キスと謎々


 ピーターの体現している無知と不思議な知恵について検証していく途上で、ピーターという存在には想像以上に大きな謎が隠されているらしいことが分かった。謎とは単なる情報の欠落から生じる表面的な不合理でもないし、意図的な情報の隠蔽や狡猾な言葉のすり替えが即座に謎を成立させてくれる訳でもない。謎はいかなる解析手法をもってしても、またどのようなシステム変換を施したとしても、決して解読することが出来ないという原理的な不可解さを周到に備えた、例外的に特異な言説であるからこそ正しく謎で在り続けるのだが、“謎”という形で観念空間上に顕在化してもいれば、“謎”という言葉で呼び、思念の中に取り込んで論考の手順に組み込み得るものでもまたある。  しかしながら謎は、“魔法”や“予言”や“奇跡”等のある特定の枠組みを形成する概念群と同様に、思考システムの一単位を形成する要素として堅固な職分を果たしていると同時に、思考体系の全体像を巧妙に歪め、総体としてのシステムの整合性を失墜させる破壊的要素として、実際にはその玄妙な機能を発揮することとなるのだ。これらは我々の意識構造と言語体系の背後に潜んでいる、より公汎で不可解な未知の観念空間と接合する、無気味なワームホールの入り口のような存在なのだ。これら超自然の範疇に属する概念とは、常に我々の内面意識と外界領域との重合部分に対する合理的な統一的解釈構築可能性の敷衍領域を浸食して、思考システム外部の測鉛不能なメタシステムの原理の存在を何時までも暗示し続けることになる、不吉な護符のようなものなのである。だから時には、“謎解き”の手順を通して一時的に超自然の逸脱例を自然的解釈に引き戻すことによって、さらに根源的な神秘の存在を際立たせることすら可能になってしまうこともあるのだ。  ピーターの謎について論考を始める糸口は「お母さん」にあった。ダーリング夫人は毎晩のお決まりの日課で子供達の心の中を整理している時にピーターの名前を見つけ出しても、いささかも驚きはしなかった。彼女はピーターの顔のようなものを、別のところですでに見たことがあったのだという。

ピーターとは、未婚の女性達や若いお母さん達の顔の上に窺われる特有の表情に類した何かなのだという。比喩表現の一種と目されていた言説がそのまま実体性を獲得し、意志性と肉体性を備えた固有の存在物として具現化してしまったかのような奇妙な記述が行われてしまっていたという訳なのだ。机上の空論に属する観念遊戯の所産とも、あるいは観念空間のみにかろうじて存在意義を主張することができる、危うい概念連合の結晶体とも看做し得るのが、この物語の主人公である少年の備えた本質的属性であったのだった。この不可思議な記号的特性を秘めた、異質のファンタシー作品の登場人物の存在の意味するものを、正しく理解するための最初の手がかりはこのような事柄であった。しかしもっと注意を払っておくべき特徴的な事実は、ピーターがダーリング夫人のキスにとてもよく似ていると語られている点だろう。

キスと指貫との言葉の取り違えに基づくぎこちない誤解をめぐって、後ほどウェンディとピーターとの間に展開されることとなった滑稽なやりとりの場合とは対照的に、ダーリング夫人の“キス”に関しては、作者は最初から特別の配慮を払って入念に語ってくれているのだった。“キス”はこの物語の主人公である筈のピーターの秘密についてばかりでなく、同時にまたダーリング夫人という、もう一人のこの上無く魅力的な存在自体の秘める、限りなく謎めいた神秘性を窺わせるものでもある。

ダーリング夫人の心は入れ子箱のように奥が深い。20世紀になって宇宙の極大と極小を極めつつあった現代の物理学が改めて直面することとなった、限りなく分割を続けてもさらに新たな様相を装って現れるかのように思われる数々の素粒子群のように、論理と理性による連続的論証の過程を中断させ、理不尽にも不可解な飛躍の手順を導入することを強いる、「段階的無限」という概念を暗示させるようなものがそこにはある。  ひょっとして彼女の心を構成する小さな箱は、外側のもっと大きな箱を内側に隠し持っていたりもするのだろうか。そうだとすれば、この謎めいた玩具があの神秘的な東洋からやって来たものであることと、何か不可思議な関係があるのかも知れない。大と小の位相空間的関係性を超越するかのように、互いを呑み込み合う大蛇の文様を用いて象徴されたウロボロスの図像(1)のような神秘性が、ダーリング夫人のロマンティックな心の特徴なのだ。外宇宙と内宇宙の不可解な照応と、万物の霊妙な連関を暗示させるのが作者の心を捕らえたこの魅力的な女性なのであった。その彼女の口許に見えるキスは、ウェンディが望んでもどうしても手に入れることのできないものだった。それは目の前にありながら、同時に果てし無く遠いところにあるものなのだ。矛盾撞着の具現化であると同時に、排中律の双方の選択肢の重ね合わせ、あるいは正反対の一致という最高級の存在属性としての手放しの称賛を与えられているのが、ダーリング夫人の口許に見えているというキスだ。(2) “キス”とは謎の暗示する世界構成軸の所在の確かな方向を指し示す、魔法の力を封じ込めた方位磁針でもあった訳なのである。

お母さんが踊ると余りに激しくくるくると回転するので、周囲の人に見えるのはお母さんのキスだけだという。保有するエネルギー値の臨海点を超えた瞬間、励起状態という新しい様相の許に全く異なった外観を呈してその秘匿された存在属性をあらわすことになる、世界の存立機構の枢要を解き明かす秘密の鍵の存在が、そこに暗示されてでもいるかのようだ。この無邪気な観念の遊びとも、あるいは思弁的宇宙原理把握の超出の一例とも目される属性記述の手法は、さらにお母さんのキスとPeterとの間に示される不可思議な関係を通して増幅されていくことになるのだ。  例えば、Edgar Allan Poe の「ユリイカ」(Eureka, 1848)において語られている次の一節と比較対照してみることによって、ダーリング夫人の体現するものの指し示す思想的立脚点が、より輪郭を明らかにして現れてくることが分かるだろう。回転するものが動的投射の総合として周囲に与える凝縮的写像と、回転した結果連続的映像として回転体自身の視覚に投影される統合的世界像との間の、主客を転倒した不可思議な一致と絶妙な符牒の可能性が、そこに暗示されてでもいるかのようだ。

 ポーの「ユリイカ」におけるロマン主義哲学的省察の立脚点を形成する宇宙の全一性(oneness)の表象を、エトナ山の頂上に立って周囲をぐるりと見渡すことではなくて、自分自身が激しく回転することによって反転的に顕現させることを可能にしているのが、ダーリング夫人の母性原理の不思議な力なのであった。このような極大と極小、あるいは主体と客体の反転的な連鎖的合一という恩寵的奇跡を可能とする、世界の存立機構の秘密の所在を顕示する旗印として、確固たる機能を果たしているがダーリング夫人のキスだったのである。(3)  首尾よくダーリング夫人を妻として手に入れたダーリング氏も、彼女の心の秘密には気付いてさえいなかったし、このキスの方は程なく諦めることとなったのだった。

ところがウェンディをダーリング家に送り返しに来た時、ピーターはいとも簡単にこのキスを自分のものにしてしまったのだという。

ピーターに関わる謎の謎解きに当たるものは、ここでは敢えてするまい。謎は謎であることに謎としての第一の意味がある。しばらくは謎の所在を確かめるだけで充分だ。アイロニーについて語る言葉がアイロニーを含んでいなければならないのと同様に、謎について語る際には、まず謎の振幅を最大限に増幅しておくのが手順だ。一つだけ確かなことは、あり得ない世界の実現不可能な出来事を語るファンタシーの言説行為とは、存在不可能な事実をもっともらしく語るという点では紛れもなく嘘を語る技であるには相違ないのだが、文字通りのナンセンスと妄言に堕することなくその虚偽が弁証可能な意味を持ち得るのは、いかなる公理系においても決して成り立つことのない特異な命題として、公理の存在そのものの立脚点を根源的な部分から脅かす、啓示的なアポーリアとして機能する限りにおいてでしかあるまいということだ。  ファンタシーの時空を形成するための必須条件として存在すると思われる、“超自然”の要素を鮮やかに反映した概念として“謎”という言葉を捉え直してみることにすれば、例えば自然科学のメカニズムが行ってきたように、どうしても既存のシステムに適合しない、従来のシステム理論を破綻に陥れると思われていた微細な夾雑物的要素をこそ核として、システム全体のメタシステム的修正を施すことによって、より高次のシステム構築を企てようと常に模索する帰納的方法論そのものにほころびを生じさせる、決定的な“不自然さ”の要素の結晶化した要因が、“謎”として現出することになるのだ。  ピーターは女性に訴えかける絶対的な力を持っている。それは彼のまだ抜け変わっていない乳歯に象徴されているようだ。

誰もが一目で「生え変わったことが無い筈」のものだと確信するピーターの歯の魅力とは、厳密な分析的検証を加えた結果に得られた、「彼の歯がまだ生え変わっていない」という客観的判断が彼の魅力を判定する条件になっている訳では決してある筈がないことを考慮に入れてみれば、圧倒的に見るものの心を支配する彼の絶対的な魅力が、「当然彼の歯が一度も生え変わってなどいない筈だ」という奇妙な確信を与えるという、因果関係の倒置を通して得られた超越的属性の記述という独特のレトリックで語られているところにこそ、最も重要な意味が見出されなければならないものだ。(4)だからピーターはウェンディに対しても、やはり抗いようのない力で、不可思議な誘惑の手を差し延べることになるのだ。

 全ての女性に対して絶対的な影響を及ぼす力を持っているくせに、ピーターは何故か肝腎の母親という存在に対しては強い不信の念を抱いている。彼はネヴァランドでは、暴君的な権力を行使しさえもして、手下の少年達に彼等の母親の話をすることを堅く禁じている程だ。

ウェンディが子供達にお話をしてくれて、母親の愛の限りない大きさについて語り始めた時も、ピーターだけは気が乗らない様子だった。

そしてピーターは、彼だけが経験したある秘密を子供達に語るのだ。お母さんに閉め出された忌まわしい体験を。(p. 167)お母さんに身勝手にも絶大の信頼をよせている子供達とピーターが決定的に異なるのはこの部分だ。ピーターにとってお母さんとは、何故なのか激烈な嫌悪の対象となるものでしかないようだ。

ピーターは子供達の誰よりも自由で大きな権力を振るうことができながら、誰よりも辛く耐え難い記憶らしきものを持ってもいる。(5)それがピーターの謎を形成する極めて不可解な要素の一つであることは間違いのないことのようだ。

ピーターは母なる大地の中に憩う、溢れるばかりの祝福を受けた特権の享受者であると同時に、自分を生み出した造物主たる母親と限りなく離反せざるを得ないという、永劫の呪いを背負った故郷からの追放者でもあるかのようだ。(6)彼の母親一般に対する理不尽な遺恨の念は相当に深い。子供達と共にダーリング家に戻り、ダーリング夫人の姿を目にしたピーターはティンカー・ベルにこう言う。

こともあろうに、この作品において限りない慈悲と寛大さに満ちた守護天使とも、またいかなる重罪人をも決して見捨てることはない情愛豊かな妖精の後見人(フェアリー・ゴッドマザー)とも看做すべき役割を果たすダーリング夫人に対して、ピーターは理不尽な敵意をこそ奮い立たせるのだ。しかもウェンディによって植え付けられた誤解から、肝腎のダーリング夫人の“キス”を“指貫”と呼び違えてしまいさえもしている。けれども今はもうウェンディと、彼女のお母さんのダーリング夫人との関わりを通して“キス”というものの秘める深い真実を、表裏一体の二重の意味で知ってしまったピーターは、自分の心の奥底で疼く痛みをここでは自覚している訳だ。ダーリング家の子供達とも別れ、これまでは彼の忠実な手下として常に一緒に暮らしていたロスト・ボーイズ達をもダーリング家に残して立ち去るピーターは、最後に窓から子供達の方を振り返る。

“キス”とウェンディというこれまでかつて味わったことのないものを経験してしまったピーターにとって、このダーリング家の子供達を巻き込んで引き起こしてしまった一件は、さぞかし特別なものであったことだろう。そしてまた、ウェンディとロスト・ボーイズを失うと共に、お母さんのキスを奪って持って行ってしまうという、相補的な見事に円環的に完結した行為を完遂してしまったというのが、このお話においてピーターの行った冒険として語られていた顛末の意味する厳粛な事実なのであった。だとすればひょっとして我々は、この物語においてピーターという神格のかつて経験したことの無い、歴史的な転機を目にしたことになるのであろうか。ここにおいて宇宙の生成展開は新たな位相発現の局面を迎え、世界に斬新な新世紀の誕生をもたらすことになるのだろうか。一見したところは、そのようにも考えられるかもしれない。しかしながら実際のところは決してそうではないのだ。ティンカー・ベルを連れてダーリング家を立ち去る時のピーターは、すでにこのように描かれているからだ。

ピーターがこの場面で嘲笑したという「自然の法則」とは一体何であったろう。それはひょっとして、生きるものは全て経験し、成長し、変化するという苛酷な宿命のような、我々のすべてを等しく支配しているあの呪縛のことであったろうか。そうであるならば、ピーターはこの物語に描かれたエピソードの結果、やはり何らかの変化を被っている訳ではないのだ。何故ならばピーターは、忘れてしまうからだ。フックによる裏切りも忘れ、フック自身のことも後にはすっかりと忘れてしまっていた。むしろピーターの体現する深い謎の秘める意義は、彼の存在そのものが自然法則を成り立たせる合理的推論に対する嘲笑として、すなわちシステム構築不能性をもたらす恒久的な原動力として不断に機能し続けている点にこそ見出されるべきものであった筈なのだ。  あるいはまたピーターの身に帯びている謎は、フックとの関連から照明をあててみることも出来るだろう。ピーターとフックは並び立つことの不可能な仇敵同志であるが、フックがピーターに対して抱く執拗な憎しみの念について作者はこのように語っているのだった。

 ピーターがフックを不倶戴天の宿敵であると見なす理由が、生死を賭けた抗争と関わる実際的な利害関係などとは無縁のところにあったように、フックがピーターに対して抱く限りない憎悪の念も、手を切り落とされたことで被った不便であるとか、鰐に付きまとわれることで及ぼされる生命の不安であるとか、このような実質的な利害に関する遺恨や畏怖にあるのではない。ピーターの生意気さこそが何よりもフックの気に障るのだというのだ。フックの繊細な感性にとっては、ピーターの示すこの生意気さはその高邁な精神を愚弄する、侮辱的なものでさえあるのだ。ピーターの隠れ家に忍び込んだフックは一人眠っているピーターの姿を見つける。余りにも無防備なその様を見て、心の底から邪悪である訳ではないフックは、あるいは同情の念を感じて引き返したかもしれない、とも実際に作者によって語られていた。しかし彼に足を踏みとどまらせる何物かが、確かにピーターにはあったのだ。

ここに述べられているピーターの“生意気さ”も、実際のところは彼の不可解な乳歯の場合と同様に、因果関係の連鎖の転倒という巧妙な観念操作を軸にして語られた、鮮やかなレトリックの所産であることに間違いはない。敢えて擬装された真実を暴露するならば、本当のところはピーターの保持していた属性の一つである“生意気さ”がフックの心を苛立たせるのではなく、ピーターの存在自体が否応も無くフックを苛立たせる原因となる謎を秘めており、そのためにフックはピーターの姿に避けるべくもなく“生意気さ”という圧倒的な主観的印象を感じ取ってしまうのだ。フックは絶え間なくピーターのために心を苛まれ続ける永遠の被害者であり、不可避的に救済される術を奪われた、宿命的な受難者なのである。この両者の関係性が主客を転倒した相互作用的現象認識に関する記述手法の展開の一例として、“生意気さ”という属性あるいは概念を採用してさりげなく語られていた、というのが事の真相なのであった。  船上での最後の戦いの際においても、ピーターの存在の謎は改めてフックの傷つきやすい心をいたぶる。哀れな受難者の海賊には、実は一つ思い当たる節があるからだ。フックはかすれた声で、「パン、お前は一体何物なのだ。」と誰何してみる。ピーターの答えはこうだった。

ここでもピーターの答えは、例によって当てずっぽうだ。ピーターは何一つ確かなことを知らない。そしてそのこと自体がフックにとっては痛ましいことに、ピーターが彼の唯一の弱点であるたしなみの良さの具現化であることを物語っている。ピーターは自己認識のあり方において正に「何も知らない」というそのことのおかげで、いかなる罪の意識からも、自己の存在理由に対するどのような疑念からも自由であり続けることができるからである。(7)ピーターにおいては「名無しの森」に紛れ込んだアリスと同様に、個体として存在する上で誰もが抱え込まなければならない筈の、執拗な縛鎖のような自意識からの開放が暗示されているのだ。けれどもピーターに与えられたこの限りない自由は、彼の体現する謎の展開領域をさらに次元軸を加算して辿っていってみればいずれ判明するように、実はやはりこの上もなく苛酷な呪縛に他ならないものでもあったのである。


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