詩集の感想
  

清水鱗造詩集『白蟻電車』について






 『白蟻電車』(1984年・十一月舎刊)は、清水鱗造さんの第二詩集。清水さんの
「Shimirin's HomePage」で、電子版の詩集『白蟻電車』全9編が読める。

 『白蟻電車』は、とても方法的な意識によって構成された詩篇からなる(著者は、「『白蟻電車』は詩の凝縮力というものだけを考えて、また一定の主題に沿ったかたちで書いたものをまとめたものである。」(「電子版への註」)と記している)。

 つまり、この詩集で試みられているのは、言葉の本来の意味で、現代詩の書法を巡る「実験」なのだ。詩作品の中で多用される語彙の傾向やイメージから、ある種の内向した精神が吐露する病的な世界や、グロテスクなイメージだけを読みとるとすると、おそらく著者の意図とは、すれ違ってしまう。すこしじっくり読むと、著者が、自ら紡ぎだした不吉な言葉や悪夢のような情景に、けして酔っても淫してもいないことが読みとれると思う。

 著者が注意をこめているのは、むしろ、すばやい場面の転換や、たたみこむような詩行のフレーズを繰り返すことから作品にもたらされる、独自の力動的な効果なのだ。もし読者が、これらの作品を読んだ時、普段の読書体験では味わえない強い集中の力を感じたとしたら、きっとそれは著者の意図が成功した証しであるに違いない。

 隣接した行句の場面の転換が切迫した強いイメージを喚起するということで、たとえば「のど」のような詩作品を何度か読んでいて、私に思い起こされたのは、夏目漱石の小説『それから』の末尾の次のような文章だ。

 「忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。すると其赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きな真赤な風船玉を売っているものがあった。電車が急に角を曲がるとき、風船玉は追懸けて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車と擦れ違うとき、また代助の頭の中に吸い込まれた。煙草屋の暖簾が赤かった。赤出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭の中を中心としてくるりくるりと焔の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きる迄電車に乗って行こうと決心した。」

 「のど」という作品が、「吐いている男がいる」という、フレーズの繰り返し、「〜いる」という語尾の繰り返しで、異様に切迫したリズムを作っているのだとしたら、上の文章では、「あった」、「なった」、「赤かった」という「た」音で終わる行句が同じような切迫感を盛り上げている。また、「のど」という作品を辿っていくと、「水面」、「川の向こう岸」、「トタン屋根(の庇)」、「電信柱」、「吐いている男」、「吐瀉物」、、というように、視線の移動がめまぐるしく強制される仕掛けになっていて、読者を一種の眩暈ににた感覚に誘うところがあるが、それは、上記の文では、「郵便筒」、「傘屋の看板」、「蝙蝠傘」、「風船玉」というように、代助の視界に飛び込んでくる、赤い事物のめまぐるしい変化に対応している。

 そしてこれは偶然かもしれないが、「のど」という詩作品に登場する「緋鯉」、「赤い斑点」、卵巣に育っている「真っ赤な卵」は、上記の文章の、代助の頭の中にとりついた「赤」い色のもつ事物に付与された象徴性に似た抽象度にあるといってもいいように思える。

 ただ、すこし詳しく見ていけば、代助は、進行する電車の中から、推移する車窓の景物を見ていて、「赤い色」のものばかりが強迫観念のように神経に触ってくるのを、逃れようもない強制感として受け取っているのに対して、「のど」の視線の転換の主体は、たしかに川縁のある場所に佇んでいるようなのだが、次々に「吐く」人間に視線を移して行く、その強制感の由来は、明かされていない。

 また、「のど」では、カメラをワイドにしたりズームにしたりする時のような、本当は肉眼としてはありうべくもないような、転換する場面への距離の取り方が、ずっと自在になって高度な表出を達成しているのがわかる。

 『それから』の代助にとって、「赤」は、追いつめられ、瓦解してゆく自らの精神の象徴的な色合いであるのに対して、「のど」の「緋鯉」は、「どの男の夢にもあらわれる」、「吐き気を催す部位」であるとされる。つまり、「吐き気」と吐瀉物を食べる「緋鯉」は、相互に補完しあっていて、自らの尻尾を食べる蛇のように、出口のない「夕暮れの街の構図」を作っている、とされ、この構図全体が、ひとつの喩の「凝集」の試みであることが、暗示されている。



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 ところで、清水さんの処女詩集『点々とおちてゆく掌の絵』(1977年・昧爽社刊)の中から、私の好きな作品「ぼろきれ」を以下に紹介させてもらう。これは、ウェブ初公開だと思う。どうか、この短い作品に漲る、夢と現実が溶け合い、また別の夢の中に引き戻されてゆくような、なんともいえぬシュールな感触やユーモアの冴えを味わっていただきたい。。



ぼろきれ

求人欄をひとこまひとこま見ていると
一カ所文字が裏返しになっているところがあった
しかも遠近感がなく雁がぼうっと霧に浮いているようである
鏡で映してみると
「頭脳工夫求む 日給制」とある
そして六ポイント活字で
「家庭の事情があるもの
あるいは三年以内にあったものに限る」とある
頭脳工夫とは頭脳労働をする人のことだろうか
それとも頭脳的にテキパキと仕事をする工夫のことだろうか
「家庭の事情云々、、、、」とは条件には合っているが
こんなことは条件といえるのだろうかと思いつつ
釘を打たれたようにその箇所を凝視した
すると目の前に
ほんものの釘が現われた
釘にはぼろきれがぶら下がっていた
ひらひらひらひら揺れて
ぼろきれがぶら下がっているのだ




「ギャラリー」に、イラスト集「『白蟻電車』より」があります。
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