グッド・フォームと内省キャプテン・フックの憂鬱


 フックと言えばピーターにその名を告げられただけで、ダーリング家の子供達が震え上がる程の人物であった。(pp. 68-9)とすると、彼もまたピーターと同じく、知識として教えられることもなくいつのまにか自然にその存在が記憶の中に受け入れられてしまっている、子供達の心の基底をなしている集合的無意識のような存在なのだろうか。凶悪な海賊の代名詞であるかのようなフックの描かれ方を見てみればどうもそのようでもある。けれども実はそれ以上の深い事情を背負っているのがこのフックという登場人物だ。実は筆者は、ピーターよりもむしろフックの方が、この物語の本当の主人公なのではないかという疑いを持っている。本章ではこの仮説に従って、『ピーターとウェンディ』の裏の主人公フックの体現する巧みに隠された謎についての論考が行われていくことになる。
 フック主人公説の証拠の一つとしてあげられる事実は、フックが実際に物語に登場する際には、彼に関する描写はピーターよりも余程念入りになされているということだ。

p. 80

 不気味な容貌のようでもありながら、なおかつ端麗な顔だちを備えたフックは、忘れな草の花のような色の、ロマンティックな目に憂鬱な表情を浮かべている。この「憂鬱」という問題こそフックという人物の本質を語るものであり、同時にピ−タ−という存在の秘密を探る糸口でもある筈なのだ。これは本章の後半で焦点を当てて考察されることになる『ピーターとウェンディ』の最大のテーマなのである。
 さらにフックは名の知れたお話の語り手であるという。このあたりがピーターとは対照的なところだ。ピーターといえばお話をしてくれるどころか、ウェンディ達にお話をしてもらうばかりだったし、後にはウェンディの娘のジェインのそのまた娘のマーガレットに、自分自身の冒険のお話をしてもらって喜んでいる始末なのだ。そもそもピーターは物事を少しでも長く覚えていることが出来ない。それにひきかえ知識も教養もあるのがフックだ。フックに関する描写はまだ続く。

pp. 80-81

 粗野で不躾なピーターとは大違いで、フックは血筋も良く、礼儀作法もわきまえている。ピーターはジョンやマイケルにお父さんの振りをする仕方を教えてもらわなければならなかったけれど、フックの場合は罵る言葉にさえ優雅さが感じられるという。何よりも慇懃無礼さの裡に透かして見られる不気味さなどというものは、そこらの成り上がり貴族の真似出来るような代物ではない。彼は怪物的な程の高潔さの持ち主なのだ。

p. 81

フックは不屈の勇気の持ち主でした。フックを怯ませる唯一のものはフック自身の血だけで、それは普通の血の色とは違ったとても濃い色をしていたということでした。装いにはフックは時折チャ−ルズ2世の名を思い起こさせるものを選ぶことがあり、それは以前にフックの容貌が不運なスチュアート家の人々を彷彿とさせるものがあるという意見を聞いたことがあったからでした。そしてフックの口には特別に考案した、一度に二本の葉巻をふかすことができるパイプがくわえられているのでした。けれどもフックの一番恐ろしげなところといえば、それは疑いなく彼の腕に付いている鉄の鉤爪でした。

 フックを唯一怯ませるものは自分自身の血の色で、それはとても濃い、珍しい色であるという。どんな色なのかははっきりと語られていないけれど、由緒正しい家柄の貴族の血筋のことをブルー・ブラッドと呼ぶことを考えてみれば、フックの血の色の場合はそれを上回るような人並み外れたものであることが暗示されている。さらにキャラクターの印象を決定づける小道具として、ピーターの「枯れ葉と木の樹液を纏った」と描かれている特徴的な服や、彼が連れているティンカー・ベルの与える印象にいささかも劣ることの無いように、その名の通りの鉤爪(フック)を右腕に装着し、口には二本の葉巻を同時にふかすことが出来るパイプ迄与えられているのがフックだ。アン・ラドクリフに代表されるゴシック・ロマンスの作家達が描いたおどろおどろしい悪漢小説においても、主人公よりもむしろ格好いいのが仇役の筈の悪漢達であったが、フックの場合は物語のテーマを決定する上でそれ以上の欠かすことのできない存在意義を与えられている重要な登場人物なのだ。何しろ作者のフックに対する態度といったら、破格の扱いだ。フックについて描写する際は、作者はしばしば持って回った、凝った文体で語りを進める。フックが登場する時はいつでも厳かな背景音楽が流れているかのようだ。そして作者は、いつものフックのやり方を読者に紹介するために、仲間の海賊の一人を殺してみせさえするのだ。フックに関する描写はこのあと次のように続いている。

p. 81

 フックは残酷だ。非情な冷酷さはその属性の持ち主に尊厳と華麗さを与えてくれる。海賊達は眠っている時でさえ、フックが通りすがりに機械的に彼等を鉤にかけてしまうことのないように、あちらこちらと体を転がすのが常だ。(p. 202)作品世界の中で全面的に承認された残忍さは美学の最高の判定基準となる。フックは格好いいのだ。何よりもフックの際立った格好よさは、かれの生まれと育ちのよさから来ている。例えば地下の隠れ家から子供達を引きずり出した時も、フックは女性であるウェンディに対しては恭しく礼儀作法にかなった態度をもって接する。帽子をあげて手を差し延べる仕種だけでも、思わずウェンディが心を奪われてしまう程の優雅さなのだ。

pp. 185-6

 ピーターは無知のあまりウェンディにも、手下の子供達にもあきれられてしまうことが度々あったけれど、フックには自然と滲み出してくるような尊厳がある。フックが一人よがりで勝手に気取った仕種を演じている訳ではない。作者は実際にフックの高貴な素性については、確かな情報を持っているようなのだ。

p. 203

 フックは英国の有名なパブリック・スクール出身のエリートなのだ。作者は訳あってその正体をあかすことは出来ないらしいが、彼がかつては立派な現実社会の人間であったことは紛れもない事実のようだ。問題はそんな彼がどうして今は海賊となっているかだ。身をやつして海賊に成り下がったのでは決してないことが察せられる。むしろ海賊という稼業を選んだところにこそ彼の出自の正しさを窺い知ることが出来る筈なのだ。何故ならば一所懸命努力して地位や財産を勝ち取るなんてはしたない行為は、彼の生まれと育ちが許さないからだ。彼がただの俗物であったなら、きっと大学教授や大臣なんかになって満足していたことだろう。しかし彼は自分の社会的地位や成功なんかに満足を味わうことが出来るような野卑な男ではない。フックは感性の人であり、その本質は芸術家である。彼は花を愛するし、音楽を好み、ハープ・シコードの腕前はなかなかのものであるという。(1)このような芸術家的感性が卑俗な現実社会に反発を試みずにはいられない反省的自意識を呼び起こし、彼を海賊稼業へと駆り立ててしまったのだ。海賊とは美学に生を捧げた審美主義者のたどり着いた最後の姿である。(2)
 フックはその海賊の世界においてもうすでに名を遂げ、一流の地位を築いている。バーベキュー船長や黒髭船長という伝説上の存在との関わりを通して、フック自身がまががしくも魅力的な伝説となってしまっているのだ。フックは現実の世界から架空の世界の伝説的存在へと見事に転身を遂げたのである。だからこそフックはピーターのネヴァランドを媒介として、子供達の無意識の記憶の片隅に当然のごとくその住処を獲得することが出来ていた訳なのだ。大人達の牛耳る現実世界での陳腐な世俗的成功と比べて、彼の果たした功績には眩いものがある。ところが今、ピーターに毒をもって倒すことに成功し、長年の抗争に片をつけ、ピーターの手下の子供達を全員捕虜にして船にさらってきて、いまから処刑を行おうとする際の、バーベキューを服従させたおり以来の得意の絶頂にある筈のフックの様子はこのように描かれている。

p. 204

 「何かをなし遂げたということは本当にたしなみの良いことだと言えるだろうか?」このように自己に問いたださなければならないのは、名誉と共に生まれ育ったものの背負う宿命的義務ーブレス・オブリージュ(noblesse oblige)をフックが感じているからだ。彼は常に自分自身を気高い所から厳しく見つめる内省の心(reflection)を失うことがない。絶対権力者である海賊の首領として思うがままに振る舞いながら、フックにはいつも己の権力の上に安住することの出来ない醒めた自覚がある。「たしなみの良さについて考えるなんてのはたしなみの良くないことではなかろうか?」正確な自己認識を客観的判断として常にうながす理性と、潔癖なまでの倫理観との軋轢が強いるこのパラドクスはフックの心を苦しめる。そしてふと思うのは、「小さな子供達は誰も自分を愛してくれない」ということだ。フックは彼にとっては取るに足らない手下である筈のスミーと自分とを比べてみる。スミーはといえば、子供達が自分のことを怖がっていると一人勝手に思い込んで、呑気にミシンで縫い物なんかしているのだ。スミーは子供達に対して怖いことも言ったし、手のひらで子供達を打ったこともあった。でもそれは拳で殴ることができなかったせいだ。スミーが子供達を怖がらせようとする分だけ余計に子供達はスミーの方に擦り寄ってくるし、マイケルはスミーの眼鏡をかけてみたことさえあった。子供達に慕われる愛すべきスミーは、どうしてこんなに好かれるのだろう。フックは執拗にこの問題について考える。

pp. 205-6

 フックの行動を律する絶対的規範はこのグッド・フォームなのであるが、グッド・フォームとは自覚して行おうとすればその途端に虚栄と化し、眼前から失われてしまう実にやっかいなものだ。成り上がり者根性を軽蔑するフックにとっては、自身の高潔さの尺度となるのがグッド・フォームに関する反省であるが、グッド・フォームという概念はフェア・プレイなんていう身勝手な幻想を突き抜けたところに峻厳として展開される。正しい客観的状況把握を強いる知性の高潔さと自分の優越性を意識してしまわなければならない理性の卑俗さの間には、論理の力ではどうしても埋めることの出来ない溝がある。こうした知識と徳との乖離に関するディレンマは、フックが近代的科学思想をしっかりと身につけた教養人であることの証明だ。これは近代において西洋人が経験することになった、倫理と理性のせめぎ合いがもたらしたあまりにも手強いパラドクスなのである。自然に帰ることの意義を意識した途端、自然は手に入れるべき目標として外界に認識される異物となってしまった。近代的自意識は神を殺して自我の独立を果たした結果、世界と一体となることの出来る神のごとき無我の安寧を手放し、くつがえされた神の台座の下に世界の除け者である影のような自分自身を見つけ出してしまった訳だ。こんな意識の迷路の外側で頓着無しに生きていられるのがスミーのグッド・フォームの正体だ。

pp. 201-2

 際立って優れたフックとは対照的に、平凡を絵に描いたようなのがスミーなのだが、そのスミーをみてフックは「哀感あふれる」と感じてしまう。しかし本当に感性豊かなのはスミーではない。彼の姿を見て思い余って涙を流してしまうのはフックの方だ。さらにここでは、感極まる程に自分の体現する哀感に対して無頓着であるスミーの本性を痛ましい程に感じ取るフックの気持ちを代弁して、「彼はどうしてこんなにも哀感あふれているのだろう…」と作者の声が語っている。無慈悲で心ないピーターに代表される子供達に対して、作者の共感は明らかにフックの方にある。疎外の生を送る我々の心を代表して作者はフックの心を覗き込む。

pp. 202-3

 フックは憂鬱なのだ。彼のものであった世俗的地位が彼を憂鬱にさせたし、彼の勝ち取った超世俗的成功が彼を憂鬱にさせたし、そんなことを反芻して思い悩む自分自身の姿が何よりも彼を憂鬱にさせるのだ。憂鬱とは内省を持った教養人の抱え込む致命的な病理なのである。(3) フックはパブリック・スクール時代に身にしみ込んだ「内省」という弱点をどうしようもなく抱え込んでいる。それは論理の命題の一つとして今なお彼の心の中に沈澱しているのだ。

「ポップ」とはイートン校の伝統ある社交・弁論クラブのことだ。クラブ員に選出されるためには、自分が被選出資格を持っていることを意識してはいないことを証明しなければならなかった。こんな形で自分の生を送る資格について思い悩まなければならないのがフックだ。何も知らないスミーを眺めているだけで、「知ること」に関わるパラドクスを胸の中に蒸し返さずにはいられないフックの心はこんなにも傷ついてしまうのだ。

p. 203

 手下を犬のように扱い絶対的権力を振るっているこの男は、自分の圧倒的優位さのためになおさら孤独となる。測り知れない(inscrutable)謎を秘めたフックが、存在に関わる不思議な謎を秘めたピーターの鏡面的存在であるとみなすこともできようが、むしろ視点を転換させて考えてみたいのだ。一見したところ華々しい主人公として現れるピーターというキャラクターの方こそ、本当はフックという我々の心にとって身近な、そして不可解な存在を照射するための道具として周到な計算の許に用意されていた秘密の鍵なのではなかっただろうか。思いに沈んで船上をさまようフックの有り様はこのように語られていたのであった。

Hook trod the deck in thought. O man unfathomable.[傍線筆者]

p. 202

フックは甲板の上を思いに沈んで歩いていきました。測り知れない男、フック。

 フックが測り知れない(unfathomable)存在であるのは、言うまでもなく我々がフックであるからに相違ない。何処より来たり何処へとおもむくのか分からぬまま不可解な生を送り、論理では説明のつかない内奥の倫理観に揺さぶられ続ける自分自身が謎なのだ。このように自己というものを客観的な一人格として捉える視点を持ってしまった者には、常に素朴な生の喜びの替わりに苦々しい懐疑が与えられることになる。そういえば巧みな策略のもとにピカニニー族を滅ぼした時もフックは一人映えない顔つきであった。

p. 181

ピーターにおいて暗示されていた謎(riddle)とはフックの体現するこの謎(enigma)の対立物として機能するものだったのである。この謎の部分でフックとピーターは深く関わり合っている。フックにとってピーターは許すべからざる自身の影なのだ。グッド・フォームという言葉を軸にしてピーターとフックのネヴァランドにおける最後の戦いは描かれているが、何よりもフックにとって不利なのは彼が教養を身につけた近代的自我の持ち主である点だ。その上フックは生まれもって品が良すぎる。だからフックはウェンディの視線を身に感じ、戦いの中で被った服装の乱れを痛切に恥じる。

p. 210

 ピーターとの最後の決闘の際においても、フックが常に気にかけているのは、グッド・フォームのことだ。ピーターに受けた傷から流れだした自分の血の色に衝撃を受け、フックは手にしていた剣を思わず落としてしまう。フックは傷を負わされたことなどに怯えた訳では決してない。自分の血の色を見てフックが受ける打撃とは、フックの自意識の発露以外の何者でもない。

p. 227

 剣を無くして無防備なフックに対して、ピーターはこの絶好の機会を利用して攻撃の手を加えるどころか、寛大にも剣を拾いあげるようにうながす。しかしこの生意気な行為こそが、フックの傷ついた心に対してえぐるような致命傷を与えるものだ。フックは素早く剣を拾いあげながらも、敵であるピーターの方がグッド・フォームの体現者となっていることを痛切に感じざるを得ない。

p. 227

 ピーターはフックにとって積年の抗争の相手であり、並び立つことの許されない敵であった。この不可解な気に障る存在は彼にとって怪物のようなおぞましいものであったが、ここに至ってフックはもっと恐ろしい疑惑にかられてしまうのだ。

p. 227

 そしてフックは改めてピーターに「お前は何者なのだ!」と誰何する。ところがピーターが答えるのは例によって当てずっぽう以外の何者でもない。フックにはピーターを自分の影としてその名を呼んで自己同一性の回復を図る機会さえ失われてしまっている。(4) 生に対する望みを捨てたフックにとって、願うべきことはもうこの悪魔を滅ぼすことではない。フックの唯一の望みはピーターに「みっともない様」(bad form)を演じさせることだ。フックは船の火薬庫に火をはなつ。ピーターのあわてた様を見さえすれば目的はかなえられる。「あと二分で船は爆発するぞ!」フックは叫ぶ。

Now, now, he thought, true form will show.[傍線筆者]

p. 228

今だ、今こそ化けの皮がはがれるぞ、フックは思いました。

ところがピーターは両手に大砲の玉を持って火薬庫から現れ、何事もなさそうな顔で海に放り込んでしまう。(pp. 228-9)

p. 229

 誇りを踏みにじられ、権威を失墜し、いよいよ最期の時を迎えたフックに作者は言葉つきとは裏腹に共感的になっているようだ。フックにはもはや自分を嘲る子供達の姿も目に入らない。彼の心は純粋で汚れを知らないでいられた懐かしい学生時代に戻っている。

p. 229

作者はフックに物語の悪役として演じるべき最後の場を与えてくれた。「生き延びる」という「無様」(bad form)を回避することが許され、「破滅する」という美学が恩寵として捧げられたのである。作者のフックに対する最後の言葉はこうだ。

James Hook, thou not wholly unheroic figure[傍線筆者], farewell.

p. 229

ジェイムズ・フック、全く英雄的でなくもなかった男よ、さらば。

 作者はフックについて直接語る時には、意外にも必要以上にフックの品位を貶めて描こうとする身振りをする傾向が強い。実はこれはフックという人物に自らの思いを込めた作者の擬装が成させるわざであろう。我々はここに作者の屈折を指摘せざるを得ない。この章のもう一つの狙いは、やたらと読者の前に顔を出して語りかける作者の心の屈折を指摘し、作者の言葉巧みな欺瞞の裏をかき、巧妙に隠された真実を暴き出すことにある。だから「ピーターが一番好きな人もいます。ウェンディが一番好きな人もいます。でも私はお母さんが一番好きです。」(p. 239)と語って見せる作者の言葉にも、擬装の痕跡を疑ってみない訳にはいかない。信仰に対しては絶望を、物質的生活に対してはさらなる欲望を強いる現代の俗悪な中産階級の代表する産業資本主義に対して、あえて正面から挑戦する野暮はバリはしない。世の虚飾を嘲り笑うダンディーを演じながら道化のような廃残者に終わったワイルドの例をバリは知っているからだ。敢えて「現代」の嗜好に背をむけようとすることなく、むしろ安直な大衆の欲するような華美なだけのきらびやかな妖精ティンカー・ベルをバリは描いてみせる。アンチ・ファンタシーの先駆者的存在であるルイス・キャロルが行ったのは信仰に対する嘲笑(『不思議の国のアリス』、Alice’s Adventures in Wonderland, 1865 、『鏡の国のアリス』,Through the Looking Glass, 1871)だったと言われるが、キャロルは必ずしも信仰の否定だけを試みた訳ではなかった。信仰に対する懐疑と嘲笑をこの両作品において示すと共に、キャロルは後にまた「愛」という新たな信仰を模索してもいる。(『シルヴィーとブルーノ』、Sylvie and Bruno, 1889、『シルヴィーとブルーノ完結編』Sylvie and Bruno Concluded,)典型的なファンタシー文学の創始者ともいうべきジョージ・マクドナルドの友人であったキャロルも、やはり一面ではあまりにも19世紀的なファンタシー文学の影響を色濃く残した文学者なのであった。
 これらのファンタシーの先駆者達に対して、バリはアイロニーとニヒリズムに彩られた20世紀のモダニズム文学の先駆者的存在であった。バリはキャロルやマクドナルド達に続く次世代のファンタシー作家として、自然と無意識への回帰によって現代世界の無秩序の中に心霊的秩序を回復しようとするロマン主義の高邁な形而上的試みが、知性によって無惨にも否定されてしまった後の現代人のアイロニカルな心的態度のあり方を、“誠実なニヒリズム”という形で見事に示しているのである。気紛れな奇想を奇術師のように操るかのように見えるバリの独特の作風は、巧妙に計算し尽くされた観念遊戯という操作の見事に結実した、Peter and Wendyという類い稀な作品として、アンチ・ファンタシーという新たなるファンタシーの透視図を切り開くことに成功したのであった。


(1)

子供達とインディアン達と手下の海賊達がただ血なまぐさい冒険ばかりを求めてどうどうめぐりをしている間、フックだけは風景の美しさに身を浸らせて、ため息をつく。

pp. 86-7

フックは風景の美に敏感であり、この物語の中で芸術的素養が語られている唯一の人物である。

p. 191

 フックの感性の鋭さについてはピーターと対照的に女性的な感覚が強調されている。礁湖(ラグーン)においてピーターに自分の声を真似され、自分が誰なのか分からなくなってしまったフックは「女性的な直感力」でこの危機を乗り越える。この力が優れた海賊に不可欠なものとされているところは興味深い。

p. 135

 ピーターは子供だから当然ゲームの誘惑には勝てず、折角仕組んだ陥穽を放棄して自らの正体を暴露してしまうことになるが、考えてみるとこの時フックはすでにアイデンティティ喪失の危機にさらされていたのであった。ピーターの声に自分自身に対する確証を奪われ、自分は鱈だと決めつけられてしまったフックは、「フックは自我がすり落ちて行くのを感じていました。」(p. 135)と描かれている。フックはピーターという影に常に自分の存在意義をおびやかされていたが、この時は女性原理の力によって自己同一性の回復を図ることが出来ていたのであった。

(2)

 オスカー・ワイルドはアイロニーの人としてヴィクトリア朝の偽善を嘲笑し、物質的俗物主義を克服する手段として審美主義者を名乗った訳であるが、ダンディーとしての超俗的生活は逆に彼を罠にはめ、人生の破綻をきたすこととなった。ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』(The Picture of Dorian Gray, 1890-1)ではドリアンは「自分の肖像画」という影と共に滅びることになる。

(3)

 ロバート・バートン(Robert Burton)の「憂鬱の解剖学」(The Anatomy of Melancholy, 1621)が何よりもこの診断を裏付ける証拠としてあげられるであろう。

(4)

 己の倨傲が呼び出してしまった「影」を己自身の名で呼び、受け入れることによって世界の均衡の回復を図ることが出来たル・グインの『影との戦い』( A Wizard of Earthsea)がその世界認識の楽観性によって子供のためのファンタシーであるとするなら、影との戦いの中で空しく一人芝居のようにあがき、あえなく倒されるフックを描く『ピーターとウェンディ』は、その現実認識の苛烈さにおいて正に大人の為のファンタシーと呼ぶにふさわしいものであろう。この分身のモチーフはワイルドばかりでなく、シャミッソー(Adelbert von Chamisso) の「影を売った男」<(“Peter Schlemihls wundersame Geschite”, 1814)やアンデルセン(Hans Christian Andersen)の「影」(“The Shadow”, 1847)がすでに用いていたものであったし、ポー(Edgar Allan Poe)の「ウィリアム・ウィルソン」(“William Wilson", 1839)の中にも同様の主題が窺える。近代的知性を脅かす影というモチーフは19世紀においてはかなり普遍的なものであったといえる。バリの場合はこの自我を破滅に追いやる分身という機構を裏返しにして、影のピーターの方を主役に据えて一見楽しい冒険物語の様相を呈したファンタシーという形式の許に描いているところがいかにも20世紀的であり、バリのアイロニカルな才覚には他を圧倒するものがあるといえよう。

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