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アンチ・ファンタシーのポストモダニズム的戦略ビーグルの『最後のユニコーン』と“漫画性”


 アテベリーが『最後のユニコーン』においてどうしても許容することの出来なかった、作品世界提示の際における作者自身の手による仮構世界内リアリティ構築作業転覆の企ての顕示、という言わば楽屋落ち的悪ふざけは、実はアテベリーが言語道断な実例として挙げていた2箇所だけに留まらず、『最後のユニコーン』の至る所に様々の様態をとって現れているものである。本書の目的はこのような仮構性暴露的フィクション世界提示の手法に対し、ファンタシー文学特有の思想的特質と現実認識の在り方に関する再検証の作業を通して、弁護の可能性を模索することであった。そのために先ず『ピーターとウェンディ』においては、メタフィクションとディコンストラクションの相関関係の機構が、ファンタシーという概念と現象そのものを対象にして的確に機能しており、アンチ・ファンタシーという裏返しのファンタシーの存立可能条件の主張として展開されていることを確認してきた訳であるが、ここで改めて本書の冒頭において「アンチ・ファンタシー」といささか性急に名付けておいたレトリックの全貌を、『最後のユニコーン』のポストモダニズム的創作戦略に対する再検証の試みとして探ってみることにしよう。
 作戦展開の手始めとして照準を定めるべきアンチ・ファンタシーの戦術の摘要例は、アテベリーが既に『最後のユニコーン』のジェイムズ・サーバーの『白い鹿』との類似点として挙げている、物語の冒頭の箇所においても指摘することができる。アテベリーが「作品に描かれた主題を嘲笑すると同時に親しみ深いものにする」として紹介した、「拍子抜けするような事柄の羅列」、つまり "anticlimactic catalogue"という呼称を与えて指摘していた部分である。

She [unicorn] had killed dragons with it [horn], and healed a king

whose poisoned wound would not close, and knocked down ripe

chestnut for bear cubs.

p. 17


ユニコーンはこの角で龍を倒したこともあったし、毒を受けた傷がど

うしても癒えない王様を救ってやったこともあったし、実った栗の実

を熊の子供達のために払い落としてやったこともあった。

"anticlimax"、つまり「急遁法」とは、意味性を漸増的に累加して展開されることが予期されている筈の記述が、読者あるいは観客の期待に反してその絶頂に当たる部分で突然失速し、記述の初期の目的が頓挫してしまうかのような事態が招かれてしまうことにより、羅列あるいは反復が本来の意図と反した皮肉な意味で用いられる結果となる、という伝統的な修辞法の一つである。
 ここでは神話的な存在のユニコーンの所業を語るものとして、類型的な伝説の記述に従い、同様に神話的存在である龍をその角を用いて倒したことが先ず述べられる。それを受けてさらに、また規範的な程にユニコーンに関する伝説的なエピソードとなっている事実を反復して、毒を受けて傷の癒えない王様の命をその角の力を発揮して救ってやったことが挙げられている。そしてこれら二つのユニコーンの属性に関する、言わば典型的な記述の総決算として当然予想されるべき事柄の三番目として羅列されている事実は、ユニコーンの本性の象徴たるその角を用いて、「栗の実を熊の子供達のために払い落としてやった」というごく日常的で瑣末な事柄に過ぎない。この落差感覚が、"anticlimax"を導く羅列的記述の典型的な用例としてアテベリーによって紹介されていたのであった。アテベリーの語る通り、この記述展開は確かに物語の主人公であるユニコーンという主題を「嘲笑すると同時に親しみ深い」ものにしている。このレトリックはアイロニーとユーモアが程よく融合したサーバー流のおとぎ話の基調を指摘する場合の好例ではあるだろう。しかしながらファンタシー作品『最後のユニコーン』においてここに現出したような"anticlimax"の用例は、実は本作品の企図するより複雑で奥深い意義性と、もっと内奥の部分で堅密に関わっているものなのだ。『ピーターとウェンディ』の場合と同様に、『最後のユニコーン』もまた、迂闊な目でファンタシーを読み取ろうとする者達に痛烈なしっぺ返しを与える、精巧な奇術的戦略機構を物語全編の背後に巧みに潜ませてある作品なのであった。

 物語の出だしの部分に改めて着目してみよう。

The unicorn lived in a lilac wood, and she [傍線筆者]lived all alone.

ユニコーンはライラックの森の中で、彼女一人きりで暮らしていました。

 この物語の主人公であるユニコーンの性は女性として設定されているのである。伝説上のユニコーンが、その角が男根を象徴するものであることから、常に男性のイメージを担っており、処女の守神とされていたのとは対照的である。我々の現実世界の伝説においては、王権の守護者として男性原理を集約したかのような存在であるユニコーンが、この物語世界においては森と大地を守る女性原理を主張する文脈の中に描かれていくことになるのである。この座標変換による方位修正の結果、王国を危機に陥れる簒奪者としての龍を駆逐し、神授の絶対的統率権の具現化である王の傷を癒して権力の庇護者となる行為と、森の熊の子供のために栗の木の実を払い落としてやる牧歌的振舞いが、ここでは全く等価のものとして処理されていることになる。従来の神話・伝説において受け継がれてきたユニコーンの父権的属性が、これからはことごとく鏡面的な転換を施された価値原理の許に再編成されていくという巧妙な戦略的見通し図が、"anticlimax"というレトリック操作の裡に暗示されていた訳なのであった。
 そしてまた、一般の類型的なファンタシーの道具立てを敢えて転覆するかのような、伝統的価値観の逆転を意識したこのような視点は、実は主題的側面においては、ファンタシー文学そのものの思想的特質を如実に反映しているものでもあることは言うまでもない。常套的なファンタシーはファンタシー自身の持つ潜勢的な破壊的気質により転覆されざるを得ないことは本書の冒頭において既に指摘した通りである。ここで行われていたさりげない代名詞"she"の挿入は、実は「価値観の転倒」という発想を軸にして常に反転的世界描像の現出の可能性を暗示する、ファンタシーの内包する"anti"指向性に対する先鋭な自意識を顕示するための、照明弾投入作戦行為として理解されるべきものなのであった。アテベリーがしばしばファンタシー作家やSF作家達の創作戦略における破綻の例としてあげていた、無責任に創作世界を投げ出す戦線離脱的作戦行動とも紛らわしい、いかにも皮相で諧謔的な価値観の破壊行動は、むしろこの作品における自己反射的なアイロニーの発現をうながす基調音となっているのであり、我々がファンタシーの本質に対する理解のためのキーワードとして設定した、"antifantasy"という概念の微妙な意義性を雄弁に物語っているものなのである。
 ビーグルは巧妙かつ周到に全方位に渡って、『最後のユニコーン』におけるアンチ・ファンタシー戦線の戦略的展開を図っていたのであった。アテベリーがこの作者の擬装に目を奪われ、作戦展開の全体像を見誤ったとしても不思議ではないのだ。ビーグルの伏兵に満ちた布陣を暴くために、先ずアテベリーがあきれてこれ以上指摘することを避けてしまったと思われる、『最後のユニコーン』の一見したところ浅薄な悪ふざけと思われてしまいかねない箇所の一つ一つを、改めて検証し直してみる必要があるだろう。
 格調高い崇高な物語世界を語る筈のファンタシーの記述が、卑近な現実的な事物を描いてしまうという好例は、旅に出たユニコーンが捕らわれてしまうことになるサーカスの一行の檻の描写にも見ることができる。

Their [wagons'] draperies were gone, and they were now adorned with sad black banners cut from blankets, [傍線筆者]and stubby black ribbons that twitched in the breeze.

p. 17, P. 49

檻を覆っていた垂れ布は取り払われ、檻は毛布を切り取って作った色褪せた旗で飾られており、黒いリボンの切れ端が引きつるように風にゆられていました。

 作者の記述態度は作品世界の奥行きを増し、重厚な物語を構築しようとするどころか、張り子と書き割りでしかない小道具を観客の眼前に突きつけるようにして、ことさらに薄っぺらな舞台背景を暴いてしまい、あたかも矮小な現実世界の出来損ないの模倣でしかないもののように、冷笑的に作品世界の描写を進めるのだ。トルキン的な荘重さと生真面目な叙述態度に慣れ親しんだ、驚異と崇高をこそ描くべき異世界構築作業をファンタシーに期待した読者は、アテベリーの場合のように腹立たしい焦燥をさえ覚えてしまうことであろう。いかなる時代性をも超越した筈の魔術的古代世界に闖入した卑近なグレープフルーツの皮が我慢ならなかったアテベリーは、きっと同じく現代世界の台所的日常性を喚起するオートミールにも拒否反応を起こしたことに違いない。

p. 22

シュメンドリックは色を失って、その顔はまるでオートミールみたいな色になりました。

これらはファンタシー文学擁護のために立ち上がった戦士達にとっては、犯すべからざるアナクロニズム摘要の反騎士道的反則行為と映ったことであろう。卑近な現実感覚を作中に引きづり込む覚醒物質の投入行為は、驚異に殉じた騎士道的ファンタシー擁護戦役参加者においては、仮構世界描述作戦行動のタブーとも見做されなければならないものなのであった。

 アテベリーの気に障った『最後のユニコーン』において目に付く戦線離脱的傾向のもう一つの側面は、一言で述べてしまえば「漫画的叙述」とでも呼べば適切なものであろう。ここではファンタシーのポストモダニズム的再評価という観点から、論理学的・認識論的問題性を意識して、「現実には起こりえない筈であるとされている事柄を題材として描く」という定義の許に存立するファンタシー世界においてさえもさらに、「有りえる筈がない」という決定的な違和感を作品世界受容者に与える題材が導入される叙述方法として、「漫画的叙述」という用語に対する定義を与えておくことにしよう。(1)身も蓋もない言い方をしてしまえば、『最後のユニコーン』は文学作品としては甚だしく漫画的な部分を備えている小説なのである。トルキーンその他のファンタシーを容認することができたアテベリーにどうしても認めることができなかったのは、文学作品の中に闖入したこの漫画的部分であったことに違いない。アテベリーが既に指摘した箇所ではあるが、改めて作品の進行に忠実に従って、問題の箇所をここにもう一度引用してみることにしよう。

The witch's stagnant eyes blazed up so savagely bright that a ragged company of luna moths, off to a night’s revel, fluttered straight into them and sizzled into snowy ashes.

p. 27

魔女のよどんだ目はあまりにも凄まじい輝きを放って燃え上がったので、夜の酒盛りに出掛けるところであったオオミズアオの一行は、その目の中にまっしぐらに飛び込んで、しゅっと音を立てて雪のような灰になってしまいました。

 トルキンの流れを汲む魔法と妖精と怪物達の世界にあっても、なおかつ一線を画すと思われる異世界構成要素が、この燃え上がる目とそこに飛び込んで焼き尽くされ、灰になってしまった蛾の群れなのであった。これはトルキンの格調高いハイ・ファンタシーの世界においてなら、決して用いられることがあってはならない禁断の呪法なのであった。しかしこれと同様の「漫画的」描述行為はこの直後にも行われている。

A few grains of sand rustled down Mommy Fortuna's cheek as she stared at the unicorn. All witches weep like that.

p. 27

砂粒がいくつかユニコーンを見つめるマミー・フォルチュナの頬を転がり落ちました。魔女が泣く時には砂の涙を流すのです。

 マンラブはトルキンの『指輪の王』を論難するにあたって、作品世界受容を困難にする、読者の心中に具体的イメージを形成することを妨げる記述として、トルキンの創造した木の妖精、あるいは木のような姿をした精霊の一種族"Ent" (Fangorn)の導入を挙げたものだが、トルキンを全面的に受け入れることができたアテベリーにとってどうしても受け入れ難い部分が、このような漫画的におどけた描述行為であった。フィクション世界にのみ存在を許される様々の可能的存在物の中で、“読者の側の自発的な不信の停止”という後方支援を受けてさえも、「最も現存性の希薄であると見做される要素」という言葉で「漫画的」と先程名付けた仮構的存在を呼び換えてみれば、意味の不確定性の時代以降にフィクション世界構成要素の被った仮構世界内存立条件の変化が、いくらかは明確な輪郭を持って見えてくることだろう。つまり語られつつある作品世界の仮構性を常に意識しながら、メイク・ビリーブされつつある対象とメイク・ビリーブしつつある自分自身を常に意識し、受容し構築されつつある自らのイマジネーション世界の非実在性を嘲笑する冷徹な視点を保持し続けていく、という反射的機構が極まった突出部分が、「漫画的」と呼ばれる描述行為の正体であると言ってもよい。あるいはまた「有りえぬ筈のことを語りつつある」という自らの行為を反射的に畳み込んだ自己言及的描術行為として、フィクション性を自覚したフィクションの様態の突出した部分が「漫画的」という印象を仮構世界受容者に与える、と語ることによって場の座標変換を試みることもできるだろう。これらは権威と崇高さから芸術が開放されたモダニズムの時代を経て、俗悪さと稚拙さもまた積極的な芸術作品成立に寄与すべき相互作用的構成要素として認められるに至った、ポストモダニズム文化における特徴的な傾向なのである。ティンカー・ベルとアンディ・ワーホールを許容した20世紀文化の中で、不可解なことに未だその評価が適切に定められるに至っていないのが、この仮構世界記述行為における「漫画的」部分とその受容に関わる心理学なのだ。そして字義的にはファンタシーの本質要素としてどのファンタシー研究書においても当然のごとく受け入れられていながら、必ずしも十分な理解が得られているとは思われない"the fantastic"という用語の含蓄を正しく照射することが出来るかもしれないのは、この「漫画的」という概念ではないかとも考えられるのである。(2)卑近な現実感覚の闖入も調子外れのアナクロニズムも、この「漫画的」要素の漸増的階層構造における相転移の諸相としてみなすことができよう。そういう訳でこれからは、この「漫画的」要素の力学に注目しながら、『最後のユニコーン』のアンチ・ファンタシー的機構発現の実例に関する検証をさらに進めていくこととしよう。
 魔法使いはいかさまの奇術しか満足に行うことができないものだから、敵を脅かすのに口先ばかり巧みで、恐ろしい魔法の術の代わりに神秘的な柔道の技の行使をほのめかしたりもする。