メイク・ビリーブの両義性とコンヴェンション


 メイク・ビリーブという観念は先程も述べたように、我々が想像する以上に陥穽に満ちた危険な代物であるのだ。何故ならば、経済学の用語らしい「公債と株式」(stocks and shares)などという難しそうな言葉を操り、世の中の常識にどっぷり漬かっている筈のダーリング氏でさえもが時に、ピーターや子供達と全く変わりの無いメイク・ビリーブを行ってしまっているからだ。例えばこんな具合だ。

p. 30

さほど裕福でもないダーリング家には召使いといえるものは、子守りのリザを除いて一人もいない。でも夫婦は彼女のことを複数形で「召使い達」と呼ぶことにしている。大勢の召使いを抱える資産家の振りをしている訳だ。こんな類のメイク・ビリーブなら他にもあった。それは次のような部分だ。

p. 5

ダーリング夫妻は子守りのリザのことを「召使い達」と呼ぶのと同様に、犬のナナを「子守」と呼び、子守として雇った振りをして、実際に子守りの仕事をさせてもいるのだ。彼らはご近所の暮らしぶりを意識して、社会的な体面をとりつくろうつもりで、犬を子守りに使っている。なんだか実際的でもあり、まるで実際的でないようでもある。ナナに子守をさせることで、彼らの体面は本当にとりつくろわれていたのだろうか。そしてこれがメイク・ビリーブという言葉の内包する不思議さでもある。「信じる振りをする」とは一体どういうことなのだろう。「振りをする」というからには本当に信じてはいない筈だ。しかしメイク・ビリーブとは確かに「信じていないことを信じている」ことなのだろうか。それともメイク・ビリーブとは「信じていることを信じていない」ことなのだろうか。我々の現実認識と絶対知に対する確信に関わる内省の基底を揺さぶるような不安をこの言葉は秘めている。(1)
 ネヴァランドこそこのメイク・ビリーブの本質を体現する世界であり、ピーターの最も特徴的な属性がメイク・ビリーブの天才であるということであった。このキー・ワードに焦点を合わせてしばらく『ピーターとウェンディ』の作品世界を追ってみることにしよう。まず子供達はピーターに連れられてネヴァランドに向かう途上ですでにメイク・ビリーブに関わる疑問に足をすくわれ始めている。

p. 59

 子供達は自分達が空腹であるのかどうかが分からなくなる。それはピーターが空中で出会った鳥達から食物を奪う、という一風変わった食事のしかたを彼らに教えるからだ。彼らは本当に鳥達のくちばしから食物を取り上げたのだろうか。それともピーターお得意のメイク・ビリーブのゲームにすでに引き込まれてしまっていたのだろうか。「食べる」ということは重要な問題だ。それはこの行為が生命を維持していく、という営為につきまとう現実世界の非情な制約を意味しているからだ。食べることとは殺すことであり、奪うことである。食べる事を拒否して聖人になることが出来てしまえば、それは非常にお手軽な、あやかしのファンタシーとなる。そんなファンタシーもどきの人気作品も確か以前にあった筈だ。一つ具体例をあげるならば、「オズの魔法使い」の中で扱われていた「食べること」に関するモチ−フがある。文学作品に描かれた作品世界は、現実世界とは機構を異にする別世界であるから、登場人物が食物を手に入れることが必ずしもフィクション世界のリアリティを構築する上で要求されねばならないということはない。作者はそのような煩瑣な部分をオミットして記述を進めることができる。それがその作品世界の内的法則として公理系内の秩序を乱すことがない限り、作者は記述対象の恣意的選択の責任を問われることはない。ところがこの物語は作品世界の内的法則を破綻させる致命的なミスを犯しているのだ。
 突然異世界に紛れ込んでしまったドロシーが、生きていくために食べ物を見つけ出すことを必要とするという基本条件は、この作品では無視されていない。ドロシーはバスケットの中にあったパンを食べたり、木の実を見つけて食べたりする。登場人物が生存を続けていくために食物を食べ続ける事自体においては矛盾はない。ところが食べることに付随した倫理(2) の点で、どうしても見逃すことの出来ない杜撰な作者の態度をこの作品は露呈しているのだ。残っていたパンを食べ尽くしてしまって、翌日の朝食を手に入れる当ての無いドロシーに、ライオンが森に行って鹿を捕ってきてあげようかと申し出ると、ブリキの木こりは可哀相だからそんなことはしないでくれと頼む。そこでライオンは自分だけ森に入って自分の夕食を見つける。ところがこの場面のしばらく後にブリキの木こりは野ねずみを捕らえて食べようとしている山猫を見つけると、こんな可愛い無害な動物を殺そうとするのはいけないことだと「知っていた」ので、野ねずみを救うために山猫の頭を切り落としてしまうのだ。文字通りの御都合主義の子供騙しの展開であるが、実は大人より子供の方がむしろ物語の内的リアリティの一貫性についてはより敏感な筈なのだ。多くの大人達は仮構世界は現実世界とは別物の、気楽に受容されうるまがいものであるとして仮構世界内の矛盾について寛容な態度を示す。彼らの間違いは物語世界が提示する公理系が現実とは異なる別の体系であることを忘れ、物語であるが故に現実にはあり得ない矛盾が描かれていても差し支えないとして、矛盾点に対するこだわりを捨てる、という暗黙の了解を互いに押しつけあっている点だ。つまり社会的常識人である大人達は、仮構世界受容に関するコンベンション(約束事)(3) の条件設定に関して致命的な錯視を行っているのである。
 バリの場合はむしろこのような仮構世界受容に関わるコンヴェンションそのものを作品の戦略兵器として積極的に利用しようと試みている。これも一つのメタフィクションの機構として指摘しうる事実である。読者の安直な願望に答えてお手軽な正義の幻想を与えてくれるようなことはバリは行わない。その点で『ピーターとウェンディ』の示す倫理的関心は、他のいかなるリアリスティックな文学作品よりも非情で、苛烈なものとなっていると言ってもよい。
 食べることはメイク・ビリーブという主題と密接に関連して、冒険とともにネヴァランドにおける子供達の生活を描写する基盤となっている。彼らの食事の有り様はこんな風だ。

p. 152

この見せ掛けだけの食事は、ピーターが子供達に厳密に命じることの一つだ。メイク・ビリ−ブの食事のために、ウェンディはわざわざメイク・ビリーブの食事の支度さえしなければならないし、子供達は自分達の意に反して御馳走を食べる偽りの儀式をとり行なわなければならない。なんとか本当に食べさせてもらえるのは、絶食のため体が細くなってしまって、秘密の地下の住処に出入りする木の穴の大きさに体が合わなくなってしまったことを証明できた時だけなのだ。

p. 114

 メイク・ビリーブというゲームを強いるピーターは、犠牲と供物を強いる神や祭礼を要求する神とどこか似ているところもあれば、また一味違ったところも備えている。ピーターにとって食べることはゲームであり。生きることも死ぬことも「途轍もない冒険」としてのメイク・ビリーブのゲームでしかないのである。メイク・ビリーブは時にはいかにも子供らしい、他者に感情移入して別の人格を演じる夢想となる。それはピーターがフックを倒し、海賊船を占領した後仇敵のフックの持ち物を奪ってフックになりかわっている場面によく窺える。

pp. 233-4

いつか必ず倒さなければならない仇敵のフックも、ピーターにとっては実際的な利害関係や倫理上の目的で排除しなければならない障害などではない。むしろ強敵であったがために、彼はフックにある種の憧れの気持ちさえ抱いているようなのだ。他者を倒して生き延びなければ自分が自分でいられない、生き物を殺して食べなければこの身を生かしていくことが出来ない現実世界の制約をあざ笑うかのように、バリはピーターの超越神的きまぐれによって振る舞われる絶対的権力の横暴さを描く。ピーターとともにメイク・ビリーブを演じている子供達と冒険の主導者のピーターとの間には測り知れない縣隔があるのだ。

p. 102

ピーターの指図のもとにゲームに参加する子供達にとっては、善悪も生死もないがしろにすることができない重大な意義を備えた絶対的で一義的なものである。ところがこれらの基本ルールさえ変更する力を持つピーターは、時として子供達を裏切るようなことまでも平気でやってのける。

p. 119

 メイク・ビリーブという観念について改めて分かることは、我々の現実認識においては認識する主体の我々自身が、我々の世界の運行規則を記述する原理法則が絶対値として正のベクトルを持つものか負のベクトルを持つものか決して判別することができないにもかかわらず、我々の実生活がこれにより絶対的支配を受けているのに対して、ピーターのような超越的存在においてはこれを選択的に操作することが出来るということだ。メイク・ビリーブに関して全能の力を持つピーターにとっては、時にはメイク・ビリーブの力を活用して楽しむことができる筈の冒険を「しない」ことさえメイク・ビリーブの対象となってしまう。

pp. 117-8

 つまり全能神においては非在すらもが可能であるということだ。「全能であるという条件によって神は存在せねばならない」とするスコラ哲学の神の存在証明は「神さえも論理の束縛を受ける」ということを前提としていた筈だ。ところが真に全能なる神はこのような二者択一的な論理の要請を超越し得るものであるかもしれないのである。(4)このような認識は20世紀後半において「真空のゆらぎから宇宙が生成する」という物理的事実を発見するに至った現代人が新たに確認し直したものであると言えよう。アテベリーが後に改めて指摘する必要を認めることとなったファンタシー文学の潜伏した問題性がこのあたりに反映されている。
 しかしながら我々にとってはなはだ不安なことは、メイク・ビリーブの機構を支配しているピーター自身が自発動的なゆらぎを示し、ゲームの世界の規則、つまりは自分自身のアイデンティティを失念してしまい、「偉大なる父」(the Great White Father)として子供達の父親の役を演じていたことが事実であったかゲームであったのか分からなくなってしまい、ウェンディに「ぼくがこの子達のお父さんだなんて、ただのメイク・ビリーブだよね。」(p. 158)と不安気に尋ねたりもするということだ。
 ここに窺われるのはやはりメイク・ビリーブという行為の暗示する両義性である。生命力に溢れ、いつも冒険を楽しんでいた筈のピーターは実は食物さえ摂取することのない、気持ちがおもむきさえすれば冒険しないことさえ、あるいは死んでしまうことさえ喜んで行ってしまう得体の知れない神なのである。生と豊穣の喜びに満ちた神の一面と、虚無をもたらす死神の一面を合わせ持っているのが、我々の記憶以前の深層に潜んでいたピーター・パンという神なのであった。
 結局、ピーターは実際には「食べて」いない。しかし食べることに付随する倫理的問題点はこの物語において回避されている訳ではない。何故ならば食べることよりももっと直截な非道義的行為である「殺すこと」が彼らによって実際に行われているからである。『ピーターとウェンディ』は子供達の残酷さを描いたファンタシーなのであった。そしてユートピアが描かれた文学作品の多くがそうであったように、「楽しく生きる」ためには殺し合う冒険が無ければならない、という点ではネヴァランドの世界は反ユートピア(dystopia)の一面をも有していたのであった。


(1)

 メイク・ビリーブとは言葉を変えて言うならば、我々が自ら意識することが原理的に不可能な、我々の思考・認識機構を作動させるシステムのおぼろげな投影であり、空白の無意識が書き込まれるために初期化された心の白板(tabula rasa)の残像でもある、とでも言い換えれば20世紀後半の時代意識とバリの採用したアンチ・ファンタシー展開のための戦略との接点に対する記述とは成りえよう。

(2)

 この食べることの提示する倫理のパラドクスを物語世界の公理系の破綻としてさらに深刻な形で抱え込んでしまった作品に、ヒュー・ロフティング(Hugh Lofting)の『ドリトル先生月へ行く』(Dr. Dolittle in the Moon, 1928)がある。生きるもの全ての共生という理想郷の実現につきまとう、食べるために殺さねばならないという現実の制約が悲惨な形で浮き彫りにされていたのがこの作品であった。これについては脇明子氏の『ファンタジ−の秘密』が詳細な論考を行っている。さらに生態系に組み込まれた種の一つとして生を送る人類が普遍的倫理を語ることができるか否か、という疑問はドイツ・ロマン派の夢と希望を引き継ぎ、詩と科学と宗教を一つのものにしようと夢想した日本の希有なファンタシ−作家宮澤賢治の直面した重大問題であった。『ピーターとウェンディ』におけるバリのこの倫理の問題に対する回答は、「楽しく暮らすには残酷でなければならない」ということであった。賢治自身のこの問題に対する解答はおそらく「他のもの達の幸せの為に自分の身を犠牲にしたい」というものであったろうが、個人的な願望としてではなく論理的な解答として賢治のこの結論を考察すれば、これははなはだ不遜な願望であると言えるかもしれない。生往生を通り越して全てのものがこのような決心をしてしまったならば、生あるもの全てが死に絶えてしまう。他のもの達の幸福な生と己の生の放棄をこのように結び付ける発想の裏側には、犠牲と成りうる己自身の救世主としての特権意識がある。また、キリスト教的な文脈の中で贖罪という概念でこの問題を捉え直してみるならば、神の子であるイエス・キリストが苦しみの生を生きる人々を哀れんでその罪を贖う力を実際に持ったにせよ、その贖いの行為は単なる肉体的苦しみを越えた、極限的苦難でなければならない筈である。ところがイエスにとっての最も大きな苦しみは正しく人々がこのような苦しみを受け続けるということではなかったか。とすれば彼の我が身を犠牲にして他を救わんとする贖いの行為は、磔刑に処せられることなどでは到底叶えられる筈はない。産みの苦しみと老いの苦痛と殺し、食う悲痛に縛られて人々が凄惨な生を送りつづけるのを目の当たりにすることこそイエスに課せられるべき代償ではなかったか。だとすればイエスによって哀れみを受ける他者である我々はイエスの贖罪によって救われることは決してないだろう。このディレムマを「贖いのパラドクス」と呼ぶことにしよう。自と他を分かつことにより救済の術を考える思想はこの論理の制約を越える力を持たない。この贖いのパラドクスを逆転させたのがル・グィンの「オメラスから歩み去る人々」(“The Ones Who Walk Away from Omelas”)というサイコ・ミス(psycho myth)であった。「贖い」とは、かつてあまりにも強大な自然の力に弄ばれながら苦痛の生を送ることを強いられていた古代の人々が、神の寵愛を得るために行っていた生贄の儀式を、自発的な他者救済の行為としてダイナミックに反転させたパラドクシカルな行為であるとしてみることが出来よう。ル・グィンは逆に贖いの中に強要された犠牲を見た。たった一人の負わされた苦痛の上に成り立つ平和な理想郷がオメラスという世界である。オメラスの人々は彼らの享受している幸福が犠牲として選ばれた無力な一者の際限の無い苦痛と引換えに得られたことを学ばざるを得ない。そしてオメラスの大部分の者たちはこの欺瞞に満ちた理想郷に安住することを容認する。しかしある者たちは自分たちに与えられたこの幸福を偽りのものであるとして拒否し、オメラスを立ち去ることを選ぶのである。幻想を排した現実認識の許に倫理の問題の再検討を図ろうとすることを企図した寓話がここに描かれている。このようにファンタシーが素朴な倫理的疑問を土台とした寓話の形をとったもののことをル・グィンはサイコ・ミスという言葉を用いて呼んだ訳だが、ファンタシーと普通呼び習わされているものは、バリの場合と同様実はもっとしたたかなメカニズムを裡に秘めているのである。何故ならばオメラスの人々は自由意思でもってオメラスから歩み去ることが出来たが、現実に生きる我々は文字通りこの世界から歩み去ることは不可能であることを知っているからだ。現実世界はオメラスの世界ほど生易しいものではない。バリはこの「贖いのパラドクス」のメカニズムを「グッド・フォームと内省」という方程式に変換してほろ苦く語ってくれることになる。

(3)

 ワイルドは「嘘の衰退」において作品世界の公理系を決定する因子のことをこの用語を用いて語っている。ファンタシーというジャンルを可能世界の一つとして考察するにおいては、同等の概念が「奥行き、相関関係式」という言葉を用いて語られることとなった。cf. Rabkin,The Fantastic in Literature, 1976.

(4)

例えばエレア派の神秘哲学者パルメニデス(Parmenides)が唱えた「存在と思惟の一致」などの観念がこのような形而上学の一変奏として思い起こされるであろう。ピーターの正体を明かす一つの解釈は、彼を「存在原理の形而上学的超越性」と見なす見解であろう。

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