ハートレスな子供達


 『ピーターとウェンディ』においては「正義」の所在は問題にされていない。ピーターも子供達も堅固な倫理観を備えて不正と戦う正義の味方なんかでは決してないし、彼らの仇敵の悪党キャプテン・フックの存在も、作品世界の倫理的極性を規定する絶対悪として機能している訳ではない。(1) さらに「食べること」に関わる倫理のパラドクスが棚上げにされるどころか、むしろ「食べること」に附随する倫理のディレムマの存在を嘲笑するかのように、快楽のための殺戮行為にあからさまに見てとることができる「残酷さ」が、作品世界内の価値基準を決定する美学の条件として積極的に強調されてさえいる。
 ピーターは実際に人を殺すことなど、なんとも思っていない。ダーリング家の子供達をネヴァランドへと連れて行く途中で、いかにもさり気なさそうにピーターは尋ねる。「ちょっと冒険してみるかい?それともお茶を先にするかい?」(p. 67) 常識的なウェンディはすかさず「お茶がいいわ。」という。臆病なマイケルはほっとしてウェンディの手をぎゅっと握り締める。けれども勇敢なジョンはそう簡単に勇壮な冒険の機会を逸する訳にはいかない。ジョンはピーターに尋ねる。「どんな冒険なの?」するとピーターは答えてこう言うのだ。

pp. 67-8

 思わず怯えて「もしも海賊が目を醒ましたらどうするの?」と聞いてしまったジョンにピーターは憤慨してこう答える。「ぼくがあいつを眠っている間に殺しちゃおうと思っているとでもいうのかい?ぼくはまずあいつの目を醒まさせて、それから殺すんだ。それが僕のやり方さ。」
 海賊の寝込みを襲う方が好ましい、父親譲りの実利的なジョンの感覚とは異なって、ピーターのやり方は確かにフェアだ。けれどもピーターは悪を滅ぼすという大義名分のもとに清廉潔白な行動のみを自らに強いる正義の味方なんかではない。ピーターの行動を支配する基本原理はもっと別のところにある。これについては後に舞台を改めてさらに詳しく語らねばならないだろう。(2)
 気押されて「ね、君たくさん人を殺したこと、あるの?」と聞くジョンにピーターは素っ気なく、「そりゃもう何人もさ。」と答える。ピーターにとっては海賊との血腥い殺し合いなど、日常茶飯事なのだ。ネヴァランドには戦いの相手となる大勢の海賊達が待ち受けている。ところがさすがのピーターも海賊達の親分の名を口にする時には険しい顔つきになる。その名はジャス・フックだ。なぜか不思議な事に子供達も彼の名を知っている。(3)フック船長といえば、黒髭船長の許で水夫長をしていた、あのバーベキュー船長さえ唯一恐れていたという名うての悪党だ。「フック船長ってどんな人?体は大きいの?」と尋ねるジョンに対するピーターの答えはこうだ。「昔ほど大きくはないな。」「それってどういうこと?」「ちょっと切り落としてやったからさ。」ピーターは以前にフック船長の右手を切り落としてしまっていたのだ。フックとの宿命的な抗争においては明らかに加害者はピーターの方である。
 ピーターには自らの行動を峻厳に統括する規範となる筈の倫理は存在しない。生命維持のための最小限の加虐行為である食べることのためどころか、気まぐれの遊びの目的でピーターは人を殺傷するのだ。そして子供達はピーターの指揮の許、喜んでこの蛮行に加わる。島にいたロスト・ボーイズ達もあるものは実際に海賊を殺し、あるものは抗争の中で自分の命を失っている。ピーターの手下の一人のスライトリーは、物語が大団円を迎えたフック船長と子供達の最後の戦いの際に、一人、また一人と倒されていく海賊達の数を冷徹に数えあげていく。(pp. 216-25)残忍さにおいては子供達は海賊達と何ら変わるところは無い。その証拠に、フック船長を倒して彼の船を奪った後、子供達のあるものは自分達が海賊になることを望んだりもする。

p. 233

 子供達はその粗暴さと卑劣さという本性において、彼等の敵の海賊達と全く変わるところはない。手下を犬のように扱うピーターはフックにそっくりだし、親分の絶対的権力に従っていかなる反道徳的行動でもとりうる子供達は、何故か鏡像的な程フックの手下の海賊達とそっくりだ。ダーリング家の最年少の一番臆病なマイケルさえもが、海賊を自分の手で殺す。そしてマイケルは物語の終わりにわが家に帰って父親のダーリング氏の姿を久しぶりに目にした時、いささかの失望を交えて父親を海賊と比較することになる。

pp. 244-5

 この物語において人殺しという残虐行為を行うことと、このように両親を粗末に扱うことは、実は同等の意味を持っている。両者とも子供達の自己中心的な考え方を端的に示すものだからである。子供達はピーターの誘惑に負けていともたやすく両親を見捨ててしまった。しかもこの誘惑に最初に陥落したのは、ダーリング家の最年長の子供であり、ネヴァランドにおいては分別ある「お母さん」の役割を健気に演じていたウェンディだったのである。子供達はネヴァランドを訪れた後、自分達の見捨てた両親のことをすっかり忘れてしまっていた訳ではない。それどころか実のところ事はもっと険悪なのだ。子供達は大人達が考えるよりも遙かに厚かましい、どうしようもない生き物なのだ。作者はウェンディについてこのように語っている。

pp. 115-6

 ウェンディを含めて子供達の心は際立って自己充足的であり、他者の思惑を心に留める余地を持ち合わせていない。その証拠に母親と子供との間の関係は語り手によれば以下のようなものだ。

p. 168

「彼らが自分達の心と呼ぶものの中でこう思っている。」ということは、彼らが実際には「心」というものを持っていないということだ。これこそが正しく子供達の特徴的な部分だ。彼らはハートレス(heartless)な生き物なのだ。これは『ピーターとウェンディ』の中で繰り返し語られている厳格な事実だ。例えばフック船長に生け捕りにされた子供達は、フックに彼らの内の二人をキャビン・ボーイとして受け入れる用意があることを告げられる。キャビン・ボーイにして貰えれば処刑されずに済む。ところがこの申し出を受けたトゥートルズの心の内はこうだ。

pp. 207-8

彼はいつになく賢し気にフックにこう答える。

p. 208

 こうして子供達は代わる代わる仲間達に決定的回答を述べる手番を押しつけ合い、各々が母親をだしにつかってフックの申し出を断る。子供達にとって母親はこんな風に利用するだけの有用な道具に過ぎない。そして正に彼女が彼等にとって便利すぎる存在であることを理由として、彼等は母親を軽蔑するのである。家庭にせよ両親にせよ、気儘な冒険に胸を膨らませる子供達にとっては、都合の良い一時的避難所、ただそれだけの意味を持つものでしかない。だからネヴァランドを見捨ててわが家に戻ったダーリング家の子供達は、極めて身勝手な態度をここでも示す。

p. 244

 子供達は自分達の生まれた家についての確かな記憶を失っているばかりか、子供達が去ったことを自分の責任であると感じて、わが身を責めるために犬小屋の中で暮らしているダーリング氏(3)の姿を見つけても、心の痛みを感じることは無い。むしろ自分達の記憶の不確かさに身勝手な驚きを感じている程なのだ。

p. 245

 子供達は両親を見捨てて勝手にネヴァランドへと飛び去った自分達の行動に後ろめたさを覚えることすら無い。むしろ折角帰って来てあげたのに、ちゃんと出迎えてくれないと、母親の不注意を責める程だ。

p.245

 このように道義性においてはなはだ当てにならないのが子供という自分勝手な生き物だ。彼らには責任感も反省も思いやりさえも無い。メイク・ビリーブと現実を混同して自分だけの世界に一人満足して暮らしているのが子供という邪悪な意識体のあるがままの正体だ。「じゃあウェンディは本当はぼくたちのお母さんじゃなかったの?」マイケルは眠そうな声で尋ねるのだ。このようなハートレスな子供性を余すところ無く描いているのが『ピーターとウェンディ』という作品だ。そしてこの子供達の身勝手さには、専制的な権力を行使する主人公のピーターさえもが裏切られてしまっているのだ。にわかにわが家のことを思い出して両親の許に戻ることを検討し始めたダーリング家の子供達に誘われて、ピーターの許で暮らしていたロスト・ボーイズ達までもがダーリング家に引き取ってもらうことを真剣に考え始める。これは彼らにとってはかつて経験したことの無い新しい冒険なのだ。現実世界に戻ろうという提案をどうしても受けつけないピーターを一人残して、彼らはダーリング家の子供達と共に現実世界に回帰する決心をする。

Thus children are ever ready, when novelty knocks, to desert their dearest ones.

p. 172

こういう風に、子供達はいつも目新しいことがおこったら一番大事な人でさえ捨ててしまえるものなのです。

 子供達は子供達同志の信頼関係を守って団結することは決してない。そこには支配と従属という力関係と裏切り、見捨てるというはなはだハートレスな行為があるだけだ。そしてピーターからロスト・ボーイズを奪ったウェンディはその痛烈なしっぺ返しをピーターから受けることになる。一人ネヴァランドに帰ろうとするピーターを引き止めようとしてウェンディはピーターを呼び止める。

“Oh dear, are you going away?”
“Yes.”
“You don’t feel, Peter,” she said falteringly, “that you would like to say anything to my parents about a very sweet subject?”
“No.”
“About me, Peter?”
“No.”

pp. 250-51

「ねえ、ピーター。いっちゃうの?」
「うん。」
「ピーター、私のお父さんとお母さんにとっても大事なことについてお話したいことないかしら。」
「ないよ。」
「じゃ、わたしには?」
「ない。」

 ウェンディはピーターをダーリング家に引き取りたいという誠心な申し出を素っ気なく拒絶されるばかりか、ピーターと自分との間の親愛の念の確認すら冷淡に拒絶されてしまう。これが子供達の世界の偽らざる実情だ。そんな子供の意識世界を垣間見ることの不思議な魅力を十分に意識して描いたのが『ピーターとウェンディ』の作品世界だ。語り手の次の言葉は皮肉たっぷりに、こんな子供の精神世界を覗き込む観念遊戯の面白味を語っている。これは当の子供達には決して理解出来ない、大人だけが抱きうるもう一つの特異な感覚なのだ。

p. 166

 作者はヴィクトリア朝の児童文学作家達のように子供の世界を理想化して賛美することは決してない。そんなことは偽善に満ちた愚かな大人達の勝手に抱く幻想であることを良く承知しているからだ。そしてまた作者は『ピーターとウェンディ』においては、子供達の身勝手な願望に答えて奔放な冒険の世界ばかりを安逸に展開してくれているわけでも無い。当の子供達には知る由も無い、子供の世界を遠く離れた外側から窺う視点を備えた、一種独特の感覚を持ち合わせた教養ある大人だけが楽しむことの出来る哲学的省察の世界が、巧みな擬装を施した精妙なある種の毒を盛られた形でこの作品には展開されているのである。何故ならば子供たちの身勝手さに対するこれらの指摘は、実はファンタシーという文学ジャンルに内包されている特有の思想形態に対する冷徹な総括をうながすキーワードとしても機能することになるからだ。


(1)

 『指輪の王』においては絶対悪としてサウロン(Sauron)という存在が仮構世界の構成原理となっており、仮構世界受容に関する基本文法は主として作者の物語世界提示の手法の上に成り立っていたため、倫理の問題はむしろ簡便に処理されていた。ところが『ピーターとウェンディ』の場合は、仮構世界受容に関わる基本文法の中枢に極めてアイロニカルな形で倫理のパラドクスが据えられていたのである。

(2)

 ピーターにとって倫理の替わりに彼の行動を拘束するものは、語り手によって「たしなみの良さ」(good form)と呼ばれる微妙な観念である。別の言葉で言うならば、それは子供の世界特有の「恰好良さ」という美学基準であるかもしれない。

(3)

 この理由は本書第9章において『ピーターとウェンディ』の根本的主題に関する考察として改めて論議されることとなる。

(4)

 子供達がダーリング家を見捨てて飛び立って行ってしまったことの原因が自分自身にあることを認めて「犬小屋に住む」という罰を自分に課したダーリング氏はこのことのために人々の注目を集め、有名人になってしまう。そして何時の間にかこの「社会的成功」を享受するする事を覚え、子供を失って嘆き悲しむ父親の姿を過剰に演じるようになってしまった彼は、妻に「でもこれは罰のためじゃなかったの、ジョージ?あなたは楽しんでやっているんじゃないでしょうね?(p. 241)と叱責されてしまうのである。ダーリング氏もまた子供達と同じ様に自己充足的なメイク・ビリ−ブの呪縛に捕まってしまっている。そう言えば脚本版『ピーター・パン』(1928)においては、ト書きに“All the characters, whether grown-up or babes, must wear a child’s outlook on life as their only important adornment.” 「全ての登場人物は、大人であろうと赤ん坊であろうと、人生に関しては子供の視点を唯一重要な装身具として備えていなければならない。」と記されていた。意識の主体における世界認識の過程でメイク・ビリーブが及ぼす危うい作用は、「大人―子供」という心理構造における二極的解釈を脅かすものとなっている。大人は自分で思っている程大人では無いし、子供は大人が思っている程子供でも無い。我々は何時から子供であることを止め、大人であることを始めたのか自分では定かではないし、何よりも自分自身が何物であるかが定かでは無いのである。

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