アンチ・ファンタシーというファンタシー3

アニメーション映画『最後のユニコーン』と影の主題
―映像表現における形而上的題材の演出技法



 アニメーション映画『最後のユニコーン』(1982年、アメリカ、ジュール・バス&アーサー・ランキンJr監督)(1)は、1968年に出版されたピーター・S・ビーグルによる原作に導入されていた“影と本体の捻転的合一”という潜伏的主題に、映像表現として巧妙な再構成の手を加えたものとなっている。ビーグルの手になる異色のアンチ・ファンタシーである『最後のユニコーン』(2)が展開していた、文章表現の粋を凝らした影の主題の反射的表現を反芻しつつ、アニメーション映画特有の映像表現を活用した“影”というモチーフの展開応用例を敢えて即物的に確認していくことにより、類い稀な緻密性を備えたこのアニメーション作品の映像表現技法に対する検証作業を試みていくこととしよう。
 タイトルがあらわれる前のオープニングのシーンでまず最初に姿を現すのは、森の守り神である主人公のユニコーン自身ではなく、彼女の影なのである。 [図1]
[1]
 オープニング・シーンの後に続くタイトル・バックの画面では、この物語の主人公のユニコーンではなく、タペストリーに描かれたユニコーンの姿が示されている。歴史上伝統的に受け入れられてきた神話的存在としてのユニコーンのイメージは、確かにベルギーのクリュニー美術館やニューヨークのメトロポリタン美術館等に保管されているタペストリーによって伝えられてきたものであった。
  これらのユニコーンに関する基幹的イメージとこの作品において実際に描かれることとなるユニコーン像の織りなす捻転的な落差が、主題として重要な意味性を主張することになるのだが、ここではタペストリーの中のユニコーンさえもが、水面に映った反転した鏡像、すなわち一つの影として提示されているのである。[図2]
[2]
さらにタイトル・バックの画面は、タペストリーの内部で上方に焦点を移動し、移ろう雲の形の変化の一つとして、ユニコーンの姿を映し出す。あてどない雲の形に狂気の幻想を仮託して錯綜した思いを語るハムレットの場合のように(3)、幻想の中に浮かぶ虚像としてのユニコーン像が、もう一つの影の世界の存立機構を暗示しているのである。[図3]
[3]
 タイトル・バックの終結は、やはりタペストリーとして一瞬動きを固定された画面の中のユニコーン像を映し出すものとなっている。タペストリー空間は一つの完結した仮構世界として、ユニコーンの保持する存在属性を定義づけるものとなるが、当然のことながらこのアニメーション映画の世界は、ここに提示された画像上の仮構世界とはまた別種の、もう一つの仮構世界として展開されることになるのである。そこに定義づけられるユニコーン像は、またこれとは性格を異にするものとなる筈であるのは言うまでもない。 [図4]
[4]
原作の『最後のユニコーン』の特徴的なメタフィクション的要素を決定づけていた、仮構を仮構として自覚する作品自体の保持する反射的自意識性が、様々の影あるいは虚像を媒介として、忠実な視覚化操作を施して提示されていることが分かる。
 ある日森にやって来た狩人達の「ユニコーンは、みんないなくなった。」という言葉を聞いて不安にかられたユニコーンは、森の泉にその姿を映して、自分自身のあり方について改めて思いをめぐらす。これまでは自らの美しい写像を目にしてただ満足の気持ちをのみ覚えていたユニコーンにとって、自己の存在の意味に対する疑問を抱くことは、存在論的完璧さを信じ飽くまでも自己充足的であった筈の神話的存在の、かつてない霊的な揺らぎを体験することである。[図5]
[5]
 そんなユニコーンの前に一匹の蝶が姿を現す。原作では「そよ風の中から躍り出てきた」(p. 12)と語られているように、あまりにも微小でほとんど無に等しい存在性向を保持する蝶は、反転して全てに繋がる記憶と意識を持ってでもいるかのように、一見したところとりとめのない、けれども人間の理性の限界を超えた深い真実を語ってくれることとなる。彼はおそらくはユニコーン自身の影であり、さらにまた他の全てのものの影でもあり得るかのようである。この蝶は全体性の宇宙の一断面である世界霊のペルソナとも言うべき、時空と精神の連続体としての意識を超えた想念を示すのである。蝶の言葉に耳を傾けるユニコーンの姿は、とりわけ興味深い図像を形成することとなる。蝶は言う。

“You can find the others if you are brave. They passed all the ways long ago. And the Red Bull ran close behind them and covered their footprints.”
(勇気を失うことさえなければ、仲間達を見つけることができます。ユニコーン達は遠い昔にあらゆる道を走り去り、赤い牡牛がその後を追い、足跡を消し去ってしまいました。)

こう語る蝶の姿がユニコーンの顔の上に影を落としているのだが、彼等の交わした会話そのものが、ユニコーン自身の揺れ動く思念の残像か、あるいは彼女のとりとめの無い夢想の断片でもあるかのようにも読み取れるのである。これは文章表現においては原理的に不可能な、複数の概念/表象の同時間的併置からなる映像表現独自の効果なのである。[図6]
[6]  
始めて聞く見知らぬ存在の名に驚いて、「赤い牡牛というのは何?」と尋ねるユニコーンに答えて語る蝶の言葉である。

“His firstling bull has majesty, and his horns are the horns of a wild ox. With them he shall push the peoples, all of them, to the ends of the earth.”
(彼の第一子は王となり、その角は野牛の角。これを用いて牡牛は、全ての民を地の果てまで追いやるであろう。)

しかし彼の回答と思えたものは、実は全て聖書『申命記』(Deuteronomy)の引用に過ぎないものなのである。脈絡なく時間と空間の制約を超えて、世界の歴史にある全ての歌と記述を鏡のように反復するばかりであるのが、蝶の発話なのであった。
 実体の無い錯覚か幻影であるかのようなこの蝶が飛び去った後、ユニコーンはつぶやく。

I must know if I am the only unicorn left in the world. Suppose they are hiding together somewhere far away. What if they’re waiting for me, in need of my help?
(本当に私が世界で最後の一頭になってしまったユニコーンなのか、確かめてみなければ。みんなはどこか遠いところで姿を隠しているのかもしれない。私の助けを求めて、待っているのかもしれない。)

そして何故か先程の蝶の声と共に画面に示されるのが、赤い巨大な炎のような雄牛に追い立てられるユニコーン達の映像である。ここに映像としてあらわれたユニコーン達も、その後を追う赤い牡牛の姿も、そして先程の蝶自身も、実はユニコーンの心の中に浮かんだ妄想なのかもしれないのである。
 これまで全てに充足して暮らしてきた森を後にして外の世界に出たユニコーンは、世界全体に大きな変化が起こっていることを知る。誰も彼女の姿を目にしても、ユニコーンだと分からないのである。道で出会った農夫は彼女を見つけると、捕まえようとしてベルトを抜き、わなを作る。彼の目に映ったユニコーンは、市場で高く売れそうな美しい雌馬である。自らの荒んだ心の中の欲望の投影として、農夫はユニコーンの影を見ている。[図7_a],[図7_b]
7_a 7_b
 ユニコーンを捕まえようとして農夫は近付いて来る。地面に映った影だけが、特有の真っ直ぐに伸びた角を持ったユニコーンの真実の姿を表している。ユニコーンが足を踏み出した森の外の世界は、存在の真実の有様とその影が逆転して現れる、言わば影の世界ともいうべきものなのであった。 [図8_a],[図8_b],
8_a 8_b
 農夫の許を逃れた後、道端でうずくまるユニコーンの姿を、馬車に乗った通りがかりの男が見下ろしている。生きることに疲れ果てたような彼の目には、やはりユニコーンは角を持たないただの雌馬のようにしか見えていない。そこは希望に満ちた真実のかわりに、光を失った影のみを見ようとする、不可解な人々の世界なのである。 [図9_a],[図9_b]
9_a 9_b
 コーラスが歌う。

walking man’s road…(人の世界の道を歩いて…)

 ユニコーンは時間の流れの支配に身を投じ、あてどない旅を続けることになる。本来はユニコーンの生きるべき世界ではない、「人の道」を歩くユニコーンの姿は、やはり水面に映り、転倒した鏡像でもってあらわされている。 [図10]
10
 道端で眠りに落ちたユニコーンに不思議な魔法をかけて、巧みに捕まえてしまう魔女マミー・フォルチュナである。魔女の魔法はユニコーンを拘束するばかりでなく、彼女に不気味に湾曲した偽物の角を与える。人々は真実の角を目に留めることができない代わりに、この捏造された偽物の角のみを視認して、ユニコーンの存在を認めることになる。原作には顕示されていなかった具体的な視覚表現がここにある。(4) [図11]
11
 マミー・フォルチュナのミッドナイト・カーニバルに捕われたユニコーンは、様々な怪物達と共に見世物として見物人の前に供せられることとなる。ライオンの体にサソリの尾を持つ伝説の怪獣マンチコアの正体は、年老いたライオンに過ぎない。マミー・フォルチュナの魔法の力で擬装された神話の世界の怪物達は、幻影の上に本物としての存在感を得ているが、その土台となっている現実の生き物達は、影のようなみすぼらしい有り様を露呈するばかりである。
 ユニコーンと同じくギリシア神話の世界の半獣神サチュロスの正体は、病に冒されたあわれな猿に過ぎない。幻影だけが感動と畏怖を与えることができ、現実の生身の存在である本体は、愚かしい虚像のような姿にしか見えない。この真実と虚像の示す捻転的な位相対立の関係が、随所にしのばせてあるさりげない影の視覚表現を用いて見事に対照されていくこととなる。
 古代北欧神話に伝えられている、世界を取り巻く巨大な蛇の姿をしたミッドガルト・サーペントは、ただのニシキヘビであった。大地と世界そのものが一つの形象に具現化してあらわれたものである失われた神話世界の崇高が、いたずらに恐怖をかき立てるだけの見世物として無知な見物人達の前に供されているのである。愚かな人々の眼はマミー・フォルチュナの魔法に惑わされて偽りの真実を見るが、ユニコーンの眼には哀れな捕らわれの身の動物達が映るばかりである。
 観客達の前にお披露目されたユニコーンは、逆に自分の姿を認めた人々の示す憧憬と渇望の表情に、世界の堕落の果ての変化と今を生きる人々の悲しい心の有り様を知る。しかし彼等の眼に映るユニコーンは、魔女の魔法によって偽りの角を与えられた幻影の方なのであった。[図12_a],[図12_b]
12_a 12_b

自分と同じように真実の神話的存在であるハーピーもこのミッドナイト・カーニバルに捕われていることを知って、ユニコーンはつぶやく。

She is real like me. We are two sides of the same magic.
(ハーピーは私と同じく、本物です。私達は同じ魔法の二つの側面なのです。)

 これは実は、原作には無かったこのアニメーション映画の新しい台詞なのである。ユニコーンの語っているように、ユニコーンとハーピーは聖と邪に分離した、真実の存在の示す対照的なペルソナ的両側面なのである。分極生成物の双方は、互いが互いの影として、現象世界におけるその独特の存在的特質を得ているのである。
 ユニコーンの前に現れた魔女マミー・フォルチュナは、誇らしげにユニコーンに語る。

I had to give you a horn they could see. These days it takes a cheap carnival trick to make folk recognize a real unicorn.
(私はあんたに、あの連中の眼にも見える角をつけてやらなければならなかったんだよ。今節ではね、人々に本物のユニコーンの姿を見させてやるためには、紛い物の目くらましが必要なのさ。)

 影の世界のあさましい実態に改めて気付かされたユニコーンは、檻の鉄格子に映して、始めて自分の額に付けられた偽物の角を見るのである。
[図13]
13
 魔法使いシュメンドリックの助けを得て自由の身になったユニコーンは、他の捕われの動物達と同様に、邪悪なハーピーをも解放してやろうと檻に近付く。ユニコーンの姿を目にしてハーピーが語る台詞は以下のようなものである。

Set me free. We are sisters, you and I.
(私を自由にするんだ。あんたと私は、姉妹なのだよ。)

これもやはり、原作には無かったアニメーション映画独自の台詞である。原作ではこの場面の描写は、以下の通りであった。

“I will kill you if you set me free,” the eyes said. “Set me free.”(p. 48)
(「私を助け出してくれたら、お前を殺してやる。」ハーピーの眼は語っていました。「私をここから出すんだ。」)

その言葉の通り、ハーピーは助け出されるやいなや、ユニコーンを殺そうと襲いかかる。そしてユニコーンもまた、うろたえることもなく荒々しいハーピーの攻撃に身構えるのである。
 原作では、この両者の対決の有様は以下のような興味深い記述を用いて語られていた。

So they circled one another like a double star, and under the shrunken sky there was nothing real but the two of them. (p. 49)
(そしてハーピーとユニコーンは、連星のように互いの周りを旋回しました。縮みあがった空の下では、彼等を除いて真実のものなどありはしませんでした。)

 原作のこの記述は、影と本体の緊密な補完関係から成り立つ、宇宙の存在原理の一つを示す表象としても理解し得るものであった。これは“Ouroboros”あるいは“巴”の紋章に表された、正反対の属性を備えた対立物の示す捻転的合一という、宇宙の根本的原理機構を示すものなのである。言語表現の妙を活かして記述の裡に語られていた原作の主題とは異なり、アニメーション版『最後のユニコーン』では台詞のやり取りの中に深遠な主題提示の鍵が潜められている。
 再び自由を得たユニコーンの旅に同行することになった魔法使いシュメンドリックは、山賊の一行に捕らえられてしまう。彼を捕らえた山賊達の首領キャプテン・カリーは、伝説の英雄ロビン・フッドをきどっている。手下のジャック・ジングリーによってさらわれてきた魔法使いを迎える彼の言葉は、バラッドに歌われたロビン・フッドの口上そのままである。

Who is that you bring up, comrade or captive?
(連れてきたのは客人か、虜か?)

ロビン・フッド達山賊の一行は、悪代官の手先はさらってきて、身の代金を取った。しかし教養のある人物は、歓迎して楽しく森の中でもてなしたのである。また、悪代官にひどい目に遭わされて逃げてきた者達は、かくまって仲間に加えたのであった。しかしこのカリー達の森の隠れ家での実際の生き様は、心の理想とするものを裏返した醜い影のような、薄汚れたものに過ぎない。カリーは言う。

There is no Robin Hood. Robin Hood is a myth.
(ロビン・フッドなんてものはいない。そんなものはただの神話だ。)

カリーは自らが憧れて演じている筈の理想像を、先ほどとは打って変わってあからさまに否定しようとするのである。
 山賊達の前で、思いがけなく真実の魔法を使ってロビン・フッドの幻影を呼び出すことに成功するシュメンドリックであるが、キャプテン・カリーは自らの理想の具現化の登場に感動するどころか、何故か目の前に現れた真実の存在の圧倒的な光明に満ちた姿を受け入れることさえ、頑に拒否しようとするのである。

Robin Hood is a myth. We are the reality.
(ロビン・フッドはただの神話だ。俺達が現実なのだ。)

ユニコーンが見る森の外の世界は、神話が本物に、現実が影のような偽物に逆転した、堕落の果ての醜い世界なのであった。
 偽りの英雄像を演じていたキャプテン・カリーの情婦モリー・グルーは、ユニコーンの姿を目にした時、不思議な反応を示す。他のもの達とは異なり、一目でユニコーンをユニコーンであると視認し、しかも「どうして今頃私の前に現れるのだい。」とユニコーンを叱りつけるのである。ユニコーンも彼女のこの理不尽な譴責に対して、何故か屈服したかのような素振りを示す。ユニコーンに対する憧れの気持ちとは裏腹に、どこか違和感を禁じ得ないでいた魔法使いシュメンドリックとは、様々の点で対照的なのがこのモリーという女なのである。
 いよいよ旅の目的地であるハガード王の城が一行の前にその姿を現す。その城の影から赤い光が発し、蝶の語っていたレッド・ブルの姿となり、ユニコーン達の方へと近付いてくるのである。具象物としての実体感を持たない幻のような、しかし主観の中の恐怖そのもののような不可解な印象の怪物が、彼等の仇敵のレッド・ブルである。 [図14_a],[図14_b]
14_a 14_b
 とうとうその姿を現したレッド・ブルに対して、ユニコーンは雄々しく戦いを繰り広げるどころか、何故か無力なままに追い立てられてしまう。その一方的な追跡の様は、原作では以下のような興味深い記述を用いて語られていたのであった。

With low, sad cry, she whirled and ran back the way she had come: back through the tattered fields and over the plain, toward King Haggard’s castle, dark and hunched as ever. And the Red Bull went after her, following her fear.

(p. 110)

(低い、悲しげな叫び声をあげて、ユニコーンは身体の向きを変え、今来た道を引き返した。引き裂かれた畑をまた戻り、草原を横切り、元のまま黒く背を丸めたハガード王の城の方へと行くのだった。そしてレッド・ブルは彼女の怯える心の後を付いて行った。)

 レッド・ブルは、自身のみでは独立した実体をさえも持つことはない、言わばユニコーンの恐怖の影であるかのような幻惑的なものとして語られていたのである。
 レッド・ブルの圧倒的な力の前であまりに無力なユニコーンだが、魔法使いシュメンドリックにもなす術がない。しかしモリーはそこで、不可解な確信を持って、以下のようにシュメンドリックに語りかけるのである。

You have magic. Maybe you can’t find it. But it is there. You called Robin Hood, and there is no Robin Hood. You have all the power you need, if you dare to look for it.
(あんたには、魔法の力があるんだ。今は自分で見つけることが出来ないかもしれない。でも、それはそこにちゃんとあるんだ。あんたはロビン・フッドを呼び出したじゃないか。ロビン・フッドなんてものはないというのに。あんたには、必要とする力はちゃんとある。もしもそれを見つけ出す気にさえなれば。)

 全ての点でシュメンドリックとは正反対なモリーは、実はこの魔法使いの根本的に欠如した部分を補完すべき、位相的には彼の影としてのペルソナ的存在性向を備えることとなっている人物なのである。モリーの言葉に後押しされるようにして、シュメンドリックはこれまでいつも彼に取っては未知の力であった世界の根本原理である魔法に対して呼びかける。

Magic, magic do as you will.(魔法よ、お前の好きにしろ。)

 シュメンドリックが合理的判断に捕われた一個人としての逡巡を捨て去った時に漸く得られた真実の魔法の顕現は、ユニコーンやハーピー達の場合と同様に、日月星辰と同調する。未熟な魔法使いの行使した魔法の力は、思いがけないことにユニコーンを人間の姿に変えていた。しかしそれは、当のユニコーンにとっては、死ぬことよりも忌まわしい、堕落した影の姿を与えられることである。
 先ほどまでユニコーンに助勢することを魔法使いに懇願していたのとはうって変わって、何故か激しくシュメンドリックをなじるモリーである。

What have you done?(あんたは、なんてことをしちゃったの。)

モリーのこの叱責は、実はごく妥当なものである。この場面に至るまでの原作の記述を注意深く追っていけば分かるように、ユニコーンとは本来限界ある人間性とは遠くかけ離れた、真実の存在であるのだから、その姿を醜い影のような人間に変身させてしまうことは、ユニコーンの神性に対する許し難い冒涜なのである。他の点においては無知で愚かなモリーではあるが、この判断においては彼女の直観はいかなる論理的推論よりも正しいものである。
 モリーはシュメンドリックをなじって激しく叫ぶ。

You trapped her in human body. She will go mad.
(あんたは、ユニコーンを人間の体に閉じ込めてしまったんだ。ユニコーンは、気が狂ってしまうよ。)

 そしてユニコーン自身も語るのである。

I wish you had let the Red Bull take me. I wish you had left me to the harpy! I can feel this body dying all around me!
(レッド・ブルに、私を捕らえさせてくれればよかったのに。ハーピーに私を殺させてくれればよかったのに。この体が、死につつあるのが分かる。)

 ユニコーンの本来の属性である不死性(immortality)は、原理的に死を運命づけられた人間性(mortality)とは全く調和し得ないものなのである。
 ハガード王の城にたどり着き、お付きの魔法使いとしての仕官を願い出るシュメンドリックに対して、すげなく断りの言葉を発するハガード王は、すでに誰よりも有能な魔法使いを傍らに置いていることを告げる。

He is called Mabruk. He is known in his trade as "the magician’s magician". I can see no reason at all to replace him with some vagrant, nameless, clownish --
(その魔法使いの名はマブルクじゃ。その世界では、“魔法使いの中の魔法使い”として知られている者じゃ。お前のような宿無しの、名も無い、道化た者など…)

 シュメンドリックは、魔法使いを名乗りながら魔法使いとして認められるだけの能力を示すことの出来ない、実は概念的特質における矛盾撞着を具現化した、極めて特殊な存在だったのである。以前に彼自身が語っていたように、魔法の力を持たない魔法使いとは、自らの存在性向を根幹的に否定する反転的属性を備えた“誰でもないもの”、言わば“無”に等しい存在だからである。
 しかし意外にもハガード王は、彼独特のはなはだ不可解な判断に基づいて、お付きの優秀な魔法使いを解雇して、無能なシュメンドリックに置き換える決定を下すことになるのである。

A master magician has not made me happy. I will see what an incompetent magician can do. You may go, Mabruk.
(最高の魔法使いは、儂に幸福を与えてくれることはなかった。無能な魔法使いが儂に何を与えてくれるか、確かめてみることとしよう。お前は用済じゃ、マブルク。)

 ストイックな強欲の奴隷であるハガード王は、有能な魔法使いが成し得なかった奇跡を無能な廃残者にこそ託してみるという遊戯的選択を自覚的に採用する、はなはだアイロニカルな美学的性向の持ち主だったのである。それは彼が宇宙の存在原理たる根本機構を直証する、究極の知力を備えていることを示している。
 しかしユニコーンが変身したアマルシア姫の瞳の中を覗き込んだハガード王は、突然うろたえたように尋ねる。

What is the matter with your eyes? Why can I not see myself in your eyes?
(お前の眼は、どうしたというのだ。何故お前の眼には、儂の姿が映っていないのだ?)

ハガード王は、自分自身の姿を忠実に反映する鏡像を、他者の瞳の中にさえも期待する。ハガード王の厳密なシステム的反射性に対するこだわりは、彼の体現するバイナリー・ロジックに基づくコスモス内知性の究極の姿を浮き彫りにするものである。しかしユニコーンの眼は、ハガード王の予期に反して、全く異なったカオスのような曖昧な映像をその表面に浮かべているのである。それは森の動物達の姿として描き出されている。 [図15_a],[図15_b]
15_a 15_b
 ユニコーンの一行がハガード王の城に迎え入れられた後、このアニメーション作品は類い稀な映像表現を考案して、原作にあった形而上的主題性に対応する図像的変換記述を試みることとなる。海に映ったユニコーンの影と見えたものは、実は槍を構えて馬を駆る騎士の落とした影であった。海とこの世から全て失われてしまったというユニコーン達の秘密と、ユニコーンの真実の姿と人々の眼に映る偽りのユニコーン像の間の関係性など、影の主題の各々を反転的に暗示する、極めて優れた映像表現が達成されている部分なのである。 [図16_a],[図16_b]
16_a 16_b  
一瞬ユニコーンの影と見えたものの傍らを泳いでいるものも、実は鯨の一種のナー(nar whale:一角鯨)である。ユニコーン伝説は、サイと並んでこのナーから生まれたとも言われている。螺旋形によじれたその角は、実際にユニコーンの角として解毒剤の効果を持つと信じられ、高値で取り引きされたものであった。ここでは伝説であるユニコーンの“実体”である生き物の姿が、ユニコーンを主人公とする物語の中であからさまに映し出されているのである。作品世界を仮構外部から瞥見する反射的に捩れた視点が、純粋な視覚表現としてさりげなく導入されていることになる。 [図17_a],[図17_b]
17_a 17_b
 アマルシア姫の存在の及ぼす霊力により覚醒したリア王子は、ロマンスの騎士さながらに怪獣退治を始める。悪魔の手先あるいは悪魔そのものとして理解される、火を吹く凶悪な怪物のドラゴンは、中世ロマンスの世界では駆逐されねばならないものとして仮構世界における行動目的を決定する求心的要素であった。しかしこのお話においては、ドラゴンは単なる脇役に過ぎず、しかも皮肉なことにその属性を反転させて、東洋の水を司る神獣である龍の姿を与えられている。
 リア王子は、ドラゴンの首を狩りお姫さまに捧げるという、中世ロマンスにおける典型的な英雄的行為を行う。しかし本来はユニコーンであるアマルシア姫にとっては、この雄々しい振る舞いも単なる非情な殺戮と蛮行でしかない。このお話の意味を担う普遍原理は、膠着したロマンス的世界観とは全く異なった図式のもとにあらわされることとなるからである。
 ハガード王の城の中に掛けられているタペストリーには、ユニコーンの姿が描かれている。それは中世ロマンスにおいて語り伝えられていたような、猛々しい牡の野獣のイメージである。このお話の主人公であるユニコーンとは、対照的な存在なのである。原作において言及の及ぼされていなかったハガード王の城のタペストリーの示す暗示的効果が、見事に原作の卓越した言語記述に代替して、その象徴的機能を発揮している部分である。 [図18]
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 無能な魔法使いであることをむしろ決定的な理由として、かろうじてハガード王のお付きの魔法使いとして召し抱えられることのできたシュメンドリックは、偽りの魔法(magic)である奇術(magic)を用いてハガード王をもてなすことを強いられる。ハガード王の関心は、シュメンドリックの奇術の腕前に対してではなく、彼の無能さと当惑と焦燥を冷徹に観察することにある。
 ロマンスの世界では求心的位置を占める筈の英雄(hero)は、台所でじゃがいもの皮剥きを手伝いながら、料理番となったモリーに恋の相談を持ちかけることになる。そして誠心からの求愛(courtship)を成立させる条件として、魔物の類いを殺してその死骸をお姫さまに捧げることが、全く効果を及ぼさないことを説き聞かせられてしまうのである。
 しかしユニコーンは、ハガード王の城で人間アマルシア姫として暮らしているうちに、本来のユニコーンとしての記憶と、そして永遠の神話的存在としての本性さえも失っていく。偽りの無い純粋な真実が、汚濁した影の世界に侵されてしまうのである。

Molly, who am I? Why am I here? What is it that I am seeking in this strange place, day after day? I -- I knew a moment ago, but I -- I have forgotten.
(モリー、私は何なの?何故私はここにいるの?私がこの奇妙なところで毎日探し続けているものは、一体何なの?ちょっと前は分かっていたはずなのに、でも、もう忘れてしまった。)

 ユニコーンとしての記憶と本性を失いつつあるアマルシア姫の背後に、人間達の偽りのイメージで語られた、ユニコーンのタペストリーが見える。それは飽くまでも荒々しい、男性的なユニコーンの姿である。概念記述を用いては果たすことの困難な、ドラマティック・アイロニーを結晶化したような、即物的な映像表現による見事な対照効果である。 [図19]
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 アマルシア姫が姿を映した鏡には、背後のタペストリーの中の偽りのユニコーンが並んで映っている。見事に実像と虚像が重ね合わせられた反射的構図を描いて、アマルシア姫は錯乱した想いを歌う。[図20_a],[図20_b]

Everything is strange.(何もかもが、見知らぬもの。)

20_a 20_b
 これまで自分が、仲間のユニコーン達の消息を探し求めていたことをかろうじて思い出すことができたアマルシア姫は、空を駆けるユニコーンの姿に向かって手を差し伸べる。この姿は雲の形の変化なのか、アマルシア姫の心の中を描き出した映像なのか、実は明らかではない。映像表現は言語のように記号的に画一化して概念を語ることをしない(5)ので、安易に画像に一意的な抽象的解釈を与えることを許さないのである。だからこそ映像のような即物的な表現こそが、しばしば極めて知的で高踏的なものとなる。本質的に多義性の属性に基づく映像の表現を用いて語られた、アマルシア姫の目の中に映っている空に浮かぶユニコーンは、概念的相応物としていったいどれだけの多様のものを指示し得るものであるのだろうか? [図21_a],[図21_b],[図21_c]
21_a 21_b 21_c
 アマルシア姫が城に到着して以来、いつの間にか城に姿を現すようになった不思議な猫が、唐突に人語を話し始める。しかも誰からも教わることなく、彼はアマルシア姫の正体がユニコーンであることを知っている。

The Bull be going out. He goes out every sundown to hunt for the strange white beast that escaped him. -- So that be a unicorn! She is very beautiful. -- No cat out of its first fur can ever be deceived by appearances. Unlike human beings, who seems to enjoy it.
(牡牛が出かけるところなんだよ。あいつは日が暮れる毎に城の外に出て、逃げ出した不思議な白い生き物を捕まえに行くのさ。…やっぱり、アマルシア姫はユニコーンなんだね。とても美しい。…どんな猫も、一度毛が抜け替わるほど大人になれば、外見なんかにごまかされることはないんだ。そんなものに惑わされる人間達とは違う。)

 実は “猫”とは、理性に拘束された人間達の見知らぬ不可思議な判断能力を備えた、未知なる外界からの闖入者なのである。(6)このアニメーション映画においては、原作の言語記述の粋を凝らした猫のキャラクター造形に代替して、猫の姿形と独特の喋り方に取り分け念を凝らした表現上の工夫が加えられている。

When the wine drinks itself, when the skull speaks, when the clock strikes the right time. Only then will you find the tunnel that leads to the Red Bull’s lair, har har.
(ワインが自分自身を飲み干し、頭蓋骨が語り、壊れた時計が正しい時を打てば、その時始めて、レッド・ブルの住処へと続く洞穴への通路が開かれるだろう。)

 猫はユニコーン達の探求の冒険を目的へと進める、重要な手懸りさえも語ってくれることとなる。その姿はグリム童話の中でしばしば鳥や獣達が演じていたのと同様の、無意識と連接した全体性の宇宙の及ぼす、世界霊的なペルソナの一側面でもあるかのようである。延長性と粒子論的存在解釈に規定されたデカルト/ニュートン的物質観に束縛されないモナド的存在性理解を導入した際に始めて感知することのできる、全一性の宇宙に対する包括的な存在論的解釈の一翼を担っているのがこの猫である。

Why must you always speak in riddles? (どうしてあんたは謎でしか助言を語ってくれないの?)

当惑して猫に尋ねるモリーへ与えられた返答は、以下のようなものであった。

Because I be what I be. I would tell you what you want to know if I could, mum, but I be a cat, and no cat anywhere ever gave anyone a straight answer, har har.
(何故って、それは、僕が猫だからさ。その気になれば、あんたの知りたいことを、あんたの分かるように言ってやることもできる。でも僕は、猫なんだ。そして猫というものは、どんな場合にも、誰にだって、はっきりとものを言ったことはないのさ。)

 実はこの猫は冒頭に現れたあの蝶と同様に、この世に存在するもの達を影の領域からあるいは見守り、あるいは支えている、世界の裏の存在原理を体現するものなのである。彼等が時として不可解な天の邪鬼のような振る舞いをする理由はそこにある。時に存在物として、時に概念あるいは情念として、相補的にそのペルソナ的位相を選択して取り得るのが、彼等の本来の特質である。だからまた、 “謎”という人間知性の裡にある不可解な概念の本質を理解する鍵も、やはり人間の知的理解を超えた宇宙の基質構造の許にある筈なのである。
 リア王子のロマンスの騎士としての求愛には一切耳を傾けようとしなかったアマルシア姫が、始めて彼に自身の不安と心の動揺を率直に打ち明けることになる。

Well, I’m always dreaming, even when I’m awake. It is never finished. I -- I will not trouble you, my lord prince.
(私はいつも、目覚めている時でさえ、夢の中にいるのです。この夢は終わることはありません。…ごめんなさい、王子様。ご面倒をおかけしたくはありません。)

 不器用な求愛を不毛に繰り返しながらも、典型的な英雄的行為の遂行の惨めな破綻を通して、いつしか真の英雄としての霊的成長を遂げていたリアは、始めて真実の存在アマルシア姫に語りかけるための、正しい言葉を見つけることになるのである。

Trouble me! Please, trouble me! I would court you with more grace if I knew how. I wish you wanted something.
(面倒を、おかけ下さい。そうして頂きたいのです。やり方さえ分かれば、もっと相応しい振る舞いであなたにお仕えしたいのです。この私に、何かをさせて頂きたいのです。)

 ようやく思いを通わせ合うようになったリア王子とアマルシア姫の、心の中の別世界を描くような映像がこの後に展開されることとなる。原作の言語遊戯を駆使した揶揄的な皮肉に満ちた世界とは鏡像的な様相をなす牧歌的な情景が、視覚を最大限に活用した夢幻劇としてここに描かれている。二人が降り立った泉の向こうの端には、ユニコーンの影が映っている。しかし、その影を落としている本体には角がない。それから再び泉に自分の姿を映すと、その頭にはユニコーンの角がついているのが分かる。
 漸く共有された魂の楽園世界の中で、アマルシア姫とリアは声を揃えて歌う。

LADY AMALTHEA: Now that I’m a woman,
(私は今、人間になったから、)
PRINCE LIR: That’s all I’ve got to say.
(それが僕の、言いたいこと。)
LADY AMALTHEA: Now I know the way.
(私は今、行くべき道を知った。)
PRINCE LIR: That’s all I’ve got to say.
(それが僕の、言いたいこと。)
LADY AMALTHEA: Now I know the way.
(私は今、行くべき道を知った。)
PRINCE LIR & LADY AMALTHEA: That’s all I’ve got to say.
(それが僕の/私の言いたいこと。)

言語表現においてはしばしば困難なものとなる、重ね合わせの併置効果をむしろその特質とするのが、和音に代表される音楽の特有の表現である。映像と音声は、共に言語の用いる概念記述とは相補的な位相を占める重要要素として、アニメーション映画表現技法に効果的に導入されることとなる。
 アマルシア姫が泉のほとりのユニコーンに目を向ける。ユニコーン自身にも、水面に映った鏡像にも角はついていないように見える。泉を離れ、駆け出して森に入っていったユニコーンには、角がついている。
 とはいえすっかり身も心も人間となりきってしまったアマルシア姫は、探求の冒険の目的どころか、ユニコーンとしての自分自身の本性さえ忘れ果ててしまっている。しかしそのおかげで、秘密を隠蔽すべきハガード王の方が焦れて、自らアマルシア姫に語りかけることになるのである。

I know you! I almost knew you as soon as I saw you coming on the road, with your cook and your clown; since then, there is no movement of yours that has not betrayed you! A pace, a glance, a turn of the head, the flash of your throat as you breathe, even your way of standing perfectly still, they were all my spies!
(儂にはそなたの正体が分かっていた。そなたが料理番の女とあの道化と共に道をやって来るのを目にしたその瞬間から、儂には分かっていたのだ。それ以来、そなたの身のこなしの一つ一つがそなたの正体を語っていた。足取りにせよ、眼差しにせよ、首の傾げ方にせよ、息をつく時の喉元の輝きにせよ、完璧に身動きすることなく立っていることのできるそなたの姿までも、全てがそなたの正体を儂に教えていた。)

 全てがハガード王の予期に反して、鏡面上に結んだ虚像のように逆転した展開を示し、知力と意思力において最も優れた人間であるハガード王までもが、我知らずその流れに呑み込まれてしまっている。
 ハガード王はユニコーン達の居場所に関わる最も秘匿するべき重要な秘密を、自らアマルシア姫の前に暴露してしまうのである。ここに見られるような因果関係と意味的関係性における逆転現象は、物語全編を支配する根本原理ともなっている。アマルシア姫に海を眺めるように促したハガード王は、彼女に心の裡をぶちまけるように語る。

There they are. There they are! They are mine! They belong to me! The Red Bull gathered them for me one by one, and I bade him drive each one into the sea! Now, they live there. And every tide carries them within an easy step of the land, but they dare not come out of the water! They are afraid of the Red Bull. ...I like to watch them.
(そら、そこにいる。みんな、儂のものだ。この儂のものだ。レッド・ブルが一頭ずつ、儂のために連れてきた。そして儂は、そのどれも海の中に追い込むように命じた。今は、彼等は海の中にいる。潮の満ちる毎に、彼等は陸のすぐ間近までやってくる。けれども海から出ようとすることはない。彼等はレッド・ブルを怖れているのだ。彼等を眺めているのは、心地よいものだ。)

この後に画面に現れるのは、ハガード王の回想の中のユニコーン達の姿である。

They fill me with joy. ...The first time I felt it I thought I was going to die.
(彼等は儂の心を喜びで満たしてくれる。…この嬉しさを始めて知った時、儂は死んでしまうかと思った。)

いかなる快楽にも決して満足を覚えることのない、不毛の王国を統べる孤独な暴君は、ユニコーンの与える感動を他の誰にも増して鋭敏に感知する、実は最も繊細な感覚の持ち主でもあったのである。ハガード王の回想と内面の吐露が、ここでは映像として原作には無かった独立した一場面を形成することになっている。

I said to the Red Bull, "I must have them. I must have all of them, all there are, for nothing makes me happy, but their shining, and their grace." So the Red Bull caught them.
(儂は牡牛に命じた。「彼等を儂のものにせねばならぬ。彼等の全てを、1頭残らず捕まえねばならぬ。あの輝きと麗しさ以外に、儂を喜びで満たしてくれるものはないからだ。」そしてレッド・ブルは彼等を捕らえてきた。)

 いかなる手段を用いたところで誰にも決して欺くことができなかったであろう狡猾なハガード王も、意外にも実際に人間になってしまおうとしているアマルシア姫を前に、いつになく堅固な確信を揺るがせてしまうのである。

It must be so; I cannot be mistaken. Yet -- your eyes. Your eyes have become empty, as Lir’s -- as any eyes that -- never saw unicorns.
(儂の目に狂いがあろうはずはない。だが、そなたの目はどうした。リアや他の物達、ユニコーンの姿を見たことがない物達と同様に、虚ろな目ではないか。)

アマルシア姫の目を覗き込むハガード王の姿を、あるがままに忠実に反射して映し出す目は、また同時に一対一対応の原理に縛られた“虚ろな目”でもある。これは神性の人間化過程が映像表現を用いて見事に定着された部分なのである。 [図22]
22
 アマルシア姫達の一行が城の大広間を訪れると、猫の予言にあった通りの骸骨が、やはり自分の方から口を効き、彼等の用件を先取りして語ってくれる。

Come on. Ask me how to find the Red Bull. Even Prince Lir doesn’t know the secret way, but I do.
(それそら、どうしたらレッド・ブルのところに行けるのか、さっさと俺に聞けよ。リア王子だって秘密の通路のことは知らない。でも俺は知ってるぞ。)

“完結したストーリー”という虚像の中の世界では、現実世界において予期される事実とは正反対に、全てが関係性と意味性を顛倒した形、すなわちあてどの無い行き当たりばったりのような形で事が進行するのである。  思いがけなく自ら口を開いてくれたものの、骸骨は意地悪くシュメンドリックの問いをはぐらかして焦らそうとする。

Oh, it’s so nice to have someone to play with! Try me tomorrow; maybe I’ll tell you tomorrow!
(誰かからかってやれる奴がいるのは、楽しいからな。明日また来てみろ。明日なら答えてやれるかもしれないぞ。)

「でも、私達にはもう時間がないんだよ。もう、間に合わないかもしれない。」というモリーに対する骸骨の答えはこうである。

I have time. I’ve got time enough for all of us.
(俺には、時間はあるね。俺にはお前達の分も合わせて、充分に時間はある。)

生きる必要から解放された死者は、同時に時間の束縛から自由になっていたのである。喪失が獲得へと捻転的に連接する、この物語の基調音ともなっている反転原理がここにも反映されている。

The way is through the clock. -- That clock will never strike the right time. You just walk through it and the Red Bull is on the other side. -- To meet the Red Bull, you have to walk through time. A clock isn’t time, it’s just numbers and springs. Pay it no mind, just walk right on through.
(時計の中をくぐり抜けていくんだ。あの時計は、正しい時を打つことは決してない。ただくぐり抜けていけば、レッド・ブルが向こう側にいる。レッド・ブルに会うためには、時間をくぐり抜けるんだ。時計は時間なんかじゃない。時計はただの文字盤とばねでしかない。そんなものには目もくれずに、突き抜けていけばいい。)

人間達が偏った概念把握に基づいて堅固な実質だと思い込んでいるものは、骸骨の語るようにむしろ影のように危うい虚妄なのである。
 お約束通りの物語の進行の手順を経て、そしてまた観客/読者の予期を裏切る意外な展開も含めて、やはり骸骨は最後にユニコーンの一行の探し求める重大な秘密を語ってくれることになる。この骸骨の発する不気味な哄笑と錯乱的な饒舌は、先ほどの不可思議な猫の場合と同様に独特の音響効果を巧みに発揮して、時間芸術と映像表現の粋を凝らした見事なキャラクター造形をなすものとなっている。
 例によって、3人の中で一番遅れてようやく時計をくぐり抜けることができたのは、世界の秘密を最も深く弁えている筈の魔法使いシュメンドリックである。いつの間にかリア王子も時計をくぐり抜けてやって来ていたのに気付き、シュメンドリックは驚いて彼に尋ねる。

How did you know how to get in?
(どうしたらここにこられるか、どうやって見つけだしたのですか。)

これに答えるリアの返答は、あまりにも単純なものであった。

What was there to know? I saw where she had gone and I followed.
(何を見つけるだって?僕はただ、アマルシア姫が行ってしまったのを見て、その後を付いて来ただけだ。)

詩人と狂人と恋する者だけが弁えると言われる理性の限界を超えた真実が、その概念的意義性に全く無自覚なものによって語られているのである。  通路を進んで行く途中ですっかり脆弱な心の人間になりきってしまったアマルシア姫は、失われたユニコーンを回復する探求の冒険を投げ出してしまうようにリア王子に嘆願する。しかしこれに対するリアの返答は意外なものであった。

Lady, I am a hero, and heroes know that things must happen when it is time for them to happen. A quest may not simply be abandoned. Unicorns may go unrescued for a long time, but not forever. The happy ending cannot come in the middle of the story.
(姫、私は英雄です。そして英雄というものは、物事が起こるべき時には起こらなければならないということを知っています。探求の旅は、ただ投げ出されてしまうことは許されません。ユニコーン達が長い間捕らえられていることはあり得るでしょう。けれども永遠に救い出されないでいることはあり得ません。ハピー・エンドというものはお話の途中でもたらされることはないのです。)

リアは、お伽話の中の英雄としての自分の役割を正しく把握している。リアは、アンチ・ファンタシーの英雄として、自分達がお話の中の意味を織りなす仮構世界の登場人物であることを適切に理解しているからである。
リア王子の言葉を聞きつけて、モリーは言う。

But what if there isn’t a happy ending at all?
(でも、ハピー・エンドなんて用意されてなかったら?)

魔法使いシュメンドリックは、これに答えて語る。

There are no happy endings, because nothing ends.
(ハピー・エンドなんてありはしないのさ。エンドなんてどこにもないんだから。)

確かに現実世界には、お話の中のように物事が見事に収束する“お終い”は決して訪れることはない。それが故に無意味であり、堅固な存在性を保持し得ないのが我々の生きる現実なのである。このあまりにも悲しい究極的な真実を、理屈でだけは理解しているのが、シュメンドリックといういつも魔法の技を振るうことができない不器用な魔法使いなのであった。
 洞窟の中で再びレッド・ブルが姿を現す。牡牛は、今度はアマルシア姫がユニコーンであることを知っていて、迷わず彼女に襲いかかって来るのである。原作においては、地下の通路に現れた牡牛を語るこの場面の記述に、ことさら興味深いこの怪物の存在性理解に関する形而上的主題が込められていたのであった。当然のことながら、直截にこの言語記述の全てを映像化することは不可能である。

But he had come silently up the passageway to meet them; and now he stood across their sight, not only from one burning wall to the other, but somehow in the walls themselves, and beyond them, bending away forever.

(p. 187)

(しかし牡牛は音も立てずに通路をたどり、彼等の許へやってきていたのであった。そして今牡牛は、彼等の眼前に姿を現していた。燃え上がる通路の壁の端から端までをふさいでいるばかりでなく、壁の内部にまで、そして壁の向こう側にまで突き抜けて、限りなく曲がりくねったその先までを牡牛の体が占めてさえいるのだった。)

 アマルシア姫を守ろうと、剣をとってレッド・ブルに立ち向かうリアだが、英雄としての彼の戦いの技は全く歯が立たない。このお話における英雄の役割は、通例の伝説やロマンスとは異なり、凶悪な怪物を退治することとは別のところにあるからである。  リアはユニコーンの後を追うレッド・ブルの前に立ちふさがり、あっけなく殺されてしまう。この物語での真の英雄の果たすべき崇高な役割は、ユニコーンを守ろうとして、無様に無益な死を遂げることにある。
 リアの死をきっかけにして、ユニコーンに不思議な変化が生じる。リアの亡骸の上に落ちた影によって、一転してユニコーンがレッド・ブルを押し返していく様が示されている。 [図23_a],[図23_b],[図23_c]
23_a 23_b 23_c
 レッド・ブルがユニコーンに駆逐され、海中に姿を没するのと呼応して、泡立つ波がユニコーンの形となり、無数のユニコーン達が実際に姿を現し始める。
 レッド・ブルとユニコーンも、ユニコーンと海あるいは波として感知されるものも、それぞれが各々の場合において、本体と影の関係性を担ってこの世界に現象性を具現していると考えられるべきものなのだろう。 [図24_a],[図24_b]
24_a 24_b
 こうして再び世界にユニコーンが満ち溢れる。かつてない至福がもたらされ、全てのものが、昼と夜が交代するように、これまでとは打って変わった対照的な様相を新たにするのである。ユニコーンが自由になった世界で、ハガード王は最期を迎え、彼の城は自ずから崩壊することになる。
 もう一度ユニコーンに会って思いを伝えたい、と語るリア王子に、魔法使いシュメンドリックは全ての根幹にある究極的真実を語って告げる。
She will remember your heart when men are fairy tales in books written by rabbits. Of all unicorns, she is the only one who knows what regret is -- and love.
(彼女はあなたの思いをずっと覚えていることでしょう。人間が兎達によって書かれた本のお伽話になってしまった時でさえも。あらゆるユニコーンのうちで、彼女だけが悔恨と、そして愛の気持ちを知ってしまったのです。)

ユニコーンの生きる永遠の時の相の中では、人間達の現実と兎達のお伽話が、光と影のようにその位相を交換することも当然のごとくあり得るのである。  物語の終局を迎えて、シュメンドリックがモリーに語りかける。
Come, then. Come with me.(じゃあ、僕とおいで。)

モリーは答える。
I will.(ついていくわ。)

 シュメンドリックは、自分自身に欠けている対照的な要素をモリーの中に見出し、その反転的存在性向を受け入れようとしている。対立物の合一が果たされる宇宙の究極の目的が果たされることが、ここに暗示されている。原作ではむしろ、シュメンドリックとモリーの保持する対称性の属性が離反し合う様が繰り返し語られていたのに対し、このアニメーション版では、反転的に彼等の受容と合一の部分が強調して描かれていることになっている。
 アニメーション映画『最後のユニコーン』においては、原作の作者ピーター・S・ビーグル自身がシナリオを担当しており、台詞も大部分が原作にあった通りのものが用いられている。しかし原作のストーリーを一部大胆に省略したところや、鍵となる重要な台詞を改めて付け加えた箇所や、あるいは独自の映像表現として原作とは全く別個の工夫を凝らして再構成がなされた場面も多数見られるのである。しかし驚くべきは、原作が保持していた魔法の機構のシステム原理的把握という形而上的主題性に対するこだわりには全く妥協がないばかりか、原作の筋と場面の運びに抜本的な再検証を施し、本来の主題をより効果的に描くために独自の映像表現として活用するための念入りな演出上の工夫を行ったと思われる箇所が数多く指摘できることである。アニメーション映画『最後のユニコーン』が、類例を見出すことが困難な程のアニメ史上希有な傑作となっている所以である。
 最後に、この判断を裏付ける反転的例証として、このアニメーション映画では賢明にも採用されていなかった、原作のことさら印象的な二つの視覚的に際立った場面について指摘しておくことにしよう。いずれも、永遠の存在であるユニコーンに人間存在の限界と自身の魔法の業の不完全さを冷徹に指摘されて、思わず感情を爆発させてしまった魔女マミー・フォルチュナの姿を描写する記述である。
 最初は、実は自らも弁えている筈の冷厳な真実を改めて告げられて、思わず激しい怒りにかられた魔女の姿を描写した場面である。
The witch’s stagnant eyes blazed up so savagely bright that a ragged company of luna moths, off to a night’s revel, fluttered straight into them and sizzled into snowy ashes.

(p. 36)

(魔女のよどんだ目はあまりにも凄まじい輝きを放って燃え上がったので、夜の酒盛りに出掛けるところであったオオミズアオの一行は、そ の目の中にまっしぐらに飛び込んで、しゅっと音を立てて雪のような 灰になってしまいました。)

もう一つは、人間存在の限界を改めて思い知らされて、慚愧の念に思わず涙してしまった哀れな魔女の姿を語る場面である。

A few grains of sand rustled down Mommy Fortuna’s cheek as she stared at the unicorn. All witches weep like that.

(p. 37)

(砂粒がいくつかユニコーンを見つめるマミー・フォルチュナの頬を転がり落ちました。魔女が泣く時には砂の涙を流すのです。)

いずれの場面も、迂闊にこれらに忠実な視覚化表現を与えてしまったならば、映像作品として致命的な破綻を来しかねない、実はかなり危険な情景であることが理解されるだろう。原作の『最後のユニコーン』が保持していたアイロニーの独特の位相と、言語表現による非在性の記述の微妙な実質を改めて理解し直すに当たってことさら重要な箇所であると同時に、“映像的印象”の保持する潜在的可能性と実際の映像化作業との間のはなはだ繊細な関係性を浮き彫りにしているのが、これら二つのとりわけ興味深い描写であったと思われるのである。
 実は映像に対して相補的に機能する音声表現についても、同様の指摘を行うことができる。原作において取り分け印象的なものであった聴覚的記述は、アニメーション版では割愛された虚飾の町ハグズゲイトのエピソードにおいて行われていた。守銭奴の市長ドリンによって手渡された金貨が、「お前の愛するものの名を言え。」と追っ手達に声をかけられて、「ドリン、ドリン」(ちゃりんちゃりん)と音を発するのである。これと同様の興味深い擬音の効果が、原作ではハガード王の城の描写の背景をなす不気味な鳥達の啼き声を語る描写の中にも用いられていた。ハガード王の城の上空を旋回する不格好な鳥達が

“Bony birds struggled across the sky, screeling, “Helpme, helpme, helpme!”

(p. 90)

(骨張った鳥達が空にひしめいて「助けてくれ、助けてくれ」と叫んでいた。)

と描写されていたのである。この聴覚記述は次の章においても対句的に反復されて 、

“Soft, baggy birds squatted on the rocks, snickering, “Saidso, saidso.”

(p. 123)

(ぶかぶかした袋のような鳥達が岩の上にうずくまって、「だってさ。 だってさ」とせせら笑っていた。)

と、見事な擬音表現を用いて語られている。しかし、これらもやはり実際の音声を用いてアニメーション映画の中に採用することは、控えられる結果となっていた。  文章表現において記述された映像も音声も、実は夢や暗示の中で感知されたそれぞれの対応相関物と同様に、“記憶情報”としての概念の特異な変化形の一つでしかない。原作『最後のユニコーン』において言語記述の粋を凝らして語られていたのは、情報視覚と情報聴覚に対する際どいばかりの精緻な概念操作を施すことによって得られた、巧みな原型的意味記述操作の結果だったのである。

註釈

(1)
 本稿における映像及び台詞の引用には、2007年のDVD版、The Last Unicorn, “25th Anniversary Edition” (Lionsgate) を用いる。

(2)
 本稿における原作The Last Unicornからの引用は、筆者による註釈書『Annotated Last Unicorn』 (2004, 近代文芸社)を用いる。

(3)
  原作『最後のユニコーン』においては、さりげない聖書やエドガー・アラン・ポーからの引用と並んで、『ハムレット』・『オセロ』・『リア王』・『マクベス』等のシェイクスピアの諸作品に対する潜行した参照が行われ、これらを軸として影の主題の裡にある存在と現象の様相的関係性を再構築する特有の宇宙論的システム理論の主題提示が行われていた。

(4)
 原作では、魔女の魔法によって与えられた偽物の角の具体的な描写は行われていなかった。原作の角に対する言及は、魔女の以下の台詞のもののみであった。

Did you really think that those gogglers knew you for yourself without any help from me? No, I had to give you an aspect they could understand, and a horn they could see.

(p. 37)

(あたしの助けなしにあの愚かな連中があんたをユニコーンだと分かったと思うかい。それは無理だね。あたしはあんたに奴らにも見える角を与えて、あんたと分かりやすい姿を用意してやったのさ。)


(5)
 実は言語記述においても、一般に信じられているほど意味における一対一対応が緊密に成し遂げられている訳ではない。しかし映像の内包するものの意味平面への投影可能帯域とその概念翻訳に対する選択可能領域は、言語のそれに比して遥かに広範な、自由な意味の拡張範囲を示唆するものなのである。

(6)
 原作のハガード王の言葉によれば、猫とは様々な妖魔の類いが変身したものであるとされている。リア王子はハガードの語った言葉として、以下のような証言を行っているのである。

“He says that there is no such thing as a cat―it is just a shape that all manner of imps, hobs, and devilkins like to put on, to gain easy entrance into the homes of men.”

(p. 138)

(父上はおっしゃるんだ。猫なんてものはこの世には存在しないとね。あれは妖魔の 類いが人間の世界に足を踏み入れるために装った仮の姿だと。)
世界という全一存在の根底にある普遍原理と人間の霊的理解を媒介するべく現れる、神秘思想体系の許で “fairy”の要素とされたものが、本作品世界では猫であるとされているのである。

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