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おしゃべりな語り手と擬装

―アンチ・ファンタシーにおけるディコンストラクション


 『ピーターとウェンディ』では語り手が頻繁に読者の前に姿を現す。例えば物語の舞台がネヴァランドへと移ったあたりでは、語り手は読者に呼びかけてこのように言う。「ごらんなさい。インディアン達はほんのわずかの音も立てずに地面に落ちた小枝の上を歩いていきますでしょう。」(p. 82) また語り手は勿体をつけて次のように読者に語りかけたりもする。「この鰐が誰を探しているのかは、まもなく分かりますよ。」(p. 83) さらに打ち解けた様子を装って読者にこんな風に声をかけたりもする。「ロスト・ボーイズ達がどこにいるか、お話ししてあげましょうね。」(p. 85)このようなおしゃべりな語り手が読者の前に顔を出す例はいちいち数えあげればきりがない。しかし作中における作者の読者に対する語りかけという手法自体は実は格段目新しいものではない。考えてみれば最も素朴な物語の形とは、語り手が自らの体験を隣人に対する伝達として語ったものであったことだろう。お伽話の語り口のように、作者は言わば登場人物の一人として物語の進行に加わっている訳だ。さらにまた民間伝承のお伽話が物語られる際は、聞き手の多くがあらかじめその物語の内容を知っていることが多かった。語り手はすでに神話・伝説として聞き手に受容されている既成の事実について語りの作業を進めているという自覚を持っていた筈だ。語られつつある主題とその語りの様式は語り手、聞き手双方の暗黙の了承事項なのであった。このような情報の共有意識の機構は『ピーターとウェンディ』が物語られる際にも随所に指摘することが出来る。読者の多くは小説『ピーターとウェンディ』の出版の7年前に上演されて好評を博した劇『ピーター・パン』のストーリーを熟知していた。作者バリも当時のこの小説の読者も、『ピーター・パン』の度重なる上演を経験してきたせいなのか、『ピーターとウェンディ』で物語られる出来事は、作者と読者の互いの間ですでに了承済の事柄として扱われることが多い。民衆に受け継がれたメルヘンと一種相似た、再話(retelling)という状況設定の中で読みの行為が行われていくという構図がおのずから出来上がっている訳だ。けれどもただの良くある再話の機構を越えた、作者が登場人物の一人の実況報告者としての権限を越えて、さらに積極的に物語の進行に関与する仕掛けが『ピーターとウェンディ』の中に窺われるのももう一つの事実なのだ。たとえば、始めてフックの姿を読者に紹介する際に、「いつものフックのやり方を見てみるために、海賊を一人殺すことにしましょう……」と作者が語り始めるのが代表的な例だ。作者は虚構世界を語る作業を行う際の作品世界の提示方法に関して明らかに自意識的である。当然のことながら語り手には物語世界の展開を思いのままに操作する権能が与えられているのである。さらに語り手は作品世界内で進行する時間の流れの外側に身を置いた、テキスト的拘束から自由な唯一の作中人物でもある。ダーリング家の子供達が家を立ち去る日は次のように語られている。

p. 19

 その時はあの決して忘れることのできない金曜日にやってきました。もちろんそれは金曜日でした。「金曜日にはことさら気をつけていなければならなかったのに」ダーリング夫人は後になってよくダーリング氏に語ったものでした。

 物語に描かれた内容の過去も未来も同じ一つの容認済みの伝説として均等化された時間意識がここに窺われる。このような作中の「語り」という行為がもたらす、読者の心象における物語世界の再構築作業に作用する時間性渾淆の効果はモダニズムの作風の典型的な一例であった。それは後にロスト・ジェネレーション作家の一人としてモダニズムの潮流を先導した小説家フォークナーがしばしば試みた手法でもあった。フォークナーの場合は個々の作品の背後に通底したヨクナパトーファ・サーガ(Yoknapatawpha saga)という疑似伝説的歴史の存在を浮き彫りにすることによって神話創成の作業が行われていた訳であった。それに対してバリの場合は、以前に自らの手で上演されていた劇『ピーター・パン』において語られていた情報を、小説『ピーターとウェンディ』にとっての伝説的事実として利用し、この伝説を再話する機構の許に新しい文学作品提示の場を開拓したことになる。逆に言えば小説『ピーターとウェンディ』によって劇『ピーター・パン』の内容は神話化されたとも言える。フォークナーはいかにも仰々しく実験的新技法としてこのような語りの手法を創作行為の前面に押し出したのだが、バリの場合は控えめにさり気なく事を運んでいる分だけ仕掛けがもっと巧妙でもある。

 もういくつかこのような例をあげてみることにしよう。ウェンディがピーターから「キス」の代わりにどんぐりの実を貰った場面がある。

p. 41

 語り手と読者は明らかに物語の筋の進行と結末を予見しながら語りと読みの共同作業を進めている。ここに提示されているのは後になって読者の納得をうながすことを企図して埋設された伏線などではない。結果は既に了承済みの事なのだ。次の例もそうだ。ネヴァランドへ向かう途中でティンカー・ベルの光を海賊達に見つけられ、大砲で狙われた子供達はティンカー・ベルをジョンの帽子の中に隠す。ところがジョンの要望でウェンディがこの帽子を運ぶこととなる。

p. 72

 フォークナーの築いた伝説世界が、作中の登場人物達の繰り広げる内的独白や、彼らが折々の場面での体験を通して発見する諸事実に加えて、その他様々の語り手によって恣意的にかつ断続的に与えられる情報を重層的に反復しつつ、時間軸を自由に操り、作品世界の中で覆い隠されていた事実が読者の前に暴きたてられていくというミステリー的な機構の上に築かれたものであったのに対して、『ピーターとウェンディ』の世界はより物語自体の内在的な自意識性が高いものであると言える。フォークナーの試みが結果的に物語の仮構性を隠蔽しようとする効果を持つ点で、トルキンの『指輪の王』において成し遂げられた疑似リアリティ構築作業に類似しているとするならば、『ピーターとウェンディ』の世界は仮構性そのものを操作する遊戯性が強調されている点で、メタフィクション的な要素がより色濃いものである。語られつつある虚構として物語世界の非在性を自覚し、読者の想像力の参入を条件にして可能態としての疑似リアリティを構築していく機構は、『ピーターとウェンディ』の随所に見られるものなのである。本章ではテクストの進行に忠実に従ってこの実例を検証していくことにしよう。

 子供達に異変が起こりつつあることを知ったダーリング夫妻は急いで家に帰ろうとする。その時のことを語り手はこう述べている。

pp. 56-7

 我々はお話を読んでいるのだ。語り手は読者にお話の世界のリアリティを現実のものと混同することを求めているのではない。語り手がつつましくも、また確信をもって保証するのは、読者の「自発的な不信の一時停止」(willing suspension of disbelief)(1)が得られれば面白いお話が展開されるということだけだ。ネヴァランドにおける子供達の様々な冒険を紹介するにあたって、語り手はいくつかのエピソードを用意している。けれどもその全てを語るには英語・ラテン語辞書かラテン語・英語辞書くらいの分厚い本でなければ無理だと語り手は言う。(p. 119)物語られるべきエピソードの候補をいくつかあげてみた後、語り手はこう続ける。

... but we have not decided yet that this is the adventure we are to narrate....

p. 120

 さらに語り手はまだ決心をつけかねるように、海賊達が子供達を罠にかけようとしてケーキを焼いた話や、ピーターのお友達の鳥の巣が海に落ちた時ピーターが救ってやった話などのことを語ってみようかと持ち出す。しかし語り手が実際にこれから読者に語るエピソードはこのようにして決定されることになる。

p. 121

 これは中々巧妙な戦略だ。まだ語っていないと語りながら、すでに情報の一部は語られている。「『語る』ことがらを選ぶ」という語りの様式を巡っての論議が、語りの機構に関して自己言及的に参照されている訳だ。このような反射的論理操作はアテベリーがポスト・モダニズムの影響を意識しながら指摘した、メタフィクションの特徴的な部分であった。(2)礁湖のエピソードの終盤で、負傷したピーターをネヴァバードが救いにきてくれたところでは、語り手はこのような語りの手法を採用している。

pp. 147-8

 話題を直接に物語るという体裁を取ることなく、語ったかどうかという本筋から外れたかのように見受けられる問題を話題にすることによってさり気なく題材を語る、という実はかなり姑息な戦術が時には展開されてもいる訳だ。語りに対する作者の自意識は非常に高い。ウェンディは子供達を寝かしつける時にお話をしてくれる。ウェンディのお話とは、そのお話を聞く子供達を登場人物にしたものであった。『ピーターとウェンディ』というお話の中のウェンディという登場人物が同じお話の中の子供達のことをお話してくれる、という入れ子箱の構造がここにもある。

p. 164

 「そう、そういう名前よ。」

お話の登場人物が自分が架空の存在であることを意識しているというのが20世紀後期のメタフィクションの典型的な構図であったが、ここではさらに、お話の中の登場人物が、自分が作中で語られるお話の登場人物であることを知って喜んでいる。ウェンディのお話はまだ続く。

 架空のお話の中のウェンディがもう一段階奥の架空の自分自身の将来の姿を語りつつある。こういう言い方をするといかにもいわくありげだが、ポスト・モダニズムだとかメタフィクションだとかの戦略的技法を仰々しく持ち出すまでもなく、実はこのような反射的機構そのものがお話を語る、つまり仮構世界を構築するという行為の持つ本源的な機能であった筈だ。アテベリー言うところの「非模倣的な伝統的表現様式」が存分に活用されていることが確かめられれば十分な筈なのだ。ポスト・モダニズムは言うまでもなく、モダニズムあるいはリアリズムなどと呼ばれる概念が、あたかも明確な実体を備えた堅固な対象物を規定するかのような安全な定義として存在するなどという幻想を抱いたままでは文学の本質は語れない。リアリズムの勃興だの近代の社会に生きる人間のあるがままの生活や心理を描いた「小説」(novel)の誕生だのという怪しげな所説がもっともらしく論議されることのいかがわしさが再確認出来ればそれでよい。少なくともファンタシーという言葉がこのような硬直した文学観に対する脱幻想化作用を裡に含むものであることは、本書の第一章で既に暗示されていたことであった。だから本書はアンチ・ファンタシーとファンタシーは根源的な部分では等価であることを立証しなければならないという訳だ。フィクションという名の両面神の容貌を語る言葉としてファンタシーという述語を採用するならば、アンチ・ファンタシーという表現について言及されねばならなくなるのはむしろ当然のことであると言えるであろう。
 語り手は全知(omniscience)の持ち主であるばかりでなく、作品世界の運行については正に全能(omnipotence)の持ち主でもある。「語る」こととは話者が全能の一者である可能世界を創世することに他ならない。そうした意味においては、『ピーターとウェンディ』の語り手の役を務める作者も、裏の主役であるフックも、フックの影であるピーターも同一人物の示す局相の一つであると言えよう。何故ならば創世の思念が実体化して生成した宇宙においては、被造物の総てが全一なる創造主の意志のその一部として存在するからだ。だからこそ原理の統率者の実在を信じる思想は「神は細部に宿る」と主張することができもする訳だ。そして語り手はこんな風に宇宙の基本定数を支配する全権を振るってみせる。フックに「英雄的な」最期をもたらしてくれた鰐の時計に関する記述である。

p. 229

 ラドクリフのお上品なゴシック・ロマンスにおいては悪漢に誘拐されたヒロインがどんなに恐ろしい危機に陥っても、貞淑を失う危険に晒されずに済むことは約束されていたし、トルキンの『指輪の王』においては善の力が最後に勝利を収めるであろうことは、ストーリーの展開の当初から既に暗黙の了解であった筈だ。トルキンは『指輪の王』が裏に何らかの意味性を担ったいわゆる寓話として読まれることを嫌ったが、作品世界において仮構世界存立の条件として必要不可欠な公理系という形で存在する最低限の「意味」は、文学作品が可能世界として読者の心中に受容される過程で必然的に現出するものなのである。トルキン自身が「妖精物語について」で語っているように、作者トルキンはハピー・エンドという絶対的恩寵が作品世界において叶えられることを最大の目的として『指輪の王』という壮大な仮構世界を物語ったのであった。トルキン自身の言葉を用いるならば、「幸いなる大団円」(eu-catastorophe)という至福が享受される場としてこそ作品世界の存在意義があったのである。これが文学作品受容におけるコンヴェンションであり、そこでは現実世界のあるがままの事実(リアリズム)を反映するなどということは問題にされてはいなかった筈だ。むしろ我々の生きる現実世界が正にこのようなものであるという堅固な認識こそが、架空の異世界を構築する作業の契機をもたらしていたのであった。そこにあるのは作者によって取り決められ、読者によって了承された観念上の約束事に他ならない。文学作品におけるリアリズムとは、飽くまでも仮構世界内のもっともらしさという可能世界的リアリズムと、仮構世界提示の手法としての技法的リアリズムのことを言うに過ぎないものであった筈だ。物語の創成の面白さは現実を奇妙に歪曲し、様々に現実世界の座標変換を企てる思考実験を試みるところにある。アテベリーが"speculative romance"という呼称を与えて評価した一部の卓越した"science fantasy"の特質は、HawthorneやPoeの手になるような高度に知的な観念的小説の場合に限らず、実は「物語」の特質そのものでもあった。(3)そしてまた、トルキンが指摘していたように、現実世界とは全く地平を異にした異世界を創り上げる行為そのものの裡にも、我々の生きる現実とは「異なっている」という指標においてこそまさに、異世界の構築を行う作者の現実認識の深さが窺われている筈なのである。この暗黙の了解の機構を語りの表面に持ち出し、公然の場において契約事項の再改変を行おうとしているのがバリの選んだお遊びだ。ダーリング家に戻りつつある子供達の描写から離れて、語り手は敢えて子供達の動向について何も知らないダーリング夫人のことを問題にする。

p. 234

 このように作品世界という一つの可能世界で起こったことを記述するだけでなく、起こりえたかもしれない様々の可能世界についても記述の手を広げているのがバリの手法なのだ。記述の対象となるのは作者の心中に浮かんだ一つの完結した可能世界であるのではなく、様々な変化形を取り得る生成途上の可能世界の束なのだ。バリの記述行為は一つの事象として対象を特定することなく、時にはあり得た経路の幾つかを併記することを許す。だからこのような可能世界内の反実仮想も言及されることとなる。

pp. 234-5

 『ピーターとウェンディ』において描かれているのは、与件として提示された因果関係の連鎖という線的なストーリーではない。物語世界の描像は相反する様々な可能性を併記することを許すという点で、量子力学が電子の存在を記述する際に採用したファインマンの「歴史総和法」と類似したものになっている。アテベリーの言葉を借りれば、「意味の不確定性」を意識した語りの技法が展開されている訳だ。これもまた『ピーターとウェンディ』のメタフィクション的要素の一つとして数えられる特質である。『ピーターとウェンディ』の著者であるバリの示す、作中の登場人物であるダーリング夫人への偏愛がこうしたメタフィクション的効果発動のパラメーターとして作用していることは注目するに足る。全てを許してくれる愛に満ちた新たな救世主たる「お母さん」の具現化であると共に、作者にとって取って替えることの出来ない特別な存在であるのがダーリング夫人だ。作者は物語を語る「作者」としての自覚を持ちつつダーリング夫人に言及してこう語る。

pp. 235-6

 全能の筈の著者が作中のダーリング夫人という登場人物の思惑を顧慮しながら作品世界の進行を司っている。これは明らかな論理矛盾である。作者と、作者と共に作品を読み進める読者の属する世界である現実世界が、語り進められつつある仮構世界の及ぼす干渉を受けているのだ。しばしば自己言及に付随して生起するパラドクスと同等の論理構造を持った、互いに他方を否定し合う一対の命題という図式がここにも見られる。そこに発現しているのは禅の公案にも似た、論理の破壊を通して得られる特異な感覚だ。これは以前にダーリング夫人の心の不思議な特徴として語られていた、入れ子箱の構造を思い起こさせるものである。ダーリング夫人に集約される母性原理の力は、因果関係を持たない筈の諸可能世界間の関係をも取り持つことができるものであることを暗示しているのだろうか。それ程に作者のダーリング夫人に対する偏愛は深い。「お母さん」という記号は作品世界の宇宙定数を思うがままに決定し、仮構世界内の諸法則を統率する公理系を超越することが出来る奇跡的な潜勢力として機能しているのであろうか。不思議なことにダーリング夫人の寛容のお陰で子供達は現実世界の様々な障害から自由でいられる反面、自分たちの首領のピーターのために想像の世界で様々な不自由を味わわせられるのである。現実と想像世界との奇妙な反転現象が生起していることになる。社会という束縛から開放されたあるがままの自然としてのピーターによって課された苦難を耐え忍んだ後、子供達は愛に満ちたダーリング夫人の待つ小市民的な家庭に無事回帰することを許されるのだ。全てを免罪する力を持っているのがダーリング夫人の子供達に対する愛である。キャロルが『シルヴィーとブルーノ』において標語として選んだ「愛が全てを救う」という理念が妙に覚めた形で踏襲されている。「贖いのパラドクス」をも乗り越える「偏愛」の万能がここに強引にも成就されている訳だ。
 ところが作者はこのダーリング夫人と敢えて偽りの不和を演じて見せたりもするのだ。

p. 236

 作者と登場人物の間に取り交わされるこのような滑稽なやり取りこそ、バリの真骨頂をあらわす物語の仮構性を最大限に活用する遊戯なのだ。作者は全能の宇宙創成者の座から一気に作中の登場人物の一人の道化の役柄に転落する。ドン・キホーテとサンチョ・パンサの一人二役を演じているのが語り手としての作者なのだ。このようにひとしきりダーリング夫人とやり合った後で、今度は語り手は読者の方に言葉を向ける。

p. 236

 こういう訳で生意気な子供達の不作法に一矢報いてやりたいと思う作者も、ダーリング夫人の子供を思う気持ちには打ち勝つことが出来ない。ダーリング夫人の子供達に対する偏愛は何物にも増して強いし、作者のダーリング夫人に対する偏愛は既に作者に作品世界に対する支配権を放棄させてしまっていた。結局作者の意に反して子供達のベッドはちゃんと風を通され、ダーリング夫人は家を空けることも無く、窓は開け放たれている。子供達は自分勝手なわがままをし放題のままダーリング家に無事帰還できることになりそうだ。作者はこれ以上ダーリング家にとどまってダーリング夫人に抗議をする術もない。作者には読者と共に子供達の船に戻るしか道は無さそうだ。けれども作者は未練がましく読者に語りかけて言うのだ。

p. 236

 ここに至って作者は今や作品世界を舞台の外側から眺める傍観者以外の何物でもない。その姿は造物主としての神権を失墜し、自らの構築した世界の中で今は追放者として振る舞う、古代の神の堕落した末裔を思い起こさせる。作品宇宙においては超越的存在であった筈の全能なる作者が、その権限を完全に失墜し、ストーリーを進行させる権能を失ってしまったばかりか、全てを包括する全一なる一者の立場であったものの人格の分裂と解体までもが導かれてしまっている訳だ。この拍子抜けするような(anticlimactic)楽屋落ちの構図は、ドイツ・ロマン派の文学作品の中にもしばしば見られたものであった。このような傾向を不毛なアイロニーの空回りする観念遊戯の堕落として否定する見解が取られることがあったかもしれない。アテベリーがビーグルの作品世界運行手順において示した態度に対して覚えたような反発感を与えるような要素が、このようなメタフィクション的悪ふざけの許にあるのは時として認めざるを得ない事実だろう。
 しかしながらここで皮肉られているものの内実は、実は秘める処が大きいものである。アンチ・ファンタシーという指標を用いてこのような皮肉な要素の内包する意義性の再検討を図り、ここに見られたような作品世界提示の手法の弁護を図ることが本書の目的とするところであった。上に検証された一見無責任な悪ふざけのような外観を呈する作品内の自己解体的様相は、一般にファンタシー作品といわれるものの多くが無意識の裡に指向していると思われる、有機的連関を備えた全一的宇宙の創世を行った始源的存在の分裂と堕落の過程を意図的に演出していると理解しうるものなのである。この神格崩壊過程のパロディはまさしく、始源的流出から世界を生み出した根源的なエネルギーである最高神の自我崩壊と分裂の過程というモデルに基盤を置く、失われた崇高の復権を企図した世界描像そのものに対する戯画化の意図を暗示するものであろう。全一的存在の分裂とその分身同士の背反の過程として現象世界の諸相を捉えるこのような世界観は、神秘思想家スウェーデンボルグに強い影響を受けると共に激烈な反発をも示し、独特の神話的世界像を彫画と詩を用いて表現して、悲惨な世界の存在像を描き出したブレイク(William Blake)のヴィジョンを思い起こさせるものである。そしてまた宇宙開闢のインフレーション・エネルギーが様々のより派生的な力と物質へと相転移を繰り返し、分裂していった結果現在の宇宙が形成された、とされる量子物理学的世界描像を既に知っている我々にとっては、このブレイクの構想した神格崩壊のヴィジョンは、ある意味で極めて身近な世界解式を提示するための模式図であるとも言える。バリの施したこのヴィジョンの変奏は、自我と世界の乖離に生の苦痛の原因を見出し、宇宙(全)と認識の主体(個)との正常な関係修復のための心理的試行作業として文学と哲学を捉えたロマン主義と、その影響下にメルヘンから派生して開花したファンタシー文学の心理学を見事に照射するものになっているのである。離反し、敵対することの裡に得られる仮初めの快楽と敵対し、憎み合うことに付きまとう永劫の苦痛の相互作用がドライなアイロニーによって処理され、ことさらユーモラスに描かれているのが『ピーターとウェンディ』のアンチ・ファンタシー的な部分なのだ。
 ピーターという体験を蓄積することの無い不毛な行為者と、如何なる達成も絶え間無い自省という宿痾のために悔恨の種としかならないという呪いを背負った楽園追放者フックの二者が示す相克の様態は、無残にも切り裂かれた全能の存在の二つの半身同志が繰り広げる堂々巡りの円舞曲なのであった。ピーターとフックの宿命的な抗争とは、全能を備えた筈の超越的存在の分身が織り成す、実を結ばぬ永劫回帰のアラベスクにほかならなかった。しかしながら一方の破滅と共にこの連星(ダブル・スター)の暗示していたウロボロス的円環は解体し、本体を失った影は時空の彼方へと飛び去ることとなる。
 結局のところ全てを救う力を備えた母性原理の愛は子供たちの放恣を容認するだけの偏愛へと硬直してしまい、救済者たる聖母は物語世界の収束の全権を任された創造主である作者と、その愛の不毛さ故に離反し続けることになるのである。母なる自然の体現者たるダーリング夫人は創造神たる作者と反目し合い、幼児的で無慈悲なあるがままの自然の体現者たるピーターが美学と倫理という意味性のストイックな求道者であるフックに最後の引導を渡してしまうことになる、というあまりにも冷徹な結末が、このポピュラーになりすぎたきらいさえあるファンタシー文学作品の真実の姿なのであった。
 ここに現出しているのは、愛は理不尽な偏愛という形でしか存在しえないという醒めた自覚であると共に、全てを恕するキリスト的愛という俗っぽいロマン的幻想からの脱却の意志表明でもあろう。一見したところ生真面目な幻想擁護派の読者達には反感を与えるような無意味な悪ふざけとして見なされかねなかった『ピーターとウェンディ』のアンチ・ファンタシー的部分とは、実は空疎なヒューマニズムという避難所に安逸なる読者達を逃げ込ませることを峻烈に拒否する、誠実なニヒリズムの所産であったのだ。つまりここでは堕落したロマン派的形而上学が極めて醒めた目で脱構築されていたのである。「全て」を一つの原理に統括すべき存在論を模索し、「全て」の事物の間の調和と協調の可能性を構築しようと企図したファンタシーの形而上学的戦略は、いずれの航路を選んだところで「贖いのパラドクス」と「偏愛の不毛性」という暗礁に足をすくわれてしまわざるを得なかったという訳なのである。
 改めて言うならば、『ピーターとウェンディ』においてはファンタシー文学の本質的主題が極めて脱構築的に捉えられ、ファンタシー文学の中心的な題材を形成している「自我の分裂と再統合」という主題が、潜伏した裏のストーリーとして戯画的に描かれていたのであった。その点においては『ピーターとウェンディ』はファンタシー文学のパロディであるとも言えるし、またファンタシー文学に対する辛辣な批評行為であるとも言いうるであろう。このような創作行為における対象癒着性の対極をなす対象離反性とも言うべきものを導く契機は当然アイロニーの発動にあるが、このアイロニーを導くものは全体と個、真理と認識の主体の断絶を初期状態からの厳然たる決定事項として容認する冷徹なニヒリズムにほかならない。つまり「アンチ・ファンタシー」とは、価値観の統合を希求する精神の指向する信仰代替物に対する飽くなき模索行為として見なしうるファンタシーと、いかなる全体主義的信仰をも拒絶しようとする頑なな分断の決意表明として理解しうるニヒリズムという一見相容れないもののように思われる二つの要素を、ファンタシー文学の規範を一旦否定し、逸脱するという形式を備えたアイロニカルなファンタシー文学の一つの発現形として、ファンタシーの枠組みの側から一種の力技(tour de force)を用いて統括させようとしたダイナミックな試みなのであった。
 だからこそ「アンチ・ファンタシー」とは、ファンタシー(幻想)に惑溺することのみを期待する幻想中毒者にとってははなはだ苦い解毒剤であるとともに、また一方万人に対して不変の価値観を提供する筈のリアリズムという空疎な夢想(ファンタシー)に対しては強力な脱幻想化過程を施す効能を備えた、極めて健全な幻想導入剤でもあったのである。アイロニーとニヒリズムの飛び抜けて誠実なる体現者であるバリが書いたファンタシーが「アンチ・ファンタシー」という形を取らざるを得なかったのは、ある意味で当然のことなのであったと言えよう。


(1)

 ロマン派の詩人・批評家コールリッジ(Samuel Taylor Coleridge)によってBiographia Literaria>において既に指摘済みの、正統的とも言うべき仮構世界受容に関わる心理学であるが、この観点は、彼のゴシック・ロマンスの潜在的性向に対するもう一つの指摘である、「社会体制に対する転覆の願望」と共に、ファンタシーの奥底に等しく根差している"アンチ・ファンタシー"的傾向を検出する試薬となるものと言えそうである。

(2)

 Attebery, Strategies of Fantasy, pp. 40-8

(3)

 Attebery, The Fantasy Tradition in American Literature, p. 163

(4)

 この特質にのみ注目して判定を下すとしても、『ピーターとウェンディ』はポスト・モダニズムの特徴を色濃く備えた文学作品であると言ってよい。歴史的位相からすれば『ピーターとウェンディ』はモダニズムの占めるニッチに適合するもの以外の何物でもない筈なのだが、これまでに得られたような図式において『ピーターとウェンディ』のメタフィクション的特徴の示す属性としてポスト・モダニズムの要素を措定し、そのアイロニーの対象物としてロマン主義とファンタシーに照準が合わされていると捉えるならば、この視点移動による座標変換の結果からは、ロマン主義は狭義の「モダニズム」の一形態として理解されるという結論が導かれてしまうことにもなるだろう。ファンタシーと「モダニズム」の思想的特質における関連を考える時、この帰結はあながち帰謬法(reductio ad absurdum)を完成するものと見做されるべきものでもないだろう。翻って最も広義に「モダン」という概念を捉え直してみるとするならば、古代の人々が「道理」と対峙する孤立した「自我」という概念を見い出し、自我を包括し、その故に自我の延長たる世界と道理の体現する「崇高さ」という観念とのどうしようも無い乖離をアポーリアとして受け止め、この葛藤を超克するための契機として神や魔術という超自然的存在を構想したその時から「モダン」という時代はすでに始まっていたに違いない。ロマン主義とはそもそも本来どのような思潮であったのか、モダニズムとは果していかなる指標でもって検知されるべき概念であり、その対立概念として現出した筈のポスト・モダニズムとは一体何であったのかを改めて問い直さなければならない理由がここにある。アテベリーが後にファンタシー文学再評価の必要を認める原因となった、20世紀後半のアメリカにおけるファンタシー文学流行という現象が突きつけた問題性は、このあたりにあると考えなければならない。ロマン主義の影響下に展開されたファンタシー文学における信仰代替物としての新たなる世界解式構築の可能性模索が、『ピーターとウェンディ』においては脱幻想化の過程の否定要素に置き換えられてしまっているという事実は、神の死を宣告された20世紀的思念のアイロニーの位相を反映していると共に「現代」の意義の再評価を迫るものだったのである。我々がファンタシーとアンチ・ファンタシーという対立概念を採用してフィクション世界論の再認識を図る必要に迫られることとなったのはそのためであった。

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