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不毛の王国の貪欲なストイスト

『最後のユニコーン』のフック的アンチ・ヒーローと神格化された無知


 『最後のユニコーン』において世界に不毛と荒廃をもたらした張本人である典型的な悪漢として登場するハガード王も、やはり本作品特有のおどけた漫画的叙述の拘束から自由な存在ではあり得ない。その強権でもって王国に圧制を敷く極悪非道の専制君主である筈のハガード王は、あろうことか落ちぶれ果てたような貧困さと荒唐無稽な程の吝嗇家振りをもっともらしく国人に噂されているのである。

 ハガード王の居城に隣接するハグズゲイトの町の町長として、強欲と無節操の権化であるかのごとく滑稽を絵に描いたような姿で語られる人物のドリンさえもが、町と運命を共にすると謎めいた予言で語られている彼等の主君ハガード王のことを、次のように語っている始末だ。

p. 106

 『ピーターとウェンディ』において、フックを単なる敵役の悪漢に決めつけることを許さなかった、この異質の海賊の体現する教養の高さと感性の深さの代わりに、『最後のユニコーン』の象徴的悪漢であるハガード王は、漫画的に誇張されたみすぼらしいばかりの貪欲さでもって常に語られているのである。このあまりにも不可解な人物の、一筋縄では容易に解釈の糸口を与えることの無さそうな秘密を解きほぐす鍵は、やはり“アンチ・ファンタシー”という乱数表の干渉を加える操作を施し、発現情報系の暗号変換を企てることによってしか、見つける術はなさそうに思える。
 王様お付きの魔法使いとして召し抱えてもらうことを目論んで、魔法の力によって得られる様々の喜びについて述べたてようとするシュメンドリックに対してハガード王が語る次の言葉は、この作品の謎の一端を解き明かす契機を与える重要な手掛かりとなると思われるものだ。

この言葉に従えば、ハガード王にとっては時間軸の方向性の支配さえ一切受けることなく、存在物の総てが単なる自身の記憶上のものとして、つまり己の思念の下位項目を成す内部機構として感知され、また実際に客観的具象物としても存在することとなる。ハガード王という人物造型においては、文字どおり作品世界中の全智で全能である、造物主としてのすべての特権を保持する存在としての作者(語り手)と同格の権能を備えた、つまり語り手と同列の超テキスト的全権性を備えた作者の影、あるいは分身であるとも看做され得る存在原理が暗示されているということなのだろうか。
 さらにハガード王はシュメンドリックの勧める華やかな宮廷の楽しみごとの数々についても、取り付きようもない冷淡な態度で次のように語っている。

ここに描かれているハガード王は、快楽の総てを知り、なおかつ充足を得ることが決して無く、常に絶え間の無い飢餓感にあえぎ続けているという点では、『ピーターとウェンディ』のフックと見事なまでに酷似しており、いかなる達成も向上と変化に結びつくことがない不毛な経験者であり続けるという点では、奇妙にあのピーター自身と相似的でもある。
 これまで召し抱えていた卓越した魔法使いであるマブルクに対して、彼の与えてくれた魔法の成果の全てを以下のように語り捨てるハガード王は、知ることと成すこと、経験と達成に関する価値基準の視点構築に対する再評価を通じて、この世に生きることの意味とかくのごとき世界の存在することそのものの意味をも同時に問い直すものとなっている。

フック的ストイシズムが結局は空中分解的な自我の分裂と、いかなる成果をも残すことの無い孤立の果ての破滅という悲惨極まりない結末を招かざるを得なかったのに対して、その直系の子孫であり、よりその存在属性を研ぎすまされた進化形でもあるハガード王は、有能な魔法使いが成し得なかった奇跡を無能な廃残者にこそ託してみるという遊戯的選択を自覚的に採用する、はなはだアイロニカルな美学的性向をさらに増幅して備えている。
 ハガード王に体現したこの傾向は、先に指摘した「漫画的」傾向と軌を一つにして、作品世界の存在原理の一つの転倒をさえ企てる有力な要素として発動することとなる。大団円を迎えたこの物語の一瞬は作中の登場人物の一人であるモリー・グルーの眼を通して次のように描かれることになるからだ。

物語世界が究極の緊張の一瞬を迎えようとするその時、作中人物の1人のモリーの視点は、物語世界の枠外に存在すると同時に物語世界のすべてにその影を反映させている語り手の視点と同調する。物語世界の住民達とは、紛れも無く作者の心中に束の間存在することが可能となった操り人形のような、観念上の仮構的存在物達に過ぎないのである。その限界性の烙印が時に応じてあるいは荒唐無稽な漫画的描述方法の裡に、あるいは玩具的非実体性として戯画化された彼等の姿に表出することとなっていたのであった。しかしながら唯一本物中の本物である筈のユニコーンさえもが結局はまぬがれることが無かったこの仮構的存在属性の烙印を、束の間作者の視点と同調したモリーの視点さえも超越して、ハガード王のみは負わされていないという訳なのだ。ハガード王だけが格別の例外的扱いを受けていることになる。ハガード王はユニコーン以上に“リアル”であり、従ってある意味においては、より“old”でさえあるかもしれない別格の存在なのだ。

 ドイツ・ロマン派のしばしば採用したドラマティック・アイロニーの手法と同様に、作品を鑑賞する観客/読者の世界の次元構成軸を、彼等の鑑賞の対象となっている舞台/作品世界の次元構成軸に強引に引き寄せるかのような、楽屋落ち的メタフィクションの構図を通して描かれているハガード王の存在属性とは、作品世界中に発現した語り手の姿の投影として機能する一登場人物であると共に、作品宇宙の総体としての時・空・精神、そしてまた存在・現象のそれぞれを形成する潜勢力の全てを秘めた原初的作動因の重ね合わせとして認識された、実在としての作者/世界そのものの鏡面的自画像というべきものに他ならないものであったのだ。(1)
 ハガードの体現していた「強欲」とはフック的ストイシズムの影の、正しくアンチ・ファンタシー的な表現形の一つに他ならなかったのである。本物の魔法使いを自認するシュメンドリックと、本物の魔法使いとなり得なかったものとして本物を操ることのできる魔法の技を振るうことを切に求め続ける魔女マミー・フォルチュナの両者が顕著に示す、真実なるものに対する憧憬の念“hanger”ともども、様々な人物造型の発現形の中で種々の階層的存在様態をとって表れる「本物」指向性は、作品世界全編に散乱した創世者/被造物としての作者/読者の統合的思念を、常時反転的に限り無くアンビバレントに照射し続けているものなのである。
 『最後のユニコーン』の謎めいた悪漢ハガード王とは、フック的ヒーローという人物像の延長軸上に座標を固定された、主客を転倒し影の系譜に属することを余儀なくされることとなった象徴的悪漢の一人なのであった。(2)『ピーターとウェンディ』において行ったと同様に、顕われ出た影との対比を通して登場人物の存在属性と作品世界そのものの奥行きを考量し直してみることによって初めて、作品世界の存立条件を決定付けるであろう宇宙定数の次元を推し量ることが可能となることに違いない。ハガード王の影として作品宇宙そのものの存在属性決定の相補的条件となるものと見なされるべきものが、あの謎めいた怪獣レッド・ブルであることは疑いの余地を容れない事実であろう。
 『最後のユニコーン』の中でストーリーを先導する表の主人公として重要な役割を果たすユニコーンや、物語の導入部において彼女の仇役として登場したハーピーなどは、種々の伝説を通してギリシア、ローマの遠い昔から既にお馴染みの神話的存在だが、世界からユニコーンが消滅する直接の原因となり、この作品の大団円を迎える場面でユニコーンと対峙することになる仇敵レッド・ブルも、世界の終末の際にその姿を現すことになると神の言葉によって予言されている、「申命記」(Deuteronomy)に記載されたあの牡牛を思わせるものだ。牡牛とは、終末の有り様を物語る救世主の言葉としてかの一節に記されているように、月満ちた時彼方より来りてこの地を支配する、並外れた能力を備えた地上の王たる力を持つものを呼ぶ言葉ではあった。けれどもユニコーンが実際には冒頭から既存の伝説から離れた独特の記号性を担わされていたのと同様に、その究極の対立物であるらしいレッド・ブルもまたやはり、本作品における物語創出の軸を形成する、純粋に独創的な象徴性を身に帯びていなければならない筈だ。しかしこの古くもあり新機軸の要素も存分に備えてある筈の怪物は、容易にその極性をも示すことの無い、はなはだ特性の不明瞭な被造物でもある。アンチ・ファンタシーとしての本作品の存立機構が正当に理解され得ない限り、レッド・ブルの担う存在意義も極めて謎めいた曖昧性の中に封じ込められたままになってしまうことだろう。
 レッド・ブルに関する情報を最初にユニコーンに与える予言者的存在となった蝶は、ユニコーンをこの世から駆逐してしまった直接の原因となるものとして、伝説的なレッド・ブルの名をあげて次のように語っていたのだった。

p. 13

しかしこの蝶は、はなはだ当てにならない口からでまかせの虚言癖の持ち主でもありそうで、調子に乗っていかにも怪しそうなレッド・ブルに関する予言までおまけに呟いてしまったりもしている。

p. 13

ここにある託宣は、一見したところあの申命記における予言の言葉を忠実に繰り返したものではあるものの、実は語られる予言の内容は微妙に換骨奪胎されている。あらゆる人々を否応なく審判の場へと追い立てる筈の牡牛の代わりに、蝶の語る牡牛は宇宙の構成軸の一つである筈のユニコーンを地上から駆り立て、世界から駆逐してしまうのだ。レッド・ブルに関する最初の情報提供者であり、またユニコーンの探究の旅への出立の判断を促す直接の要因として機能するこの蝶は、嘘と真実の境界をあてども無く飛び回る、はなはだ頼りない助力者ではある。半分だけの真実をしか語らない彼の言葉は正しく狂気そのものであり、また出鱈目性の具現化とも言うべきものである。世俗的判断基準に照らし合わせれば、彼の提供する情報に信を置く余地は全くない。しかしながらファンタシーの本質と、アンチ・ファンタシーの示唆する思想的特異性を改めて考慮し直した時、本作品世界においては正しく蝶の体現するその情報の不明瞭さと、彼の語る言葉の二律背反した曖昧性こそが、レッド・ブルとハガード王との間の不可思議な関係性並びに、この作品宇宙の根底にある宇宙存立機構の秘密を雄弁に物語るものであるとも考えられるのである。
 無限遠の真実に焦点を固定した際に附随して生起する遠近法の歪みと、座標軸の振幅を常に意識し続けることによって思考と言表を織り成すアイロニーの思想がここでもやはり不断に機能し続けている事実を掬い取るならば、全ての気紛れと出鱈目が首尾一貫して精妙にあらゆる細部に啓示を潜ませていることが改めて感得される。蝶の語る言葉はその浮遊的無意味性と律動的二律背反性という確証の無さにおいてこそ紛れも無く、究極の真実を指し示すものでなくてはならない。
 『最後のユニコーン』において最も曖昧で謎に満ちた存在であるレッド・ブルは、ビーグルという現代の天才的神話創成者の手になる新機軸の神話的造型の見事な成果であると共に、やはり実は申命記に語られていたものとは別の意味で、最も根源的かつ原初的な存在物の発現可能態に対するこの上無く素朴な記述手法のもたらした結果でもあったのだ。永遠の対立物であると共に延長線上の外周として常に堅固な同一性を保持し続ける本体と影の示す、ありとあらゆる変化形と主客転倒の順列組み合わせの可能性の総てを、ハガード王とレッド・ブルの一見したところとりとめない錯綜した関係性が如実に指し示しているからだ。例えばハガード王の衛兵達がシュメンドリック一行に与えるレッド・ブルに関するはなはだ頼りない情報は、その矛盾撞着と意味の不確定性においてこそまさに、自我の分裂もしくは無からの生成過程の発端となる真空分極の暗示する、相補的存在属性のマトリクスの展開領域の全幅を雄弁に語っているものなのである。

p. 163

そしてまた仲間達の世界からの消滅の原因という謎を解くべく出立するユニコーンに対して伝えられる、情報の当て処の無い不確かさという点においては、ユニコーンの探究の旅に同行し、彼女の運命に深く関わることになる、聞き覚えの知識ばかり豊富ではなはだ魔法の腕は頼りにならない魔法使いのシュメンドリックが与えてくれた情報もまた同様に、互いに他を否定し続け、全体像を結ぶことなく拡散し続ける切片的情報の束であるという一点においては疑いようも無く正確に、ハガード王とレッド・ブルとの間の関係を物語っていた訳なのであった。

p. 50

「レッド・ブルはと言えば、耳にしたことよりも分かっていることの方がより少ないのです。何故ならばあまりにも様々の逸話が伝えられ、その各々が矛盾するものであるからです。牡牛は実在する、牡牛は幽霊だ、牡牛の正体はハガード王自身で、日が落ちた時の彼の正体だ、という具合です。牡牛はハガード王の来る以前からこの国にいた、という説もあれば、ハガード王と共にこの国に来た、という説もあるし、ハガード王のもとに後に牡牛がやってきた、という説もある。牡牛は略奪や反逆からハガード王を守っていて、兵隊達を武装する経費を省いてくれている、という者もあれば、城の本当の主人は牡牛で、ハガード王は捕われの身に過ぎない、という者もいる。牡牛の正体は悪魔で、ハガ−ド王はそいつに魂を売ったのだ、という意見もあるし、この牡牛を手に入れる代償としてハガード王は魂を売ったのだ、という意見もある。牡牛を支配しているのがハガード王だ、とも言われれば、牡牛の方がハガード王を支配している、とも言われている。

誰もユニコーンを視認する透徹した目を持たなくなってしまった荒廃したこの世界の中で、唯一ユニコーンを選んで狩り立てることができるというレッド・ブルは、ユニコーンの体現する崇高さに対する渇望を全く抱いたことの無い、完璧な程に盲目的でありうるこの世で唯一の存在でもあった。レッド・ブルという、飽くまでも正体の不明瞭なままで有り続けるかのような謎めいた神話的存在と象徴的悪漢ハガード王との間の輻湊した曖昧至極で不可解な関係性とは、正しく本体とその影との不即不離の微妙な合体/離反状況を、揺らぎと共に同調する重ね合わせ(3)としての存在原理そのものとして、網羅的に不確定性のまま取り込む、典型的に20世紀的な事象の記述様態を示すものでもやはりあったのである。
 上に確認したハガード王とレッド・ブルとの間の関係性をユニコーンとハーピーの関係と照らし合わせてみれば、その図式の位相の異なりがより明らかになるだろう。ユニコーンとハーピーは、截然と分別された崇高なる善(聖性)と崇高なる悪(邪性)としての二つの極の存在を体現するものであったのだ。これらは紛れも無く宇宙本来の整然とした真空分極の結果生成した聖と邪の織り成す連星であり、その関係性とは対極的原理の持続的転回によるウロボロス的循環という、無限の安定と永続性を結局は暗示しているものであった。神話創成作業においては、円環的かつ循環的かつ回帰的な時間性提示の試行は、無限を包摂する交替原理の設立をこそ希求するものに他ならなかったからだ。
 あるいはまた、本体からの影の分離という整然とした真空分極さえも確実に起こる保障が失われ、信仰喪失の結果招かれた世界の総ての断片化とカオス化の進行により、主と客、自と他との区別さえもが不明瞭になってしまった極性不在の末世的状況が、ハガード王とレッド・ブルの関係に暗示されていると語り直してみても、決して圧縮情報展開作業上の膠着現象と判断される結果となりはしないだろう。『ピーターとウェンディ』においては語り手の話術の問題としてカモフラージュされていた物語世界に生起した出来事の実態確認に関する曖昧性は、『最後のユニコーン』においてはさらに積極的に、存在物の様相記述に対する極限的に自省的な手法を浮き彫りにするための、確固たる方策の一つとして強調されているのである。
 19世紀においては自我の暗黒面たる影、あるいは分身という妖怪が跳梁跋扈し、自省的知識人達は一様に虚無という怪物に対峙することを余儀なくされたが、理想とあるがままの自分自身との乖離を意識するだけの峻厳とした自己認識と世界存立の意味性追求に対する自覚をさえ失った20世紀のアメリカにおいては、自身の影というかつて隆盛を誇った妖怪はあっさりと姿を消し、「無知」という新しい妖怪が世界を飲み込みつつあったのである。フック的自省とストイスティックな官能主義の後継者たる絶滅一歩手前の教養人は、20世紀後期に至って終に、かつて19世紀人の“近代的自我”を脅かした影の背後に、「無知」と「盲目性」という新たな神格の様相を暴きたてる結果に至ったのであった。
 あるいはまた、この物語の記述システムに倣って、指摘されるべき真実の位相のずれを意識しながら重ね合わせるべき同位体的属性記述の展開例を新たに求めるならば、上に挙げた模式図に対して以下のような変異形を提示することもまた可能であろう。すなわち、20世紀初頭の俗物主義の王国イギリス(4)において新機軸の作品世界を構築しつつあった小説家バリは、前世紀にファンタシー文学において支配的であった汎宗教確立の願望と、人間原理による自然に対する意味性賦与という切実な形而上学的指向を嘲笑するかのように、あるがままの自然と無意識の本能性の具現化した姿を“パン”という古代神の名のもとに改めて神格化してみせたのであったが、20世紀後半においてようやく文化の爛熟らしきものを体験するに至った蒙昧の愚民の帝国アメリカ(5)では、ビーグルというかつて長らくファンタシーの根付くことのなかったこの新大陸に生まれた卓越したファンタシー作家が、より分極先鋭化した近代的知性の影として無知そのものを、新たなる神話的創造物としてファンタシー空間の中に顕現させてしまったのであった。


(1)

 森羅万象の背後で原理的に機能している作動因の各々も、偶発的に生起した派生的な現象の個々も、共に互いが互いの変数として存在し、これら全てを包括する全体がそれぞれの部分の変数でもまたある、という鏡面的反転原理がファンタシーの背後にある全一的世界観の前提とするところであった。だからこそ思考と言葉が実体としてあり、人と音声が仮象に過ぎないという裏の世界の存在意義が主張されもし、形相と質量の重ね合わせであるこの世界がヌーメノン(noumenon)とフェノメノン(phenomenon)の関係を相互に転倒させた描像でもって語られることをも許し、その結果ミーム(模倣子)もジーン(遺伝子)も共に原実体(entity)の示す共軛的な位相のそれぞれであるのであれば、ミームという実体(本体)とジーンという観念(仮象)という再定義に基づく記述システムの再構築もまた主張可能となるであろうし、このように主体と客体さえもが常に反転的な位相交換を実現しつつあることを不断に意識し続けるのが、ロマン主義的思考と言説の常道にほかならないものであった。
 作品世界を物語る語り手の存在の顕示という手法と、物語られつつある作品世界として物語を語るメタフィクションの構図は、紛れもなく上に挙げたような思想的方位磁針の存在を浮かび上がらせるための首尾一貫した戦略機構の一段階として理解されなければならないものなのである。

(2)

 ハガード王のアイロニカルな美学的性向とは、思想的には有能と無能、苦痛と快楽等の正反対の概念が極大と極小を接点として結びついており、これら様々の本体と影との間の関係性が、ル・グィンが『影との戦い』において描いてみせたような、精妙な“バランスとパターン”を整然と維持して宇宙の全てがモザイクのように綾をなして緊密に連関しているという、世界の壮大なシステム理論的根本原理に対する実は敬虔な信奉の念を示すものであったと解することができよう。
 “魔法”と“予言”という知のシステムを用いて行うべき世界の存立機構に対する記述様式の再構築の試行という文脈に従えば、魔法の原理機構を背後で支配する影の論理として、究極の真理の示す対偶的存在属性が常に鏡面的構造性を維持していることを厳密な法則性として仮定するこの見解は、魔法使いナイコスが弟子シュメンドリックの無能さに対して与えた反転的評価から得られた予言の根拠を成す確信と、正しく軌を一つにするものなのであった。

(3)

 霊性と肉体性、astral体とcorporeal体、現実世界とFaerieの世界の重ね合わせ等、様々な発現形があるにせよ、次元を異にした複数の界面の平行存在を前提とする宇宙の存在原理は、仏教における六道の思想にも顕著なものであったが、例えばAlice Booksの作者であるルイス・キャロルの極めてロマン的なもう一つの側面を示すファンタシー作品『シルヴィーとブルーノ』に描かれていた“妖精界と人間界の二つの次元の重ねあわせ”という発想は、ファンタシー文学を生み出す思想的土壌となった19世紀的なロマン主義思想の根幹にある形而上学的傾向を如実に示すものであると共に、数学者らしい著者キャロルの思考の思弁的特性を反映して、いかにも20世紀的な不確定性の時代の存在論の先駆的なあらわれでもやはりあったといえるのである。

(4)

 19世紀中葉、キリスト教的崇高とギリシア的ロゴスの呪縛からの脱却を図りつつあったヨーロッパ人達は、その過程で「内省」という病理を抱え込み、『ファンタステス』のアノドスの場合のように、霊的向上という高邁な理想を宿すことのない無目的的な存在性というあるがままの自然が体現する現実世界の“影”の実体を直視することを強いられることになったが、実はこの典型的に思弁的なファンタシー作品において彼の発見した影が担わされていた、科学的真実の幻想を排した受容が暗示する、宇宙全体の意味消失がもたらす絶望と極限の自由の獲得がもたらす解放という両義性は、分節化され尽くした宇宙(コスモス)を解体し、一旦未分化の初期状態(カオス)に還元することにより、世界の不条理の総てを個人の思念の中の問題として位相変換する大胆な殲滅工作を夢想する、一面では全一主義的な心理療法でもあり、また一面においては極めて過激な全体主義的破壊願望でもあるファンタシーの内包する反射的内省機構を、『ピーターとウェンディ』以前に既に見事に反映しているものなのであった。

(5)

 「漫画性」という前章から導入してきた概念を “偽装された荒唐無稽”、あるいは“明らかな論理矛盾を内包した非実体性の意図的な構築”という修辞的手法に摘要してみるならば、かつてアメリカにおいてポーという希有のファンタシー作家/批評家が体現していた極めて微妙な“ペテン性”との類似性が即座に思い浮かぶことだろう。しかしながら実際のアメリカにおけるポーの批評的、創作的主張に対する理解と評価が、このあまりにも韜晦癖に満ちた精緻な知性の持ち主である思想家に対するものとしては甚だ頼りないものでしかなかったことは周知の事実である。しかしながら、アメリカという文化的辺境国における、頑迷なる教条主義の支配下での無知の蔓延と根深い偽善性に対する憂慮こそがむしろ、この狷介固陋な人物の一般に対する理解を著しく損ねることになった、過度なペテン的諧謔性を生み出した原動力であったこともまた、想像するに難くはない事実ではあるだろう。ともあれ、『最後のユニコーン』の誕生とその大衆による好意的な受容が、20世紀後期に至って漸くアメリカでも、ポーとロマンティック・アイロニーをさほどの誤解もなく受け入れるだけの文化的成熟が進んできた、という事実を証しているとは語ってもよいのであろう。少なくとも20世紀初頭以来世界を席巻し続けてきたアメリカの無知性は、一つの偉大な芸術作品に新しい神話的存在の具体的なイメージを提供することに大いに寄与したのであった。


テキスト

 The Last Unicorn の版には様々なものがある。筆者が現在保有するものだけでも年代順に挙げてみれば、

The Last Unicorn. New York: Ballantine Books, 1974.

The Last Unicorn. in The Works of Peter Beagle. New York: Viking Press, 1978.

The Last Unicorn. New York: Del Rey book, 1988.

The Last Unicorn. New York: Roc Book, 1991.

 など、テキストとして用い得るものとして4種類の版が存在する。しかしながらそれぞれの版において誤植あるいは編集ミスによる異同もいくつか存在することが判明している。また市場にあるものを網羅すればもっと多くの版が見つかることであろうとも思われる。そのため便宜上本稿においては1974年版のBallantine Books版をテキストとして定め、引用箇所はこの版のページでもって示し、本文の異同の可能性のある箇所は、他の版との照合の結果適正と思われる修正を併記するものとする。
 The Last Unicornの決定稿としてみなし得るテキストとして、筆者による注釈付きのテキストAnnotated Last Unicorn(仮題)を、2004年度中に近代文芸社より出版の予定である。同書はアンチ・ファンタシー研究総合プロジェクトにおける論文パートを形成する本論文に対して、相補的機能を果たすべき注釈テキストパートを形成するものである。又、同書に添付されるCD-ROMには、本プロジェクトにおける活字メディアパートとして機能する本書並びにAnnotated Last Unicornに対してさらにまた相補的機能を果たすことを企図して作成された、それぞれに対応する電算化テキスト(ワード文書及びHTML文書)が収録される予定となっている。
 上記の研究資料は、コンピュータ室における講座テキストとしての使用及び電算化データとしての内容項目に対する参照、検索の便益に適合させるため、ワード・プロセッシング・ソフト、“マイクロソフト・ワード”の“コメント作成機能”、“アウトライン表示機能”等の活用、あるいはHTML文書としての“ハイパーリンク機能”等を活用したデータ加工がなされているものであるのみならず、論文パートと注釈テキストパート並びに活字メディアと電算化データという相補的な関係性の許に提示されることにより、論考の主軸として主張される影と本体の相反的連関性という内容を外形的にもまた反復して、主題の複層的展開と反映を図るものである。

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