汎宗教とパン


 誰もが知っているようにピーターは決して成長することの無い、永遠の子供である。しかし永遠の子供とは実はあり得ない存在のことでもある。何故ならば子供とは言葉本来の意義からして、成長して大人になることが避けられない生物のことを言うものであるからだ。決定的にピーターが他の子供達と異なるのは、彼が断固として大人になることを拒絶する点だが、実際にはそんな子供はいる筈が無い。ピーターは論理矛盾の具現化のような性格設定の持ち主なのだ。そればかりではなく、ネヴァランドという世界と同様ピーター自身にも、非在を暗示する部分が確かにある。ピーターという存在は矛盾撞着そのものを存在原理とする、ある種の不可能性の記号であると言ってもよい。例えば彼の固有の能力である空を飛ぶ力について、ここで論理学のおさらいをしながら検証してみることにしよう。

 成長しない子供はいない。(There are no children who don't grow.)
 →いない子供は成長しない。(No child does not grow.)
 空を飛べる子供はいない。(There are no children who can fly.)
 →いない子供は空を飛べる。(No child can fly.)
 よって成長しない子供は空を飛べる。?(Therefore a child who does not grow can fly.)?

 三段論法としては実はかなり怪しげな部分もある証明だが(1)、→で変換した箇所についてのみは、元を持たない空集合を一つの集合として認める論理学の世界においてはこれは正しい変換式だ。命題の述語部分を主語に冠した限定辞(modifier)に置き換えても命題の値が等しいという規則を応用して、「〜では無い」という否定的命題における否定辞"not"を主語に冠した属辞"no"に変換することによって消去し、「存在せぬ〜は〜である」という定言的命題を生み出すのは、論理学の初歩のお約束事の一つなのだ。
 このルールに従えば、「存在する」も「存在しない」も命題の主語となる仮想的存在物の所有する属性の一つに過ぎない。同様に虚数(imaginary number)のように仮想的(imaginary)であることや、論理矛盾を内包した「二律背反するあり得ないこと」も、仮構的存在物においては保持されている数有る属性の一つであって良いということになるのだ。
 考えてみれば「〜は〜では無い」を「存在せぬ〜は〜である」と同値と看做したこの論理空間を大きく拡張し、不可能事として是認されている現象の顕現の様を描いたのがファンタシーの世界の基本文法に相違ない。
 『ピーターとウェンディ』の背後に隠されていた潜勢的世界構築原理は、上にあげたような明らかな偽説などとは截然と区別される、存在様態の再定義と記述様式の選択に関わるいわば形而上学的パースペクティブ構築フォーミュラとして理解されねばならないものであったのだ。様相論理学もファンタシーも共に現代における形而上学的存在論の復権に寄与するところが大きい。存在原理たる神を殺してしまった20世紀人は、形而上学的論理システムと形而上学的夢想世界のみを選んで復活させてしまったのかもしれない。
 ピーターは空集合の元としての属性を与えられたパラドクスの具現化であり、非在というモディフィケーションを施されたが故に万能なるドイツの伝説の妖怪Niemand、言語空間のみにおいて主体として顕現することが可能になる英語世界の超越的能力者nobodyに連なる、遠くはギリシア世界からその起源を発する「ウーティス」の系譜(2)に属する観念的存在者の一人だったのである。
 このようにピーターという存在は、女性達が一目でそれを視認し盲目的な愛情に捕らわれてしまうというあの不可解な乳歯以外にも、やっかいな属性をふんだんに備えている、秘密の詰まった迷宮的玉手箱のような代物だったのだ。このあたりでピーターというキャラクタ−が『ピーターとウェンディ』において実際にどのような特徴を持つものとして描かれてきていたのか、最初から順を追って確かめておく必要があるだろう。
 ピーターという名前が最初にこの作品の中に登場するのは、ダーリング夫人が毎日の日課で「子供達の心の中を整理」している時だった。

Occasionally in her travels through her children’s minds Mrs. Darling found things she could not understand, and of these quite the most perplexing was the word Peter. She knew of no Peter, and yet he was here and there in John and Michael’s minds, while Wendy’s began to be scrawled all over with him. The name stood out in bolder letters than any of the other words, and as Mrs. Darling gazed she felt that it had an oddly cocky appearance.

pp. 10-11

 時折子供達の心の中を旅する時ダーリング夫人は訳の分からないものを見つけることがありました。その中でもとりわけ不思議だったのがピーターという言葉です。ダーリング夫人はピーターなんていう人は知りませんでした。けれどもこのピーターはジョンやマイケルの心の中のあちらこちらにいたのでした。その上ウェンディの心は一面ピーターという名前であふれそうになっていました。この名前は他の言葉よりももっと太い字でくっきりと書きこまれていたのです。そしてダーリング夫人はこの名前をじっと見ているうちに、なんだかこれが妙に生意気そうな顔つきをしているような気がしたのです。

 ピーターという名前は子供達の心の奥底に埋もれていたものだ。実在的な外界としてではなく、意識の奥底の内界にあるものであるという点で、ピーターはネヴァランドと相似した存在である。そしてダーリング夫人が「子供達の心の中を整理」することができるのは、彼女の心象世界と子供達の心象世界が奥のところでつながっているからこそ可能なのだ。この指摘は本章の後における論の展開において重要な契機を提供することになるだろう。ダーリング夫人は最初はこのピーターという名前に心当たりが無く、とまどうが、自分自身の子供時代を振り返って、ようやく彼女もピーターのことを思い出す。

At first Mrs. Darling did not know, but after thinking back into her childhood she just remembered a Peter Pan who was said to live with the fairies. There were odd stories about him as that when children dies he went part of the way with them, so that they should not be frightened. She had believed in him at the time. But now that she was married and full of sense she quite doubted whether there was any such person.

p. 11

始めのうちはダーリング夫人はこれが誰なのか分かりませんでした。けれども自分の子供のころを振り返って、妖精達と一緒に住んでいるというピーター・パンというひとのことを思い出しました。ピーターについては不思議な話がありました。子供達が死ぬとピーターは子供達が怖がらないように、途中まで一緒について行ってくれるというのです。そのころはダーリング夫人もピーターのことを信じていました。でも今は彼女は結婚して分別もあるので、そんなひとがいたかどうか、とっても疑わしく思いました。

 大事な事が二つある。一つはピーターが妖精達と一緒に暮らしていると言われていたこと。もう一つは子供達が死んだ時に子供達が怖い思いをしないで済むように彼が途中まで付いて行ってくれる、ということだ。
 ピーターは妖精達の仲間だ。では妖精というのは一体どういう存在だったのだろう。言うまでも無く妖精とは、キリスト教が侵入してくる以前に様々の国々で人々の信仰の対象となっていた古代の神々の変化した姿に他ならない。他の神格の存在を一切認めない排他的な宗教であるキリスト教は、布教を拡大した地域でこれまで崇拝の対象となっていた土着の神々を魑魅魍魎の類いへと堕落させてしまった。しかし贖罪と契約という教義で人々の心を拘束した、教会によって制度化されたキリスト教は、人類の犯した始源的な罪という発想を前提とし、世界の破滅を予兆する極めてペシミスティックな教えであった。この頑迷な新体制は周囲を取り巻く自然とその自然と一体である土着の精霊達と日々共に暮らしている民衆には言い難い軋轢を強いることとなる。彼らは唯一の公認された神に対する暗い帰依と、幾多もの非公式の神的存在である精霊達との明朗な共存という二重構造の信仰生活を送ることとなってしまった。しかしルネサンス以降の近代の合理的科学精神の発達と共に、この宗教の強いる教義のファンダメンタルな部分の矛盾性が次第に暴かれていくこととなった。その決定的な打撃がダーウィンの『種の起源』において説かれた進化論であったことは改めて言うまでも無い。けれども『種の起源』が現れる以前に、例えばスウェーデンボルグ(Emanuel Swedenborg)のような科学的、合理的精神の持ち主が既存の宗教の世界像構築システムの再検証を試み、既に超越宗教、そして汎宗教と呼ぶことのできるものの確立という可能性を模索していたことは注目するに足る事実である。
 キリスト教という枠組みで表された世界創世の原理を、スウェーデンボルグは「聖書心理学」という言葉で呼んで良い立場から、改めて解釈し直したのであった。「創世記」の読み直しというこの作業はキリスト教の支配下における中世的暗喩の体系とは全く異なった立場から、実在と超越的存在との間の関係のあり方を翻訳し直そうとするものであった。(3)この手法は、後にパラケルスス(Paracelsus)の錬金術を「現代科学」の方法論を用いて心理学の分析として考察する作業を行ってみせたユング(Carl Gustav Yung)のとったものに極めて近しいものである。中世的迷妄と決めつけられていた錬金術を、実在と精神との間の関係を修復し、世界の正しい方位付けを行うための心的反省作用というダイナミックな試みとしてユングは再評価したのであったが(4)、その過程には従来のキリスト教の体系にあったものとは全く異なった宇宙論が自覚されていた。それは宇宙の全一性の中に生かされるものとしての「個」の発見であった。全にして個であり、個にして全である(5)という一見論理矛盾とも思われる存在物の属性記述に関する新たなる解式を通して伝統的な「理性」の制約を乗り越え、無意識の中に潜む直観力を解放することによって正しい宇宙の運行規則を回復する術を目指す、という生のモデルを彼は見い出したのである。
 実はこの思想自体ははさほど目新しいものでは決して無い。むしろ教会によるキリスト教支配がなされる以前の古代世界においては、時代と地域を越えて普遍的に受容されていた神秘思想の一つの典型でさえあった。それがスウェーデンボルグによって三位一体説などのような形骸化した教理を合理的観点から批判させることを可能にした、理性の時代において復活したのは注目すべき事実である。我々はここで一つのパラダイムの転換を企てなければならない。理性の時代の要求する合理的・分析的思考形態がパラダイムの変換を経て、超論理的・直観的思考形態に一時その場を譲った、というパラダイムを修正し、合理的・分析的思考の延長線上のもう一端に当然の帰結として、全一的宇宙観に基づく二者択一の制約を越えた極限論理的(hyper logic)思想が発現している、というパラダイムが獲得され直されねばならないのである。(6)
 丁度スウェーデンボルグとユングを繋ぐ線上に位置すると考えられるのがドイツ・ロマン主義であった。ロマン主義の正体は、一般に言われるような理性の時代に対する情動面からの反抗などという図式では到底理解しかねるものである。彼らは文学的である以前にまず科学的であった。科学的関心が哲学に作用し、その実践が文学という営為に実を結ぶこととなったのである。ドイツ・ロマン主義における宇宙論のモデルは「鉱物学」という形で意識されていた。鉱物水成説・鉱物火成説等の地質学的論議を通して彼等は当時の最先端の科学知識を吸収し、新鮮な本体論へと導かれる哲学的地盤を形成しつつあったのである。(7)ノヴァーリスを始めとして、「鉱物学」はキリスト教の宇宙論に関する基本的理解を再検証する作業を進める上で重要な指針を与えるものであった。プロテスタント主義の支配するドイツではあったが、18世紀から19世紀にかけての科学知識の持ち主たちは、新教対旧教という対立を越えて、実際に総合宗教の完成を構想するところまで歩を進めていたのである。
 彼らは従来のキリスト教を否定したことによって反宗教の立場をとったと言っても良いし、教会によって制度化された従来のキリスト教的教義を乗り越えて、さらに普遍的な宇宙観を復活させたという意味で究極的に宗教的であったと言ってもやはり良い。ドイツ・ロマン派の多くが後にカトリックに改宗したという事実は、彼等の思想の根本理念の矛盾がもたらした挫折として捉えることも出来れば、ある意味で思想の根本理念の要求する存在と行為の一致に従った当然の帰結であったと理解することもできる筈である。実証的存在論に拘泥することなく、観念的な論理空間における超越局面的存在様態を積極的に開拓しようとするこうした次元での思念を「形而上学」と呼んで弁護したのはドイツ・ロマン派の影響を強く受けた、哲学的奇想書『ユリイカ』(Eureka, 1848)の著者であるエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe)であった。このような形而上学は近代科学の発展と共に加速度的に展開されていったのであり、科学精神に逆行する単なる古代世界回帰の願望が生み出した虚妄だった訳では決してあるまい。言わばこのような意味に於ける形而上学は合理的科学精神の行き着いた結果生まれた、観念的相転移の所産であり、必ずしもモダニズムの動きに逆行するものとばかり見なすべきものではないのである。(8)ニュートン的古典物理学の正しく延長上に量子物理学的モデルが花開いたのであり、デカルトの事象を個別的に分離して解析する手法の極まったところに、結局は相互作用という概念を導入して得られた新たな全一的宇宙観が導入されもしたのであった。我々はこれらの既成概念に迂闊に対立的機構のモデルを当てはめることは控えるべきであろう。モダニズムとポスト・モダニズムという対照の図式程安直なものは無い。むしろそこには「正反対の一致」(coincidentia oppositorum)の原理が慎重に読み取られるべきではなかっただろうか。西洋の近代的合理主義は確かに産業資本主義という害悪を生み出したが、責められるべきは産業資本主義に便乗して卑賤な功利的手段に走った道義的堕落の精神であって、これは民衆主義的共産主義における道義的堕落と正しく等しいものであった筈である。合理主義自体に責を負わせるような愚挙は避けるべきであろうことと同様に、硬直したモダニズム批判を闇雲に受け入れることもまた慎むべきであろう。
 世界解式の変換を企図したドイツ・ロマン派が選んだのは、“The West is clever; the East is wise”(9)「西洋は利口だが、東洋は聡明である」という言葉で示されるように西洋的論理と超越的絶対真理との乖離を認識し、言うなれば東洋的観照の道を模索することであった。彼等はある種の内観に行き着くための精神修養の手段として芸術作品鑑賞を理解するようになる。彼等の残したメルヘン(Marchen: fairytale)は正しくそのような目的のために生み出されたものであった。そこにおいて形骸化したキリスト教的呪縛から精神を解き放って、より合理的で自由な自然観を記述するために彼等が選んだのが、世界の構成要素である地・水・火・風の四つのエレメントの具現化であるとされていた精霊であり、その文学的な表現形が妖精達であった。マクドナルドの科学的関心が鉱物学にあり、伝統的なキリスト教の教えから逸脱した神秘思想を説く牧師であったマクドナルドのファンタシー作品の多くに妖精の存在が影を落としているのは、まさにこのような思潮を反映している。マクドナルドはドイツ・ロマン派の正統を継ぐ哲学的・文学的後継者であった。(10)ドイツ・ロマン派以降「妖精」という文学作品中の存在は西洋の世界観を根底から揺さぶるファクターとして機能し続けてきたのであった。
 しかしマクドナルドにせよ彼の先達となったドイツのロマン主義者達にせよ、自然の4大構成要素の具現化の図像としての精霊の存在をあるがままに信じていた訳では決してない。彼等の再発見した自然は身の回りを取り巻く外界としてではなく、むしろ自身の精神の内奥に潜むものとしての宇宙像であった。無意識と先験的叡知への回帰の必要性という自覚が、文学的表象の手段の模索の過程として、「妖精」という劇作手法的小道具を生み出したのである。「妖精を信じる」という標語を掲げた彼等は、その問題意識の先進性を自覚するならば、文字通りの民間信仰にある妖精達の存在を信じてなどいない、ということをこそ大前提として強く自覚していなければならなかった筈だ。妖精とは物質としての外界の構成原理を記述するメタファーであると同時に、紛れも無く精神としての内界を記述する心理学的記号でもあったのである。ロマン主義における妖精が体現していたこの信仰と不信の曖昧性は、バリにおいてさらに先鋭化された形で応用されることになるのである。信仰の背後の不信と不信の背後の信仰の投影するものを正しく読み取ることが出来なければファンタシーの戦略を正しく評価することは出来ない。
 例えばマクドナルドの処女作Phantasetes: A Faerie Romance for Men and Women (1858)においては、妖精と妖精界はそれぞれ人間と客観的実在世界の影として存在する対照的な概念として捉えられていた。昼と夜が交代するがごとく夢と現実が交代して顕現し、その住民たる人間界と妖精界が互いを補い合ってより緊密で堅固な真の実在世界を形成している、という構図で人間の霊性の秘密と世界構築原理の神秘を記述することが、ファンタシー文学の思想的特質を最も顕著に表していると思われるこの作品の企図したところであった。典型的なドイツ・ロマン派の作家ホフマンE. T. A. Hoffmanの「ブラムビルラ王女」("Prinzessin Brambilla", 1821)に描かれた夢幻界と現実界の一見不可解な二重構造と奇妙な連続性に照らし合わせてみれば、マクドナルドの本作品における創作戦略はたやすく理解できるだろう。これに従えば世界の機軸があたかも陰と陽の原理にも似た対称性から成り立ち、玄妙な相補性という関連のもとに妖精と人間がそれぞれ互いの影あるいは実体として機能していることになる。実体たる人間にとっては自分自身の中に潜む未知なる領域が影であり、さらに自分自身を除いた世界の全ての領域が影でもありうる。つまり全ての部分が全体を補完するために欠かせない要素であり、無数に存在する全ての部分の補完物として一つの全体がある。絶えざる断片化の果てに崩壊しつつある近代西洋的自我の存在原理を保障すべき、統合的な説得力を備えた超宗教的方位磁針が、このように全体性を支える影の原理の再評価として切実に模索されていたのであった。自分自身の一部をなしていながら、本体と分離した途端、人間界も自然界も含めて世界の全ての秘密を知り、森羅万象をわが物のように操る魔術的能力を発揮する不可解な影は、アンデルセンの短編「影」("Shadow")やワイルドの童話「漁師とその魂」("The Fisherman and his Soul")において描かれている影の場合にとどまらず、19世紀において様々な国において書かれた分身を題材にする物語群と等質の主題を共有していたものであり、同時にそれは魔法という知のシステムとしての概念の暗示する世界解式的原理機構とも密接に重なり合うものであった。意義有るものとして存在するかけがえの無い宇宙とその中で確固たる守備領域を任じられている筈の唯一の自我を包括すべき普遍的原理を示す具象的存在物として、人の影たる妖精があったのである。(11)
 その妖精達と存在論的価値においては等価である古代神パンでもあるピーターが、「子供達が死んだ時途中まで一緒について行ってくれる」ことの意味は何であろう。これは単にピーターが死神の役割を司るものであることを意味するものでは無い。子供達は幼い頃から既にピーターの存在を知っていた。ピーターのことを忘れてしまうのは大人達だけである。子供と大人という様態が一人の人格の生の中で不可分であるのと同様に、生と死もまた不可分な魂の様態なのである。思えば生まれるということは死に始めるということに他ならない。誕生と共に、死と共にピーターは意識の主体の前に姿を表す。ピーターは外界から闖入する他者ではなく、魂の特有の励起状況の許に自覚される己自身の影だからである。
 このように自らの奥底を覗き込むことによって、時を越え、空間を越えて世界の本体を自覚し得るという発想こそ、ドイツ・ロマン主義の再建した古代思想であった。同等の宇宙観の痕跡が東洋思想の様々な局面において、例えば仏教やヴェーダ哲学、道教等の中にも垣間見られることであろう。また、古代ギリシアのエレア学派の祖パルメニデス(Parmenides)や新プラトン派のプロティノス(Plotinus)等に代表される神秘思想にも様々な共通項が見出されることであろう。これらは近代西洋社会の影の文化、隠秘学として実は長くその命脈を保ち続けてきた夜の世界の思想の中に確実に継承され続けてきたものであった。
 ピーターにおいて顕現していた「非在」という属性の獲得によってもたらされた万有と万能、遍在と普遍という発想は、神の死がもたらされた現代世界における新たな神の存在証明としての意義を担わされていたとも言える。それならば結局はファンタシーも、外界を内界の延長として捉えることにより、他者を自己の一部として、自己を他者の一部として繰り込み、世界のロゴスによるコスモス化を図ろうとするモダニズム的統一戦略の一つではあったと見做し得ることだろう。かくして自然と意識の主体との間の断絶を修復し、自然の一部としての自己と自己の背後にある自然を共に回復する使命を担わされたことによって、妖精達は再び元来の神としての高邁な本性を回復させられることとなったのである。
 こうした意味においてピーターとは、言葉本来の意味であるがままの自然を体現するものであり、その大いなる自然と不即不離の関係を持つ自分自身を捉える汎神論的な宗教を暗示するものであり、その宗教とは特定の教義に縛られることなく宇宙の存立原理を観照する術の総てを包括する汎宗教なのであった。『ピーターとウェンディ』においては半人半獣の姿をした笛を手にする古代神Panは、pas =all(汎)=panと同定されることとなったのである。


(1)

 当然ながらまっとうな三段論法は以下のようになる。

 ピーターはいない子供である。
→Peter is no man.(ピーターは存在しない。)
 いない子供は空を飛べる。
No man can fly.(誰も空を飛ぶことはできない。)
よってピーターは空を飛べる。
→Therefore Peter can fly.(よってピーターは空を飛ぶことができる。)

(2)

 世界の様々な神話・伝説の中に姿を現す「非在」という属性に基づく論理空間上の超越的能力者“nobody”の系譜については、『〈無人〉の誕生』、楜澤厚生、(影書房、1989)を参照されたい。

(3)

 スウェーデンボルグのこのような意味における再評価としては、高橋和夫、『スウェーデンボルグの思想』、(講談社現代新書、1995)を参照されたい。

(4)

 C. G. ユング、『パラケルサス論』、榎本真吉訳、(みすず書房、1992)参照。

(5)

 この古くからの発想は20世紀に至ってボーム(David J. Bohm)の「宇宙の全体性」という構想の提唱、ベル(John Stewart Bell)の「事象は宇宙において非局所的に作用する」という定理の発見、プリブラム(Karl Pribram)の「ホログラフィー」というモデルを用いて宇宙全体がその部分である「脳」の裡に含まれる、という図式で世界の存立機構を理解しようとする見解の提唱など、一般に「ニュー・サイエンス」という言葉で知られる量子力学の様々な成果において不可思議な一致を見ることとなったのであった。これらの知見がもたらした現実認識の変革が20世紀後半のファンタシー文学再興の一因となっていることは言うまでもない。
 例えば個々の素粒子の確率変動値に対応した宇宙空間単位に展開する複数のレイアーを仮想し、全ての順列組み合わせの重ね合わせに対応した無数の可能世界の発現を仮想する量子的多元宇宙論も、有限な宇宙空間の全てを存在確率領域として保有する個々の量子を重ね合わせることにより網羅的な存在可能様態を散乱する一種の全体主義的世界解式であるという点において、マクドナルドの妖精界と人間界の補完関係の許に世界の崇高な全体性を構想する思想や、あるいは神智学の採用した霊性議論のように“corporeal"、“astral”という言葉を用いて呼ばれた物性と霊性という次元の重ね合わせとして、外界と内界を含めた世界構造全体を捉える理論などと軌を一にする、やはり影の思想の一変奏にほかならないとも言うことができよう。

(6)

 理性の限界を当の理性が認識し得ることを立証した、とされるゲーデルの定理は、当然ながら理性の限界を認めるしか無い、という敗北宣言の裏返しでもあるが、このようなウロボロス的二面性の自覚がアテベリーが問題にしていた20世紀後期のファンタシー文学の色濃く反映していた思想的特徴の一つであることは言うまでも無い。

(7)

 今泉文子、『鏡の中のロマン主義』、(勁草書房、1989)参照。

(8)

 マクドナルドと共に19世紀イギリスのファンタシー文学勃興の一翼を担った『水の子』(Water Babies, 1863)の作者Charles Kingsleyが自然科学的な水棲動物誌の要素の強い『グロウカス、もしくは浜辺の神秘』(Glaucus or The Wonders of the Shore, 1855)を著していることは決して偶然ではないし、『水の子』において翼竜(pterodactyl)の化石についての論議がなされ、地質自然史的関心が強く現れているのはむしろファンタシー文学特有の哲学的、宗教的関心を示しているのである。

(9)

 Marianne Thalmann, The Romantic Fairy Tale, p. 2.

(10)

 そしてこのような鉱物幻想を強く反映して、超越宗教の可能性を模索し、精神的救済の手段としてのファンタシー文学の創造という形でこれらの人々の日本における後継者となったのが、宮澤賢治だったのである。賢治の研究した「地質学」は、応用技術的な「農学」に生かされる以前に、哲学的方位磁針として彼の思想に強く作用していたのである。彼は時代に先んじて既に量子力学の暗示する新しい世界解式の可能性に着目していた。賢治の選んだ宗教は世俗化した仏教の一区分をなす狭い教義にあったのでは無く、「日蓮宗」を含めキリスト教その他宗教一般を包括する視点が賢治の裡にあったことはたやすく理解しうる事実であろう。

(11)

 ポーの短編「天の邪鬼」("The Imp of the Perverse")においても意識の主体の行動を実際に支配してしまうことになる裏の意識の及ぼす衝動が、「天の邪鬼」という妖気の一種として捉えられる一方、主体の存在自体を形成する相補的要素としての「影」という図式で明らかに意識されていた。(We tremble with the violence of the conflict within us, -- of the definite with the indefinite -- of the substance with the shadow.)例えて言うならばギリシア神話の神々を抽象概念や人間の感情を「擬人化」したもの、として理解する発想とは全く別個の図式でもって人間存在と世界存立機構の核心を捉える発想がここにあるといえよう。内面心理の一要素が実在としての外部構造に直截に反映されていることを前提として、これらの神と妖精の類いが心中に発現する抽象概念や感情を表す語と同義のものとして呼ばれ得ていたのであった。「愛の女神アフロディーテのコスモス空間における顕現」という事象は、記述モードを変換するならば「一個人の意識内のある特有の情動の変化」という一方の現象でもまた実際にあり得た訳だ。これらは極大と極小が結びついて連環をなすウロボロスの表象にも暗示されていた、宇宙の共軛的潜勢力として機能する要素の各々であったのだ。さらにはソクラテスの聞いた内なる声であるダイモニオンとして現れた「分身」と、エピキュロスの唱えた世界の運動原理に作用する「普遍的法則性」である偏奇性(クリナメン)を同一物の示す対極的な様相として統合的に理解することもまた許すであろう統一宇宙原理に相当するものがここには想起されている訳だ。天の邪鬼の衝動が主人公の犯した悪行を暴く「正義」の陣営に属する「魔的なもの」であったことを思い起こせば、「ウィリアム・ウィルソン」("William Wilson")において現れた分身が主人公の犯す悪行を糾弾する良心の具現化であったことと合わせて、「影」が慣習的な善悪二元論における通俗的な否定的存在物として認識されていた訳では決してないことが分かる。"imp of the perverse"の存在を倫理的悪に属するものとして規定することを飽くまでも差しとどめ、多元的価値基準に基づいて影の存在意義を改めて評価しようと試みる手順がここで積極的に機能していることは、現代的価値基準の多様化と呼ばれるものと現代が見失ったとされる古代的全一思想の内実が実はことの他近接したものであることの証左であると言えよう。
 原子論の創始者デモクリトス(Democritus)の名をとってデモクリトス・ジュニアを名乗ったロバート・バートン(Robert Burton)が、「憂鬱の解剖」(Anatomy of Melancholy, 1621)において様々な疾病・障害のみならず怪異・超常現象、社会問題や天変地異に至るまでを「憂鬱」という精神的疾患の引き起こした病理的な現象であるとして論じてみせた根拠が、総体としての歴史的・博物誌的な現象世界的事象と個人の内面心理的現象が重ね合わせ可能な連続体であるという前提にあった筈であることを理解すれば、「現代性」という概念の年代的定義に再考の余地があることを十分に窺わせることであろう。

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