固有結界。魔術師にとって到達点の一つとされる魔術で、魔法に限りなく近い魔術、と言われている。
 ここ数百年、“結界”は魔術師を守る防御陣と相場が決まっている。
 簡単に言ってしまえば、家に付いている防犯装置が極悪になったモノだ。
 もとからある土地・建物に手を加え、外敵から自らを守るのが結界。
 それはあくまで“すでにあるもの”に手を加えるだけの変化にすぎない。
 だが、この固有結界というモノは違う。
 固有結界は、現実を浸食するイメージである。
 魔術師の心象世界——心のあり方そのものを形として、現実を塗りつぶす結界を固有結界と呼ぶ。

 魔術師やサーヴァントが保持する空間を操作する魔術的な能力の成果である“固有結界”についての凛の言葉の、“現実を浸食するイメージである”という部分から、英霊自身の持つ霊体としての存在特性と等質の形而上的存在論仮説に基づいた“場”の理論が想定されていることが理解できる。それは敵対的な攻撃に対して防壁を施す、単なる“バリヤー”のような物理的機能とは明らかに異なるものである。ニュートン物理学的3次元空間とは位相を違える、意識との連続体として定義可能な拡張次元空間が、魔術で用いられるという“固有結界” なのであろう。これは重力定数やシュヴァルツシルツ半径等の規定値によって出現が確定するブラックホール等の物理的な事象地平現象とはまた異なる、時空と精神の統合体が時に発現し得る想念の一種の概念的相転移を暗示する発想と思われるものである。あるいはまたこの造語は、科学の世界でも実験の結果として確証されている、物理現象の生成に関与する意識体による“観測効果”の事例を反映した含蓄ある概念として理解することもできるだろう。
 宇宙に現出する客観的物理現象とされるものの生成における欠かせない要因として、知性を備えた意識存在の関与が仮定されねばならないことは、既にアニメやゲームの世界では周知の事実になっている。原形質次元での量子存在の振る舞いの“不確定性”という特質は、全ての可能な運動経路を素粒子である電子の軌跡として仮想的に記述する手法として、ファインマンの“歴史総和法”の創出を導くことになった。さらにその重ね合わせ可能な多義性を理解するために、エヴェレットは無数の平行世界に分岐する宇宙像として、“多世界解釈”の発想を唱えることとなった。観測効果が及ぼされて波束の収束を得る以前の量子的“原存在”は、相反する無数の可能性が互いを打ち消し合っている中和状態にある。このような多義性の原形質“存在”を“現実”の事象として確定させるのが、“コヒーレンス”である。これは高等な知性を備えた意識の干渉という、観測効果による可能性の一部の抽出としてもたらされる。“シュレーディンガーの猫”の名で知られている逸話が、この観測者による原形質への干渉と事象発現のメカニズムの原理を語る著名な例である。効果的な量子的干渉によって具現化した特定の現象的様態が同期性を失って崩壊した状態が、“デコヒーレンス”“と呼ばれるものである。意識の主体が観測行為あるいはその意思の影響の結果及ぼす現象世界の具現化という発想は、既に多くのエロゲーやアニメ作品において様々の優れた仮構的反映が試みられているものなのである。(10) “魔術師の心象世界——心のあり方そのものを形として、現実を塗りつぶす結界”という表現が、個人存在の意識が現実世界の具現化に作用する根本原理をさらに踏み込んで導入した、『Fate/stay night』の選んだ文学的記述である。オッカムのウィリアムに代表される直裁な一意的論理至上主義の影響の許に、20世紀に至るまで唯名論的世界観が支配していたモダニズム的思想状況の後を受けて、これに対立する意識内部と外部実在の相当性を容認する実念論的発想の復権がポストモダン以降の特質として強く認められるのが、現在のエロゲー界の趨勢のようである。(11)
 実はアニメやゲーム等のオタク文化の世界においてのみならず、科学の原理に基づく筈の応用技術の諸分野においても、従来の自然科学的仮定に基づく規範を踏み越えた斬新な研究や処方が既に実践されつつあるのが現在の状況である。例えば哲学的な見地から科学思想の前提の再検証を迫る現在進行中の思想的変遷の傾向を確証させる先進的な科学者として興味深い人物が、『宇宙の基本コード』(The Basic Code of the Universe, 2011)を著したマッシモ・チトロ(Massimo Citro)である。チトロは存在物の全てを波動として捉える科学的/形而上学的理論を実際の医療行為に適用して、伝統的に行われていた“ホメオパシー”(代替治療)の手法を医療現場の実践手段として活用するために、“薬理学的周波数変換”(TFF: pharmacological frequency transfer)の技術を確立した臨床医学の実践者である。それのみならずチトロは、サイコセラピーや鍼灸治療等の種々の東洋医学の研究にも手を広げており、彼の視野と関心は統括的に人間存在の霊性と物理的存在性向を把握しようとすることにあると思われる。さらにまたチトロは、心理学と形而上的思弁を極めた思想家カール・グスタフ・ユングの研究者として学位を修めた人物でもある。その博士号取得論文は「グノーシス思想とユング」であった。医学と文学の双方の博士号を持つチトロの経歴が、彼の著書の内実とその著者の思想と実践の全てを物語ることとなっている。
 現代の思想界の典型的な科学思想に対する批判を意識したこのような傾向の変化を先導した一人と思われるのが、神経学者のアントニオ・ダマシオ(Antonio Damasio)である。ダマシオは脳神経のメカニズムに関する研究の成果から個人の保有する知覚と現実認識の実質を改めて捉え直し、伝統的な科学思想の前提を明らかに転覆する“私”概念に関する超出的見解を披露している。ダマシオの唱えた“ソーマティック・マーカー”仮説は、知覚として得られた神経情報が脳に伝達される際には、単一の刺激の個々としてではなく身体感覚の全体像として過去の類似の体験記憶になぞらえて再構成した形でその受容がなされるというものである。確かに与えられた複雑な情報群を生体が意識的に状況判断を行う以前の段階で瞬時に対応可能な近似的環境変化として変換するこの機能は、脳の獲得した個体の生命維持に対して極めて効率的な神経情報伝達様式であるように思われる。ダマシオはこのように身体感覚が理性による判断に先立って形成されていることに注目し、身体感覚が知覚と判断の過程でループ機構を形成して組み込まれている事実を重視して、身体と精神を二分して「考える、故に我有り」の命題を唱えたデカルトを批判したのである。“考える”主体である精神と“考える故に有り”と確証される肉体を截然と分離しようとしたのがデカルトであったが、ダマシオによればデカルトの冒した誤謬は、延長性を持つ物質である身体と空間的制約を持たない非物質である精神を分別しようとしたことにあった。思考の主体である理性を意識存在の中枢に置こうとするのではなく、理性と身体感覚の総合である情動の二つの別人格の共存として一個の人間存在を規定する発想を提示した彼の著した科学的/哲学的啓蒙書である『デカルトの誤謬—脳と情動と理性』(12) のタイトルが、この思想家の保持するデカルト以降の伝統的な科学的世界観を脱却することを目指す見解を簡潔に示している。
 さらに『スピノザを振り返って』(13) において見られるダマシオの提示する科学思想の原点の誕生に関与した同時代の対照的な二人の哲学者の所説に対する大胆な評価の転換は、この科学者自身の擁護する哲学的見地のみならず、21世紀に至って哲学と科学を統合して振り返ることの必要性を強く意識しつつある思想界の動向を見事に反映しているものである。
 唯物論的前提に基づいて質量単位の相互作用として全てを捉えようとする従来の科学的世界観を反転して、“情報”として世界の全体と個々の存在物の意識/知覚の双方を連続的に理解しようとする発想は、システム理論学者アーヴィン・ラズロ(Ervin Laszlo)の唱えた“アカシャ理論”(Akashic theory)等が既によく知られているものだが、よりゲーム世界の仮構的特質と近接した概念でこれを論じているのが、ブライアン・ホィットワース(Brian Whitworth)の「ヴァーチャル・リアリティとしての物理世界」 (14)である。ホィットワースは観測や実験の結果から帰納した結果としてでもなく計算式から得られた推論としてでもないが、飽くまでも現在の物理学が直面している様々の疑問点を解消する一つの説得力ある仮説として、現宇宙が一個のヴァーチャル・リアリティとして誕生した可能性を情報理論学者の立場から語っている。相対性理論と量子理論のいずれもが、それぞれの計算式は実験結果に正確に適合し実際に様々の応用技術として既に多方面で利用されてはいるものの、“客観的物理存在”としての事象の記述としてはあまりにも“意味不明”で、必ずしも理論として成功しているとは言い難いからである。ホィットワースの試みは、現在の科学的世界観の基本前提となっている質量・空間・力・時間・エネルギー等の全ての要因をディスク上に記録されたデジタル情報と等質の意味の複合体として捉えて世界を演算処理過程にある仮想的スクリーン上の描像として記述することにより、より直観的把握可能な宇宙像を提示しようとするものである。非ユークリッド幾何学が公理の一部の反転を採用して完結した整合性を保つ幾何学空間を新たに提示し得たように、ホィットワースも科学思想の前提となる“客観的物理存在”という“公理”を、外部世界により操作される“演算過程”と置き換えるのである。(15) 飽くまでも数学的な記法として現実世界の諸現象を粒子や波動や行列やあるいは1次元の振動体である“スーパーストリング”として数式化して演算処理の対象とする試みは様々に実施されてきたものの、我々の生きる現実世界は当然ながらこれらの要素のいずれかによって実際に構成されている訳でもない。これらの既存の近似的演算記法を採用した制約ある仮説を脱却して、現宇宙の誕生の根幹的枠組みをコンピュータに電源を投入しゲーム世界がモニタ上に信号として表示されるヴァーチャル世界のメカニズムとの類比を用いて捉えようとした彼の理論を適用すれば、確かにアインシュタインによって突きつけられた難題であった“光速一定”や量子理論によって暴かれた“宇宙の非局所的作用”や“トンネル効果”等の現実世界を支配している不可解な事象を解明する手だてを与えるのみならず、時間・空間・質量・エネルギー等の全てがプランク単位によって“量子化”されている不可思議をよく説明することができるし、量子存在の“不確定性”の謎に見事に解明の糸口を提供することさえなし得ている。ホィットワースは単なる直観に留まることなく、様々の “状況証拠”となる科学的検証結果を巧みに積み上げて、“実在物理世界説”を凌駕することが可能と思われる説得力ある“ヴァーチャル世界説”を展開してみせているのである。

3 情報理論と人格概念再考
 実はホィットワースの世界ヴァーチャル・リアリティ説は、天文学規模の宇宙空間における現象とミクロなレベルでの量子存在の振る舞いの双方を理解可能なものとして記述することに成功するばかりでなく、『Fate/stay night』の中で語られた“英霊”とこれに関連した人格様相概念を把握する際にも適用可能な、心霊特質理解に対しても極めて有効な仮説なのである。さらにまたこの理論は、現実存在としての我々自身の人格の情報的位相を再考察する契機をも、同様に与えてくれるものである。これに従えば “人格”の本質は、ゲームのディスク内に記録された諸データの抽出と排列による演算操作の結果と同様に、生ある一個の人間存在から曖昧な矛盾に満ちた情報の束である仮構的存在や純観念的記号としての抽象概念に至るまで、様々の位相にまたがって顕現する可能性を秘めた、潜勢的な“原存在”なのである。現実世界の我々個々の人格特性は、“英霊”として『Fate/stay night』の中で語られたものとはほど遠いが、むしろバッドエンドの結果として得られた失敗作の事例には見事に合致しそうである。そして我々の意識が“自分”として認識する“自己同一性”も、むしろ聖杯戦争の中で霊体が装う仮の姿として語られていた、特有のペルソナ的様相により近いものであると考えることができそうである。このような脱現象世界的人格解釈を裏付けることになる、この“伝奇ビジュアルノベルの中に展開されたさらにいくつかのキーワードを拾い上げていってみることにしよう。
 続いて凛パート第3日目(2月2日)では、人間存在あるいは英霊を規定する概念の中で、“たましい”と“せいしん”という言葉がいかなる背景のもとに関連づけられているかが、殊に興味深い魔法原理の構造的枠組みを構築するものとなっている。対応すべき歴史上の類例としては、霊的組成において“魂”と“魄”を分別するような形而上的思弁における意識と精神の複合的関係性に対する考察があったことなどを挙げることもできるだろう。あるいはウィリアム・ブレイクの成し遂げた様々の心霊的位相により構築された神話体系として語られた宇宙像を思い浮かべることもできるだろう。世界を物理現象として局所的な力学的作用に還元して記述する操作に対する反転的試行として、断絶の無い心霊的作用として全一的宇宙論の構築を企図する方策は、様々な表象と仮想的概念を生み出してきたのである。
 そのような思惑の許に試みられたと思われる『Fate/stay night』の次の概念操作例は、凛とアーチャーが他の魔術師の仕掛けた攻撃性の固有結界を発見した際の、凛の独白による記述である。

 「一時的にこの呪刻(けっかい)から魔力を消す事はできるけど、呪刻(けっかい)そのものを撤去させる事はできない。
 術者が再びここに魔力を通せば、それだけで呪刻(けっかい) は復活してしまうだろう。
 内部の人間から精神力や体力を奪うという結界はある。
 けれど、いま学校に張られようとしている結界は別格だ。
 これは魂食い。結界内の人間の体を溶かして、滲み出る魂を強引に集める血の要塞(ブラッドフォート)に他ならない。
 古来、魂というものは扱いが難しい。
 在るとされ、魔術において必要な要素と言われているが、魂(それ)を確立させた魔術師は一人しかいない程だ。
 魂はあくまで“内容を調べるモノ”、“器に移し替えるモノ”に留まる。
 それを抜き出すだけでは飽き足らず、一つの箇所に集めるという事は理解不能だ。
 だって、そんな変換不可能なエネルギーを集めたところで魔術師には使い道がない。
 だから、意味があるとすれば、それは。」

上の記述においては、“呪刻”という漢字表記に“けっかい”という平仮名表記がルビとして添えられているのが興味深い事実である。主観意識にとっては動作目的として措定される対象とその結果をもたらすために選択される手段は概念地平において全く異なるものとなることもあるが、原因と結果あるいは手段と目的に対して超出的に包括的な看取を行い得るメタレベルにおける視点においては、これらは一つの上位概念の許に統合記述の方策を得ることも可能なのである。そのような意味で示唆に富むのは、“魂”に関する「調べる」、「移し替える」、「集めるという事は理解不能」等の操作対象としての具体的記述であろう。奇しくも現代物理学が“エネルギー”という概念を用いて存在物の示し得る様々な様相の位相変換を上位概念による統一記述を用いて語ろうと試みたのと同様の発想で、ここでは“たましい”が物質あるいは“意識”に変換される統合記述を可能にする“エネルギー”の等位概念として用いられ、この仮構世界の魔術的システム機構の核心が言及されていることになる。“光”というエネルギーと同様に“たましい”も“移し替える”ことはできるものの、そのままの形で“蓄積する”ことは想定不能なのである。
 次はこの場面に引き続く凛とアーチャーとの会話を通して、英霊存在そのもののシステム理論的特質を示すと思われる基幹情報が、さらに“たましい”という語を軸にして語られている部分である。

 「アーチャー。貴方たちってそういうモノ?」
 知らず、冷たい声で問いただした。
 「……ご推察の通りだ。我々は基本的に霊体だと言っただろう。故に食事は第二(たましい)、ないし第三(せいしん)要素となる。
 君たちが肉を栄養とするように、サーヴァントは精神と魂を栄養とする。」

“マナ”が先程“第五要素”とされていたのに対応して、“たましい”は“第二要素”、“せいしん”は“第三要素”とされている。ここでアーチャーによって語られている“霊体”という概念と“たましい”及び“せいしん”という概念をそれぞれ分別しながらも魔法を媒介軸として統括的に記述することを可能にする心霊的“統一理論”の構築が、『Fate/stay night』では極めて野心的な創作戦略として企図されているのである。それは当然のことながら英霊存在の定義を語るのみならず、我々人間存在の人格特性再検証にも深く関わることとなるだろう。現実—仮構統一場における存在・現象・人格同一性を連続的に記述する包括的システム理論が、そこに提示されようとしているからである。

 このような認識手順を反芻しながら、凛は愈々結界消去の魔術を発動させることになる。

 地面に描かれた呪刻に近寄り、左腕を差し出す。
 左腕に刻まれたわたしの魔術刻印は、遠坂の家系が伝える“魔道書”だ。
 ぱちん、と意識のスイッチをいれる。
 魔術刻印に魔力を通して、結界消去が記されている一節を読み込んで、あとは一息で発動させるだけ。
 「Abzug(消去) Beldienung(摘出手術) Mittelstnda(第二節).」
 左手を地面につけて、一気に魔力を押し流した。

そこにいきなり現れた敵サーヴァントの攻撃を回避するため、さらに凛は“身体の軽量化と重力調整”を行うための呪文詠唱を行い、アーチャーに補助を頼む。

 「Es ist gros(軽量). Es ist klein……(重圧)!!」
 反応は早かった。左腕の魔術刻印を走らせ、一小節で魔術を組み上げる。
 ——
 「vox Gott(戒律引用、) Es Atlas(重葬は地に還る)——!
 アーチャー、着地任せた……!」

いずれもドイツ語表記をベースにして日本語漢字表記をルビとして使用した平行記述となっているが、ドイツ語の直訳とは明らかに異なる日本語表記が用いられていることが興味深い。
 英霊存在の特有の心霊的位相あるいは超物理的様相を理解する上で重要な鍵となるのが、聖杯戦争のために彼等をサーヴァントとして召喚する際にその“器”として用いられるという、“クラス”という概念である。“役割”という語に添えられたルビとして、“クラス”という語は重層的に導入されている。

 サーヴァント。七人のマスターに従う、それぞれ異なった役割(クラス)の使い魔たち。
 それは聖杯自身が招き寄せる、英霊と呼ばれる最高位の使い魔だ。
 ——だが、彼らを使い魔と呼ぶのは語弊がある。
 ——
 サーヴァントとは、それ自体が既に、魔術の上にある存在(モノ)なのだ。率直に言おう。
 サーヴァントとは、過去の英雄そのものである。
 神話、伝説、寓話、歴史。真偽問わず、伝承の中で活躍し確固たる存在となった“超人”たちを英霊という。
 人々の間で永久不変となった英雄は、死後、人間というカテゴリーから除外されて別の存在に昇格する。
 ……奇跡を行い、人々を救い、偉業を成し遂げた人間は、生前、ないし死後に英雄として祭り上げられる。
 そうして祭り上げられた彼らは、死後に英霊と呼ばれる精霊に昇格し、人間サイドの守護者となる。
 これは実在の人物であろうが神話上の人物であろうが構わない。英雄を作り出すのは人々の想念だ。

 東坂凛のような魔術師達が用いる“魔術”という“技”の“上位レベル”のものとして、サーヴァントとして召喚可能な“英雄”存在があるというのである。魔法を支配する原理の視点上には動作手段と行動目的対象の間に概念的差異は存在せず、魔術という技法とその行使の結果顕現する英霊は、連続的な“同一”概念の上に配置されたそれぞれの位相なのであろう。ここから理解出来るように“英雄”という概念は、個人の成し遂げた業績や達成などに関する厳密な具体的行為からのみ定義付けられるものではない。本来の人間存在からはむしろ乖離した、“人々の想念”によって形成された願望の集積体である“情報存在”として位置づけられているところに、召喚の対象となる“英霊”存在の特質がある。さらに英雄が人間存在から“除外される”という断絶があると共に“昇格”して“精霊”となるという部分には、存在と概念の間に相転移的な位相跳躍を認めると同時に、確たる“同一性”が連続的に維持されている事実も示唆されているのである。このような人間/英霊存在の位相の類似と相違の内実を語る補助的概念として採用されているのが、上の記述に導入されている“クラス”という一際興味深い述語である。

 聖杯は英霊たちが形になりやすい“器(クラス)”を設け、器に該当する英霊のみを召喚させる。
 ——
 予め振り分けられたクラスは七つ。
 剣の騎士、セイバー。槍の騎士、ランサー。弓の騎士、アーチャー。騎乗兵、ライダー。魔術師、キャスター。
 暗殺者、アサシン。狂戦士、バーサーカー。
 この七つのクラスのいずれかの属性を持つ英霊だけが現代に召喚され、マスターに従う使い魔——サーヴァントとなる。
 ——
 サーヴァントとは、英雄が死後に霊格を昇華させ、精霊、聖霊と同格になった者を指す。
 言いかえれば悪魔、天使の類いに近い。
 彼らは単体でも強力な使い魔だが、彼らの最も強力な武器は“英雄の証”、すなわち“宝具”と呼ばれるマジックアイテムだ。
 ——
 かつて、竜を殺し神を殺し、万物に君臨してきた英雄の武器。
 サーヴァントは自らの魔力を以てその“宝具”を発動させる。
 言うなれば魔術と同じだ。サーヴァントたちは、自らの武器を触媒にして伝説上の破壊を再現する。


 ……もっとも、聖杯にも現界があったらしい。
 いかに聖杯といえど、精霊じみた連中を無差別に呼び出す事は出来なかった。
 悪魔と呼ばれる第六架空要素の実体化には“人々が創造したカタチ”が必要なように、
 英霊たちも、こちらの世界で活動できるカタチが必要なのだ。

異教的な背景に基づく民衆伝説上の存在である精霊と、キリスト教の正統思想の許に厳格に体系づけられた聖霊とが音韻上の同一性を通じてその相当性を暗示するという概念操作の裡に、 “第六架空要素の悪魔”という本来の宗教概念の次元跳躍的参照を加味して、“クラス”という概念の背後にある仮構世界にまでも通貫する情報特質が語られているのである。

 敵サーヴァントを打破するには、その正体を知ることが近道となる。
 自分の正体さえ知らないバカものは例外として、サーヴァントにとって最大の弱点はその“本名”なのだ。
 サーヴァントの本名——つまり正体さえ知ってしまえば、その英霊が“どんな宝具を所有しているか”は大体推測できる為だ。
 言うまでもないが、サーヴァントは英霊である以上、確固たる伝説を持っている。
 それを紐解いてしまえば、能力の大部分を解明する事ができる。
 サーヴァントがクラス名で呼ばれるのは、要するに“真名”を隠す為なのだ。
 なにしろ有名な英雄ほど、隠し持つ武器や弱点が知れ渡っているんだから。
 サーヴァントとなった英霊は決して自分の正体を明かさない。
 サーヴァントの正体を知るのはそのサーヴァントのマスターのみ。

個別の伝説や仮構世界内部においては、神話や伝説の中に登場する英雄存在の保持する例外的権能や弱点等の特質情報と、さらに彼等の運命を支配した存在特性の秘密に関する知識は、他の大部分の人々にとって未知のものであることが暗黙の了承とされている。しかしこれらの神話・伝説及びそれらを題材にした種々の仮構世界の存在を、“アキレスの踵”やオイディプス王に与えられた陥穽的預言の場合のように文学的素養に関する情報としてむしろ鮮明に弁えているのが、現実の我々の教養的枠組みを成す集合的想念なのである。『Fate/stay night』においては、仮構世界の登場人物達の保持する意識レベルはこの点において現実世界の我々のものと何ら変わることがなく、仮構世界的特例や暗黙の了承を棄却しているという意味で、見事にメタフィクションの要素を具現している。そしてそのようにメタフィクションの特質を開示するフィクションは、存在論的位相としては現実世界と等位か、あるいはさらに高次の次元を主張することとなる。
 伝説を形成する抽象的な意味情報の集積の具現化したものが英霊であるならば、それは個人存在であると共に様々な人々の想念が醸成した幾多の矛盾を含む概念の複合体である。そのような情報集積体を一定の“器”の中に具象化することが、召喚魔法とされるものの内実なのであった。“器(クラス)”と呼ばれるものは、その英霊存在達の、聖杯戦争という背景の許で発揮される選別的能力として濾過された特質の具象化である。さらにそのような発現形の背後に、神話・伝説的存在が基底情報として保有する、人格的基盤となるべき能力や特質や性向があるとされるのである。そういう意味では英霊達の“真名”は、聖杯戦争という背景とサーヴァントという枠組みを持たなくとも英霊存在が本来的に保持する、原人格としての原初的な本体的位相ということになる。
 そうした英霊存在が根源的に保持する願望あるいは指向が、召喚魔法において“クラス”という器にその情報集積体を移し入れる際のパラメータとなり、願望器である聖杯を勝ち取ることを意図するマスターとなるべき魔術師との精神的同調が行われることとなる。 (16)機縁と指向性において時間と空間の次元的断絶を超えた“同一性”の許に結ばれた意味的関係性を担っているのが、召喚者のマスターとそのサーヴァントとなる英霊存在なのである。そして取り分け興味深いことは、この伝奇活劇ビジュアルノベルの主人公である衛宮志郎も、彼のライバルとしてあるいはサブヒロインとして重要な役割を果たすことになる東坂凛も、彼等と各々のサーヴァントとして召喚に応じた英霊達との“同調”の内実については、全く無知であったという事実なのである。偶然に凛のサーヴァントとなってしまったアーチャーと、衛宮志郎のサーヴァントとしてあまりにも思いがけなく現れたセイバーの“真名”が明らかにされるのは、聖杯戦争の成り行きがかなり進展した、ストーリーの後半になってからのことなのである。召喚魔法には、術者である魔法使い自身の思いの及ばない隠れた選択原理が存在していたのである。
 多くの仮構の従う暗黙の了承を破却してメタ仮構的リアリティの構築を目論む『Fate/stay night』では、東坂凛が聖杯戦争に参加した動機とされる思考も極めて例外的な判断基準に基づくものとされている。万能の願望器である聖杯を取得すべき根本動機について交わされるアーチャーと凛の会話は、以下に示すようにかなりちぐはぐなものとなっているのである。

 「願い?そんなの、別にないけど。」
 「——なに?よし、よしんば明確な望みがないのであれば、漠然とした願いはどうだ。
 例えば、世界を手にするといった風な。」
 「なんで?世界なんてとっくにわたしの物じゃない。
 あのね、アーチャー。世界ってのはつまり、自分を中心とした価値観でしょ?
 そんなものは生まれたときからわたしの物よ。
 そんな世界を支配しろっていうんなら、わたしはとっくに世界を支配しているわ。」

 凛の語る、手に入れた聖杯に対して要求すべき「願いや野望なんてものは別にない。」という醒めた認識が、かつての伝説を形成した英雄達の保持していた筈の限定的な価値観に束縛されていた世界観とは明らかに異なる、はなはだ現代的な生の感覚をあらわしている。神話や伝説の中で当然のごとく受け入れられて来た王国の再建や聖地の奪還や異教徒の駆逐などの高邁な願望は、残念ながら硬直した価値観に拘束された仮構世界の中の暫定目的ではあり得ても、生身の人間存在の想念を支配する具体的なパースペクティブを構築することはあり得ないのである。次元界面を違えた様々の伝説世界の英雄達が勢揃いする『Fate/stay night』の意識空間は、おそらく我々の生きる現実世界の価値基準を支配している富や地位などの脆弱な疑似原理の制約をも超出するものであるに違いない。神話世界を支配していた戦いの勝利や探求の旅の達成ばかりでなく、現代の産業資本主義の課する競争や到達や保有などの妄想的な暫定目的に対してもあからさまな疑問を提示する、常に反省的な意識がむしろこのビジュアルノベルの基調となっているのである。偉大な業績を成し遂げたとされる“英雄”の蒙る本質的評価と、全方位的真実を備えているとされる筈の“正義”の内実の再検証が、このエロゲーの中心的関心事となっているのである。
 凛パートのプロローグの終末は、凛とアーチャーが本編の主人公衛宮志郎のサーヴァントとなった強力な英霊との邂逅を果たす場面によって導かれる。志郎がそうと理解することなく無意識の裡に召喚してしまったサーヴァントであるセイバーが現界する様を、抗争の相手である凛の視点から記述したのが以下の文章である。聖杯の持つ魔法の力によって、想念としての意味次元にあった英雄存在が魔術師自身の人格情報を触媒として現実世界に具現する様なのである。

 気配が、気配にうち消される。
 ランサーというサーヴァントの力の波が、それを上回る力の波に消されていく。
 ……瞬間的に爆発したエーテルは幽体であるソレに肉を与え、実体化したソレは、
 ランサーを圧倒するモノとして召喚された。

 ここで語られている“エーテル”という語も、“レイライン”や“聖痕”の場合と同様に、既存の内包と外延を持つ周知の概念を敢えて説明無しに異界面の意味性を担わせて導入するという、このビジュアルノベルの独特のレトリック操作を適用したものである。当然この場合のエーテルは、アルコールの一種の高分子化合物でもなく、光を伝導する機能を持って全ての空間に充満していると仮定された、相対性理論完成以前に物理学の世界の関心を支配していたあの疑似物質概念とも異なるものだろう。むしろニュートン的宇宙論の提示した絶対真空空間に浮遊する存在単位としての質量点に還元された科学的世界観の基本発想以前に神学者達によって採用されていた、この世の存在物を構成する“コーポーリアル体”に対して天使や霊魂等を組成する非物質的別存在様態を示す材質として構想された“アストラル体”などの反質料概念に近接するものを持つのが、ここで用いられている“エーテル”なのであろう。
 アーチャーと遠坂凛は、いきなり姿を現した志郎のサーヴァントのセイバーに瞬時に切り伏せられて、ここでバッドエンドを迎えてしまうことになるのだが、『Fate/stay night』のヒロインとして中心的役割を占めるセイバーの凄みを持つサーヴァントとしての印象を敢えて外的視点から描き出すことに役立っていたのが、東坂凛を中心にしたこのプロローグであった。さらに、魔術師としての専門的知識を持つ遠坂凛の観点からストーリーの承前を描いた彼女のルートは、魔法という主題に関してかなり複雑な裏設定のあるこのゲーム世界を解説するマニュアルの役割を果たしていたようでもある。しかし実はプロローグであると同時に、本編として凛パートでゲームを進めた場合の、バッドエンドとしてゲームオーバーという結末を迎えなければならない一つの選択肢としても理解できるのが、ここまでの進行なのであった。

4 倫理と正義と喪われた生存本能
 こうして凛パートが3日目を迎えたところで唐突にこのルートは収束を強要され、あっけない幕切れを迎える。東坂凛の体験するストーリーの可能性の一つとしてあった、頓死によるゲームオーバーが具現化するのである。このエピソードを迎えた後になってようやく、士郎パートの本編1日目(1月31日)が開始されることとなる。本編における志郎の特異な生い立ちを語る“プロローグ”がここでさらに別個に導入されている事実は、このゲーム的仮構のメタレベルにおける自己言及的記述として看做し得る、興味深い要素でもあるだろう。“魔法”という世界解式と大きく関わる主題と平行してこの伝奇活劇ビジュアルノベルの重要主題を構築しているのが、主人公衛宮志郎の一個の意識存在としての融通性を喪失させることとなった幼少の苛酷な体験と、彼の偏向した固定観念である“正義”だったのである。個人の精神内部の問題として倫理と仮構世界と現象世界の全てを含む心霊的関係性を捉えようと企図するこのエロゲーの仮構的立脚点が、改めて提示されるこのプロローグに示されている。志郎の独白からなるかなり長大なプロローグの前半部分だけを、以下に抜き出してみることにしよう。

 1日目 『Rebirth』  ——気がつけば、焼け野原にいた。
 大きな火事が起きたのだろう。
 見慣れた町は一面の廃墟に変わっていて、映画で見る戦場跡のようだった。
 ——それも、長くは続かない。
 世が明けた頃、火の勢いは弱くなった。
 あれほど高かった炎の壁は低くなって、建物はほとんどが崩れ落ちた。
 ……その中で、原型を留めているのが自分だけ、というのは不思議な気分だった。
 この周辺で、生きているのは自分だけ。
 よほど運が良かったのか、それとも運の良い場所に家が建っていたのか。
 どちらかは判らないけれど、ともかく、自分だけが生きていた。
 生きのびたからには生きなくちゃ、と思った。
 いつまでもココにいては危ないからと、あてもなく歩き出した。
 まわりに転がっ  ている人たちのように、黒こげになるのがイヤだった訳じゃない。
 ……きっと、ああはなりたくない、という気持ちより、
 もっと強い気持ちで、心がくくられていたからだろう。
 それでも、希望なんて持たなかった。
 ここまで生きていたことが不思議だったのだから、このまま助かるなんて思えなかった。
 まず助からない。
 何をしたって、この赤い世界から出られまい。
 幼い子供がそう理解できるほど、それは、絶対的な地獄だったのだ。
 そうして倒れた。
 酸素がなかったのか、酸素を取り入れるだけの機能がすでに失われていたのか。
 とにかく倒れて、曇り始めた空を見つめていた。
 まわりには黒こげになって、ずいぶん縮んでしまった人たちの姿がある。
 暗い雲は空をおおって、じき雨がふるのだと教えてくれた。
 ……それならいい。
 雨がふれば火事も終わる。
 最後に、深く息をはいて、雨雲を見上げた。
 息もできないくせに、ただ、苦しいなあ、と。
 もうそんな言葉さえこぼせない人たちの代わりに、素直な気持ちを口にした。
 ——それが十年前の話だ。
 その後、俺は奇跡的に助けられた。
 体はそうして生き延びた。
 けれど他の部分は黒こげになって、みんな燃え尽きてしまったのだと思う。
 両親とか家とか、そのあたりが無くなってしまえば、小さな子供には何もない。
 だから体以外はゼロになった。
 要約すれば単純な話だと思う。
 つまり、体を生き延びらせた代償に、心の方が、死んだのだ。

 物心のつかない幼い頃に“体を生き延びらせた代償に、心の方が死んだ”という特異な体験を背負った主人公衛宮志郎の意識を支配している行動原理である正義が、救済と依存の関係を顛倒させたある種の脱臼した異常心理として語られるところに、魔法の原理と倫理の問題を中心主題とした「エロゲー界の倫理学」と呼ばれるこのビジュアルノベルの見逃すことが出来ない特質がある。
 志郎の独白によるプロローグはこの後さらに暫く続けられるのだが、彼の生い立ちを要約すれば、孤児となった志郎を引き取ってくれたのが魔術師衛宮切嗣であり、“魔術協会”の管理体制 (17)から離れた異端的なこの魔術師に最小限の魔法の知識のみを教授された後に偶然に聖杯戦争に巻き込まれてしまうことになるのが、主人公衛宮士郎である。衛宮士郎パートの本編では暫くの間、英霊存在についての知識も聖杯戦争に関する備えも一切持たない志郎のごく平凡な日常生活の有様が物語られていくことになる。唯一志郎の日常生活が一般の人間達と異なるのは、彼なりに魔術師としての修行を日々行っている点である。この辺りは聖杯戦争という主題との密接な関係を持った東坂凛のプロローグが語っていた魔法の原理的特質に対して、むしろ裏面から間接的に魔法と人格特性の本質を掘り下げる本作の主題を物語ることになっている。
 志郎の魔法能力は、“強化”という、魔法の能力としてはいささか傍流的な技術を利用したものである。彼は破損した家庭用品の修理屋という特殊能力を備えているのだが、この特技の反映する魔術的側面は以下のように語られている。

 古びた電気ストーブに手を触れる。
 普通、いくらこの手の修理に慣れているからって、見た程度で故障箇所は判断しにくい。
 それが判るという事は、俺のやっている事は普通じゃないってことだ。
 視覚を閉じて、触覚でストーブの中身を視る。
 ——途端。頭の中に沸き上がってくる一つのイメージ。
 伝熱管がイカレてたら素人の手には負えない。
 その時は素人じゃない方法で“強化”しなくてはいけなかったが、
 これなら内部を視るだけで十分だ。
 それが切嗣に教わった、衛宮士郎の“魔術”である。

士郎の魔術能力は、事物の本質的組成を知覚の一つである“触覚”のように、直感的に感知することにある。意識と事物あるいは主観と対象物の間の質的断絶を認めない心霊的連続性の存在原理に基づく世界観は、しばしば魔法の主題の思想的な根幹的要素とされるものである。しかし志郎の特殊能力は、魔術師の世界の常識からすれば異端以下の無駄そのものでしかない。ただ受け入れ、理解すること以外にことさら能力を発揮する術を知らない無能な魔術師が、この伝奇活劇ビジュアルノベルの主人公の正体なのである。

 そう。衛宮士郎に魔術の才能はまったく無かった。
 その代わりといってはなんだが、
 物の構造、さっきみたいに設計図を連想する事だけはバカみたいに巧いと思う。
 実際、設計図を連想して再現した時なんて、
 親父は目を丸くして驚いた後、「なんて無駄な才能だ」なんて嘆いていたっけ。
 物事の核である中心を即座に読み取り、
 誰よりも速く変化させるのが魔術師たちの戦いだと言う。

 時に“メタモルフォシス”(変身/変形)という言葉を用いてその要諦が語られるように、魔法の本質はしばしば現象世界の限界を超えた“変成”をこの世にもたらす超自然的な技術であるところに、その思想的意義性が主張されるものである。現象世界に束縛された仮象でしかない存在同一性を超克し、あらゆる存在物の裡に秘匿された様々の“同一性”次元の拡張を図ることによって世界の内奥の真実を捕捉することが、魔法の根本理念である。しかし士郎の場合は願望という確固とした意思を持つことがないので、変成の目標物を自身の積極的な意図として自覚することがまずできない。凛の語っていた「世界を支配することなど求めない」という願望否定の言葉とは裏腹に、凛は自分の暫定的な行動目的を正に自己本来のエゴの中に見出し得ていたのだが、もとより「世界が自分を中心に存在する」ことを実感することが出来ないのが、主人公士郎の自我の基底から遊離した脱臼した意識構造なのである。士郎の行動原理は、「自分に対して何かを求める他者のために働く」ことにしかない。“助力”という態を装った他者に対する全面的な依存という歪な形でしか生の根源的エネルギーを解放することができないのが、生きるものとしての根本理由を喪失した士郎の精神のあるがままの姿である。(18)しかし凛の魔術施行とは対照的ではあるが、志郎にも彼なりの流儀で行う確固とした魔術の修行の“日課”がある。この辺りの記述は、むしろ武道の鍛錬や宗教的な修行を思い起こさせるものとなっている。

 深夜零時前、衛宮士郎は日課になっている“魔術”を行わなくてはならない。
 「————」結跏趺坐に姿勢をとり、呼吸を整える。頭の中はできるだけ白紙に。
 外界との接触はさけ、意識は全て内界に向ける。
 「——同調(トレース)、開始(オン)。」
 自己に暗示をかけるよう、言い慣れた呪文を呟く。
 否、それは本当に自己暗示にすぎない。
 魔術刻印とやらがなく、魔道の知識もない自分にとって、呪文は自分を変革させる為だけの物だ。
 ……本来、人間の体に魔力を通す神経(ライン)はない。
 それを擬似的に作り、一時的に変革させるからには、自身の肉体、神経全てを統括しうる集中力が必要になる。
 魔術は自己との戦いだ。
 例えば、この瞬間、背骨に焼けた鉄の棒を突き刺していく。
 その鉄の棒こそ、たった一本だけ用意できる自分の“魔術回路”だ。
 これを体の奥まで通し、他の神経と繋げられた時、ようやく自分は魔術使いとなる。
 それは比喩ではない。
 実際、衛宮士郎の背骨には、目に見えず手に触れられない“火箸に似たモノが、ズブズブと差し込まれている。

“神経”という語に“ライン”というルビが振られ、東坂凛のパートに登場していた“レイライン”との関連が暗示されている。17世紀から18世紀にかけて、イギリスではウィリアム・ハーヴェイ等の医学者達による解剖学研究の影響の許にトマス・ウィリス等の研究によって神経組織の存在が理解され、その結果知覚と神経をあらわす述語を用いて世界の霊的機構を思念し記述することを目論む宇宙論的思弁が、ロマン主義を中心とする様々の文学者達の手によって展開された。ウィリアム・ブレイクの『4ゾア』や『エルサレム』等にも心霊学的な発想が解剖学的な述語を用いて語られている特徴的な箇所があったが、士郎の行う修練の場面にもそれに類した世界に伸長する個人意識とでも言うべき神経感覚を窺うことができる。宇宙と事物の全体像を、空間的乖離を超えて“触覚的”に捕捉しようとするこれらの試みは、むしろ世界に漲る心霊(psyche)の根源性に関する直観的理解を深めようと欲する、伝統的な心理学(psychology)に属する知的関心であった。凛パートに登場した魔術原理と相補的な関係性を示して語られているのが、士郎の視点を介したこれらの魔術に関する記述なのである。

 いやまあ。実際、魔術刻印っていう物がなんなのか知らない俺から見れば、
 そんなのが有ろうが無かろうがこれっぽっちも関係ない話ではある。
 で、そうなるとあとはもう出たトコ勝負。
 魔術師になりたいなら、俺自身が持っている特質に応じた魔術を習うしかない。
 魔術とは、極端に言って魔力を放出する技術なのだという。
 魔力とは生命力と言い換えてもいい。
 魔力(それ)は世界に満ちている大源(マナ)と、生物の中で生成される小源(オド)に分かれる。
 大源、小源というからには、小より大の方が優れているのは言うまでもない。
 人間一人が作る魔力である小源(オド)と、世界に満ちている魔力である大源(マナ)では力の度合いが段違いだ。
 どのような魔術であれ、大源(マナ)をもちいる魔術は個人で行う魔術をたやすく凌駕する。
 そういったワケで、優れた魔術師は世界から魔力をくみ上げる術に長けている。
 それは濾過器のイメージに近い。
 魔術師は自身の体を変換回路にして、外界から魔力(マナ)を汲み上げて人間でも使えるモノ、にするのだ。
 この変換回路を、魔術師は魔術回路(マジックサーキット)と呼ぶ。
 これこそが生まれつきの才能というヤツで、魔術回路の数は生まれた瞬間に決まっている。
 一般の人間に魔術回路はほとんどない。
 それは本来少ないモノなのだ。
 だから魔術師は何代も血を重ね、生まれてくる子孫たちを、より魔術に適した肉体にする。
 いきすぎた家系は品種改良じみた真似までして、生まれてくる子供の魔術回路を増やすのだとか。

凛パートで語られていた“マナ”という全体性の宇宙観を暗示する発想を集約した語に対応して、その理念を個人存在に対して適用した“オド”というもう一つの概念が補足され、これらは“大源”と“小源”という漢字表記の各々に対して付されたルビとして記述されている。魔術とは魔術師自身の身体を回路として用いてそのマナをオドに変換する技であるとされているのである。その行為を行う動作の主体と、動作目的となる対象の間には存在論的な断絶は無い。科学の前提とは対照的に、行為者から隔絶された客観的対象物が存在し得ないのが魔術の原理であり、その特有の方法論である。世界に満ち満ちている生命力の奔流を、我が身そのものを“回路”の一部として用いて魔術師は“濾過”する。そのような全体性への没入的行為として、士郎は物品の属性を変性する“強化”の魔術に臨むのである。

 衛宮士郎は魔術師じゃない。
 こうやって体内で魔力を生成できて、それをモノに流す事だけしかできない魔術使いだ。
 だからその魔術もたった一つの事だけしかできない。
 それが——「——構成材質、解明。」物体の強化。
 対象となるモノの構造を把握し、魔力を通す事で一時的に能力を補強する“強化”の魔術だけである。
 「——、基本骨子、変更。」目前にあるのは折れた鉄パイプ。
 これに魔力を通し、もっとも単純な硬度強化の魔術を成し得る。
 そもそも、自分以外のモノに自分の魔力を通す、という事は毒物を混入させるに等しい。
 衛宮士郎の血は、鉄パイプにとって血ではないのと同じ事。
 異なる血を通せば強化どころか崩壊を早めるだけだろう。

 世界の本質に対する知的理解と術者自身の存在性向の実際の変化と外部の対象物に対する物理的操作が、同一線上の等価物として認められ得る存在論的メカニズムの許に語られているところに、魔法の本質的意義が含められていることが理解されるだろう。このような主体と客体の区別を持たず、全てが連続体として記述し得る統合的宇宙論を暗示する語が“エーテル”であった。客観的物理存在の及ぼす局所的作用として主観から分離された“事象”という概念を否定することによって、魔法は“反科学”の確固たる思想的立脚点を誇示するものである。こうして東坂凛の視点で語られていた魔術の原理は、士郎パートでは反転した視界からそのシステム理論的特質を語られていくことになるのである。士郎の一般論的な魔法の知識が聖杯存在の影響の及ぼす特殊な魔術と接点を持つことになるのは、3日目(2月2日)を迎えてそうと知らぬうちにいつの間にか聖杯戦争の抗争に巻き込まれ、槍を手にして迫ってくる見知らぬ英霊であるランサーから身を守る術を模索し始めた場面においてである。

 「——同調(トレース)、開始(オン)。」
 自己を作り替える暗示の言葉とともに、長さ六十センチ程度のポスターに魔力を通す。
 あの槍をどうにかしようというモノに仕上げるのだから、
 ポスター全てに魔力を通し、固定化させなければ武器としては 使えないだろう。
   「——構成材質、解明。」
 意識を細く。
 皮膚ごしに、自らの血をポスターに染み込ませていくように、魔力という触覚を浸透させる。
 「——構成材質、補強。」
 こん、と底に当たる感触。
 ポスターの隅々まで魔力が行き渡り、溢れる直前、「——全行程(トレース)、完了(オフ)。」

 こうしてプロローグにあった凛ルートとの内実的合流を果たし、聖杯戦争に巻き込まれた主人公衛宮士郎の内と外が一通り語り終えられることになる。本編においては先例として数度あったとされる聖杯戦争とは例外的な展開が選択され、志郎はライバルである魔術師の東坂凛と協調路線を結ぶことになる。その結果、魔法と聖杯戦争の関連について全く無知であった志郎に対して凛が様々の知識を補完的に教授するという形で、さらに魔法と英霊存在の特質に関する情報が語られて行くことになるのである。以下は士郎と凛の間で交わされる、サーヴァントと英霊に関する会話である。

 「ゴーストライナー……?じゃあその、やっぱり幽霊って事か?」
 とうの昔に死んでいる人間の霊。
 死した後もこの世に姿を残す、卓越した能力者の残留思念。
 だが、それはおかしい。幽霊は体を持たない。霊が傷つけられるの
 は霊だけだ。故に、肉を持つ人間である俺が、霊に直接殺されるなんてあり得ない。
 「幽霊……似たようなものだけど、そんなモンと一緒にしたらセイバーに殺されるわよ。
 サーヴァントは受肉した過去の英雄、精霊に近い人間以上の存在なんだから」  「——はあ?受肉した過去の英霊?」
 「そうよ。過去だろうが現代だろうが、とにかく死亡した伝説上の英雄を引っ張ってきてね、
 実体化させるのよ。ま、呼び出すまでがマスターの役割で、あとの実体化は聖杯がしてくれるんだけどね。
 魂をカタチにするなんてのは一介の魔術師には不可能だもの。
 ここは強力なアーティファクトの力におんぶしてもらうってわけ。」
 「ちょっと待て。過去の英雄って、ええ……!?」
 セイバーを見る。
 なら彼女も英雄だった人間なのか。
 いや、そりゃ確かに、あんな格好をした人間は現代にはいないけど、それにしたって
 ——「そんなの不可能だ。そんな魔術、聞いた事がない。」
 「当然よ、これは魔術じゃないもの。あくまで聖杯による現象と考えなさい。
 そうでなければ魂を再現して固定化するなんて出来る筈がない。」
 「……魂の再現って……じゃあその、サーヴァントは幽霊とは違うのか……」
 「違うわ。
 人間であれ動物であれ機械であれ、偉大な功績を残すと輪廻の枠から外されて、
 一段階上に昇華するって話、聞いたことない?
 英霊っていうのはそういう連中よ。
 ようするに崇め奉られて、擬似的な神様になったモノたちなんでしょうね。
 降霊術とか口寄せとか、そういう一般的な“霊を扱う魔術”は英雄(かれら)の力の一部を借り受けて奇跡を起こすでしょ。
 けどこのサーヴァントっていうのは英霊本体を直接連れてきて使い魔にする。
 だから基本的には霊体として側にいるけど、必要とあらば実体化させて戦わせられるってワケ。」

聖杯の作用の許に行われる召喚魔法は、過去のある一点から時空を超えて既存の人格を呼び寄せるような技術とは全く異なったものである。本来は人間存在としてあったものが、英雄的行為に対する人々の崇敬を得た結果、その人格特性に意味的な内実を蓄積することによって“擬似的な神様”へと昇華することができるのだという。これは、物質が保有するエネルギー値に対応して個体・液体・気体等の位相の変化を得る“相転移”を行う物理現象と類比的に、人格が崇敬という意味的エネルギーを得て霊的存在属性の位相跳躍を行い得ることを示している。物質粒子とその振動様態に限って科学の世界で受容されて来た跳躍的な位相変換の可能性を、意識体と想念の相関においても相等的に見出すことによって“意味的相転移”の存在を認め、その過程が“受肉する”とキリスト教神話の中にしばしば用いられて来た異界面の概念を適用して語られることになっているのである。さらにこの過程は“人格”を仮想する意識作用によって遂行されるものなので、その対象物は「人間であれ動物であれ機械であれ」区別を選ぶ必要はないのである。
 人として一個の主体的人格を形成するに足らない霊的欠損と、自身が陥った聖杯戦争という周囲の状況に対する全くの無知を抱え込んだ主人公である衛宮士郎は、本来はライバルである筈の凛との合体を果たして、愈々『Fate/stay night』の物語は本格的にそのストーリーの内実を拡充させて行くように見える。しかしこのビジュアルノベルの実態は、通常“伝奇活劇ロマン”という言葉で理解されているものとはいささか異なったものとなっている。実際のストーリーの展開は、仮構的約束事の一つ一つを転覆するような細目を意図的に拾い上げていくのである。以下は4日目(2月3日深夜)を迎えた本編士郎パートの続きである。凛とアーチャーの例に見られたのと同様に、英霊存在自身との知的対話を通してサーヴァントに関する魔術的知識が掘り起こされていくことになる、士郎と志郎のサーヴァントとなったセイバーとの会話である。セイバーは士郎が聖杯戦争におけるマスターとしては全く例外的に、サーヴァントに対する魔力供給を行うことが出来ていないことを告げるのである。

 「ええ、それなのですが、……おそらく、これはもう私たちでは解決できない事です。
 私たちサーヴァントはマスターからの魔力提供によって体を維持する。
 だからこそサーヴァントはマスターを必要とするのですが、それが——」
 「……俺が半端なマスターだから、セイバーが体を維持するのに必要なだけの魔力がないって事か?」
 「違います。たとえ少量でもマスターから魔力が流れてくるのなら問題はないのです。
 ですが、シロウからはまったく魔力の提供がありません。
 本来繋がっている筈の霊脈が断線しているのです。」

凛とアーチャーの会話を通して語られていた“レイライン”というマスターとサーヴァントの間の心霊的関係を構築する回路あるいは力が、マスターとしての士郎には全く欠落していることを士郎はサーヴァントのセイバーから宣告されるのである。それにもかかわらず、召喚者としての自覚を全く持つことさえ無かった士郎の許に何故か彼のサーヴァントとして現界したのが、セイバーとして実体化した英霊であった。その理由を語るべき彼女の正体を示すこの英霊の“真名”は、まだここでは明かされていない。

5 サイキの深層とペルソナの裏面—人格概念の再定義
 ストーリーが聖杯戦争を中心にした魔術師達の抗争を軸に進行を始めたかのように見えても、むしろこの伝奇活劇ビジュアルノベルが執拗に描くのは主人公衛宮士郎の精神の人間存在としての根幹的欠如を暴く日常の瑣末なエピソードである。そしてそれは、サーヴァント同士の対決という最もクリティカルな場面と思われる箇所においても同様に繰り返されている。マスターからの魔力供給の無いままに圧倒的な力量を持つバーサーカーとの戦いを強いられ、すんでのところで両断されかねなかったセイバーを、士郎は聖杯戦争を戦う魔術師としての基本戦略を無視して身を挺して守るという暴挙に出る。それは共闘者である東坂凛の聖杯戦争参加者としての客観的判断に従えば、全くの無意味行為以外の何物でもない。しかしこの愚挙に対する士郎の内面の論理は、ゆらぎの無いものである。それは、以下のような動機によるものであった。

 ……恐らく。あの瞬間、自分の中にあった“殺される”という恐怖より、
 セイバーを“救えない”という恐怖の方が、遥かに強かっただけの話。

生命を規定する筈の原初的生存本能に値するものを、士郎は保有していない。彼の行動原理を導く筈の衝動は、自身の生命の維持には反する生存本能とは全く別の次元から及ぼされる“恐怖”にある。自己犠牲に及ぶことさえもない士郎の直観に従った行動はセイバーの窮地を救うものでは決してなかったが、思わぬ展開に従ってセイバーと士郎の両者ともこの危機的状況を脱することができる。しかし、自分のマスターとなった者のおかれた精神的状況を冷徹に判断する彼のサーヴァントであるセイバーの指摘も、以下のような凛のそれと全く変わらぬ現実的な視点に基づいたものである。

 「そうですね。それが正常な人間です。
 自らの命を無視して他人を助けようとする人間などいない。
 それは英雄と言われた者たちでさえも例外ではないでしょう。
 ですから——そんな人間がいるとしたら、その人間の内面はどこか欠落しています。
 その欠落を抱えたまま進んでは、待っているのは悲劇だけです。」

主人公士郎の抱く無私の博愛主義も純粋極まりない倫理観も、このゲーム作品の主題的見通し図の中では全面的意義性を保障する概念軸に接することは決してないのである。(19)作品世界の価値基準を決定する筈の求心的素質を欠いた主人公として、サーヴァントに対する“魔力供給”というマスターとしての不可欠の機能を発揮することが出来ないばかりか、士郎は逆にサーヴァントであるセイバーの霊的能力である治癒効果によって自身の肉体の損傷を癒されることになる。本来なら致命傷である筈の甚大な外傷を敵サーヴァントに負わされた士郎が理不尽な回復を示し得た理由を、東坂凛は以下のように推測して語る。4日目、2月3日の朝を迎えた士郎と凛の会話である。

 「そうなると原因はサーヴァントね。
 貴方のサーヴァントはよっぽど強力なのか、それとも召還の時に何か手違いが生じたのか。
 ……ま、両方だと思うけど、何らかのラインが繋がったんでしょうね。」
 「ライン?ラインって、使い魔と魔術師を結ぶ因果線の事?」
 「あら、ちゃんと使い魔の知識はあるじゃない。なら話は早いわ。
 ようするに衛宮くんとセイバーの関係は、普通の主人と使い魔の関係じゃないってコト。
 見たところセイバーには自然治癒の力もあるみたいだから、それが貴方に流れてるんじゃないかな。
 普通は魔術師の能力が使い魔に付与されるんだけど、貴方の場合は使い魔の特殊能力が主人を助けてるってワケ。」

あらゆる細目において聖杯戦争における例外事項を現出することになっていた衛宮士郎とセイバーの間の関係は、むしろ“因果線”という記述に変換された上の例のような双方向的な影響力を通して、マスターとサーヴァントの間に存在する原初的人格概念の裡に秘められた、未知なる“同一性”あるいは“相当性”の存在を指し示すこととなるのである。エロゲー『Fate/stay night』の思弁的仮構作品としての最も興味深い主題は、実はそのような意味における人格同一性解釈の拡張論議に関する考察の裡にある。さらに凛との会話を通して士郎は、セイバー達サーヴァント存在とマスターである魔術師達の霊的関係性の深奥と英霊存在の根本属性を学ぶことになる。

 「聖杯を手に入れる為にマスターがサーヴァントを呼び出す、じゃない。
 聖杯が手に入るからサーヴァントはマスターの呼び出しに応じるのよ。」
 「マスター同士で和解して、お互いに聖杯を諦めれば話は済むと思っていたけれど、
 サーヴァントが聖杯を求めて召還に応じて現れたモノで、けして聖杯を諦めないのならば、
 それじゃ結局、サーヴァント同士の戦いは避けられない。
 ……なら。自分を守るために戦い抜いてくれたあの少女も、聖杯を巡  って争い、殺し、殺される立場だというのか。
 ……なんてことだ。英霊だかなんだか知らないけど、セイバーは人間だ。
 昨日だってあんなに血を流してた。」
 「あ、その点は安心して。サーヴァントに生死はないから。
 サーヴァントは絶命しても本来の場所に帰るだけだもの。
 英霊っていうのはもう死んでも死なない現象だからね。
 戦いに敗れて殺されるのは、当事者であるマスターだけよ。」

現象世界での生死の断絶を超えた概念的存在である英霊は、闘争における敗北がそのまま自らの死を意味することになる魔術師達とは全く異なり、敗退してもサーヴァントとしての“クラス”を解放されるだけである。本来英霊とされるもの達は、物質と生命の世界とは全く異なる別個の次元に帰属する霊体だからである。凛は英霊存在と人間存在の間にあるこの決定的な次元の異なりについて、“自然霊”と“人間霊”という興味深い言葉を当て嵌めて語る。

 「そうよ。
 けれどサーヴァント達は私たちみたいに自然から魔力(マナ)を提供されている訳じゃない。
 基本的に、彼らは自分の中だけの魔力で活動する。
 それを補助するのがわたしたちマスターで、サーヴァントは自分の魔力プラス、
 主であるマスターの魔力分しか生前の力を発揮できないの。
 けど、それだと貴方みたいに半人前のマスターじゃ優れたマスターには敵わないって事になるでしょ?
 その抜け道っていうか、当たり前って言えば当たり前の方法なんだけれど、
 サーヴァントは他から魔力を補充できる。
 サーヴァントは霊体だから。
 同じモノを食べてしまえば栄養はとれるってこと。」
 ——
 「簡単でしょ。自然霊は自然そのものから力を汲み取る。
 なら人間霊であるサーヴァントは、一体何から力を汲み取ると思う?
 まず、呼び出される英霊は七人だけ。
 その七人も聖杯が予め作っておいた役割(クラス)になる事で召還が可能となる。
 英霊そのものをひっぱってくるより、その英霊に近い役割を作っておいて、
 そこに本体を呼び出すっていうやり方ね。
 口寄せとか降霊術は、呼び出した霊を術者の体に入れて、なんらかの助言をさせるでしょ?
 それと同じ。
 時代の違う霊を呼び出すには、予め筐(はこ)を用意しておいた方がいいのよ。」
 「役割(クラス)——ああ、それでセイバーはセイバーなのか!」
 「そういう事。英霊たちは正体を隠すものだって言ったでしょ。
 だから本名は絶対に口にしない。
 自然、彼らを現す名称は呼び出されたクラス名になる。」
 ——
 「それもあるけど、彼らの能力を支えるのは知名度よ。
 生前何をしたか、どんな武器を持っていたか、ってのは不変のものだけど、
 彼らの基本能力はその時代でどのくらい有名なのかで変わってくるわ。
 英霊は神さまみたいなモノだから、人間に崇められれば崇められるほど強さが増すの。
 存在が濃くなる、とでも言うのかしらね。
 信仰を失った神霊が精霊に落ちるのと一緒で、人々に忘れ去られた英雄にはそう大きな力はない。」

人間存在の生命力の源とされる“マナ”は、人間が生きる場である“自然”から供給されている一つの“魔力”である。そのような意味で人間は、“自然霊”であると語られているのである。それに対して英霊は、その“魔力”を自然からではなく人間の想念から得ていることから、“人間霊”と呼ばれることになる。英霊や神や妖怪を生み出す“人の想い”という場は、“自然”ではなく“超自然”に属する別種の存在磁場なのである。人々の崇敬と信仰がその存在を“濃くする”と凛が語るところに、英霊の概念的な存在特質が端的に窺える。かつては神として敬われていたものが人々の意識から遠のくことによって精霊という様相に堕落し、あるいは悪魔として反転的なイメージに変身を遂げてしまうこともあるのだろう。人間存在の“影”として措定される汎神論的位相として神や精霊や悪魔を理解する心霊学的機構の裡に、このゲーム作品の英霊存在も認められるものだろう。人の意識空間の中に醸成される空虚な妄想的イメージであると共に、観念論的実在としての“原存在”の意義性をも実は堅固に担っているのが、この伝奇活劇ビジュアルノベルが語る英霊達の素性なのである。人間存在が知覚し認識することができるのは、彼等の“役割(クラス)”として具現した様相の一部でしかない。そこには現代の科学思想が意図的に封印してきた実念論的存在・現象解釈の復権が確かに窺われる。その顕著な実例となるのが、サーヴァント達の能力と彼等の携える武器である。英霊存在の振るうとされる彼等の武器の桁外れの強大さは、そのまま神話的人物像を語り伝える人々の願望と理想を具現化したものなのである。凛はさらに続けて語る。

 「彼らにはそれぞれトレードマークとなった武器がある。
 それが奇跡を願う人々の想いの結晶、貴い幻想とされる最上級の武装なワケ。」

凛の挙げる英霊存在と概念的に一体化した武具の典型的な例となると思われるのが、アーサー王の保持していた伝説の剣“エクスカリバー”であろう。幼少のアーサーに国王となるべき資格を与え、幾多の戦いと勝利を通じてこの人物のアイデンティティを完成させた伝説の剣の名とその謂れには実は諸説があるのだが、この伝奇活劇ビジュアルノベルでは通説に従って「予め約束された勝利の剣」としてその名を判読している。この剣に与えられた予兆を暗示する名は、逆賊モードレッドとの戦いで負った瀕死の重傷を海の彼方の妖精の国で癒した後、いつか再びブリテンの国に再来して王国の再建を果たしてくれることを待ち望まれる「帰還すべき王」として後世の人々の想念を支配した、アーサー王の人格同一性概念と直裁に繫がるものなのである。円卓の騎士の名君は、復活の約束に縛られた貧しい弱小国家の人々の妄念の操り人形でもあったのである。(20)
 英霊存在の本質と聖杯戦争の実態を理解した衛宮士郎は、改めてこの苛烈な闘争に参入することの意義を彼なりに見出す。しかしそれは、むしろ“伝奇活劇ロマン”という物語世界の肌理に抗う、顛倒した目的意識なのである。士郎は、仮構世界と現実世界の双方の意味的内実を支える筈の、ゲーム内設定条件の無化というある種の脱システム的解法を試みようと決心するからである。

 何故だろう。聖杯には、嫌悪感しか湧かない。
 望みを叶えるという杯。
 それがどんなモノかは知らないが、サーヴァントなんていうモノを呼び出せる程の聖遺物だ。
 どんな望みも叶える、とまではいかないにしても、魔術師として手に入れる価値は十分すぎる程あるだろう。
 それでも
 ——俺はそんなモノに興味はない。
 実感が湧かず半信半疑という事もあるのだが、結局のところ、そんな近道はなんか卑怯だと思うのだ。
 それに、選定方法が戦いだっていうのも質が悪い。
 ……だが、これは椅子取りゲームだ。
 どのような思惑だろうと、参加したからには相手を押し退けないと生き残れない。
 その、押し退ける方法によっては、無関係な人々にまで危害を加える事になる。
 だから、——
 喜べ衛宮士郎。
 俺の戦う理由は聖杯戦争に勝ち残る為じゃなくて、——
 君の望みは、ようやく敵う。どんな手を使っても勝ち残ろうとするヤツを、力づくでも止める事。

物語が物語としての完結した意味を構築せねばならないという制約を負っていることを、物語あるいは物語の中の登場人物自身が明確に意識しているという構造は、20世紀ファンタシー文学におけるメタフィクションの戦略の一つの典型になっていた。これに対して21世紀におけるゲーム的仮構世界は、その特有のメタフィクションの戦略として、時に物語の意味性を基底から破綻させるメタ物語的構図を導入することとなるのである。ゲーム的仮構の、物語的仮構と一線を画すパースペクティブの許に展開する特質は、ファンタシー文学の裡にあった哲学的位相をさらに深めたものとなっている。類型的な“物語性”を破却してそこに主張されるのは、記述システムとしての仮構が保持する純然たる思弁性である。純思弁的伝奇活劇ビジュアルノベルである『Fate/stay night』は、概念存在たる英霊と概念人格たるサーヴァントに加えて、さらに“概念魔法”という興味深い概念を提示することによって、仮構世界の観念空間の全面的拡張を図ることとなる。彼等の前に現れたバーサーカーの、いかなる攻撃をも無化する程の圧倒的なサーヴァントとしての防御能力を推し量って、聖杯戦争の戦士セイバーは士郎に語るのである。

 「……これは憶測ですが、バーサーカーの宝具は“鎧”です。
 それも単純な鎧ではなく、概念武装と呼ばれる魔術理論に近い。
 おそらく——
 バーサーカーには、一定の水準に達していない攻撃を全て無効化する能力がある。
 私の剣、凛の魔術が通じなかったのはその為でしょう。」

 セイバーの語る“概念武装”は、ゲーム世界を枠外から瞥見する視点に従えばゲーム内仮構を進行するための各種設定条件の一つとしてプログラムされた、規定の相関関係と設定値に還元される情報概念に他ならない。ゲーム的仮構の中に導入された魔法の機構と超自然的存在の示す特殊能力について、このビジュアルノベルは際立って自省的な視点を有しているのである。概念情報の集積として物語化されたゲーム作品は、一つの独立した可能世界であると同様に、“現実世界”という可能世界の中で体験される一個のヴァーチャル世界でもある。ゲームをプレイするプレイヤー/鑑賞者は、概念を抽出して一つの可能世界の世界観を構築する意識の主体として、単独の世界のパースペクティブのみに拘束されない次元跳躍的な複眼的視点を、このようなゲーム的メタフィクションの機構を通じて提供されているのである。セイバーはさらに続けて、バーサーカーの防具の概念魔法の特殊機能について語る。

 「はい。宝具と通常攻撃では比べるべくもない。
 宝具のCランクは、通常攻撃に変換すればA、ないしA+に該当します。
 ……ですが、バーサーカーを守る“理(ことわり)”は物理的な法則外のものです。
 アレは、たとえ世界を滅ぼせる宝具であれ、それがAランクに届いていないものならば無力化する、という概念です。」
 「バーサーカー……ヘラクレスは神性適正を持つ英霊だ。
 神の血を受けた英霊には、それと同等の神秘でなければ干渉できない。」

 “神族”という心霊的存在属性の範疇区分は、理性による把握が不可能な神秘として現象世界の制約を超越していると同時に、AからCに分類される“ランク”として英霊達の権能を規定することが可能な、情報操作手順の中に含まれてもいるのである。神もまたゲームという情報世界においては、人の手によるプログラム操作が可能な特定の情報集積体に他ならないのである。さらにバーサーカーの宝具は“概念武装”であるとセイバーは語っていたが、実は“概念魔法”に該当するもう一つの実例が、セイバーが英霊ヘラクレスと対峙するこの場面が導かれる以前にも、既に登場していたのであった。士郎のサーヴァントとして召喚されたセイバーが、現界したその直後に刃を交えたランサーとの戦いがそれである。未知の魔術師のサーヴァントであるランサーが用いた彼の宝具“ゲイボルグ”の持つ攻撃能力が、やはり“概念魔法”の定義にそのまま当てはまるものだったのである。その印象的な場面は、最初は次のように語られている。

 槍は、確かに少女の足下を狙っていた。それが突如軌跡を変え、あり得ない形、あり得ない方向に伸び、少女の心臓を貫いた。

これだけでは一見意味不明のように思えるランサーの宝具である槍の能力と動きには、さらに以下のような補足的記述が付け加えられているのである。

 「“——刺し穿つ(ゲイ)”」
 それ自体が強力な魔力を帯びる言葉と共に、
 「“——死刺の槍(ボルグ)——!”」
 下段に放たれた槍は、少女の心臓に迸っていた。
 だが槍自体は伸びてもいないし方向を変えてもいない。
 その有様は、まるで初めから少女の胸に槍が突き刺さっていたと錯覚するほど、
 あまりにも自然で、それ故に奇怪だった。
 軌跡を変えて心臓を貫く、などと生易しい物ではない。
 槍は軌跡を変えたのではなく、そうなるように過程(じじつ)を変えたのだ。
 あの名称(ことば)と共に放たれた槍は、大前提として既に“心臓を貫いている”という“結果”を持ってしまう。
 つまり、過程と結果が逆という事。心臓を貫いている、という結果がある以上、
 槍の軌跡は事実を立証する為の後付けでしかない。
 あらゆる防御を突破する魔の棘。
 狙われた時点で運命を決定付ける、使えば『必ず心臓を貫く』槍。

セイバーの所持する宝具“エクスカリバー”が持つ運命を支配する魔術的名称である“あらかじめ勝利を約束された剣”が示唆する、因果関係の連鎖を超えた一切の過程を跳躍して最終的な意味を決定する“概念性”は、これと全く等質の観念的能力として他のサーヴァント達の所持する象徴的な武具にも等しく反映されていたのである。サーヴァントとなった英霊達が振るう宝具の力のみならず、あらゆる存在と現象がこの仮構世界の記述と同様に本質的に概念として成り立ち、概念として相互作用を行っているのである。質量も力も場も、その根源は全て情報として記述可能な概念素子として文字通り、“ある”。その意味においてホィットワースが提示したヴァーチャル・リアリティとしての宇宙像は、“個人”(individual)と“人格”(persona)という概念に対する次元跳躍的な再検証の必要性を直裁に要求するものでもあったのである。 個人人格と心霊的宇宙観とゲーム理論的情報理念を“概念としての宇宙”という場の中で実念論的仮構として再統合することを目論む形而上的思弁が、この伝奇活劇ビジュアルノベルの具現した仮構的器(クラス)の真の相貌なのであった。そこには神と魔法と人の想念が、宇宙定数を支配する欠かせない要因として認められているのである。



(1)
 『猫撫でディストーション』(Whitesoft、元長柾木・藤木隻シナリオ、2011)では、エロゲーの典型的な様式を採用して“ヒロイン攻略”という類型パターンが展開されているが、その内実は真正面から“家族の絆”の再確認を通して見事に“人間性の心霊的本質理解”という哲学的主題に迫るものとなっている。存在と現象に対する従来の科学的世界観を跳躍した新規の視点を構築する量子力学的解釈を人格同一性の再考察に適用して、個人存在の心霊の深奥を探ることに成功しているこのエロゲーが主人公のエッチの相手として攻略対象としているのは、幼なじみの隣家の少女、自宅の飼い猫、母親、姉、妹である。

(2)
 『マブラヴ』、(âge、吉宗鋼紀、2003)においては、1次世界の典型的な美少女攻略エロゲーである「EXTRA」編でそれぞれのヒロインの攻略を果たすことによって特定条件を満たすと、2次世界である「UNLIMITED」編をプレイすることが出来るようになる。がらりと趣を変えたこの裏ワールドでは、エイリアンの侵攻を受けた地球諸国が人類の存亡を賭けての熾烈な戦いを強いられることになるが、主人公/プレイヤーは教養小説的な重厚な枠組みの中で、世界の問題をそのまま個人の課題として引き受けることの切実な意味を体感することとなる。幻想を排した自分自身の本来の姿の再発見と世界の救済と美少女達とのエッチが見事に同一次元上に展開することになっているのが、この「ご都合主義結構」とうたわれたエロゲーの実体なのである。

(3)
 『マブラヴ』の続編『マブラヴオルタネイティブ』(âge、吉宗鋼紀、2006)では、前作にあったヒロイン毎の個別ルートというものは存在せず、基本的には地球外生命体の侵略者であるBETAとの戦いという一本道でストーリーが進行していくが、その代わりに平行世界間移動とタイム・ループの題材が個人の同一性問題に深く関わってくることとなる。個人存在はその背後に全体性としての世界の全てを背負う、言わば世界の基軸そのものとも見なし得る意識単位となるからである。その結果新たな主題として浮上するのが、主人公白銀武及び彼の恋人であるヒロイン鑑純夏の貫世界的人格同定と、空間座標と個体延長の断絶を超えるばかりか複写物に対してさえも成り立つ、類比的相当性次元におけるメタ人格同一性なのである。白銀武は別世界の鑑純夏の意思の影響の許に“因果導体”となり、複数の平行世界を結びつけるインターフェイスの役割を果たすこととなる。その結果平行世界間の因果勾配を招来して異世界への情報伝播を実現することによって、“平行世界間エントロピー増大則”ともいうべき超宇宙論的仮説を示唆する間世界的情報移動現象が展開されるのである。本来なら因果関係を持ち得ない筈の多世界間の情報遷移を体現するこの二人の、“相当性条件における人格同一性”という経験則的理解の枠を大きく超えた斬新な発想の提示がなされている『マブラヴオルタネイティブ』の“エロゲー”としての新機軸は、“ダッチワイフとのエッチが大団円を導く”という人外属性的萌え展開である。

(4)
 『猫撫でディストーション』では、隣家の少女とのエッチを体験する攻略ルートにおいては主人公が世界に対する心霊的把握に関して得るものは何一つ無く、主題的側面においては“バッドエンド”の収束となると思われる。一方飼い猫、母親、姉、妹とのエッチが導かれるそれぞれの攻略ルートは、量子論理的存在解釈によって“獣姦”や“近親相姦”の禁忌侵犯を逃れることができるばかりか、クオリア感覚を喪失して世界の疎外者となっていた主人公が家族のそれぞれの人格(ペルソナ)の裏面にある神霊的位相を再発見することによって、人間一般と世界そのものに対する霊的理解を深めることに成功するという、至福の結果が得られるのである。  一つだけ気になるのは、ゲーム世界攻略手順における条件的特質として、未だ未開拓のルートが存在するか否かが容易に判別できないことから、一家の残りの人格である父親及び自分自身とのエッチという収束ルートが存在するかどうかが判然としないことである。このゲーム作品の保持する純思弁的な主題としては、自分自身とのエッチによって発見されるものが最も重要な真理の顕現となると思われるからである。

(5)
 “伝奇ロマン”に似つかわしくないことに、『Fate/stay night』では典型的な“お茶の間ドラマ”的な場面が数多く描かれている。これは本ゲーム作品の特質の一つである仮構的類型を逸脱する例外事項であると共に、陰影豊かな密度の高い仮構空間の構築例として評価すべき優れた演出がなされている箇所でもある。以下に日々の料理の献立と調理の実際として導入されていた、いくつかの具体的記述を挙げてみよう。主人公自身が調理を行う場面のみならず、様々の人物の手になる詳細な献立が作中に紹介されているのである。

 テーブルに朝食が並んでいく。鳥ささみと三つ葉のサラダ、鮭の照り焼き、ほうれん草のおひたし、
 大根とにんじんのみそ汁、ついでにとろろ汁まで完備、という文句なしの献立だ。
 ———
 鶏肉はじっくり煮込めば煮込むほど硬くなってしまう。
 故に、面倒でも煮る前に表面をこんがりと焼いておくと旨味を損なわずジューシーな仕上がりになる。
 ———
 今朝のメニューは定番の他、主菜でレンコンとこんにゃくのいり鶏が用意されていた。
 朝っぱらからこんな手の込んだ物を作らなくとも、と思うのだが、きっと大量に作って昼の弁当に使うのだろう。
 ———
 ザッと考えて、まず揚げ出し豆腐。汁物は簡単な豆腐とわかめのみそ汁に。
 下ごしらえが済んでいる鶏肉があるので、こいつは照り焼きにして主菜にしよう。
 豆腐の水切り、鶏肉の下味つけ、その間に大根をザザーと縦切りにしてシャキッとしたサラダにする。
 大根をおろしてかけ汁を作ってししとうを炒めて
 ———
 四つの大皿にはかに玉、青椒肉絲——、
 なんか見たこともないような上品そうな肉と野菜の炒めもの、
 何を考えているのか皿一杯のシューマイ軍団、と色鮮やかなことこの上ない。
 小皿には口休めのサラダ等が用意されており、細かいフォローも行き届いている。

これらの献立に関する詳細記述とエロゲーとしてのエッチ場面の記述は、主題的にはあるがままの現実の中の“食欲”と“性欲”として、伝奇的超自然と全く等価な世界構成軸となっているのである。
;
(6)
 このような多義的な物語像的外形を主張する仮構世界構築の戦略例として殊に印象に深いのが、竜騎士07作の同人ゲーム『ひぐらしのなく頃に』と、『うみねこのなく頃に』の2作品である。両ゲーム作品共既にアニメ化及びノベライズがなされていて、平行世界分岐とタイム・ループの保持する哲学的主題性を、アニメ・ゲームを中心とするオタク世界のみならず一般社会にも強く印象づける結果となっている。

(7)
 『仏蘭西少女〜Une Fille Blanche〜』(PIL、丸谷秀人シナリオ、2009)では、48通りに分岐したマルチエンディングが用意されている。これら各々の異なったストーリー収束が、単一の“トゥルーエンド”に従属する単なるバッドエンドとしてではなく、それぞれがストーリーの見通し図を決定する明確な意義性を備えた個別の終局として提示されていることが、ゲーム的仮構における特異な物語描像の特質を強硬に主張するものとなっている。各々のエンディングを導くことになるパラメータは、攻略対象となるヒロインに及ぼす心理的要因からは乖離した、選択肢に付随する偶発的な効果によって決定されることになっているのである。

 (8)
 現在既に確立された思潮とさえなっている哲学的主題に基づくエロゲー作品制作の文化的動向に先鞭を付け、このサブジャンルの規範パターンを構築したものとして評価の高いゲーム作品が、『この世の果てで恋を唄う少女YU-NO』(ELF、剣乃ゆきひろ、1996)である。平行世界と量子論理をエロゲーの中心主題として導入し、近親相姦やカニバリズム等の禁忌をも積極的に取り入れて仮構的思弁を追求した傑作として、大部分のゲーム制作現場におけるエロゲー世界創出動機に影響を及ぼしていると思われるのが、この伝説的なエロゲー作品である。『Yu-No』においてはストーリー分岐のあらゆる経路がゲーム進行の途上でゲーム世界内の背景設定として示され、網羅的な分岐ルートの開拓をプレイヤーが意図的に進めていくというメタシステム的なゲームの進行手順が要求されている。一つの分岐ルートを推進するための欠かせない条件として他の分岐ルートにおいて達成されたフラグを利用することが条件付けられることから、通常のゲーム進行における“セーブ”行為をゲーム世界内に顕示された分岐世界間跳躍として認識し、同時進行的に複数のヒロイン攻略と複数の平行世界のストーリー進行を手がけていくことになるのがこのエロゲーの特質である。

(9)
 『Renaissance』(LiLiM、鳥山仁、2006)においては、ストーリー進行途中のイベント発生時における選択肢による世界分岐のみならず、日毎の日課として行う時間割とカラーパネルの機械的選択がルート発現とストーリー展開を支配する決定軸として設定されていることによって、より抽象的な“ゲーム性”の高い作品構成が得られている。心霊概念の本質と宗教理念的世界把握の科学的/哲学的解の提示が中心主題となるこのゲーム作品においては、魔術と霊魂が主題となる伝奇的な物語のストーリー像の鑑賞とヒロイン攻略は、むしろ副次的要因となっているようである。各ヒロイン存在の示唆する筈の個別の物語像と主題性がルート分岐の構造を意図的に逸脱し他を侵蝕して展開し、美少女攻略という暫定的な行動原理を明らかに超出した形で中心主題を導くループ構造性が導入されることにより、認知されたエロゲーの類型を破壊した様式を顕示してゲーム世界の提示がなされているからである。

 (10)
 アニメ化とマンガ化の双方がなされている賀東招二のSFノベル『フルメタル・パニック』(富士見ファンタジア文庫、1998—2010)では、操縦者の意思を“物理的な力”として現実化する機能である“ラムダ機関”を備えた搭乗型兵器アーム・スレイブ(AS: armored mobile master-slave system)が出現する。この戦闘用の対話型コンピュータ・システムが搭載している秘密兵器のラムダ機関は、人間の精神機能と意識外部の物理現象を仲介するためのインターフェイスとして考案された装置なのである。  アニメ『ノエイン』(赤根和樹、2005)では作品世界設定に関与する重要概念としてコヒーレンスとデコヒーレンスという宇宙論の根幹に影響を与える量子力学的述語が導入されると共に、平行世界間の干渉により“もう一人の自分”との遭遇を果たすという、自己同一性概念拡張の主題が主軸として導入されている。  アニメ『Chaos Head』(2008)では、主人公であるヴァーチャル人格の保有する妄想を具現化させる能力として、思念の現実化の問題が中心主題として採用されている。  劇場版アニメ『交響詩篇エウレカセブン』(ボンズ、2009)では、神話と夢が個人の意識内で連続的に交錯してこれらを実体化させることが可能な観測効果の応用技術が導入され、現実世界と仮構世界を包含する統合的次元の存在が示唆されている。
 (11)
 アニメ『ゼーガペイン』(サンライズ、2006)では、外敵による侵略を受けたコミュニティにおいて個人存在のそれぞれと彼等の生きる環境の全てをコンピュータ記憶媒体に変換保存して隠蔽することにより、世界の壊滅的危機を回避する様が描かれている。現象存在と情報存在の相互変換の可能性が描かれているこの作品の示唆するものは、個人存在の意識が仮構(ヴァーチャル情報)世界と現象世界を通貫して“存在”し得る意識・概念連続体という拡張場の仮説である。
 アニメ『シムーン』(スタジオディーン、2006)では、“神の乗機”と呼ばれ敬虔な頌歌を奏でる舞踊のために用いられる装置は、時・空のそれぞれを核とする複合体からなる“テンプス・スパティウム”と名付けられた飛行機械である。巫女達がこれに搭乗して捧げる“リ・マージョン”と呼ばれる詠唱/舞踊行為は、神に捧げる敦実な祈りであると共に、支配者の圧政を補助するために用いられる殺戮兵器としての効果をもたらす一つのテクノロジーでもあるとされている。
 アニメ『とある科学の超電磁砲』(鎌池和馬、2009)では、ハイゼンベルグの不確定性原理と密接な関連を持つ理論として、“パーソナルリアリティ”と呼ばれる現実認識のあり方が補修授業の課題項目としてさりげなく背景に導入されていた。主観意識と客観存在の区別を設けない現象—意識の統括的把握の可能性が、超能力や魔法という主題の背後に秘匿されているのである。


(12)
 Descartes’ Error: Emotion, Reason, and The Human Brain,(1994)
(13)
Looking for Spinoza,(2003)

(14)
 “The emergence of the physical world from information processing”, Quantum Biosystems,(2010)

(15)
 ホィットワース自身の表現によれば、以下のような文言でこの企図は語られている。

 To illustrate the contrast, consider what some call the prime axiom of physics:
 1.There is nothing outside the physical universe (Smolin, 2001 p17).
 So for example, space is assumed to have no meaning except as the relationships between real objects in the world. Yet the virtual reality conjecture turns this axiom on its logical head:
 2.There is nothing inside the physical universe that exists of or by itself.

ホィットワースの語る通り、宇宙を外部世界を持たない完結した物理系として定義づけて空間を物理存在同士の関係を示す以外の何物でもあり得ないものと還元的に定義するか、あるいは“物理的世界には自立的に存在し得るものは何一つ無い”、として反転的に定義づけることにするかは、非ユークリッド幾何学創出の場合と同様に、一つの公理系における一公理の純理論的な変換でしかないのである。

(16)
 セイバーとして士郎の許に現れた英霊の正体は、“アーサー王”(Arthur)こと実はArthuriaで、女性の騎士であった。運命に結ばれた男女がお互いを自身の等価的相等物として切実に理解するだけでなく、文字通りプラトンの唱えたイデア的な同一性認識に従って“愛”で結ばれた人格の“一体性”の存在を前提とする心霊性理解が、この伝奇活劇ビジュアルノベルとしてのエロゲーの“萌え”要素を裏付けている。

 (17)
 魔術師の世界を支配する管理組織とされる“魔術協会”については、以下のような記載がある。

 魔術師が所属する大規模な組織を魔術協会と言い、一大宗教の裏側、普通に生きていれば一生見ないですむこちら側の協会を、仮に聖堂協会と言う。この二つは似て非なる者、形の上では手を結んでいるが、隙あらばいつでも殺し合いをする物騒な関係だ。
 協会は異端を嫌う。人ではないヒトを徹底的に排除する彼らの標的には、魔術を扱う人間も含まれる。協会において、奇跡は選ばれた聖人だけが取得するもの。それ以外の人間が扱う奇跡は全て異端なのだ。それは協会に属する人間であろうと例外ではない。協会では位が高くなればなるほど魔術の汚れを禁じている。

 この伝奇活劇ビジュアルノベル『Fate/stay night』で掘り下げられている科学の裏の原理を司るシステムである魔法を管轄する協会組織は、宗教組織における表の顔と裏の相貌という両極化した二面性という様態で語られているのである。科学が思想追求のための知の体系という問題意識を喪失して浅薄な応用技術に堕してしまい、宗教が霊性の内面的真実を追究する精神的機能を失った現代の思想状況が、魔法の応用技術の庇護者として君臨する擬似宗教的組織の正統教会と裏の教会組織への分離という形を模して描かれているのかもしれない。そのように考えれば、本作に導入されている“マナ”や“聖杯”や“聖痕”や“授肉”等の本来のキリスト教神話から乖離した種々の概念の越境的使用の趣旨を有効に語る問題性の一斑を指摘することができるかもしれない。

 (18)
 士郎は親友のクラスメイト柳洞一成に、半ば嘆息とも言えるような助言を与えられている。勇壮な聖杯戦争とは直接の関係を持たない、ありふれた日常の学園内の会話シーンである。

 「……まったく、人が良いのも考え物だな。衛宮がいてくれると助かるが、他の連中にいいように使われるのは我慢ならん。人助けはいい事だが、もう少し相手を選ぶべきではないか。衛宮の場合、来る人拒まず過ぎる。」
 「? そんなに節操ないか、俺」

 (19)
 この作品世界の要求する伝奇活劇ロマンとしての根幹的極性をも無化しかねないはなはだアイロニカルな心霊的主題性は、聖杯戦争における魔術師同士の抗争とは対蹠的な日常生活の些末な行動と心理の描写においても、具体的なエピソードの記述として反映されている。本来は霊的存在であるセイバーを食卓を囲む日常の仲間達から除外することの出来ない士郎は、実利的な意味を全く持ち得ないセイバーの食卓への同席を呼びかけることを決心するのである。

 単に、納得がいかなかっただけだ。理由なんてそれだけ。
 同じ家にいて、一人だけでいさせるなんて、俺はイヤだった。
 だから、後先を考えるより先に、彼女の手を取った。

しかし士郎の行動原理を支配するこのこだわりは、聖杯戦争の共闘者東坂凛によってあまりにも直裁に否定されてしまうことになる。

 「……悪かったな。どうせバカな真似してって思ってるんだろ」
 「別に。ただ、貴方のしている事は心の贅肉よ。そんな余分な事ばっかりしていたら、いつか身動きがとれなくなるわ」

伝説世界の救心的主題となる“探求の旅”の等価物としてある闘争や獲得とは無縁の些末な日常的エピソードの中に、むしろこの“伝奇活劇ビジュアルノベル”の選んだ中心的な主題性が秘められているのである。

 (20)
 『Fate/stay night』においては人格同一性の相当性条件を充当する潜行する特質として、自我の解放を果たすことができない束縛された精神としての同位体的概念特性が、セイバーと士郎を結びつける決定的な要因として採用されていた。『Fate/stay night』の前日談となる第4次聖杯戦争の経緯を描いた虚淵玄作の共作ノベル『Fate/Zero』(2006)においては、ブリテン国の民衆の期待を過剰に背負った妄執に縛られた英霊として、原作とは別な角度からセイバー(アーサー王)の姿が語られている。これは原作『Fate/stay night』の主人公衛宮士郎の脱臼した正義感を見事に反映する、彼のサーヴァント・セイバーとなったアーサー王/アルトゥリアの召喚時のマスターとの同調条件を決定付ける未知の選択原理たる心霊的特質を見事に裏面から描ききった快作なのである。

 (21)
 躊躇を知らない使命遂行のための戦闘機械として自身の人間像(identity)を確立していた『フルメタル・パニック』の主人公相良宗介は、彼の陥ったアイデンティティ喪失の危機を、所属する傭兵部隊ミスリルの任務として与えられた要人警護のために詐称した仮の人格を受け入れることによって乗り越えることになる。予想外の戦闘能力を持ったアームスレイブの出現に驚いた敵の部隊の戦闘指揮官に「貴様、一体何者なんだ?」と問われた宗介の返答は、以下のようなものである。

 「俺か?知りたいなら教えてやろう。ミスリルなんぞはどうでもいい。
 俺は、東京都立陣代高校2年4組、出席番号41番、ゴミ係兼傘係の、相良宗介だ!

このいかにも感動的なクライマックス場面で確認される宗介の自己同一性回復手順は、見事に通例のアイデンティティ獲得状況を反転した様態で描かれていることが分かる。一般的に語られるアイデンティティ喪失状況とは、慣れ親しんできた日常的な社会活動の要求する些細な役割が、自己の本質的特性たるものと乖離したものであることを自覚した際にもたらされるからである。国籍や文化的慣習によって形成されたニッチに束縛されることがない、“傭兵”として常に中立的な立場から使命を遂行するための冷徹な判断能力と俊敏な活動力を備えた宗介は、むしろ全方位的に個人の潜在能力を発揮することができる、本源的な“自己同一性”を誰よりも柔軟に選び取ることができる有能な霊的存在であった筈なのである。
 実は原形質的可能性に恵まれた宗介のこのような社会的規範と伝統的背景に束縛されない生来の心霊的特性を最も高く評価してくれていた理解者が、彼と敵対するテロリスト組織の傭兵隊長ガウルンであった。この実存的な闘争愛好者が認めた宗介の原資質とは、ガウルン自身が自らの弟子として宗介に呼びかけて語っていたように、この主人公が上の場面で再発見した瑣末極まりない社会生活の投影した“クラス(器)”とは極北の位置にある、人格の原存在的様相の中に潜む“聖性を帯びた無感動”だったのである。英霊的本性を色濃く残した霊的存在である宗介は、“ゴミ係兼傘係”という矮小な役割(クラス)を選択することによって一個の人間としての自己同一性の回復を果たすのである。ひょっとして意識体としての我々が装う“人間”としての様相も、この場面に示された宗介の場合と同様に、この伝奇活劇ビジュアルノベル『Fate/stay night』で導入された“サーヴァント”というクラスと同一次元の、ある種のペルソナに過ぎないものであるのかもしれない。

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