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荒唐無稽とアナクロニズムとペテン的言説
─『最後のユニコーン』における時間性と関係性の解体と永遠性の希求


 『最後のユニコーン』の作品世界を構築している、実は極めて精妙なレトリックの成果であった“漫画性”を支援する要素の一つとして、しばしば効果的に用いられているのは、“疑似中世的ファンタシー空間に闖入する調子外れの現代的な感覚”という形をとったアナクロニズムであった。これはアテベリーがジェイムズ・サーバーの『白い鹿』との類似点として挙げていた、『最後のユニコーン』の作品世界構成機構の基調の一つをなす感覚ではある。しかし物語世界の重心となる原点と仮構的リアリティの構築する遠近法の基本軸の接点の部分を巧みに脱臼させ、仮構空間として保持しなければならない筈の構造的枠組みそのものを自ら解体し続けることを意図するようなこの語りの技法は、やはりアンチ・ファンタシーとしての常時反転的な、全方位的意味性賦与の願望という思想的位相を慎重に顧慮して理解することを試みなければ、十全な把握は叶う筈のないものなのだ。本章ではアンチ・ファンタシー的に際立ったアナクロニズムの導入例に関するさらに精緻な検証を通して、『最後のユニコーン』において顕著な、仮構性操作の手法の巧妙な摘要例のいくつかを垣間みてみることとしよう。
 典型的なアナクロニズム(時代錯誤)とは、演劇や詩歌における小道具や衣装、あるいは描写に用いられた事物や語句が、作者による時代的考証の誤りのために、あからさまな矛盾や不合理を生み出してしまう事例のことを言うものであった。時間軸の支配を受けて位置的、空間的関係性が変化を及ぼされるのであれば、地理的要因、とりわけ地域性もまた遡求的にアナクロニズムを発現させる確定的要因の一つとして看做されざるを得ないことになるのは言うまでもない。特定の時代と地方に固有の語法や物品の名称などは、これらを迂闊に作中に導入してしまうこととなれば、仮構世界の設立機構の大部分が結局は依存せざるを得ない、直接的記述操作の対象外となっている背景部分に対する空隙要素補完用のデータベースとして機能することになる、現実世界の地誌的・歴史的事実と照らし合わせて、明らかな不合理を招いてしまうことになるやもしれないのだ。実は仮構世界とは一般の想像以上にやっかいな、無数の陥穽に満ちた脆弱な構造物なのである。作品宇宙のディテールが陰影に富んだ具体的な描写であればあるほど、特有の時代性や地域性の束縛に制約を受けて、そこに産出された可能世界は、本来の意図にあった普遍的実体性から否応なく遠ざけられてしまうこととなる。そしてこの事実こそ、写実的な“小説”(novel)と呼ばれるものの構造的に持つ致命的な欠陥であり、ファンタシーを指向するものが最も忌避すべき、仮構世界構築作業の途上にあまりにも頻繁に現出するおぞましい障害であった筈なのだ。当然のことながら十分に自省的なファンタシーとは、このやっかいな問題点を回避する方策を周到に準備しておくばかりか、むしろこの難点を逆手に取って、仮構世界的普遍性の極限を追求するものでなければならないのである。
 まずは仮構世界構築の成果に対する評価が危ぶまれる恐れのあると思われる具体的な実例を、『最後のユニコーン』の中からいくつか拾い上げてみることにしよう。エピローグの最終場面、失われた仲間達を見つけだす探求の旅という冒険を完遂したユニコーンに別れを告げた後、彼女と同様に一つのストーリーを終了し、再び新たな冒険へと旅立とうとするシュメンドリックとモリーの二人の前に、助けを求める一人のお姫様が登場する場面などが代表的なものだ。

“A rescue!” she cried to him, “a rescue, au secour! An ye be a man of mettle and sympathy, aid me now. I hight the princess Alison Jocelyn, daughter to good King Giles, and him foully murdered by his brother, the bloody Duke Wulf, who hath ta’en my three brothers, the Princes Corin, Colin, and Calvin, and cast them into a fell prison as hostages that I will wed with his fat son, the Lord Dudley, but I bribed the sentinel and sopped the dogs?”

p. 211

「お助けを。」お姫様はシュメンドリックに向かって叫んだ。「貴公が胆力と慈悲心の持ち主であらせられるならば、どうかご助力を。善良なるジャイルズ王の娘、アリソン・ジョスリン姫と申すものに候。凶悪なるウルフ公は兄たる父上を弑虐し、我が三人の兄上達、コーリン、コウリン、カルビンもまた、人質として恐ろしき牢獄に幽閉し、我に肥満せし息子のダドレー卿との婚姻を強いんとするものなり。然れども我は衛兵を買収し、番犬を手なづけ…」

 この部分では典型的な中世ロマンスにあるほとんど類型的と言ってもよい場面が導入され、時代がかった台詞回しと、そしていかにもありがちな人物達の名前が語られている訳であるが、語法の一つ一つに注目してみると、気になる点もいくつかある。まず、お姫様が助けを求めて呼びかける、いかにも騎士道冒険物語において常套的な表現であると思われる、“An ye be a man of mettle and sympathy, aid me now.”における “an” という語だ。この単語はここでは “if” と同様の意味で用いられる接続詞で、 “ani” あるいは “and” と綴られることもある。“an’t were”(もしも〜ならば)などの形は19世紀に書かれた詩歌にも多く用いられたが、いかにも古めかしい中世の時代を印象づけるためにしばしば用いられる語法だという印象を受ける。けれども敢えて文献学的な考証を行ってみるならば、Oxford English dictionaryによれば、実はこの意味で “an”を用いるのは1600年以前の文献には稀であるという。むしろ17世紀以降に強調の形で “and if” あるいは “an if” として多用された場合の方が用例として多数を占めることを考えれば、“an”という語自体は本当のところは近代において定着した、擬古文体に近い語法だと言うべきだろう。従って仮にこの場面において抽出された語法という条件から、『最後のユニコーン』に描かれた世界の時代区分を厳密に特定しようとする操作を行ってみることにしたならば、同定作業上の様々な問題点が表出することになることだろう。初歩的な可能世界分析理論を素朴に摘要して、仮構世界を成立せしめている条件の個々を、厳密に同一次元上に集積可能な集合の元として確定してみようと試みるとすれば、それらの構築する作品世界構築条件としての位相を措定するにあたって、“擬古文体”ほど厄介な要素は他に見当たらないと言ってもよいかもしれない。名を名乗る際の言い回しにしばしば用いられることとされていた“hight”(=call)という言葉と並んで、“foully”や“fell”なども一見して擬古文体であることが察せられる語だ。例えばここにあるような擬古文体の表現を駆使して構築した、ウィリアム・モリス(William Morris)の『世界の彼方の森』(The Wood beyond the World, 1894)や、『世界の果ての泉』(The Well at the World’s End, 1896)等の、疑似中世的ロマンス作品の様相を擬装して現出した類いの仮構世界に対して、様相論理学的解析手法に従って構成要素の量化を行うための厳密な特定作業を遂行しようと試みたならば、その作業は難航を極めることになると思われる。実は擬古文体とは整然とした論理操作の摘要を厳然と阻むことになる、むしろ言わばペテン的言説に近いレトリックであると考えられるからだ。
 さらにまたこの場面では、シュメンドリックとモリーの二人はユニコーンの冒険に関わる一つのストーリーに別れを告げ、新たなもう一つのストーリーの幕開けを迎えようとしているところでもあったのだった。『最後のユニコーン』という仮構世界においては、連続した同一性を保つ登場人物達が作品世界を支配する異なった時間軸への移行を経験すること可能であることも示唆されているようなのだ。さしあたってはまずこれらの点をだけ確認しておくこととしよう。上に引用したの場面の暗示すると思われる、アナクロニズムの要素が及ぼす可能世界解釈への微妙な影響と、遷移可能な次元として扱われることのできる世界構成要素との興味深い関連については、後ほど改めて再検証の手を加えてみることによって、本作品の主題として読み取るべき最終的な問題性を提起することとして、先ずは同様の疑義の提議の余地のありそうな部分を、さらにいくつか拾い上げてみることにしよう。
 例えば、次の場面に言及されている物品名などはどうだろうか。人間のお姫さまに変身したユニコーンが二人の連れと共に、失われた仲間のユニコーン達を救い出すべく、探求の旅の目的地であるハガード王の城の前に到着した場面だ。

When the man and the woman reached the castle, the two sentries were standing on either side of the gate, their blunt, bent halberds crossed and their falchions hitched round in front of them. The sun had gone down, and their absurd armor grew steadily more menacing as the sea faded.

p. 125


男と女が城に着いてみると、二人の衛兵が城門の両脇に立っていた。刃の毀れた斧槍を傾けて交叉させ、広幅彎刀をその前に掛けてあった。陽はもう沈んでおり、海の色が翳ってくるにつれて彼等の馬鹿げた装甲はいっそう無気味さを増していた。

上の記述によれば、この場面でハガード王の城門を警備している二人の衛兵達の装備している武器は、 “halberd”(斧槍)と“falchion”(広幅彎刀)であるとされている。しかし“halberd”が15世紀から16世紀にかけて用いられたと言われる斧槍の一種であるのに対して、“falchion”とは実は一時代前の中世の時期に用いられた特定の様式の刀剣であったことが知られている。実はこの二つの武器が衛兵の携帯する備品として同時に装着されている場面とは、歴史上あり得ない世界なのである。ここにもアナクロニズムのもう一つの発現例が確認されたことになる。アナクロニズムとは特定数の元からなる集合体である仮構世界において、その世界を構築する筈の元と元との間に招かれた不一致のことであると理解するならば、任意の一方の元が整合性を保つ他方の元を含む全体との間に齟齬を来した状態を示すことになる訳であるが、仮に破綻を招く世界構成要素の一つとして挙げられた集合の元の個々の存在意義の方をむしろ優位において再検証の作業を改めて行うならば、共存することの不可能な筈の時代区分に属する独立した二つの世界の重ね合わせ状態が現出した極めて特殊な状態が導かれているとも理解することができる。さらにあるいは、内包する元同士が整合的には調和を保って存在し得ないことが明白な、異例の存立機構に基づくある種の“不可能世界”が描き出された例外的な事例として、アナクロニズムの発現という現象を捉え直すこともまたできるだろう。
 明らかな時代設定的不合理が指摘し得る好便な類例としては、シュメンドリックが出会う、グリーンウッドの盗賊の首領キャプテン・カリーと、彼の情婦モリーとの間に交わされる以下のような滑稽な場面があげられる。伝説に語り継がれる陽気な無法者のロビン・フッドの生き方を無気力に模倣していながら、結局はみすぼらしい現実世界の限界に屈服せざるを得ないみじめな偽りの暮らしに我慢がならなくなって、思わず諍いを始めた二人がなじり合いを始める場面だ。

“I sent a tapestry to the judging once,” Molly remembered. “It came in fourth. Fifth. A knight at vigil--everyone was doing vigils that year.” Suddenly she was scrubbing her eyes with horny knuckles. “Damn you, Curry.”
“What, what?” he yelled in exasperation. “Is it my fault you didn’t keep up with your weaving? Once you had your man, you let all your accomplishments go. You don’t sew or sing any more, you haven’t illuminated a manuscript in years--and what happened to that viola da gamba I got you?” He turned to Schmendrick. “We might as well be married, the way she’s gone to seed.” The magician nodded fractionally, and looked away.

p.72


 「品評会にタペストリーを出したこともあったわね。」モリーは思い出して言った。「4等賞になったんだわ。5等賞だったかしら。図柄は見張りに立つ騎士だった。あの年は誰もが夜警のシーンをやったもんだわ。」突然彼女は骨張った拳で目をこすりはじめた。「カリーの馬鹿野郎。」
 「どうしたって言うんだ。」カリーはいきなり感情を爆発させてどなった。「お前が碌に編み物もできないのが俺のせいだって言うのか。俺と暮らし始めたとたん、お前は何のたしなみごともしなくなったんじゃないか。縫い物も止めたし、歌も歌わなくなったし、もう何年も彩色写本に手をつけもしてないぞ。俺が買ってやったヴィオラ・ダ・ガンバはどうなったんだ。」カリーはシュメンドリックの方を向いて言った。「まるで所帯持ちにでもなってしまったみたいだ。こいつの老け込みようといったら。」魔法使いはわずかにうなずいて顔を背けた。

この場面にも時代特定の鍵となりそうな事物の名がいくつか言及されていることが分かる。彼等の諍いの種とされることとなった“ヴィオラ・ダ・ガンバ”とは、音楽史の専門的資料に従うならば、15世紀のスペインで完成された、現代のチェロの前身となる楽器である。両足の間に挟んで演奏されたという独特のスタイルが良く知られているものだ。この弦楽器はその後イタリアに渡って人々に愛好され、ヨーロッパ全域で盛んに用いられたのは、17世紀から18世紀になってからであったという。様々な大きさのものが作成され、イギリスでも18世紀には一般家庭にまで浸透するに至ったが、ギターの左手の技法とバイオリンの右手の技法の双方を有する、はなはだ表現力豊かな楽器であったと記録されている。これに従って、馬鹿正直に地道な時代特定の手順を摘要してみるとするならば、この物語の舞台となっている世界は、少なくとも15世紀以降の、そして地理的にはロビン・フッド伝説があこがれをもって語り継がれる文化圏でなくてはならないことになる。ちなみにロビン・フッドといえば、ノルマンディー公ウィリアムの英国侵攻の後、12世紀から13世紀に渡ってノルマン人によって行われた異民族支配による圧政のもとで、苛酷な弾圧に対するイギリス民衆の反抗の様が盛んに語り継がれた際に民衆達のヒーローとして祭り上げられた伝説的な存在なのであった。ヴィオラ・ダ・ガンバがロビン・フッドの時代に、まして英国で存在した筈は当然ありえないことになる。少なくとも、ロビン・フッドの伝説の世界に憧れて、タペストリーの製作や彩色写本を行っているつもりのカリー達が、ヴィオラ・ダ・ガンバがロビン・フッドの時代を彷佛とさせる小道具であると考えたとするならば、これは作中人物である彼等が犯した、明らかな誤解であると言わなければならない。
 あるいは、後世の彼等の世界が女子の習い覚える技芸である、“アコンプリッシュメント”の一つとしてヴィオラ・ダ・ガンバの演奏の習熟を当然のものとして期待していたとするならば、新たにロビン・フッド伝説があこがれを持って想起されるだけの年代的懸隔を備えた事実と見なされている、ある時代と地方を特定する修正作業を遂行する必要に迫られるかもしれない。
 「自然科学」という名で知られた幻想体系の仮定する、一意的な自然法則の支配の許に存在するコスモス空間としての「自然」の中であったならば、これらの物品の名称は『最後のユニコーン』において描かれた作品世界の客観的時代区分を特定する、極めて有力な具体的情報の一つとして認められねばならないことになったに違いない。しかし当然の事ながら、このような厳密な時代考証の方法論の摘要を行うことは、アンチ・ファンタシーとしての性向を保持する極めて観念的なファンタシーであるこの作品やこれと同等の存立機構に属するある種の仮構世界の実体を読み取るに当たっては、筋悪の逸脱行為と看做されざるを得ないのだ。仮構性に対する自覚性の際立って顕著なアンチ・ファンタシーとしての『最後のユニコーン』が要求する読みの手法は、科学的事実を抽出する手法に基づいた、一意的な時代特定と事象記述を旨とするような現象認識とは、決して相容れない類いのものなのである。
 物語世界に生起した事象は、平行して進行する複数の界面の存在を許容することを、仮構世界受容の前提条件としてむしろ厳密に要求するのである。(1)物語中に登場した人物達とは、仮構世界構築のために定められた設定条件を忠実に充当する個々の人格でもありながら、同時にまたそれらの人物を演じる動作を行っている疑似的な役者でもあり、そしてまた彼等の存在属性を心中に受け入れ、意識内の劇空間に具現させていると共に幾許かの疑念をも持ちながら批判的に読みと演出の作業を進めている、心象の演出家としての全ての読者の分身でもなければならない。エリザベス朝の固有の演劇空間の許で展開されたシェイクスピア劇が保持していた魅力的な複層性は、確かにこのような重ね合わせの原理に従った、存在論的人格発現機構の法則性を前提とするものであった。紀元前のリア王の伝説の世界と17世紀の同時代的英国の時代精神が共存することのできる刺激的で魅力的な観念空間がそれであった。意図的なアナクロニズムの効果の導入は、このような複層的視点の効果的な排列と、意味性発現における非連続的心象形成の重層的効果の構築をこそ企図するものであったと看做すべきであろう。この指摘を例証すると思われるのが、盗賊達の首領のキャプテン・カリー自身が作詞した、ロビン・フッドの冒険を歌ったバラッドを模した歌の中で語られる次の場面だ。悪代官に迫害を受けた村人に対して声をかけたカリーの仲間の盗賊に、彼等の庇護を受ける筈の当の犠牲者が語る言葉である。

“I am nae scabbit, whatever that means,
And my greep is as well as a greep may be,

pp. 69-70

いや、俺は決して元気なさそう(scabbit)でなんかない。お前がこの言葉をどういう意味で使っているにせよ。
そして俺の悩みは(greep)、十分過ぎる程の悩みだ。

 ロビン・フッド伝説が語り伝えられたイングランドとスコットランドの国境地帯に残る訛りを意識して、陽気な山賊の仲間の口調を模倣する男が “scabbit”という言葉を用いて呼びかけたのに対して、歌われる物語詩の作中の人物自身が自ら、胡散臭い言葉の用例に疑義を提出してしまっている訳だ。さらに、同様の趣旨で用いられた“greep”という語に対しても、この村人の返答は英語によくある同等比較の表現であるともとれるが、いささかの疑念をもって読み解いてみればやはり上と同様に、“greep”という不馴れな言葉の不自然な用いられ方に対して神経を尖らせている、批判的な役者のもう一つの表情さえもが透けて見えてくるようにも思われる。
 このようにしてロビン・フッドを真似ているキャプテン・カリーを演じている、より作者と読者である我々の現実世界に近い別の人格の姿が確かに浮かび上がってくる。物語の冒頭に登場して、ユニコーンの存在の是非に関する議論を展開してみせていたあの二人の不思議に教養豊かな狩人達(2)にせよ、滑稽でグロテスクなコンビを形成する贋者のグリーンウッドの盗賊であるカリーとジャック・ジングリーのコンビにせよ、さらにまたロビン・フッドの幻影の後を思わず追いかけてしまった後、愚鈍な盗賊の手下には似つかわしくない、高尚な哲学的論議を交わしてしまうカリーの手下達(3)にせよ、全ての人物造形が時間的、空間的、存在論的に複層的な存在様態的解釈を要求することになってしまうのは言うまでもない。この感覚がより色濃く象徴的に描かれていたのがあのハガード王という悪漢であり、シュメンドリックというこの物語の一方の道化的主人公であった訳なのだ。だからこそあの不可解な予言者的能力を秘めた蝶や、気まぐれな超越神的介入を行う正体不明の猫や、あるいは物語の進行を決定的に左右する力を持つ謎めいた助力者である骸骨等の印象深い超越的存在者達が、この物語を成立させる基本文法と整然と適合するものとして登場し得ていたのである。
 一見したところ素朴な無知から生じたアナクロニズムと思われるものから、実は意図的な確信犯的アナクロニズムの摘要例として受け入れざるを得ないものに至るまで、『最後のユニコーン』においては擬装と陥穽はロマンスの世界の騎士の遠征の途上に待ち受けている障壁のように満ちあふれている。その中でもグリーンウッドの森でロビン・フッドの無法者達を演じているキャプテン・カリーの仲間達には、一様にモデルとなる誰かを演じる役者的傾向が顕著なのだ。カリーに従う無法者の一人の吟遊詩人、ウィリー・ジェントルは、ロビン・フッドの世界とこれを模倣する演技者の世界の二重構造性を見事に暴露している。そしてその後を受けてアナクロニズムの技法的効果を完結させることになる中心的役者は、やはり彼等の首領のキャプテン・カリーだ。

“ I call it Alan-a-Dale picking,” the minstrel answered. He would have expounded further, but Cully interrupted him, saying, “Good, Willie, good boy, now play the others.” He beamed at what Schmendrick hoped was an expression of pleased surprise. “I said that there were several songs about me. There are thirty-one, to be exact, though none are in the Child collection just at present?” His eyes widened suddenly, and he grasped the magician’s shoulders. “You wouldn’t be Mr. Child himself, now would you?” he demanded. “He often goes seeking ballads, so I’ve heard, disguised as a plain man?”

p. 71

「これは僕がアラナ・デイル奏法と呼んでいる擦弦技法なんです。」吟遊詩人は答えた。放っておけばもっと演奏家としての講釈が続いたところだが、カリーが横から口を出した。「よしよし、ウィリー、いいから他のを演奏ってくれ。」そこで彼はシュメンドリックが意外な喜びの表情と受け取って欲しいと期待した彼の顔つきを見て顔をほころばせた。「私のことを題材にした歌はいくつかあるとさっき言ったんだが、正確には31の歌があるんだ。今のところチャイルド・コレクションに収められたものはまだ無いがね。」突然期待に目を大きく見開いて彼はシュメンドリックの腕をつかんだ。「まさかあなたはチャイルドさんじゃありますまいな。」有無を言わさず決めつけるような口振りであった。「チャイルドさんは一般の人を装って、バラッドの収集をなさっているということだが。」

カリーの語るチャイルド氏とは、Francis James Child(1825?96)のことだ。チャイルドは実は米国人で、EnglandとScotlandの民謡を収集した“Child Collection”の編纂者として有名な人物である。Cullyはフィールド・ワークを通してバラッドの実地調査を行った民話研究者Childのことを知っており、しかもこの時代にChild氏がまだ存命中でバラッド収集を行っていると信じているというのだから、本当ならこの物語の舞台は少なくとも19世紀中ごろ以降、20世紀になる少し以前あたりでなければならないことになる。『最後のユニコーン』の物語の展開する舞台となっている世界は実は、現代のアメリカでなければならなかった訳だ。一方でこのような順当な判断がなされることを前提として提出された、明らかな論理矛盾の一変奏を構築すべき、典型的な意図的アナクロニズムの一例として挙げられるのがこの場面でのカリーのチャイルドに対する言及であろう。
 しかしカリーはさらにもう一つ、説得力を持つ類例となる見事なアナクロニズムの活用の例を提供してくれている。魔法の力で本物のロビン・フッドと陽気な盗賊の一行の姿を呼び出してしまったシュメンドリックに対して、この見事なまでに道化的役割を担った人物が、にわかに自分達のあこがれの的であった筈のロビン・フッドの存在そのものを否定しようと始める場面だ。

“Robin Hood is a myth,” Captain Cully said nervously, “a classic example of the heroic folk-figures synthesized out of need. John Henry is another. Men have to have heroes, but no man can ever be as big as the need, and so a legend grows around a grain of truth, like a pearl. Not that it isn’t a remarkable trick, of course.”

p. 74

「ロビン・フッドはただの神話に過ぎない。」キャプテン・カリーは落ち着かない様子で言った。「民衆の心の欲求から生み出された英雄的な人物像の古典的な例だ。ジョン・ヘンリーの場合と全く同様だ。人間は英雄というものを必要とする。けれど誰も人々の願望に適うほど立派な人間にはなれないので、真珠のように小さな真実を核として伝説が成長するのだ。勿論これは大して珍しいことでもなんでもない。」

 賞賛と憧れの気持ちを抱いてロビン・フッドを演じていた筈のCullyが、打って変わって魔法の力で召還されたロビン・フッドの存在を感知することを拒否し、心理学と社会現象についての冷徹な分析を持ち出して、本来のこの英雄像自体を根拠の乏しい幻影として否定しようとし始めるのである。その口振りはあたかも口承伝説を専門とする、信念の裏打ちの無い知識の切り売りで惰性に埋没した空疎な生活の道を得ている大学の文学の研究者といった雰囲気だ。彼が壮大な伝説世界の歴史的根拠からの遊離を示す好便な具体例として持ち出したジョン・ヘンリーとは、アメリカ南部の伝説上の人物で、大力無双の黒人として有名なキャラクターだ。ここでも作品の舞台は明らかに19世紀以降、あるいはむしろ20世紀中頃のアメリカであるに違いないという印象を強く帯びてくる。疑似古代世界的ファンタシー空間に意図的に身近で陳腐な同時代性の印象を与える語句や観念を引きずり込む、滑稽を目的とする無知性暴露的アナクロニズムを成立させるばかりでなく、作中に描き出された登場人物達が、演じられた役割であると共に演じる役者達の示す醒めた様態としても二重に存在意義を感知されることを要求する、巧妙なアンチ・ファンタシー的仮構世界記述システムの主張がここにも明らかに窺われるのだ。つまり、ユニコーンの旅の冒険を彩る事件や挿話を形成する人物達としての様相と平行して、高邁な理想と妥協に満ちた現実との乖離を痛切に意識した、この作品を読み進めつつある繊細な感性と鋭敏な知性を備えた読者の周囲の輻湊した知的環境を反映する二重の意識構造が、読まれる作品世界の登場人物と作品世界を読む読者の双方の意識構造の重ね合わせとなって巧みに描き出されているということなのだ。
 そう言えばシュメンドリックをさらっていった森の山賊の一味の一人である、カリーの相棒の粗野な大男のジャック・ジングリィさえもがやはり、フロイト流の深層心理学用語あるいは古代ギリシア以来の芸術理論らしきものを口にしていたのであった。

“Ah, the boys don’t mean no harm, Yer Honor,” the giant grumbled good-naturedly. “Cooped up in the greenwood all day, they needs a little relaxing, a little catharsis,[傍線筆者] like. Well, well, to it, eh?” With a sigh, he took a wizened bag of coins from his waist and placed it in the Mayor’s open hand. “There you be, Yer honor,” said Jack Jingly. “It ben’t much, but we can’t spare no more than that.”

pp. 60-1

「こいつらには悪気はないんでさ、閣下。」大男は気の良さそうな調子で言った。「グリーンウッドに一日中閉じ籠もっていれば、ちょっとした気休めというか、カタルシスみたいなものが必要なんでさ。そうじゃないですかい。」溜め息をつくと、彼は腰のところからコインの入ったしわくちゃの袋を取り出して、市長の手のひらのうえに置いた。「お取り下さい。閣下。大した額じゃありませんが、これ以上は溜めることができなかったもんで。」

 “カタルシス”とは、もともとは体内にたまった汚物を体外に排出し身体を浄化する生理作用を意味するギリシャ語であった。元来医学的な生理的機能を語る用語であったこの語を、芸術論的な精神作用に対して適用するようになったのは、アリストテレスの「詩学」が最初であったとされている。アリストテレスは現実には決して望ましいものではあり得ない筈の、悲惨な不幸が描かれる「悲劇」を観客が観ることの意義を、澱のように滞った悪しき感情の蓄積を排出する精神の浄化作用として、積極的に容認したのであった。アリストテレスによれば、悲劇の効果は観客が恐怖と同情、そして主人公の苦悩をともに体験する“共苦”を感じることによって、最後にはこれらの激情から解放されることであるとされたのである。このギリシャ悲劇の伝統的解釈理論である精神の浄化作用としての働きこそ、“カタルシス”という用語の含蓄として長らく西洋文化において語り継がれてきたものであった訳だ。
 しかし今日では、“カタルシス”といえば、深層心理の分析が広く行われるようになる以前の一時期に行われていた、心理療法の特定の様式を意味するものとも理解されることだろう。フロイトの初期の共同研究者であったJ.ブロイアーが導入した、患者に催眠術を施して意識の束縛を解いた状態で無意識の中に鬱積していた気持ちを思う存分に語らせることにより、催眠から醒めた後にもそのヒステリー症状の軽減を得させることができるという趣旨の治療法がそれである。無意識の内に抑圧されている、過去の苦痛に満ちた屈辱的な、あるいは恐怖や罪悪感をともなう体験やその表象を、患者が想起しそれを言語化することによって、その体験や表象に固着していた悪性の感情や葛藤をその言語表現とともに表出させ、あたかも排泄物のように外部に排出されることが可能となり、心の歪んだ緊張をほぐす結果を導くこととなる、という心理分析理論が応用されていたのであった。
 伝説のロビン・フッドの仲間を気取っているだけの無骨で無教養な男である筈の人物が、下品な訛りのある口調を用いながら、現代の知識人の操るような心理学と芸術理論の用語を巧みに使いこなしていたのである。この物語の冒頭でユニコーンの実在の有無について奇妙に高踏的な議論を戦わせていたあの二人の教養人の狩人の場合と同様に、この物語の登場人物達は常に二重、三重の存在様態を重ね合わせて保持しているのである。粗野な狩人や盗賊であると共に教養豊かな、しかし空疎な知識の中に真実を見失い、果てしない絶望の中に生きている現代の知識人一般の心性を代弁してもいるのが、この作品世界においてユニコーンを取り巻く人間達なのだ。
 同様の例をもう一つ指摘してみることにしよう。ミッドナイト・カーニバルで見せ物の怪獣達を見物人達に解説して回るルークの口上にも、作品世界の根幹的主題に重なる世界観を反映した、現代的な教養人の意識構造が巧みに重ね合わされていたのである。古代北欧神話においてそのとぐろを巻いた身体が世界そのものをなしているとされるミッドガルド・サーペントが、サーカスの見せ物小屋の小さな檻の中に閉じ込められているとされることの不合理を指摘する観客に答えて反論するルークの台詞はこうだった。

“I'm glad you asked me that, friend,” Rukh said with a scowl. “It just so happens that the Midgard Serpent exists in like another space[傍線筆者] from ours, another dimension.[傍線筆者] Normally, therefore, he’s invisible, but dragged into our world?as Thor hooked him once--he shows clear as lightning, which also visits us from somewhere else, where it might look quite different.

p. 30

「あんたがそれを訊いてくれて、これほどうれしいことはないね。」ルークは顔をしかめながら言った。「こいつはわしらのいる世界とは別の空間、というか別次元にいる訳なんでさ。だから普段はこいつの姿が目に見えることはないんだね。だけどその昔トールの神にしてやられたように、こいつの身体がこの世界に引きずり出された時には、稲光みたいにはっきりと姿が見えるということになるのさ。実は稲光もその本体は別なところにあって、そっちの世界ではまた全く違った見え方をしてるんでしょうね。」

 世界そのものを包含する途轍もなく巨大な存在が、目の前の小さな檻の内部に閉じ込められていると語られることの位相幾何学的矛盾を指摘する観客に対して、ルークが待ち受けていたように反論に用いる論理は、“dimension”という言葉の含蓄に集約されている。アインシュタインの相対性理論の登場以降に生きる我々現代人にとっては、次元(dimension)とは三次元からなる立体空間に加えて、時空連続体として“4次元”を形成するさらなるもう一つの次元単位を暗示する思考操作を要求する特有の概念に他ならない。しかし実は、“dimension”という語の用例自体は、意外と古くまで時代を遡るものであったのだ。
 Oxford English Dictionaryの記載によれば英語世界におけるこの単語の最も古い用例としては、1413年の以下のような語義に基づく記録例がある。

A mode of linear measurement, magnitude, or extension, in a particular direction; usually as co-existing with similar measurements or extensions in other directions.

ある方向における線的な展開範囲、規模、度合いの示す様態。通例他のいくつかの方向性を持つ同等の伸展あるいは度合いと併置して用いられる

元来のこの単語の保持していた含蓄は、このようなむしろ一般的な日常言語の中のものであったようだ。さらにこれとは幾分異なった意味の用法が、後により日常的な感覚を増して定着していたことが分かる。

Measurable or spatial extent of any kind, as length, breadth, thickness, area, volume; measurement, measure, magnitude, size.

何であれ長さ、幅、厚さ、範囲、容積等の計測可能な空間的広がり。度合い、程度、規模、大きさ。

Oxford English Dictionaryの記載によれば、この字義に則した用例が16世紀からしばしば見られるものなのである。具体性を備えた日常的な用語として、実はかなり古くからこの単語が用いられていたことが分かるのである。
 しかし『最後のユニコーン』の中でもっともこの単語の内包する意義性と関わりを持つであろうと思われる興味深い箇所は、実はルークがミッドナイト・カーニバルの見せ物で、観客達にドラゴンについての解説を行う際に語る口上の中にあるのだ。

Its inside is an inferno, but its skin is so cold it burns.

ドラゴンの腹の中は地獄です。けれどもその外皮はとても冷たく、触れれば凍傷になるほどです。

この場面で彼が語る言葉は、実は古代あるいは中世において支配的であった特有の思想が保有していた世界観を反映してるのである。全宇宙を均質な同質の空間が占めている、というのがニュートン以降に導入された近代の科学的世界観であるのに対し、日常空間のあちこちに異次元空間が点在しているのが当たり前のものとして、中世以前あるいは古代世界の人々は考えていたのであった。聖別された特殊な空間があると同時に、汚された邪悪な空間も存在していたのである。天国も地獄も現世の日常空間と隣接して、身近に確かに具象的実体性を持って存在していたのであった。このような独特の事物の秘める切迫した存在属性並びに世界を支える緊迫した空間意識の復活を企図するのが、ファンタシー文学の特徴となる潜在的願望であると指摘することができるだろう。むしろアインシュタイン以降に生きている現在の我々が“dimension”という言葉を通して連想する空間意識、あるいは宇宙観は、わずかに作品世界の進行の時間軸をずらした、この場面のあたりでこそ見事に符合していたものなのだ。
 つまり“別次元の異空間”を持ち出すこの発想は、ニュートン的自然科学の浸透する以前の人々の親しんでいた普遍的な古代的世界観であるとも言えるし、量子力学を学んだ20世紀以降の現代人の新たに超越的普遍性の獲得という目的のために意識的に獲得し直した新鮮な発想であると言ってもよい。天国や地獄という異次元、あるいはジョージ・マクドナルドが寓喩的なファンタシー空間の中で構想したような“Faerie land”という異空間的傾向を持つ概念と、存在及び現象の連続的相転移の許に示される実在の発現様態の飛躍的遷移という発想を重ねあわせた、究極の宇宙構造理解に対する統一理論的新解釈提出の可能性を、思弁空間の中に大胆に展開する形而上学的思考実験の復権さえも暗示しているのがこの“dimension”という言葉なのである。
 このようにして“dimension”という単語が現代アメリカの陳腐なSF小説を連想させるありふれた時代錯誤ばかりでなく、反省的な意識を持つ読者に対しては包括的宇宙論を形成するシステムの基本軸そのものの転換操作という思弁的賭けを介して、より多面的な作品世界像と重層的な意味性解釈の可能性を暗示することにもなるのである。当然ながらこうした含蓄を反映した場合のこの単語の厳密な用例はさらに時代を下り、Oxford English Dictionaryによれば

Any of the component aspects of a particular situation, etc., esp. one newly discovered; an attribute of, or way of viewing, an abstract entity.

固有の状況の示す構成要素の一つ。ことに抽象的実在の保持する属性、あるいはその属性に対する解釈方法の一つとして、新規に発見されるに至った概念。

という定義に基づく範疇区分の中に含められるものであり、やはりこの用例は20世紀初期以降に定着したものであることが分かる。Rukhの口にした “dimension”という言葉は、表面的な諧謔的アナクロニズムを成立させると同時に、より潜行した輻湊的な界面での宇宙観と記述システムの存在に対する微妙な反省的自覚を反映するものと見なさねばならない。
 『最後のユニコーン』においては一見して明らかな時代錯誤ばかりでなく、時においては微妙に潜伏した形を取りもして、様々な様相を伴ってアナクロニズムの効果が導入されることとなっていたのである。その中でも典型的に20世紀的な同時代性の印象を与える述語が、フロイト流の深層心理学用語だろう。フロイト、ユングの開拓した分析心理学が、陳腐な夢判断と抑圧感情の謎解き的解釈が流行した20世紀中葉のアメリカ社会の根無し草的な軽薄さを表す、象徴的な言葉になってしまっているのは、残念ながら認めざるを得ない事実のようだ。例えば、失われた仲間達の消息を尋ねて旅に出たユニコーンに、様々な意味で重要な手がかりと貴重な情報を与えてくれることになる、蝶の口にした次の言葉などがそうであった。実はさりげなく彼自身について語っているのに相違ないこの言葉は、ユニコーンに与えられた他のどの情報よりも確かに我々読者に対して与えられた、物語世界の構造原理を読み解くための枢要な情報であったのかもしれない。

But the butterfly swooped close to her ear laughing, “I have nightmares about crawling around on the ground,” he sang.

p. 15

けれども蝶は笑いながら彼女の耳元に飛んできて、歌うように言った。「僕は地面の上を這いずり回っている悪夢を見るんだ。」

 これは蝶が彼の幼虫時代の悲惨な幼児体験の記憶について語っているものに相違ない。科学的知識と古典的教養をファッションと盲信に位相変換するほどに皮相な無知主義の浸透した20世紀アメリカにおいて一時蔓延していた、陳腐極まりない深層心理学を持ち出したおふざけの例であると共に、実は分析心理学の常道を持ち出すことによって“夢”と“錯綜した意識”の暗示する、揮発性の疑似体験の存在を仄めかし、複数の時代性を重ね合わせて意識空間のあり得ない歴史と出来事と到達不能の体験の記憶のすべてを示唆することを仕組んだ、甚だロマン主義的な思想的傾向を検知することのできる独特の戦略機構が、ここでのアナクロニズムの摘要例に窺うことができることを指摘しておくべきだろう。
 フロイト流の深層心理学を意識した字句と発想は、ロビン・フッドを擬した山賊の一行、キャプテン・カリー達の登場するグリーンウッドの無法者達のエピソードのあたりで殊に頻繁に用いられることになっていた。まず思い浮かぶのは、思いがけず町長に招かれた晩餐会の席上で真実の魔法を行使することの出来た直後、山賊の一行に連れ去られる際の魔法使いシュメンドリックの心中を描いた次の場面だ。

All that Schmendrick remembered later of his wild ride with the outlaws was the wind, the saddle’s edge, and the laughter of the jingling giant. He was too busy brooding over the ending of his hat trick to notice much else. Too much english, he suggested to himself. Overcompensation. [傍線筆者]But he shook his head, which was difficult in his position. The magic knows what it wants to do, he thought, bouncing as the horse dashed across a creek. But I never know what it knows. Not at the right time, anyway. I’d write it a letter, if I knew where it lived.

p. 65

後になってシュメンドリックがこの無法者達にさらわれた時のことで思い出すことの出来たものは、ただ顔に当たる風と脇腹に食い込む鞍の縁と、騒々しい大男の笑い声だけだった。彼は他のことに気を留めるには、帽子にかけた魔法の結末について考えるのにあまりにも頭が一杯だったのだ。ちょっと捻りがきつすぎたか?それとも“補償過剰”だったか?どちらでもない、と首を振ろうとしたが、この姿勢では、それは難しいことだった。魔法の奴は自分が何をしたいのか、自分で分かってるんだ。馬が小川を跳び越える時に大きく揺さぶられながら彼は思った。だが俺の方は魔法が何を知ってるのか分かることは決してない。手紙でも出して訊いてやるか、住所さえ分かればの話だが。

一瞬だけ抱くことのできた期待に反して、結局思いどおりに魔法の技を振るうことがどうしても適わなかった無能な魔法使いが反芻し続けるのは、仮染めの一時魔法の真実に触れることができたかのように思えて、見事に失敗に終わってしまった先程の宴席での出来事の際の、自分の試みた魔法の技術の分析とそしてその際の自分自身の心理状態の客観的把握なのだ。彼が己の失敗の原因として先ず考えたのが “overcompensation”、(補償過剰)という分析心理学の述語なのであった。
 「補償」(compensation)とは、フロイトとユングの後に続く深層心理学者アドラー(Adler、1879−1937)の唱えた理論を指すものだろう。アドラーは「劣等感」という心理に注目し、この劣等感を優越感に変えようとする心的機能として、「補償」という精神作用についての研究を行ったとされている。つまり「補償」とは、自分の致命的な弱点を補完するために他の望ましい特性を意図的に強調する行為を指すものであり、劣等感に由来する心理的緊張を、他の側面で優れることによって解消しようとする、意識的に制御可能な精神機能のことなのである。魔法の行使の能力と精神的疾患の治癒とを同一線上に結び付けるこの感覚は、ユングの行ったパラケルススの唱えた宇宙論と錬金術理論に対する大胆な再評価との関連を念頭に置いて振り返ってみれば、魔法の原理機構を美学と宇宙論的神秘思想に重ね合わせて首尾一貫した記述手法の元に描き出す本作品における特徴的な傾向としてはなはだ興味深いものであるが、この問題については“魔法”というキーワードを軸として後ほど改めて語り直すことにしよう。“コンプレックスの克服”という主題とこの物語において描かれた“真実の魔法”の達成の意味するものは、単なる比喩表現以上の効果でもって、より深い主題的関連性を保っているのであった。そこに自覚されているのはむしろフロイト以前の、世界構成要素の一つとしての精神性の理解を宇宙論的解釈の延長線において把握することを旨とした、分析心理学台頭以前の伝統的な“心理学”なのであった。アナクロニズムとは記述内容の時間的あるいは空間的不適合を示すというよりも、むしろ異なった位相の許に展開する別次元の概念の恣意的な連接の示唆する、放埒なまでの思考の自由を思弁空間の中に主張するためのファンタシー独特の精妙なレトリックだったのである。
 ファンタシーの世界における描写においては、それがいかに具体的で精緻なものであろうとも、仮構世界のリアリティを現実のものと混同することが求められている訳では決してない。時には作者の擬装とごまかしの身ぶりをこそ、プレゼンテーションの結果提示された作品世界の本体として、積極的に評価すべき場合もある。オスカー・ワイルドが「嘘の衰退」において見事に語ってみせていたように、虚偽を語る技こそが真正なる芸術の本道なのだ。仮構世界を構築する技を敬虔に遂行するものは、峻厳なる美学的要請に従って、誠実にペテン的言説の効率的運用を図ることを課せられてしまうのである。
 意図的なペテン的言説は、アンチ・ファンタシーにおいては堂々と顕示的に多用されねばならないこととなる。何故ならばフィクション世界記述行為におけるペテン行為とは、至高の世界構築原理に対する極限の誠実さの証としてのメタフィクション的修辞法に他ならないからである。自然法則に組み込まれて、“超自然”の風趣を失ってしまうようなことが決して無いように、絶対的な自然法則からの決定的な逸脱例を顕現させることこそが、“不可能事の記述”としてのファンタシーの本来の目的とするところなのであった。ファンタシーとは必ずしも、古代において語られた伝説的奇跡の継承をのみ図ることを企図するものなのでは決してなく、むしろ常に同時代的日常感覚の中でこそ、仮構世界における不可能事としての奇跡を現出させ続けることによって、超越的存在の例証を図ろうとする類いの、現代における特殊な奇跡弁護論に属する言説の一つなのであった。実はアナクロニズムとは、アンチ・ファンタシー的作品世界提示行為における必須条件となるものとしてさえ見なされるべきものであったのである。
 だからこそ、ファンタシーを記述する言説も、ファンタシーについて論議する言説も、審美的評価という側面においては、結果的に論証可能な整然とした命題を語ってしまうようなことがあってはならないので、根本的に移り気で、とりとめがなく、論理的には怠惰であり、適正な修正の結果首尾一貫した自然法則の一斑を形成してしまうことが決してないように、常に核心的な矛盾を保持し続けていなくてはならないという、厳正なる詩の原理に従うことになるのである。その結果初めてアナクロニズムは荒唐無稽として結晶化したペテン的言説として、芸術的に、そして形而上学的に昇華することとなる。『最後のユニコーン』において採用されるに至ったそのような見事なペテン的言説の例をさらにいくつか以下にあげてみることにしよう。
 道端で眠りに落ちているユニコーンを見つけた魔女マミー・フォルチュナは、彼女を捕まえて檻に閉じ込めるように二人の男達に命じるが、ユニコーンの魔法の力のために、たとえ眠りに落ちてはいても、彼女の体に素手で触れることは大変危険であるという。そこで魔女が彼等に実行させたのは、ユニコーンに手を触れることなく檻の中に押し込めることを可能にする、次のような手順であった。

It took them the rest of the night to pull down the ninth cage, bars and floor and roof and then to put it back together around the sleeping unicorn.

p. 18

 それから彼等は夜が明けるまでかかって、9番目の檻を鉄格子も床も屋根も全てばらばらにして降ろし、眠っているユニコーンの体の周囲にもう一度組み立て直したのだった。

 “檻を分解して、地面の上で眠っているユニコーンに気取られないように、その周りに組み立て直した。”と二人の男達が行った行動として実際に記述が行われはしている。しかし一体どのような巧妙な手段を用いて彼等は、地面の上に横たわったユニコーンをその体に手を触れることなしに、組み立て直した檻の床の上に移動させることができたというのであろうか。ここでは本質的に不可能である筈の事柄が、作品世界中に現出した具体的事実として、記述上のペテン行為を利用してもっともらしく物語られている訳なのだ。実はこのような部分にこそファンタシーの基幹的記述行為と、ファンタシー空間の論理学的定義を導くことの出来る、独特の記述文法の秘密が隠されているのである。
 ファンタシーにおいて語られた事物とは、非在性の存在物として作品世界内に仮定された異世界的原理の所在を暗示する記号に他ならないものなのである。あるいはこの優れて自省的で精緻な構造を備えた作品の主題性に則して語るとするならば、現象世界的制約を超越した技術体系である魔法の機構が、現実世界における論理矛盾として描写されているとも理解することができるかもしれない。そしてまたペテン的言説の意図的な応用として、根幹的な部分で本書の考察の核となる “antifantasy” というキーワードと関連するものとして、もう一歩踏み込んでこの行為の意味を捉え直すとするならば、決して発現することのあり得ない“不可能世界の記述”という思弁的賭けがここで試みられていると考えることもできるのである。“考える葦”として存在する宇宙の全てを自らの想念の裡に捕えるばかりでなく、未だ現存しない潜勢力としての可能世界と、可能世界としてさえも決して成り立ち得ない“不可能世界”をも記述するという、限界の限界性を遥かに超えた永遠性に対する大胆極まりない挑戦的な構想がそこに展開されている訳なのであった。
 実はこれと同様の極めて切実なペテン的記述行為は、本作品のあらゆる箇所において頻繁に現出していることが指摘することができるものなのである。例えばシュメンドリックを無理矢理に連れ帰ったジャック・ジングリーがグリーンウッドの隠れ家に戻ってきた時の、留守中の合い言葉の変更をめぐる滑稽なやりとりの後に続く場面などにもさりげなくその一斑が漏れ出ているのである。

Jack Jingly sat silent on his horse, rubbing his ear. “Two long and one short,” he sighed presently. “Awell, ‘tis no more foolish than the time he’d have no password at all, and shot any who answered the challenge. Two long and one short, right.” He rode on through the trees, and his men trailed after him.

p. 66

ジャック・ジングリーはしばらく馬に乗ったまま黙って耳の血をぬぐっていた。「二度長く、一度短くか。」ようやくため息をつきながら言った。「いいさ。合い言葉無しで、呼びかけに応えた者には誰でも構わず矢を射かけていた頃に比べればまだましかもしれん。二度長く、一度短くだな。そら。」ジャック・ジングリーは木立の中に馬を乗り入れ、手下の者達が後に続いた。

合い言葉を憶えていることができないので、決して間違えることの無いようにという訳で、全く鳴き声を出すことのないと言われている“キリンの鳴き声”を合い言葉にした、と見張りに教えられたジャック・ジングリーは、この場面で実際にどのようにして、新規に取り決められた通りに「二度長く、一度短く」キリンの声を発してみせたというのであろうか。論理学の教えるところに従えば、空集合の元をなすものに対して施された属辞は、確かにいかなるものであろうとも正しい命題を成立させることにはなるのだ。「記述」という行為のいかがわしさそのものを暴いてみせたようなはなはだ自意識的な記述行為が、こういう具合に見方によればかなりあざとい手法さえも用いて採用されていた訳なのである。次の例もこれと同等のメカニズムに属する似非“記述行為”であると言うことができるだろう。滅亡の予言を成就させ、歪んだ町の繁栄に終止符を打つものとされるリア王子の殺害を依頼する、町長ドリンの語る言葉だ。

A clever magician might be acquainted with all manner of odd potions and powders, poppets and philters, herbs and banes and unguents.

p. 103

抜け目のない魔法使いなら、ありとあらゆる種類の薬品類のことを御存知に違いないでしょうな。

上のドリンの台詞の中の、“poppets”以外は全て確かに薬品を指す言葉だ。一見したところ “potion”、“powder”、“philters”と羅列された薬品を暗示する言葉が “p”の音を揃えて頭韻(alliteration)を踏んでいるらしいのに乗じて 、“poppets”という語を紛れ込ませたのであろうとの印象を与える。“poppets”は「人形」の意味しか持たないので、薬品の類いをあらわすっ言葉の一つとしてこの語を羅列された字句に加えて続けることはとても無理なものだからだ。しかし実際に確かに薬品の一種である、直前に語られている“philters”という語は、本当のところは発音上は“p”の音を保持してはいないので、この仮説的なペテンさえも実は正当に機能してはいない。ドリン自身が何らかの意図あるいは誤解のためにこのような疑わしい発言を行ったとは到底考えられないので、この部分は本作品を物語る作者自身の記述行為における、“ペテンの暴露”という趣向の際どい諧謔の身振りであると理解するしかない。“諧謔性”という効果が成立する際の多くの例に倣って、ここでは描かれた作品世界外の外枠(extra literary)の現実世界の干渉の存在が、このような独特の意味性を導く発端になっていたことが興味深い訳だが、新たな未知の次元軸の加算による全体像の再記述を暗示するこのような機構は、先ほど問題にした“dimension”という語の包含する世界観と照らし合わせて、ことさら示唆に富むものとなるに違いない。
 おそらく本作品のこの部分において顕著なような作者自身の記述行為におけるペテン的諧謔性に対する嗜好が、生真面目なファンタシー評家アテベリーの逆鱗に触れてしまったものに相違ないと思われる。アテベリーはビーグルのこのような性向を、自らが語りつつある作品世界に対する自身の無さに起因するものと決めつけて、この作家のロマン的な永遠性への憧憬を全面的に無視してしまったのであった。しかしここにあるような一見したところいかがわしい趣さえある“ペテン性”にこそ、『最後のユニコーン』という作品世界の内面を支配する思想的位相を決定付ける、最も重要な要因を見出すべきものであったことを我々は既に確認してきたのであった。ビーグルの執拗なペテン的記述行為の根底には、以下に引用する場面にことさら顕著なように、この作品世界を緊密に支配している、理性に基づく論理構造を転倒した結果でなければ到底得られる筈のない、独特の価値基準を保障する絶対的原理の存在の主張があることを改めて評価しておかなければならないのである。

But the men had not yet reached the pasture gate when the white mare jumped the fence and was gone into the night like a falling star. The two men stood where they were for a time, not heeding the Mayor’s commands to come back; and neither ever said, even to the other, why he stared after the magician’s mare so long. But now and then after that, they laughed with wonder in the middle of very serious events, and so came to be considered frivolous sorts.

p. 63

けれども男達がまだ牧場の門のところに行き着かないうちに、白い雌馬は柵を跳び超えて、流れ星のように夜の闇の中に消えていってしまった。二人の男達は、市長の戻って来るようにと叫ぶ命令の言葉も耳に入らない様子で、しばらくの間そこに立ち尽くしていた。そしていずれの男も、どうして自分がそんなにも長い間魔法使いの雌馬の姿を見つめていたのか、お互いに連れの男に対してさえも口にすることも無かった。しかしその後は、彼等は時折深刻な場面の最中にさえも、いかにも可笑しそうに笑い出してしまうことがあり、軽薄な人間だと周囲に見なされてしまうこととなった。

ユニコーンの間近に来てしまったおかげで、彼女の体現する“eternal”な真実に触れてしまった二人の男達は、その後人間の世界を支配する常識から逸脱することを余儀なくされてしまうのだ。不運にも、あるいはこの上ない恩寵の下付として、彼等には満足と失望、喜びと悲しみ、真面目、不真面目を分別する社会的な判断基準の転倒がもたらされてしまっているのである。この部分こそ、主題的に本作品の微妙な存在特性を考察するために本書において設定したキーワード“antifantasy”にもっとも直裁に関連するものであると思われる。ここに描かれているような、東洋思想においてむしろ顕著なものであった、老子的な“風狂”の様態の発現は、正にこの作品世界設立の基調をなす枢要なシステム原理として見なすべきものなのである。
 同等のシステム理論により、この探求の旅の終焉の後、不死の呪から漸く解き放たれ、真の魔法の力を得た魔法使いシュメンドリックは、不毛の王国の王座に就くこととなったリア王子こと“リア王”に対して、以下のような予言を語ることになるのである。

Your realm is blessed beyond any land’s deserving because they have passed across it in freedom. As for you and your heart and the things you said and didn’t say, she will remember them all when men are fairy tales in books written by rabbits.

p. 207

陛下の王国は他のいかなる王国よりも祝福されたものとなりましょう。何故ならそこを自由の身になったユニコーン達が通ったのですから。陛下と陛下の心と陛下のおっしゃったこと、あるいはおっしゃらなかったことについては、ユニコーンはそのすべてを決して忘れることはありますまい。人間達の世界が兎達によって書かれたお伽話となった時でさえも。

彼等を包含する物語世界、あるいは彼等の存在を物語世界として読み取る現実世界の“お伽話”との位相変換の可能性を持ち出したこのシュメンドリックの言葉が、以前に彼が語っていた下の言葉と正確に対応しているものであることはたやすく理解されることだろう。

"Haggard and Lir and Drinn and you and I--we are in a fairy tale, and must go where it goes. But she is real. She is real."

 「ハガード王もリア王子もドリンもあんたも僕も、みんなお伽話の中の存在に過ぎない。だからお話の筋書き通りに行動するだけだ。けれどユニコーンは本物なんだ。ユニコーンは。」

 作中に展開する物語世界を“お伽話”へと位相変換する論理操作を物語空間の中で模擬実験することにより、そこに得られたアルゴリズムをさらに現実と神話的存在へと摘要する二次的操作を通して、可能世界と不可能世界の境界線上に究極の真実の姿を束の間現出させることを試みようとする、極めて挑戦的なロマン主義的戦略が実行されるためには、荒唐無稽もアナクロニズムもペテン的言説も、すべてアンチ・ファンタシー的システム理論を不足なく展開するために採用されることとなった、欠くべからざる次元構成軸だったのである。



テキスト

 The Last Unicorn の版には様々なものがある。筆者が現在保有するものだけでも年代順に挙げてみれば、

The Last Unicorn. New York: Ballantine Books, 1974.
The Last Unicorn. in The Works of Peter Beagle. New York: Viking Press, 1978.
The Last Unicorn. New York: Del Rey book, 1988.
The Last Unicorn. New York: Roc Book, 1991.

など、テキストとして用い得るものとして4種類の版が存在する。しかしながらそれぞれの版において誤植あるいは編集ミスによる異同もいくつか存在することが判明している。また市場にあるものを網羅すればもっと多くの版が見つかることであろうとも思われる。そのため本書においては、The Last Unicornの決定稿としてみなし得るテキストとして、筆者による註釈付きのテキストAnnotated Last Unicorn (2004、近代文芸社)を参照テキストとして用いることとする。同書はアンチ・ファンタシー研究総合プロジェクトにおける論文パートを形成する本書に対して、相補的機能を果たすべき註釈テキストパートを形成するものである。
 又、本プロジェクトにおける活字メディアパートとして機能する本書並びにAnnotated Last Unicornに対してさらにまた相補的機能を果たすことを企図して作成された、それぞれに対応する電算化テキストが、インターネット上に公開中の下記のウェブサイト及びブログにて公開されている。

ウェブサイト:“Fantasy as Antifantasy”
http://www.linkclub.or.jp/~mac-kuro/
ブログ:“アンチファンタシーというファンタシー日替わり講座”
『最後のユニコーン』(The Last Unicorn)読解メモ
http://antifantasy2.blog01.linkclub.jp/

 上記の研究資料は、コンピュータ室における講座テキストとしての使用及び電算化データとしての内容項目に対する参照、検索の便益に適合させるため、HTML文書における“ハイパーリンク機能” 、“コメント表示機能”、等を活用したデータ加工がなされているものであるのみならず、関連資料の総体が論文パートと註釈テキストパート並びに活字メディアと電算化データという相補的な関係性の許に行列的に対照して提示されることにより、論考の主軸として主張される影と本体の相反的連関性という内容を外形的にもまた反復して、主題の複層的展開と反映を図るものである。


(1)

 物語世界の構築とその受容に関わる基幹的条件となるべきものとして、複数の並列した物語世界描像の提示がなされている別の具体例としては、アンチ・ファンタシーという指標を摘要してファンタシーの思想的特質に関する論考を先行して展開したもう一方のテキストである、James Barrie のPeter and Wendyをやはり挙げることができる。作者の行う語りの機構が及ぼすファンタシー空間の特異性と非線形の物語描像との主題的相関については、仮構世界の存在論的解釈の在り方と物語られるストーリーの実体との関連について焦点を当てて分析を行った第10章、「おしゃべりな語り手と擬装?アンチ・ファンタシーにおけるディコンストラクション」において既に指摘されている通りである。
 Cf. 『アンチ・ファンタシーというファンタシー』(近代文藝社、2005)pp. 108-120。


(2)

“Yes, yes.” The younger man chuckled. “Did she ride her unicorn, then? Bareback, under the trees, like a nymph in the early days of the world?”

 「そうかい、そうかい。」若い方の狩人はくすくす笑いながら言った。「それで、あんたのひいおばあさんは、ユニコーンの背中に乗ることができたのかい?木々の下で、鞍も無しに、世界のまだ若かった頃のニンフのように。」

 ユニコーンの実在を疑って、嘲るようにユニコーン伝説の常套を語ってみせる若い方の狩人も、何故かユニコーンに関する伝承には妙に詳しいばかりでなく、独特の郷愁に似たものを伴うイメージさえ心中に抱いているかのようだ。祖母がユニコーンの姿を見たことがあるという年上の狩人に対して、彼は揶揄的な口調を用いて上のように問いただすのであるが、“世界が若かった頃”という感覚を持ち出す彼の胸の内には、現代を時の流れとともに世界が堕落した果ての状態として捉える苦い思いが確かに窺える。今を生きる現実の人々の精神の堕落と腐敗の姿は、彼の心の奥底を痛切に捉えて離さないものなのだろう。
 そしてまた、さらに続けて下のように問いかける彼の言葉は、この狩人が意外な程に博学な教養人であることを示しているのだ。

“What did it look like? Pliny describes the unicorn as being very ferocious, similar in the rest of its body to a horse, with the head of a deer, the feet of an elephant, the tail of a bear; a deep, bellowing voice, and a single black horn, two cubits in length, And the Chinese?”

「そのユニコーンはどんな姿をしていたのかな?プリニウスによればユニコーンはとても獰猛な動物で、体は馬と同じだが、頭は鹿のようで、足は象のようで、尾は熊のようで、とても大きな声で吼え、一本の2キュービットの長さの黒い角を持っているということだが。それから中国人の記録によれば、…」

 彼は古代ローマの博物学者プリニウスの著作を空で暗唱するばかりか、遠い異世界の中国の文献さえも引用し始めてしまうのだ。おそらくこの男は後に登場するあの不可思議な蝶の場合と同様に、世界のありとあらゆる伝承と文献に通じていさえするのかもしれない。そして改めて彼に、

“Why did they go away, do you think? If there ever were such things.”

「どうしてユニコーンはこの世からいなくなってしまったんだい。もしもそんな生き物がそもそも存在していたとして。」

と尋ねられた年上の狩人も、むしろその精神の高邁な程の素朴さと、飽くまでも偽りを行うことのない誠実な現象認識の在り方が殊に印象的な人物である。彼は上の問いに答えて次のように語るのだ。

“Who knows? Times change, would you call this age a good one for unicorns?”

「いったい何故ユニコーン達はいなくなってしまったんだろうな。だが世の中は変わっていくものだ。お前は今のこの世界がユニコーンにとって良い世界だと言えると思うかい?」

逆に上のように問い返すこの男の言葉は、彼が容易に世の偽りの常識に妥協することのない、確固たる信念と独自の判断を備えた、心の奥底の理想にのみ飽くまでも忠実な人物であることを示しているに違いない。この問いに対する若い狩人の答えはこうであった。

“No, but I wonder if any man before us ever thought his time a good time for unicorns.”

「この世界がユニコーンにとって良い世界だとはとても思えないな。だが、もっと昔の人々で、自分達の生きている世界がユニコーンにとってふさわしいものだと思った人が、いったい、いたのだろうか?」

彼のこの言葉は、ユニコーンの実在の是非を問題にするという話題からいつか離れて、この物語の中で語られる独特のユニコーンという存在の属性に対する正確な定義を与える証言となってしまっているかのようだ。正に彼等の語る言葉の全てが反転的に、この物語の主張するユニコーンの特異な記号的意義性を物語っていることを見逃してはならないだろう。そして最後にこの森を立ち去ろうとする年上の狩人は、振り返って姿の見えないユニコーンに対して次のような共感に満ちた言葉を投げかけるのだ。

“Stay where you are, poor beast. This is no world for you. Stay in your forest, and keep your trees green and your friends long-lived. Pay no mind to young girls, for they never become anything more than silly old women. And good luck to you.”

「この森の中にずっといるんだぞ。この世界はお前にとってふさわしいものなどではないからな。自分の森を大事に守って、木々を緑に、動物達を長生きさせてやってくれ。決して人間の娘たちなんかのことを気にかけてはならないぞ。娘たちなんて、みんな愚かな婆さんになってしまうだけだからな。幸せに暮らせよ。」

 清純な娘たちを護り、幸せに導いてくれると語り伝えられた我々の知る伝説のユニコーンの属性に付け加えて、この二人の狩人達の思いと言葉を通して語られるユニコーンの姿は、既存のユニコーン伝説とは全く異なる独特の存在性を持つものでさえあることを窺わせるが、その事実を証言する機能を果たすことになっていたこの二人の狩人達は、全ての時代と境遇を超えて人間性の裡にある良心の在り処を代表する役割を担わされているかのようでもある。彼等はその教養の深さと精神の高潔さを保持する反省力を備えた人間性の総体として、反転的にユニコーンという言葉の記号的意義性を補完する存在となっているのである。

(3)

 シュメンドリックの魔法のために呼び出されたまばゆいばかりのロビン・フッドの幻影の後を一晩中追いかけて、疲れきった筈の男達がここで交わす会話は、一転してこれまでに作中で描かれていたようなみすぼらしい山賊には似つかわしくないほど知的で、深い洞察と反省的思考力に満ちたものとなっているのである。

Once they had to crouch among thorns while two of Cully’s weary rogues limped by, wondering bitterly whether the vision of Robin Hood had been real or not. “I smelled them,” the first man was saying. “Eyes are easy to deceive, and cheats by nature, but surely no shadow has a smell?” “The eyes are perjurors, right enough,” grunted the second man, who seemed to be wearing a swamp. “But do you truly trust the testimony of your ears, of your nose, of the root of your tongue? Not I, my friend. The universe lies to our senses, and they lie to us, and how can we ourselves be anything but liars? For myself, I trust neither message nor messenger; neither what I am told, nor what I see. There may be truth somewhere, but it never gets down to me.”

p. 85

 カリーの手下の男達が二人足を引きずりながらやってきて、先ほどのロビン・フッドの幻影が一体本物であったのかどうか、苦々しそうに議論を始めたので、シュメンドリックとユニコーンは薮の中に身を隠さなければならなかった。
 「俺は確かに匂いまで感じたんだ。」一人の男が言った。「人間の目はだまされることがある。視覚はもともと錯覚を与えやすいものだ。けれどただの影には匂いなんてないだろう。」
 「確かに目は我々を裏切る。」体一面沼の泥だらけのようなもう一人の男が答えた。「だがお前は本当に自分の耳や、鼻や、舌の与える感覚を信じることができるのか?俺は信じないぞ。世界全体が俺たちの感覚を騙そうとしているんだ。俺たちは自分自身の感覚に騙されているんだ。俺たち自身だって嘘つき以外の何物にもなれはしない。俺はな、伝えられた知らせも、知らせを伝えるものも信じられない。語られた言葉も、目に見たものも信じられない。どこかに真実なんてものがあったところで、その真実は俺のところまでやってきてくれることはないのさ。」

 この男はこの場面では、感覚器官を介して得られる知覚による把握と、究極的な真実の姿である実在のどうしようもない乖離を強く意識しているのである。そして全てが歪んだ主観によって誤った姿で認識されるだけの無意味な錯覚に過ぎない、という虚無主義の与える判断を物語るというよりも、むしろ知覚に対する彼のこだわりは、ある種の神秘思想の影響さえ暗示するものであるように思える。意識の主体を取り巻く外界そのものが、故意に真実を隠蔽し、迷妄と錯覚に人々を導こうとする、悪しき神の創り出した敵対的なものである、と見なすのは不可知論(agnosticism)という言葉の起源ともなった“グノーシス思想”(Gnosis)の思想的特徴であると言われているものだ。この思想の教えるところに従えば、人間存在の霊性を欺くものである自分自身の目や耳等に代表される全ての感覚器官と自然現象の意識の主体に与える情報の一切を否定し、自らの魂の内奥のみに存在することができる直感的把握力のみを頼って真実の宇宙の姿を正しく認識するためには、肉体的感覚と世間的常識による判断基準そのものを常に根本的に否定し、擬装された判断と価値基準の全てをことごとく転倒させ続けていく覚悟を貫かなければならないのである。このような特有の思想的見解の許では、真なる実在、あるいは霊性の本質の姿は、外界の刺激が及ぼす感覚のみならず“理性”と呼ばれるものの導く認識と判断自体をむしろ正反対に逆転させた、意味性転覆の結果得られる不条理をこそ頼るべき唯一の指標として捕捉されるべきものでなければならないことになるのである。

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