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走り書き「新刊」読書メモ(13)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(00.3.11~00.6.20)

 ☆天童荒太『永遠の仔』(上下)○ トマス・ハリス『ハンニバル』(上下) 小川洋『なぜ公立高校はダメになったのか』
 田宮俊作『田宮模型の仕事』 永井均『マンガは哲学する』 辺見庸+高橋哲哉『私たちはどのような時代に生きているのか』
 小岸昭『世俗宗教としてのナチズム』 松岡正剛『日本流』 林望『書斎の造り方』
 柄谷行人『倫理21』 岩井克人『21世紀の資本主義論』 百川敬仁『日本のエロティシズム』
 村上龍『共生虫』 辻邦生『薔薇の沈黙』 柳美里『男』
 吉本ばなな『不倫と南米』 古市剛史『性の進化、ヒトの進化』 榎本一郎『俳句と川柳』
 谷口ジロー『捜索者』 土屋賢二『棚から哲学』 臼田捷治『装幀時代』
 奥本大三郎『博物学の巨人 アンリ・ファーブル』 辻邦生『のちの思いに』 宮沢章夫『サーチエンジン・システムクラッシュ』
 楠見朋彦『零歳の詩人』 村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』 増川宏一『将棋の駒はなぜ40枚か』
 三上治『今、戦争について考えることの一つとして』 原田宗典『ゆめうつつ草子』 玉木明『ニュース報道の言語論』


☆天童荒太『永遠の仔』(上下)(1999年3月10日初版第一刷発行・幻冬舎)は、ミステリー小説。私の求めたもので、第27刷というロングセラー本だ。この息の長さは、『このミステリーがすごい!2000年版』『ダ・ヴィンチ総合ランキング1999年』共に第一位、というのに加えて、テレビドラマ化も関係あるのだろう。小学生の頃、地方の精神療養施設に同時期入所していた3人の子供たち。彼らは、そこで起きたある事件を契機に秘密の絆で結ばれて、やがて別れ別れになるが、17年後に再会する。そんな彼らの周囲で連続殺人事件や放火事件が起こる。犯人は誰か。こういう謎解きミステリー小説の流れをとりながら、3人の男女の家庭事情や職場環境や入り組んだ関係心理の描写でぐいぐい引き込んでいく。いわゆる社会的にも家庭的にも、人の関係性をめぐる「重たい」状況ばかりを随所にちりばめて、余白なしにびっしり書きこんだという感じだ。推理ものという意味では帰結は恣意的だが、そういうことは二の次として読める力作。



トマス・ハリス『ハンニバル』(上下)(2000年4月10日初版第一刷発行・新潮文庫)は、サイコミステリー小説。『レッド・ドラゴン』『羊たちの沈黙』に続く、三部作の完結編。スティーブン・キングが傑作の折り紙をつけ、史上最大の映画化権料(1千万ドル)で、映画化(監督リドリー・スコット!)も進んでいるという大作だ。舞台は前作の7年後の世界で、実習生から一人前の優秀なFBI捜査官になったクラリスの前に、逃亡して消息をたっていたレクター・ハンニバル博士が再登場する。前作は、連続殺人事件を扱ったミステリーと言っても、科学捜査の手法(ファイリング)を使った推理、クラリスとレクターの心理的かけひきと、いろんな要素があって楽しめた作品だったが、前作で小説を支える支柱のひとつに過ぎなかった異能の人食い天才精神科医の名が、今回では小説のタイトルにもなっている。「読書人」で野崎六助氏が、このレクター像を「人類を嘲笑する<超人>」と呼び、ニーチェの「超人」観念を体現しているように書いているのを読んだが、私の感触では、むしろ、「常人」(^^;に近づいた感じだ。アメリカの犯罪小説や映画には、なぜかニーチェの「超人」イメージ(英語ではスーパーマン!)を借りた異常犯罪者が沢山登場するが、その良質の暗示はむしろ前作に感じられたように思う。本作では彼の美的趣味の詳細や幼少時の体験(妹ミーシャのエピソード)が明かされることで、なんだか妙に分かりやすくなってしまった。それは怪物ハンニバル的想念への作者の愛着のような気がしないでもない。



小川洋『なぜ公立高校はダメになったのか』(2000年4月10日初版第一刷発行・亜紀書房)は、社会・教育批評。公立高校の凋落とか「公私逆転」といわれるに至った原因を、社会構造の分析から解きほぐすスリリングな試みだ。話は戦後の大都市圏の人口の膨張というところからはじまる。その動因は、主に農村部からの集団就職若年層の人口流入であった。そこで大都市圏には、ふたつの階層が混在することになった。著者は一方を「集団就職層」、一方の(親の代からの)都市出身者層を「新興中間層」と呼んでいるが、彼らの世代が共に家庭をもち、都市圏周辺に移住しはじめることで、都市の人口増加は頭打ちになり、急増部は周辺地域に移行する。この大移動の結果そこに「郊外」がうまれる。彼らの子息たち第二次ベビーブーム世代の受け皿となったのが、当時急遽相当数新設された公立高校だった(続きは本書で(^^;)。。本題からややずれるが、本書で興味深いのは、表層のライフスタイルや生活意識(中流意識)からは区別できなくなっているが、現実には歴然とした二つの社会階層が存在して(再生産されて)いて、とくに生活水準や子供の教育に対する意識に明確な差違があることを、統計的な数字をあげて指摘しているところだ。そういう意味で本書は鋭利で気が滅入るような社会批評(新階層社会論)としても読める。すこし古いが、小沢雅子の『新・階層消費の時代』(朝日文庫)とつきあわせると面白いかもしれない。



田宮俊作『田宮模型の仕事』(2000年5月10日初版第一刷発行・文春文庫)は、社史的エッセイ。97年7月に刊行された同名単行本(ネスコ刊)に大幅に文章を補足してなった文庫本。田宮模型社長の田宮俊作氏による模型制作販売事業の苦労話が満載されている社史的な内容の本だが、それはそのまま戦後日本の模型産業の歴史に重なり、実に面白い。小学生の頃に、よく行った本屋さんがあって、木製の巨大な戦艦大和や零戦が、店内にケーブルで吊ってあって見惚れたものだった。私のおぼろげな記憶では、その模型は店主が自作したような気がしていたのだが、本書を読んで、当時そういう木製模型キットがメーカーによって製造販売されていたのだと初めて知った。ちょうど模型の素材が、木からプラスチックに切り替わる時代(60年頃)で、田宮模型も元はそういう木製模型を作っていたのだという。思えばあの頃が過渡期だったのか。また、プラモデルに、35分の1スケールモデルというのがあるが、その縮尺の由来とか、積年の疑問が氷解。それにしても、この社長にして、世界の田宮ありなのだなあと、氏の熱意(模型制作のためにポルシェの実物を購入して分解する話などでてくる)に脱帽。



永井均『マンガは哲学する』(2000年2月15日初版第一刷発行・講談社)は、ユニークなマンガ解説書。意味と無意味、自分とは何か、時間とはなにか、人生の意味、存在とはなにか、といった哲学的な問いを、テーマ別に幾多の戦後マンガ作品の中に見いだして、解説してある。とりあげられているマンガ家は30名近くに及ぶ。中で複数作品が取り上げられているのは、藤子・F・不二雄、手塚治虫、諸星大二郎、萩尾望都、吉野朔美、高橋葉介、佐々木淳子、楳図かずお、星野之宣、しりあがり寿、の諸氏。顔ぶれからわかるように、いわゆるSF小説的な着想の作風の人が多く、著者がマンガには哲学的思考の「萌芽的形態」がある、というのは、マンガと言うより、そこに盛られたSF的発想の方を指すのではないか、とは読後に思ったこと。ともあれ、「哲学」してるかどうかはともかく、考えさせてくるマンガの読みたい人には、熱のこもった道案内の書。マンガ図版(無断引用という)も多数収録されている(いいのかなあ)。



辺見庸+高橋哲哉『私たちはどのような時代に生きているのか』(2000年2月10日初版第一刷発行・角川書店)は、対談集。東京新聞に99年9月16日から10月7日にわたって掲載された対談「1999を問う」に、辺見氏の書き下ろしのエッセイ「新しい「ペン部隊」についてー対談の補足として」を収録。99年夏の通常国会で成立した、「周辺事態法(ガイドライン関連法)」を中核とする、「盗聴法」、「国旗・国歌法」、「改正住民基本台帳法」といった一連の国家主義的な法案(国家の力を強める法案)のもつ意味を、「戦争のできる国家」への転換と受け止めて、「1999年問題」として重大視するという点で両氏の認識は一致している。本書の読みどころは、それらの法案が通過するに至った背景や世論の動きに対する、辺見氏の感度の高い現状分析。高度成長期以降、進行しているのは「情報社会化」ではなく、「情報市場化」(市場価値のある情報のみが優先される)だという指摘や、この情報市場化は生の身体を排除するので、逆に消費者に身体性への無限の渇望(飢餓感)を生んでいるという指摘など、問題提起が豊富。



小岸昭『世俗宗教としてのナチズム』(2000年4月20日初版第一刷発行・ちくま新書)は、ナチズムについての評論。ナチズム(著者はそれを政治的な世俗宗教ととらえる)にとって、オーバーザルツベルクにあったヒットラーの山荘「ヴァッヘンフェルト荘」、「鷹の巣」の果たした象徴的な意味合いとはなんだったのか、というテーマを中心に、ヒットラーの「最大の魂の導き手」となったというディートリヒ・エッカルトの思想や、そのエッセンスが宣伝大臣ゲッペルスに継承されていく経緯にふれながら、ナチズムにおける「第三帝国」という用語の由来を読み解く。「ナチズム」については、近年も様々な角度から照明が当てられているが、本書もそうした試みのひとつとして、多くの示唆に富んでいる。元文学青年ゲッペルスにとって、ドストエフスキーの影響がかなり大きかったらしいというのは、いかにもありそうな話だが、ドストエフスキーの著作が焚書の対象外になっていたというのは本書で初めて知った。本書では、ヴィスコンティの映画「地獄に堕ちた勇者ども」の解説にも、たっぷり一章が割かれていて、映画の背景となった歴史の推移との対照が鮮やか。映画評としても味わい深い。


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松岡正剛『日本流』(2000年3月5日初版第一刷発行・朝日新聞社)は、日本文化論。この国の伝統文化の様々なジャンル(文芸、書画、芸能、建築、宗教思想、、と膨大)に根付いている日本的なものの様相に分け入りながら、その核心を魅力的なキーワードで連結したり、編集したりという、著者独自の日本文化論が、親しみやすい話し言葉で説かれている。ただし内容はとても高度というか、対象となっている諸ジャンルの専門用語も含め、話題にされる範囲が広大かつ具体的なので、これがすべて腑に落ちるひとがいたらすごい。しかも話がひらりひらりと自在に転換するので、その華麗な知の乱舞のスタイルについていくのが大変。もっとも、ウォークマンで音楽を聴くように読んでもらいたいと、あとがきにあるので、軽快で奥深い知的な言葉のシャワーを浴びたい人にお勧め。自分で掘り下げたいことがあれば、紹介してある関連書籍にすすもう。「遊」以来の著者の「日本流」は、なんとも一貫してるなあ。。


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林望『書斎の造り方』(2000年2月29日初版第一刷発行・光文社カッパ・ブックス)は、表題通りの実用的な書き下ろしエッセイ。実用的と書いたが、書斎造りにはまず住環境の問題が立ちふさがる。著者の場合はとても恵まれていて、自宅を新築(22畳の地下書庫付きで書斎は十畳!)に至ったまでの体験が元になっているから、それだけで多くの問題をクリアできていることがわかる。だからといって、読んでいて羨ましいだけじゃなくて、いろんな工夫や体験談が為になる。たとえば、パソコンのディスプレイの設置場所。著者はこれまでの試行錯誤の経験をふまえて、部屋の隅の三角コーナーが一番よい(ディスプレイと距離がとれて見やすく、正面にも背後にも窓がない、という場所)という。とても理にかなっているので、私も三畳の書斎住まいながら、やってみようかなと思案中(いつかG4買ってから)。著者は英国エッセイで有名だが、専門は国文学・書誌学者。その徹底した愛書家ぶり、研究者ぶりが文章にうかがえて楽しい。国文学者としてはちょっと異色な、横文字表記礼賛も近年の主張で、本書でも。


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柄谷行人『倫理21』(2000年2月23日初版第一刷発行・平凡社)は、評論。すでに雑誌に掲載されている講演2本(「責任とはなにか」(「すばる」(96年4月号))、「責任と主体」(「女性・戦争・人権」(97年・創刊号))を、加筆・再構成したという、講演スタイルの書き下ろし評論。「世間」について、「自由」について、「宗教」について、「戦争責任」について、などなど、講演という性格もあるのだと思うが、当時ジャーナリズムをにぎわせた話題を折り込んで、著者の考えを分かりやすく論述するスタイルは、明快。本書の核心にあるのは、著者の西欧思想(とくにカント)の独自な解釈。付論の『トランスクリティーク』第一部が、その思索の過程を凝集した形で伝えている。カントの芸術批評を「没関心-関心の括弧入れ-において芸術が存在する」と読み込む、この切り口は鮮やかで、そういう括弧入れによって成立するという対象の理解のされかたは、美学に固有の問題ではなく、「あらゆる領域に通底する」と著者はいう。ところで、著者はデュシャンの作品「泉」のもつ芸術性の問題を、この「括弧入れ」の例にだしている。その作品は美術館でなく、路上におかれれば、ただの便器と区別できない。この問題意識は、岩井克人氏なら、貨幣について同じことを言うかもしれない。さて、詩の場合、「美術館」にあたるのは、なんだろうか。。。。


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岩井克人『21世紀の資本主義論』(2000年3月3日初版第一刷発行・筑摩書房)は、マクロ経済学についての論考とエッセイを収録した本。表題と同名の書き下ろし論文の他に、80年代半ばから98年にかけて各種新聞雑誌に掲載されたエッセイ22編が収録されている。貨幣とはなにか(なぜ貨幣が貨幣であるか)、という問いには、古来から、貨幣がモノとして商品価値をもつからだという「貨幣商品説」、共同体や国家による命令や指定によるという「貨幣法制説」という、二つの学説があり、争ってきたと、著者はいう。これらは共に誤りで「貨幣の貨幣としての価値を支えているのは、まさに「予想の無限の連鎖」そのもの」であるというのが、著者の「貨幣論」の主張。この主張(くだいていえば、貨幣に価値があるのは、みんなが価値があると信じている(その根拠は、みんなが信じていると信じている、、、以下無限に続く)からにすぎない)は、本書にも繰り返し登場する。そして、「手を変え品を変え」(あとがき)て、いろんなエッセイに盛り込んで語られる、この主張の変奏が、本書の大きな魅力になっている。たとえば、それは、ギリシャ神話に登場する「パリスの審判」(美人コンテスト)と比較される。「美」とはなにか。「貨幣」についていわれることが、「美」についても主張されるとき、それをついつい「詩」と言い換えて、考えてみたくなったりするのだ。後半のエッセイでは、日本の独特な「法人資本主義」の性格についても言及されている。この「法人」概念の解明が次の楽しみ。


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百川敬仁『日本のエロティシズム』(2000年4月20日初版第一刷発行・ちくま新書)は、書き下ろしの日本文化論。エロティシズムの本質は、熟していく時間の感覚にある、という独自の観点から、エロスと日本文化の関わりを歴史的に読み解く。三部構成で、第一部は、著者のエロティシズムについての本質論、第二部では中世から近世にかけて、第三部では近現代におけるエロティシズムの文化的な様相が、文献資料に即して考察されている。著者には「異界」(疎外論的な枠組みによっている概念)、「もののあわれ」(伝統的な美意識とは別)といった独自のキーワードがあって、それらとエロティシズムとの関わりの中で論述が構想されているので、要約するのが難しいが、エロティシズムというのが、近世的な社会や個人意識のそれなりの成熟をまって初めて成立するような人間的な時間観念であり、しかも日本においては、近世になってはじめて出現した「もののあわれ」という共同観念の影響を受けて、独自の様相(たとえば心中ものなどにみられる「道行き」の美意識)を産み出すに至った。そのあり方は、基本的に現代まで変化していない、というようなことだろうか。『源氏物語』から村上春樹の『ノルウェイの森』までの引用が豊富。第一部では、もちろんバタイユのエロス論にも言及されている。独力での文化論の構築というのは歯ごたえがあります。


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村上龍『共生虫』(2000年3月20日初版第一刷発行・講談社)は、長編小説。初出は「群像」(98〜99年にかけて2年間、隔月で連載)。主人公の自称ウエハラ(本名は別で、自作の名前)は、中学2年の時に不登校になり、母親に付き添われて精神科の病院や施設をいくつか回った末、親の借り与えた自宅近くのアパートで独りで暮らしている、いわゆる「ひきこもり」青年。母親が週に一度食べ物をもってきて、洗濯、掃除をして帰る。妹もたまに食べ物をもってくるが、彼らとはいっさい口をきかないし、母親には暴力もふるう。そんなウエハラが、テレビの女性ニュース・キャスターに親近感をもち、自分だけの秘密(子供の頃の奇妙な体験)を、彼女にうちあけたいと思って、インターネットをはじめ、彼女のホームページの掲示板にメッセージを書き込む。物語はそんなふうに始まる。。ウエハラの生活環境の描写を読んでいて、これと酷似したケースを、さるテレビの報道番組で見た記憶が蘇ってきた。フィクションを読んでいて感じるこういう既視感は、ごくたまにあるが、すごく肉薄してるという感じだ。病原微生物(「共生虫」の存在は別として)の危険性についてはもとより、インターネットのMLや掲示板にからむ、人間相互のコミュニケーションの問題、戦争について(本書は、いわゆる「戦争論」論議に関する著者の文学的な回答というふうにも読めると思う)など、考えさせられるテーマが盛りだくさん。妄想につかれた青年(たち)のひきおこす陰惨な事件を描いているようで、現在、どんなかたちで、リアルな生の感覚を生きることが可能なのかを問う。他者との出会いを契機に、ウエハラは、「ひきこもり」の殻を破る。そういう意味では青年の魂の成長物語なのだが、しかしなんという通過儀礼なのだろう。


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辻邦生『薔薇の沈黙』(2000年1月20日初版第一刷発行・筑摩書房)は、文芸評論。初出は「ちくま」に94〜95年にかけて12回にわたり連載。大幅に加筆され、さらに、一回分(12章にあたる)があらたに書き下ろされたという。著者は最終章も書き下ろす予定だったようだが、その死去によってかなわなかった、という事情が、夫人による、あとがきにふれられている。本書は「リルケ論の試み」と副題にあるように、詩人ライナー・マリア・リルケについての評論。『マルテの手記』の成立から、「ドゥイノの悲歌」の完結に至る時期を中心にすえて、いくつかの詩編を引用しながら、リルケの内面の深化の過程をたどる。このプロセスは、「見る仕事」から「心の仕事」への転向(転位)ととらえられている。著者が「自己性の克服」という言葉を与えるプロセスに、どんな肉付けが与えられているかは、本文を読んでもらうしかないが、「いまやリルケは「地上にあること」を全肯定する詩人として立つ」という行句から、絶筆となった著者の自伝小説『のちの思いに』を読んだときの、生の肯定感のあふれる、まばゆい印象が重なってきた。著者がリルケに見い出した場所はまた、晩年の著者の理想だったのかもしれない。


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柳美里『男』(2000年3月10日初版第一刷発行・幻冬社)は、エッセイ集(帯には「初の性小説」とある)。初出は「ダ・ヴィンチ」に98年三月〜2000年三月号に連載。目、耳、爪、尻、、、声、背中。それぞれ身体の部位を表題にした、この18章からなる連載エッセイは、著者が、編集者から「ポルノ小説」を書いてみないか、と言われるシーンからはじまる。そこで著者は、その小説のための作品ノートを書きはじめる。この作品ノートが、そのままこの連載エッセイとなった、という体裁の本だ。だから、文中には、書かれるはずの「ポルノ小説」の草稿の一節がゴチック体で折り込まれながら、著者の実体験という感じで書かれた「性」にまつわる思い出も、地の文で、うちあけ話ふうに描かれている。そうして、この実体験のように書かれた部分も、厳密には小説(虚構)なのだろうから、全体を二重構造をもった「性小説」としても読める、ということだと思う。この著者にとって、表現が一種の自傷行為であるという側面があって、おそらく性の描写もそのことと無縁ではない。そういう必然に著者の文学的な現在性もまたあるのだとすれば、通俗「ポルノ小説」的な類型的な性描写ほど、そこから遠いものもないのではないか。


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吉本ばなな『不倫と南米』(2000年3月10日初版第一刷発行・幻冬社)は、短編小説集。初出は「星星峡」に98〜99年に掲載された七編。小説のベースになっているのが、著者が98年の4月〜5月にかけて訪問した南米旅行の印象であることが、あとがきや、折り込まれている多数のイラスト(絵・原マスミ)や写真、最後に付されている旅行行程表などからわかる。それぞれの作品にはいろいろなシチュエーションで南米の風物が取り入れられており、7つの物語を彩っている。不倫というテーマも、いろんな形で、どの作品にも登場するが、基本的にひとの欲望の自然性をおおらかに肯定する著者にとっては、そうした不測の事態にむかう態度は決まっているという感じがする。しかしそれでも、周囲の人間関係にとって深刻な矛盾であることにはかわりがない。そういう意味で、不倫が大昔の出来事(主人公の祖父の不倫)という形で一見さらりと描かれている「小さな闇」が、とても印象に残ったし、作者らしい出来栄だと思った。心に残る情景をきりとる描写力は相変わらず冴えているなあ。


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古市剛史『性の進化、ヒトの進化』(1999年11月25日初版第一刷発行・朝日選書)は、霊長類学の啓蒙書。著者は、ニホンザル、ボノボ、チンパンジーなどの生態を世界各地でフィールドワークをしてきたひと。本書では、主にボノボやチンパンジーの生態の最新の研究成果を詳しく紹介しながら、ヒトの誕生の謎にせまる。熱帯多雨林に適応していた古類人猿のうちで、なぜヒトだけがサバンナなどの乾燥地帯に進出できたのか。著者は、そこにはメスの少産多保護から多産多保護化への戦略転換があったという。子育てのために、オスの協力を取り付けること。そのためには、恒常的な性的受容性の獲得(発情期の消失)と、排卵日を隠す(妊娠可能というシグナルをなくす)という二つの生理的変化が必要だった、と著者はいう。詳しくは本書を読んでもらえればいいが、この結果、特定のパートナーとの持続的関係(「家族」の原形)がつくられるようになった、と、いうことのようだ。この「性の進化」が「ヒトの進化」の引き金になったという仮説、メス主導型で、オスはその繁殖戦略にのせられてるだけ、というのが妙にリアルだ(^^;。。


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榎本一郎『俳句と川柳』(1999年11月20日初版第一刷発行・講談社現代新書)は、評論。広い意味で詩論といっていいのだと思う。俳句、川柳を中心にした短詩形文学についてのきめ細かい概説と、本質論が収録されている。全体では、川柳、俳句のルーツをたどり、その歴史や特質を、古今の秀句や俳論に即して分かりやすく紹介解説してある。また、俳句と川柳の違いについて、著者自身が「自分なりに解決しておきたかった」(あとがき)とあるように、最後の章では著者の自説が公表されている。それを、無理を承知で一言で言えば、作品に「切れ」(切れ字表現も含んだ意味での、内容的な「切れ」)があるのが俳句。任意の俳句を例にとれば、その作品は、「主部」と「飛躍切部」に別けられ、その「距離が離れていればいるほど面白い俳句」であると著者はいう。一方、川柳は、「切れ」を含まず、むしろ「うがち」(着眼点)の面白さを競うものだという。内容のごまかしのきかない川柳の方が、はるかにシビアな文芸だというのも興味深い指摘だ。著者のこの「飛躍切部」論では、現代俳句、川柳の例もあげてあるので、興味のある方は。


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谷口ジロー『捜索者』(2000年2月1日初版第一刷発行・小学館)は、コミック。初出誌は「ビッグコミック」(99年5月から11月にかけて連載)。登山が好きで、南アルプスの山荘の管理をまかされて暮らしている志賀のもとに、かっての登山仲間で、山で遭難死した友、坂本の未亡人から、中学生の娘恵実が昨日から帰ってこない、そちらに行っていないか、との電話を受ける。恵実は親友の忘れ形見。志賀は、急遽上京し、失踪した少女の行方を追って、捜索にのりだした。。。 このコミックは山男が主人公だが、ストーリーの骨子はオーソドックスな素人探偵もの。丁寧なストーリー展開と、繊細な絵柄で、じっくりと楽しめる。ファンには周知のことかもしれないが、谷口ジローは、以前、「事件屋稼業」(原作者関川夏央)や「ナックルウォーズ」といったシリーズの探偵ものマンガを描いていた。遊びの部分がそぎ落とされて、それが現代の渋谷を舞台に蘇った感じだ。


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土屋賢二『棚から哲学』(2000年2月20日初版第一刷発行・文芸春秋)は、ユーモアエッセイ集。初出は週刊文春連載(98年3月〜99年7月)。まえがきに、警告として、本書の全部また一部を、悪文の見本としたり、非難したり、精読してはならないと書いてある。しかし、相変わらずおかしすぎる文章を読んでいて、そのロジックのねじ曲がり方の秘密が知りたくなって、ついつい精読してしまう箇所が多々あった。偶然(なのかな?)、「権威に訴える論証」と、「退屈する仕組み」というエッセイでは、結婚披露宴の祝辞がテーマで、一方ではあれだけに意義があるといい、一方では、行われるのが不思議である、と書いてある。本心は、どっちなんだろう、と思って真剣に読むと損をするが、著者は、そのどっちも正しいように言ってみせることで、形式的な論理のあやしさを示している(のかもしれない)。本書には、詩について触れられている箇所が、二ケ所ほどある。そのひとつ「クリスマスを変えよう」は、結構辛らつなエッセイだと思うが、この文中のロジックのねじ曲がり方を考えると実に楽しい。それにしても、こんなに奥さんと助手と女子学生を罵倒し続けて大丈夫なのだろうか。。


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臼田捷治『装幀時代』(1999年10月5日初版第一刷発行・晶文社)は、現代の出版文化史。戦後から今日まで、活躍した日本を代表的する装幀家10名(原弘、吉岡実・栃折久美子、粟津潔、杉浦康平、和田誠、平野甲賀、田村義也、司修、菊池信義、戸田ツトムの各氏)の作品をとりあげ、それぞれの作風や特色を、時代の変化やタイポグラフィなどのデザイン技術の変遷との関わりに踏み込んで、作家論風に詳細に紹介した労作。書籍の装幀って興味あるのに、つい内容を読むほうが主になってしまい、普段なかなか改めて眺めることはないのだが、こうして独立した作品として、写真入りで解説してもらうと、奥の深さが伺えて面白い。キラ星のように並ぶ個性的な装幀家の人たちのなかで、筑摩書房の編集者で詩人だった吉岡実氏についての項が印象的だった。著者は、詩人による装幀にすぐれたものが多いとことわったうえで、その理由として、言語表現を練り、磨くことと、形象をともなうイメージをたぐりよせ、生成することに、深い関わりがあるからではないか、と書いている。自著の装幀もした詩人として触れられているのは、他に萩原朔太郎、室生犀星、北原白秋、北園克衛、瀧口修造。


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奥本大三郎『博物学の巨人 アンリ・ファーブル』(1999年12月6日初版第一刷発行・集英社新書)は、伝記。すでに『ファーブル昆虫記 ジュニア版』8巻の翻訳者であり、現在『ファーブル昆虫記』全10巻の訳に取り組む著者による、19世紀に生きたフランスの博物学者アンリ・ファーブルのコンパクトな評伝。8章に分かれているが、第1章は、『昆虫記』を日本で最初に翻訳した無政府主義者大杉栄や、最初の紹介者であった社会思想家賀川豊彦についてなど、日本へのファーブル移入史の紹介にさかれている。2章からの伝記本文では、転職や転居の多かったファーブルの生涯の起伏が、彼の人柄や知の巨人ぶり(南方熊楠のようだと著者はいう)をしめす幾多のエピソードとともに、平明な文章で紹介されている。『昆虫記』の出版事情や当時の反響にふれた第6章では、伝記という構成をちょっと破って、現代の学問研究のあり方に関する著者の批判的な見識も披瀝されているのも特色。児童向け『ファーブル昆虫記』に親しんで育った人も多いと思う。アヴィニヨンの旅行案内所でファーブルの住居を聞いてみた時、他にも尋ねた人がいたらしく、ファーブルは日本では有名なんですね、と妙に感心されたのを思い出した。


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辻邦生『のちの思いに』(1999年12月7日初版第一刷発行・日本経済新聞社)は、自伝小説。日本経済新聞日曜版に、98年10月から99年9月まで51回にわたり、掲載されたものが初出。この連載は、著者の突然の死去によって、中断されたが、半ばまで書きすすめられていたという最終回(遺稿)の部分も、夫人による「あとがきにかえて」の中に付されている。本書は、著者が自らの半生を、いろんな人々(多くは実名で登場)との交友関係を中心に、回想録ふうに綴った作品(事実と仮象をとりまぜたフィクションであるむね、断られている)。戦後間もない頃に東大仏文科に入学、恩師、友人、恋人との出会い、結婚と新居生活、パリへの留学、帰国後の小説家としてのデビュー、作家達との交流。長い人生には辛苦もあったろうに、ここにあるのは溢れるばかりの光の記憶だ。それは著者の、明せきな知的世界や、純粋な美的世界への関心ということは別に、やはり天分とか資質というようなもののなせる業だと思う。明るい清潔感に満ちた、成熟した文体は、とても読み心地がいい。中島健蔵、森有礼、粟津則雄、福永武彦、吉田健一など(これは、ほんの一部)、著名な文学者、学者との交流にまつわるエピソードが細やかに描かれているのも色んな発見があって興味深い。途中から「リスちゃん」という女性(後の夫人)が登場して、ちょっと難しい恋愛が描かれるが、この恋愛の顛末の切り取り方に、すごく作家としての特徴がでていると思う。


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宮沢章夫『サーチエンジン・システムクラッシュ』(2000年3月1日初版第一刷発行・文芸春秋)は、小説。編集プロダクションを経営している主人公は、殺人事件を報じる新聞記事で、女を殺したという犯人が、大学で同じゼミにいた首藤という男だったと知る。殺害状況を首藤が詳細に語った内容を週刊誌記者の友人からきいて、妙に気になっていた主人公は、偶然も手伝って、7年前に首藤と最後にであった池袋の性風俗の店「アブノーマル・レッド」を探してみる気になる。そこになにがあるのか。。「生きているのか、死んでいるのかわからない」という希薄な現実感に浸されて生きる主人公が、自分の存在根拠を訪ねるようにして、迷宮のようにいりくんだ都市を彷徨するというストーリー。異国の都市で迷う小説、というのはオースターかなにかにあったような気がするが、看板だらけで誰にでも道をきける自分の国の首都の繁華街でも人は大いに迷う。大学時代のゼミの名前も講師の名前も友人の名前もおぼろげで、本当にあったことかどうかもわからない。そういうやや過剰な設定で、現実に不透明なフィルタをかけたような現代の感受性をきりとった出口のないファンタジー。いつも「せっぱつまってる」青年がでてくる「池袋」という舞台が、妙にリアルだ。著者は演劇製作ユニット「遊園地再生事業団」を主宰してきた人で、小説デビュー作。


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楠見朋彦『零歳の詩人』(2000年1月10日初版第一刷発行・集英社)は、小説。「すばる」99年11月号に初出。パソコン通信で知り合った友人トラビィに誘われて、春休みに彼の故郷ユーゴスラビアへ旅行した高校生アキラは、内戦に遭遇して、当地のさる地下室で少数の仲間たちと暮らすことを余儀無くされる。小説には、アキラも含めた複数の語り手の声をかりて、過酷な内戦下の生活ぶりが描かれている。内容も内容だが、最初ちょっと癖のある文体からセリーヌを連想した。もちろんセリーヌのように実体験に基づくというわけではないようで、徹底した資料の収集と読み込みから想像的に再現された小説作品なのだと思う。状況しだいで人間は人間に対してどのくらい残虐に振る舞えるのか、また残虐ということにどれほど無感覚になれるのか、ということの例証のような世界。歴史をみればそういうことは分かっているのに、こうして克明な描写とともに再現されると、なんともやりきれない思いにさせられる。内戦下の(非)日常のリアルさと対照的に、個々の人物についての情念的な掘り下げが薄くて、距離をとった明るい悪夢を描いているような構成が、いわゆるクールな印象を与えるのだが、そういう作者の手法が、とても現代(日本)的だ。照準がよくあっていて、いけるところまでいっている、という感じがした。「すばる文学賞」の受賞作。


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村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』(2000年2月25日初版第一刷発行・新潮社)は、短編小説集。「新潮」に99年後半に連載された作品に書き下ろし1篇を加えて、「連作『地震のあとで』(その1〜6)」として6篇が収録されている。地震とは神戸の大震災のこと。地震のテレビ報道にくぎずけになったすえに失踪してしまった女性。被災地に妻子を残して一人暮らししている画家。旅先で憎み続けた男の住む場所が被災したことを知る女性の話など、それぞれ地震の話がでてくるが、その関連はさまざま。「あの地震のあとで、まったく関係のない六人の身の上にどんなことが起こったか?」とは帯の文句だが、難しい試みに取りくんだものと思う。「かえるくん、東京を救う」という作品では、人々の無意識が、地震を契機にして、「憎悪」や「悪意」として変成される事態の、象徴のように、「みみずくん」という存在が登場する。そのように寓話風に時代を読むことが、もうどこまで確かなことなのかわからない。けれど著者の想像力の質は、一貫していて、そこに、現在に書かれるべき「物語」の意味と根拠を見定めようとしているように思える。


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増川宏一『将棋の駒はなぜ40枚か』(2000年2月22日初版第一刷発行・集英社新書)は、将棋の文化史。表題にいつわりあり。というかその答えは書いてない。というか今のところわからないとさらりと書いてある。また中将棋が今の形(少将棋)になった経緯についても充分に究明されていないとあり、想像たくましく書いてあるわけでもない(チェスなどと比較して、日本の将棋だけが、相手から取った駒を使えるが、これは戦国時代の兵法と関連するのでは、という説(私は面白いと思うが)など、出る幕がなさそうだ)。文章は硬くて読みにくい。しかし、将棋の歴史に関心のあるむきには、おおいに楽しめると思う。というのは、本書の醍醐味は、近世以降に残された様々な歴史文献(特に「大橋家文書」)に基づいて、幕府から俸禄と拝領屋敷を与えられ、それなりに厚遇されていた、世界にも類をみない専業「将棋家」(大橋本家と分家、伊藤家)の人々の生活ぶりが、実に重箱の隅をつつくという感じで、丁寧に再現されているところにあるからだ。資料によりながらも、資料を批判的に検討するという著者の視線も確かで、歴史的な文献資料にありがちな相応の誇大記載や改ざん箇所などを指摘して、その実情を推測して描く筆致にも説得力がある。将棋の升目のそれぞれに、いろは文字や漢字をあてはめていた頃の棋譜も掲載されている。は金とか、春飛とか、露桂とか。おもしろい。。


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三上治『今、戦争について考えることの一つとして』(2000年1月10日初版第一刷発行・批評社)は、評論集。初出は、雑誌「情況」、北海道新聞、個人通信に掲載されたものなど。「戦争論」(とくに加藤典洋『敗戦後論』、小林よしのり『戦争論』)をめぐっての批判的考察、というのが主軸になっていて、オウム事件に言及した論も付されている。戦争(論)を巡る論議は、国家というものをどう捉えるかという問題と切り離せない。国家は、究極的には破棄されるべき幻想の共同性である、という著者の立場は鮮明で、そういう考え方が現代ではひどく空想的に思えても、そういう視座から、見えてくる世界像には、多くの考えさせられるものがある。近代国家の構成要素として、著者は、リベラルデモクラシー(自由、平等、基本的人権などを基礎におく啓蒙主義的国家理念)と、ナショナリズム(国民を国家に統合する民族主義的意識)をあげ、その両者の矛盾と葛藤のなかに現代史を見すえる。


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原田宗典『ゆめうつつ草子』(1999年12月10日初版第一刷発行・幻冬社)は、創作集。帯に「詩でもない、小説でもない、全然ちがう物語」とある。初出は、「FRaU」「星星峡」に98年から99年7月にかけて連載されたもので、つごう20編が収録されている。寓話的な内容の作品、ナンセンスで不思議な抒情をひそめた作品など、バラエティに富んでいて、これは詩だが、これは小説、という角張った区別が意味をもたない。無理していえば詩的短編物語集というのがあっているかもしれない。詩的というのは多くの作品にみられる行分けスタイルからくる印象で、その内容は寓話的であったり、ナンセンスなおかしさを誘うものであっても、基本は物語(その崩し)からできている。著者はやはり物語作家だ。でも物語を創作することの、すごく根本にある(詩的な)歓びとともに書いているのが伝わってきて、読者としても気分が弾む。ナンセンスな笑いに満ちた「無意味な季節」、おかしくてせつない「一途なハモニカ」。散文物語の「シンユウ記」は、SF小説的な細部描写を読む楽しみもたっぷり味わえる。難しくない省略文章で、心の機微をぴったりつかまえる文才はすごい。


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☆玉木明『ニュース報道の言語論』(1996年2月10日初版第一刷発行・洋泉社)は、マスメディア(主として活字メディア)のニュース報道についての考察。ジャーナリズムの言語のもつ「出来事自身がみずからを物語る」かのような性格を、著者は「無著名性言語」と呼んで、その現象形態を、「サンゴ落書き事件」、「松本サリン事件」、「オウム・サリン事件」の報道記事の分析を通じて検証する。「無著名性言語」では、記述者の主体が、<われわれ>に憑依する、と著者はいう。私たちの<わたし>というあり方が、つねに<われわれ>を暗黙の前提に成立している、というところに、こういう「無著名性言語」の成立する根拠があるが、このような「無著名性言語」の性格は、特定の<わたしたち>という意識への囲い込み、うながし、として現象してしまう。そうした問題点を克服する可能性を、著者は<いま・ここ・わたし>の地点にたった報道言語の主体の構築に見る(現象形態としては署名記事にみられる主体の表現の可能性)。客観報道と主観報道は、認識論のレベルとは違って、報道(表現)の場では対立するのでなく、相補的であるという説得力のある指摘も含めて、とても読み応えのある報道言語論。本書では触れられていないが、ことは個の自発的な情報発信の場であるウェブサイトの表現などにも大いに関連すると思う。


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