フックと言えばピーターにその名を告げられただけで、ダーリング家の子供達が震え上がる程の人物であった。(pp. 68-9)とすると、彼もまたピーターと同じく、知識として教えられることもなくいつのまにか自然にその存在が記憶の中に受け入れられてしまっている、子供達の心の基底をなしている集合的無意識のような存在なのだろうか。凶悪な海賊の代名詞であるかのようなフックの描かれ方を見てみればどうもそのようでもある。けれども実はそれ以上の深い事情を背負っているのがこのフックという登場人物だ。実は筆者は、ピーターよりもむしろフックの方が、この物語の本当の主人公なのではないかという疑いを持っている。本章ではこの仮説に従って、『ピーターとウェンディ』の裏の主人公フックの体現する巧みに隠された謎についての論考が行われていくことになる。
フック主人公説の証拠の一つとしてあげられる事実は、フックが実際に物語に登場する際には、彼に関する描写はピーターよりも余程念入りになされているということだ。
In person he was cadaverous and blackavised and his hair was dressed in long curls, which at a little distance looked like black candles, and gave a singular threatening expression to his handsome countenance. His eyes were of the blue of the forget-me-not, and of a profound melancholoy,[傍線筆者] save when he was plunging his hook into you, at which time two red spots appeared in them and lit them up horribly. In manner, something of the grand seigneur still clung to him, so that he even ripped you up with an air, and I have been told that he was a raconteur of repute. [傍線筆者]
p. 80
フックの顔は死人のようにやつれて浅黒く、その髪は長い巻き毛になっていて、少し離れてみると黒いろうそくのようにみえて、彼の整った顔つきに特別の恐ろしげな雰囲気を漂わせていました。フックの目は忘れな草のような淡い青色で、深い憂鬱を湛えていました。そして君の体にあの鉤爪を突きたてる時だけは赤い二つの光がその両目にあらわれ、ぞっとするような表情をみせるのでした。フックの仕種にはどこか血筋正しいお殿様を思わせるようなおごそかさがあって、人の体を切り裂く時でさえ、優雅な身のこなしに思えるのでした。そして私の耳にしたところですと、フックは面白い話をするのが上手だという評判だそうです。
不気味な容貌のようでもありながら、なおかつ端麗な顔だちを備えたフックは、忘れな草の花のような色の、ロマンティックな目に憂鬱な表情を浮かべている。この「憂鬱」という問題こそフックという人物の本質を語るものであり、同時にピ−タ−という存在の秘密を探る糸口でもある筈なのだ。これは本章の後半で焦点を当てて考察されることになる『ピーターとウェンディ』の最大のテーマなのである。
さらにフックは名の知れたお話の語り手であるという。このあたりがピーターとは対照的なところだ。ピーターといえばお話をしてくれるどころか、ウェンディ達にお話をしてもらうばかりだったし、後にはウェンディの娘のジェインのそのまた娘のマーガレットに、自分自身の冒険のお話をしてもらって喜んでいる始末なのだ。そもそもピーターは物事を少しでも長く覚えていることが出来ない。それにひきかえ知識も教養もあるのがフックだ。フックに関する描写はまだ続く。
He was never more sinister than when he was most polite, which is probably the truest test of breeding[傍線筆者]; and the elegance of his diction, even when he was swearing, no less than the distinction of his demeanour, showed him one of a different caste from his crew.
pp. 80-81
フックは慇懃きわまりない態度を示す時ほど無気味な感じのすることはなくて、それこそおそらく彼の生まれの良さを示す最上の証拠でしょう。そしてフックの言葉遣いの優雅さときたら、悪態をついている時でさえどことなく気品があり、立ち居振る舞いの品の良さとともに彼が他の仲間達とは生まれの違う存在であることを示していました。
粗野で不躾なピーターとは大違いで、フックは血筋も良く、礼儀作法もわきまえている。ピーターはジョンやマイケルにお父さんの振りをする仕方を教えてもらわなければならなかったけれど、フックの場合は罵る言葉にさえ優雅さが感じられるという。何よりも慇懃無礼さの裡に透かして見られる不気味さなどというものは、そこらの成り上がり貴族の真似出来るような代物ではない。彼は怪物的な程の高潔さの持ち主なのだ。
A man of indomitable courage, it was said of him that the only thing he shyed at was the sight of his own blood which was thick and of unusual colour.[傍線筆者] In dress he sometimes aped the attire associated with the name of Charles II, having heard it said in some earlier period of his career that he bore a strange resemblance to the ill-fated Stuarts; and in his mouth he had a holder of his own contrivance which enabled him to smoke two cigars at once. But undoubtedly the grimmest part of him was his iron claw.
p. 81
フックは不屈の勇気の持ち主でした。フックを怯ませる唯一のものはフック自身の血だけで、それは普通の血の色とは違ったとても濃い色をしていたということでした。装いにはフックは時折チャ−ルズ2世の名を思い起こさせるものを選ぶことがあり、それは以前にフックの容貌が不運なスチュアート家の人々を彷彿とさせるものがあるという意見を聞いたことがあったからでした。そしてフックの口には特別に考案した、一度に二本の葉巻をふかすことができるパイプがくわえられているのでした。けれどもフックの一番恐ろしげなところといえば、それは疑いなく彼の腕に付いている鉄の鉤爪でした。
フックを唯一怯ませるものは自分自身の血の色で、それはとても濃い、珍しい色であるという。どんな色なのかははっきりと語られていないけれど、由緒正しい家柄の貴族の血筋のことをブルー・ブラッドと呼ぶことを考えてみれば、フックの血の色の場合はそれを上回るような人並み外れたものであることが暗示されている。さらにキャラクターの印象を決定づける小道具として、ピーターの「枯れ葉と木の樹液を纏った」と描かれている特徴的な服や、彼が連れているティンカー・ベルの与える印象にいささかも劣ることの無いように、その名の通りの鉤爪(フック)を右腕に装着し、口には二本の葉巻を同時にふかすことが出来るパイプ迄与えられているのがフックだ。アン・ラドクリフに代表されるゴシック・ロマンスの作家達が描いたおどろおどろしい悪漢小説においても、主人公よりもむしろ格好いいのが仇役の筈の悪漢達であったが、フックの場合は物語のテーマを決定する上でそれ以上の欠かすことのできない存在意義を与えられている重要な登場人物なのだ。何しろ作者のフックに対する態度といったら、破格の扱いだ。フックについて描写する際は、作者はしばしば持って回った、凝った文体で語りを進める。フックが登場する時はいつでも厳かな背景音楽が流れているかのようだ。そして作者は、いつものフックのやり方を読者に紹介するために、仲間の海賊の一人を殺してみせさえするのだ。フックに関する描写はこのあと次のように続いている。
Let us now kill a pirate, to show Hook's method. Skylights will do. As they pass, Skylights lurches clumsily against him, ruffling his lace coller; the hook shoots forth, there is a tearing sound and one screech, then the body is kicked aside, and the pirates pass on. He has not even taken the cigars from his mouth.
p. 81
フックのいつものやり方を見てみるために、一人海賊を殺してみることにしましょう。スカイライトがいいでしょう。歩いていく途中で、スカイライトはうっかりフックに体をぶつけて、フックのレースの襟を乱してしまいます。すかさず鉤爪が踊り出ます。皮膚の裂ける音と悲鳴が一つ、それから死体がころがされて、海賊達は過ぎ去ります。フックは口からパイプをはなしてさえいませんでした。
フックは残酷だ。非情な冷酷さはその属性の持ち主に尊厳と華麗さを与えてくれる。海賊達は眠っている時でさえ、フックが通りすがりに機械的に彼等を鉤にかけてしまうことのないように、あちらこちらと体を転がすのが常だ。(p. 202)作品世界の中で全面的に承認された残忍さは美学の最高の判定基準となる。フックは格好いいのだ。何よりもフックの際立った格好よさは、かれの生まれと育ちのよさから来ている。例えば地下の隠れ家から子供達を引きずり出した時も、フックは女性であるウェンディに対しては恭しく礼儀作法にかなった態度をもって接する。帽子をあげて手を差し延べる仕種だけでも、思わずウェンディが心を奪われてしまう程の優雅さなのだ。
With ironical politeness Hook raised his hat to her, and, offering her his arm, escorted to the spot where the others were being gagged. He did it with such an air, he was so frightfully distingu, that she was too fascinated to cry out.
pp. 185-6
人を小馬鹿にしたような慇懃さでもってフックはウェンディに帽子の縁をあげてみせました。そして腕を差し延べて他の子供達がさるぐつわをかまされているところまでウェンディを案内しました。それがとっても優雅な身のこなしで、びくっとするほど気品のあるものでしたので、ウェンディは心を奪われて悲鳴をあげるのを忘れるほどでした。
ピーターは無知のあまりウェンディにも、手下の子供達にもあきれられてしまうことが度々あったけれど、フックには自然と滲み出してくるような尊厳がある。フックが一人よがりで勝手に気取った仕種を演じている訳ではない。作者は実際にフックの高貴な素性については、確かな情報を持っているようなのだ。
Hook was not his true name. To reveal who he really was would even at this date set the country in a blaze; but as those who read between the lines must already have guessed, he had been at a famous public school;...
p. 203
フックというのは彼の本当の名前ではありません。彼の正体を明かすことは、今になってさえも世の中を大変にさわがすことになるでしょう。けれど行間を読んで下さる読者ならもうお気づきのはずのように、彼は有名なパブリック・スクールの出身なのでした。
フックは英国の有名なパブリック・スクール出身のエリートなのだ。作者は訳あってその正体をあかすことは出来ないらしいが、彼がかつては立派な現実社会の人間であったことは紛れもない事実のようだ。問題はそんな彼がどうして今は海賊となっているかだ。身をやつして海賊に成り下がったのでは決してないことが察せられる。むしろ海賊という稼業を選んだところにこそ彼の出自の正しさを窺い知ることが出来る筈なのだ。何故ならば一所懸命努力して地位や財産を勝ち取るなんてはしたない行為は、彼の生まれと育ちが許さないからだ。彼がただの俗物であったなら、きっと大学教授や大臣なんかになって満足していたことだろう。しかし彼は自分の社会的地位や成功なんかに満足を味わうことが出来るような野卑な男ではない。フックは感性の人であり、その本質は芸術家である。彼は花を愛するし、音楽を好み、ハープ・シコードの腕前はなかなかのものであるという。(1)このような芸術家的感性が卑俗な現実社会に反発を試みずにはいられない反省的自意識を呼び起こし、彼を海賊稼業へと駆り立ててしまったのだ。海賊とは美学に生を捧げた審美主義者のたどり着いた最後の姿である。(2)
フックはその海賊の世界においてもうすでに名を遂げ、一流の地位を築いている。バーベキュー船長や黒髭船長という伝説上の存在との関わりを通して、フック自身がまががしくも魅力的な伝説となってしまっているのだ。フックは現実の世界から架空の世界の伝説的存在へと見事に転身を遂げたのである。だからこそフックはピーターのネヴァランドを媒介として、子供達の無意識の記憶の片隅に当然のごとくその住処を獲得することが出来ていた訳なのだ。大人達の牛耳る現実世界での陳腐な世俗的成功と比べて、彼の果たした功績には眩いものがある。ところが今、ピーターに毒をもって倒すことに成功し、長年の抗争に片をつけ、ピーターの手下の子供達を全員捕虜にして船にさらってきて、いまから処刑を行おうとする際の、バーベキューを服従させたおり以来の得意の絶頂にある筈のフックの様子はこのように描かれている。
"Fame, fame, that glittering bauble, it is mine!" he cried. "Is it quite good form to be distinguished at anything?"[傍線筆者] the tap-tap from his school replied. "I am the only man whom Barbecue feared," he urged, "and Flint himself feared Barbecue. "Barbecue, Flint what house?" came the cutting retort. Most disquieting reflection[傍線筆者] of all, was it not bad form to think about good form?
p. 204
「名声、名声、輝かしくも愚かしいもの、それは今私のものだ。」フックは叫びました。「何かに際立って優れているということは、たしなみの良いことといえるだろうか?」学生時代からの心の中の声が答えました。
「私はバーベキューが恐れた唯一の人間だった。」フックは問い返しました。「そしてフリントさえもがバーベキューのことを恐れていた。」
「バーベキューにフリント、…どの学寮の出身だったろう?」鋭い反論が帰ってきました。
何よりもフックの心を不安にしたのは、たしなみの良さ(グッド・フォ−ム)について考えをおよぼすことはたしなみの良いことだろうか、という内省でした。
「何かをなし遂げたということは本当にたしなみの良いことだと言えるだろうか?」このように自己に問いたださなければならないのは、名誉と共に生まれ育ったものの背負う宿命的義務ーブレス・オブリージュ(noblesse oblige)をフックが感じているからだ。彼は常に自分自身を気高い所から厳しく見つめる内省の心(reflection)を失うことがない。絶対権力者である海賊の首領として思うがままに振る舞いながら、フックにはいつも己の権力の上に安住することの出来ない醒めた自覚がある。「たしなみの良さについて考えるなんてのはたしなみの良くないことではなかろうか?」正確な自己認識を客観的判断として常にうながす理性と、潔癖なまでの倫理観との軋轢が強いるこのパラドクスはフックの心を苦しめる。そしてふと思うのは、「小さな子供達は誰も自分を愛してくれない」ということだ。フックは彼にとっては取るに足らない手下である筈のスミーと自分とを比べてみる。スミーはといえば、子供達が自分のことを怖がっていると一人勝手に思い込んで、呑気にミシンで縫い物なんかしているのだ。スミーは子供達に対して怖いことも言ったし、手のひらで子供達を打ったこともあった。でもそれは拳で殴ることができなかったせいだ。スミーが子供達を怖がらせようとする分だけ余計に子供達はスミーの方に擦り寄ってくるし、マイケルはスミーの眼鏡をかけてみたことさえあった。子供達に慕われる愛すべきスミーは、どうしてこんなに好かれるのだろう。フックは執拗にこの問題について考える。
...he revolved this mystery in his mind; why do they find Smee lovable? He pursued the problem like the sleuth-hound that he was. If Smee was lovable, what was it that made him so? A terrible answer suddenly presented itself: "Good form?" Had the bo’sun good form without knowing it, which is the best form of all?
pp. 205-6
…フックはこの謎について心の中で考えをめぐらしてみました。どうして子供達はスミーに親しみを感じてしまうのだろう?フックはこの問題を彼本来の性分の探偵のように問い詰めていきました。もしもスミーに親しみを感じさせるものがあるのなら、何が彼にそうさせるのだろう?恐ろしい答えが突然現れてきました。「グッド・フォーム」だろうか?もしもスミ−がそうと知ることなくグッド・フォ−ムを持っていたとしたなら、それこそ最高のグッド・フォームではないだろうか?
フックの行動を律する絶対的規範はこのグッド・フォームなのであるが、グッド・フォームとは自覚して行おうとすればその途端に虚栄と化し、眼前から失われてしまう実にやっかいなものだ。成り上がり者根性を軽蔑するフックにとっては、自身の高潔さの尺度となるのがグッド・フォームに関する反省であるが、グッド・フォームという概念はフェア・プレイなんていう身勝手な幻想を突き抜けたところに峻厳として展開される。正しい客観的状況把握を強いる知性の高潔さと自分の優越性を意識してしまわなければならない理性の卑俗さの間には、論理の力ではどうしても埋めることの出来ない溝がある。こうした知識と徳との乖離に関するディレンマは、フックが近代的科学思想をしっかりと身につけた教養人であることの証明だ。これは近代において西洋人が経験することになった、倫理と理性のせめぎ合いがもたらしたあまりにも手強いパラドクスなのである。自然に帰ることの意義を意識した途端、自然は手に入れるべき目標として外界に認識される異物となってしまった。近代的自意識は神を殺して自我の独立を果たした結果、世界と一体となることの出来る神のごとき無我の安寧を手放し、くつがえされた神の台座の下に世界の除け者である影のような自分自身を見つけ出してしまった訳だ。こんな意識の迷路の外側で頓着無しに生きていられるのがスミーのグッド・フォームの正体だ。
There was little sound, and none agreeable save the whir of the ship’s sewing machine at which Smee sat, ever industrious and obliging, the essence of the commonplace, [傍線筆者] pathetic Smee. I Know not why he was so infinitely pathetic, unless it were because he was so pathetically unaware of it; but even strong men had to turn hastily from looking at him, and more than once on summer evenings he had touched the fount of Hook’s tears and made it flow.
pp. 201-2
スミーが動かしている船のミシンの立てる心地よい音の他には、ほとんど音はしませんでした。勤勉で気のいい、平凡さを絵に描いたような、哀感あふれるスミー。私にはどうして彼がこれほどまでに哀感あふれるのやら、それが彼が哀感あふれるほどそのことに気づいていないためであるという以外、考えられないのです。でも強い男達でさえ急いで彼のほうから目をそらさなければなりませんでした。そして夏の夜には一度ならずスミーはフックの心を揺さぶり、フックの目に涙を流させたのでした。
際立って優れたフックとは対照的に、平凡を絵に描いたようなのがスミーなのだが、そのスミーをみてフックは「哀感あふれる」と感じてしまう。しかし本当に感性豊かなのはスミーではない。彼の姿を見て思い余って涙を流してしまうのはフックの方だ。さらにここでは、感極まる程に自分の体現する哀感に対して無頓着であるスミーの本性を痛ましい程に感じ取るフックの気持ちを代弁して、「彼はどうしてこんなにも哀感あふれているのだろう…」と作者の声が語っている。無慈悲で心ないピーターに代表される子供達に対して、作者の共感は明らかにフックの方にある。疎外の生を送る我々の心を代表して作者はフックの心を覗き込む。
...and knowing as we do how vain a tabernacle is man, could we be surprised had he now paced the deck unsteadily, bellied out by the wind of his success? But there was no elation in his gait, which kept pace with the action of his sombre mind, Hook was profoundly dejected.[傍線筆者]
pp. 202-3
…そして人間という存在がいかにはかないものでしかないかを知っていれば、フックが今自分の成功に酔いしれて足取りもあやしく甲板の上を歩いていても、何も驚くにはあたりません。けれどもフックの足つきには心の高揚の跡形も見受けられませんでした。フックの暗い心が足つきにも現れていました。フックは深い憂鬱にとらわれていたのです。
フックは憂鬱なのだ。彼のものであった世俗的地位が彼を憂鬱にさせたし、彼の勝ち取った超世俗的成功が彼を憂鬱にさせたし、そんなことを反芻して思い悩む自分自身の姿が何よりも彼を憂鬱にさせるのだ。憂鬱とは内省を持った教養人の抱え込む致命的な病理なのである。(3) フックはパブリック・スクール時代に身にしみ込んだ「内省」という弱点をどうしようもなく抱え込んでいる。それは論理の命題の一つとして今なお彼の心の中に沈澱しているのだ。
He remembered that you have to prove you don't know you have it before you are eligible for pop.
彼はポップに選出される資格を得るためには、自分がその資格を持っていることを知らないことを証明しなければならないことを思い出しました。
「ポップ」とはイートン校の伝統ある社交・弁論クラブのことだ。クラブ員に選出されるためには、自分が被選出資格を持っていることを意識してはいないことを証明しなければならなかった。こんな形で自分の生を送る資格について思い悩まなければならないのがフックだ。何も知らないスミーを眺めているだけで、「知ること」に関わるパラドクスを胸の中に蒸し返さずにはいられないフックの心はこんなにも傷ついてしまうのだ。
This inscrutable [傍線筆者]man never felt more alone than when surrounded by his dogs. They were socially inferior to him.
p. 203
この測り知れない男は犬のような自分の手下共に囲まれている時ほど孤独を感じることはありませんでした。彼らは社会的にずっと身分の低いもの達だったのです。
手下を犬のように扱い絶対的権力を振るっているこの男は、自分の圧倒的優位さのためになおさら孤独となる。測り知れない(inscrutable)謎を秘めたフックが、存在に関わる不思議な謎を秘めたピーターの鏡面的存在であるとみなすこともできようが、むしろ視点を転換させて考えてみたいのだ。一見したところ華々しい主人公として現れるピーターというキャラクターの方こそ、本当はフックという我々の心にとって身近な、そして不可解な存在を照射するための道具として周到な計算の許に用意されていた秘密の鍵なのではなかっただろうか。思いに沈んで船上をさまようフックの有り様はこのように語られていたのであった。
Hook trod the deck in thought. O man unfathomable.[傍線筆者]
p. 202
フックは甲板の上を思いに沈んで歩いていきました。測り知れない男、フック。
フックが測り知れない(unfathomable)存在であるのは、言うまでもなく我々がフックであるからに相違ない。何処より来たり何処へとおもむくのか分からぬまま不可解な生を送り、論理では説明のつかない内奥の倫理観に揺さぶられ続ける自分自身が謎なのだ。このように自己というものを客観的な一人格として捉える視点を持ってしまった者には、常に素朴な生の喜びの替わりに苦々しい懐疑が与えられることになる。そういえば巧みな策略のもとにピカニニー族を滅ぼした時もフックは一人映えない顔つきであった。
Elation must have been in his heart, but his face did not reflect it: ever a dark and solitary enigma,[傍線筆者]he stood aloof from his followers in spirit as in substance.
p. 181
フックの心は高揚していたはずに違いありません。けれども彼の顔つきにはその片鱗さえもうかがうことができませんでした。いつも一人きりの不可解な謎を秘めた男、フックはその体と同様心も手下共とは別なところにあったのです。
ピーターにおいて暗示されていた謎(riddle)とはフックの体現するこの謎(enigma)の対立物として機能するものだったのである。この謎の部分でフックとピーターは深く関わり合っている。フックにとってピーターは許すべからざる自身の影なのだ。グッド・フォームという言葉を軸にしてピーターとフックのネヴァランドにおける最後の戦いは描かれているが、何よりもフックにとって不利なのは彼が教養を身につけた近代的自我の持ち主である点だ。その上フックは生まれもって品が良すぎる。だからフックはウェンディの視線を身に感じ、戦いの中で被った服装の乱れを痛切に恥じる。
Fine gentleman though he was, the intensity of his communings had soiled his ruff, and suddenly he knew that she was gazing at it.
p. 210
フックは立派な紳士ではありましたけれど、激しい争いのために襞襟が汚れてしまっていました。そしてフックは突然ウェンディがこの襞襟を見つめているのに気がつきました。
ピーターとの最後の決闘の際においても、フックが常に気にかけているのは、グッド・フォームのことだ。ピーターに受けた傷から流れだした自分の血の色に衝撃を受け、フックは手にしていた剣を思わず落としてしまう。フックは傷を負わされたことなどに怯えた訳では決してない。自分の血の色を見てフックが受ける打撃とは、フックの自意識の発露以外の何者でもない。
At sight of his own blood, whose peculiar colour, you remember, was offensive to him, the sword fell from Hook's hand, and he was at Peter’s mercy.
p. 227
自分の流した血の色を目にして、フックは思わず剣を手からとり落としました。ご存じのように、その独特の色は、フックには気にさわるものだったのです。フックはピーターのなすがままでした。
剣を無くして無防備なフックに対して、ピーターはこの絶好の機会を利用して攻撃の手を加えるどころか、寛大にも剣を拾いあげるようにうながす。しかしこの生意気な行為こそが、フックの傷ついた心に対してえぐるような致命傷を与えるものだ。フックは素早く剣を拾いあげながらも、敵であるピーターの方がグッド・フォームの体現者となっていることを痛切に感じざるを得ない。
Hook did so instantly, but with a tragic feeling that Peter was showing good form.
p. 227
フックはすぐさま剣を拾いあげました。けれどもピーターがグッド・フォームを見せつけているという悲痛な思いを感じていたのです。
ピーターはフックにとって積年の抗争の相手であり、並び立つことの許されない敵であった。この不可解な気に障る存在は彼にとって怪物のようなおぞましいものであったが、ここに至ってフックはもっと恐ろしい疑惑にかられてしまうのだ。
Hitherto he had thought it was some fiend fighting him, but darker suspicions assailed him now.
p. 227
これまではフックは自分と戦っているのはなにか怪物のようなものだと思っていました。けれど今はもっと恐ろしい疑惑がフックを襲い始めていたのです。
そしてフックは改めてピーターに「お前は何者なのだ!」と誰何する。ところがピーターが答えるのは例によって当てずっぽう以外の何者でもない。フックにはピーターを自分の影としてその名を呼んで自己同一性の回復を図る機会さえ失われてしまっている。(4) 生に対する望みを捨てたフックにとって、願うべきことはもうこの悪魔を滅ぼすことではない。フックの唯一の望みはピーターに「みっともない様」(bad form)を演じさせることだ。フックは船の火薬庫に火をはなつ。ピーターのあわてた様を見さえすれば目的はかなえられる。「あと二分で船は爆発するぞ!」フックは叫ぶ。
Now, now, he thought, true form will show.[傍線筆者]
p. 228
今だ、今こそ化けの皮がはがれるぞ、フックは思いました。
ところがピーターは両手に大砲の玉を持って火薬庫から現れ、何事もなさそうな顔で海に放り込んでしまう。(pp. 228-9)
What sort of form was Hook himself showing[傍線筆者] Misguided man though he was, we may be glad, without sympathising with him, that in the end he was true to the traditions of his race.
p. 229
フックは自分でどんな無様なところを見せてしまっていたのでしょう?道をあやまったものではありますけれど、最後にはフックは自分の血筋の者たちの伝統を汚すことはありませんでした。同情なんかではなく、私たちは喜んでいいことです。
誇りを踏みにじられ、権威を失墜し、いよいよ最期の時を迎えたフックに作者は言葉つきとは裏腹に共感的になっているようだ。フックにはもはや自分を嘲る子供達の姿も目に入らない。彼の心は純粋で汚れを知らないでいられた懐かしい学生時代に戻っている。
...his mind was no longer with them; it was slouching in the playing fields of long ago, or being sent up for good, or watching the wall-game from a famous wall. And his shoes were right, and his waistcoat was right, and his tie was right, and his socks were right.
p. 229
…フックの心はもはや彼らとは別のところにありました。フックの心は遠い昔の学校の運動場でくつろいでいました。あるいはこれっきりこの世からよそに行ってしまったか、名高い競技場でウォール・ゲームを見ていたのかもしれません。彼の靴も問題なく、彼のチョッキを問題なく、彼のネクタイも問題なく、彼のソックスも問題ありませんでした。
作者はフックに物語の悪役として演じるべき最後の場を与えてくれた。「生き延びる」という「無様」(bad form)を回避することが許され、「破滅する」という美学が恩寵として捧げられたのである。作者のフックに対する最後の言葉はこうだ。
James Hook, thou not wholly unheroic figure[傍線筆者], farewell.
p. 229
ジェイムズ・フック、全く英雄的でなくもなかった男よ、さらば。
作者はフックについて直接語る時には、意外にも必要以上にフックの品位を貶めて描こうとする身振りをする傾向が強い。実はこれはフックという人物に自らの思いを込めた作者の擬装が成させるわざであろう。我々はここに作者の屈折を指摘せざるを得ない。この章のもう一つの狙いは、やたらと読者の前に顔を出して語りかける作者の心の屈折を指摘し、作者の言葉巧みな欺瞞の裏をかき、巧妙に隠された真実を暴き出すことにある。だから「ピーターが一番好きな人もいます。ウェンディが一番好きな人もいます。でも私はお母さんが一番好きです。」(p. 239)と語って見せる作者の言葉にも、擬装の痕跡を疑ってみない訳にはいかない。信仰に対しては絶望を、物質的生活に対してはさらなる欲望を強いる現代の俗悪な中産階級の代表する産業資本主義に対して、あえて正面から挑戦する野暮はバリはしない。世の虚飾を嘲り笑うダンディーを演じながら道化のような廃残者に終わったワイルドの例をバリは知っているからだ。敢えて「現代」の嗜好に背をむけようとすることなく、むしろ安直な大衆の欲するような華美なだけのきらびやかな妖精ティンカー・ベルをバリは描いてみせる。アンチ・ファンタシーの先駆者的存在であるルイス・キャロルが行ったのは信仰に対する嘲笑(『不思議の国のアリス』、Alice’s Adventures in Wonderland, 1865 、『鏡の国のアリス』,Through the Looking Glass, 1871)だったと言われるが、キャロルは必ずしも信仰の否定だけを試みた訳ではなかった。信仰に対する懐疑と嘲笑をこの両作品において示すと共に、キャロルは後にまた「愛」という新たな信仰を模索してもいる。(『シルヴィーとブルーノ』、Sylvie and Bruno, 1889、『シルヴィーとブルーノ完結編』Sylvie and Bruno Concluded,)典型的なファンタシー文学の創始者ともいうべきジョージ・マクドナルドの友人であったキャロルも、やはり一面ではあまりにも19世紀的なファンタシー文学の影響を色濃く残した文学者なのであった。
これらのファンタシーの先駆者達に対して、バリはアイロニーとニヒリズムに彩られた20世紀のモダニズム文学の先駆者的存在であった。バリはキャロルやマクドナルド達に続く次世代のファンタシー作家として、自然と無意識への回帰によって現代世界の無秩序の中に心霊的秩序を回復しようとするロマン主義の高邁な形而上的試みが、知性によって無惨にも否定されてしまった後の現代人のアイロニカルな心的態度のあり方を、“誠実なニヒリズム”という形で見事に示しているのである。気紛れな奇想を奇術師のように操るかのように見えるバリの独特の作風は、巧妙に計算し尽くされた観念遊戯という操作の見事に結実した、Peter and Wendyという類い稀な作品として、アンチ・ファンタシーという新たなるファンタシーの透視図を切り開くことに成功したのであった。
註
(1)
子供達とインディアン達と手下の海賊達がただ血なまぐさい冒険ばかりを求めてどうどうめぐりをしている間、フックだけは風景の美しさに身を浸らせて、ため息をつく。
Hook heaved a heavy sigh, and I know not why it was, perhaps it was because of the soft beauty of the evening.
pp. 86-7
フックは大きなため息をつきました。なにがあったのでしょう。おそらく宵の静かな美しさのためなのでしょう。
フックは風景の美に敏感であり、この物語の中で芸術的素養が語られている唯一の人物である。
The man was not wholly evil; he loved flowers (I have been told) and sweet music (he was himself no mean performer on the harpsichord); and, let it be frankly admitted, the idyllic nature of the scene shook him profoundly.
p. 191
この男は心の底から邪悪な訳ではありませんでした。フックは花が好きでしたし(確かにそう聞きました)美しい音楽が好きでした。(フック自身ハープ・シコードはなかなかの腕前でした。)それに、はっきり言ってしまえば、この情景の牧歌的な雰囲気が強くフックの心を揺さぶったのでした。
フックの感性の鋭さについてはピーターと対照的に女性的な感覚が強調されている。礁湖(ラグーン)においてピーターに自分の声を真似され、自分が誰なのか分からなくなってしまったフックは「女性的な直感力」でこの危機を乗り越える。この力が優れた海賊に不可欠なものとされているところは興味深い。
In his dark nature there was a touch of the feminine,[傍線筆者] as in all the greatest pirates, and it sometimes gave him intuitions.[傍線筆者]Suddenly he tried the guessing game.
p. 135
フックの謎に満ちた性格の許には、女性的な部分がありました。一流の海賊はみんなそうなのですけれど。そしてこのおかげでフックは時折本能的直観にめぐまれることがありました。突然フックは「当てっこ遊び」を思いつきました。
ピーターは子供だから当然ゲームの誘惑には勝てず、折角仕組んだ陥穽を放棄して自らの正体を暴露してしまうことになるが、考えてみるとこの時フックはすでにアイデンティティ喪失の危機にさらされていたのであった。ピーターの声に自分自身に対する確証を奪われ、自分は鱈だと決めつけられてしまったフックは、「フックは自我がすり落ちて行くのを感じていました。」(p. 135)と描かれている。フックはピーターという影に常に自分の存在意義をおびやかされていたが、この時は女性原理の力によって自己同一性の回復を図ることが出来ていたのであった。
(2)
オスカー・ワイルドはアイロニーの人としてヴィクトリア朝の偽善を嘲笑し、物質的俗物主義を克服する手段として審美主義者を名乗った訳であるが、ダンディーとしての超俗的生活は逆に彼を罠にはめ、人生の破綻をきたすこととなった。ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』(The Picture of Dorian Gray, 1890-1)ではドリアンは「自分の肖像画」という影と共に滅びることになる。
(3)
ロバート・バートン(Robert Burton)の「憂鬱の解剖学」(The Anatomy of Melancholy, 1621)が何よりもこの診断を裏付ける証拠としてあげられるであろう。
(4)
己の倨傲が呼び出してしまった「影」を己自身の名で呼び、受け入れることによって世界の均衡の回復を図ることが出来たル・グインの『影との戦い』( A Wizard of Earthsea)がその世界認識の楽観性によって子供のためのファンタシーであるとするなら、影との戦いの中で空しく一人芝居のようにあがき、あえなく倒されるフックを描く『ピーターとウェンディ』は、その現実認識の苛烈さにおいて正に大人の為のファンタシーと呼ぶにふさわしいものであろう。この分身のモチーフはワイルドばかりでなく、シャミッソー(Adelbert von Chamisso) の「影を売った男」<(“Peter Schlemihls wundersame Geschite”, 1814)やアンデルセン(Hans Christian Andersen)の「影」(“The Shadow”, 1847)がすでに用いていたものであったし、ポー(Edgar Allan Poe)の「ウィリアム・ウィルソン」(“William Wilson", 1839)の中にも同様の主題が窺える。近代的知性を脅かす影というモチーフは19世紀においてはかなり普遍的なものであったといえる。バリの場合はこの自我を破滅に追いやる分身という機構を裏返しにして、影のピーターの方を主役に据えて一見楽しい冒険物語の様相を呈したファンタシーという形式の許に描いているところがいかにも20世紀的であり、バリのアイロニカルな才覚には他を圧倒するものがあるといえよう。