アンチ・ファンタシーというファンタシー3

2次創作作品Peter Panと仮構的原型


 20世紀初頭にアインシュタインによって相次いで発表された特殊相対性理論(1905年)と一般相対性理論(1916年)は、従来の科学の基幹的枠組みを形成していたニュートン力学において宇宙の全ての領域で均一に作用する普遍的な物理的要因として理解されて来た“時間”という概念の、実は空間との連続性を無視することができない相互委属的な特質を主張することとなった。その結果、かつて経験則として当然のごとく受け入れられてきた瞬間の出来事の“同時性”という概念もまた、あえなく瓦解してしまう結果となったのである。
 さらにその後急速に発展した量子力学の拓いた知見においては、電子に代表される量子存在が特定の時間に特定の位置を占めるという物理的制約そのものを持たないことが認められるに至った。物質の最小構成粒子としてある原子の構成単位であるはずの素粒子が、存在物として空間上に占めるべきである固有の座標性から根本的に遊離した“不確定性”という基本特質を持つ、未知のなにものかであることが前提として受け入れられたのである。こうして科学的思考の基本単位を構築する筈の“客観的物理存在”という概念もまた、全面的に放棄を迫られることとなった。その結果、経験則的事象理解の基本前提にあった“個物の実体としての延長性”や“空間的座標性の時間的連続性において確証される存在物の同一性”という認識そのものに対して、日常経験の空間的・時間的制約を越えた高次元界面から総括的にこれらの概念の形而上的意義性を再確認することを可能にする、同一性と相当性に対する統合的理念把握が要求されることとなったのである。
 こうして知覚対象となる存在・現象・人格等の全てが、独立した個物としての同一性あるいは空間的には不連続な“他者”との相当性に関して、新たな観点からそれらの概念的特質の再検証を迫られることとなった。人格を一つの存在単位の持つ意味の複合体とする論理と、人間存在と目されていたものを時空の現象生成を局所的になぞった経験作用の過程として理解する描像が、連続的に記述されるべき統合観念場の展開が要求されているのである。当然のことながら、仮構作物の名称として受け入れられてきた純観念的存在物もまた、特にその“個別性”という実質ばかりでなく種々の二次創作作品や属性と主題性における類縁的存在に対する同一性概念適用の拡張範囲の延長可能性について、改めて考察を新たにする必要が生起することとなったのである。
 シェイクスピアが演劇作品『ハムレット』(The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark, 1600~1602)を書きあげる遥か以前から“ハムレット伝説”と呼ばれるものは存在しており、 “原ハムレット”に相当すると思われる先行作品の存在も様々に指摘されてきた。(1)さらにシェイクスピア本人の手になる “オリジナル”とされるべき脚本においてさえも、二つ折り版、四つ折り版等のいくつかのヴァージョンが現存しており、これらのうちのいずれを厳密な意味でウィリアム・シェイクスピア作のオリジナル原稿として同定することができるかについては、様々の問題点があることが指摘されている。
 これと同様に“ファウスト伝説”も、ゲーテの脚本『ファウスト』(第1部1808年、第2部1833年)の発表以前から、民衆の間に様々に語り継がれていたものである。殊にイギリスではゲーテの戯曲『ファウスト』発表に遠く先立って、クリストファー・マーロウ作の戯曲『ファウスト博士』(Doctor Faustus ,1604年出版)が1592年に初演を果たしていることは良く知られた事実である。これらのような伝説上あるいは歴史上の共通の登場人物を採用した主題的類似を持つ仮構作品に対しては、それぞれ“ゲーテの『ファウスト』”、“マーロウの『ファウスト』”等の選別的呼称を付加することによって、各々の作品の一先ずの同定と分別を行うことができる訳だが、これらの仮構存在としての本質に即した原理的な“同一性”あるいは“差異性”を判断するための截然とした論理の存在が確証されている訳ではない。これら二作品が実は、一個の原存在的仮構の現象界面への投影として、一連の時空的因果関係の組み合わせを経て複数の作者の手になる作物として派生して生起した結果、「マーロウ版のファウスト」と「ゲーテ版のファウスト」となって現宇宙に具現していると理解する解式の存在も決して無視することができないのである。あの山のリンゴもこの山のリンゴと同じリンゴであると認定する論理が、「ファウスト」としての特徴と属質を備えた無数の仮構存在に対して同様に適用され得ることが推測されるからである。
 観念と指示対象となる実体の符合という同調原理が保障されていない限りは、あの山と言った場合の“山”という概念もこの山を指示した場合の“山”という概念も、主観の投影以上の確たる実質が確証されている訳ではない。唯名論的主張に従えば、あるがままの自然の裡には山どころか“リンゴ”や“木”や“植物”などの観念に対応するいかなる具象物さえも存在してはいない。同様に “事物”に限らず“試行”や“事象”についても何一つとして普遍的な同一性で括られる相等物がある訳ではなく、不可分の果てしない時間と空間の連続体と仮称されるものが、ただあるのみである。しかしながら、名辞の適用に関する解釈云々ではなく、肝腎の“実体”という概念がいきなり突っかい棒を外されて客観的相関物としての存在性を喪失してしまった場面に直面してしまったのが、20世紀以降の我々の思想状況なのであった。
 ハムレットやファウストのような伝説的キャラクターを主役にした仮構に対して 、“ピーター・パン”という特有のキャラクター存在を題材とする幻想物語については、先行例となる伝説や伝承らしきものは特に存在してはいない。スコットランドの劇作家ジェイムズ・マシュー・バリの奇想により20世紀に至って創出された、永遠に大人になることを拒否した少年ピーター・パンという異教神の位相は、伝説や神話の中に顕著な相関物を発見することが出来そうにないように思える。そしてまた彼の暮らしているネヴァランドという、子供達の心の中の未知の領域に繋がった異次元空間でもある、あり得ない理想郷もまた同様であろう。どちらも、伝説的類似存在を探すには、あまりにもモダニスティックな純粋な観念の産物である。しかしながらピーター・パンという特異なキャラクターが登場するバリの創作した“ピーター・パン物”にも、同じ作者自身の手になるいくつかの異なったヴァリエーションが存在するのである。最もよく知られた事例は、1904年に初演がなされた劇作品Peter Pan だろう。当時の演劇の常識からあまりにも乖離した作風に従ったこの実験的な舞台作品は、子供達の空中飛行場面等の舞台装置に多額の費用を必要としたにも関らず、興行的成功に対してはさほど大きな期待を寄せられてはいなかった。しかしながら製作者側の予期に反して、この奇想に満ちたエクストラバガンザは一般観衆の支持を得て、その後長きに渡って再演が行われたばかりでなく、様々の国々で繰り返し上演された結果、世界で最もポピュラーな劇作品の一つとなっている。上演毎の脚本の手直し等もあって、この劇の脚本が出版されたのは1928年に至ってからであったが、興味深いことに初演から7年後の1911年には、脚本の出版に先立って散文物語の形式で小説版Peter and Wendyが刊行されているのである。小説Peter and Wendyは、先行する劇作品Peter Panの中で語られていた仮構内情報を再構築するばかりか、読み手である当時の読者達が共有していたこの劇作品とその作者バリ自身の存在に対する様々な具体的知識そのものをも作品の題材として取り込んだ、極めてメタフィクション的主題性の顕著な観念小説であった。その特質はフックやウェンディ達様々の登場人物達の担う“語り”の機能と照らし合わされた、ナレーションを司るお話の語り手の存在に集約されている。(2) 小説版 Peter and Wendyは、この際立って魅力的なキャラクターを導入した作品の完成形として理解することのできる複合的な内実を秘めているのである。しかしその希有な実質は、現在ではほとんど忘れ去られていると言ってよい。さらにまた永遠に成長することのない子供であるピーター・パンという印象的なキャラクターを作者バリが最初に導入することとなったのは、劇作品Peter Pan に先行する小説『白い小鳥』(The Little White Bird, 1902)においてであった。この物語に描かれているのは退役軍人の一人称の語りを軸に展開される抽象的な観念遊戯の世界であるが、ピーター・パンという特異なキャラクターは劇中劇的エピソードの中に登場するのみである。バリは劇作品Peter Panの上演の後に程なく『白い小鳥』の中程のピーター・パンの登場する部分だけを独立させて、短編小説『ケンジントン公園のピーター・パン』(Peter Pan in Kensington Gardens, 1906)として出版している。このように振り返ってみるとピーター・パン存在とは、バリの手になる複数の作品に通貫して登場する、いくつかの矛盾と偏差を含む複合的キャラクターなのである。
 これらの“ピーター・パン物”の全てを、連続的・多義的存在としてポテンシャル次元に潜在すると仮定される原型的作品基体 “メタ『ピーター・パン』”から、一意的な意味の組み合わせに限定された波束の収縮過程を経てコヒーレンスの結果として抽出された、個別性作品表象を具現した変化形の各々として理解することもできるだろう。当然のことながら未だ波束の収斂を得て現実の存在物として発現する機会を恵まれていない無数の可能的発現形として、属性要素の順列組み合わせに基づく種々の同位体あるいは変異形の存在も予測されることとなる。現実世界の中で人の手によって捏造された仮構存在は、現実内仮構として明らかにリアリティ世界の具象物の一部分を占めていると同時に、純理論的には現実世界に並列する無数の可能世界の一つを一平行宇宙内から参照する間世界的言及行為の具体例としても理解することが可能なものなのである。そこでは微小な属性決定要素の個々の取捨選択から導かれる無数の変化形のみならず、宇宙定数の改変や世界構成軸の根本的な置換に基づいた別次元界面の発現形もまた、連続的変換過程における等位段階に平列して展開される変異体として理解されることになる。このような概念自身の相互委属的な存在特性と多世界に通貫して存在すると仮定されるメタ原型概念存在の関連を考察する視点から、様々の二次創作作品を通して推測される原形質的な次元の情報的意義性を、量子論理的仮構世界論として考察することができるに違いない。
 このような企図に基づく仮構世界本体論に関わる論議に好適な具体例を提供してくれているのが、映画作品Peter Panなのである。Peter Pan は、P. J.ホーガン監督の手になる2003年公開の米・英・豪合作の映画である。(3)
本作は1904年に上演されたジェイムズ・バリの舞台劇Peter Panの初演100周年を記念して制作された映像作品であるが、「ピーター・パン」と一般的に呼ばれる仮構作品名の指示対象の実質と類縁的存在(4) の関係性を考えるに当たり、一際興味深い特質を備えた内実を持つ仮構存在となっているのである。
 詳細にこの映画の映像記述とそのシーンに採用された個々の台詞の内容をたどってみると、小説版に導入された形而上的主題性を反映する具体的項目の一つ一つが、思いがけないほど忠実にたどられていることが分かる。その多くは、既存の科学的世界解式を超出する新規の実在論と宇宙論を模索しつつあったPeter and Wendy 刊行当時の人々の抱いていた哲学的関心を、浮き彫りにするものとなっているのである。実はJames Matthew Barrie の奇想小説Peter and Wendy は、時間と空間の関係と規定概念を大きく転換したアインシュタインの相対性理論の完成前夜の、科学と哲学の双方に造詣の深い当時の知識人達が共有していた、意識と物理存在の相互関連と再定義の可能性に関する先鋭な関心と、心理学と自然科学が交錯した思想状況を巧みに反映するものだったのである。ピーター・パンという人格でもあり観念でもあり意識内存在でもあるものと、ネヴァランドという心象でもあり異次元空間でもあるものが、主観意識の心象形成作用と密接な関係を持つ形而上的な複合概念として入念な操作を施して提示されているからである。
 19世紀末から20世紀初めにかけては、アインシュタインの相対性理論の発表とミンコフスキーの4次元時空の定式化に先立って、デカルト・ベーコン的事象理解の限界点の超出を意識した様々な実在論や本体論が提示されようとしていたのであった。ジェイムズ・クラーク・マクスウェルは、ニュートンが仮定した真空の3次元空間というモデルとは異なる場の概念を導入して、電磁気現象を解明する新規の物理理論を構築しようと企てていた。エルンスト・マッハは、局所的な作用の連鎖という事象の標準モデルに基づいて存在と現象のあり方を記述するニュートンの力学的描像を俯瞰するする視点から、全体性の世界との関連として熱的・電磁的・磁気的・化学的過程として物理現象を把握しようと試みていた。このようなマッハの思想と研究は、アインシュタインに多大な影響を及ぼしたことが分かっている。(5) さらにウィリアム・ジェイムズは、従来の局所的作用の機械的連鎖を行う力学的単位としての“物質”という概念に拘束されることのない観点から、心理的経験そのものを事象の本質として捉えることにより、ある種の“心霊的”原形質存在を仮定して事象発現に対する主観意識の関与を重視した現象把握を達成しようと目論んでいた。またアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドは、力学的作用を行う基礎単位である物質粒子に代替して、生起するできごとそのものを世界の基本的実在として考えようとする、現象学的本体論の構築を模索したのである。これらの科学者と哲学者達の関心に通底すると思われる心理学的な宇宙解式が、Peter and Wendyの様々の場面と記述に投影されていることを指摘することができたのである。(6)
 原作Peter and Wendyに確認されるこのような思弁的陰影に富む仮構的内実を反芻しながら映画Peter Panに描かれた仮構記述を辿ってみると、ここにも原作との二重構造を暗示する二次創作作品としての位相を存分に活用した、精緻な哲学的思弁と緻密な劇作的工夫があることを確認することができるのである。
 映画Peter Panの冒頭では、原作にあった書き始めと同じ文字列のロゴを用いてタイトル画面を導いている。

All children grow up…… except one…… Peter Pan (7)

文章記述の粋を凝らした高度な概念操作が展開されていた原作に倣って、この映画でも登場人物達の特徴的な台詞と並んで、原作を忠実に反映した文章記述が用いられている。しかし原作Peter and Wendyの最も印象的な文章記述は、小説としてのナレーション(語り)の中に見出すことが出来たのであった。作者バリ自身がお話の語り手として作中に登場し、積極的に読者に対して様々な呼びかけを行っていたのである。そればかりか話し手は物語進行の舞台裏で、作品世界の方位を決定するべき主要属性を担った重要人物であるダーリング夫人と仮想的な会話までも交わしながら、自在にストーリー展開の選択をして物語世界の構築を続けていく。そこには、語りの機能と読者の意識空間内に展開する仮構世界発現の相関という有機的なメカニズムを意識した、全方位的に展開したメタフィクションの機構が採用されているのである。映画版Peter Pan においても一見したところ原作の記述を忠実に踏襲したナレーションの音声が導入されているが、原作とは明らかに異なる大きな一つの変更がなされている。この映画のナレーションは、作者バリとは異なる女性の声によって行われているのである。その理由は、タイトル画面に続くこの映画の導入場面で既に暗示されていた。ウェンディは子供部屋で二人の弟達に得意のお話を聞かせてやっているのだが、彼女の語るお話の内容はこのようなものである。

Cinderella flew through the air, far from all things ugly and ordinary. When she landed at the ball, she found herself most impertinently surrounded by pirates. There was Alf Mason, so ugly his mother sold him for a bottle o Muscat. Bill Jukes, every inch of him tattooed. And, cruelest of them all, Hook, with eyes blue as forget-me-nots, save when he clawed your belly with the iron hook he has instead of a right hand, at which time his eyes turn red.

 シンデレラはつまらない醜悪な現実世界を遠く離れて空を飛んでいきました。ところが困ったことに、舞踏会の会場に降り立ってみると、彼女を取り巻いているのは海賊達でした。そこにはアルフ・メイソン もいました。あまりにも醜いため、母親に葡萄酒一瓶と引き換えに売り渡された男です。ビル・ジュークスもいました。体中一杯に入れ墨が彫られた男です。そしてその中でも最も残忍なのは、キャプテン・ フックでした。その目は忘れな草の花のように青いのですが、彼の鉤爪で人の体を引き裂く時だけはその色を変え、血の色に染まるのです

ウェンディの語るお話の主人公のシンデレラは、現代の陳腐で醜悪な現実世界を遠く離れて空を飛んで行き、お伽噺に語られていたようにお城の舞踏会の場に降り立つのだが、そこに待ち構えているのは現実離れをした不気味な風貌の凶悪な海賊達である。ウェンディによって物語られている海賊達の姿は、善良な銀行員の娘の話す内容にはふさわしくないような、猟奇的な怪物的相貌のもの達なのである。この少女のアレンジになるシンデレラ物語は、20世紀を迎えた現代英国の良識的な社会に飽き足らない、冒険と不思議に満ちた夢物語どころか怪異と残虐にさえも憧れる彼女自身をお伽噺の主人公と同化させたものとなっている。原作においてもやはりウェンディは、ネヴァランドのロストボーイズ達に対してお話の語り手としての役割を果たしていた。しかし映画では彼女の語り手としての関与と特質は、さらに主題との相関を増幅したものになっているのである。ウェンディの語りの内容は、原作の主要テーマであったピーター・パンに代表される子供達の持つ、他者の心の痛みを顧慮することを知らない“heartlessness” (非情さ)というはなはだ利己的で残酷な特質との関わりを暗示しているのである。この要件についてはこの映画の随所でも見事な変換記述がなされているのみならず、原作とは異なる印象的な大団円を導く結果ともなっているのである。ウェンディがフックの手下の海賊達一人一人の不気味な姿ばかりでなく、彼等の素性や悪逆を尽くした経歴までをも弁えて嬉々としてそれを語っていることに、この事実が示されている。殊にピーターの仇敵であるキャプテン・フックについての描写などは、平凡なイギリス人の一少女が知るはずもない、作者のみが知る特殊な裏の世界の知識に属するものである。(8) ウェンディがこれらの秘匿された情報を、一体どこから得てきたものであるのかが疑問となるだろう。ひょっとしてこのウェンディは、原作者バリの書いた奇想小説『ピーターとウェンディ』を実際に読んだことのある、原作を俯瞰する視座を持つ別の“ウェンディ”でもあるのかもしれない。もしもそうであるとするならば、彼女がこれから示すことになるピーター・パンのお話の世界の詳細情報に関する様々な言及も、納得のいく説明がつくことになるに違いない。
 ウェンディが自宅の子供部屋で弟達に語って聞かせているこれらの海賊達の姿は、原作ではお話の中頃になってようやく、実際にフック率いる海賊達が登場した場面の描写として記述されていたものである。そこでは作者自身が一人称の語り手として登場し、お話の中に語られている登場人物達以上の存在感を主張していたのであった。この作者が語っていた取り分け重要な情報は、ピーターの仇敵フック自身も優れたお話の語り手であったという事実である。映画においてはおそらく意図的にこの情報は伏せられていて、むしろウェンディ自身の関心とキャラクター特性として、彼女の語り手としての役割が原作のウェンディ以上に強調されているのである。
 念のため、原作にあった作者自身のナレーションで語られていたキャプテン・フックに関する記述を改めて確かめておくことにしよう。

In person he was cadaverous and blackavised and his hair was dressed in long curls, which at a little distance looked like black candles, and gave a singular threatening expression to his handsome countenance. His eyes were of the blue of the forget-me-not, and of a profound melancholy, save when he was plunging his hook into you, at which time two red spots appeared in them and lit them up horribly. In manner, something of the grand seigneur still clung to him, so that he even ripped you up with an air, and I have been told that he was a raconteur of repute.(9)

p. 54

フックの顔は死人のようにやつれて浅黒く、その髪は長い巻き毛になっていて、少し離れてみると黒いろうそくのようにみえて、彼の整った顔つきに特別の恐ろしげな雰囲気を漂わせていました。フックの目は忘れな草のような淡い青色で、深い憂鬱を湛えていました。そして君の体にあの鉤爪を突きたてる時だけは赤い二つの光がその両目にあらわれ、ぞっとするような表情をみせるのでした。フックの仕種にはどこか血筋正しいお殿様を思わせるようなおごそかさがあって、人の体を切り裂く時でさえ、優雅な身のこなしに思えるのでした。そして私の耳にしたところですと、フックは面白い話をするのが上手だという評判だそうです。 .

原作のナレーションを通して語られていた作品の設定に関わる重要な情報の多くが、映画では作中でウェンディが語るお話の文句として置き換えられていたことになる。映画では語り手の作者バリの姿は完全に姿を消し、ストーリーの進行を司るのはキャラクター特性を殊更に主張することなくウェンディに同化した、無名の女性の声となっているのである。そしてウェンディは、平凡な良家の子女が知っているにはかなり教育的に問題もありそうな無頼の海賊達に関する様々の背景知識を備えて、奇怪な彼等の姿を活き活きと語り伝えるのである。ピーターやロストボーイズ達の備えていたのと同様の少年らしい冒険心と闘争心の持ち主として、映画版のウェンディは冒頭から独特の存在特性を発揮している。彼女は、いかにも女の子らしい家庭的な性格の持ち主であった原作のウェンディには見られなかった積極的な一面を、この後にも随所で披露することになるのである。

 映画では原作Peter and Wendyの語り手の言葉をそのまま引き継いで、女性によるナレーションの声が仮構世界の進行を受け持っている。

The night on which the extraordinary adventures of these children may be said to have begun, was the night Nana barked at the window.

ダーリング家の子供達の不思議な冒険の始まりとなったとされる晩は、ナナが窓に向かってしきりと吠え立てた晩でした。

しかし原作の文章記述においては、この場面でも物語の全体像を見通す作者の語り手としてのキャラクター特性が滲み出るものとなっていたのである。

But Wendy had not been dreaming, as the very next night showed, the night on which the extraordinary adventures of these children may be said to have begun.
On the night we speak of all the children were once more in bed. It happened to be Nana's evening off, and Mrs. Darling had bathed them and sung to them till one by one they had let go her hand and slid away into the land of sleep.

p. 13

 けれども翌日の晩はっきりと分かったように、ウェンディは夢を見ていたのではありませんでした。この晩こそダーリング家の子供達の不思議な冒険の始まりとなったのでした。
 お話をするこの日の晩は、子供達はみんなもう床についていました。その日は丁度ナナが晩にお休みを頂くことになっていました。ですからダーリング夫人が子供達をお風呂にいれ、枕元で歌を歌って、子供 達が一人一人お母さんに握ってもらっていた手を離し、眠りの世界に旅立つまで付き添ってあげていたのです。

原作のナレーション記述においては、これから起るはずの出来事が、読者と情報を共有する語り手によって既知の事柄として処理されていることが分かる。これは読者の多くが劇作品『ピーター・パン』の内容を既に詳しく弁えていた事実を畳み込んだ、原作において顕著なものであった再話のメカニズムを活用したメタフィクションの機構である。さらにまたPeter and Wendy成立の背景知識を振り返ってみれば、お伽話の常套が因果関係の逆転や過去と未来の時間軸の混淆として観念遊戯的な要素を強調して語られることによって、現実世界の事物と仮構世界の意味の根源にあると予測される原存在的情報を連接させ、時間と空間の深奥にある原型質的連続体の存在を示唆することを図ろうとする、先鋭な問題意識を潜めた記述であるかのようにも思える。
 メタフィクションは、ポストモダニズムの潮流の中で実験的な小説の作品世界提示の手法として多用された記述技法であり、実在世界の参照方法の革新を企図して量子力学の世界解式を導入した新規の文学論を判別する指標でもあった。しかし実はこの記述手法は、むしろ伝統的な語りの技法の本源に存在していた、言説と指示対象の関係を反射的に捕捉する観照的契機を探ることを目論む、文学における生成因をなすと思われるむしろ伝統的な哲学的主題なのである。
 女性の声による映画のナレーションは、さらにダーリング家の両親の姿を観客に紹介して語る。

There never was a happier, simpler family. Mr. Darling was a banker who knew the cost of everything, even a hug. Mrs. Darling was the loveliest lady in Bloomsbury, with a sweet, mocking mouth that had one kiss on it, that Wendy could never get. Though there it was, perfectly conspicuous in the right-hand corner.

これほど幸せ一杯の家族など他にありませんでした。ダーリング氏は銀行員で、何の値段でも知っています。一つ抱きしめたらいくらかかるかさえ計算することができました。ダーリング夫人はブルームズベリーの街で一番の美人で、あの人をからかうような魅力的な口許がありました。そして彼女のその口許には、ウェンディがどうしても手に入れることのできないキスが一つその上に浮かんでいました。右の端にあるのははっきりと見えてはいたのですけれど。

原作を彷彿とさせるような気の効いたダーリング氏の職業の紹介と共に、ピーター・パンのお話の中で誰よりも重要な座を占めるダーリング夫人と、彼女の主要な特性の具現化である神秘的なキスが語られている部分である。原作にあった語り手の記述を確認してみると、ここでも重要な部分がいくつか省略されていることが分かる。

Of course they lived at 14 , and until Wendy came her mother was the chief one. She was a lovely lady, with a romantic mind and such a sweet mocking mouth. Her romantic mind was like the tiny boxes, one within the other, that come from the puzzling East, however many you discover there is always one more; and her sweet mocking mouth had one kiss on it that Wendy could never get, though there it was, perfectly conspicuous in the right-hand corner.

p. 7

 勿論のこと、みんなは14番地に暮らしていました。そしてウェン ディが生まれるまでは、一家の主役はお母さんでした。ダーリング夫人は素敵な女性で、ロマンティックな心を持ち、あの人をからかうような魅力的な口許がありました。ダーリング夫人のロマンティックな心は、いくら開けてもまだ次から次に中から出てくる、不思議な東洋からやって来た小さな小箱のようでした。そして彼女の魅力的なからかうような口は、ウェンディがどうしても手に入れることのできないキスを一つその上に浮かべていました。右の端にあるのははっきりと見えてはいたのですけれど。

原作の記述の出だしに“of course”とあるのは、語りつつあるお話の筋について読者が既に了解済みであるかのように話を進めるという、伝統的なおとぎ話の手法を取り入れているものである。また同時に、劇Peter Panの上演の後しばらくたってからこの小説版Peter and Wendyが出版された経緯を反映してもいる。つまりPeter and Wendyを手にした読者の大部分が、このお話の筋のあらましを実際に知っていた筈なのである。この後も原作では“of course”が繰り返して用いられることとなっている。これらは作品内においては明示的に語られていない作品外部(extra literary)の情報の存在を意識した語りの手法として、興味深いメタフィクション構造を提供してくれている。映画ではダーリング夫人と語り手のキャラクター特質が希薄化され、ウェンディを中心にストーリーが進行して行くのであるが、原作にあったメタフィクション的主題性に対する反射性は確かに保持されている。しかしダーリング夫人の持つ神秘的な要素として語られていた“入れ子構造の小箱”に対する言及は省略されている。この発想は原作ではネヴァランドと照らし合わされて、トポロジーと座標概念の常識を覆す革新的な宇宙論として、ホログラフィー的世界解式を構築する形而上的主題性を暗示していたものであった。
 さらにまたこの映画では、原作には語られていなかった別のナレーション記述が付加されている。それは原作には登場しないもう一人の人物であるミリセント伯母さんに関するものである。(10)

And sometimes there was Aunt Millicent, who felt a dog for a nurse lowered the whole tone of the neighborhood.

そして時々、ミリセント伯母さんがやって来る日もありました。伯母さんは犬に子守りを任せるなんてことは、街中の品位を落とすことになると感じていました。

映画ではこの後、ミリセント伯母さんを迎えてダーリング家の家族の一人一人が彼女の前で芸を披露する場面が映し出されることになる。ところがウェンディの出番を迎えても、彼女が口を開く前に先に口を出してしまうのが彼女の弟達である。

Wendy's turn. / Wendy must tell a story. / Cecco, who carved his name on the governor at Goa. / Noodler, with his hands on backwards. / Hook, whose eyes turn red as he guts you.

次はウェンディの番だよ。/ウェンディはお話をしなくちゃね。/チェッコはゴアの総督の背中に剣で自分の名前を彫り込んだ奴。/ヌードラーは両手が逆向きに付いている奴さ。/それからフックは、人の体を切り裂く時には両目が赤く光る。

謹厳実直なミリセント伯母さんを失神させてしまうような非道徳的な話題を無神経に語り始める弟達だが、彼等は普段から繰り返しウェンディのお話を聞かされているので、彼女が語る筈のお話の中身を既に暗記してしまっているのである。物語る予定のお話の中身が聴衆の一人によって先取りして語られてしまう、というお話の語りについての記述に見られるメタ構造性は、原作の主題であった語りの反射的意義性にもう一捻り付け加えたものとなっているかもしれない。ウェンディは弟達の声援に元気づけられて、これまで秘めていた自分の将来の夢をミリセント伯母さんに語ってしまうことになる。

My unfulfilled ambition is to write a great novel in three parts, about my adventures.

私の将来の夢は、自分の行った冒険を3巻構成の長編小説に書き上げることなんです。

 当然ながらミリセント伯母さんは、退屈極まりないお説教を始めて結婚相手を見つけることの大事さを説き、ウェンディの夢を萎ませようとする。しかし社会の常識に凝り固まって子供達の子女教育に口を出そうとするこの鬱陶しい伯母さんの存在だけでなく、冒険心と活力に溢れたウェンディの属性自体が原作には語られていなかったこの映画独自の重要な主題なのである。伯母さんはそのウェンディの夢を全く理解していない。

But, child, novelists are not highly-thought-of in good society. And there is nothing so difficult to marry as a novelist.

でもね、小説家という職業は社交界ではあまり高い評価を得ていない のよ。小説家ほど結婚に向かないものはありませんね。

だが興味深いことに、これまで家族の誰も思いつくことのなかったウェンディの女の子としての成長と魅力について語ってくれるのも、このミリセント伯母さんなのである。

Wendy possesses a woman's chin. Have you not noticed? Observe her mouth. There, hidden in the right-hand corner. Is that a kiss?

ウェンディの顎の線はもう大人のものね。気がつかなかった?口のと ころをごらんなさい。ほら、右端に見えるのは、これはキスじゃないこと?

このミリセント伯母さんの指摘によって、映画のウェンディもまた原作ではお母さんのみが与えられていた占有的属性を暗示していた、口許のキスを共有することになっている。このように語り手である作者の存在だけでなく、ダーリング夫人やウェンディも原作とはかなり異なる改変を施されているのが、この映画の見逃すことのできない特質なのである。弟達も敏感にミリセント伯母さんの言葉に反応する。

A kiss? / Like Mother’s kiss. / A hidden kiss.

キスだって?/お母さんのと同じだ。/秘密のキスだ。

ウェンディはミリセント伯母さんに尋ねる。ミリセント伯母さんはしたり顔で答える。

But what is it for? /It is for the greatest adventure of all. They that find it have slipped in and out of heaven. / Find what? / The one the kiss belongs to.

でもキスって、何のためにあるの?/それはね、最も素晴らしい冒険のためにあるのよ。キスを見つけてしまった人達は天国にも行けるし、行けなくなってしまうこともあるわ。/何を見つけるですって?/キ スを持っている人をよ。

ミリセント伯母さんの言葉は、これまで家族の誰も思ってもいなかった新しい感覚を一家に持ち込む。そしてお父さんのダーリング氏も、ミリセント伯母さんの指摘に深い感動を覚えるのである。

My Wendy,… a woman.

私の娘が、おとなに……

原作では語り手である作者の偏愛のためにダーリング夫人のみが所有することを認められていた神秘的なキスが、映画ではこうして彼女の娘のウェンディにも認められることとなり、この不思議な言葉が本来意味していた宇宙の本源と結びついた霊的直観能力は、大人の女性としての性的魅力に変換されてしまう。そしてこのキスの魅力に抗う母性からの離反者が、原作に描かれていたピーターなのであった。映画版Peter Pan は詳細に原作の文章記述をたどっているようで、実は原作の仮構世界としての基本軸を根底から転換しようと企てているのであった。
 しかしミリセント伯母さんは、ウェンディ達にとっては大変迷惑な提案を両親に持ちかけることとなる。それは二人の弟達と子供部屋を共有して夢と冒険の世界を日々紡ぎだすことを喜びとしていたウェンディにとっては、堪え難い生活の変化を意味するものである。

Almost a woman. She must spend less time with her brothers and more time with me. She must have her own room. A young lady's room. Leave the….

もうほとんど大人の女性ね。もう弟達と生活を共にするのは止めて、 私の許で指導を受けなくては。個室が必要ね。若い女性のための私室よ。もう子供部屋は卒業して……

こうしてしてウェンディと弟達は、ミリセント伯母さんが両親に向かってウェンディの結婚を頭において社交界をもっと利用するように助言するのを、ドアの外の通路で少なからずの動揺を持って聞くこととなる。

The daughter of a clerk cannot hope to marry as well as that of a manager. You must attend more parties… make small talk with your superiors at the bank. Wit is very fashionable at the moment.

会計係の娘なんて支配人の娘のような有利な結婚は期待できないものよ。あなたもこれからもっとパーティーに出なければ。銀行の上役達と気の効いた会話をするの。今はウィットの才能がもてはやされるのよ。

このような次第で、ウェンディが現実世界を捨て去って自らの意思で夢の世界ネヴァランドに逃避することを希望する条件が整えられてしまうのである。『ピーター・パン』と名付けられたこの映画の主役が、ピーターではなくウェンディに置き換わってしまっている。成長しない子供であるピーター・パンに替わって、この映画はウェンディの成長物語を基本軸とすることになる。これは原作の基本設定の大幅な改変であると共に、実は原作にあった観念小説としての特質である捻転した観念的主題性を、見事に踏襲したものともなっているのである。(11)
 このような成り行きの後で、ようやくピーターの子供部屋侵入の場面が導かれることになる。自分のベッドの真上で宙に浮かんでいたピーターに気がついたウェンディは、素早く窓から姿を消したピーターを心配して外に降りてみるが、そこにもう彼の気配はない。ナレーションの声はその様子をこう伝える。

But there was no sign of a body. For none had fallen. Certainly she had been dreaming.

そこには何の痕跡もありませんでした。誰も落ちてはいなかったのです。きっとウェンディは夢を見ていたのでしょう。

この後、ミリセント伯母さんの果たした役割を補完するかのように、ウェンディの引き起こした学校でのエピソードも語られることとなる。これも原作では全く記述の無かった、この映画の新規の創作による興味深い場面である。授業中にノートの落書きを先生に見つかってしまったウェンディは、先生の厳しい詮索を受けることになる。ウェンディがノートに描き込んでいたのは、ベッドに横たわる彼女を宙から見下ろしている一人の人物の姿であった。先生は厳しくウェンディを問いつめる。

If this is you in bed, … what is this? / A boy. Miss Fulsom dispatched a letter of outrage to Mr. Darling…that set new standards of prudery even for her.

これが貴方のベッドなら、ここにいるのは誰? / 男の子です。 フルサム先生は怒りに満ちた手紙をダーリング氏に書きました。それは彼女自身これまで聞いたことのない程激烈に、子女の貞淑を守ることの重要性を説いたものでした。

ちなみに原作では、ダーリング家の子守りを勤めている犬のナナがウェンディの弟達を送って行く学校の名前が“フルサム学院”となっていた。原作にあった種々の意味情報が様々の撹乱を施された結果、順列組み合わせを違えた新しい意味連繋を備えてこの映画の仮構世界を再構築しているのである。これは現代の量子理論の素粒子の不確定性という特質に基づく平行世界解釈を弁えた観客には、取り分け興味深い細目事例となるだろう。
 映画のナレーションは、さらにパーティーに出席して慣れない社交的会話に挑戦しようと努力しているダーリング氏の姿を紹介する。

Mr. Darling had been practicing small talk all afternoon. “--I say, it's nice weather we’re having…. ” And now his opportunity had arrived. Sir Edward Quiller Couch, the president of the bank… was a man who enjoyed small talk almost as much as a good balance sheet.

ダーリング氏はこの日の午後中、パーティーでの会話を練習していました。「いやまったく、いいお天気ですな…。」そして練習の成果を試す機会が訪れました。銀行の頭取のエドワード・クィラ・キーチ卿は、会計帳簿に劣らぬほど気の効いた会話を好む人でした。

ダーリング氏はフルサム先生が出したウェンディを告発する手紙の一件がもとで、折角ご機嫌を取るために近づいた銀行の上司の前で、大恥をかいてしまうことになる。その直接の原因となってしまったのは、ウェンディのためにこの手紙の配達を阻止しようとしたナナだったのである。原作では全く語られていなかったこのエピソードは、原作にあったのとは異なった経路をたどって原作と同様のストーリーの進展を導くことになるのである。可能性の束として様々の矛盾を相殺して不確定の状態にある原存在から抽出された分岐的平行世界の記述として読み取れるのが、この映画版PeterPanの各々のエピソードなのであった。
 ダーリング氏はナナに八つ当たりをして哀れな飼い犬の誇り高い子守りの地位を剥奪し、この忠実な番犬を中庭で鎖に繋いでしまう。こうしてダーリング氏は自らの過失のために、自宅への再度のピーター・パンの侵入を許してしまうことになるのである。そこに語られているダーリング氏の台詞はやはり原作には存在しなかったものであるが、原型的仮構世界Peter and Wendyの示しうる可能態の一つとして、原作者バリの作家的特質と作品自体の個別性を見事に再現した、妙味ある台詞となっているのである。

I have been humiliated! I must become a man that children fear and adults respect, or we shall all end up in the street! This is not a nurse! This is a dog! Tomorrow, you begin your instruction with Aunt Millicent. It’s time for you to grow up!

恥をかかされてしまったぞ!僕は子供に恐れられ、大人に尊敬される人にならなくては。さもないと家族全員が路頭に迷うことになる。こいつは子守りなんかじゃない!こいつはただの犬だ!明日からは、お前はミリセント伯母さんの指導を受けるんだ。お前も、もう大人にならなくてはいけない時期だ!

このままではウェンディは、弟達と繰り広げてきた愉快なお話と想像の世界から放逐され、退屈な淑女教育を施されることになるのである。ウェンディは克服すべき苦難と窮地を救う解放者を必要とすることになる。こうしてこの映画は、“ウェンディの物語”として基本軸を入れ替えて位相変換した紛れも無いピーター・パンの物語のもう一つの変化形を、映像記述を用いた二次創作作品という形で見事に具現化していくことになるのである。
 原作の小説Peter and Wendyでは、ウェンディのお父さんのダーリング氏の姿は極端に戯画化されていて、典型的な銀行員らしい常識的すぎる大人というよりはむしろ、ピーターに劣ることのない潜在的な幼児性を色濃く備えたエキセントリックな人物として、反転的な魅力を持つキャラクター像が描かれていた。ネヴァランドで抗争を続ける、様々な点でピーターと対照的ではありながら、同時にまた様々の類似点をも備えたピーターの仇敵キャプテン・フックを交えて、それぞれの対照軸を挟んでピーター、フック、ダーリング氏の3者が配置されていたのである。しかし映画Peter Panでは、3人の子供達を集めてダーリング夫人の語るお父さん像が、これに取って替わるものとなっている。お母さんがパーティに出かける前に子供達に打ち明けて語るのは、実直な銀行員となっておとなしく社会に帰属することを選んだダーリング氏の封印した夢と、彼の家族を守る勇気についての話である。

Your father is a brave man. But he’s going to need the special kiss to face his colleagues tonight./Father? Brave?

お父さんは勇敢な人よ。でも今晩は会社の人達を相手にするのに、と っておきのキスが必要なの。/お父さんが?勇敢だって?

ダーリング夫人の語るところによれば、お父さんが立ち向かわなくてはならない手強い相手は、凶悪な海賊や恐ろしい怪物達ではなくて、勤める会社の上司や同僚達なのである。原作ではダーリング氏は手に入れることをさっさと諦め、ウェンディさえももらう事が出来なかったとされていたお母さんの口許に浮かぶ不思議なキスは、お父さんの苦手なパーティーの席での援護射撃に用いられることになる。しかしお父さんの隠れた美徳を讃えるお母さんの意外な言葉に、思わず子供達はその意味を問い返す。その訳を説明するダーリング夫人の打ち明け話は、このようなものである。

There are many different kinds of bravery. There’s the bravery of thinking of others before oneself. Now, your father has never brandished a sword, nor fired a pistol, thank heavens. But he has made many sacrifices for his family, and put them in a drawer. And sometimes, late at night we take them out and admire them. But it gets harder and harder to close the drawer. He does. And that is why he is brave.

勇敢さにも色々あるのよ。自分のことよりもみんなのことを大事に考 えるというのは、とても勇敢なことなの。お父さんは有り難いことに 剣を振るったことも銃を撃ったこともないわ。でもお父さんは家族の ために多くのことを我慢して、箪笥の奥にしまい込んだの。時々夜遅 く、お母さんもお父さんと一緒にそれを引っ張りだして眺めたりする のよ。でもだんだんもう一度しまい込むのが辛くなってくるの。でも お父さんはしまい込むの。だからお父さんは勇敢なのよ。

ピーターだったらとても理解できないような屈折した男子の勇敢さの評価だが、このお父さんに対する賞賛がダーリング夫人の口から語られるのが、原作とは次元軸を異にする映画Peter Panの世界なのだ。それは原型的仮構“メタPeter and Wendy ”が顕在化させることなく秘めている、あり得たかもしれない数多くの潜伏した変化形の一つなのであろう。社会の規範を漫然と受け入れることを拒否して、体制に抗い続ける海賊業を生業にすることで美学の殉教者となったキャプテン・フック(12) も、家族の生活のために凡庸な銀行員の仮面を被って毎日を生きているダーリング氏も、その根底にある人格的基質においては、実は何ら変わるところのないものであるのかもしれない。フックもダーリング氏も、本性的属質においては同一である未知の何者かが一つの可能世界のパースペクティブの中で暫定的に装った、ペルソナとしての仮面の姿であるのかもしれないからである。
 平凡なお父さんと思われていたダーリング氏の備えるという意外な美徳が宣言された後で、この映画にもピーターが失った影を取り戻すために子供部屋に忍び込んでウェンディと出会う、あの有名なシーンが導かれる。ウェンディと、影を自分の体に再び装着する事が出来ないで困ってベッドの脇で泣いていたピーターとの出会いの場面は、かなり原作に忠実に描かれている。ピーターのすすり泣く声を聞きつけたウェンディは、ベッドの上からこの自室に忍び込んだ見知らぬ少年に声を掛ける。二人の会話は次のように、互いの名を尋ね合う場面から開始されている。

Boy, why are you crying? …You can fly! What is your name?/What is your name? / Wendy Moira Angela Darling./ Peter Pan.

ねえあなた、どうして泣いてるの?…まあ、飛ぶ事ができるの!あな たの名前は?/君の名前はなんだい?/ウェンディ・モイラ・アン ジェラ・ダーリングよ。/ピーター・パンだよ。

続けてウェンディの問いは、ピーターの住まうはずの彼の家の住所に移る。これも原作にあった通りの会話の進行だが、映像作品としてナレーションによる概念記述を省き、二人の間に交わされた台詞のみで会話が進行しているのが、原作との大きな相違である。ヴィクトリア朝以来書かれてきた様々の脚本文学の轍を踏んで、1928年刊行の脚本Peter Pan にも入念なト書きが付されており、ゲーテの『ファウスト』等と同様に読むものとしての脚本文学の形式を完成させていた。それに対して映画Peter Panの会話は台詞のみでやりとりがなされており、舞台上に繰り広げられた演劇作品の内容により近いものとなっている。小説版Peter and Wendyにあった、作中人物に対して屈折した偏愛を示したりストーリーの進展に恣意的な干渉を加えたりする語り手の姿は、ここでは隠蔽されているのである。
 ピーターはウェンディの問いに答えて言う。

Second to the right and then straight on till morning./They put that on the letters?/Don't get any letters./But your mother gets letters./Don't have a mother./No wonder you were crying./I wasn't crying about mothers. I was crying because I can't get the shadow to stick. And I wasn't !

2番目の角を右に、それから朝まで真っすぐだよ。/手紙にもそう書 いてあるの?/手紙なんか、もらわない。/でも、お母さんには手紙 が来るでしょ。/お母さんは、いない。/それで泣いてたのね。/お 母さんのことで泣いてたんじゃない。影をくっつけることができなか ったから泣いてたんだ。それに、僕は泣いてなんかいない。

原作Peter and Wendyにあった記述と全く同様に、ウェンディは針と糸を用いて切り離された影をピーターの体に縫い付けてやることになる。人間存在としての基質に歪みを生じて、人工的な手段を用いることによってしか自らの影を身に装うことができないピーターは、映画Peter Panでは制御を失った暴走する影の具現する愉快な映像によって見事に擬装されている。しかしこのピーターの影自身が、自省心という桎梏を背負った現代的教養人であるキャプテン・フックから分極生成の結果生まれた影であるピーターの存在を、巧みに擬装するものでもあったのである。(13) 原作Peter and Wendyにあったこの哲学的な中心主題は、二次創作作品の映画Peter Panではさらに一捻り加えた擬装工作を施されることになる。

I could sew it on for you. This may hurt a little. …Might I borrow your knife? Thank you./Oh, the cleverness of me!/Of course, I did nothing./You did a little./A little? … Good night.

じゃあ、縫い付けてあげるわ。ちょっと痛いかもしれないけど。…ナ イフを貸して頂ける?…有り難う。/やったぞ、すごいな、僕は。/ そうね、私はなにもしなかったわね。/君も、すこしは手伝ったよ。/少しですって、……おやすみなさい。

ウェンディの手助けを受けてようやく難関を切り抜けたことをすっかり忘れてしまって、自分一人で影をくっつけることができたと勘違いしてはしゃいでいるピーターに、ウェンディは憮然としてしまう。しかし拗ねてベッドに潜り込んでしまったウェンディを、ピーターは巧みに声をかけて懐柔するのである。

Wendy? One girl is worth more than 20 boys./You really think so?/I live with boys, The Lost Boys. They are well-named.

ねえ、ウェンディ。女の子一人で男の子20人分以上の価値があるね。 /本当にそう思う?/僕は男の子達と一緒に暮らしてるからね。ロストボーイズさ。名前の通りの奴らさ。

自らの姿を顧みることを知らない全くの無知の持ち主であるが故に、計算も工夫も必要とすることなくあらゆる状況に対する全方位的な対処能力を発揮する(14) ピーターの巧みな話術に、思わずウェンディはつられて顔を出して質問をしてしまう。

Who are they?/Children who fall out of their prams when the nurse is not looking. If they are not claimed, they're sent to the Neverland.

ロストボーイズって?/子守りがよそ見をしている時に乳母車から落 っこちた子供達さ。誰も見つけてくれない時には、ネヴァランドに連れて行かれるんだ。

こうしてあの有名な、ウェンディとピーターの間のキスの交換の場面が導かれることになる。この指貫をキスと呼んで手渡しキスを指貫と称して与えるという奇想は、同時に概念と質量、精神と現象の変換記述を許す、宇宙の原型的基質の相互委属的位相(15) を暗示するものともなっていたのであった。

Are there girls, too?/Girls are much too clever to fall out of their prams./Peter, it is perfectly lovely the way you talk about girls. I should like to give you … a kiss. …… Don't you know what a kiss is?/I shall know when you give me one. … …I suppose I’m going to give you one now./If you like. …… Thank you.

女の子もいるの?/女の子は利口だから乳母車から落っこちたりはし ない。/ピーター、女の子のことをとてもよく言ってくれるのね。キ スをしてあげようか……あなた、キスが何か知らないの?/君がくれ たら分かるさ。……じゃあ、ぼくもあげなきゃね。/いいわよ。…… 有り難う。

映像で大部分を語っている映画の台詞のみを抽出すると、上のようにいささか場面の把握が困難になってしまうのだが、原作Peter and Wendyではこの印象的な場面は、特徴的なナレーションを効果的に用いて以下のように記述されていたのだった。

"I think it's perfectly sweet of you," she declared, "and I'll get up again," and she sat with him on the side of the bed. She also said she would give him a kiss if he liked, but Peter did not know what she meant, and he heldout his hand expectantly.
"Surely you know what a kiss is?" she asked, aghast.
"I shall know when you give it to me," he replied stiffly, and not to hurt his feeling she gave him a thimble.
"Now," said he, "shall I give you a kiss?" and she replied with a slight primness, "If you please." She made herself rather cheap by inclining her face toward him, but he merely dropped an acorn button into her hand, so she slowly returned her face to where it had been before, and said nicely that she would wear his kiss on the chain around her neck.
It was lucky that she did put it on that chain, for it was afterwards to save her life.

pp. 31-32

 「それなら素敵だわ。」ウェンディは言いました。「じゃあ、出てく るわ。」ウェンディはピーターと並んでベッドに腰掛けました。それか らウェンディは、キスしてあげてもいいわよ、と言ったのですが、ピ ーターにはそれが何のことか分からないようでした。そして、何か渡 してもらえると思い込んで、片手を差し出したのです。
 「でも、キスくらい知っているでしょう。」ウェンディは、唖然として尋ねました。
 「君がくれたら分かるさ。」ピーターは、ちょっと顔をこわばらせて答えました。ウェンディはピーターの気持ちを傷つけないように、キスの替わりに指貫を差し出しました。
 「じゃあ、僕もキスをあげようか。」ピーターが言いました。
 「そうなさりたいのなら。」 ウェンディは、幾分とりすました感じで答えました。ウェンディが 顔をピーターの方に傾けてしまったのは、どうも安っぽい仕草であっ たかもしれません。でもピーターはドングリのボタンを一粒ウェンデ ィの手の平に乗せただけでした。ウェンディはゆっくりと顔をもとの 位置に戻すと、「このキスを鎖につけて首にかけておくわ」と言いまし た。ウェンディがこのドングリを鎖につけておいたことは、後になって彼女の命を救うことになりました。

p. 202

ダーリング夫人の口許に見えていたというキスと、そのキスの他の概念との入れ替えが行われるという変換記述の例は、原作Peter and Wendyに導入された従来の科学概念を転覆する形而上的なメタ論理の主張として重要な哲学的主題となっていたが、映画Peter Panにおいてはこの変換記述そのものに対する変換操作が、二次創作作品としての興味深いメタフィクション的主題性を形成していくことになる。ピーターに貰ったドングリをウェンディが鎖に吊るして首にかけることにより、後に命を救われる結果が導かれることが前もってここで語られているのは、物語の進行を予期した極めて技巧的な記述であった。これは物語性を自覚した物語の語りとして、原作Peter and Wendyのメタフィクションの機構に関わってくる、印象的な箇所の一つなのである。そればかりでなく、作者自身の饒舌な声を用いてかなり子供達に対して辛辣な、皮肉な口調でピーターとウェンディの姿が語られて行くのが、原作の小説Peter and Wendyの大きな特徴となっていたのであった。
 この後の映画Peter Panの場面は、台詞のやりとり自体は原作にほぼ忠実に進行していく。

How old are you, Peter?/ Quite young./ Don't you know?/ I ran away. One night, I heard my parents talking… of what I was to be when I became a man. So I ran away to Kensington Gardens and I met Tink./ But there’s no such thing as a …/Don't say that. Every time somebody says that, a fairy somewhere falls down dead. / And I'll never find her if she's dead./ You don't mean to tell me there's a fairy in this room./ We come to listen to the stories. I like the one about the prince who couldn't find the lady … who wore glass slippers./ Cinderella. Peter, he found her, and they … And they… …lived happily ever after./ I knew it./Peter… I should like to give you……a……thimble./What's that?

あなたはいくつなの?/年なんかとってない。/自分の年を知らない の?/僕は家から逃げ出したんだ。ある晩、お父さんとお母さんが話 をしているのを聞いた。僕が大きくなったら何をさせるかって。だか ら僕はケンジントン公園に逃げ出して、そこでティンクと出会った。 /でも妖精なんて本当は……/それを言っちゃだめだ。誰かがその言 葉を口にする度に、どこかで妖精がぽっとり落ちて命を失ってしまう。 ティンクが死んじゃったら、もう会えなくなっちゃうじゃないか。/ まさかこの部屋に妖精がいるっていうの?/ティンクは僕と一緒にお 話を聞きに来るんだ。僕はガラスの靴を履いてたお姫様を探す王子様 の話が好きだな。/シンデレラね。王子様はシンデレラを見つけるこ とができて、それから二人は、末長く幸せに暮らしました。/そうだ と思った。/ピーター、指貫を、あげてもいいかしら/何だい、それは?

先ほど“キス”と偽ってピーターに指貫を手渡したことに対応させて、今度はウェンディは、“指貫”と偽ってピーターにキスをしてあげることになる。このようしてキスという概念と指貫という概念が交換記述をされる新たな心霊場の座標系が、ウェンディとピーターの心の重合部分に構築されることになるのである。キスと指貫/ドングリの意味交換が完成されることにより、意識の交錯空間に集合の元の組成をわずかに入れ替えた、新規の集合である平行宇宙が誕生したことを暗示する場面である。量子存在の持つ不確定性という特質と、潜在的可能性の排列が確定的に具現化した現象世界の間の不可解な関係を理解するために採用された、分岐する平行宇宙を構想する多世界解釈理論(16)に照らし合わせることができる、『ピーター・パン』の物語を定義づける形而上的な重要特質となるのがこのエピソードだろう。
 実は原作Peter and Wendyにおいては、取り分け印象的なエピソードを形成していたウェンディとピーターの間のキスと指貫の意味交換のやりとりに見られた概念軸変換の試みは、ネヴァランドに関する記述においても同様に反復して採用されていたのである。作者のナレーションを活用した原作Peter and Wendyの記述を参照してみよう。

Of course the Neverlands vary a good deal. John's, for instance, had a lagoon with flamingoes flying over it at which John was shooting, while Michael, who was very small, had a flamingo with lagoons flying over it.

p. 11

 もちろんネヴァランドにも色々なものがありました。例えばジョン のネヴァランドはラグーンの上をフラミンゴの群れが飛んでいて、ジ ョンはフラミンゴを銃で撃っているのでした。でもマイケルはまだ幼 かったので、マイケルのネヴァランドはフラミンゴの上をラグーンの 群れが飛んでいたりしました。


ここにはネヴァランドが子供達個々の主観の中の心象世界であることが暗示されていた。ネヴァランドは各々の子供達の独立した内面世界であると共に、互いの意識の共存を許す交わりの空間でもある。そこでは誤解に基づいた矛盾も、観念的多重世界の一つを形成する世界基軸構築要素として積極的に機能することになる。ピーターとウェンディの間に生起したキスと指貫の意味交替と同等の変換機構が、ここでも潜在していることが暗示されているのである。意味素子の組み合わせの結果生じる無数の平行世界の存立条件と等質の、事象として発現する前段階の可能態の世界が、ネヴァランドという意識空間に参照されているのである。
 いつの間にか親密な雰囲気になったピーターとウェンディに、いきなりウェンディの髪を引っ張って邪魔をするのが妖精のティンクである。ウェンディがこれまで想像の中で憧れ続けていた妖精達は、実際には彼女に対して敵対的な行動を取る、非友好的な存在であった。これは原作Peter and Wendyの主題であった、願望と実体化してしまった理想の間の非情な落差と、大人としての経験と客観的理解がもたらす避け難い楽園喪失感覚をそのままに反映している。全ての意識体に課せられた苛烈な宿命を暗示するために原作Peter and Wendyが用意した、無数の残酷なエピソードの一つとなっているのである。ウェンディはピーターが決して気付くことのない、心の奥底にあった理想と実体化した自分の願望の堪え難い乖離を、痛切に味わわされることになるのである。

Tink! She's not very polite. She says if you try to give me a thimble again……she'll kill you./And I had supposed fairies to be charming.

それはティンクだ。ティンクはちょっと乱暴なんだ。君がまた指貫を くれようとしたら、今度は君を殺すと言ってる。/まあ、妖精って、可愛らしいものだと思ってたのに。

妖精も人魚も、そしてネヴァランドそのものも、成長して大人になろうとするものに対しては、決して憧れていた姿のままの友好的なものであってはくれない。これは原作Peter and Wendyの基調音を形成していた、人という意識存在に課せられたあまりにも非情な楽園喪失の宿命を語る中心主題なのであった。
 子供部屋を立ち去ろうとするピーターを、ウェンディは意を決して引き止める。そして次に語る彼女の言葉は、原作とは幾分異なる映画版Peter Panの特有の主題を示して暗示的なものである。

Peter, don't go./I have to tell the others about Cinderella./But I know lots of stories, stories I could tell the boys.

ピーター、行かないで。/僕は仲間にシンデレラの話をしてやらなくちゃ。/ 私は色んなお話を知ってるのよ。あなたの仲間にお話しをしてあげられるわ。

このように映画Peter Panでは、ウェンディは自ら進んでネヴァランドにおもむく提案を、ピーターに持ちかけているのである。そしてその後に続くピーターとダーリング家の子供達との会話も、原作にあったものとはいささか異なるものになっている。

Come with me./ I cannot fly./ I'll teach you. I'll teach you to ride the wind's back, and away we go./Could John and Michael come too? Michael! Michael! John! John!/ I didn’t do it./There is a boy here who is to teach us to fly./ You offend reason, sir…. I should like to offend it with you. /You just think happy thoughts… and they lift you into the air. It's easy./I've got it! I've got it! Swords, dragons, Napoleon!/ Stand back./ John!/ Wendy! Wendy! Watch me! Puddings, mud pies, ice cream, never to take a bath again!/Michael!/ Come away. Come away to Neverland./ What about Mother? Father? Nana?/There are Mermaids./ Mermaids? /Indians!/ Indians?/ Pirates!/ Pirates? John, wait for me!

 じゃあ、一緒においで。/でも飛ぶことができないわ。/教えてあげ るさ。風の背中に乗れば、もう大丈夫さ。/ジョンとマイケルも一緒 に来ていい?/マイケル!マイケル!ジョン!ジョン!/僕じゃない。 /あなた達に空の飛び方を教えてくれる子がいるのよ。/それは道理 に反することですね。…僕も一緒に道理に反することにしよう。/楽 しいことを思い浮かべるんだ。そうしたら体が宙に浮く。簡単さ。/ 分かった。分かったぞ!剣にドラゴンにナポレオン!/下がって。/ ジョン!/ウェンディ!ウェンディ!見て!プディングに泥団子にア イスクリーム。お風呂はもう無し!/マイケル!/さあ行こう。メヴ ァランドへ。/でもお母さんはどうしよう?お父さんは?ナナは?/ 人魚もいるよ。/人魚ですって?/インディアンも!/インディアンも?/海賊もいる!/海賊も?…ジョン、待って!

最終的にやはりピーターは、ウェンディに対して狡猾な誘惑者として振る舞うことになる。そして彼の語る子供達の願望が全て詰まった理想の世界は、この場面のジョンの台詞にあるように、正しく道理の破綻した論理矛盾の世界なのである。何故ならばそこは、妖精達とインディアンと海賊が共存する世界とされているからだ。北海の孤島に伝えられた筈の人魚伝説と、カリブ海に代表される南海を舞台として喧伝されている海賊達の行状と、北アメリカを舞台とした冒険物語の題材として子供達の心を魅了したインディアン達は、一堂に会して姿を現すことなど決してあり得ない、矛盾撞着を来すことが避けられない相互破壊的要素に他ならない。ピーターの住まうとされる子供達の願望が全て実現されたネヴァランドは、量子的相殺状態にある無数の可能性が事象として発現する前段階の原形質次元であり、決して現象世界には成立し得ない論理的不可能世界でもある。映画Peter Panでは、作中人物であるジョンの台詞を用いて、原作Peter and Wendyの採用した不可能性記述の主題を明示的に言及しているのである。平行世界間の仮構におけるメタ自己言及行為として理解することができるのが、常識人ジョンがピーターに対して語った “You offend reason.”という台詞であった。
 映画Peter Panでは、両親を残して我が家を立ち去って行くことを気にかけるウェンディに、ピーターは原作の通りの誘惑者の役を演じて語りかけるのである。そしてためらうウェンディの姿は、以下のような会話で示されている。

Forget them, Wendy. Forget them all. Come with me where you'll never have to worry about grownup things again…What is it? What's wrong?/ Never is an awfully long time.

親のことなんか、忘れるんだ。みんな忘れてしまえ。僕と一緒におい で。そうしたらもう二度と大人たちのことなんか気にかけなくてすむ。 ……どうしたんだい?何が問題なの?/二度となんて、随分長い間ね。

ジョンの台詞を補完してウェンディの語る通り、“ネヴァー”と“エヴァー”、つまり不可能と永遠が正反対の一致の円環的図像を構築して、不可解な共存を可能にする多義性の意識空間が、子供達の意識の基底にある夢の国ネヴァランドなのであった。論理矛盾が相殺し合う、現象世界的意義性を決して維持し得ない曖昧模糊とした未分化の原形質的な状態が、子供達の妄想の中にのみ展開することを許される、至福の主観世界なのである。
 ここで映画Peter Panは、女性のナレーションがストーリーの進行を進める役割を引き継ぐことになる。そして異変を嗅ぎ付けて子供部屋に戻ろうと急ぐダーリング夫妻は、物語自身の進行の都合のために、目的地に到達することが間に合わなくなる結末を一方的に選ばれてしまうことになる。現象世界の事物が意識の主体による観測効果に従って具現化するように、このお話は読者の期待を反映した作者の語りによって、その発展過程が定められてしまっていたのである。物語世界創出における意識の主体の及ぼす相互作用を自覚するこの感覚は、映画Peter Panにおいても観客の願望とナレーションの相互作用を擬装して踏襲されているのである。映画のナレーションの声は、原作の語り手が用いていたのと同じ台詞を用いて述べる。

It would be delightful to report that they reached the nursery in time. But then there would be no story.

両親が子供部屋に戻るのが間に合ったということになれば、なんと素 敵なことでしょう。でもそれでは、お話が先に進みません。

こうして両親と我が家を見捨て、空を飛んでネヴァランドへと向かう途上の子供達の姿は、原作と同様にジョンが身勝手なピーターにすっかり自分の存在を忘れ去られて当惑する場面ばかりでなく、常に新鮮な新しい遊びを思いつくピーターだけの楽しみを共有させてもらうことができる、愉快な場面を新たに付け加えられてもいる。

Who are you?/I'm John./John. … Take hold of this. Both hands. Pass it on.

君はだれだっけ?/ジョンだけど。/ジョン…、この足に掴まれ。両 手で。みんな一緒に。

こんな風に愉快な空の旅をつづけながら、なんとか待ち望んだ夢の国ネヴァランドの近くまでやって来て、そこで初めてキャプテン・フックの海賊船を目にしたウェンディは、即座にその舟の性能に関する具体的な知識を口にし、さらに乗組員達の一人一人の詳細情報を言い当てる。原作Peter and Wendyでピーターの存在がそうであると語られていたように、ネヴァランドに出没する海賊達も、実はウェンディの心の奥底に最初からあった心象風景に他ならないのである。ここでもウェンディは、この映画Peter Panの冒頭にあった弟達にお話をするシーンを踏襲して、原作のウェンディが持ち合わせていなかった凶悪な海賊の世界に関する専門的知識を披露しているのである。

Forty gunner. She must do 12 knots under full sail. Noodler, with his hands on backwards! Bill Jukes! Every inch of him tattooed.

大砲40門搭載の海賊船ね。追い風なら12ノットは出せる。ヌード ラーだわ、両手が逆向きに付いてるの。あれはビル・ジュークス、体中入れ墨だらけ。

映画Peter Panは、ヌードラーの異様な姿を、映像記述を省いて具体的に、しかしさりげなく瞬間的なカットを用いて示している。そしてウェンディの弟のジョンとマイケルも、ネヴァランドの詳細に対する把握と理解の程は、ウェンディの有するものと全く変わりのないものである。彼等も一目で伝説の海賊フックの姿を同定している。

Hook!/Let's take a closer look. 

フックだ!/もっと近寄ってみよう。

 抗争相手の子供達の接近を感じ取ったフックは、早速臨戦態勢に突入する。フックはピーターに敵対する邪悪な仇敵であると共に、冒険と争い事を心から愛する子供達の粗野な願望を具現化してくれる、理想の姿をした悪党でもある。だからフックの対応は、容赦ない。

Fetch Long Tom. Fire!

ロング・トムを出せ。発射!

映画Peter Panでは、これに続くピーターの反撃を描く場面として、映像表現を活用して速やかなアクションの進行が図られていたが、原作Peter and Wendyではネヴァランドという世界そのものを対象にして、ピーターの住まう故郷であるというこの不可思議な領域が、正しく子供達が共有する精神内部の異次元空間であることが、作者のナレーションを用いて印象的に語られていたのであった。

Strange to say, they all recognised it at once, and until fear fell upon them they hailed it, not as something long dreamt of and seen at last, but as a familiar friend to whom they were returning home for the holidays.

p. 45

 おかしなことだけど、子供達はみんな一目でそれが分かりました。 そして恐怖の念が彼らを包むまでは、彼らは歓声をあげて島を受け入 れたのでした。長い間夢に見続けてきてようやく目にすることが出来 たものなんかではなく、お休みの間に戻って来て出会う親しい友達であるかのように。


映画Peter Panでは、先ほどの海賊船を視認した際にウェンディの語っていた台詞が、より具体的な形をとって原作のナレーションの一部を浸食していることが分かる。フックの容赦のない攻撃を凌いでなんとか無事にネヴァランドにたどり着くウェンディだが、原作にあった通りの進行で、ティンカー・ベルにそそのかされたロストボーイズ達は、弓と矢でウェンディを射落としてしまう。その様を描く映画Peter Panの記述は、原作Peter and Wendyの主題を占めていた、子供達の決して他を思いやることのない身勝手さと、彼等の偽らざる本性である残忍さを、別の角度から見事に暴き立てる結果となっている。

I got it./I got it./That is no bird./It is a lady./And Tootles … Tootles has killed her.

僕が当てたぞ。/いや、僕だね。/これは鳥なんかじゃない。/これ は女の子だ。/やったのはトゥートルズだ!

人の手柄を認めようとせず闇雲に自分の権利を主張し、さらに失敗を犯した仲間を躊躇いなく見捨てて容赦なく告発する姿に、子供本来の“heartless”な心性が端的に窺われるが、そこに姿をあらわしたピーターも、人の胸の裡を顧慮することを知らずいつも自分のことしか頭にない身勝手な本質は、彼等と全く変わることがないものである。そればかりでなくピーターの喜びは、情けを知らぬ残虐と容赦のない殺戮の中にこそある。

I'm back! Great news! I know what happened to Cinderella. She defeated the pirates. There was stabbing, slicing, torturing, bleeding… and they lived happily ever after.

帰ってきたぞ!いい知らせだ!あれからシンデレラがどうなったか、 分かったんだ。シンデレラは海賊達をやっつけた。突き刺したり、切 り裂いたり、拷問も流血もあるぞ……そして彼等は幸せに暮らしまし た。

この場面で語られたピーターの凄惨な嗜好を暴露する台詞は、明らかに原作にはなかったものだが、原型的仮構“ピーター・パン”のお話の世界の中では当然あって然るべき、いかにも冒険と戦いが好きなピーターの口にするのにふさわしい台詞ではある。そしてまた、これに正確に対応する子供達の心の裡の残虐性と非情さを語る記述の実例は、原作Peter and Wendyのあちこちにおいて指摘することができたのであった。映画Peter Panにおいては、冒頭でウェンディ自身がこの傾向を積極的に推進する役割を果たしていたのである。
 しかしこの物語の基調となる、子供達の本性に迎合した残酷趣味を物語る最も印象的な箇所と思われるものは、原作Peter and Wendyに採用されたピーターの仇敵キャプテン・フックが最期を迎える際の、彼の自暴自棄の戦いぶりを描写する記述である。それはピーターあるいはフック自身の冷酷非道さを語る以上に、この物語そのものの主題的基調音として、読者に全面的に容認された残虐趣味が導入されていることを明示しているからである。原作Peter and Wendy においては、手下の全てを失いたった一人になってもなお勇猛に戦いを続けるフックの姿の描写は、以下のような凄まじいものだったのである。

I think all were gone when a group of savage boys surrounded Hook, who seemed to have a charmed life, as he kept them at bay in that circle of fire. They had done for his dogs, but this man alone seemed to be a match for them all. Again and again they closed upon him, and again and again he hewed a clear space. He had lifted up one boy with his hook, and was using him as a buckler, when another, who had just passed his sword through Mullins, sprang into the fray.

p. 132

残虐な子供達の一隊がフックを取り囲んだ時、手下達の全てが既に倒 されていたと思われる。しかし、燃え盛る炎のように激しい攻撃にさ らされてこれに抗うことのできるフックには、魔法の力でもかかって いるようだった。子供達は、他の海賊達は片付けることができたもの の、この男だけは一人で彼等全員を相手にすることができていた。幾 度となく子供達はフックに攻め寄ったが、その度毎にフックは包囲を 切り抜けてみせた。フックは、子供の一人を鉤爪に引っ掛けて持ち上 げ、あたかも盾のように用いていた。その時、もう一人の少年がムリ ンズの体を剣で貫くと、この乱闘の中に飛び込んできた。

これはとても映像を用いて忠実にその有様を語ることなどできそうにない凄惨極まりない場面だが、フックの鉤爪にかけられて振り回されているこの少年は、ひょっとして嬉々としてこの残酷な処遇を楽しんでいたのかもしれない。道理を無視した身勝手な夢想の世界が具現化したのが、現実世界の一切の束縛を解き放たれた夢想世界のネヴァランドであったからである。そこでは殺すことも殺されることも、子供達の大好きな“ごっこ遊び”(make-believe)以外の何物でもない。

 映画Peter Panでこの後に続けられる子供達の会話も、“ハートレス”という言葉を用いて作者に語られていた、ピーターに代表される子供特有の身勝手な心性を見事に示している。

Well, that's a relief, I must say./Great news. I have brought you she that told of Cinderella. She is to tell us stories! /She is… Dead./Tragic./Awful./Good shot, though. /Whose arrow? /Mine, Peter. Strike, Peter. Strike true.

それは本当に良かった。安心したよ。/もっといい知らせだ。シンデ レラのお話をする娘を連れて来たぞ。僕らにお話をしてくれるぞ!/ その娘は、死んじゃった。/残念なことだ。/悲しいね。/でも、よ く当てたよ。/これは誰の矢だ?/僕のだ。ピーター、ぶっすりやってくれ。

他人事のように失態を犯した仲間を見捨て、巧みに周囲の空気を読んでそしらぬ顔で相槌を打って空とぼける少年たちと、ただ一人非を認めて白状する愚直なトゥートルズの姿が対照的である。原作者バリは執拗に、子供達の冷酷で思いやりの気持ちを持たないあるがままの本性を語り続けていたのであった。 映画Peter Panでは、原作Peter and Wendyで語られる機会を得ることがなかったその子供達の本性を示すいくつもの特徴的な記述が、活き活きとした台詞を通して具現化されているのである。

 ここでピーターは、まだウェンディに息があることに気づく。

The Wendy lives! It's my kiss. My kiss saved her./I remember kisses. /Let me see it. Aye, that is a kiss. A powerful thing.

ウェンディは生きている。これは僕のキスだ。これのおかげで助かっ たんだ。/キスかい、それなら知ってるよ。…どれどれ。そうだね、キスだ。強力なやつだぜ。

分かりもしないくせに知ったかぶりをしてもっともらしい口を効きたがるのは、大人の忘れた子供達特有の行動様式である。子供の精神を擬装して彼等と共にメイクビリーブの世界を楽しみながら、同時にそのあるがままの粗暴な姿を醒めた目で辛辣に批判しつつ瞥見する視点が、原作Peter and Wendyが完成した特有の仮構記述様式であったが、映画Peter Panは見事にこの仮構的同一性を映像作品として的確に変換させながら踏襲することになっている。その結果が、原作にもあり得たであろうが現象的事実として確定することのなかった様々の可能的台詞/動作として具現化しているのである。

She must stay here and die./No!/How could I have thought that? Stupid. Sorry./We shall build a house around her./Yeah!/ Brilliant!/With a chimney! And a door knocker!/Perfect./With windows./Windows!/Something to look out of. /Did you hear that?/He is a genius!

このまま死ぬしかないね。/それは駄目だ!/馬鹿なこと言っちゃっ た。ドジだね。ごめん。/この娘の周りに家を建てるんだ。/いいぞ! /すごいや。/煙突もつけて、ドアノッカーも!/完璧だ。/窓もだ。 /窓って。/そこから外を見るのさ。/聞いたか?/本当にピーターは天才だ!

原型的仮構“ピーター・パン”の中にはきっとあった筈の、しかし様々の事情で劇Peter Panにも小説Peter and Wendyにも現象的実体の形を取って語られる機会が得られなかった紛れも無い真正の“ピーター・パン”の世界が、二次創作作品の中に別の経路をたどって発現の機会を得ていくことができるのである。

 子供達は、固唾をのんでウェンディが自分たちが建てた家の中で目を醒ますのを待ち受ける。女の子の来訪は、彼等が経験する始めての冒険なのである。しかし緊張するロストボーイズ達の中で、ピーターだけは思いつきで語った言葉が的を外すことなく妥当なものとして許容される特権を与えられている。

First impressions are very, very important. Here she is! Look loveable. Wendy lady… for you we built this house. With a door knocker. And a chimney. One, two, three. Please be our mother.

第一印象が大事だぞ。出て来たぞ!笑顔で迎えろ。ウェンディお嬢さ ん、この家はあなたのために建てました。ドアノッカーもついてます。 煙突もあります。そ〜れ。僕たちのお母さんになって下さい。

 ピーターがここで用いた、彼にとってはちょっと難しい言葉である“第一印象”という言葉は、原作では語り手による以下のような捕捉的な記述を用いて導入されていたものである。

"All look your best," Peter warned them; "first impressions are awfully important."He was glad no one asked him what first impressions are; they were all too busy looking their best.

p. 69

 「全員、最高の表情をするんだぞ。」ピーターがきつく言いました。「何と言っても、第一印象が大事だからな。」ピーターは、誰も第一印象というものがどんなものなのか尋ねなかったので、安心しました。みんな、自分の最高の表情をするので手一杯だったのです。

ここにさりげなく暗示されていたように、ピーターだけに許される希有な特権とピーターだけが除外されているあまりにも平凡な一般人の享受する喜びの念の不可思議な対照は、原作Peter and Wendyの重要な哲学的主題であったが、この神的位相と人的位相の乖離は、映画Peter Panにおいても入念な対応関係を構築しながら変換記述がなされているのである。

 心に思い描いていた理想の家の中で目を醒まして、そこに現れたロストボーイズ達に自分たちのお母さんになって欲しいといきなり頼まれたウェンディは、「経験も無いし。」とためらいの表情を見せる。こんな時、一人だけいつも自信たっぷりなのがピーターである。原作Peter and Wendyではその様は以下のように記述されていた。

“That doesn't matter", said Peter, as if he were the only present person who knew all about it, though he was really the one who knew least.

p. 70


 「それは問題じゃないんだ。」ピーターは今ここにいる人の中で、な にもかもわきまえているのは自分だけだというような口ぶりで言いま した。でも本当は、一番分かってないのはピーターだったのです。

ピーター・パンというキャラクターの保持する際立った特質として、このような二律背反した無知と知恵、絶大な能力と致命的な欠陥の重ね合わせを挙げることができるのである。(17) 地下の家にウェンディを連れて来たピーターは、早速いつもの通りに子供達のお父さんの役を演じ始める。ピーターの頭の中にある典型的なお父さんの取るべき行動は、ウェンディを迎えた直後に彼が語り始めた次の台詞によく表れている。

Welcome, Mother. Discipline. That's what fathers believe in. We must spunk the children immediately… before they try to kill you again. In fact, we should kill them.

 いらっしゃい、お母さん。さあ躾だ。お父さんがしなくちゃいけな いのは、これだ。子供達に罰を与えるんだ。こっちが殺される前にね。つまり、先に殺してやるんだ。

これもまた、原作Peter and Wendyにはなかったが、いかにもこの少年の口にしそうなぴったりの台詞である。ピーター・パンのお話にも、ピーター・パン自身にも、現象世界に仮構記述として具現化し得なかった様々な細目事項が潜んでいる。これらが改めて具現化の機会を与えられるのが、二次創作作品という次元軸を違えた領域なのである。



(1)

シェイクスピアの同時代人トマス・キッドの書いた復讐劇に、類似した内容の『スペインの悲劇』がある。『ハムレット』にはこの作品の影響があると言われている。また12世紀のサクソ・グラマティクス編纂による『デンマーク人の事績』(Gesta Danorum)には、既にハムレットのモデルと思われるアムレート(Amleth)の記載がある。

(2)

語りの機構が及ぼすメタフィクション操作の暗示する宇宙論的な思弁についての考察は、Peter and Wendy のアンチファンタシー的位相について論じた筆者の『アンチファンタシーというファンタシー』(近代文藝社、2005年)に所収の「おしゃべりな語り手と擬装―アンチ・ファンタシーにおけるディコンストラクション」を参照されたい。

(3)

DVDパッケージには、Directed by P. J. Hogan, Screenplay by P. J. Hogan and Michael Goldenberg, based upon the original stage play and books written by J. M. Barrieとの記載がある。

(4)

Peter Pan と類縁的関係にあると思われる映画作品としては他にHook(1991)、Finding Neverland (2004)等がある。また映画 Labyrinth(1986)は、『不思議の国のアリス』を下敷きにした二次創作作品として捉えると非常に興味深い考察例を提供する、同位体的相当性を色濃く保持した関連作品となっている。

(5)

アインシュタインの相対性理論に及ぼした先行する科学者/哲学者達の影響とファンタシーに代表される仮構記述の思弁的問題性については、筆者の『アンチファンタシーというファンタシー2 最後のユニコーン論』(牧歌舎、2009年)に所収の「量子論理とパラドクスと不可能世界─アクチュアリズムとアンチ・ファンタシー」を参照されたい。

(6)

Peter and Wendyに関する量子論理的世界解式と心霊的存在記述についての考察は、筆者の『アンチファンタシーというファンタシー』(近代文藝社、2005年)において様々の角度から行われている。

(7)

映画Peter Pan からの台詞の引用は、ソニー・ピクチャーズエンタテインメントのDVD『ピーターパン』(2009年)を出典として用いる。

(8)

原作でもネヴァランドが子供達の精神内部に属する心象世界として、子供達の既知の記憶と意味論的に等質のものであることがあちこちで暗示されていた。そのことを示しているのが、ダーリング家の子供達がピーターに連れられて初めてネヴァランドを訪れた際の記述である。

Strange to say, they all recognised it at once, and until fear fell upon them they hailed it, not as something long dreamt of and seen at last, but as a familiar friend to whom they were returning home for the holidays.

おかしなことだけど、子供達はみんな一目でそれが分かりました。そして恐怖の念が 彼らを包むまでは、彼等は歓声をあげて島を受け入れたのでした。長い間夢に見続け てきてようやく目にすることが出来たものなんかではなく、お休みの間に戻って来て 出会う親しい友達であるかのように。

しかし映画版におけるネヴァランドと海賊達の記述は、登場人物であるウェンディ自身の語る言葉として提示されており、ウェンディの存在はこの世界を記述する語り手としての役割をクローズアップされているのである。

(9)

原作Peter and Wendy のテキストとしては、筆者が注釈を施した『Annotated Peter and Wendy』(近代文藝社、2006年)を用いる。以降の原作テキストからの引用箇所は本書のページ番号にて参照することとする。

(10)

原作には登場していたが映画においては割愛されていた人物に、ダーリング家の子守り娘のLizaがいる。ライザとミリセント伯母さんの交換記述として映画Peter Panの座標軸変換を捉える解式も可能であろう。

(11)

原作Peter and Wendyの潜行した真の主題は、裏の主人公フックと彼の分身であるピーターとの間の不毛な相克であった。映画版Peter Panはさらに次元軸を転回させて、ウェンディを中心として彼等の抗争を瞥見するヴァージョンを形成しているのである。

(12)

『ピーターとウェンディ』の裏の主人公キャプテン・フックと彼の選んだ海賊という生業の意義性については、『アンチファンタシーというファンタシー』、近代文芸社(2005)に所収の「グッドフォームと内省――キャプテン・フックの憂鬱」を参照されたい。

(13)

この指摘が、筆者のPeter and Wendyを中心としてファンタシー文学の特質を考察した研究書である『アンチファンタシーというファンタシー』の中心主題となっている。

(14)

ピーターの体現するこの二律背反的特性は、『アンチファンタシーというファンタシー』に所収の「ピーターの無知と不思議な智慧」において指摘されている。

(15)

アインシュタインの発表した相対性理論の提示した従来の科学思想の規範 を覆す新規の発想か与えた影響とPeter and Wendy が反映すると思われる 形而上的特質については、『アンチファンタシーというファンタシー』に所 収の「キスと謎々」を参照されたい。

(16)

ピーターという存在自体が論理矛盾を通して非在性を暗示する記号として Peter and Wendy という仮構的公理系において機能していたのであった。

(17)

アンチファンタシーというファンタシー』に所収の「ピーターの無知と不思議な知恵」において、具体的な事例の指摘と共に人格/神格解釈に関する哲学的意義性の考察がなされている。

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