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意味消失による意味性賦与の試み
─『最後のユニコーン』における矛盾撞着と曖昧性


 実は極限的なまでに自省的(self-reflective)なアンチ・ファンタシーである『最後のユニコーン』においては、ペテン的なレトリックの顕示的な採用という単なる表現技巧の次元を遥かに超えた、相反する記述内容の並列的提示による固定的意味性の解体そのものの作業が、独立した創作戦略上の基幹的主題として、さらに徹底して行われているのであった。作品世界の潜伏的極性決定の中心的役割を果たしていた象徴的悪漢ハガード王と、彼の主人/奴隷/共犯者/随行者のいずれでもある不可解な妖獣レッド・ブルとの間の関係を語っていた記述のみならず、作品世界の骨組みを形成すべき原型的物語像の描写そのものにおいても、全方位的に記述の確定的意味包含性を拡散させ、記述対象の基本属性自身の不定性を強調しようとする主題形成上の包括的な試みが、周到になされているからなのである。
 例えば、魔法使いシュメンドリックの魔法の力によって死すべき(mortalな)人間の姿を与えられ、ハガード王の城の中で本来不死(immortal)であるユニコーンの永遠性の属性を失いつつあるアマルシア姫の覚える感覚は、彼女自身の独白の言葉として、以下のように語られていたのであった。

“...Even when I wake, I cannot tell what is real, and what I am dreaming as I move and speak and eat my dinner. I remember what cannot have happened, and forget something that is happening to me now. People look at me as though I should know them, and I do know them in the dream,...”

p. 157

「私は目を覚ましている時でさえ、身体を動かしたり口をきいたり食事をしたりしながらも、何が本当なのか、何が私が見ている夢に過ぎないのか、区別がつかないのです。私は起きたことのある筈のないことを覚えていて、今起こりつつあることを忘れてしまっているのです。人々は私が彼等のことを知っているに違いないという目つきで私の方に顔を向けます。けれども私が彼等に出会ったのは夢の中だった筈なのです。」

本来は時間の支配から無縁な“eternal”で“immortal”な存在である筈のユニコーンが、暫くの間魔法の力の支配を受けて、運命に弄ばれる時間の奴隷たる人間、つまり“mortal”な存在になってしまうことにより、その記憶あるいは認識のどちらの言葉で呼ぶことも実はもともと不可能であった筈の、我々人間のものとは全く異なる超越的意識機構の内部感覚における虚と実、夢と現実等、真正なるものとその影に相当するものとの間の逆転現象が生起してしまっているのである。永遠性の存在としては例外的な運命を享受することとなった、このユニコーンの心中に現出した不可思議な経験あるいは幻想あるいは錯覚としてここに描き出されているものは、ファンタシーの文法に倣って極大と極小を転換する操作を施すことによって視点の移動を試みてみるならば、あるいはまた極性不在の崩壊過程にある、現代世界そのものに対する写像の一つであると看做すこともまたできるものに違いない。(1)
 ユニコーンの果たすべき探求の旅の最終の目的地であるハガード王の城の中で、人間アマルシア姫となってしまったユニコーンの眼前に展開する様々な出来事は、いずれも一般の現実世界における時間的・空間的関係性の把握を致命的な程に脱臼させる、具体的意味性を極限的に喪失した、ほとんどナンセンスの領域に近いものとさえなって描き出されているのである。レッド・ブルの隠れ家へと通じる秘密の戸口を発見する手立てを教授する、あの謎めいた骸骨の語る言葉もやはり例外ではない。予言を成就させるための条件を満たすべき機会について語られていた謎の一つである、不可解な猫が語った“狂った時計が正しい時を告げた時”という言葉の解釈に関して彼がシュメンドリックに与えた助言の言葉は、以下のようなものであったのだ。

“But the important thing is for you to understand that it doesn’t matter whether the clock strikes ten next, or seven, or fifteen o’clock. You can strike your own time, and start the count anywhere. When you understand that―then any time at all will be the right time for you.”

p. 175

「だが大事なことは、お前が時計が次に10時を打とうが7時を打とうが、15時を打とうが、そんなことはどうでもいいということを理解することなんだ。お前は自分の時を自分で打って、どこからでも好きなところから時を数え直すことができる。それさえ理解すれば、いつだってお前にとっての正しい時ということになるんだよ。」

ハガード王の城の大広間における骸骨の謎解きにおいては、語られた文言の秘匿された内実を掘り下げ、曖昧で全体像を正しく反映することのないと思われていた不明瞭な字句に適正な焦点を与えることによって、攪乱されていた総体としての意味性を再構築することを可能にするべく、矛盾と無意味の全てを再統括する力を発揮して玄妙な解式へと収斂させようとする類いの、伝統的な謎解き行為が導かれている訳ではない。むしろ彼の助言は、見出すべき意味と行うべき行為の目的性そのものを拡散させ、謎を成立させていた初期条件の関係性自体を無化させることによって問題性の解消を図ろうとする類いの、脱システム的解法となっているのであった。しかしながらこの謎解きの手法は、謎の立脚するシステム構造性のほころびを突き、謎の占めていた問題性を崩壊させることによってのみ目下の難題を回避しようとするような、姑息な手段が弄された例を示す訳でもない。
 実際のところ、この無気味な助力者によって提示されているのは、“意識”という新規の次元軸を加えた際に得られる、全てを含んだ統合的宇宙構造に対する極限解式としての、時・空・精神連続体理論における精巧な修正版の時間論なのであろう。骸骨の語る時間論においては、主観主義、もしくは唯心論、あるいは我全主義(solipsism)の観点から統括した、全一的宇宙論の原則に従った極限の至高点からの時間意識が語られていると言ってもよい。このようにして得られた宇宙構造方程式においては、機械的な記述様式の変換を施すことにより、意識の内部機構として時間・空間の連続体が存在する、との新たな解式を導くこともまた当然可能であることになる筈なのだ。“時間”という次元をめぐって、『ピーターとウェンディ』におけるNeverlandの暗示していたものと同等の、“意識内世界”の特異な感覚が改めて提示されることになっていると考えてもまたよいものだろう。(2)
 骸骨の忠告に従って、試練の一端を形成していた謎の一つである“時計の中をくぐり抜ける”という難関を突破することに成功し、魔法使いとユニコーンの一行がレッド・ブルの住処へと繋がる秘密の通路を進んでいく際の描写の部分では、目的のレッド・ブル自身と並んでその存在と一体化したかのように、この通路とそして通路をくぐり抜けるという行為自体に対してもまた同等に、錯綜した悪夢のイメージとして主観の想念と客観的事象の融合と混淆、並びに絶え間ない意味消失の感覚が繰り返し語られ続けているのである。ここに表出した迷路のイメージは空間的位相においてのみならず、時間的・感覚的にもまた同様に、意味性と関係性失墜の状況を執拗に現出させ続けているのであった。

But its course was the impossible way of a dream: pitched and skewed, rounding on itself; now dropping almost sheer, now seeming to rise a little; now working out and slowly down, and now wandering back to take them, perhaps, once again below the great hall where old King Haggard must still be raging over a toppled clock and a shivered skull.

p. 181

けれどもこの通路の道筋は、夢の中の体験のような、あり得ないものなのだった。通路は速度を増し、歪み、いつの間にかもとの処に戻り、突然転がり落ちるように傾斜したかと思えば、いつの間にかまたゆっくりと昇っており、ようやく上りきってまた下りになり、そうするうちに再び曲がりくねって、ひょっとしてあの城の広間にまた戻ってしまい、そこではハガード王が崩れ落ちた時計と粉砕された骸骨を見下ろして猛り狂っているのではないかと思えるのだった。

 上の描写において殊に顕著であるように、この生真面目な諧謔と詩的な斬新さと思弁的な野心に満ちたアンチ・ファンタシーのお伽話においては、運動と位置、存在と様態、実質と作用等の、本体となるべきものとその位相とされるべきものとの間の関係の絶え間ない逆転と変換の有り様が、ポー的な詩学的修辞法を彷彿とさせる極性転換のシステム理論に従って、周到に語り続けられているのである。(3)物語世界の中に描かれた状況の結果的に与える感覚的印象のみならず、物語世界の基底と外郭を構築するために前もって描かれていなければならない筈の、個別の仮構世界を形成するために必要不可欠な根幹的事実関係そのものに対しても、物語を成立させるための経験を行う主体と、経験される客体である事象の区別自体が限りなく曖昧になっていくばかりか、この記述内容の不確定性という傾向は、むしろ積極的な別種の存在属性決定要素としての新たな可能性を強調して、巧妙に展開されることになっていたのである。
 ユニコーンの探求の旅を支援する頼りない助力者として、あるいはユニコーンに自分自身の唯一の救いの機会を求める呪いを受けた哀れな受難者として、あるいはユニコーンの数奇な運命を見届ける厳正なる証人として、この物語の主人公ユニコーンの脇役でもあり、あるいはこの物語の裏の主人公としてハガード王と並んでもう一方の極を支える基軸としても振る舞う魔法使いシュメンドリックの取る行動と、彼の覚えたとされる様々の内的感覚もまた同様に、先程アマルシア姫のものとして確認したものと等質のシステム原理に基づく、厳密な記述様式に従わざるを得ないことになるのである。
 世の中一般にある一切の世俗的些事を、唯一関心のある魔法の習得と関連のない無意味な事であるとして断じてしまった直後に、苦々しく自分自身の語ったばかりの言葉を否定してみせるシュメンドリックの姿は、以下のように語られていたのであった。

“No,” he said, then or later [傍線筆者]“No, it’s not true. How could I be like that, and still have all these troubles?”

p. 186

「いや、違う。」彼はその時、あるいは後になって言った。「そんなことは本当の筈がない。俺がそんな風に振舞えて、こんなに多くの面倒事を抱え込んでい続けるなんて無理な話だ。」

何時かは我が物となる筈の極限の知識と判断力に照らし合わせれば、日常の人々の幸・不幸や精神の安寧などは、忖度するに足らない無意味な雑事以外の何物でもないことを確かに知りながら、同時にこの判断を与えるその深い叡智そのものが、真の魔法使いとなった彼自身がそのように割り切って自身の行動を統括することが到底不可能であろうことをも自覚させるのである。そしてこの叡智は実は、この論理的なパラドクスと道義的なディレムマの双方の解消の方途をも、またその視野に含んでいるものなのである。しかしながらここにおいてもやはり特徴的な記述の手法は、“その時、あるいは後になって”の部分にあると理解されるべきであろう。ここでも因果関係性そのものの曖昧さを十分に意識した、特有の語りの技法が反復して用いられているのである。これは表現効果としての軛の一端においては、論理矛盾と記載事実の具体的内容性の拡散を画策するナンセンスの効果の発現の一例であると同時に、また様相記述の特殊な手法としての軛の他方の極限においては、現象世界の制約を越えた「お話」の中にのみ描き得る真実は、具体的因果関係の許には決して記述し得ないという峻厳なる真実を暗示する、際どいばかりに実直でかつまた正確な、仮構的真実の実相に対する即心からの証言ともなっているのである。つまりこのような場面においてこそアンチ・ファンタシーにおける「非在性」の自覚的な主張として、不可能性の構築物であるファンタシー文学の根幹的主題に関わる描述手法が、存分に意図的な摘要を施されていると解釈しなければならないのである。
 当然の事ながらユニコーンとシュメンドリックと相対することになる彼等の宿敵レッド・ブル自身の姿もまた、その対極的存在属性を忠実に反映して、上の場合と全く同質の記述手法の摘要を受けなくてはならないことになるのである。

But he had come silently up the passageway to meet them; and now he stood across their sight, not only from one burning wall to the other, but somehow in the walls themselves, and beyond them, bending away forever.

p. 187

しかし牡牛は音も立てずに通路をたどり、彼等の許へやってきていたのであった。そして今牡牛は、彼等の眼前に姿を現していた。燃え上がる通路の壁の端から端までをふさいでいるばかりでなく、壁の内部にまで、そして壁の向こう側にまで突き抜けて、限りなく曲がりくねったその先までを牡牛の体が占めてさえいるのだった。

 いよいよハガード王の城の内部で、再びレッド・ブルがユニコーン達一行の前にその姿を現した場面の描写は、上に引用したような極めて異様なものだったのである。ここにおいては、レッド・ブルの桁外れな程の巨大さが再び反転的に彼の実体性の欠如と、むしろ主観の中にのみ存在し得る悪夢的イメージとしての、非在物的要素を強く暗示しているばかりでなく、実は姿を現したものは通路の奥底に潜む牡牛であっても、あるいは牡牛の潜む通路であっても、あるいは通路を進むユニコーンの一行のそれぞれの主観の中に浮かぶ、とりとめのない焦燥と不安のいずれであっても、一向に構わないという類いのものなのだ。(4)
 一行がこの牡牛と遭遇して繰り広げることになる体験あるいはそこで覚えた感覚あるいはその後保持されていた記憶も、牡牛という宿敵との運命的な戦いであるとも、あるいは牡牛という悪夢との避け得ぬ癒合であるとも、またあるいはまた他の様々な想起可能な一切のものの与える多様な印象の何物であってさえもよいものであるのだろう。必要なのは、レッド・ブルとの遭遇の後に魔法使いシュメンドリックが長い不毛な年月の末、漸く魔法との合一を果たす決定的な機会が結果的に得られることになるという、たった一つの事実だけなのかもしれない。この事実を導く関係事象の履歴として、様々な同位体的事例があたかも曼荼羅のように並列的に拡散した可能態を主張することになることだろう。そして相矛盾するこれらの履歴の収束するその終結の一瞬ですら、この物語の記述は次のような形をとらなければならないのである。

The magician rose slowly to his feet, ignoring the Bull, listening only to his cupped self, as to a seashell.

p. 187

魔法使いはゆっくりと立ち上がった。牡牛にはもう目もくれず、あたかも貝殻のように殻を閉ざした自分自身にだけ耳を傾けていた。

漸く運命の要請に従って自身に定められていた予言を成就すべく、本物の魔法の力を行使しようとする時の魔法使いシュメンドリックの姿は、“貝殻のように蓋を閉ざした自分自身にだけ耳を傾けていた”、という極めて印象的な言葉で記述されているのである。ここには外的現象世界の一切の否定、あるいは反転的に外的世界と内的世界の厳密なる対応を完成する典型的な全一的宇宙観に基づく、霊妙な魔法の原理が巧みに暗示されていると理解すべきであろう。常に支配的なのは、双方向的な反転理論を媒介とした、深遠なる宇宙構成原理としてのシステム理論性ばかりなのである。そこでは動作を行う主体と行為を受ける客体の分別の感覚は、むしろ限りなく希薄に、そして曖昧になっていくばかりである。だから肝腎の究極の魔法との合体という決定的な事実も、全体性としての事象の変転の媒介となる役割を果たすだけに過ぎない(5)、一人の魔法使いであるシュメンドリックという一個人の主観の裡の体験記憶としては、はなはだ曖昧至極なものとして語られざるを得ないのである。
 シュメンドリックが、ストーリーの展開の中で彼の担わされた属性の質的根本性向でもあり、配役の一人として割り当てられた運命の事象としての具現を担うための必須の行動条件でもあり、登場人物としての記号的存在意義を保持するために欠かせない霊的な存在目的でもある、魔法原理の習得あるいは行使を実現する一瞬こそ、ことさら具体性の欠如と不定性をこそ強調して語られるものでなければならないのだ。

There was too much to hold, too much ever to use; and still he found himself weeping with the pain of his impossible greed. He thought, or said, or sang I did not know that I was so empty, to be so full.

p. 189

つかみ取っておくものも、使用すべきものも、あまりにも多すぎた。それでも彼は、自分の考えられないほどに巨大な欲望の痛みに、泣き叫んでいる自分に気がついた。彼は考えたか、あるいは言ったか、あるいは歌った。“これほどまでに満たされるなんて、俺はそれほどまでに空っぽだったのか”。

 シュメンドリックの主観の裡においては、宗教的法悦と感覚的絶頂と実存的得心のいずれであっても構わないものである魔法の力の来訪は、徹底的に不確定的な記述に従って、上のような不定性の行列的描写において自覚されるものであった。だからこそ真の魔法とは、魔法を行使する当人にもいかなる現象的概念にも翻訳して理解することのできない、極限的に深遠なものであり得ることになるのである。

Then Schmendrick stepped into the open and said a few words. They were short words, undistinguished either by melody or harshness, and Schmendrick himself could not hear them for the Red Bull’s dreadful bawling. But he knew what they meant, and he knew exactly how to say them, and he knew that he could say them again when he wanted to, in the same way or in a different way. Now he spoke them gently and with joy, and as he did so he felt his immortality fall from him like armor, or like a shroud.

p. 189

シュメンドリックは進みでて、いくつかの言葉を唱えた。彼の口にした呪文は、ほんの短い言葉で、ことさら滑らかな訳でもなく、あるいは強張った音色のものでもなかった。それにシュメンドリックには牡牛の轟くばかりの咆哮のため、今唱えた呪文を自分の耳で聞き取ることさえできなかった。けれども彼は、自分の唱えたその呪文が、何を意味しているかがはっきりと分かった。どんな風にこの呪文を唱えるべきなのかも正確にしっかりと把握できた。次に必要な時には同じやり方であろうが、異なったやり方を選ぼうが、いずれにせよ間違えることなく、確実に唱えることができることが分かった。今彼はこの呪文を優しく、喜びに満ちて唱えた。そしてそうしながら、彼は自分にかかっていた不死の呪いが解けて、鎧か帷子のように体から摺り落ちていくのを感じた。

 この物語の要求するシステム理論に従えば、魔法に対する真の理解とは、単なる暗記によって得られる特定の事象の帰結のみに関する一意的把握ではなく、全方位的時間軸と網羅的な可能態相互の関係性における根幹的かつ総括的な全体性に敷延する、より深層への全人格的展開のようなものでなければならないのだろう。主客の関係も、原因と結果を分別する時間軸の方向性も、全ての存在と事象を連結する慣性力の位相的関連性自身を云々することが意味を成さなくなるような、常に無限遠の焦点に照準を散開した全体性と総合性の視点から、魔法のメカニズムの根本属性が語られようとしている訳なのである。(6)その結果いかなる現象世界的拘束からも自由であろうとするならば、とりとめのない幻と、あてどもない夢の要素こそが唯一頼るべき基本座標軸として主張されなければならないことになるのは、むしろ極めて当然のことなのである。
 本章の冒頭に引用したユニコーン/アマルシア姫の吐露した、混濁した内部感覚は、その背後に正しくこの深遠な事実を暗示しているものなのであった。現実はいつか夢となり、夢は必ず現実とならなければ、世界の存立機構の基底に意味を見出すことは不可能なのである。

Things happened both swiftly and slowly as they do in dreams where it is really the same thing.

p. 190

あらゆることが夢の中の場合のように、素早く、そして緩慢に起こった。夢の中においては実はどちらも同じことに過ぎない。

 何にも増して夢こそ、究極の曖昧性と不定性を軸とした全方位的融通性の凝縮した形象として、意識の主体に対して現象認識に付きまとう限界性を全面的に超出した、偽りの無い真実を語ることを可能にしてくれるものなのだ。結局のところ現象的因果関係は制約された一面的な事象という形でしか生起し得ないので、時・空・精神の連続体としてある真実そのものを把握する術は、夢という秘義を通して主観的記憶に類した限界ある何物かとして投影した形で認識するしかないのである。(7)
 同等の論理に従って、現象認識として語らざるを得ない事象の引きずる不確定性は、ユニコーンの行った筈の牡牛との戦いという決定的事実ですら、以下のような形で語られることしか許さないこととなる。

She might have been stabbing at a shadow, or at a memory.

p. 193

 ユニコーンが角を突き立てようとしていた相手は、あるいは影であ ったか、あるいは記憶に過ぎないものであったのかもしれなかった。

ここにもレッド・ブル自身の実体性の欠如が再び反復して言及されていることが確認されるだろう。文字通り、この怪物の正体は本体から取り残された影であり、誰か分からぬものの心の中に潜む悪夢にほかならないものに違いない。となれば逆にまた、この怪物との抗争の結果解放されるべき、彼に追い立てられ捕われていたユニコーン達の姿も、この無気味な怪物の場合と正確に呼応して、この物語の記述文法に忠実に従えば、以下のように具象性を抹消して描写されざるを得ないのもやはりまた当然の事なのである。

And in the whiteness, of the whiteness, flowering in the tattered water, their bodies aching with the streaked marble hollows of the waves, their manes and tails and the fragile beards of the males burning in the sunlight, their eyes as dark and jeweled as the deep sea―and the shining of the horns, the seashell shining of the horns! The horns came riding in like the rainbow masts of silver ships.

p. 193-4

そして純白の白泡の中、裂け散るしぶきの中で花開くように、白亜のような波間で体を弓なりにそらして、陽の光を浴びてたてがみも尾も、雄はその顎髭も燃え上がるように光らせ、目だけは深い海のように宝石のように黒く、そしてその角は貝殻のような光沢で輝き、…銀の船の虹色の帆柱のようにその角の群れは馳せ寄せてきた。

 解放される時を感じていよいよその姿を現そうとしているユニコーン達の、まだはっきりと目には映らぬ有り様が、海の泡立つ波の飽くまでも白い光の輝きのイメージと重ね合わせて、まばゆいばかりに印象的に語られているばかりではない。最後まで純粋な感覚的印象のあるがままの姿を描き出すために、記号的な指示語である“ユニコーン”という言葉は、この一節においては意図的に避けられ、除外されていなければならないのだ。飽くまでもこの決定的な意味伝達をもたらす名辞を文中に用いる機会を遅延させようとするかのように、実際に記述されるものは海そのもの、あるいは白い輝きそのものとして変換して語られることにより、その実体性すら別物に変質を遂げようとさえしているのである。そして結局は、この場面での描写の対象物は、ユニコーンの別名である“角”という暗示的な言葉に置換して歌い上げられることになってしまっているのであった。しかしながらここに得られたのは、記述対象の独特の属性を集約した一部分を呼ぶことによって本体を暗示的に示すという、修辞法で呼ぶところの“換喩”(metonymy)という比喩的記述が採用された表現技法の工夫などという領域をはるかに超えた、存在属性自体に対する認識機構の根本的転換さえも要求することになる、超越認識論的“時・空・精神連続体”把握感覚の再構築の見通し図なのである。
 つまり現象世界において感知される事物の属性は、任意の次元の重ね合わせという形で究極の真実を物語る部分的要素としてのみ、その存在意義を主張することができるのであればやはり、ユニコーン達は文字通り、波立つ泡そのものであっても、あるいは淡く光る角の群れであっても一向に構わないということになるのである。(8)

But they would not come to land while the Bull was there. They rolled in the shallows, swirling together as madly as frightened fish when the nets are being hauled up; no longer with the sea, but losing it. Hundreds were borne in with each swell and hurled against the ones already struggling to keep from being shove ashore, and they in their turn struck out desperately, rearing and stumbling, stretching their long, cloudy necks far back.

p. 194

けれども彼らは牡牛がそこにいる間は決して陸に上がってこようとはしなかった。彼らは浅瀬で波にもまれ、網が揚げられる時のおびえた魚達のように、もはや海と共にあるのではなく、海を失ってしまうかのように逃げ惑っていた。何百もの群れが巨大な波が膨れ上がる度に運ばれて、岸に打ち上げられないようにとすでに抗っているもの達のかたまりにたたきつけられていた。そして岸辺に群れていたもの達も、後肢立ちになり、つまづきながら長い雲のように白い首を伸ばして、必死になって打ち返しているのだった。

この場面でも再びユニコーン達の姿が、打ち返す海の波の白泡そのものと見事に同化したものとして描写されていることが分かるだろう。ユニコーンもまた、彼等に対する観念的対立物であるレッド・ブルの場合と全く同様に、その現象的実体性の全面的欠如においてこそ、特有の存在属性の崇高さを最も適切に物語ることができるものなのかもしれない。あるいはまた、これまでの例に従って共軛的別解を併記するならば、“real”な存在は主観の中のイメージとしてのみ顕現し、現象世界的即物性を持たないというシステム原理がここにもまた忠実に再現されているとして、判読し直すことができるかもしれない。連星(double star)に譬えて語られていたユニコーンとハーピーという本物の存在同士の間の玄妙な対照的/類縁的関係性(9)と全く同様に、ユニコーン達の世界からの消失を招く直接の原因となるものであったとされるレッド・ブルとユニコーンの間の関係もまた、見事に対照的に、そしてそれが故に対極的に連関して、無限遠の延長線上においては再び連接すべき同一物となるべきものとしての確固たる存在性向をも暗示されて、その描写が徹底して行われていくことになるのである。

The unicorn lowered her head one last time and hurled herself at the Red Bull. If he had been either true flesh or a windy ghost, the blow would have burst him like rotten fruit. But he turned away unnoticing, and walked slowly into the sea.

p. 194

 ユニコーンは最後にもう一度頭を低く下げ、赤い牡牛に飛び掛かった。もしも牡牛が本当の肉体を持っていたか、あるいは朧げな霊のようなものでさえあったなら、ユニコーンの一撃は牡牛を腐った果物のように粉砕したことだろう。しかし牡牛はその一撃に気付きさえもせずに、ゆっくりと海の中に足を踏み入れていったのだった。

この場面でもユニコーン達の姿の描写が行われた場合と正確に対称をなして、レッド・ブルの姿が再び現象世界的実体性を持たない、徹底的に観念上のものとして記述されていることが確認されるだろう。“real”な存在はmortalな人間が概念として把握する“true flesh”でも、あるいは“windy ghost”でさえもあり得ないものだというのである。この物語においては二者択一の選択肢を設け、任意の一方の可能性を論駁することにより他方の存在の妥当性を主張しようとするような古典物理学的論証の手法は、容易に通用することはない。

The hugest waves broke no higher than his hocks, and the timid tide ran away from him. But when at last he let himself sink onto the flood, then a great surge of the sea stood up behind him: a green and black swell, as deep and smooth and hard as the wind. It gathered in silence, folding from one horizon to the other, until for a moment it actually hid the Red Bull’s humped shoulders and sloping back.

p. 194

もっとも大きな波でさえも、牡牛の膝のあたりの高さで砕け散っていた。そして潮流は怯えて牡牛の体を避けているのだった。けれどもようやく牡牛が海の中にその体を沈めると、巨大な波が黒と緑の山となって、風のように深く滑らかにそして激しく、牡牛の背後に沸き立った。巨大な波は静かに合わさって一方の水平線ともう一方の水平線をたたみ込み、一瞬の間牡牛の盛り上がった肩と傾斜した背中を呑み込んだ。

ユニコーンに追い立てられた牡牛がその身体を海に没するこの場面でもやはり、レッド・ブルの巨大さが、現象世界的具体性を持たない、夢の中の出来事のように主観的イメージのみの存在であることを暗示するものとして改めて言及されているばかりか、ユニコーンと牡牛の対決という物語の大団円を形成する筈の象徴的行為さえもが、それが果たして戦いであったのか、その結果があるいは一方の勝利であったのか、あるいはそれ以外の別の言葉で語り得る何者かであったのかさえ、飽くまでも定かなものとなされることはあり得ないのである。
 そして牡牛の姿が失われたのと呼応するかのようにようやくその姿を現すユニコーン達も、やはり彼等の対立物であった牡牛の場合と全く変わることなく、飽くまでも現象的実体性を伴うことなく、その来訪と顕現の有り様が徹底して描かれることとなっているのである。

Molly never saw them clearly―they were a light leaping toward her and a cry that dazzled her eyes.

p. 194

モリーにはユニコーン達の姿がはっきりと見えることは決してなかった。彼らは彼女の方に飛び跳ねてくる光であり、彼女の目を眩ませる叫び声だった。

 起こりえぬ筈の奇跡の到来が実現し、解放されたユニコーン達が再び世界に満ちあふれたとしても、回復されたそのユニコーン達の姿は、作品中の一登場人物でもあり、やはり架空の世界に属するとはいえ一個の人間存在でもあるモリーの目を通しては、現象世界的具体性を持つことのない、夢の中の出来事のように主観的イメージのみの存在であることを暗示するばかりのものとして、改めて言及されているのである。
 ユニコーン達の到来とは、レッド・ブルの消失という事実のもう一方の知覚あるいは認識、あるいは全てを包含する統一的実在の位相の遷移に対して選択された記述様式の手法の一つであったのかもしれない。

There was no sign of him when they looked out to sea, though he was surely too vast to have swum out of sight in the short time. But whether he reached some other shore, or whether the water drew even his great bulk down at last, none of them knew until long after; and he was never seen again in that kingdom.

p. 200

彼等が海の方へ目を向けた時、わずかな時間に目の届く範囲の外に行ってしまうには、彼の躯はあまりにも大き過ぎたのだが、牡牛の姿はどこにも見当たらなかった。けれども彼がどこか余所の岸辺に辿り着いたのか、あるいは海が巨大な牡牛の躯さえも終には呑み込んでしまったのか、ずっと後になるまでは、誰にも分からなかった。牡牛はこの王国でその姿を見せることは二度と無かった。

レッド・ブルの体の大きさの不明瞭さがここでも重ねて言及されているばかりではない。彼の肉体の占める空間的延長の範囲のみならず、その属性、来歴等々、レッド・ブルの体現する曖昧性は、本作品の影の主題に対するはなはだ自意識的な操作と重要な関連を持つこととなっている。あたかも時空図形における素粒子の生成と消滅という履歴のクロスチャンネル的な理解(10)においてなされた時間軸の方向の可逆的解釈の場合にも類似して、例えば電子と陽電子の生成あるいは消滅という関係の場合のように、一方の欠如がもう一方の発現という形で逆転的に記述されるだけの、一種の反転的属性の許にこそ緊密に連関する、ハイゼンベルグの提示したS行列上の堅固な連続体としての全体性の宇宙の示す独特の存在性向までをも、見事に連想させるものとなっているのである。(11)しかしながらファンタシーの思想的主題の基軸である全体性という概念を時間次元にまで拡張して捉え直すならば、むしろこれは当然の帰結として認められるべき結論でもあるだろう。
 かくしてユニコーンもレッド・ブルも、この物語のキーワードとして提出されていた“old”という概念を支えるべき、究極的にリアルな存在として観念空間の裡に昇華し、魔法の根幹的原理そのものと正確に対応するものでなければならないことになるのである。以下は魔法の記述に関連して、首尾一貫して曖昧性と不定性の描写が意図的に摘要されている事実を再確認しておくこととしよう。
 漸く魔法の力との合体を果たし、師の予言に語られていた通り本物の魔法使いとなったシュメンドリックが、実際に自信に満ちた態度で魔法の能力を発揮し始めた際の描写である。

The magic lifted her as gently as though she were a note of music and it were singing her.

p. 200

魔法はモリーの身体をあたかも彼女が音楽の音色で、魔法が彼女を歌い上げているかのようにやさしく持ち上げた。

この部分は一見したところ、美麗な比喩表現が巧みに用いられている、詩的な修辞法が効果的に活用された、典型的に技巧的な側面が目立った描写であるかのように思われることだろう。しかしながら、ここにおいて注目しなければならないのはやはり、単なる表現手法の上での比喩の効果だけではない。むしろここにあるような記載内容を字義通りあるがままに、言わば即物的に読みとることが出来てこそ初めて、このお話における微妙な主題と記述手法の関係性が実際に厳密な意味を明らかにしてくる筈なのである。これまでに確認して来たこの仮構世界における不定性と曖昧性の支配が、魔法と永遠的存在に対する客観的記述という、本来は二律背反したあり得ない試行を成立させるための、奇跡的な例外条件として機能していることを認めておかなければならないからである。
 この場面の直後に、どこかから魔法の力を用いて馬を調達してきたシュメンドリックが語る以下の言葉が、正確に上の解釈に確たる裏づけを与えるものとなっていることが判別されるだろう。

“I found them,” the magician answered. “But what I mean by finding is not what you mean.

p. 202

「私は魔法でこの馬達を見つけたんだよ。」魔法使いは答えた。「“見つけた”とは言っても、お前達の言う“見つける”とは少し違うんだがね。」

これらの証言から明らかなように、魔法は永遠の真実と現象世界を結びつける奇跡的原理としてあるため、現実世界の意味を超越した異世界的含意を常に保持しているのである。ハガード王の城において“正しい時”に関して語られた骸骨の言葉と同様に、常套的な比喩の効果による技巧上の主張とはむしろ正反対の部分で、魔法の背後に存在する深遠な原理機構に対する極めて即物的な言及が、実はこの場面ではこれらの言葉を用いてなされようとしているのであった。だからこそユニコーン達の解放と世界への復帰という出来事は、そのままこのお伽話の世界が経験した奇跡的な魔法の発現の場面となり、その有様はこの世界の住民達によって、以下のような言葉を用いて語られることとなるのである。

“It was an earthquake,” one man murmured dreamily, but another contradicted him, saying, “It was a storm, a nor’easter straight off the sea. It shook the town to bits, and hail came down like hoofs.” Still another man insisted that a mighty tide had washed over Hagsgate; a tide as white as dogwood and heavy as marble, that drowned none and smashed everything.

p. 204

「あれは地震だった。」一人の男が夢の中のようにつぶやいた。けれども別の男が打ち消して言った。「あれは嵐だった。海から吹き付けてくる、北東風だった。風が町中をばらばらにして、馬の足音のように霰が吹き付けたんだ。」さらに別の男が、巨大な津波がハグスゲイトの町を襲ったのだと主張した。ハナミズキのように白く、大理石のように重い波が押し寄せて、誰も溺れさせることなく、全てのものを打ち壊したのだと言うのだった。

魔法や永遠の真実に関わることは、現象世界においては常に歪んだ形で把握され、その本質自体は決して理解し得ないのである。(12)現象世界において具現する事象は、様々な要素の重ね合わせの一時的な発現形の一つに過ぎないのだ。その要素の各々を感知する者の主観に従って、様々のそれぞれ矛盾した偽りの“真実”があるに過ぎない。そこには夢における奇跡を統合的直観として認める感覚はあっても、夢と現実を峻別する分析的意識は全く認められないのである。だからこそ全てが終わって物語の主役のユニコーンと別れた後、眠りについたシュメンドリックと今は彼の連れ合いとなったモリーと、そしてハガード王の跡を継いで不毛の王国を統べるべき新たな王となったリア王達三人の夢の中にユニコーンが訪れた際の記述が、当然のごとく以下のようになされることになるのである。

He knew it was a dream, but he was happy to see her.

p. 207

 彼はこれが夢だと分かっていた。でも、ユニコーンに出会えてうれしかった。

つまりは魔法使いは、“夢”という次元においてより高次の真実を知覚し得ることを弁えているのだ。あるいは、ユニコーンとこの物語自体が、主観の中に束の間訪れた幻想に他ならないことを知っているのかもしれない。意識は過去も未来も同等にその内部に含めて、ユニコーンが本来そうであったように、その深層部分では全てを記憶していても一向に差し支えないからである。
 とうとう本物の魔法使いとなり、全ての理解の核心となる魔法の真実を知ってしまったシュメンドリックが、漸く彼の得た魔法の力も結局のところこの世にいかなる変化をもたらすものでもなく、実際にはたとえその能力を正しいことに用いようとも、あるいは邪悪なことに用いようとも、実は大した違いをもたらすことは無いという冷徹な事実を語るに至った時、ユニコーンは以下のように答えることとなるのである。

The unicorn said, “That is true. You are a man, and men can do nothing that makes any difference.” But her voice was strangely slow and burdened. She asked, “Which will you choose?”
The magician laughed for a third time. “Oh, it will be the kind magic, undoubtedly, because you would like it more.

p. 208

ユニコーンは言った。「その通りです。あなたは人間です。人間には何か違いをもたらすようなことは何もできません。」けれども彼女の声はどこか重たげにくぐもっていた。ユニコーンは尋ねた。「あなたはどちらの魔法使いの道を選びますか。」 魔法使いはもう一度笑い声をたてた。「もちろん、私が行うのは人々に親切を施す魔法です。あなたが好きなのはこちらの魔法でしょうから。」

 現象世界の束縛の許にある存在の行い得る行動としては、善を行う道も悪を行う道も、あるいは他の様々の事柄の相反するどちらの選択肢をつかみ取ったところで、結果的には世界の実相に対して何の違いももたらすことは決して無いことと弁えながらも、敢えて不条理にも眼前の正しい道のみを選びたいと強く願うその理由は、「ただそれがユニコーンの好むことだと思うから」というのが、魔法使いの答えた素朴な、そして確信に満ちた解答なのであった。行動の意義を結果として功利的評価に基づいて判別するのに要する時間区分の延長範囲の示唆する限界性と、関係性把握の拡張範囲における空間区分設定範囲の示唆する限界性の双方から提起される永遠性の難題を、全てを瞬間性と単一性の中に解消する奇跡的力技として切り崩し、絶対的倫理の規範の存在の是非と、自由意志の存在の可否につきまとうパラドクスを整合的に解消すべき、“何故正しい行いをしなければならないか”という倫理学上の難題に対する鮮やかな解法として、しばしば“二本の角”という表象でもって語られるこれらのディレムマ(13)そのものに、率直極まりない解答を与えることのできる普遍的原理が、無意味性の存在原理に基づくお伽話の中の象徴的存在物ユニコーン、すなわち“一本の角”の姿を借りて暗示されているのであった。
 ここにあるのは正しく、ダーリング夫人がハートレスな子供達に惜しみなく示す理不尽な愛情と、ピーターが慈愛に満ちた母親達全般に対して示す不可解な敵意と実は等質の、全ての部分の中に秘められている、全宇宙を発動させた初動因の残滓たる精神的エネルギーに違い無い。唯一意味の意味性を抹消することこそ、このあまりにも矮小で不条理なばかりに分節化され尽くしてしまった現実世界に、説得力のある意味を賦与することの出来る崇高な企図の唯一の実践手段であることを、狂人と詩人とそして魔法使いだけは弁えているのである。
 この物語の冒頭に登場し、不可解な予言者的役割を果たして、ユニコーンを探求の旅へと導くことになったあの蝶が、分裂的な連想と断片的な記憶の脈絡の無い奔出を通して体現していた透明性の意識と事象記述の不定性の自覚は、正しく宇宙の基本原理たるこの峻厳な真実を暗示するものに他ならないものだったのである。



テキスト

 The Last Unicorn の版には様々なものがある。筆者が現在保有するものだけでも年代順に挙げてみれば、

The Last Unicorn. New York: Ballantine Books, 1974.
The Last Unicorn. in The Works of Peter Beagle. New York: Viking Press, 1978.
The Last Unicorn. New York: Del Rey book, 1988.
The Last Unicorn. New York: Roc Book, 1991.

など、テキストとして用い得るものとして4種類の版が存在する。しかしながらそれぞれの版において誤植あるいは編集ミスによる異同もいくつか存在することが判明している。また市場にあるものを網羅すればもっと多くの版が見つかることであろうとも思われる。そのため本書においては、The Last Unicornの決定稿としてみなし得るテキストとして、筆者による註釈付きのテキストAnnotated Last Unicorn (2004、近代文芸社)を参照テキストとして用いることとする。同書はアンチ・ファンタシー研究総合プロジェクトにおける論文パートを形成する本書に対して、相補的機能を果たすべき註釈テキストパートを形成するものである。
 又、本プロジェクトにおける活字メディアパートとして機能する本書並びにAnnotated Last Unicornに対してさらにまた相補的機能を果たすことを企図して作成された、それぞれに対応する電算化テキストが、インターネット上に公開中の下記のウェブサイト及びブログにて公開されている。

ウェブサイト:“Fantasy as Antifantasy”
http://www.linkclub.or.jp/~mac-kuro/
ブログ:“アンチファンタシーというファンタシー日替わり講座”
『最後のユニコーン』(The Last Unicorn)読解メモ
http://antifantasy2.blog01.linkclub.jp/

 上記の研究資料は、コンピュータ室における講座テキストとしての使用及び電算化データとしての内容項目に対する参照、検索の便益に適合させるため、HTML文書における“ハイパーリンク機能” 、“コメント表示機能”、等を活用したデータ加工がなされているものであるのみならず、関連資料の総体が論文パートと註釈テキストパート並びに活字メディアと電算化データという相補的な関係性の許に行列的に対照して提示されることにより、論考の主軸として主張される影と本体の相反的連関性という内容を外形的にもまた反復して、主題の複層的展開と反映を図るものである。

(1)

 ビーグルの初期の短篇「狼女ライラ」( “Lila the Werewolf”) に現れた思想的特質について既に指摘を行ったように、この作者独特の一見したところ現実感覚に対する意識の希薄さとも看做されかねない危うげな様相をもたらすものは、シュール・レアリスティックな表現手法の効果的選択という技巧的側面からの要請にも増して、むしろ現象一般の潜める存在論的本性に対する極限的把握の願望とその記述行為に対する徹底的な内省という、純粋に思想的側面からの要請がより根強いものであることが指摘できる筈なのである。
 Cf. 『アンチ・ファンタシーというファンタシー』(近代文藝社、2005)pp. 133。

 参考までに、“Lila the Werewolf”に用いられていた、一面においては典型的な超現実主義的描写のようでもあり、また本章において主題として取り上げた意識内世界感覚の主張する際どい現実認識であるとも解釈可能な、殊に興味深いパッセージと思われる箇所を一つ、改めてここに抜き出しておくことにしよう。

Farrell understood quite clearly that the superintendent was hunting Lila underground, using the keys that only superintendents have to take elevators down to the black sub-sub-basements, far below the bicycle rooms and the wet, shaking laundry rooms, and below the furnace rooms, below the passages walled with electricity meters and roofed with burly steam pipes; down to the realms where the great dim water mains roll like whales, and the gas lines hump and preen, down where the roots of the apartment houses fade together; and so along under the city, scrabbling through secret ways with silver bullets, and his keys rapping against the piece of wood.

ファレルには管理人の男が地下の通路を用いてライラの後を追い続けていることが、しっかりと分っていた。彼は管理人達だけが持っているエレベーターの鍵を使って、建物の地階のもっとずっと下の階のあたりまで降りているのだった。彼等はこうして自転車置き場やじっとりとして振動し続ける洗濯室や、ボイラー室のさらに下方、電気メーターの列が壁を這い、ずっしりとした蒸気パイプが天井を覆っている通路のさらに下方、巨大な水道管が鯨のように身をくねらせ、ガス管の群れが並んで背を丸め、嘴で毛づくろいをしているあたりのさらに下方、ビルの根っこが地中にかすんでいくあたりにまで降りて行くのだ。そうして銀の弾丸を詰めたピストルを手に、板きれに鍵の束をぶら下げたまま、管理人は町の下にめぐらされた秘密の通路を駈けめぐっているのだ。

上の一節において顕著なように、空間と位置の感覚が極限にまで歪み、生物と無生物が互いの存在属性を交換し、記憶と想像と直覚が混然と錯綜するこの描写を支配する世界構造感覚は、本章でこの後に指摘されることになるレッド・ブルと彼の隠れ処である地下の通路と、そしてそこで繰り広げられる追跡劇の事象的存在性向の不定性と重なる部分が極めて大きいことが指摘できる筈なのである。
 そしてまた、人間存在アマルシア姫となってしまう以前に、シュメンドリックとモリーという“mortal”な人間達と行動を共にすることになった時点で既に、ユニコーンは下の場面に明らかなように、これと同様の時間感覚の錯綜を体験していたのであった。おそらくこの関係性解体の及ぼす特有の幻惑的感覚は、アンチ・ファンタシーのお伽話のストイックな追及者であるビーグルにとっては、一つのオブセッションとも、あるいは創作動機を喚起する原型的イメージともなり得るものであったものに違い無い。

The unicorn was weary of human beings. Watching her companions as they slept, seeing the shadows of their dreams scurry over their faces, she would feel herself bending under the heaviness of knowing their names. Often then, between the rush of one breath and the reach of another, it came to her that Schmendrick and Molly were long dead, and King Haggard as well, and the Red Bull met and mastered―so long ago that the grandchildren of the stars that had seen it all happen were withering now, turning to coal―and that she was still the only unicorn left in the world.

p. 89

ユニコーンは人間達と行動を共にするのにうんざりしたような気持ちになっていた。二人の連れが眠っている時、彼等の夢の影がその顔の上をかすめて横切っていくのを見ていると、ユニコーンは自分もいつしか、人間達の名前を知ってしまったことの重みに、身を屈してしまっているのが感じられるのだった。そんな時しばしば、息と息をつぐその合間の僅かな瞬間、彼女はシュメンドリックもモリーももう既に遠い昔に死んでしまい、ハガード王もやはり死んでしまっていて、レッド・ブルは既に出会い、そして撃ち滅ぼされ、それがみんなあまりにも遠い昔のことだったので、その有り様を目にしていた星々の孫達が今はもう輝きを止めて黒い炭になろうとしており、そして彼女だけはやはり世界で最後に残された、たった一頭のユニコーンのままでいるように思われたのだった。

 また一方、対照的にユニコーンにこの錯綜感覚を与えた彼女の連れの二人の人間、シュメンドリックとモリーもまた同様に、彼等なりの空間性・時間性・関係性感覚の混乱と錯綜を経験する様が記述されているのである。

It seemed to Molly, dreaming and waking as she walked, that Hagsgate was stretching itself like a paw to hold the three of them back, curling around them and butting them gently back and forth, so that they trod in their own tracks over and over. In a hundred years they reached the last house and the end of the town; in another fifty years they had blundered through the damp fields, the vineyards, and the crouching orchards.

 半ば目覚め、半ば夢見ながら歩いているモリーには、ハグズゲイトの町が腕を広げるように伸びてきて、彼等3人を掴み、彼等の周囲を取り囲み、そして前に後ろにそっと背中を押すようにするものだから、自分達が何度も何度も同じ道を繰り返してたどり直しているように思えた。百年もかかって彼等はようやく町の外れの最後の家のところまでたどり着き、さらに五十年もかけて湿っぽい畑地と葡萄畑とうずくまる果樹園の中をくぐり抜けていったのだった。

(2)

 『ピーターとウェンディ』においては、言葉によって構築された観念空間と知覚によって把握された外界世界像の重合部分という形で意識が形成するものとして、主として空間的関係性においてネヴァランドという意識内部世界の存立条件が語られていたのであった。この新たな座標形成の特異な感覚を語る上で作者バリが採用していた極めて印象的なキューとなる概念が、“the map of human mind”という言葉だったのである。 Cf. 『アンチ・ファンタシーというファンタシー』(近代文芸社、2005) pp. 20-22, p. 46

(3)

 もちろんこのヴィジョンは、数多くのファンタシー文学に様々の変化形を伴って現れる、通路あるいはそこに連接した無数のコンパートメント構造の織り成す迷宮構造のイメージの発展形であることに間違いはない。19世紀の数理論理学者であったルイス・キャロルが、地下のナンセンスの世界におもむいたアリスが最初に目にした地下の邸宅の廊下とその両側に並ぶドアの列として描いたのは、未知の系に属する裏の論理の示すディレクトリー構造体であった。19世紀の異端的な神秘思想家であったジョージ・マクドナルドが『ファンタステス』の冒頭で、記録文書と権利証書の保管庫として父権的な世襲財産の象徴となるものではありながら、未だ歩むべき道を知らぬ若者アノドスを理性と現実世界の影の領域である“フェアリーランド”へと導く母性原理への回帰の戸口でもあるものとして描いた、数多くのコンパートメントから成り立ち、さらに秘密の未知の空間をも隠し持つライティング・デスクは、そのまま一つの世界と精神の融合の神秘的解釈における表象となるものであった。そして、19世紀アメリカの決して理解されざる純粋なロマン主義思想家であったエドガー・アラン・ポーが、影と分身のモチーフのもとに“ウィリアム・ウィルソン”において描いた同名の主人公の心の故郷たる学寮のイメージは、ビーグルのアンチ・ファンタシー的創作動機の直接の影響となるものとして、この場面の原型的イメージを提供するものであった筈である。

But the house! -- how quaint an old building was this! -- to me how veritably a palace of enchantment! There was really no end to its windings -- to its incomprehensible subdivisions. It was difficult, at any given time, to say with certainty upon which of its two stories one happened to be. From each room to every other there were sure to be found three or four steps either in ascent or descent. Then the lateral branches were innumerable -- inconceivable -- and so returning in upon themselves, that our most exact ideas in regard to the whole mansion were not very far different from those with which we pondered upon infinity. During the five years of my residence here, I was never able to ascertain with precision, in what remote locality lay the little sleeping apartment assigned to myself and some eighteen or twenty other scholars.

けれどもあの学院は、なんとも不可思議で古めかしいその建物は、今では実に魔法の宮殿のように私には思われるのである。通路は果てしなく曲がりくねっており、区画は理解を超えて果てしなく分割されていた。何時であろうと自分がこの二階建ての建物のどのあたりにいるのか、確信を持って述べることは困難であった。どの部屋にも必ず三段か四段のあるいは昇り、あるいは下りの階段が設けられていて、他の部屋へと繋がっていた。そしてまた水平の分岐もやはり位置関係を把握することが不可能になる程無数にあり、いつの間にかもとの処に戻って来たりもするので、館の全体の印象というものは、我々が永遠性というものに対して抱く想念とさほど変わらぬ程のものとなっていたのであった。

(4)

 追跡/逃走の動作/想念が果てしなく混淆するこの悪夢的不定性の感覚は、「狼女ライラ」に描かれていた夜の都会の中を逃走し続ける狼女と、彼女を殺害しようと追跡する謎めいたヒーロー/悪漢である“ビルの管理人”と、彼等の後を頼りなくついていくばかりの、彼女の恋人ではあるがしかし、永遠の醒めた傍観者でしかない主人公ファレルの織り成す奇妙な追跡劇において、見事に先取りされていたものだったのである。そしてまた伝統的な神話的イメージを大胆に転倒させて、その性を変換して語られていた『最後のユニコーン』におけるユニコーンも、ビーグルの初期の短編「死神嬢こちらへ」( “Come, Lady Death”)において、若く瑞々しい女性の姿をした死神として描かれていた主人公と、実は等質の加工手順を施されたものであったばかりでなく、不定性の相似をなすこれらの観念的存在あるいはシチュエーションあるいは場面の全てが、記述様態の変換を経て分岐的に生み出された、曼荼羅の原理に基づく同位体的発現形の各々であったとも結局は見做し得るものなのである。

(5)

 シュメンドリック自身の言葉を借りれば、魔法使いの使命と宇宙原理の関係は以下のような文言で述べられていたのであった。レッド・ブルに抗う術もなく追いつめられてしまったユニコーンを、不可思議な魔法の力を発揮して救い出すことに成功しながら、永遠の存在であるユニコーンを人間に変身させてしまったことの残酷さをモリーになじられた際に語られた、彼の弁解というよりはむしろ自負に満ちた宣言である。

“The magic chose the shape, not I,” Schmendrick answered. “A mountebank may select this cheat or that, but a magician is a porter, a donkey carrying his master where he must. The magician calls, but the magic chooses. If it changes a unicorn to a human being, then that was the only thing to do.” His face was fevered with an ardent delirium which made him look even younger. “I am a bearer,” he sang. “I am a dwelling, I am a messenger―”

「魔法がこの姿を選んだんだ。俺ではない。」シュメンドリックは答えた。「奇術師だったら、あれこれの技を選んで行いもするだろう。だが魔法使いというのは、ただの運び手なんだ。主人を言われた処まで乗せて行くだけのロバみたいなものだ。魔法使いは、魔法を呼び出すことはできる。でも、その効果を選ぶのは、魔法の方なんだ。魔法がユニコーンを人間の姿に変えたのなら、それが唯一すべきことだったんだ。」彼の顔は我を忘れたように紅潮していて、いつもよりさらに若々しく見えた。「俺は運び手だ。」歌うように言った。「俺は容れ物だ、俺は伝令だ。」

彼の確信に従えば、皮肉なことに主体性と意志の欠如においてこそ、優れた魔法使いの真の技量が確証されるというのである。魔法使いは熱っぽく、自身の存在性向の空白性と自身の意識の透明性を誇らかに語るのである。つまり優れた魔法使いとは、全く自分の語る言葉の意味と内実を理解することなくとりとめもなく楽曲を奏で続ける吟遊詩人なのである。

(6)

 魔法の原理の究極の宇宙論的意義を主張するこの感覚は、『最後のユニコーン』と並んで70年代以降のアメリカのファンタシー文学を先導することになった、Ursula K. le Guinの『影との戦い』(A Wizard of Earthsea)において、魔法使いの道を目指す主人公が魔法の学院の中庭で魔法使いの長老と出会った際に得られた、宇宙との霊妙な合一感を示したものであろうと思われる次のような興味深いパッセージで語られていた場面と見事に重なるものであろう。

As their eyes met, a bird sang aloud in the branches of the tree. In that moment Ged understood the singing of the bird, and the language of the water falling in the basin of the fountain, and the shape of the clouds, and the beginning and end of the wind that stirred the leaves: it seemed to him that he himself was a word spoken by the sunlight.

彼等が視線を交わした時、木の枝の上で一羽の鳥がさえずった。その瞬間ゲドは鳥の歌声を理解した。噴水の水盤の上に注いで落ちる水音の立てる言葉も、雲の形に示された意味も、木の葉をかき動かす風の始まりと終わりの全てを理解したのである。彼には自分自身が陽の光によって語られた一つの言葉であるような気がした。

ここに描かれている極めて印象的な全宇宙との恩寵的な合一感覚は、グインとビーグルの両者のファンタシーという独特の思想面における先達的人物であると見做し得る、19世紀イギリスのファンタシー文学の草分け的存在であったジョージ・マクドナルドの書いた、「妖精の好きなお酒」( “Carasoyn”)の以下のパッセージに負うところが大きいと思われる。肉体的、精神的に充実した一つの使命を見事に果たして、宗教的法悦と等質の実存的満足感を得た主人公の内面が物語られた、殊に印象的な箇所である。

Those three days were the happiest he had ever known. For he understood everything he did himself, and all that everything was doing round about him. He saw what the rushes were, and why the blossom came out at the side, and why it was russet-coloured, and why the pith was white, and the skin green. And he said to himself, “If I were a rush now, that’s just how I should make a point of growing.” And he knew how the heather felt with its cold roots, and its head of purple bells; and the wise-looking cotton-grass, which the old woman called her sheep, and the white beard of which she spun into thread.

この三日間は彼が経験したうちでもっとも幸せな時だった。何故なら彼は自分のしたことの全てを理解し、自分の周囲で起こっていることの全てを理解したからである。彼は灯芯草がどのようなものであり、その花がなぜ茎の側面から生え出ているのか、その花がなぜえんじ色をしているのか、その茎の芯がなぜ白い色をしており、皮がなぜ緑色をしているのか、全ての理由を理解することができたのだ。そして彼は言った。「もしも僕が今灯芯草になったなら、やっぱりこんな風に生えていたいと思うだろう。」そしてまた彼は、ヒースがその冷たい根っこで何を感じているか、その紫色の花の頭で何を思っているかが理解できた。そしていかにも賢明そうな姿をした、あの老婆が「私の羊」と呼んでその白いひげを糸を紡いでいた綿草のことも全て理解したのだった。

これらに対応すべきビーグル自身の提示する宇宙システム理論と意識の主体とのの合一感覚は、魔法使いシュメンドリックの言葉を借りて、以下のような宣言として現れることとなる。

For only to a magician is the world forever fluid, infinitely mutable and eternally new. Only he knows the secret of change, only he knows truly that all things are crouched in eagerness to become something else, and it is from this universal tension that he draws his power. To a magician, March is May, snow is green, and grass is gray; this is that, or whatever you say.

「何故なら、魔法使いにとってのみ、世界は常に流動的であり、限りなく変化に富み、いつまでも新しいものであり得るからです。魔法使いのみが変化の裏側にある秘密を弁えており、魔法使いのみがあらゆる事物が何か別のものに変質しようと期待を込めて待ち構えていることを正しく理解しているからです。魔法使いがその力を引き出すのは、正しくこの宇宙全体の秘める緊張からなのです。魔法使いにとっては三月は五月であり、雪の色は緑であり、草の色は灰色なのです。これは他のあれでもあり、あるいは誰かが口にする何であってもよいのです。

(7)

 プラトンの“洞窟の譬喩”の語る究極の実在に対する憧憬は、ロマン主義の採用した実在の意義性回復の企図においては、これらの魔法の鏡と夢の秘技に変換して語り継がれていくことになったのである。ビーグルの示す迂回的な真摯も単刀直入の諧謔も、教条主義的なプロテスタンティズムの頑迷と、金鍍金時代の物質主義の喧騒に覆い尽くされた、俗悪極まりない民衆主義的大衆文化のなれの果てたる20世紀中葉のアメリカの精神風土には全く似つかわしくない、むしろ古典的な旧世界的伝統に深く根ざしたものであることが改めて理解されることだろう。19世紀中葉におけるポーの韜晦的真摯に対する理解と評価の貧弱さの場合と同様に、20世紀中葉における一部の批評家の示したビーグルの諧謔的身振りの裡に潜む高貴なアイロニーに対する不可解な誤解と偏見も、そのような角度から振り返ってみるならばむしろ頷首するに難くないものとなることだろう。

(8)

 この現象把握と知覚及び認識の関係性に対するアンチ・ファンタシー的洞察とアプローチの手法については、既にジェイムズ・バリの『ピーターとウェンディ』を対象として論考を行ってきた際に、超自然的存在及び神話的存在の属性把握の一例として指摘した通りである。海の波の白泡から生まれたとされるアフロディーテと、海のイメージと常に同化して記述される本作品のユニコーンは、イメージ的にも主題的にもこの一点において正確に合致するものとなっているのである。 Cf. 『アンチ・ファンタシーというファンタシー』(近代文芸社、2005) チャプター6:“汎宗教とパン”、p. 54。

(9)

 ユニコーンによって檻から解き放たれた直後、平然と恩人であるユニコーンを殺害しようと襲いかかるハーピーと、彼女の攻撃をこれまたいかなる躊躇も感じることなく当然のごとく受けて立つユニコーンの両者の姿は、“So they circled one another like a double star.” (「そうしてユニコーンとハーピーは、連星のように向かい合って回った。」Annotated Last Unicorn, p. 49)という印象的な言葉で語られていたのであった。また、作者ビーグル自身によるシナリオに基づいて映画化された1982年公開のアニメーション版The Last Unicornでは、原作には無かったハーピーの姿を認めた際のユニコーンの口にした科白である、“We are the two sides of the same magic.”(「私達は一つの魔法の二つの側面なのです。」)という言葉が、見事に彼等の分極的生成物としての密接な関係性を物語っていたのであった。

(10)

 時空図形による事象の発現に対する全体性の視点からの考察と、S行列(scattering matrix)におけるハドロンの生成/消滅に関する時間軸の可逆的解釈については、フリチョフ・カプラ(Fritjof Capra)『タオ自然学』(The Tao of Physics)、1975を参照のこと。

(11)

 事象の発現と事物が固有の属性を保持するという形で通例認識されている記述項目の双方に対して、連続的な統一解式における統合的解釈を摘要することを企図したこの次元拡張の試みについては、既に『ピーターとウェンディ』を対象としてアンチ・ファンタシー論的分析が先行して行われていた『アンチ・ファンタシーというファンタシー』においては、ピーターの“誰もが一度も生え変わったことが無い筈だと確信する”不可解な乳歯についての記述と、いかなる記憶も持つことがなく、一切の自覚的思考を行わない筈のピーターについて“覚えている”、あるいは“考え尽くした”等の記述が行われていることを事例として、因果関係性の倒置並びに時間軸の方向性に対する可逆的解釈の主張による共軛的位相の顕示を図る記述手法の試行が行われていることが、レトリックとアイロニーの相関という側面から指摘されていたのであった。  Cf. 『アンチ・ファンタシーというファンタシー』(近代文芸社、2005) p. 80, p. 88。

(12)

 時間的存在たる人間的知性による究極の永遠性の相にある実在把握の原理的不可能性という自覚は、多くは不可知論という形をとって現れることとなった。そしてその場合には時に、あるいはむしろしばしば様々の事例において、不可能性の認識が直裁に“理不尽なるが故正しい”という逆説的な直感的確信へと導かれる結果を伴っていたようにも思われる。ウロボロス的反転理論として理性の限界を超出する宇宙原理把握を可能にする悟脱の弁護としてこのシステム理論の正当性を受け入れるか、あるいはこれを脆弱な人間的思考パターンの短絡の類型を示す陳腐な典型例として冷徹に心理学的分析の対象と看做すかの議論そのものが、やはりそのまま共軛的関係性を成り立たせているという客観的事実は、いずれにせよ永遠性と理性的把握の限界性に対する極まった自省から生み出されるに至ったロマン主義的なアイロニーの意識構造を、仮構世界記述行為におけるレトリック操作として見事に反映しているものであることが指摘され得るであろう。

(13)

 牡牛の二本の角の暗示するディレムマの角の脅威の象徴性は、この場面に先んじて既に以下の描写において見事に暗示されていたのであった。ユニコーンの一行がハグスゲイトの町を離れた後、ようやくハガード王の城の間近にやって来た場面である。

In the tawny morning, King Haggard’s castle seemed neither dark nor accursed, but merely grimy, rundown, and poorly designed. Its skinny spires looked nothing like a bull’s horns, but rather like those on a jester’s cap. Or like the horn of a dilemma, Schmendrick thought. They never have just two.

pp. 118-119

黄色い朝の光の中では、ハガード王の城は無気味でも呪いがかかったようにも見えなかった。ただ荒れ果て、薄汚れていて、みっともないだけだった。頼り無さそうに細い尖塔は、もう牡牛の角のようには見えず、道化師の帽子の角のようだった。「あるいはディレムマの角だな。」とシュメンドリックは思った。「面倒事は、二回だけで済むということは、決してないんだ。」

ここで牡牛の角とディレムマの角の媒介となる玄妙な機能を果たしている“道化師の帽子の角”の存在は、紛れも無く『最後のユニコーン』の基幹にある老子的風狂の感覚、あるいはアンチ・ファンタシー的アイロニーの所在を反映するものであると看做されるべきものだろう。

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