アンチ・ファンタシーというファンタシー2

ファンタシーにおける非在性の修辞法(レトリック)
─『最後のユニコーン』のあり得ない比喩と想像不能の情景


 Peter S. Beagle の長篇ファンタシー作品『最後のユニコーン』(The Last Unicorn)においては、独創的な造語や斬新な動物のイメージ等を活用した新機軸の詩的表現と、英語世界の伝統を生かした古典的な言語表現の双方が駆使されており、“非在性の物語世界の構築”と“崇高性の奪還”というファンタシー文学の中心的主題を効果的に導き出すことに成功している。殊に“不可能性の描写”という記述手法に対して自覚性の顕著な本作品においては、比喩の手法にアンチ・ファンタシーというファンタシーならではの、際立った修辞法的特質を窺うことができるように思えるのである。例えば冒頭のこの作品の主題を形成する神話的属性を保持したユニコーンを紹介する描写は、次のようなものであったのだ。

She was very old, though she did not know it, and she was no longer the careless color of sea foam, but rather the color of snow falling on a moonlit night.

p. 7

彼女は、自分では知らなかったけれど、とても年とっていた。そして彼女はもう海の泡のような無邪気な白い色ではなく、月の照らす晩に降る雪のような白い色をしていた。

 この世で最も美しい生き物であると誰もが認めるという、ユニコーンの特有の白い毛並みを描写する表現として、“もはや海の泡のような無邪気な白い色ではなく、月の照らす夜に降る雪のような白い色だった”という興味深い言い回しでもって語られているのである。青い海の波頭に浮かんだ白泡や、月光に照らされて光りながら落ちてくる雪など、ユニコーンの独特の体色を他の様々なものの色合いになぞらえて具体的な様相として語る操作が行われているのは、一見したところ確かに伝統的な直喩の手法に属する表現技法の一つであるようには思える。しかしながら、実はここに用いられている修辞法は、一般に容認されている比喩の効果を決定的に逸脱した、本作品独特のものとなっているのである。月の光を浴びながら降りしきる雪などというものは、むしろ奔放な想像の裡においてのみ主張可能な特殊な情景であり、既存の経験に照らし合わせて回想の対象とすることは、要求の枠外と判断されなければならないからだ。つまりこの場面においては、一般通念における比喩の慣行に対する予期に反した、日常的な経験から遊離した異質なイメージに敢えてなぞらえるという、独特な手法が採用されていたのである。ここにあるのは、比喩の技法の中でも極めて例外的なものとして理解されねばならない、むしろ比喩の常套を転覆することによって初めて成り立つとさえ言う事の出来る、新機軸の修辞法なのである。あるいは大胆にも読者の心中に形成される筈の得心と納得を横滑りさせ、巧みに幻惑的な錯覚へと誘導する、一種のペテン的記述行為が行われていることをも認めなければならないだろう。何故ならば、透き通った純白の代名詞であるかのように提示された波頭に浮かぶ海の泡と、月の光を受けて光る雪の色の違いを正確に見分けられるものは、実際にはあり得ないと思われるからだ。ここには既知のものになぞらえて周知の感覚に訴えるという、常套的な直喩のメカニズムに頼ることを避け、敢えて具体的なイメージの形成そのものを根源的に阻み、不確定的な描写の実現を試みることによって、あり得ない存在の起こりえない出来事を描く挑戦的な行為を自覚的に推進する、ファンタシーの世界独特の別次元の修辞法的表現が提示されようとしていることを、認めない訳にはいかないのである。
 この大胆な手法が十分に意図的に用いられていることは、ユニコーンに関する描写が次のように続けられていることからも改めて確かめられる。

But her eyes were still clear and unwearied, and she still moved like a shadow on the sea.

p. 7

けれどもユニコーンの目はまだ透き通っていて疲れを知らず、彼女は 海の上の影のように身体を運びました。

上の描写においてユニコーンの素早い身のこなしを喩える言葉として、“海の上の影”と語られているものも、やはり何らかの具体的な事物を本体として指示して確定的に述べられている訳ではない。記述と描写を成立させるための最低限に必要とされる筈の基幹的記載を大胆に省いて単に、“海の上の影”という語句にユニコーンの身のこなしをなぞらえて語りを進めるとは、いかにも漠然とした曖昧な記述であり、客観的な印象の形成を助けるには、無邪気な程に恣意的な比喩表現ではあるように思える。そしてこの無邪気さは、実は極めて巧みに擬装された表面上のものに過ぎないのである。具体的で現実的な描写が行われる際の慣行に反発して、敢えて常識的な知的理解を阻むような連想を飛躍したイメージになぞらえることにより、既存のいかなる情景とも重なり合うことのない、現世的実在性の拘束の一切を排除した別世界を描くという、極めて稀なものと言わねばならない特殊な比喩の手法がこの場面でも意識的に反復して採用されており、そこには既知のものになぞらえる常套的な比喩の効果の成立するメカニズム自体を根本的に転覆させようと試みるその行為そのものが、アンチ・ファンタシーならではの、先鋭的な破壊的傾向を主張する基本文法として際立たせられて導入されていくという、明確な戦略的意図が確かに窺われるように思えるからなのである。
 『最後のユニコーン』において効果的に用いられた詩的表現のもう一つの軸を形成すると思われるのは、物語全編に渡って見られる、様々な種類の生き物たちの姿形や動作の鮮やかなイメージだ。冒頭のユニコーンを紹介する描写の後半部分は次のように展開している。

She did not look anything like a horned horse, as unicorns are often pictured, being smaller and cloven-hoofed, and possessing that oldest, wildest grace that horses have never had, that deer have only in a shy, thin imitation and goats in dancing mockery.

p. 7

彼女はユニコーンがしばしば絵に描かれていたように、角のついた馬のような姿はしていなかった。体は馬よりも小さく、蹄は二つに割れていて、馬が決して所有したことのない、そして鹿はただ薄っぺらなおずおずとした物真似でしか所有したことがなく、そして山羊はおどけて踊るような形でしか持っていない“オールド”で“ワイルド”な優美さを備えていた。

作者ビーグルが自ら語っているように、(1)ビーグルの動物に関する知識と関心は非常に該博で詳細なものがあり、それらがこの作品世界の独特のディテールを肌理細かに構築する際に、斬新で印象的なイメージを提供する豊かな源泉として見事に機能しているのである。ここではその企ての発端として、ユニコーンの保持する独特の属性である“優美さ”が、他のいくつかの動物達の占有する特徴との比較を通して語られている訳だが、実はここで描かれているものも、客観的な具体性を備えた正確に伝達可能な事実などではない。
 何故ならこのユニコーンの特質たる“grace”を語るために比較の対象とされた動物達は、“馬は決してその優美さを保持したことがない”とされ、また鹿の優美さはユニコーンと比べれば“薄っぺらなおずおずとした物真似でしかない”と語られ、山羊はただ“おどけて踊るような紛い物の形”に変質したものを特有の印象として備えているとされているからである。ここにある描写はいずれも、積極的に確定的な何物かを語ろうとするようなものでは全くなく、対象を絞り込むことのない迂回的な否定を繰り返すことによって、描写の対象となる概念あるいは属性の印象の根源的な不定性こそが、むしろ強調しようとされているかのようにも思えるのである。
 つまり上の引用において用いられていた、ユニコーンの描写における他の動物達との比較も、冒頭におけるこの神話的存在の導入の際になされていた、ユニコーンの性の転換という操作と巧妙に連動して、従来の伝承において語られたユニコーンのイメージを、その記述された内実ばかりではなく、比喩的に語られる描写の手法の摘要方法自体においても、見事に転覆する効果を果たしているのである。この直後に得られる、森に現れた二人の狩人達の一方が語っていた古代ローマの博物学者プリニウスの記録にあるユニコーン伝説と、先程の引用部分に描かれていたユニコーンの姿の対照を試みるならば、そのレトリック操作の示す相違点は明瞭なものとなるだろう。

“Pliny describes the unicorn as being very ferocious, similar in the rest of its body to a horse, with the head of a deer, the feet of an elephant, the tail of a bear; a deep, bellowing voice, and a single black horn, two cubits in length.”

p. 8

「プリニウスによれば、ユニコーンはとても獰猛で、身体そのものは馬と同様だが、頭は鹿のようで、足は象のようで、尾は熊のようで、唸る声はとても重々しく、2キュービットの長さの黒い角を持っているということだ。」

ここにあるのは、荒唐無稽な姿をした怪獣の代名詞としてしばしば持ち出されるキメラ(chimera)(2)に代表されるような、実はギリシア神話を通して知られている様々の神話的存在に共通する、複数の既存の動物の特徴的部分を、言わばパッチワークのように繋ぎ合わせて構築された、複合的な動物イメージなのである。例えばユニコーンの場合であれば、狩人がその名を挙げていたプリニウスの記述のように、馬と鹿と象と熊の形態の複合体としてその姿が語られてきたのであった。この記述による観念操作の結果生み出された存在物達は、個々の既存の動物の保有する部分のイメージに忠実に依存することによって、その固別の存在感を得ていることが分る。部分を提供する母体として言及されている各々の動物は、丁度一般的な直喩が果たしていたのと同様の、指示対象に対する精密な一対一対応を形成すべき、確定された姿形・色合いあるいは属性を保持している事を前提としたものであった筈だ。例えば『最後のユニコーン』においては、マミー・フォルチュナの見世物小屋“ミッドナイト・カーニバル”に捕われた他の怪獣達として登場していたマンチコアやサチュロスなどが正しく、これと同等の観念操作の結果生み出された、ギリシア神話という観念宇宙を背景にして焦点を結ぶ固有の神話的存在達である。マンチコアはライオンの身体に蠍の尾を持った怪物として知られているし、サチュロスは上半身は人間、下半身は山羊の姿をしている異形の半神半獣的存在物である。狩人の語っていたプリニウスの『博物誌』の記載におけるユニコーン像にせよ、あるいはクリュニー美術館に所蔵の“貴婦人とユニコーン”やメトロポリタン美術館に所蔵の“クロイスターズのユニコーン”(3)等の様々なタペストリーのイメージを通して定着した中世ロマンス的伝説世界の中のユニコーン像にせよ、これらは既存の他の動物達の姿形の一部を厳密な構成単位とした、具体的な外形的イメージの複合体なのである。さらにこれらのタペストリーに描かれた伝説上のユニコーンの場合は、キリスト教神話の寓喩的象徴性を図像として定着させた、既存の中世的暗喩の体系に稠密に組み込まれた存在でもあったのである。(4)
 しかしながら『最後のユニコーン』においてユニコーンの姿の描写に用いられた比較と参照は、これらの場合とは全く別種のメカニズムに依存していることが容易く理解されることだろう。ユニコーンとの類似が持ち出されると共に、むしろその相違こそが強調して語られていた、馬や鹿や山羊を引き合いに出してなされていた先程の引用部分における描写は、主観的な独特の感覚の何物かを語ってはいるものの、その内実は極めて非確定的なとりとめのない印象の羅列に過ぎない。むしろここにおける記述の主体は、既存の様々な具体的イメージの否定と破壊の上に成り立っているだけのものに他ならないのであった。
 伝統的には“高貴な動物”とされている馬は意外なことに、全くユニコーンの体現する“優美さ”に対応するものは保持していないと、断定的に除外されてしまっていた。しなやかな愛らしさが印象的な鹿は、ユニコーンの“優美さ”の“薄っぺらなおずおずとした物真似に過ぎない”と、はなはだ主観的に片づけられているばかりであった。そしてさらに、むしろグロテスクな程の不格好さが、特徴的な異教的雰囲気あるいは悪魔的形象を暗示するものとされることの多い山羊が、予想に反して“おどけて踊るような形で”ユニコーンの独特の優美さに対応する何物かを保持していると、かすかな類似をほのめかして語られているのであった。
 幾許かの対応が認められた鹿と山羊の場合にしても、基幹的なイメージの修正条件として与えられた鹿に対する“shy, thin imitation”という言葉も、 さらにまた山羊に対して語られた“dancing mockery”といういかにもとりとめの無い放埒な言い回しも、先程の“波の上の影”の例と同様に無邪気な程に恣意的な、具体性の欠如した散漫な内容を語るものとなっている。つまりこれらの記述は、伝達すべき何らかの客観性を念頭において緻密に語られたものでは全くなく、むしろ既存のイメージの否定と、そして類似性を打ち消すために採用された語句の与える茫漠とした印象を通して、不可視性の外観を描き出そうとするはなはだ奇妙な試行の結果となっているのである。つまり複数の属性記述の重ね合わせによりこれらの属性を保有する擬似的“本体”を遡及的に現出させる結果となる、仮構世界構築の方法論の背後に潜む原理的メカニズムを際どく活用した、アンチ・ファンタシーにおける特有の表現様式の開拓が、実はここに目論まれていたのであった。(5)
 実はこれと全く同等の巧妙な概念操作が、一見したところ一般に受容された通常の語句と思われるものに対しても、やはり同様に摘要されていることが分る。例えば、ユニコーンの例えようもない美しさを語る“grace”という言葉と、この名辞を修飾するために用いられている二つの形容詞に注目してみることにしよう。“grace”(優美さ)を形容する言葉として用いられている、“old”も“wild”も、共にこの形容されるべき言葉の本来含意するものと矛盾する筈の内包を保持するものであるが、先ほど“old”という形容詞が独特の意味の変容を意識して用いられていたのと同様に、“wild”もまた矛盾した形容語の使用を意図的に行う修辞法である、“oxymoron”(撞着話法)の効果を最大限に活用して、独特のユニコーンの存在属性を主張するために周到な計算の許に用いられているものなのである。“wild”は一般の含意に従って「荒々しい」、あるいは「野性的」などとは訳し難いことが理解されるだろう。反対語である“tame”が「人の手によって飼いならされた」、の意味を含む言葉であるのに対して、人間性の支配から全く自由であることを主張する表現として、ここでは “wild”という形容詞が、新たな意味を備えた独特の言葉であるかのように用いられることになっていたのである。死すべき運命に捕縛された人間達“mortal”な存在に対して、対照的に不死なる(immortal)神々に与えられた特権的な属性に恵まれた、永遠性の存在であるユニコーンの人間との決定的差異を際立たせるための選別された属辞として、この“wild”という言葉が独特の機能を果たしているのである。
 ここに指摘したような語句の意味性操作の手法は、実は“修辞”という行為の成立する根幹条件に関わる伝統的な言語活用技法の一つなのであるが、また一方、従来存在しなかった新規の語の革新的導入という形で行われる、一般に造語(coinage)と呼ばれている概念操作に対して対照的な位相を占める修辞的技法として、影の原理に対する主題的照射あるいは影のシステム原理の同位体的投影とも看做し得るものであるに違いない。(6)
 このような微妙な概念操作の摘要例は、アンチ・ファンタシーという性向に対する物語自身の自覚性を鋭く反映して、本作品の全編にさりげなく散りばめられているのである。そして『最後のユニコーン』においては、美麗な詩的表現が観念的な主題性と見事に融合して、高度に洗練された記述技法を完成するに至っているのである。先ずはその具体例のいくつかを、素朴なテキスト読解の作業を通して確認していくことにしよう。
 道端で眠りに落ちているユニコーンを発見した、怪物達の見せ物サーカス“ミッドナイト・カーニバル”の座長である魔女マミー・フォルチュナは、気になる言葉を呟く。彼女は他の人々とは異なり、この時目にしたばかりのユニコーンがただの雌馬などではないことを正しく判別するばかりか、このユニコーンが世界に残された今はたった一頭の“最後のユニコーン”であることを何故か知っており、先ほどの蝶との会話からユニコーンが得た情報が、ユニコーンの期待に反して真実のものであることを、この言葉によって確証する役割をも果たしているのである。

“Well. Well, bless my old husk of a heart. And here I thought I’d seen the last of them.”

p. 16

「おやおや、これはまあ、驚いたことだね。最後の一頭を見つけてしまったよ。」

上の台詞における、“bless my old husk of a heart”の“heart”に冠せられた“old husk of”の部分は、年老いて乾涸びたような老婆の心臓を指すものであるから、“husk”つまり“殻”のような、という一風変わった形容が用いられているのである。1968年の原作『最後のユニコーン』の出版の暫くの後、1982年に公開されたアニメーション版『最後のユニコーン』では、映像表現における本作品の主題追求のさらなる工夫が様々に凝らされていた。その代わりに本章においてこれまで検証を行ってきたような語りの手法の興味深い表現の多くは、割愛されざるを得ないことになっていたのである。しかしながら面白いことに、この欠落部分に代替するものとして、シナリオを自ら担当したビーグルは、上の場面の直後に続く彼女の下男のルークの発した台詞として、“What on earth”(一体全体どうして)とあるべきところに、“What in the hell”という言い回しを新たに付け加えているのである。登場人物の各々が、劇作手法的な効果を巧みに備えて、それぞれなりに自らの存在属性を彼等の用いる台詞回しの中に反映させることになっている訳だ。このような緊密な意味性の律動性と反復構造性に対する作者の鋭敏な感覚が、『最後のユニコーン』の一見したところ常識を逸脱した散漫な修辞的技法を説得力あるものにしているのである。そしてまた、この興味深い台詞のつぶやかれる場面の直前の彼女の登場のシーンを思い起こしてみれば、

All the other wagons stopped too and waited silently as the old woman swung herself to the ground with an ugly grace.

p. 16

すべての馬車が同じように止まり、彼女が醜悪な優雅さでくるりと身を翻して地面に降り立つのを静かに待っていました。

と、ここでもやはり撞着語法を駆使した独特の不可思議な描写によって、この異様な人物は紹介されていたのであった。陳腐な類型的表現を忌避する峻厳な感覚は、実はこの物語全編に渡って持続しているのである。観念性においては驚く程稠密で、極めて立体的であり、時には優れて“具体的”でさえもあり得るのがこの物語の展開する世界なのだ。そしてさらに謎めいた言葉を続ける彼女の姿は、

“If he knew,” she said and she showed pebbly teeth as she smiled. “But I don't think I’ll tell him.

p. 16

「もしもあの人がこのユニコーンのことを知ったらね。」そう言いながら彼女は石粒のような歯をむき出しにして笑いました。「でもあたしは教えてやったりはしないだろうね。」

と無気味な、しかし格段に印象深い詩的描写でもあり得る語句を用いて語られていたのである。老齢のためにすり減って丸みを帯びてしまった歯が、“pebble”(丸石)に例えられていたのであった。効果的な形容語の選択による斬新な表現効果は、直喩の保持する機能の一つである異質なもの同士の意外な連結という修辞技法と同様の成果を巧みにもたらしているのである。
 ここで彼女が呟く“あの人”とはこの物語の後半部分にようやくその姿を現し、実はユニコーンの運命を決する最も重大な影響を及ぼす人物であるハガード王に他ならない。本作品の裏の主人公の存在をさりげなく物語の冒頭において暗示し、そして存在属性上では彼と見事な鏡像的対照とさらに同属的位相をも成すこの奇妙な人物の姿と行動を記したその後の描写は、対照的な属性である醜悪と優美の要素の重ね合わせを強く意識して、以下のような特徴的な修辞的技法を用いて続けられているのである。

Her voice left a flavor of honey and gunpowder on the air.

p. 16

魔女の声は蜂蜜と火薬の匂いを空気に漂わせました。

ここにあるのもまた、具体的描写を敢えて拒み、読者の想像を絶した独特のイメージの喚起を目論む、際どい詩的表現である。しばしば視覚を聴覚の如く、聴覚を視覚のごとく逆転させて不可思議な超自然的情景を観念空間の中に現出させることを試みた、正統を継ぐべき異国の傍流のロマン派詩人エドガー・アラン・ポーの修辞的技巧を反映してさらに発展させた、これは『最後のユニコーン』においてとりわけ好んで活用されている、特徴的な修辞的技法の一つなのである。この技法を成立させる原理は主題的には実は、“魔法”の根幹にある世界構築原理と関連して、ファンタシーの思想的特質を暗示することともなっているのであった。『最後のユニコーン』においては、素朴な詩的感興が形而上的な概念性と巧みに重ね合わせられて、固有の洗練された技巧を形成する結果に至っているのである。
 あり得ない事柄が作品世界中に現出した一つの事実として語られていれば、通例それは意味の破壊を企図したナンセンスの効果をもたらすものであるとして受け止められることが多い。しかし上の場合のような効果を伴って提示された特異な事象は、現実的な社会的“センス”と一般常識を破壊する反社会的“ナンセンス”の対立的な機構などという硬直した図式を遠く離れた、ナンセンスの原理とは全く別種の記述手法に基づく表現として、ファンタシーの時空の中に改めて主張されることとなる。(7)
 ここにあるものはむしろ存在物、非存在物の別を問うことなく全ての可能態を対象とする、記述行為自体の秘める言及可能性に対する徹底的な模索行為から抽出された、形而上的なある種の新たな“存在属性”の記述の跳躍的な試行として解釈することも又可能なものなのである。物語世界の描術手法において矛盾撞着に導かれる言説が、一般の常識的ルールに従って意味性を再構築することを前提とする、単なる比喩的な修辞法の一つとして理解されるべきものなのか、あるいは飽くまでも仮想的疑似空間上に実際に生起した紛れも無い一つの事象として、反転的に観念空間の中にその事象の発現可能な新たな次元の追加を再検討しつつ再解釈する事を強行に要求するものであるのか、実際のところ截然と判別する方程式はおそらく見つかることはないであろう。厳密に定義された個々の単語の集積によって常に記述の全体像が一意的に確定するのではなく、実際には語られた事柄の総体が反転的にその各々の部分の定義を果たすことになる、言葉の意味性というものが含むこの二律背反した微妙な条件こそが、実は“仮構世界”を実際に効果的に構築する際の重要な要因の一つとなっている筈だからである。(8)この定義の本質に横たわっている反転的二重構造性を常に意識した発話行為の自覚が、通例“アイロニー”と呼ばれる精神活動の根幹にあるものなのだ。そして“ファンタシー”という仮構世界記述の試行が採用される際の初動因とも、基幹条件ともなっていたのが、この点に関する鮮明な自覚であった筈なのである。そこでは思考と記述に用いる諸概念とそれらの依拠している階層構造の不断の破壊と革新が企図されているのである。
 このような仮構世界構築作業における語り手と受け手双方の意識構造の基軸の織り成す位相と、読み取られるべき事象の存在性向を左右する記述手法の選択というもう一つの軸線の接点の構築する位相的構造性に対する再検証の必要性さえも思い起こさせてくれる見事な修辞法のいくつかを、さらに『最後のユニコーン』のテキストの中に確認しておくことにしよう。いかにも耳障りな声を立てるマミー・フォルチュナの下男ルークと、彼の女主人の姿は以下のように描写されている。

His chuckle sounded like matches striking.... She joined with the man Rukh in a ratchety roar of laughter.

p. 17

この男の笑い声は、マッチを擦るような音をたてました…。魔女もこのルークという男と声を揃えて、歯車の軋むような笑い声をたてました。

ここに用いられているのも、選択された表現技巧が的確に全ての読者の既存の体験に訴えかけ、堅固な共通の理解を確立することを目的とするような記述手法などでは全くない。むしろ個々の読者の心中に別個に生成する、それぞれなりの異質な感覚の各々の斬新な振幅の切れ味自体にこそ、その創造的効果を依存する、一方では手放しの他力的な放埒さと、そしてまた他方では自らの口にする言葉とそれによって歌いあげられる対象の間の潜伏した玄妙な関係性に対する無条件の信頼さえも窺わせる、特異な修辞的技法なのである。
 殊に魔法の顕現が記述された際にこの手法が繰り返し適用されていることは、改めて指摘しておいてよい事実だろう。『最後のユニコーン』の最も重要な題材となっていると思われる魔法の原理とメカニズムを、主題的に遡求して反転的に雄弁に物語っているのが、これらの修辞法的技巧なのであった。それは例えば、魔女マミー・フォルチュナがユニコーンに魔法をかけて捕らえようとした際の描写に典型的に見て取ることができる。(9)

There was a smell of lightning about the unicorn when the old woman had finished her spell.

p. 17

魔女が呪文を唱え終わった時、ユニコーンの体の周りには稲光りの臭いが漂っていた。

“稲光りの臭い”という記述は、ポー的な異質感覚の交錯を企図した詩的技法を、視覚と臭覚の連結という形で応用した新たな発展形の一つであると共に、具象性から決定的に乖離した観念性の即物的印象操作による、非在性の造形的創造行為でもまたあるのだ。『アメリカ文学におけるファンタシーの伝統』において『最後のユニコーン』を辛辣に批判したアテベリーも認めざるを得なかった、ビーグルの持つ独特の詩的感性の保持する内実の豊かさが、実はここにも確かに窺えるのである。このお伽話の作者は連想と概念の重ね合わせの効果に対して、殊更に鋭敏な嗜好を示しているのである。
 さらにしばらく後の場面で、今度は魔法使いシュメンドリックが魔法の技を行おうとする折にも、同等の趣向の非在的記述は再び繰り返されている。シュメンドリックが魔女によってユニコーンが閉じ込められている檻から、彼の憧憬と救済の鍵でもあるユニコーンを救い出そうと試みる場面である。

He spoke three angled words and snapped his fingers. The cage disappeared. The unicorn found herself standing in a grove of trees―orange and lemon, pear and pomegranate, almond and acacia―with soft spring earth under her feet, and the sky growing over her.

p. 45

彼は3つの角のある言葉をつぶやき、指を鳴らした。すると檻は一瞬のうちに姿を消した。そしてユニコーンは、自分が周囲を木々に囲まれているのに気付いた。オレンジにレモンに梨に柘榴、アーモンドやアカシアの木もあった。足の下には柔らかい春の土が感じられた。空は彼女の頭上に広がっていた。

“3つの角のある言葉”という記述の裡に採用されているのは、これまで論考を行ってきたような、感覚を示す語句の本来の使用界面をずらした交錯的使用という機構をさらに増幅した、概念性自体の次元界面の混淆をも結果的に導くことになる、意味性の越境的活用を図ることを企てる、純粋に思弁的な語法なのである。現代詩的な斬新な表現効果の開拓という修辞法的模索行為のレベルに止まることなく、この技巧が本作品の根幹にある主題そのものと密接に関わっている形而上的な内実を含むものであることは、改めて指摘しておかなければならない事実であろう。つまり魔法に関わる言葉のような、一般の現象世界的限界性を超越した存在を形容する語は、しばしば論理矛盾、もしくはナンセンス、あるいは異次元に属する概念の連合という、際立った特有の形態をとらなければならないのである。何故ならば神秘的な力を発揮する魔法の呪文が、容易に解読可能な日常的な言葉で語られてしまっていたならば、それは超自然的な不可思議さの伴わない、紛い物の魔法が描かれていることの証拠となってしまうからだ。魔法使いならざるものにとっては満足な意味をなさないということこそが、それが本物の魔法であることの有力な条件となるのである。“本物性”と“偽物性”の厳然たる差異という、魔法の施行の記述に関するこの案件は、本作品において一貫して保持され、互いにその意義性を反映し合って語られ続けていく、核芯的な題材となっているのである。
 さらに引き続いて、シュメンドリックがこの場面の後に次に試みた魔法は、以下のように記述されている。

A scratching of flinty phrases this time, and Schmendrick’s bloody hands flickering across the sky. Something gray and grinning, something like a bear, but bigger than a bear, something that chuckled muddily, came limping from somewhere, eager to crack the cage like a nut and pick out bits of the unicorn’s flesh with its claws.

p. 45

次に魔法使いが唱えた呪文は、火打ち石を引っ掻くような言葉だった。呪文を唱えながら、シュメンドリックは血の滲んだ両手を空にかざしてちらつかせた。すると何か灰色をした、しかめ面をした熊のような、しかし熊よりもさらに大きい姿をしたものが、どこかから現れて、泥のぴちゃぴちゃするような音を立てて喉を鳴らし、飛び跳ねながら近付いてくるのだった。クルミの殻のように檻を砕いて、その爪でユニコーンの体を引き裂き、肉をつまみ出そうとやって来るのだった。

この物語においては、登場人物によって用いられた魔法の呪文の言葉がそのまま書き留められることは決してない。その代わりにここでは、“火打ち石を引っ掻くような言葉”という具体的ではありながら意外性のある表現を用いて、魔法の呪文についての記述が行われているのである。“flint”(火打ち石)は冷徹で堅い、非情な心の代名詞としてしばしば用いられる語でもあるが、ここでは物質の属性である堅牢さのイメージと魔法の呪文に用いられる発せられた音声としての言葉との、連想の隔たりを見事に活用した新鮮な表現となっているのである。このように現実世界の常識を超越した超自然の領域に属する技術である魔法の技を語る際には、意味の破綻と論理の飛躍が含まれることが、むしろ欠かせない条件となっているのである。その結果現出した不可解な力の産物は、“something that chuckled muddily”とこれまた連語関係の常套を大胆に踏み越えたような形容を用いて巧みに語られることとなる。
 一意的な演算作業の帰結として得られるような単なる論証は、証明の過程を演出すること以上の存在価値を主張することはできないのである。前提として仮定された公理と認証された定理に基づいたオートマトン的証明記述ではなく、創出された作物の存在性そのものの意義が厳重に問われることになる創造行為的虚構記述においては、時として論理の飛躍が正しく執り行われていることこそが、欠かすことのできない評価の基準となり得るのである。だから魔法の技の行使の結果生み出されたものも、やはり魔法の施行の過程に関するものと同等の、超論理的記述操作を忠実に摘要されねばならないことになるのである。
 計算通りの結果をもたらしたものではないからこそ、より一層魔法の技の本来保持する無気味さと、そしてその超越的な異質の能力を暗示する、誤用された魔法の技の生み出した意外な結末は、さらにまた以下のような記述を適用して語られることになる。

The unicorn backed into a corner and lowered her head; but the harpy stirred softly in her cage, ringing, and the gray shape turned what must have been its head and saw her. It made a foggy, globbering sound of terror, and was gone.

p. 45

ユニコーンは檻の隅に後ずさりして頭を低く構えた。けれどもその時ハーピーが自分の檻の中でそっと身を動かし、鋭い金属音を響かせた。すると灰色の姿をしたものは、頭であるはずのものをそちらに向け、ハーピーの姿を目に留めた。そして霧のようにくぐもった恐怖の叫びをあげ、逃げ去ってしまった。

「灰色の姿をしたものは、頭であるはずのものをそちらに向け」の部分に、先ほどの「泥のぴちゃぴちゃするような音を立てて喉を鳴らし」と等質の、魔法の日常的理解不能性に焦点を合わせた巧妙なレトリックの摘要例を指摘することができるだろう。「霧のようにくぐもった恐怖の叫びをあげ」の部分も同様だ。未熟な魔法使いによる魔法の誤用によって呼び出された未知の存在の発した恐怖の響きは、“cry”や“scream”と情念的に決めつけられることはなく、ただ即物的に“sound”と記されるのみである。これらは皆、不定形の得体の知れないものの不気味さを、具体的形容の一部を放棄することによって巧みに曖昧性を通して表現する、実際はすこぶる精緻な修辞的技法の産物なのである。
 そして魔法使いがこの次に魔法を用いた場面の記述に、本作品における典型的な非在性の記述に関わる修辞学的技法を確認することができる。

Schmendrick took a deep breath, spat three times, and spoke words that sounded like bells ringing under the sea. He scattered a handful of powder over the spittle, and smiled triumphantly as it puffed up in a single silent flash of green. When the light had faded, he said three more words. They were like the noise bees might make buzzing on the moon .

p. 46

シュメンドリックは深く息をつき、3度つばをはきかけて、海の底で鐘の鳴り響くような言葉をつぶやいた。それからはきかけたつばの上に一握りの粉をまき、それが音も無く緑の光を発して燃え上がると、勝ち誇ったような微笑みを浮かべた。光がおさまると彼はさらに3つの言葉をつぶやいた。それらはミツバチが月の上で羽音を立てているような響きだった。

「海の底で鐘の鳴り響くような言葉」の部分も「ミツバチが月の上で羽音を立てているような響き」の部分も共に、 “〜のような”(like〜)と、比較する対象を明示して語る“直喩”の技法が用いられてはいるが、ここでなぞらえられているものは、一般的に認知された万人に想像可能な情景などではない。やはりここでも共通の理解を超えた、連想の限界を飛躍したイメージを敢えて語ろうとする、独特の比喩表現が繰り返されているのだ。魔法の現象性を超越した属性に反響する固有の表現技法は、このようにこの物語においては、しばしば対句的に採用されていることが多い。本作品冒頭のユニコーンを紹介する際に用いられていたのと同軸の非在性の表現技法が、魔法についての描写が行われるこの場面でも正確に、相関的対称を成して反復されているのである。
 記述され、伝えられる“意味”にも繰り返しと対照を通して、リズムの効果を充填させることができるのだ。優れた表現あるいは論証は、確かに音楽的な形態的要素を有効に活用してこそ語られ得るものなのである。引き続き描かれる次の場面の魔法の記述を確認することによって、反復と変化の織り成す意味的律動性に対する作者の鋭敏な感覚を確証することが出来るだろう。

Schmendrick stopped the bars, though she never knew how. If he spoke any magic, she had not heard it; but the cage stopped shrinking a breath before the bars touched her body. She could feel them all the same, each one like a little cold wind, miaowing with hunger. But they could not reach her.

p. 46

 ユニコーンにはどうやってそれができたのやらよく分からなかったが、シュメンドリックはなんとか鉄格子の動きを止めることができた。魔法使いが何か魔法の呪文を唱えたとしても、彼女はそれが耳に入らなかった。ともあれ檻はすんでのところで鉄格子が彼女の体に触れる前に、縮んで行くのを止めたのだ。でも彼女には、鉄格子の一本一本が冷たい寒風のように腹をすかして猫のように鳴き声を立てているのが感じられた。けれども彼等は彼女の躯に届くことは出来なかった。

“鉄格子の一本一本が冷たい寒風のように腹をすかして猫のように鳴き声を立てて”の部分がやはり、本作品の特徴を示すキーワード“animal image”と“poetic phrases”の双方に関連している部分である。予期の範囲を逸脱した情景/形象/様態の記述は、“グロテスク”という様相の背後に崇高性の存在を暗示するのである。こうして魔法と、魔法の力を秘めた超越的属性を備えた畏怖と崇高を体現するもの達は、主題性と連接した周到な詩的表現を駆使して語られ続けていくのである。
 その効果が畳み込まれて増幅し、印象的な一つの情景として具現化しているのは、シュメンドリックの助力によってなんとか檻から逃れ出たユニコーンが、今度は彼女自身の魔法の力を用いてハーピーを檻から解放しようとする場面においてである。

The unicorn lowered her head until her horn touched the lock of the harpy’s cage. The door did not swing open, and the iron bars did not thaw into starlight. But the harpy lifted her wings, and the four sides of the cage fell slowly away and down, like the petals of some great flower waking at night. And out of the wreckage, the harpy bloomed, terrible and free, screaming, her hair swinging like a sword. The moon withered and fled.

pp. 48-9

ユニコーンは頭を下げて、彼女の角をハーピーの檻の錠前に当てた。檻の戸口が開け放たれることもなく、鉄格子が月光の中に溶けてしまうこともなかった。けれどもハーピーが翼を広げると、檻の四方の鉄格子はゆっくりと外れて、夜に咲く巨大な花の花弁のように開いた。そして檻の残骸から、ハーピーは叫び声と共に羽毛を剣のように突き立てながら、猛々しく解き放たれて花開いたのであった。月はしおれて、逃げ去ってしまった。

“夜に開く巨大な花の花弁のように”の部分にも、具体性を省いた恣意的で無邪気な風を装った、独特の描写の手法が用いられていることが分かる。これらの比喩は、読み手の既存の経験に対してではなく、記憶以前の深層に横たわる不可能性の直観に対して、その強力な喚起力を及ぼすのである。そしてこの得体の知れない不可解な花を持ち出した比喩は、素朴にキーワード “poetic phrases”に関連すると同時に、ユニコーン以上に鮮烈な魔法の力を暗示するハーピーの存在性自身の解放を暗示する言葉、“the harpy bloomed”と見事な対応を成してもいるのである。「ハーピーは解き放たれた」を予期する読み手の目に「ハーピーは花開いた」という記述を飛び込ませることにより、読み手の心中に揺らぎを伴った重ね合わせの印象を与える技巧は、ビーグルの駆使する古典的修辞技法の範疇の一つを見事に例証するものだ。さらに日月星辰と同調する本物の存在たるハーピーの邪悪な力の解放と共に色褪せ、逃亡してしまうとされる月も、“withered”(しおれて)と同属の言葉を用いて記述されることとなっている。そしてこの減衰のイメージは、自由の身となったハーピーがユニコーンに襲いかかり、二頭の神話的存在同士の戦いが繰り広げられる際の描写にも、反復して適用されることとなるのである。

So they circled one another like a double star, and under the shrunken sky there was nothing real but the two of them.

p. 49

こうしてユニコーンとハーピーは連性のようにお互いの周りを旋回し合った。そして縮み上がった空の下では、彼等を除いて真実のものなどある筈もなかった。

互いに自由の身となり、その本性に従って凄まじい戦いを始めたユニコーンとハーピーの有様は、同等の質量をもった対からなる天体である連星に喩えられているのである。聖なるものと邪悪なるものの対称的に連接したその姿は、影と本体の緊密な補完関係から成り立つ万物の存在原理を示す、“ウロボロス”及び“巴”の紋章に表された、ファンタシーの思想的特質を暗示する宇宙の深遠な原理機構を示す象徴として理解し得るものなのだ。そしてここでもあまりにも鮮やかな存在性を示す神話的存在達の前で色褪せてしまう空は、“shrunken”と先ほどの“withered”と属性上の精密な対応を示して描写されているのである。ハーピーという存在は、ユニコーンが普遍的な概念性自身と密接な関連を持つものであったように、宇宙の構成要素となる他の様々な事物や観念やあるいは印象と切り離して感知されるものではあり得ない。(9)存在性自身の中に秘められた魔法と、その根幹的属性に対する記述には、作者は常に格別の配慮を払って語りを進めているのである。
 マミー・フォルチュナと、偽物と本物/存在と表象の関係を通して彼女の存在そのものの象徴でもあり得るミッドナイト・カーニバルに対する復讐として、ハーピーの及ぼした破壊と蹂躙の様を物語る記述においても、この記述操作は同等に摘要されているのである。

The magician crept as close to the unicorn’s light as he dared, for beyond it moved hungry shadows, the shadows of the sounds that the harpy made as she destroyed the little there was to destroy of the Midnight Carnival.

p. 202

魔法使いは出来る限りユニコーンの発する光の間近に来ようと身を寄せた。何故なら光の向こうには飢えた影がうごめいていたからだ。それはハーピーがミッドナイト・カーニバルの残骸を残さず破壊し続ける、騒音の影なのだった。

 「飢えた影」、及び「騒音の影」の箇所が、異質の属性のもの同士を連結することから斬新な効果を生み出す、詩的な表現技法が用いられている部分として先ず挙げられるだろう。このように、しばしば音声を映像であるかのように、あるいは映像を音声であるかのように逆転させて語る技法は、文化果つる国アメリカの決して理解されざるロマン主義の伝道者であった詩人・思想家のEdgar Allan Poeにおいて顕著なテクニックであったが、ポーの諸作品の場合と同様にこの物語においても、表現技法と語られる仮構世界を支配するシステム理論は、常に堅密な対応関係の許にあるのだ。
 ハーピーという残虐な存在自身も、彼女の行う邪悪な行為も、それぞれを切り離して感知あるいは描写を行うことが原理的に不可能な、破壊と蹂躙という普遍的概念としての本来の“実体性”を保持するものなのである。そこには現象と事象を別個に独立させて理解すること自体が意味を成さなくなる、全体性の宇宙の中で永遠性の存在の示す実質と位相の微妙な関係性が凝縮されているのである。
 この物語の場合のように、このような形而上的な観念的記述対象が選び取られた場合には、特異な詩的表現が不可能性のファンタシーの文法と分離不可能な、必須の描述手法として看做されることとなるのだ。現実には現象としても存在としても決してあり得ない、言語としても概念としても本質的に意味をなし得ない破綻した言説こそが、詩の世界においては独特の表現技巧として高く評価されなければならないのは、この理由に拠るものなのである。あり得ない世界の起こり得ない出来事を記述するファンタシーの作品世界においては、単なる文飾的表現技巧の枠組みを超えて、記述対象と記述手法自身の織りなす原理的な関係性を暗示するおそらく唯一の試行であるこの種の“飛躍表現”そのものが、“不可能性の記述”として改めて主題的な評価の対象とならなければならないのである。
 虚構世界におけるこの微妙な位相的相関性の感覚を最も鮮明に弁えている人物が、魔法の秘める深遠な本質的意義性にばかり意識的で、無意識の裡に体現すべき真の魔法の能力からは程遠い、何時までも未熟な魔法使いシュメンドリックなのであった。常に不器用な解説者/弁明者/傍観者として振る舞うこの人物の存在により、この物語は多面的でしかも凝縮した主題言及性を構築することに成功している。さらに魔法の力を秘めたユニコーンの存在の秘める神秘性について語る言葉として、作者は自らの分身であるシュメンドリックによる、遊戯的な謎としての言説まで用意してくれているのだ。ユニコーンをただの雌馬であるとしてしか理解することのできない愚かな人々を相手に、自己満足に浸りながら語るシュメンドリックの奇妙な言葉がそれである。

“She is a rarer creature than you dare to dream. She is a myth, a memory, a will-o’-the-wish. Wail-o’-the-wisp. If you remembered, if you hungered―”

p. 60

「あれはあんた方が夢にも見ることが出来ない、稀な生き物なんだ。あれは神話であり、記憶であり、願望の意思であり、嘆きの影なんだ。もしもあんた方が思い出すことが出来さえすれば、心の渇望を抱くことが出来さえすれば…。」

「願望の意思であり、嘆きの影なんだ。」と訳した対句的表現である“will-o’-the-wish. Wail-o’-the-wisp.”の部分が、シュメンドリックの行った遊戯的発話行為だ。本来ならばここで語られるべき最初の言葉は、“will of the wisp”、つまり人によって正しく感知されることの出来ない、曖昧で不確かな存在あるいは現象として知られる“ghost light”つまり“狐火”、“あるいは火の玉”であった筈だ。シュメンドリックはこの語に形態的、音韻的に対応するもう一つの対句的表現“wail of the wish”=“a groaning uttered in unfulfilled wish”(10)(叶えられない願いを秘めて口に漏れる呻き)を着想し、さらに対句となる行の語を入れ替えて攪乱することによって謎をかけるという、身勝手で独善的な言葉の遊びをしているのである。しかしながら“交差対句法”という名称で理解されているこの記述手法は、“影の原理”という相補的・反転的交替性を通して宇宙の存立機構を観照する、確固たる思想的基盤の存在を暗示するものでもまたあるのだ。
 さらに魔法と予言に関わる世界自体が秘めた根源的な真実である“謎性”が念頭に置かれた場合には、非在性の比喩表現から主題的な観念操作への見事な跳躍が行われることともなる。やはり余りにも自省的な解説者であるが故に、恒常的な失敗者であり、永遠の傍観者であるシュメンドリックによって語られた科白がそれである。誰にも(no man)成し遂げることが出来ない筈のユニコーンの探求の冒険を成功へと導くことが出来る例外的助力者は、女(woman)である自分の存在以外にはない、と挑戦的に主張するモリーに対して、弁舌にばかり長けた未熟な魔法使いはこのように反論することとなる。

“I’m no man,” he said, “I’m a magician with no magic, and that’s no one at all.”

p. 91

「俺は何物でもない。」シュメンドリックは言った。「俺は魔法の力を持たない魔法使いだ。それはつまり誰でもない、ということだ。」

彼の主張によれば、“非在” (nonexistence)という属性は欠如あるいは空隙としてのみならず、時として相反する属性記述の併記という論理矛盾による重ねあわせの結果としての不可能性から導き出されることもある訳だ。彼等が持ち出した「誰にも行うことが不可能である」とされていた筈のことが“no man”によって成し遂げられる、というトリック的筋立ては、英語世界の“nobody”、あるいはドイツ語世界の“Niemand”、そしてギリシア世界の“ウーティス”等の非存在を暗示する伝説上の超現実的人物として、もしくは契約と予言に関わる条件の転覆行為のために活用されたペテン的言説として、様々な謎を主題とした物語の格好の題材となってきたのであった。しかし、物語の中の登場人物自身が一個の仮構世界を構築するための基軸となるこの筋立てを明確に意識しており、対照的な性向を担った男と女の卑近な口喧嘩の場面で実際にこの論理が摘要されもする、というのがこの物語の巧妙な暴露的展開手法なのである。
 「非在」という属性のために、あるいは全くの不能性という特殊な能力のおかげで、ある種の全能性を発揮することができるという魔法使いシュメンドリックの語るメタ論理は、実は論理矛盾と公理系の基本原則の破壊を通して不可能事の顕現の様を描こうとする、ファンタシーの文法の際立った特異性と、アンチ・ファンタシーの修辞的常道とを同時に弁護するものであると看做されなければならないのである。
 ハーピーやユニコーンと並んでその存在性向において彼等に引けを取ることのない、同様に“オールド”で“本物”でさえある重要な人物とされるハガード王に関連する記述も、やはり同種の意味性破綻的修辞技法を入念に適用して語られているのである。

Beyond the town, darker than dark, King Haggard’s castle teetered like a lunatic on stilts,

p. 95

町の向こうには、暗闇よりもさらに黒く、ハガード王の城が竹馬に乗った狂人のように突っ立っていた。

“竹馬に乗った狂人のように”は、本作品の中でも最も詩的で、印象的な表現の用いられている部分として評価されるべきであろう。“teeter”は、本来は“よろめく”、“動揺する”という意味の語で、語源は“totter”(ぐらつく、ふらつく)と同じである。ここでは“立っていた”、“聳えていた”とあるべき箇所に代替して、この違和感を持つ言葉が不自然な接ぎ木のように挿入されているのである。読み手の意識は“聳えていた”と“ぐらついていた”の二つの概念の重ね合わせの、不安定な危うい印象を心中に形成することになる。既に指摘したハーピーの檻からの解放の場面についての記述にあった“花開いた”という表現と同等の、予期されていた語句のすり替えという技法に拠る効果である。しかしながら竹馬(stilts)という言葉には、単なる子供の玩具として以上の、さらに不可解な無気味さを秘めた器物という印象がある。何らかの潜伏したアリュージョンがあるのかどうか、残念ながら不明であるが、グリム童話の“ルンペルシュティルツキン”(“Rumpelstiltskin”)「ぐらぐら竹馬小僧」)を思い起こさせもする遊具だ。そしてまたこの名は、第1章に登場した狂気と無意識を体現していた蝶が、ユニコーンとの会話の中でさりげなく語っていたものでもあった。
 ビーグルの工夫による異質の修辞的表現が何よりも効果的に適用されていたのは、この物語の実は最も独創性に満ちた神話的怪獣、レッド・ブルに関する記述であったのかもしれない。

The Red Bull did not know her, and yet she could feel that it was herself he sought, and no white mare. Fear blew her dark then, and she ran away while the Bull’s raging ignorance filled the sky and spilled over into the valley.

p. 109

レッド・ブルはユニコーンがユニコーンであるとは分らないのだった。けれどもユニコーンは彼が白い雌馬などではなく、自分のことを捕まえようとしていることが分った。その時恐怖が彼女に襲いかかり、体の輝きを失わせた。そしてユニコーンは踵を返して逃げ始め、牡牛の猛り狂う無知は空を覆い、溢れて谷間に流れ込んだ。

 とうとう姿を現した宿敵レッド・ブルとユニコーンが初めての対決を行う折の有り様である。他の全てのユニコーン達をこの世から駆逐してしまったこの余りにも強大な力を秘めた怪物は、実はユニコーンを視認することが出来ない、盲目的な無知の持ち主であるというのである。途轍も無く巨大で余りにも頑強な体躯の持ち主である牡牛の与える無気味な圧迫感以上に、彼の不可解な無知がむしろ型破りの修辞法によって巧妙に強調されていることが興味深い。空や月を乾涸びさせるハーピーの邪悪さにも増して、彼の膠質の無知は全てを覆い尽くし、圧倒的な暴力性であらゆるものを席巻してしまうのである。実質性を備える程に凝縮された“無知性”とは、この新機軸の怪物の正体と裏の主人公ハガード王との関係性を考察する上での鍵となるべき、ひときわ重要な情報となる筈なのである。
 世俗的知識の欠落は愚昧な無知性とは異なり、無意識と連接して深遠なる叡智ともなり得るものだ。第1章に登場した蝶や、シュメンドリックの影としての重要な存在性向を担っているモリーが、この要素を反映しているものであった。しかし、ここでレッド・ブルの体現する圧倒的な質感を有するグロテスクな無知性とは、世界と自身の存在意義と生の目的性を全く顧みることの無い、アメリカという文化的辺境国に独特の、浅薄な現世主義と重なるものであるのかもしれない。ビーグルの創造したこの独特の神話的存在の正体と、その溢れるばかりの実体性を備えた“神格化された無知”の実相については、章を改めて別途に検証する必要があるだろう。
 このお話に登場するもう一人の魔法使いマブルクの用いる魔法の記述の際にも、やはり日常感覚を超越した独特の修辞法が摘要されている。

A wind began to rise in the dark chamber. It came as much from one place as another―through the window, through the half-open door―but its true source was the clenched figure of the wizard. The wind was cold and rank, a wet, hooty marsh wind, and it leaped here and there in the room like a gleeful animal discovering the flimsiness of human beings.

p. 130

ほの暗い謁見室の中で、一陣の風が沸き立った。それはどこからともなく、あらゆる方角から吹き付けてくるように思われた。窓の外から、あるいは半開きになった扉の向こうからも吹いてくるようだった。けれどもこの風を送っている本当の源は、固く握りしめた魔法使いマブルクの拳なのだった。この風は冷たく、湿っぽい、沼地から流れて来る腐った嫌な臭いのする風だった。そしてこの風は、人間のひ弱さを発見してはしゃいでいる動物のように、部屋の此処彼処で飛び跳ねているのだった。

 ハガード王によっていきなり一方的に解雇の通知を受けて腹を立てた魔法使いマブルクが、報復のために用いた邪悪な魔法の描写である。動物のイメージを活用する生き生きとした表現であると共に、漠然とした、観念だけが先行した曖昧な喩えが不思議な効果を発揮している。やはりその斬新さの秘訣は、意図的な説明不足、あるいは表現を完結させるべき情報の効果的な欠落にあるのだろう。熟達した魔法使いとして思惑通りの見事な効果を発揮するマブルクの魔法だからこそ、その技法の発現の描写は曖昧な、そしてだからこそ印象的な雰囲気を醸し出すものとなる。
 これと比して、暫く後に再びシュメンドリックが魔法の技を振るおうとする場面では、魔法の術をぎこちなく織りなす過程の有様が、一つの定型をさえ形成して語られることとなっているのである。

…but Schmendrick took the flask from her hand and studied it thoughtfully, turning it over and murmuring curious, fragile words to himself. Finally he said, “Why not? As you say, it’s a standard trick. There was quite a vogue for it at one time, I remember, but it’s really a bit dated these days.” He moved one hand slowly over the flask, weaving a word into the air.

p. 172

…けれどもシュメンドリックは、モリーの手からフラスコを受け取って、じっくりと眺めた。何度も引っくり返してみながら、崩れ落ちそうな言葉を一人呟いていた。それからようやく彼は言った。「いいじゃないか。まあ、よくある手だ。一時期はもてはやされもしたやり方だ。今は少しばかり時代遅れにはなっているが。」こう言いながら、シュメンドリックはゆっくりと片手をフラスコの上にかざし、宙に一つの言葉を折り込んだ。

 魔法の呪文に関する記述が、“奇妙な、崩れ落ちそうな言葉を呟きながら”と、さらにもう一つ“何か一つの言葉を宙に織り込むようにしながら”と、対句的に日常性を超越した表現を用いて語られている。編み込む(weave)とは、糸を編んで絨毯やタペストリーなどの織物を創り出す技術であるが、物語を語る行為もしばしば“weaving”と呼ばれることがある。そしてまたグリム童話等のお伽噺にもしばしば主題として登場するように、実際に機を織る能力は、女性に特有の一種魔術的な技能の一つとして理解されてもいたのであった。しかしながらビーグルは、この言葉を慣用的な比喩や象徴等の文化的教養の枠組みにおける伝統的理解から離れて、より即物的にこの箇所で活用しようとしているようにも思える。キーワード“poetic phrases”及び、キーワード“magic”の双方に関連する、仮構的創造行為の中でも極めて観念的な熟成度の高いものであるだけに、潜伏した、見逃されやすい、けれども重要な修辞的成果をもたらしていると看做されるべき部分であろう。
 このような記述対象の秘める潜伏した二重構造性は、この物語の筋立てを彩るべき謎と主題性にも見事に合致するものとなっている。この技法が最も効果的に用いられているのは、ハガード王の城の間近に打ち寄せる波の描写においてである。

They crouched as they neared the shore, arching their backs higher and higher, and then sprang up the beach as furiously as trapped animals bounding at a wall and falling back with a sobbing snarl to leap again and again, claws caked and breaking,

p. 164

波は岸辺に近付くと背を丸めて盛り上がり、檻に閉じこめられた動物が何度も何度も爪を折り、その爪を塵埃に固めながら悲しげな咆哮と共に壁に向かって飛び跳ね、またはじき返されるように、猛々しく渚を駆け登っていった。

 既に本作品においては一つの定型を成している、キーワード“animal image”と密接に関連する部分である。ハガード王とアマルシア姫が並んで見下ろす岸辺には、波が激しく寄せ返している。強大な活力を持ちながら、本来のあるべき姿を奪われた生命力の示す、猛々しく悲愴な肉体と感情が一つに融合したものとして捉えられた、極めて印象的な描写なのである。そしてこの描術手法は、打ち寄せる波の躍動感ある有様を描写する独特の表現となっていると共に、この物語の主人公であるユニコーンの存在属性の真実と、ユニコーン/アマルシア姫の探求の旅を完結に導くために解かれるべき謎の秘密の鍵さえもが暗示された、重要な場面を形成するものともなっている。この海の描写は、修辞的表現技巧と主題提示の技法の見事な一致がなされている部分なのである。何故ならばこの場面は、ユニコーンの解放という至福の喜びをあり得ない奇跡として謳いあげる、本作品のクライマックスである以下の場面を導く伏線となっているからだ。

And in the whiteness, of the whiteness, flowering in the tattered water, their bodies aching with the streaked marble hollows of the waves, their manes and tails and the fragile beards of the males burning in the sunlight, their eyes as dark and jeweled as the deep sea―and the shining of the horns, the seashell shining of the horns! The horns came riding in like the rainbow masts of silver ships.

pp. 193-4

そして純白の白泡の中、裂け散るしぶきの中で花開くように、白亜のような波間で体を弓なりにそらして、陽の光を浴びてたてがみも尾も、雄はその顎髭も燃え上がるように光らせ、目だけは深い海のように宝石のように黒く、そしてその角は貝殻のような光沢で輝き、…銀の船の虹色の帆柱のようにその角の群れは馳せ寄せてきた。

この決してあり得ない歓喜の一瞬を導くために、総ての非在性の比喩と不可能性の記述が動員されていたのであった。



(1)

There’s no book or story of mine that isn’t stiff with animal imagery--animal feeling--whether the protagonists are unicorns, werewolves and ravens, or only noblemen and mortorscooters.

 私の書いたどの本も物語も、動物の姿と動作のイメージがぎっしりと詰め込まれていないものはない。登場するのがユニコーンであれ、人狼であれ、鴉であれ、あるいは人間の貴族達であれ、またバイクであってもそれは変わることはない。

“The Self=Made Werewolf”, preface to The Fantasy Worlds of Peter Beagle, p. 10

この序文の中で最初にビーグルが、自分自身のことを常に擬態を施し、身を隠すことを試みるものとして語っていることは、本論における考察の基軸を裏付けるものであろう。

…as a born hider, I have been fascinated all my life by disguise, camouflage, shape-changers, and by everything that has to be approached backwards or sideways, while one pretends to be thinking of something else.

p. 9

生まれついての隠匿者として、私はいつも変装や擬態や変身を行うもの達や、何か別のもののことを考えているふりをしながら背後から、あるいは側面から接近せざるを得ないようなもの達に、魅せられ続けてきたのです。

(2)

 キメラは、ギリシャ神話に登場する、頭がライオン、胴は山羊、尻尾が蛇で、火を噴く怪獣であるとされている。我々にその形象について具体的なイメージを与えてくれるのは、フィレンツェの考古学博物館所蔵のアレッツオのキメラ(Chimera of Arezzo)であろう。これはイタリアのアレッツオで1553年に発見された、古代エトルリア文化を伝えるブロンズ彫刻であった。この彫像の発掘の経緯はヴァサーリ(Vasari)の『美術家列伝』第2版に記述が残されていることで殊に有名である。
 発掘された彫像に興味を示したメディチ家のコシモ1世公爵はキメラ像をフローレンスの都に運ばせ、宮殿(Palazzo Vecchio)に展示したのであった。発掘時に欠落していた尻尾の部分を修復したのがベンベヌート・チェリーニであったという憶測等がこの彫像に花を添えたのであるが、チェリーニ自身の記録にも、この彫像とコシモ公爵に関する記載が見られるのである。
 神話上のキメラの占める位置は、ホメロスとヘシオドスの記述によって良く知られているように、リュキアの国を恐怖に陥れた火を吐く怪物であった。

(3)

 クリュニー美術館の“貴婦人とユニコーン”の6枚の連作からなるタペストリーは、それぞれが人間の5感の各々を表すものとされているが、残りの1枚が何を象徴するものであるかについては、未だ謎である。
 また、メトロポリタン美術館の“クロイスターズのユニコーン”の暗示する図像的解釈についても、ユニコーンの象徴する意義性に関しては諸説入り乱れたものがある。しかしながら、キリスト教的寓意の解釈における曖昧性そのものが、『最後のユニコーン』において描かれたユニコーンと比較して、はなはだ興味深い一つの発想を提供してもいるのである。蛇の毒を除去するユニコーンの能力が、サタンによる堕落の害毒を浄化する救世主キリストを象徴しているとする説がそれである。申命記において語られた牡牛がユダヤの民の総てを裁きの場へと追い立てる世界の王たる権限を備えたもの、すなわち神の子イエス・キリストを暗示するとするならば、『最後のユニコーン』において総てのユニコーンを狩り立て、地上から駆逐してしまったレッド・ブルは、ユニコーンと同等の存在論的位相をなすものとして、文字通りユニコーンの影としての存在性向を主張することになるからである。

(4)

 サチュロスが好色な悪魔的風貌の怪物という伝統的イメージのままに本作品に導入されていることは、ユニコーンの図像的象徴性の転覆という扱いと比較して、興味深い対照を形成している。中世的暗喩の体系におけるユニコーンとは、男根の象徴となっていたその角から、制御することのできない過度な性欲として、好色の代名詞とも成り得ていたからだ。

(5)

 “本体”の存在が記述操作を待つことなくまず厳然としてあり、その属性の個々を数え上げるように様々の記述が行われていくこととなる現実世界の存在物の記述様態と、記述の結果初めて語られるべき存在物が観念空間の中に現出することになる仮構的存在物は、全く異なった記述機構に基づくそれぞれ異質の“存在物”なのである。仮構世界中の存在物の存立条件を安易に現実世界の実在物のそれと混同してしまってはならない理由がそこにある。

(6)

 『最後のユニコーン』においては印象深い造語の用例もいくつか確認することができる。次にその用例の一覧をあげておくことにしよう。

She moved along the dark paths of her forest, swift and shining, passing through sudden clearings unbearably brilliant with grass or soft with shadow, aware of everything around her, from the weeds that brushed her ankles to insect-quick flickers of blue and silver as the wind lifted the leaves.

p. 10

彼女は森の木立の暗がりの下を、光の帯のように素早く走り抜けていった。突然木々の開けた場所に出ると、陽の光を受けて目に沁みるように鮮やかな緑をした草地やぼっとかすんだ木立の影が目に飛びこんできた。彼女は足下に触れる草の葉から、風を受けた木の葉の送る昆虫の羽のように鮮やかな青と銀のきらめきまで、周囲を取り巻くすべてのものを深く心に刻みつけた。

キーワード “poetic phrases”と関連する新鮮な描写が行われている箇所である。この中に用いられている“insect-quick”という語が、キーワード“animal image”にも該当する、作者独特の感覚を生かした造語である。


Outside, the night lay coiled in the street, cobra-cold and scaled with stars. There was no moon.

p, 103

外では、夜の暗闇がコブラのように冷たく、星の鱗をまとって、通りでとぐろを巻いていた。月の姿は見えなかった。


“cobra-cold”が作者独特の斬新な造語である。キーワード“poetic phrases”、及びキーワード“animal image”にも関連する部分である。“星の鱗をまとって”と、夜の冷気と冴え渡った星空が、爬虫類の同属的イメージを用いて連接されている。

“Be quiet. Where’s the skull?” The Lady Amalthea could see it [the scull] grinning from a pillar, lemon-small in the shadows and dim as the morning moon, but she said nothing. She had not spoken since she came down from the tower.

p. 169

 「静かに、頭蓋骨はどこだ。」シュメンドリックが言った。  アマルシア姫には台柱に乗った頭蓋骨が、影に隠れて朝の月のように薄く、レモンのように小さく、無気味に笑っているのが見えた。けれども彼女は何も口にしなかった。

 “lemon-small”が、作者独特の造語である。これまでに用いられていた“insect-quick”、や“cobra-cold”等と同様の、具体的な名辞を形容詞の前に冠して印象づけるという機構に基づく表現となっている。
 “レモン”は英語の文章の中では、酸っぱくて食べられない、未熟なものという印象が強く、悪いもの嫌なものに対して用いられることが多い言葉である。しかしながらこの場面では、慣用的な常套句に捕われない独特の詩的感覚で、むしろ極めて即物的に暗闇の中に浮かんだ頭蓋骨の有り様に、レモンの色と形が思い浮かべられているのである。

The way widened suddenly and they emerged into a kind of grotto that could only have been the Bull’s den. The stench of his sleeping hung so thick and old here that it had a loathly sweetness about it; and the cave brooded gullet-red, as though his light had rubbed off on the walls and crusted in the cracks and crevices. Beyond lay the tunnel again, and the dim gleam of breaking water.

p. 188

通路はいきなり広くなって、間違いなく牡牛のねぐらであるはずの岩屋のようなところに出た。そこには牡牛の長い眠りの中で滲み込んだ、胸の悪くなるような甘ったるい臭気が漂っていた。そして洞穴には、レッド・ブルの赤い光がこそげ落ちて、割れ目や裂け目の中にこびりついているかのように、ほの赤い光も漂っていた。その向こうにはまた通路が続いていた。そして砕け散る波の白泡がかすかに透けて見えた。

 “the cave brooded gullet-red”の“gullet-red”の部分が、作者独特の造語表現である。“gullet”は“喉”、あるいは“水路”の意味なのだが、ここでは“喉の内部のような赤い色”のイメージであろう。 “brood”という“(人が)思いに沈む”、“(闇や静寂が)立ち込める”などと用いるのが通例である詩的な含みのある言葉の後に、無邪気な程に奔放な感覚的表現が続けられている訳である。
 ここではレッド・ブルのねぐらの様子を語る描写が殊に印象的である。とりわけ牡牛の特徴的な赤い光が、あたかも材質感を有する固形物であるかのように語られているのが興味深い。

(7)

 “ナンセンス”を確定した概念として成立させるのは、まさしく特定の“センス”の認証にほかならない。  既存の現実世界の特定の部分を批判することを眼目に置いた“風刺”(satire)と、純粋な異世界性の構築を思弁的賭けとして行うことを企図するファンタシーが明白に異なるのは、正にこの点においてである。

(8)

 『最後のユニコーン』において最も重要なキーワードの一つであった“old”という概念は、この思弁的なファンタシーを意義あるものとして提示する核となるべき語であったが、この語を定義づけるのは正しくこの『最後のユニコーン』という作品の全体像に他ならないものなのであった。

(9)

 複数の語句を用いて語られた記述の全体像と、その一部をなすべき個々の語は、互いに他方に対する定義として機能する存在性向の面においては、全く等価の存在物同士と看做されなければならないものなのである。全ての部分の裡に秘匿されているこのような背後の次元界面こそ魔法と謎を成立させる潜勢力なのであった。

(10)

 シュメンドリックにこの謎掛けのきっかけを与えたのは、あらゆるものが生の営みを通して感じ続けているという、“hunger”の念の自覚に他ならない。それは当然ながらユニコーンの姿を認めた時に覚える喪失感(loss)であり、また永遠なるものに対する憧憬の気持ちとして“sehn sucht”とかつて語られていたものの裏面となっているものでもある筈である。

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