ファンタシーの変容とアイロニー


 20世紀も終盤になってようやく、ファンタシーという文学ジャンルが文学研究の場において正当な市民権を獲得したように思われる。例えばブライアン・アテベリー(Brian Attebery)は『アメリカ文学におけるファンタシーの伝統』(The Fantasy Tradition in American Literature: From Irving to Le Guin,1980)において、確立され、完成された文学表現の手法の一つとしてファンタシー文学の存在を積極的に評価したからこそ、「アメリカにおけるファンタシーの伝統」などというものの航跡をたどろうとしている訳だ。この研究書の副題の示す通り、本書の対象とする「伝統」の範囲はアーヴィング(Washington Irving)にまでさかのぼり、ホーソーン(Nathaniel Hawthorne)やメルヴィル(Herman Melville)を経た後、1900年に発刊されたボ−ム(L. Frank Baum) の『オズの魔法使い』(The Wizard of Oz) を転回点として捉え、オズ以降のレイ・ブラドベリー(Ray Bradbury)等の存在を「ボームの伝統」(Baum tradition)という流れの中に見ていくことになる。そして、現代におけるファンタシーの完成された姿の一つの典型としてル・グィン(Ursula K. Le Guin) の存在を認めることにより、1980年に至るまでのアメリカにおけるファンタシー文学の発展の軌跡を検証するという趣向が完遂されている訳だ。

 これ以前にもファンタシー作品を対象として扱う研究書はいくつか存在したが、それらは作品自体の文学的価値を評価しようとするものよりも、ジャンル・クリテイシズムという形をとり、文化現象の一つとしてファンタシーという存在をとらえ、飽くまでも心理学的考察の対象として、あるいは社会現象という枠組みの中においてファンタシーを扱おうとするものが目立っていたのは否定出来ない事実である。

 C・S・ルイス(C. S. Lewis)やトルキン(J. R. R. Tolkien)による、準創造(sub-creation)という言葉を用いて、真なる実在世界を観照するための積極的な現実逃避の企ての一手段として創作活動の意義を評価しようとする、いわゆるトランセンデンタリズム(transcendentalism) 的なファンタシー擁護論が以前からあったのは確かだが、彼らの主張は文学研究者による体系的理論にのっとった文学論では決して無く、むしろファンタシー文学創作当事者の主観的立場から行われたものであったと言ってよいだろう。(1)文芸批評界の趨勢は、ロ−ズマリー・ジャクソン(Rosemary Jackson)の『ファンタシー、破壊の文学』(Fantasy: The Literature of Subversion, 1981)のように、このような見解は古めかしい、不適切なものとして退け、フロイト流心理学を活用して分析を加えようとするか、あるいはツヴェタン・トドロフ(Tzvetan Todorov) の『ザ・ファンタスティック』(The Fantastic, 1975)のように、構造主義の理論により社会的現象の一つとしてこれらの存在を解析しようとするものであった。ことに現代のファンタシー文学の流行の発端となったトルキンの『指輪の王』(The Lord of the Rings, 1954-5) については、ジャクソンはこれを作品としては全く評価しようとしていなかったし、トドロフの場合はこの作品の存在は全く眼中に無かったといっていい。しかもトドロフが「ファンタシー的なもの」(the fantastic)という名で呼んで、「自然法則のみを知る者が一見超自然的な現象に直面した時に覚える躊躇の念」という定義の許に論考の対象としたものは、一般的な意味においてファンタシーと呼ばれる類の作品ではなく、フランスで一時盛んに書かれた心理的な恐怖小説のように、ごく限られた特定の傾向を持つ作品群であり、彼はこれらが早晩消滅する傾向を持っていることを結論として選んだのであった。この予言は見事に外れ、彼の論考の対象とされたものとはいささか異なった姿をとったものとはいえ、とにかくも「ファンタシー」と呼ばれるものは生き延び、隆盛を究め、アテベリーのように実際にはいささか実在の是非については怪しげな部分もある「アメリカにおけるファンタシーの伝統」などというものを、強引に掘り起こそうとする熱心な研究者が現れる程、ファンタシーは20世紀後期における文学思潮の中心的存在となったのであった。

 様々な意味でアテベリーの『アメリカ文学におけるファンタシーの伝統』は画期的な研究書であったと言える。彼はトルキンの『指輪の王』をファンタシー文学の典型とみなし、この作品の直接的影響の裡にあるものとして現代ファンタシー文学を積極的に評価しようとしたのである。トルキンの『指輪の王』を文学作品として価値あるものとして認めるか否かは、ファンタシー受容の視座を確認する上で重要な指標となるであろう。エドマンド・ウィルソン(Edmund Wilson)がアメリカにおけるファンタシー大流行をもたらしたこの作品の文学的価値を全く認めようとはしなかったのはあまりにも有名であるし(2)、『モダン・ファンタシー』(Modern Fantasy,1975)というファンタシー研究書を著したC・N・マンラブ(C. N. Manlove)も、トルキンに関する一章をわざわざ設けながらも、この作品の文学的価値については全く否定的であった。トルキンは熱烈な狂信的信奉者を得るか、全く等閑視されるか、或いは激烈な批判を受けるかのいずれかだったのである。こうした現象を踏まえてみれば、トルキンの存在をファンタシー文学の中核として据えた上で、その影響上に1980年に至る迄のレイ・ブラドベリー等に代表されるファンタシー作家達を捉え、ル・グィンに結実したアメリカの諸ファンタシー作品の意義を論じるばかりか、敢えてトルキンの影響以前のアメリカにおける「ファンタシー・トラディション」までをも掘り起こそうと試みたアテベリーは、ファンタシーの根づかなかった国アメリカにおけるファンタシー受容の一つの視座を代表するものなのである。

 しかしながら端的に言ってしまえば、アテベリーはファンタシーを好意的に受け入れるとともに、ファンタシーの本質を取り違えたのであった。つまりこの「ファンタシー」という用語の最も広範な意味においてアテベリーはファンタシーを論じようと試みていたのであるが、この文学ジャンルの秘める最も微妙な、厳密な意味においては彼はファンタシーという現象を捉え損ねていたと言えるのである。

 そもそもファンタシーという用語は定義を与えることがはなはだ困難な代物であることがしばしば指摘される事実である。アテベリー自身、後に『ファンタシーの戦略』(Strategies of Fantasy, 1992)を新たに著し、以下のように論の端緒を開いている。


CONSIDER THE FOLLOWING DEFINITIONS:

 1.

Fantasy is a form of popular escapist literature that combines stock characters and devices_wizards, dragons, magic sword, and the like_into a predictable plot in which the perennially understaffed forces of good triumph over a monolithic evil.

 2.

Fantasy is a sophisticated mode of storytelling characterized by stylistic playfulness, self-reflexiveness, and a subversive treatment of established orders of society and thought. Arguably the major fictional mode of the late twentieth century, it draws upon contemporary ideas about sign systems and the indeterminacy of meaning and at the same time recaptures the vitality and freedom of nonmimetic traditional forms such as epic, folktale, romance, and myth.

p.1


 以下の二つの定義について検討して頂きたい−

 

 1.

 ファンタシーとは通俗的な現実逃避の文学であり、魔法使いや龍や魔法の 剣といったありふれた登場人物や仕掛けを組み合わせて、常に脆弱な善の力 が鉄壁を誇る悪の力に打ち勝つという決まりきった筋立ての物語を語るもの である。

 2.

 ファンタシーとは文体上の遊戯性、自己反射性、社会・思想体制に対する 破壊的な傾向という特性を持った洗練された語りの様式である。おそらく2 0世紀後半における仮構表現の中心的様式であろうファンタシーは記号論・ 意味の不確定性という観念に密接な関わりを持つと同時に、民話・ロマン ス・神話等の非模倣的な伝統的表現様式の活力と開放性を奪還するものであ る。


 そしてアテベリーはこの相反するいずれの定義についても同等の説得力を持った弁護をする用意があるとしている。これがこの時点に至ってのアテベリーにとってのファンタシーという用語が示すスペクトルの両端であるということであろう。そしてこの許容力の大きさがアテベリーという批評家の評価すべき特質であることは言うまでもない。しかし1980年に『アメリカ文学におけるファンタシーの伝統』を著した時点で、アテベリーは二度と再びファンタシーについて語ることは無いであろうと考えていた。ところが1992年に改めてファンタシーを対象として、ポスト・モダニズムやメタフィクションという概念を念頭に置きながら、このジャンルの内包する問題性を考察することを余儀なくされることとなったのである。これが1980年代以降の時代の変化であったであろうし、またアテベリー自身のファンタシー理解の発展でもあったことだろう。しかしながら現在ファンタシーと呼ばれている文学ジャンルは、そもそもその発端からこのような問題性を強く秘めていた、と語ってみればどうであろう。アテベリーは正しくもファンタシー文学の発生の糸口をドイツ・ロマン派のメルヘンに見ているが、マリアンヌ・タールマン(Marianne Thalmann)の『ロマン派のお伽話』(The Romantic Fairy Tale, 1964)を見るまでも無く、ドイツ・ロマン派とファンタシーの間には密接な関係がある。C・S・ルイスとトルキンという20世紀におけるファンタシー再興の起爆剤を発生させる上で大きな影響を与えたのは、ルイスによる喧伝のお陰で再び広く一般に知られることとなったイギリスのファンタシー作家ジョ−ジ・マクドナルド(George MacDonald)である。マクドナルドはドイツ・ロマン派の直接の影響下に創作活動を行い、現代のファンタシー文学の源流とも言うべき独自の地平を開拓することに成功した。タールマンはドイツ・ロマン派の試みた文芸的お伽話(Kunst Marchen: literary fairy tale)を現代におけるロマン主義再考とシュール・レアリズムへの影響という文脈で論じていた訳だが、これらの思潮の内包する問題性を含めながらさらに現代的な形を取って現前してきたのが、実はマクドナルドに代表されるファンタシーではなかったろうか。マクドナルドは現代において「ファンタシー」と呼ばれるものの創始者と目されて良い人物である。そこにはトルキンとルイスに受け継がれた異世界構築を最大目標とするトランセンデンタル(超絶主義的)なファンタシーの一方の発現形と共に、もう一つ見逃すことの出来ない、極めてアイロニカルな機構が隠されていた筈なのである。

 「虚構を描く」、という文学的営為の裡で、「一般にはあり得る筈の無い事象を題材として記述する」、という特性を持った下位区分を構成する「ファンタシー」というジャンルは、「フィクション」という言葉の持つ危うさにいささかも劣ることの無い程、それ自体究めてパラドクシカルな存在であり、「文学」と呼ばれる座標系、「現実」と呼ばれる座標系双方に対して大きな干渉を及ぼしうるパラメーターであった。しかも近年「フィクションを越える存在」という呼称を与えられた、これまたはなはだ問題の多い“メタ・フィクション”という概念が導入され、これが従来のファンタシー文学と相互作用を及ぼした結果、よりリアリズム世界からの次元の乖離度の高いとされる、ポスト・モダンのファンタシー作品が続々と生成しつつある。このようなファンタシーの変化形としてのメタフィクションにおける時空発動の契機として、アイロニーという因子に着目せざるを得ないのは当然のことであろう。伝統的宇宙観の崩壊しつつあった近代の知識人の想念の裡で、宗教代替物あるいは普遍宗教に対する希求の念の発現形の一つとしてファンタシーという文学的表現が導入されたという事実が、様々の具体例を挙げて指摘することができる筈である。マクドナルドの創作動機の場合は典型的にこのようなケースの一つであった。そこでは、もはや文字通りに信じることの出来ない伝統的なキリスト教の信条にとって替わるものとして、つまり科学的・合理的知性による裏付けを得た、現代的な世界解式を提出しうる心理的形而上学の構築を企図する一手段として、ファンタシーという文学的表現が模索されていたのである。ドイツ。ロマン派の場合と同様、そこには永遠で不変の原理と価値の存在を「信じたい」という志向と、従来のいかなる教えも知識ももはや「信じられない」という絶望的な認識の間の葛藤を乗り越えるための、弁証法的試みの有効な手段として、アイロニーが導入されていた。アイロニーの精神は思考過程に内在する「信じる」という行為そのものを転覆させることにより、自らの想念の世界を否定し、破壊するニヒリズムという対極的作動因を取り込みながら、なおかつ新たな時空を創世するダイナミックな機構を含んでいる。そこには図らずもアテベリーがファンタシーに対するもう一つの定義として数えあげた、はなはだ現代的な問題意識と等質のものが窺えるのである。このようにして模索された思念の記述の結果が、ドイツ・ロマン派の諸作家の生み出したお伽話(Marchen)の実体であった。そこには信仰と不信という両極が渾然一体となった微妙な心的態度が現出している。ゆらぎと振幅の結果あるいは信仰が表に現れる場合もあり、またあるいは不信の方が表に現れる場合もあった。前者の典型的な例としてはヴァッケンローダー(Wilhelm Heinrich Wackenroder)やノヴァーリス(Novalis)の名があげられるであろうし、後者の例としてはブレンターノー(Clemens Brentano)やホフマン(E. T. A. Hoffmann)の名があげられるであろう。名付け得ぬ未知なるものに対する信仰がしばしばロマン主義の名で呼ばれてきたが、受け継がれてきたものに対する不信と、そして今自ら語りつつあるものに対する巧妙な内在的不信表明もまた、ロマン主義のもつもう一つの顔であることは、ともすれば忘れられがちなことである。(3)本書においてはそのようなニヒリスティックな側面を作品世界提示の手法として際立たせ、積極的に利用したアイロニカルな機構をファンタシーの中に見ていくことにしたい。そしてこのような発現形態をとったファンタシーの存在を検出する指標をアンチ・ファンタシー(anti-fantasy)として定義し、その初期の発現形としてJ・M・バリ(James Matthew Barrie)の『ピーターとウェンディ』(Peter and Wendy, 1911)に注目し、またその後期の発現形としてピーター・S・ビーグル(Peter S. Beagle)の『最後のユニコーン』(The Last Unicorn, 1968) をモデルとして、ファンタシーの裏の容貌を瞥見していきたいと思うのである。


(1)

 トルキン自身は自分の手になる創作物を「ファンタシー」という言葉を用いて呼ぶことはなかった。彼は自身の文学活動弁護のために行った講演「妖精物語について」(“On Fairy-Stories”, 1938)において自らの理想とする作品のことを「妖精物語」(fairy-story) という言葉を用いて呼んでいる。これはマクドナルドがやはり自分の創作動機について語った「幻想的想像力」(“The Fantastic Imagination”)において「妖精物語」(fairytale)という言葉を採用していたことにならったものだろう。ちなみにトルキンの僚友C・S・ルイスは「サイエンス・フィクション」(science fiction)という言葉でこのジャンルのことを語っているが、同時に“fantastic”という形容詞も論考の中で用いられている。彼は一般にサイエンス・フィクションと総称されるものをいくつかの下位区分に分け、あるものは弾劾しあるものは弁護しているが、その中でもとりわけ自分にとって関心の高いものをアメリカの雑誌Fantasy and Science Fictionに掲載されている作品の幾つかを例に取り、超自然的な題材を想像力豊かに描き上げる要素を持ったものとしているのである。(“On Science Fiction”, in Other Worlds, 1975. p. 67)

 また、Oxford English Dictionaryでも文学ジャンルを表す用語“a genre of literary composition”としての“fantasy”という言葉の初出を1949、The Magazine of Fantasy and Science Fictionとしている。さらに用例としてはM. F. Rodellの「ミステリーはウエスタン・ロマンス・歴史小説・サタイア以外のファンタシーという膨大な逃避小説の範疇に属するものであり、全て同じ範疇に含まれるものである。」(Mystery Fiction ii. 4, 1954)とF. Brownの「ファンタシーは現在存在していない、そして存在し得ないものを扱う。サイエンス・フィクションは存在し得るもの、いつか現れるであろうものを扱う。」(Angels & Spaceships 9, 1955)があげられている。

(2)

 Edmund Wilson, “Oo, Those Awful Orcs!” Nation 182 (14 April 1956) p. 312-3

(3)

 このようなドイツ・ロマン派のアイロニーの機構に注目しているのは、G・R・トンプソン(G. R. Thompson, Poe's Fiction: Romantic Irony in the Gothic Tales, the University of Wisconsin Press. 1973) である。トンプソンはトルキンの主張したファンタシー文学創作理論が後にジャクソン等によって揶揄を込めて呼ばれることとなった、「トランセンデンタリズム」(transcendentalism)とアイロニーの関係をポーとドイツ・ロマン派との微妙な関連において詳細に論じている。ジャクソンは彼女の研究書Fantasy: The Literature of Subversionにおいて文字通りファンタシー文学の機構を現状の社会機構の転覆を企てるものとして定義づけた訳であるが、この“subversion”の機構は「ファンタシー」自身に対しても機能するものなのであった。

 

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