ネヴァランドー喪われた宗教


『ピーターとウェンディ』にはとりわけ気になる描写が一つある。それはネヴァランドについて語られている部分だ。物語の語り手はこのようにネヴァランドを読者に紹介する。

If you shut your eyes and are lucky one, you may see at times a shapeless pool of lovely pale colours suspended in the darkness; then if you squeeze your eyes tighter, the pool begins to take shape, and the colours become so vivid that with another squeeze they must go on fire. But just before they go on fire you see the lagoon. This is the nearest you ever get to it on the mainland, just one heavenly moment; if there could be two moments you might see the surf and hear the mermaids singing. (1)

もしもあなた方が目をつぶったら、もしも運がよければ時には暗闇の中に宙づりになった綺麗な淡い様々な色をした水たまりのようなぼんやりしたものが見えるでしょう。それから目をぎゅっと強くつぶると、その水たまりのようなものはだんだんと姿をはっきりとさせてきて、その色はとっても鮮やかなものになり、さらにもう一度ぎゅっと目をつぶればきっと火がついたように燃え上がる筈です。けれども燃え上がる直前に、礁湖が見えるでしょう。これが本土で近づくことの出来る最高のところです。天国に行ったような一瞬です。もしもその一瞬のもう一つ先があったならば、渚が見え、人魚達が歌っているのを聞くことが出来るかもしれません。

ピーター・パンの住んでいる島ネヴァランドは、ピーター自身が言うように、「二番目の角を右に、それから夜明けまで真っ直ぐに」(“Second to the right, and straight on till morning.” )の辺りにある訳では決してない。作者もピーターが言うことは必ずしも本当ではない、と語っている通りだ。少なくとも、ここに描かれているネヴァランドは『宝島』(Treasure Island, 1883)のスティーヴンソン(Robert Louis Stevenson)や『ロビンソン・クルーソー』(Robinson Crusoe, 1719)のデフォー(Daniel Defoe)が描いたような南海の孤島などではない。これらはフィクションの世界の中とはいえ、具体的な地勢的遠近法の中に構想された、リアリズムの延長線上にその場所を特定することができる部分的小世界だった。しかしネヴァランドは目を瞑れば誰の頭の中にも自然に現れ出てくるという、一種の心的風景なのだ。正しく思念の焦点を合わせることさえ出来れば自ずと溢れ出てくるような、秘められた心の領域なのだ。敢えて言うならば、それは内観を通して意識の主体の裡に共通して発見される、集合的無意識と呼ばれるものに近いものなのかもしれない。ネヴァランドという場所(世界?)はピーターという不思議な主人公の秘められた本性を探る上で、『ピーターとウェンディ』においては重要な手掛かりを与えてくれるキー・ワードだ。この世界はピーターという存在と同様、誰もが誰かに特別に教えてもらったりする必要もなく、何時の間にか心の奥のところで知ってしまっている、自分自身の分身のようなところがある。例えばピーターに連れられてネヴァランドを訪れたダーリング家の子供達は、

Strange to say, they all recognised it at once, and until fear fell upon them they hailed it, not as something long dreamt of and seen at last, but as a familiar friend to whom they were returning home for the holidays.

おかしなことだけど、子供達はみんな一目でそれが分かりました。そして恐怖の念が彼らを包むまでは、彼らは歓声をあげて島を受け入れたのでした。長い間夢に見続けてきてようやく目にすることが出来たものなんかではなく、お休みの間に戻って来て出会う親しい友達であるかのように。

とあるようにネヴァランドを異世界とは感じていない。むしろネヴァランドは彼等の魂の故郷なのだ。だからこの現実の世界(目を醒ましてしまったら自分が捉えられてしまっていると気付いたこの悪夢の世界)とは違って、何もかもが彼等にとって本来有るべき姿で存在している、安寧の世界なのだ。語り手はネヴァランドのことをこのようにも言う。

Of all delectable islands the Neverland is the snuggest and most compact, not large and sprawly, you know, with tedious distances between one adventure and another, but nicely crammed.

幾多もある楽しい島のうちで、ネヴァランドは一番心地よくすっきりとまとまった島です。冒険と冒険の間にうんざりするような間隔がある大きなだだっぴろい島なんかではなくて、楽しいことがきっちりと詰め込まれているのです。

 面倒な事は、一切無い。程よく、こじんまりとまとまった、違和感を覚えることも疑問を抱くことも無いのがネヴァランドの世界だ。それは言わば回想の中で位相変換を施し、無駄なく圧縮された、理想化処理工程施行済みの完成品の記憶のようなものだ。人間社会の中にも自然の世界の中にも様々な矛盾に満ちた機構を見出して、この現実世界を創造し、司っている筈の神の配剤にふと疑問を抱いてしまわずにはいられない我々近代社会に生きる人間達にとっては、むしろ本当の意味で合理的な世界がこれだ。個と世界の存在とそれぞれを媒介する関係性の一つ一つに、確証された意義が宿っており、何一つ無意味や偶然などの夾雑物が紛れ込む事もない。そしてピーターがピーターとして存在することと、このような形でネヴァランドが存在することは、この物語の中では同等の意味を持っている。作者は物語のあちこちでピーターとネヴァランドの切り離すことの出来ない関係を匂わしているからだ。ネヴァランドはその言葉本来の意味で“Utopia”、(ou =not+topos =place)つまりnowhereと同値であり、文字通りのあのトマス・モアのユートピア、つまりあり得ない理想郷なのだ。ピーターは正しく理想郷に我々を招いてくれる神であり、彼の「パン」(Pan)という姓は彼がキリスト教信仰に飽き足らなくなった近代的教養人が復活させてしまった、古代の異教の神、笛を持った牧羊神のパンであることを示している。だからネヴァランドは、例えばジョージ・マクドナルドが異質の想像力を駆使して、従来の信仰にとって替わるべき新たな形而上学的宇宙観を託して描いて見せた『ファンタステス』(Phantastes, 1858)や『リリス』(Lilith, 1895)などと等質の寓話の世界であるとも言える。この孤島が暗示するものは形を変えた新しい信仰の可能性なのだ。20世紀中葉の人々が民主主義や資本主義、あるいは社会主義などという名で呼んだ、現世の安逸だけを視野に入れたあまりにも薄っぺらで間に合わせの教理などよりはよほどまともな、自らの存在理由と世界存立の原理機構とを結び付ける力を備えた、力強い世界解式なのだ。しかしバリの場合はちょっと危ないところがある。上の引用の後で語り手は次のように続けているからだ。

When you play at it by day with the chairs and tablecloth, it is not in the least alarming, but in the two minutes before you go to sleep it becomes very nearly real. That is why there are night-lights.

p. 10

あなた方が昼の間椅子やテーブル・クロスを使ってネヴァランドごっこをして遊んでいる時は、ちっとも怖いところなんかありません。けれども床について眠りにつく二分程前になると、それは殆ど本物と変わらなくなるのです。だからベッドの脇にろうそくを灯さなければならないのです。

 この理想世界はとても現実的になる。そしてそれはとても危険なことなのだ。一旦手に入れられ、実体化した理想は常にその背後に暗く不気味なものを覗かせているからだ。彼等のネヴァランドが現実的になるまでは、「もちろんネヴァランドはこの頃は空想でした、でもそれは今は本物になっていたのです。」(p. 64)と作者が語るように、これまではいかにも安全な空想の遊びでしか無かった。しかしそれが本物の現実になろうとし始めるや否や、「恐怖に取りつかれた三人は空想の島と本物になったその島の違いをこんなにも厳しく学ぶことになったのです」(p. 73)と語られるように、夢の世界は恐怖を秘めた手強い実在となってしまうものなのだ。心の中の理想を凝縮した夢幻郷は、自らの分身のように親しみ深く、いかにも心地良さそうに思えるのだが、この分身が実体化してあらたな他者として眼前に現れた時、これまでは思いもよらなかったおぞましい正体を見せつけることとなる。

 こうしてもう一つのキー・ワードが得られたことになる。それは「空想、振りをすること」であるメイク・ビリーブ(make-believe)という言葉だ。実際、この物語はメイク・ビリーブという観念を軸にして展開されているようなところがある。そしてこのメイク・ビリーブとは、作中に何度も繰り返し描かれているように空想の翼を羽ばたかせて遊ぶ、観念の遊戯であるとともに、実はビリーフ(belief)「信仰」の時に意図的な、時に無意識的な代替物として機能する複雑な心理機構のことでもあるのだ。

 メイク・ビリーブとビリーフとの間の関系は実はなかなかややこしい。一方が実体で、他方が虚構である、といった安全な判別法が原理的に存在し得ないことが分かっているからだ。アテベリーの指摘に従って現代思想の問題点の一つを思い出すことができる。ゲ−デルの定理があてはまりそうだ。「公理系が無矛盾である限り、その公理系は己の無矛盾性を自分では証明出来ない。」これになぞらえれば、我々はその信仰を信じている限りそれがメイク・ビリーブであることを証明出来ない(気付かない)。

 メイク・ビリーブという観念が存在するという発想は何と絶望的で、しかも何と神秘的であることだろう。ピーターはこのメイク・ビリーブの天才なのだ。彼はネヴァランドで現実世界からさらってきたロスト・ボーイズ達を率いて戦争ごっこをしてみたり、彼らに御馳走を食べる振りをさせてみたりと、メイク・ビリーブの特権的行使者として、暴君的に振る舞う。そしてティンカー・ベルが死にそうになった時には、彼女を生き返らせるのには子供達の妖精の存在に対する「信仰」(belief)が必要であり「彼女はもしも子供達が妖精の存在を信じてくれたらまた元気になれる。」と、ピーターは現実の子供達にまでも訴えかけるのだ。

Peter flung out his arms. There were no children there, and it was night time; but he addressed all who might be dreaming of the Neverland, and who were therefore nearer to him than you think: boys and girls in their nighties, and naked papooses in their baskets hung from trees.

ピーターは両手をさしのべました。そこには子供は一人もいなくて、しかも夜でした。けれども彼はネヴァランドのことを夢に見ているかもしれない、だから自分で思っているより本当は彼の近くにいる全ての子供達に呼びかけたのでした。寝巻を着た男の子にも女の子にも、木にぶらさげられた籠の中の裸のインディアンの赤ちゃんにも。

p. 197

ここでもう我々の現実世界はこの物語の中に取り込まれてしまっている訳だ。誰ももはや物語の圏外で安全にお話の成り行きを傍観していることは許されない。心の中で夢見ているネヴァランドを通して子供達の誰もがピーターの「もしも信じるなら、手を叩いて欲しい。ティンクを死なせないで。」(p. 197)という呼びかけを聞く。子供達はこの要請に何らかの形で答えなければならない。そして恐ろしいことに、子供達の行動は既に作中で予見されてしまっているのだ。(2)

Many clapped.
Some didn't.
A few little beasts hissed.

p. 198

多くの子は手を叩きました。
叩かなかった子も何人かいました。
「ふんっ」と言った意地悪の子も二人か三人いました。

 しかしピーターにとって、彼が要求した子供達のビリーフも、彼の楽しむ数ある気慰みのメイク・ビリーブのゲームの一つにすぎない。ピーターだけがこれまで遊んでいた「ごっこ遊び」を唐突に終了して、別の「ごっこ遊び」を開始する特権を行使することができる。子供達は何時如何なる折りにピーターの気が変わって、新しいゲームに移行してしまうやら、見当がつかない。ピーターはこれまで「ピーター」を演じてフックを相手に戦っていたと思ったら、今度は「フック」を演じて子供たちを相手に戦いをする海賊ごっこを始めたりさえもするのだ。子供達、そしてこの物語を通してピーターとネヴァランドのことを思い出してしまった我々は、ピーターの気持ちの赴くままに、メイク・ビリーブの世界の間をあてど無くキャッチ・ボールされねばならなくなるのだ。我々の想念の首筋は我々の心の中のネヴァランドを通じて既にピーターに絡め捕られてしまっている。ネヴァランドとは我々のまだ見知らぬ、そしてだからこそ我々を拘束する不思議な力を持つ、得体の知れない何物かでもあるのだ。ネヴァランドのことを思い出してしまったら、我々は今の現実を生きるために何時の間にか受け入れてしまっていた「信仰」や「思想」が、果してピーターの要求するメイク・ビリーブの一つであったのかどうかすら、分からなくなってしまう。


(1)

James Matthew Barrie, Peter Pan (New Jersey: Random House, 1987) p. 122.

『ピーターとウェンディ』のテクストとしては、1911年発行の初版本のリプリントであるPeter Pan, (Random House, 1987)を用いる。以下本文からの引用は総てこの版のページで示す。Peter and Wendyのテクストとしては他に様々のヴァージョンがあるが、原型を最も忠実に留めているであろうこの版を選ぶこととする。煩瑣を避けるためタイトルは“Peter Pan”と、原題とは異なったものになってはいるが、本書においてはPeter and Wendyのテクストとしては総てRandom House版のPeter Panを参照することとする。

(2)

 このように物語を読む読者の存在を仮構世界という枠組を越えて取り込んでしまう機構は、ポスト・モダニズムの小説の用いる常套手段となったが、これは実はドイツ・ロマン派が演劇空間の中で観客を舞台上のフィクション世界に巻き込もうと試みて創始した戦略であった。バリの場合は思想的にはロマン派の自然宗教礼賛に傾きがちな心的状況をさらに乗り越え、20世紀初頭に興隆したモダニズムの先駆的存在として時代精神の流れと関わっていたことは興味深い。今や堕落の兆候が叫ばれているポスト・モダニズムとは果してどのような実体を備えた思潮であったのだろうか。そしてまたポスト・モダニズムが対照物として措定した筈の「モダニズム」とは一体どのような特質を持った思潮であったのだろうか。ポスト・モダニズムの政権奪取とその腐敗(?)を前にして、今一度モダニズムの意味を問い直す必要が有りそうだ。

 劇『ピーター・パン』(Peter Pan, Duke of York’s, December 27, 1904)においては、初演の際バリは観客が演劇空間に参入して拍手をしてくれることは一切期待せず、オーケストラの楽員が楽器を床に降ろして拍手する段取りであったという。しかしながら予期に反して観客は絶大な拍手でピーターの要請に答えたのであった。かくしてこの奇想天外な作品は世界中で最もポピュラーなお話の一つとなり、数多くのダイジェスト版やディズニーなどによるアニメ映画版が作成され、本来のバリの仕掛けた毒を含んだ原作の実体は名声の許に忘れ去られるという運命をたどることとなった。

 しかしながらこの時拍手で答えた観客達は本当に妖精の存在を信じていたのであろうか。この拍手の暗示する観客のビリーフ受容表明の態度のあり方には何かしら空恐ろしいものがある。神亡き後の疑似宗教としてマクドナルドに代表される19世紀イギリスのファンタシーは興ったが、『ピーター・パン』が初演されたこの時すでに、人々は信じぬ神を敬うことを選んでしまっていたのだろうか。それとも現代人の神は、徳性も倫理観も忘れ果て、束の間の快楽と欲望のみに生きる人々が嘲笑しながらその存在を容認する、おもちゃのような偶像と堕してしまっていたのだろうか。

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