アンチ・ファンタシーというファンタシーII

アンチ・ファンタシーの中の英雄(ヒーロー)
『最後のユニコーン』のアンチ・ロマンス的諧謔性とファンタシー的憧憬


 『最後のユニコーン』には、ロマンスの世界の中で中心的な役割を占める典型的な“英雄”(hero)が一人登場する。勿論それは、ユニコーンが変身したアマルシア姫に騎士道的な求愛(courtship)を捧げるリア王子(Prince Lir)だ。彼は勇敢な騎士として様々の冒険を行い、凶悪な怪物達を倒して重大な試練の数々を乗り越えてみせる。しかしファンタシーの常道を裏返したアンチ・ファンタシーであるこのお話においては、heroは“英雄”としての役割を果たす重要な登場人物の一人ではあっても、物語世界の求心的な存在となる真の主人公となることは決してあり得ない。リア王子は、父ハガード王の劇的な破滅の後に彼の呪われた王国を継ぎ、戴冠した結果“リア王”となる訳だが、シェイクスピアの劇作品に対するアリュージョンも多い本作品において、“リア王子”というその名前に決定的な諧謔性を背負わされたヒーローが示すコミカルな様態は、この物語の基調音となっているアンチ・ファンタシーあるいはアンチ・ロマンス的感覚を見事に焙り出すものとなっている。彼の行動に関する描写の詳細な検証を通して、典型的な騎士道ロマンスと類型的なファンタシーとの際立った対照を勝ち得ているこの作品の揶揄的な主題提示の方法論に基づく物語世界記述戦略の一つを、ここで確認しておくことにしよう。
 リア王子が最初にこの物語に登場するのは、実はユニコーンの旅にシュメンドリックとモリーが加わってまだ間もない頃だった。それは物語の本筋に付け加えられた、章の締めくくりの場面のために仮に設けられたようなささやかなエピソードにおいてである。この時は、彼はまだ無名の一人物として、その姿をユニコーンの一行の前に現していたのである。

There were a prince and a princess sitting by a stream in a wooded valley. Their seven servants had set up a scarlet canopy beneath a tree, and the royal young couple ate a box lunch to the accompaniment of lutes and theorbos. They hardly spoke a word to one another until they had finished the meal, and then the princess sighed and said, “Well, I suppose I’d best get the silly business over with.” The prince began to read a magazine.

p. 86

 木立の茂った谷間の小川の辺りに、王子様とお姫様が腰を下ろしていました。7人の召し使い達が一本の木の下に朱色の天幕を張り、二人はリュートとサーボの演奏を聴きながら、お弁当をしたためていました。食事の間、彼等はほとんど相手に声をかけることもありませんでした。食べ終わるとお姫様は溜息をついて、言いました。「さあ、この下らない用事を片付けてしまわなくっちゃね。」王子様は雑誌を読み始めました。

ここにあるのは、この世で最後の一頭となってしまったユニコーンが遂行する、失われた仲間達の消息を求めるための探求の旅を描く運命的で高邁な冒険の物語からは分離した、一種の幕間狂言(interlude)的な場面なのである。直前の第四章の終盤にあったカケスの夫婦の登場していた滑稽な家庭的いざこざのシーンの場合と同様に、舞台空間に小さく収まった仮構世界を、間を置いて醒めた目で眺めようとするような独特の劇場的感覚がここには繰り返されている。演劇鑑賞の伝統に準じて本編にあった緊張を解きほぐし、舞台背景の転換の間一時の別世界を垣間見るように、この気の緩んだお伽話的な一場面は展開されているのだ。ここに描かれているのは『最後のユニコーン』の世界とは微妙に次元界面を別にする、もう一つの小さな異世界である筈なのである。その証拠に、天幕(canopy)を張り、リュートやサーボなどの古代の楽器を奏でながら昼食をしたためるお姫様と王子の姿は、陳腐な程の中世ロマンスの世界の雰囲気を漂わせている。これはユニコーン達一行が仮染め目にした、画一化された類型的な人物造形に基づく王子と姫君が織り成す、緊張感を失った箱庭的世界内別世界なのである。だから穢れない乙女として王子との婚儀を果たす前にユニコーンの加護を呼びかける儀式も、当の本人のお姫様によってあからさまに“下らない慣習”(silly business)と呼ばれることになってしまうのだ。
 しかも二人が食べているのは“box lunch”であり、王子様がだらしなく寝そべって読んでいるのは“magazine”なのだ。この箱入り弁当を敢えて映像表現として視覚化するならば、有名チェーン店のフライドチキンやハンバーガーの商標でも付ければぴったりのものだろう。(1)王子様の手にある雑誌名の方は、身近な我々の現実世界に目を向ければ、ここでその名を語るのが気恥ずかしくなるような誌名の候補がいくつもあがることだろう。しかも定期刊行物の雑誌のことを“magazine”と呼ぶのは、歴史上比較的近来に至ってからのことなのである。もともとはこの言葉は“弾薬庫”、“道具類保管所”といった意味で用いられるものであった。紳士のたしなみとして弁えるべき“知識の保管庫”という程の意味で“Gentleman’s Magazine”という名を与えられた定期刊行物が発行されて以来、ようやく定着したのがこの王子様が読んでいるという“マガジン”の意味なのだ。だからやはりこの情景は、中世的背景の中にあからさまに現代の世界の卑近な事物が挿入されるという、典型的なアナクロニズムの処理が施された、徹底的にコミカルな場面なのである。既存のいかなる神話のものとも異なるユニコーンを主人公とした、不思議な美しさと瑞々しい新鮮さに満ちたこの物語の本筋と対照的に併置されたかのように、気の抜けた二人の硬直したロマンス的登場人物達が話題にするユニコーンについての会話は、飽くまでも物語本編と関わりを持つことのない、劇作手法上のクリシェの一つを形成する素材でしかないように思える。だからユニコーンを呼ぶお姫様の行為に対する王子様の反応も、気の抜けた醒めきったものでしかない訳だ。

The prince yawned and folded his magazine. “You satisfied custom well enough,” he told her, “and no one expected more than that. It was just a formality. Now we can be married.”

p. 87

 王子様は欠伸を一つして、雑誌を閉じました。そして言いました。「君はもう十分に慣習の約束事は果たしたよ。だれもそれ以上のことを要求したりはしない。こんなのはただの儀礼さ。もう僕らは結婚してもいいんだよ。」

これは本作品を読み解くためのキーワード“reality”に間接的には関連することになる、主題を側面から照射するためのささやかな寸劇なのだ。現代生活を怠惰に送る人々の誰もが嫌と言う程経験しているように、核心的真実との連関から逸脱した儀式は形骸化した習慣以外の何物でもなくなり、色あせた惰性のみで執り行われる欺瞞に満ちた虚飾となってしまう。ユニコーンが語っていた、かつてのユニコーンを知る古代の人々が行っていたというユニコーンを目標とした狩の仕方とはあまりにも対照的な、陳腐で猥雑な現実の生の有り様があからさまに記されているのがこの場面だ。しかしながらこの場面に登場していた、空っぽの中身をした薄っぺらのはりぼての人形のような王子様が、実際にこの『最後のユニコーン』というアンチ・ファンタシーの中で“英雄”(hero)としての独特の役割を果たすことになるLir王子でもやはりあるのである。本編となる劇の世界と幕間狂言の寸劇の世界とが、実は微妙に捩れた構成軸を共有して背後で見事に連関しているのが、この気高くおどけたお伽話の本質なのであった。そこにはアンチ・ファンタシーとしてのファンタシーを際どく成立させる、精妙なアイロニカルな機構が隠されているのである。
 ユニコーン伝説の通例に従って、乙女の呼び掛けに応じて姿を現してくれようとはしないユニコーンにあっけなく痺れを切らして、お姫様は早速愚痴をこぼし始める。

“If there really were such things as unicorns, one would have come to me. I called as sweetly as anyone could, and I had the golden bridle. And of course I am pure and untouched.”

p. 87

 「本当にユニコーンなんてものがいるのなら、もう姿を現してくれていてもいい筈だわ。誰にも負けないほど優しく呼び掛けたし、金の馬勒だって持っていたのだから。それに私は本当に、無垢で清純なのに。」

これに対する王子様の慰めの言葉は、我々の知っている“現実”というものの実相を見事に浮き彫りにするものだ。そしてまた、その彼の容貌を記述する言葉は、やはり現実と日常というものの意味せざるを得ない、運命的緊張感を失った立体感のない嘘っぽさを見事に反映するものとなっている。

“For all of me, you are,” the prince answered indifferently. “As I say, you satisfy custom. You don’t satisfy my father, but then neither do I. That would take a unicorn.” He was tall, and his face was as soft and pleasant as a marshmallow.

p. 87

 「確かにその通り、君は無垢で清純さ。」王子様は気乗りしなそうに答えました。「君は充分に慣習を満足させている。でもね、君は僕の父上を満足させることは出来ないんだ。それは僕も同じことだけどね。父上を満足させるには、ユニコーンでもなければ駄目さ。」こう言う王子様は背が高く、その顔はマシュマロのように柔和で、優し気でした。

 “マシュマロのように”という好意的でしかも戯画的な喩えが、この王子様に対して物語の記述の視点が保持する独特の位相を集約して語っている。自らの存在意義に何の自負も気負いも感じることのない、気の抜け果てたような善良なばかりのお姫様と王子様の姿は、優しく好人物ではあるが、ロマンスやファンタシーの体現していた高邁な運命性を放棄して久しい、あまりにも現実的で哀れなほどに人間的な“ヒーロー”と“ヒロイン”なのである。そんな彼等と比して対照的に重厚で存在感に満ち、鋭利で冷徹な印象をさえ与えるのが、王子様の語る彼の厳格な父上の姿だ。実はこの場面ですでに、本作品の真の悪漢“villain”としての重要な役割を演じることになる、裏の主人公ハガード王の姿が、王子の台詞の中にさりげなく言及されていたのであった。純正の本物以外に心を満足させるものを持たない厳格なストイシズムの持主である、運命性と悲劇性をその身に帯びた緊迫感を漲らせた唯一の人物の姿が、ここに暗示されていたのである。その美学的に峻厳な自意識は、もう一つのアンチ・ファンタシーであった『ピーターとウェンディ』において悪漢の役割を忠実に演じていた、ネウ゛ァランドにおけるピーターの仇敵、反逆精神に満ちた海賊船の孤高の船長フックの高邁な心性と重なり合うものであろう。そしてこの情報を与える王子の人物像の占める位相は、悪魔的ヒーローである悪漢ハガード王を浮き彫りにするための、ささやかな背景を提供するに過ぎないものでしかない。
 王子リアと彼の父親ハガード王の保持する対照的な霊的存在性向は、ユニコーンの一行がようやくハガード王の城の間近にやって来るのを見守っている、城の衛兵の姿を装ったこの二人の交わす会話と、それぞれの立ち居振る舞いに見事に反映されることとなっているのである。城でアマルシア姫の一行を迎えることになるこの二人の人物に対して採用されている描写の実際を、改めて忠実なテキストの読解作業を通して振り返ってみることにしよう。  王子リアの住むハガード王の城は重々しく無気味であると同時に、やはりどこか滑稽な程の希薄感をも漂わせている。このような舞台背景の中にこのお話の英雄はその姿を描き出されているのである。

“A man and two women,” said the first sentinel. He hurried to the far side of the tower; a stomach-startling motion, since the tower tilted so that half of the sentinel’s sky was sea. The castle sat on the edge of a yellow shore, frayed bare over green and black rocks. Soft, baggy birds squatted on the rocks, snickering, “Saidso, saidso.”

p. 123

 「男が一人に、女が二人。」一方の衛兵が言った。そして彼は塔の向こうの端まで駆けていった。それは胃のひっくり返るような思いのする動作だった。何故ならこの塔はあまりにひどく傾いていたので、衛兵の目に映る空の半分は海が占めていたからだ。城は緑色や黒い色をした岩の上の、皮を剥がれたような黄色い浜辺の端に建っているのだった。ぶかぶかした袋のような鳥達が岩の上にうずくまって、せせら笑うような鳴き声を立てていた。

そして最初は名も知れぬ衛兵としてその姿を現していた、リア王子とハガード王の二人の外見を物語る叙述は、先にも触れた通りかなりのいかがわしさという印象をさえ与える、極端に戯画化されたものとなっていたのであった。

Both men were clad in homemade mail―rings, bottlecaps, and links of chain sewn onto half-cured hides―

p. 123

どちらの男も半なめしの皮に金輪や瓶の蓋や鎖の輪をいくつも縫い付 けた、手製の甲冑を身にまとっていました。

 この部分では既に『最後のユニコーン』というアンチ・ファンタシーに顕著な特性として“漫画的”傾向の表出を指摘していた訳だが(2)、出だしにおいては確かに等質の滑稽感を共有しつつも、リア王子とハガード王はこれから見事に、その霊的存在性向の対照性を際立たせて語られて行くことになるのである。下に引いた二人の会話が、まず彼等の間の決定的差異を明らかにしていくことになる。遠方に姿を現した3人の旅人を目に止めて、最初の衛兵、つまりリア王子がアマルシア姫について語る言葉と、それを受けて返すハガード王の言葉である。

“It is a woman,” he declared. “I would doubt my own sex before hers.”
“And well you may,” the other observed sardonically, “since you do nothing that becomes a man but ride astraddle.

p. 124

 「あれは女に違いない。」最初の衛兵は、確信ありげに言った。「それが疑わしいというのなら、僕が男であるということすら疑わしい。」
 「お前が自分の性に確信を持てないのも、もっともだ。」もう一人の衛兵が、辛辣な口調で答えた。「馬に乗る時にまたがって乗ることを除いて、お前は男らしいことは何もしていないからな。」

登場人物の性癖・傾向・属性と、作品世界の進行に寄与する彼等の本質的霊的位相さえも見事に反映した、優れて演劇的な台詞回しがここにあることが分かる。ハガード王は、常識と慣習の中に埋没した仮染めの価値基準と現象認識には決して満足することのない、究極の洞察と判断能力の持ち主なのである。ここではまだリア王子は、ハガード王の超越的存在傾向を浮き立たせる単なる引き立て役としての脇役でしかない。さらに二人の会話は以下のように続けられる。

The first sentinel answered him without turning. “If I had grown up never dreaming that there were two separate secrets to the world, if I had taken every woman I met to be exactly like myself, still I would know that this creature was different from anything I had ever seen before. I have always been sorry that I have never pleased you; but now, when I look at her I am sorry that I have never pleased myself. Oh, I am sorry.”

p. 124

 最初の衛兵が、振り返ることもなく答えた。「もしも僕が、この世に男と女という二つの性がある、という事実が存在することを夢にも思うことなく生きて来たとしても、そしてこれまで出会ったどの女も自分と全く異なるところのない生き物だと勘違いして生きて来たとしても、でも僕は、あれがこれまで僕が目にしてきたどのような生き物とも明らかに違う存在だということが分かるに違いない。僕はこれまでずっと、あなたを満足させるような人間でいられなかったことを申し訳なく思ってきた。でも今は、あの人の姿を見ていると、これまで自分自身を満足させることができないままに生きて来たことを済まなく思う。今僕は、本当に後悔している。」

この場面では来訪者に目を止めた一人の衛兵として語る台詞の中に、リア王子という人物のこれまで演じてきた生のあり方と、ハガード王という人物像に託された根本的存在性向と、そしてこの二人の反応を通じて改めて、この物語の主人公であるユニコーンという新機軸の神話的存在の保持する独特の存在意義までもが、立体的に反響しつつ効果的に語られているのである。そしてユニコーンの姿を目にした刺激によって、今覚醒しつつあるリア王子の保持していた旧来の存在性向は、やはり陳腐で無意味な現実の日常性をこそ示唆するものでしかなかった。日常茶飯の愚かな現実性を体現する人物が“王子”として登場していたところが、典型的に本作品のアンチ・ファンタシーとしての要因を決定づけるものとなっているのである。この章における読解作業の核心となるのは、この図式の正確なモデル構築とそこから得られるアイロニカルな表現技巧のフォームの抽出による、はなはだ微妙な本作品の主題措定のために用いられた新たな次元軸の位相の確証とならねばならない。
 しかし劇的な変化を被りつつあることを感じさせるリア王子の言葉に対するハガード王の返答は、以下のようなはなはだしく懐疑的なものだ。ここでもハガード王の担う霊的存在性が、リア王子のそれをはるかに凌駕した別次元のものであることを予測させるのである。

“I don’t think I could ever see her closely,” the sentinel replied, “however close she came.” His own voice was hushed and regretful, echoing with lost chances. “She has a newness,” he said. “Everything is for the first time. See how she moves, how she walks, how she turns her head―all for the first time, the first time anyone has ever done these things. See how she draws her breath and lets it go again, as though no one else in the world knew that air was good. It is all for her. If I learned that she had been born this very morning, I would only be surprised that she was so old.”

p. 124

 「儂にはあの娘が良く分からん。」もう一人の衛兵が答えた。「あの娘がどれだけ近くにやって来ても、やはり分かりそうにない。」こう語る彼の声は、過去に失われた様々の恩恵の機会を反映して、悔いるかのようにくぐもっていた。「あの娘には、清新さが感じられる。何もかもが、始めて経験するとでもいうようだ。あの身のこなし、足の運び方を見るがよい。今、首を傾げた。全てが、今始めてやってみたとでもいうかのようだ。他の誰もしたことのない動作を、あの娘が今始めてやってみたとでもいうかのようだ。息を吸い込み、まるで世界の誰も空気がこのように香しいなどと知らなかったとでもいうかのように、その息を吐いている。あたかも全てが、あの娘のためにのみあるかのようだ。あの娘が、今朝生まれたばかりだと聞かされても、むしろ信じ難い程の初々しさだ。」

リア王子に奇跡的な覚醒の機会を与えることになるアマルシア姫の姿は、全てを知り尽くし、極限の判断力を有するハガード王に対しては、かつてない動揺と測り知れない不可解さに対する惑乱の感覚をのみ与えるようだ。そしておそらく彼の得たこの印象こそ、この世で得られる最も真実に近いものであるのかもしれない。ユニコーンを目にしたハガード王の示す判断と感想は、すべてこの世の日常にある陳腐で劣悪な通念に基づく意識と感覚を顛倒した、選別された知性の在り処を示す固有の反応として描かれている。むしろこのお話の全ては、実はこのハガード王のためにこそ、あるいは彼の心中のものとしてこそあるのかもしれない。
 城門のところでシュメンドリックに導かれてやってきたアマルシア姫の一行を出迎えたこの二人の衛兵は、3人の旅人を城の謁見室に招き入れた後、そこでようやく読者の前に彼等の正体を現すことになる。この場面でようやく先程の寸劇に登場していた王子様が、森の盗賊キャプテン・カリー達の噂していたハガード王の息子リア王子であることが判明するのである。

The first sentinel came forward now with his own helmet under his arm. Molly Grue gaped when she saw his face, for it was the friendly, rumpled face of the young prince who had read a magazine while his princess tried to call a unicorn. King Haggard said, “This is Lir.”

p. 127

 最初の衛兵が、今は兜を脱ぎ、それを小脇に抱えて近付いてきました。その顔を見てモリー・グルーは、思わず息を呑みました。それは以前に彼等が見かけた、お姫様がユニコーンを呼び寄せようとしていた時に雑誌を読んでいた、あの気の良さそうな王子様だったからです。ハガード王が言いました。「こちらはリア王子だ。」

兜を脱いだ最初の衛兵の顔を見て、モリーはそれがあのマシュマロに喩えられていた他愛のない愚劣な好人物のリア王子であることを知る。この場面で改めて、幕間狂言の世界と本編の世界の融合が行われることになる。これから行われるのは、ロマンスの驚異に満ちた世界と卑近なバーレスクの世界の巧妙な合体である。そしてこの正反対の要素の反転的合一というメカニズムは、この『最後のユニコーン』という物語の特有の思想的立脚点を暗示する、独特の創作戦略ともなっているものである。
 だから次の一節は、『最後のユニコーン』という仮構世界の成立する次元界面の特質を集約したかのような、はなはだ興味深い記述様式の融合例を提出するものとなっているのである

“Hi,” said Prince Lir. “Glad to meet you.” His smile wriggled at their feet like a hopeful puppy, but his eyes―a deep, shadowy blue behind stubby lashes―rested quietly on the eyes of the Lady Amalthea. She looked back at him, silent as a jewel, seeing him no more truly than men see unicorns. But the prince felt strangely, happily certain that she had looked him round and through, and down into caverns that he had never known were there, where her glance echoed and sang. Prodigies began to waken somewhere southwest of his twelfth rib, and he himself―still mirroring the Lady Amalthea―began to shine.

p. 127

 「やあ、よく来たね。」リア王子が言いました。彼の浮かべる微笑みは、餌をねだる子犬のように彼等の足許にじゃれつきました。けれども彼の目は、人形のようなぱっちりとしたまつげの奥に深い影のような青色を漂わせたその目は、静かにアマルシア姫の上に据えられていました。アマルシア姫もその視線を返しました。宝石のように静かに、しかし人々がユニコーンを見る時と同じような浅い眼差しでした。けれども王子は、彼女の視線が自分の全てを包み込み、これまで彼自身の知ることもなかった内奥の心の底の深みにまで浸透し、そこで歌声になって反響したという不思議な確信を抱き、幸せな気持ちになったのでした。途轍も無い出来事が王子の12番目の肋骨の南西の辺りで目覚め始め、彼自身もアマルシア姫の放つ光を反射しながら、同時に輝き始めたのです。

真摯と諧謔とがないまぜになった、極めて独特の描写がここには窺われる。“彼の声は餌でももらえると期待している子犬のように足下にじゃれついた”の部分のように、このお話の全編に散りばめられているキーワード“animal image”と関連する新鮮な即物的な記述が素朴に繰り返されると共に、“これまで彼自身の知ることもなかった内奥の心の底の深み”のような高邁で美麗な格調高い表現も併置され、さらに“切り株のようにぱっちりとした睫毛”(stubby lashes)や“途轍も無い出来事が王子の12番目の肋骨の南西の辺りで目覚め始め”のように、度を超したはなはだ興醒めの冷笑的な字句もまた用いられている。この箇所はバーレスクのような幕間狂言の部分と高邁なロマンスの部分が密接に織り込まれた、正体不明の不可解な作物となっているのである。
 しかしこの後リア王子が英雄としての覚醒を果たし、騎士道ロマンスの常道に従った典型的な英雄として行動を取り始めると共に、ロマンス世界との落差がむしろより鮮明に強調され、皮肉で揶揄的な感覚が強まって行くのである。そしてそれはこのお話のユニコーンが暗示していた、伝統的なロマンス的価値原理に対する不帰順の意志表明とも重なるものとなる。
 リア王子の成し遂げる最初の英雄的行動は、その偉業の達成の部分の描写を意図的に省いて、遠征から帰還した後に台所で料理番に対して行う、戸惑いに満ちた報告の一部としてあえて記述されてしまう結果となっているのである。

“I killed another dragon this morning,” he said presently.
“That’s nice,” Molly answered. “That’s fine. How many does that make now?”
“Five. This one was smaller than the others, but it really gave me more trouble.”

p. 137

 「今朝、また一匹ドラゴンを退治したよ。」リア王子は口を開きました。
 「素敵じゃない。」モリーは答えました。「立派なもんだわ。これで何匹目になる?」
 「5匹だよ。今度のやつはこれまでのより小さかったけれど、随分手間はかかったんだ。」

 台所で交わされるリア王子と召使いモリーの会話なのである。料理番の手伝いをして、じゃがいもの皮むきをしながら、英雄が退治したドラゴンのことを話しているシーンだ。しかも、伝説の世界の凶悪な怪獣が、あたかも狩りの獲物のように世俗的日常感覚に引き落とされて語られているのである。この作品に独特のキーワード“antifantasy”に密接に関連する部分である。
 王子の台詞の中の、“ドラゴンを「もう一匹」”の部分がことさら笑劇的効果を演出し、アンチ・ロマンス的要因を増幅していることが分かる。神話的な崇高さを保持する存在や出来事も、言及が反復して繰り返されることによって、陳腐な日常性へと変質してしまうのである。情報と知識の拡大と視点の福相化がもたらした、現代社会の崇高性喪失の精神状況が見事に反映されている部分だ。
 このような現代という時代が喪失してしまったロマンス的感覚を最も直裁に反映しているのが、次のリア王子の語る言葉である。

“All the way up the stairs it was a dragon’s head, the proudest gift anyone can give anyone. But when she looked at it, suddenly it became a sad, battered mess of scales and horns, gristly tongue, bloody eyes.”

p. 137

「階段を上っていく間は、あれは確かに立派なドラゴンの首だった。誰にとってもこの上なく誇り高い、最高級の献上品の筈だった。けれどアマルシア姫がドラゴンの首に目を向けたとたん、血まみれの目と、筋っぽい舌と鱗と角のついたぐしゃぐしゃの、哀れな肉の固まりに見えてしまったんだ。」

 英雄として勝ち取った最高級の戦利品であるドラゴンの首をアマルシア姫に献上しに行った時の、予期に反した興醒めな結末を苦々しく語るリア王子の言葉なのである。勇壮な冒険の成果である筈のドラゴンの首が、全く異なった価値観のもとに、リアリスティックで即物的な側面にことさら焦点を当てて描かれているのである。ロマンスにおける一元的な価値原理が崩壊した後の、脱幻想的手法による疑似ロマンス世界再構築の作業を行いつつあることの、はなはだ自意識的な感覚を冷徹に強調する試みが、端的にここに提示されている。このお話の中心的属性決定要素となるキーワード“antifantasy”に最も深く関連する、反射的内省機構を色濃く示した場面の一つであるといって良いだろう。
 ここで焦点を与えられているのが、“trophy”(戦利品)という言葉である。戦いを行うこと、価値あるものとして何かを勝ち取ること、その成果を誰かに捧げることのそれぞれの意義が、確たる幻想として共有されるための普遍的世界観が失われてしまったことに対する醒めた自覚が、この物語の根底にはある。ドラゴンの首ばかりか、他のいかなるものも真の勝利と達成の証である“trophy”とはなりえない幻想喪失の時代に我々は生きているのである。
 さらにリア王子の語る次の言葉は、伝統的なロマンス的価値観とは全く異なる新たな意味性賦与の原理の存在を暗示するものである。

“And then she looked at me, and I was sorry I had killed the thing. Sorry for killing a dragon!” .

p. 137

 「それからアマルシア姫は僕の顔に目を向けた。そして僕はあいつを殺したことを後悔したんだ。ドラゴンを退治したことをだよ。」

 破壊と殺戮の上に成り立っていた、硬直したロマンス世界の原理を転覆する視点として、これと対立的な共生と共感の思想がここに意図的に導入されているのである。この視点の変換の軸となるものとして、ユニコーン/アマルシア姫という象徴的存在が当初から機能していたのであった。ここで、このお話の冒頭で主人公ユニコーンを導入するために用いられていたあの一見柔和で、しかし諧謔的におどけた表現は、改めて主題形成上の捩れた意義性をさらに主張することとなっている。

She had killed dragons with it, and healed a king whose poisoned wound would not close, and knocked down ripe chestnuts for bear cubs.

p. 7

ユニコーンはこの角で龍を倒したこともありました。毒を受けた傷がどうしても癒えない王様を助けてやったこともありました。そして実った栗の実を熊の子供達のために払い落としてやったこともありました。

 つまりロマンス世界の崇高と騎士道精神の高潔を成り立たせている英雄的行為も、座標軸を転換して今一度再検証の手を加えてみるならば、破壊と殺戮という残虐性と暴力性に収束してしまわざるを得ないのである。そもそもロマン主義という思潮の勃興そのものが、このような原理機構の基本軸自体に内在する偏差と揺らぎの可能性に対する鋭敏な自覚に根ざしたものであった訳だが、現代の産業資本主義に対するアンチ・テーゼとして復権させられた騎士道主義とロマンスを成り立たせる原理的意義性に対する恒常的な懐疑もまた当然ながら、ロマン主義とそしてその影響下に生成したファンタシーの保持する体制転覆的衝動の矢面に立たざるを得ないこととなる。(3)リア王子の放つ言葉は、これから忠実にこのシステム的枠組みをなぞってみせることになるのである。

“I have swum four rivers, each in full flood and none less than a mile wide. I have climbed seven mountains never before climbed, slept three nights in the Marsh of the Hanged Men, and walked alive out of that forest where the flowers burn your eyes and the nightingales sing poison.”

p. 137

 「僕は4本の川を泳いで渡った。どれも水量豊かで、幅1マイル以下のものは一つとしてなかった。未だかつて誰も登ったことのない山を7つ登った。首吊り男の沼地で3晩過ごした。花が人の目を焼き、ナイチンゲールがさえずり毒を吐く森から見事に生還して来た。」

 リア王子がモリーに語っているのは、アーサー王伝説などにしばしば登場する典型的な騎士の冒険のパターンのいくつかである。模範的な中世ロマンスの筋立てが、聞き飽きた陳腐な類型であることを充分に意識してこの台詞は語られている。そしてこれは、わずか以前の物語の進行の中でシュメンドリックがカリーの御機嫌をとるために利用していた、ロビン・フッド伝説の“ballad”にあったような類型的パターンと全く同根のものなのである。この反復が暗示する物語が提供する戯画的な感覚が、本書の主題とする統括的なキーワード“antifantsy”と正確に重なるものであることは言うまでもない。類型性の強調は、その背後にある価値観に深い疑念を抱かせることとなるのである。似たような行為が繰り返され、回数までも具体的に示されればなおさらである。  さらに英雄リア王子の語る言葉は、より一層卑近なバーレスクの色合いを強めていくことになる。

“I have ended my betrothal to the princess I had agreed to marry―and if you don’t think that was a heroic deed, you don’t know her mother.”

pp. 137

「僕は姫君との結婚の約束を反古にしさえもした。これが英雄にふさわしい勇敢な行いではないと思うのなら、それはあなたがこの姫君の母親がどんな人か知らないからだ。」

 許嫁の母親である恐いおばさんに、勇猛果敢な英雄が怯んでいるのである。婚約破棄という行為はどうみても試練や偉業と呼ぶべき英雄的行為とは言えない。リアが勇気を奮ってどうにか婚約を解消したというこのお姫様は、第六章でユニコーンの一行が目撃した、金の鐙を用いてユニコーンに加護を呼びかけていた、あのお姫様であろう。3次元空間におけるミクロな遍在要素として巻き込まれた微細次元のように、異質な別世界が全て不可解な関連を通して連接しているのが、この一見したところ散漫で、しかも単純な筋立てをしたかのように見受けられる、疑似ロマンス作品の秘める深い内実なのである。
 普通ならば怪物を倒すか、探求の旅を成し遂げるか、予言を成就させるか等と相場が決まっている“英雄的行為”(heroic deed)ではある。しかしこれらのうちのどれも、その行為自体は実は、単なる破壊や殺戮か、あるいは酔狂な骨折り以外の何物でもないことが、明瞭にお話の登場人物自身によって自覚されているのが、この辛辣な皮肉に満ちたアンチ・ファンタシーの特質なのである。

“I have vanquished exactly fifteen black knights waiting by fifteen fords in their black pavilions, challenging all who come to cross. And I’ve long since lost count of the witches in the thorny woods, the giants, the demons disguised as damsels; the glass hills, fatal riddles, and terrible tasks; the magic apples, rings, lamps, potions, swords, cloaks, boots, neckties, and nightcaps.”

p. 137

「僕は、浅瀬の脇に黒い天幕を張って川を渡ろうとする者の全てに戦いを挑んでいた黒騎士達を、きっかり15人倒した。刺の森の魔女達や、巨人や、乙女の姿に変装した魔物達など、もう数も覚えていない程退治した。ガラスの山や、命のかかった謎解きや、難行の数々など、随分様々な冒険をしたものだ。魔法のリンゴもあったし、ランプに仙薬に剣に外套に長靴に、ネクタイにナイトキャップもだ。」

 古代世界においては典型的な交通の要所であった川の浅瀬(ford)のところに待ち構えていて、通りかかる者達に戦いを挑む黒騎士などもまた、アーサー王伝説等のロマンスに登場する、探求の旅に赴いた騎士の遭遇する冒険の典型的パターンである。また“fatal riddles”の“fatal”は、「命に関わる」、つまり正しい答えを見つけることができなければ命を奪われるという、スフィンクスの謎掛けの伝説等を思い起こさせるものである。冒険もその数があまりに多いと有難味が薄れてしまう。語っている本人も面倒になって、お終いのあたりは説明もいい加減になってきている。ガラスの山以降はむしろ荒唐無稽なお伽話の中に登場する題材というべきであろう。さらにネクタイとナイトキャップなどは、意味もなくおまけに付け足されただけの無意味な日用品に過ぎないもののようにも思える。これはナンセンスの効果をもたらす“anticlimactic catalogue”(急遁法的羅列)の典型的な例であろう。ここにも冒頭のユニコーンの紹介の際の記述にあったような“作品に描かれた主題を嘲笑すると同時に親しみ深いものにする拍子抜けするような事柄の羅列”という(4)特有の記述が反復して適用されている訳だ。
 さらに王子リアの語る料理番モリーへの愚痴めいた報告は続けられる。

“Not to mention the winged horses, the basilisks and sea serpents, and all the rest of the livestock.”

p. 138

「それからもちろんペガサスや、バジリスクや、海蛇や、その他ありとあらゆる怪物達も。」

わずかな期間に途轍も無く大量の怪物退治をしてしまっているリア王子なのである。winged horse(天馬ペガサス)やbasilisk(睨むと相手を石に変えてしまうという伝説上の蜥蜴)や船乗り達に恐れられた海の怪物sea serpent(海蛇)等の、それぞれに独自の神話を形成している筈の伝説上の怪物達が、ひとまとめに“livestock”つまり“家畜類”と呼ばれてしまっていることがことさら印象深い。神話や伝説が日常茶飯の目障りな障害や鈍重な牛馬の類いと同列に扱われてしまっているのである。これは崇高を卑近に引き落とすことによって得られる、はなはだ底意地の悪い諧謔の効果なのである。
 そしてこれらは、人となってその卑賎な生業を身を以って体験しつつあるアマルシア姫の、日々目にする現実世界の汚濁を暗示するものでもある。ユニコーンとしての優美な姿を失ったアマルシア姫は、外形ばかりでなくその霊的存在性向さえもが決定的な影響を被り、彼女の人格/神格の分裂を来すことになってしまうのである。

“Now I am two―myself, and this other that you call ‘my lady.’ For she is here as truly as I am now, though once she was only a veil over me.”

p. 142

「今は私の心は二つに別れてしまいました。もとの自分と、あなた方が“お姫様”と呼ぶもう一人の私です。以前は私の体の上にかかった覆いのようだったのに、今はもうこの私そのものになってしまいました。」

 ファンタシー文学の多くにおいて人格の分裂、あるいは影の生成という裏の主題が潜伏していて、多様化した価値観のために錯綜した人間の心が分裂し、その結果生み出された影、つまり人間の本体を成すものの一部が切り離された結果、超越的な能力を増幅することになるものが、あるいは不気味な妖怪として、またあるいは堕落した人間性を糾弾する超越者として機能し、何らかの意味で本体である人間がこれらと敵対することを強いられることとなっていたのに対して、ここではもともと人間存在を超越した永遠性の持ち主であるユニコーンの心の分裂が描かれ、その結果生成したものが一人の人間の乙女となってしまっている訳だ。ファンタシー文学の本質的な機構が巧みな反転操作を加えて応用される結果になっているのである。アンチ・ファンタシーの戦略の効果的な発現例として指摘することが出来る、擬装されたロマンスとしてのこのお話の殊に興味深い部分であろう。
 騎士として覚醒を成し遂げた後に繰り返し行った高邁なロマンス的冒険の全てが、ただ最愛のアマルシア姫を混乱させる結果に終わってしまっただけであったリア王子が、遂に怪物退治の企図の放棄の決心を告げた時、この英雄的行為の全ての証人の役を務めてきたモリーは、かなり複雑な思いで彼の言葉を受け止めることとなる。

She felt relieved that the prince was giving up his courtship, and amused as well, and somewhat sad. “Girls like poems better than dead dragons and magic swords,” she offered.

p. 152

モリーは王子様が求愛を止めにしようとしているのを知って、安心した気持ちになりました。そしてちょっと愉快な気持ちにも、また何か悲しい気持ちにもなったのです。「女の子というものは、ドラゴンの死骸や魔法の剣なんかより、詩の方がもっと好きなものなのよ。」王子様にこう言ってあげました。

 ロマンス的ヒーローとしての姫君への求愛を続けることを断念してしまったリア王子に対する、モリーの二律背反した複雑な気持ちが上に語られている。求愛(courtship)とは、中世ロマンスにおいて騎士が貴婦人達に対して示すこととなっている、はなはだ型にはまった敬意と愛情の表現法であるが、実際には大抵は騎士同士で戦い合うか、あるいは何かを殺して、その死骸を献上することになるのである。けれどもロマンスの世界の硬直した類型的価値観が見事に破綻する様を目にすると、ロマンスの世界を堅固に支配していた一元的価値基準に対する憧憬の念もまた新たに沸き上がってくるものなのである。美と崇高を体現するもの一般に対して万人に抱かれることになる普遍的憧憬と同様の、このような二律背反した微妙な揺らぎの感覚こそが、この物語の根底にあるアイロニーの要素として指摘できる部分だろう。そこには純朴と冷徹の双方が、確かに互いを損なうことなく鮮烈に自覚されているのである。
 だからモリーは、思わずリア王子に問いたださずを得ない。

“But will you never go out again, then, to fight with black knights and ride through rings of fire?” The words were meant teasingly, but she found as she spoke that she would have been a little sorry if it were so, for his adventures had made him much handsomer and taken off a lot of weight, and given him, besides, a hint of the musky fragrance of death that clings to all heroes.

p. 152

「でも、王子様はもう冒険に出かけて黒騎士達と戦ったり、火の海を駆け抜けたりすることはないのですか?」モリーはこの言葉を最初は、王子様をからかう気持ちで言ったのでした。でもこう言いながら、モリーは王子様が冒険を止めてしまったなら、少し残念な気がするのに気付きました。これまでの冒険のおかげで、王子様は随分贅肉を落として、以前よりずっと恰好よくなっていただけでなく、ヒーロー達全てがまとっている、独特の死の芳香のようなものまでが備わっていたからです。

 “麝香”といえば、古代から用いられて来た動物性の芳香の一種である。この言葉が、ヒーローとなったリア王子のいつか身に付けた、特有の“old”さを暗示するものとして用いられているのである。ロマンスに歌われたヒーロー達の実際の冒険や戦いそのものは、決して本当に立派なものでも、気高いものでもない。しかしヒーローとして振舞う者の身に帯びた運命的な独特の相貌は、確かに賞賛するに値する何ものかを、ほのかな香りのように反映してもいるのである。愚かさ(folly)と下らなさ(absurdity)と無意味(nonsense)の中に潜む気高い崇高の存在を鋭く意識したこの感覚は、長らく西洋世界には馴染みの薄いものであった東洋的風狂、あるいは老子的諧謔の暗示するものに極めて近しいものであると思われるのである。
 怪物退治の冒険を放棄した後、モリーの助言に従い詩作に励むことになったリア王子ではあるが、やはり彼の相談役でもあり指導者でもある役割を果たすのは、みすぼらしい家政婦のモリー以外にはいない。リア王子は韻律法と単語の綴りに関する相談を、この無教養な料理番に持ちかけることとなる。

“Can you really rhyme ‘bloomed’ and ‘ruined’?”
“It needs a bit of smoothing out,” Prince Lir admitted. “‘Miracle’ ’s the word I’m worried about.”
“I was wondering about ‘grackle’ myself.”
“No, the spelling. Is it one r and two ls, or the other way round?”

p. 153

 「本当に“花開いた(bloomed)”と“破滅した(ruined)”で韻が揃うと思う?」
 「ちょっと手を入れる必要はあるね。」リア王子は素直に認めました。「今困っているのが“奇跡(miracle)”という単語なんだ。」
 「私は“ムクドリモドキ(grackle)”なんてどうかと思うんだけど。」
 「いや、“miracle”のスペリングが分からないんだ。“r”が一つで“l”が二つだったっけ、それとも逆かな?」

 モリーもリア王子も、どちらもかなり文芸的知識については怪しいものである。モリーは “grackle”で“miracle”に韻を合わせることを助言しているが、王子様は単語の綴り自体が分かっていない。しかしここでは単語の意味などはどうでもよく、韻さえ踏めれば歓迎なのである。あるいは二人共、正しい綴りを確認するだけで精一杯なのである。

“One r, anyway, I think,” Molly said.“Schmendrick”―for the magician had just stooped through the doorway―“how many rs in ‘miracle’?”
“Two,” he answered wearily. “It has the same root as ‘mirror.’”

p. 153

 「とにかく“r”は一つだと思ったけど。」モリーは言いました。「シュメンドリック!」魔法使いが丁度戸口をくぐって来たところでした。「“miracle”には“r”はいくつある?」 「二つだ。」シュメンドリックは疲れた様子で答えました。「“鏡”(mirror)と同じ語源なんだ。」

 単語の綴りに関するモリーの問いに対して、気のない様子で間違ったことを答えてしまうシュメンドリックである。しかし聞かれてもいない語源に関する彼の答えの後半部分は、実は真実なのである。“miracle”も“mirror”も、実際に語源は同じなのであった。語源のラテン語“miraculum”は、“wonderful thing”あるいは“marvel”と同様の意を持つ言葉である。また“mirari”は、“to wonder at”の意となる。そして“mirus”は、“wonderful”の意味であった。だから“admire”(称賛する)も、“mirror”と同様の語源を持つ言葉となるのである。つまり“鏡”(mirror)は鏡面的対称物として自我の影の存在を際立たせる機能を果たし、魔法の顕現の優れた小道具として用いられ、“奇跡”(miracle)の到来を約束する鍵となるからである。このような原理機構を持つ宇宙の本質に対する崇敬の念が“賞賛”(admiration)なのであった。
 古代フランス語以外にも英単語の多くはギリシア語、あるいはラテン語の語源を持つが、これらの語源をたどることにより、言葉本来の担っていた深い意義性が再確認でき、失われた真実が暴かれて行くという構造性そのものが一つのファンタシーの典型的な主題でもあり、またその思想的特質を示す方程式とも解され得る訳なのだ。
 不馴れな詩作の困難さに呻吟するリア王子の様子は、以下のような具合だ。

“The lift of longing, and the crash of loss,” Prince Lir said. “The bitterness of tumpty-umpty-oss. Cross, boss, moss. Damn.”

p. 154

 「憧憬の廃絶と、喪失の壊滅。」リア王子は詩の文句を続けました。「タンプティ・アンプティ・オスの苦渋。クロス、ボス、モス。駄目だ。」

 詩的な言い回しをなんとかこれまで持続させてはきたが、遂に後半で韻につまづいて立ち往生してしまっている場面である。“タンプティ・アンプティ・オス”は一見意味不明の言葉だが、『不思議の国のアリス』にも登場するナーサリー・ライムの中のキャラクター“Humpty-Dumpty”を連想させるものである。卵を正解とする謎解きの題材であったこの仮構的存在が、“オス”という語尾を保持するものとされ、cross、 boss、 mossと“オス”で韻の合いそうな言葉を探し求めているところなのである。ところが使えそうな単語はどうしても見つからない。
 ヒーローは勇壮な冒険を行う“行為者”(doer)であるが、ヒーローの偉大さを理解し、言葉で歌い上げる役目を果たすものは当然“thinker”である。両方の仕事を一人の人物がこなそうとしているところに根本的な無理がある訳だ。ここもまた相反する要素の重ね合わせによる存在属性の打ち消しと“無化”という過程を通して、リアが現世的束縛からの脱却を図ろうとしていることが読み取れる場面であるかもしれない。

“I’ve got it all but the final couplet,” Lir said presently. “Do you want to hear it now, or would you rather wait?”

p. 154-5

「最後の2行以外はみんな出来上がっているんだ。」リア王子は言いました。「聞いてみるかい?それとも全部出来てからにする?」

 こうしてモリーを相談役に詩作に励み続けるリア王子である。ロマンス的ヒーローが一人の芸術家である詩人へと転身してしまい、ロマンス本来の価値観の顛倒がもたらされた結果、この物語の次なるステージへの移行が果たされることとなるのだ。
 破壊的な戦闘マシンとして目覚めた筈のヒーローであったリア王子も、いつしかいっぱしの詩人もどきにまで成長してしまっている。これも又従来の神話にあった啓示と神託とは別物の例外的な機能を担ったユニコーンという存在の与えた、玄妙な影響であったのかもしれない。

The new poem was meant to be a sestina, and Prince Lir’s head was jangling happily as he juggled the end words on his way up the stairs to his chamber.

p. 155

 今度の詩はセスティーナになる予定でした。自分の部屋に戻る階段を昇る途中も、締めくくりの言葉をあれこれ入れ替えながら、リア王子の頭も楽し気に揺れていました。

 最初は怪し気だったリア王子の詩の知識も、いつしか熟練度を増してきている。今回彼が挑戦しつつある詩型は、セスティーナなのだ。ソネットが14行詩であるのに対し、6行6連からなる詩型が“sestina”と呼ばれるものである。連の数と韻の踏み方に従って、ソネット以外にも様々な詩の種類があり、またソネットにもいくつかのタイプがある。怪物達との戦いよりも文芸的教養の方に喜びを見いだしてしまった、文化的な英雄の姿が語られているのである。かつて英雄が英雄たりえた時代の実相は、実はおそらく甚だしく荒涼とした、殺伐としたものでしか無かったに違いない。揶揄的に英雄像を語ることができるだけの文化的立体性を備えた知的背景があってこそ、ロマンスの秘める意義生はむしろその内実をより豊かに主張することとなる。
 巧みな変換を施されたこのアンチ・ファンタシーにおける英雄像は、模範的なロマンス的英雄行為の放棄という試練を経た後、初めてその予言を招き寄せる資格を獲得することとなる。主人公ユニコーンの保持していた存在性向と照応するものを、リア王子が身に付けることになるのである。
 そしてヒーローとしてのペルソナの放棄の結果生まれ変わったリア王子は、改めて彼の求愛の対象であるアマルシア姫に向き合うこととなる。アンチ・ファンタシーの見通し図中により焦点を絞られることとなった、新規の“英雄”像の誕生である。

Her hair was down, and her feet were bare, and the sight of her on the stair sent such sorrow licking along Prince Lir’s bones that he dropped his poems and his pretenses together and actually turned to run. But he was a hero in all ways, and he turned bravely back to face her, saying in a calm and courtly manner, “Give you good evening, my lady.”

p. 155

 アマルシア姫は髪を降ろしていて、足は素足でした。階段の上に佇んでいる彼女の姿を目にして、リア王子はいとおしさの気持ちが骨の中に疼くのを感じたのでした。そして王子は、書き留めた詩も英雄らしい振る舞いも両方共忘れ去ってしまい、踵を返して逃げ出してしまったのでした。けれどもリア王子は、どこをとってみても完璧な英雄でした。彼はすぐに振り返ってアマルシア姫の前に立ち、落ち着いた騎士らしい振る舞いで語りかけました。「ご機嫌いかがですか、姫君。」

 昂る愛の気持ちのためにどぎまぎした様子のリア王子を語る描写は、揶揄的な諧謔性に満ちたものであると同時に、どこか新鮮な不思議な初々しさもまた感じさせるものとなっている。この物語特有の、潤いに満ちた素朴さと辛辣な皮肉の融合の典型的な例を示す場面である。当然ながらこのような部分の評価においてこそ、この異質のアンチ・ファンタシーが正しく考量されなければならないことになる。品格に優れたアイロニーを嗅ぎ分ける洗練された感覚は、決して誰にでも備わっている訳ではないからである。
 殊に目を止めておきたい傾向は、このお話の保持する“対象離反性”という性向であろう。典型的な例として、“sent such sorrow licking along Prince Lir’s bones”の部分などがあげられる。いかにも孤独で頼り無さそうなアマルシア姫の姿が“リア王子の骨に舐めるような感触を送った”、と描写されているのである。“背筋に濡れたものが走る”ようなぞくっとした感触とは、記述対象を突き放したような、ことさら意地の悪い醒めた感覚で語られていることが分かる。“dropped his poems and his pretenses”(詩も英雄としての建前も取り落としてしまった)の部分も、かなり辛辣な、共感に乏しい描き方ではある。描きつつあるものに対する過剰な作者の思い入れは、しばしば“対象癒着性”という言葉で呼ばれる硬直と無味乾燥をもたらす致命的な欠点に導かれるものだが、ここにあるのはそれとは見事に対照的な、醒めたドライな感覚なのである。しかしながら興味深いのは、作者ビーグルの示す皮肉は、物語世界の鮮やかな瑞々しさを損なうことがない点なのだ。従来の“風刺”とは明らかに異なる、懐疑的ではありながら愛着の対象に対する思い入れを失うことの決してない、独特の心性がここに窺われるのである。かつて西洋文化の公認するものではなかったこのような感覚が“漫画的”要素として『最後のユニコーン』の中で重要な役割を占めていることは、無視することの出来ない事実なのである。
 だからこそこれからリア王子の示すことになる新たな英雄としての振る舞いは、既存の類型を脱した不思議な説得力を持つものとなっているのである。

She would have left him then, but he spoke to her in a voice that only heroes have, as many animals develop a certain call when become mothers. “A dream that returns so often is like to be a messenger, come to warn you of the future or to remind you of things untimely forgotten. Say more of this, if you will, and I will try to riddle it for you.”

p. 156

 お姫様はそこで、王子のもとを立ち去ってしまおうとしたのでした。けれどもその時、王子は英雄だけが持つ声を用いて彼女に語りかけたのです。様々な動物達が母親になると、子を呼び寄せるいくつもの声を使い分けることができるようになるように。「何度も繰り返し見る夢というものは、何かを告げようとしているのです。将来の危機を警告するか、あるいはうっかり忘れ去ってしまったことを思い出させてくれるのです。もっとあなたの夢のことをお話しして下さい。あなたのためにその謎を解いてさしあげましょう。」

 詩を書いて捧げることよりも、もっと効果的な、そして内実のある振る舞いをリア王子がついに見つけ出した場面である。本物の「英雄」というものにふさわしい、真摯で実直な、雄々しい振る舞いと物言いである。この物語は硬直した理想に対しては手加減のない揶揄と嘲笑を与えるが、真の理想に対する素朴な憧憬を失うことは決してない。
 リアがここで正しくも語っているように、夢こそがしばしば日常性と理性の限界を超越して、究極の真実そのものに対して人の心を解放する唯一の手立てとなるものである。しかし限界ある人間的理解力はその至高の真実を直視した時、理解不能の謎としてしか受け止めることができない。しばしば予言の言葉に対して謎解きの手順が必要とされるのは、そのためなのである。失われた過去であり、あり得ない未来であり、現在の夢であるユニコーンを探求の目標とするヒーローは、アンチ・ロマンスという試練をくぐり抜けた末に初めて、この他の何よりも手強い神話上の生物を捕縛する力を備えることとなるのである。



(1)

 1982年に公開されたアニメーション版のThe Last Unicornでは、失われた仲間達の消息と彼等を救出するために立ち向かわなければならない仇敵であるレッド・ブルに関する情報をユニコーンに教授することになる透明性の意識の持ち主である蝶は、1968年に出版された原作のThe Last Unicornにおいて語っていたのとは異なる、多くの同時代性の台詞を語ることとなっていた。卑近な程に身近な現実世界の現象性を示唆する要素が、このアンチ・ファンタシーには不可欠なものであると判断された結果なのだろう。

(2)

 Cf. 『アンチ・ファンタシーというファンタシー』(近代文藝社、2005)、11章、「アンチ・ファンタシーのポスト・モダニズム的戦略―ビーグルの『最後のユニコーン』と“漫画性”」

(3)

 ファンタシーの初動因として常に反転的世界描像の可能性を意識したアイロニーの存在があることは、本論の出発点となるものであった。本書における論考の基幹概念である“アンチ・ファンタシー”という用語が指標として採用されることになったのは、この要請を反映した結果である。
 Cf. 『アンチ・ファンタシーというファンタシー』(近代文藝社、2005、pp. 5-10)

(4)

 Cf. ブライアン・アテベリー(Brian Attebery)、『アメリカ文学におけるファンタシーの伝統』(The Fantasy Tradition in American Literature: From Irving to Le Guin,1980)。 アテベリーのファンタシー観におけるビーグルの『最後のユニコーン』理解の問題性は、本書における論考の出発点を提供してくれているものである。(Cf. 『アンチ・ファンタシーというファンタシー』、pp. 5-19)

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