memo12
言葉の部屋へ 書名indexへ 著者名indexへ

走り書き「新刊」読書メモ(12)


ここでは、比較的最近出版された本についての短い感想を載せています。
(例外のやや古い本には☆印をつけました)。
時々、追加してゆく予定です。


index・更新順(99年11月30日〜2000年3月7日分)

 立石洋一『インターネット「印税」生活入門』 J・K・ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』 寒川猫持『猫とみれんと』
 大島弓子『雑草物語』 半藤一利『漱石俳句探偵帖』 小林司+東山あかね『シャーロック・ホームズの醜聞』
 河合隼雄『こころと人生』 竹下節子『さよならノストラダムス』 武田徹『デジタル社会論』
 と学会『トンデモ本 女の世界』 前田日明+福田和也『真剣勝負』 デズモンド・モリス+石田かおり『「裸のサル」は化粧好き』
 ビル・クロウ『さよならバードランド』(記・畑敦彦)○ 小浜逸郎『「弱者」とは誰か』 ウラジミール・ナボコフ『ディフェンス』
 トルーマン・カポーティ『叶えられた祈り』 山本容子『わたしの美術遊園地』 大塚英志+森美夏『北神伝綺』(上、下)
 ティス・ゴールドシュミット『ダーウィンの箱庭 ヴィクトリア湖』 村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』 柳美里『女学生の友』
 西尾幹二『国民の歴史』 多田富雄『独酌余滴』 曾野綾子『二十三階の夜』
 山田勝『オスカー・ワイルドの生涯』 中村とうよう『ポピュラー音楽の世紀』 須賀敦子『地図のない道』
 V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』 網野義彦『古文書返却の旅』 楠かつのり『詩のボクシング 声の力』


立石洋一『インターネット「印税」生活入門』(2000年2月14日初版第一刷発行・メディアファクトリー)は、ちょっと変わったハウツー本。著者はホームページで自作小説を販売していて、これまでに260万近くの収入を得ているという人。本書は、そのプロセスで培ったノウハウを公開して、これからネットで自作テキストの販売をめざす読者と共有しようと書かれたという。自作小説をホームページで有料で売って毎月6万位収入がある、というのは、こりゃどういうわけだ信じられないと最初に思ったが、本書を読むと納得できる。著者の本職はコピーライターで、これまでシナリオ投稿歴もあり、雑誌にも連載小説を書いていたという、いわばセミプロのひと。そういう修練や経験ある人が用意周到に立ち上げた企画で、ホームページで売られているのも、かって女装マニア向け専門雑誌に連載されたアダルト小説が主というのだから、これは一冊500円で買ってでも読みたい人が相当いてもおかしくないなあと。大量生産社会とマスコミはその役目を変えつつある、という社会批評的な見識も披瀝されている。

著者のホームページ「SUNDAYNIGHT REMOVERS 前橋梨乃のTV小説」へ。


RETURN

J・K・ローリング『ハリー・ポッターと賢者の石』(1999年12月8日初版第一刷発行・静山社)は、ファンタジー小説。主人公のハリー・ポッターは11歳の少年。1歳の時から、叔父夫婦に育てられるが、実はハリーの両親は優秀な魔法使いで、悪い魔法使いと戦って壮絶な最後を遂げたという身の上。そんなこと露とも知らずに、叔父家族に邪険にされながら育っていたやせっぽちの少年ハリーのもとに、魔法学校から入学案内状が届く。。。私が買ったのは今年(2000年)の2月の版で24刷。映画化も決まっているという、今をときめく世界的ベストセラーの翻訳本。ふりがなつきの読みやすい文章は、確かにぐいぐい引き込む面白さがある。欧米では、現代でも結構魔女をなのって、実践してる人がいるらしいが、そういう文化的な背景も伝わってくるなあ。いじめられたり、仕返ししたりの子供たちの魔法学校での寄宿舎生活ぶりや、勇気りんりんの冒険が生き生き描かれてる。シリーズは全7巻で、2003年に完結予定というので、これからも楽しみ。。

関連情報が充実の「ハリー・ポッター友の会」へ。
RETURN

☆寒川猫持『猫とみれんと』(1996年9月25日初版第一刷発行・文芸春秋)は、歌集。著者の本業は眼科医で、妻子と離別しての単身生活者にして、大の愛猫家。本書には、そういう私生活上の事情や感慨を題材にした短歌が400首収録されているから、そういうことがわかってしまう。おもしろおかしいものあり、しんみりさせるものありと、実に多彩な内容だが、愛猫とのふたり暮らし?の一こまを描いた一連の「猫もの」が、いかにも体験者にしか描けないような観察や愛情にみちていて、とても面白い。猫を飼っている人だったら思い当たることばかりかもしれない。「ズルズルとバックしているにゃん吉はなぜか金魚がこわいのでした」「でたらめな言語で猫に話すなり猫ころんで腹見せるなり」「単純に猫であること実践しこやつ女の膝を動かぬ」「芋だよと言えば寝てても飛んで来る別にいいけど猫だよキミは」「ごきぶりの通過をふたり息殺しただ見てるだけ 猫持と猫」。。山本夏彦氏の賛辞の前文入り。「面白いだけでなくやがて哀しいのである」と。


RETURN

大島弓子『雑草物語』(1999年11月30日初版第一刷発行・角川書店)は、コミック。久しぶりの新作入りの単行本で、他に書き下ろしのあとがき漫画や掌編小説やインタヴューが収録されている。おまけに著者のイラスト入りの絵葉書が一枚ついてくる。母子家庭で育ち、母をなくしたのをきっかけに、高校を中退してハンバーガーショップで働いている主人公エネは、徹底したケチケチ倹約生活を送っていたが、ある日、唯一の親戚から莫大な遺産を譲り受けたことで、生活が激変する。。というのが表題作。さらさら読めてしまって、一作だけなので物足りない。それに少年(少女)が走ってゆく後ろ姿のコマがない(^^;。。しかし、世の常識とみごとにずれている人の魅力に照明をあてながら、そのずれも包み込むような豊かな生活感覚を肯定しているという、独特の弓子ワールドは健在。私は文句なく好きなので、新刊の発売はずっと待っていたのだが、最近は、目配りもあやしくなりつつある。この本も、朝日新聞のコラムで枡野浩一氏が紹介しているのを読んで発売を知って、あわてて買った。。


RETURN

半藤一利『漱石俳句探偵帖』(1999年11月30日初版第一刷発行・角川書店)は、エッセイ集。「俳句研究」に平成9年から11年にかけて連載されたものに1編を加え、三十一文字にあやかったという全31編のコラムが収録されている。表題どうり漱石の書き残した俳句についての色々な読み解き、背景についての推理が楽しめる本で、たまに漱石をひもとく者には嬉しい。漱石が「時鳥厠半ばに出かねたり」の句を送って、ときの総理大臣西園寺公望主催の懇話会への招待を断った本当の理由はなにか。『坊ちゃん』にでてくるお清さんの本当のモデルは?などなど、しっかりした考証をふまえての興味深い新説に満ちている。著者は江戸っ子(そのせいか、とくに前期の漱石作品を愛好するという)で、そのうえ義理の母君が漱石の娘(筆子)さんだったという人。因縁浅からずの漱石通の人の書いた軽快で蘊蓄深いエッセイ集。下戸だった漱石がつくったという、相当の酒呑みかとみまがう句。「ある時は新酒に酔て悔多き」(明治三十年)。わかるなあ、といったら、いつもじゃないの、と。。。


RETURN

小林司+東山あかね『シャーロック・ホームズの醜聞』(1999年7月30日初版第一刷発行・晶文社)は、ミステリー評論。著者は、長短編併せて60編からなる、シャーロック・ホームズの登場する探偵小説を『ホームズ物語』と総称し、その全編の背後にひそむ、秘密にせまる。秘密というのは、他でもない、『ホームズ物語』は、著者であるコナン・ドイルの私生活上の懊悩(ドイルには、アルコール中毒で、14年間入院した精神病院で息を引き取った父、夫の留守中に下宿していた男と恋愛し、彼の故郷の家の近くまで引っ越して行って35年間も住んだ母親がいたが、これらの事実は当時ひた隠しにされていたという)が、無意識に色濃く反映されている「告白小説」だった、というもの。事情をいわれてみれば、ありそうなことに思えてくるが、ここまでやるか、と思えるほどに、読み解きは精密で、とても説得力がある内容になっている。本書の後半では、小説の時代背景や成立事情にも触れてあって、そちらも面白い。ホームズの生きた時代には、コカインは禁制ではなくて、誰でも飲めるポピュラーな薬だった!など。。著者の小林司氏は、筋金入りのシャーロキアンのようで、英米のクラブ会員であると同時に、日本シャーロック・ホームズ・クラブの主宰者。入会案内も付記されていて、全60作品を愛読した人なら、誰でも会員になれるという。うう、昔に半分くらいは読んだと思うが。。。。


RETURN

河合隼雄『こころと人生』(1999年6月20日初版第一刷発行・創元社)は、講演集。著者は著書多数のある人だが、講演は、でたとこ勝負で話すので、記録を取ることは断っているという。その中で、30年以上続いているという四天王寺主催の夏期大学とカウセリング講座だけが例外で、本書はそこで行われた講演内容を、少年期、青年期、中年期、老年期のそれぞれの心の問題、というように章別に整理して配列したもの。学者として、臨床家としての著者の長年の蓄積が、こなれた座談にこめられているという意味で、「何よりの河合隼雄入門の書」(山田太一)。人生の様々な場面でもちあがる心のトラブルについての解説は示唆に富んでいるし、ユーモアをまじえた語り口はソフトで、親しみやすい。考え方の特徴を言えば、人生には、様々な問題に対する個々の人間の思慮を越えたところで、大きな力が働いていて、その力を認知することが、トラブルの解決の糸口になるというようなことだろうか。見たところ、この考え方は緩やかな自然宗教的な感覚への誘いに近く、著者もそれを否定しているわけではない。ユングの思想が東洋的に消化されているような、この著者の構えは、一見隙だらけのようでいて、一つの達成というべきかも。


RETURN

竹下節子『さよならノストラダムス』(1999年6月20日初版第一刷発行・文芸春秋)は、ノストラダムスについての評伝、紀行、エッセイを集めた本。初出は「ユリイカ」「言語」「クレア別冊」などで、それを大幅に加筆、再構成したもの、とある。私は知らなかったのだが、フランス在住の著者は日本でのノストラダムス予言書ブームに、警鐘を鳴らし続けていた人らしい。第一章はノストラダムスの生地や活動の場であった南仏を訪ねた紀行文で、プロヴァンス地方に興味のある人も楽しめると思う。第二章は評伝的な内容で、分かり易い語り口ながら、奥が深くて本書の読みどころ。三章、四章は、著者のノストラダムス探訪で知り合った人々や、預言書の内容についてふれてある。ノストラダムスが、なによりも16世紀ルネッサンス時代の知識人であったことを著者は強調する。当時は、「科学者で発明家だったレオナルド・ダ・ヴィンチが偉大な画家でもあったように、詩を書くことも、科学を研究することも、神の創った世界の謎を解いたり、神の偉大さをたたえることの表れだったのだ」と。科学と芸術と神学が渾然一体となっていた時代の人の心というのは興味深い。そこには、なにか個の思考の根源に触れるようなものがあるからだ。そういえば、二〇世紀のはじめ、ヴァレリーはレオナルド・ダ・ヴィンチに夢中になった。来世紀には、ノストラダムスにも新しい光が当てられるのかもしれないなあ。。


RETURN

武田徹『デジタル社会論』(1999年11月9日初版第一刷発行・共同通信社)は、インターネット社会についての現場報告。初出は「日経ゼロワン」に連載された「デジタル・ラプソディ-今、デジタルの社会で起きていること」と題されたルポルタージュ(98.8〜99.10)。ネット社会で起きて、テレビや新聞雑誌報道と連動するニュースというのは、増加する一方だが、本書では、そういう流れを象徴するような話題が、イーメールでの恋愛、ネットビジネス、ハッキング、電子本、表現の自由など15項目にわたって取り上げられている。いずれの場合にも著者は、可能な場合には、関係者に直接会って話を聞いて取材しているのが魅力。ニュースとしては知っていても、なかなか発信者の貌が見えないし、実際どんな経緯があったのかということが、とても判りにくくなっている現状で、肉声を聞いて、そういうことだったのかという発見も多い。私が特に面白かったのは、ハッキング行為についての章と、表現の自由をめぐる章。前者では、情報サービス会社のサーバーのルーズな管理システムの不備をただすためにハッキングして、その手口を公開する人達がいることを、後者は、日本版サイバー・エンジェルス(有害情報をプロバイダや警察に通報する)の人達の活動に触れている。いろんな人がいるものだ。


RETURN

と学会『トンデモ本 女の世界』(1999年12月25日初版第一刷発行・メディアアークス)は、書評集。書評集というといかにも硬いが、本書は、かってブームになった「トンデモ本」紹介シリーズの一冊。今回は「女性たちがハマッているトンデモ本」に的をしぼったということで、占いや、生き方、ダイエット、恋愛術、まか不思議なグッズなどを売り物にした、怪しくもおかしい本のあれこれが俎上に載せられている。しかし、たしか世のトンデモ本をおもしろおかしく紹介する初心には、本の著者が自分で書いている内容を本気で信じている(らしい)という前提があったのではなかったか。いかにも商売優先で手軽に書かれた書物を取り上げると、そういう、一種狂気すれすれの過剰観念を産んでしまう人間の思考の営みを読むスリルや深みが、薄れてしまう気がするのは、仕方ないかなあ。それにしても普段読みそうもない本ばかりで勉強になる。超能力グッズの宣伝についての文章など情けなくて大いに笑った。この本、まえがきで、フェミニズムに対して、はやくも腰がひけている。林道義氏に「と学会」に参加してもらったらどうだろうか(冗談です)。。


RETURN

前田日明+福田和也『真剣勝負』(1999年10月20日初版第一刷発行・草思社)は、対談。文芸評論家と元プロレスラーの人の異色対談。プロレスというより「格闘技」と言ったほうがよいのかもしれないが、福田氏は前田氏の設立した「リングス」という格闘技イベントの熱心なファンだったようで、この対談では、格闘技についてはもちろんのこと、日本人の美意識や、人生観、歴史、趣味(骨董、葉巻、刀剣鑑定、酒)の話題と、意気投合している。話題を通して感じるのは前田氏の感性の一徹さみたいなもので、それをご本人は「李朝朝鮮の軍人の血筋」のプライドと言っている。この言い方は繰り返し出てくるが、現代の日本や、韓国、北朝鮮ではなく、祖父祖母の世代の韓国の儒教的な価値観に自分が繋がっているという感覚が、疑いのないものとしておありのようだ。この感覚は、前田氏のなかで、儒教的、武士道的というところで東洋的な共通文化圏というイメージに繋がって行くが、これにはちょっと虚をつかれる思いがした。教育問題について、「だめなものはだめ」という「融通のきかない大人」がでてこなければならない(前田氏)し、「必要なのは説得する理屈をみつけることではなくて、説得する迫力を身につけさえすればいい」(福田氏)、という発言。ううむ。迫力(説得する力)は、技術(理屈)じゃない、というのが氏の真意だと思うが、これを読んで、迫力も技術(演出)だと勘違いするひとがでてくると怖いなあ。。。


RETURN

デズモンド・モリス+石田かおり『「裸のサル」は化粧好き』(1999年11月4日初版第一刷発行・求龍堂)は、対談。動物行動学者と、化粧文化研究者の「化粧」をめぐる対談、ということになっているが、実質はモリス氏に対するインタヴューといっていいような内容。話が噛み合っているようで噛み合っていないのが面白い。「化粧行為」(衣服の装飾も含めた広義の化粧)を、あくまで分析的にとらえようとするモリス氏と、包括的にとらえようとする石田氏の違い。モリス氏は化粧行為がサルのグルーミングに起源を辿れるのではないかという。人間も鏡のない頃には互いに化粧をしあうしかなかった。それがいつか個的なものになり、その起源は忘れられているが、だからこそ、これから触覚的なふれあいの恢復を重視するべきだという、モリス氏の考え方は一貫している。石田氏の見解では、痛みを伴う行為も含めた「自己認識の手段としての化粧」の意味あいに言及されているのが興味をひいた。また、モリス氏の、化粧行為のもつ、快適さ(健康・清潔さ)、社会的な礼儀、装飾(ディスプレー)という三つの機能が、相互に矛盾する側面で色んな現代的な問題が起きているという指摘は示唆的だ。モリス氏は、身も蓋もないようだが、動物行動学者らしく、人間のペアの相手の選択には、文化の差異に関わらず、若さと健康だけが共通の指標になるという調査結果をあげている。しかし高齢化社会では、生殖年齢を過ぎての美というのが問題になる。人が若くありたい・みせたいという見果てぬ夢に終わりはないようだが、解決策のヒントは、健康に配慮した化粧行為もさりながら、身体の柔軟性の快復、性的ニュアンスのないマッサージと適度な運動だとモリス氏はいう。


RETURN

ビル・クロウ『さよならバードランド』(新潮文庫)は、あるジャズミュージシャンの回想。訳は村上春樹。50年代に入ってモダン化が進む一方、大ジャズ時代が少しずつ終わりを告げている、そんな時代の脳天気なジャズメンたちの交友録とでも言った内容。お気楽なくせに、どこか頑固で譲れない連中の話だが、妙にもの悲しく、さわやかだ。そんな話の最後の方に、とても気に入ったくだりがあった。ズートとはテナーのズート・シムズのこと。「ズートとルイーズは友だちたちを家に招いて、スペアリブと、ズート特製のチリを御馳走するのが好きだった。ある夏の宵に、みんなが食事とワインで腹一杯になってパテオで休んでいると、ズートが「演奏やりたいなあ」と言いだした。アル・コーンとターク・マウロは車の中にサックスを積んでいた。バッキー・ピザレリはギターを持ってきていた。そこにはミルト・ヒントンと僕と二人のベーシストがいたのだが、どちらも楽器は持っていなかった。僕の家がそこからいちばん近いところにあったのだが、これから家に帰って楽器を持ってくるというのはいささか時間がかかり過ぎた。音楽は既に始まっていた。だから僕とミルトはどちらも演奏はせずに女房を隣に置いて演奏を聴いていた。暖かい夏の夕暮れの中で、三本のサキソフォンはバッキーの生ギターの柔らかな和音だけをバックにハッピーにスイングしたが、それはエイリーンと僕のあいだではまだ語り草になっている。もうこの世のものとは思えないような素晴らしい演奏だったのだ。」こう書かれれば聴きたくなるのが人情だ。レコード屋を探したらなんと「ズート・シムズとバッキー・ピザレリ」のCDが見つかった。涙もので聴いたのは言うまでもない。(記・畑敦彦 メールアドレス


RETURN

小浜逸郎『「弱者」とは誰か』(1999年8月4日初版第一刷発行・PHP新書)は、社会批評。いわゆる「弱者の正義」を標榜する、一見疑いようもないマスコミの言説やスローガンに、なにか変だなあと感じてしまう違和感。そのかすかなずれの感覚に照明をあててみる試み。社会が自明とする「弱者」とは、「「老人」であり、「子供」であり、「障害者」であり、差別待遇を受けている「在日外国人」であり、「被差別部落出身者」であり、「女性」である」とされるが、それは本当に自明だといえるだろうか、と著者は問う。こういうカテゴリーの網からこぼれおちるものや、「既製のカテゴライゼーションが時代の変化に耐えられるものなのかどうか」について、考えたり反省したりするべきではないか、というのだ。著者がとりあげているのは、倫理的な価値観のともなうような物事を、私たちがコトバとして、ついつい簡略化したり形式化してしまう結果生じる問題であり、「弱者」という枠を越えるようなことだと思うが、具体に即して書かれた本書には多くの考えるヒントがある。とくに昨年ベストセラー第1位となったという乙部武匡氏の『五体不満足』(講談社)についての「障害者問題が明るく語られすぎている」という趣旨の批判的な考察は、言いにくく、伝えにくいながら感じることを正面から真摯に取り上げていると思う。人に伝えられるコトバの実質に関心がある人に読んでほしいなあ、と柄にもなく啓蒙的にいいたい本だ。


RETURN

ウラジミール・ナボコフ『ディフェンス』(1999年11月30日初版第一刷発行・河出書房新社)は、小説。ロシア語での原題は『ザシチタ・ルージナ』で、ルージンのディフェンスという意味であると、まえがきにある。ここでの「ディフェンス」はチェスの序盤定跡のこと。つまりルージンが考案した定跡(「ルージン定跡」)ということになろうか。将棋で言えば「石田流」とか、「藤井システム」(^_^;)とかの部類だろう。この小説の主人公は、ロシア貴族の家庭に生まれたルージンという人物。彼のひきこもりがちな少年時代の描写から、ある時、チェスを覚えてその世界に没頭し、やがて天才少年の名を恣にしてヨーロッパを転戦し、グランドマスターの座にまで登りつめながら、精神に失調をきたして破滅していくまでの数奇な一生が、精緻で魅力的な筆致で描かれている。ナボコフの生誕100年を記念して翻訳出版された初期小説で、帯には「チェス小説の最高傑作」とある。訳者の若島正氏(チェス・プロブレムの国際マスターの称号をもつという)が、チェス・ゲームの構想力にからめた懇切な解説を書いていて、こちらも実に面白い。チェスに入れあげて人生を喪失した男の崩壊感覚と、彼をいたわりつくす優しい女性を描いた物語。ナボコフの文章を多く読んでいるわけではないが、読むと、いつも少年時代の記憶の再現の箇所で、その克明な描写力や絵画的なイメージの鮮烈さに驚かされる。記憶の現前化という能力において、とびぬけた資質をもっていた人ではないだろうか。原文を生かすように訳したとされる訳文の後半の長いセンテンスは金井美恵子風というべきか。


RETURN

トルーマン・カポーティ『叶えられた祈り』(1999年12月5日初版第一刷発行・新潮社)は、小説。『叶えられた祈り』は、1966年、『冷血』で脚光をあびた著者により、次作の長編小説として構想されたが、76年、そのうちの数章が雑誌掲載された時点で、モデルにされた人々(上流階級の友人、知人たち)から猛反撥され、作者は孤立してしまう。「その打撃」の「苦しみ」から立ち直ることができぬまま酒や麻薬に溺れるようになり、84年に著者は逝去。未完のまま残された同作品の3章分を出版したのが本書という(この経緯については、あとがきなどによる)。作品の主人公(作者の「分身」と訳者はいう)は、30代のゲイの作家志望の男性。露悪的なまなざしで描かれる彼の性の遍歴、体験を交えた当時の有名人のゴシップ話が満載されている。この実名仮名とりまぜてのゴシップ部分が当時の社交界の人々の逆鱗に触れたということらしいのだが、もちろん40年程前のアメリカの上流社会の内輪話の衝撃の度合いは読んでもぴんとこない。それよりも、主人公を「最低の男」に設定して、そういう底辺からの視線で上流階級(汚れた人々)の虚栄を暴くという試みが、この未完の壮大な「ノンフィクション・ノベル」の野心的なテーマのひとつだったのだとしたら、カポーティは人々の激しい拒絶反応を当然のことのように予期しなかったのだろうか、と、もうひとつ釈然としない思いが残る。やはり、傑作を書くと宣言しながら、書きたいように書けないという創作の上での悩みのほうが、彼を晩年の破滅的生活に向かわせたのではないだろうか、と。甘いかな。私としては第二章の魅力的な女性ケイト・マクロードとの出会いの後の展開が知りたいが、それはもちろんかなわぬ夢。ほとんど有名人滅多切りの中で、カミュの人柄については良く書いてあるのが嬉しい。


RETURN

山本容子『わたしの美術遊園地』(1999年10月21日初版第一刷発行・マガジンハウス)は、エッセイ集。著者が「美術家になろうときめて」以来これまでに各種新聞雑誌に書いたコラムやエッセイが多数収録されている。著者はイラストレーターで銅版画家。雑誌や書籍の表紙絵などの仕事も多数されているから、そんな人知らないという人も、本の好きな人はどこかで作品を見てると思う。たとえばかっての季刊読書雑誌「リテレール」の表紙絵や、同誌の編集長だった安原顕氏の著書の表紙絵が、ほとんどそうであって、とくに前者の絵柄が私には記憶に残っているが、それらはほんの一端と思う。本書には、偶然、著者の個展を見た安原氏が、連載小説の挿し絵の依頼をした時のことが書かれている。その小説とは「マリ・クレール」に一年連載された吉本ばななの『TUGUMI』で、この150万部のベストセラー以来、今まで見かけなかった若い高校生位の人達を個展でみかけるようになった、というのだ。出会いの面白さを感じさせる話。私も本書を書店で求めた時に、レジにいた若い女性から、「この本、素敵ですね。私も買いました。」と声をかけられた。こういうことは空前絶後だと思うが、著者の人気のほどがわかる気がして、嬉しくもなったのだった。本書には、著者のすきな本や絵画の感想コラム(ともに白黒図版入り)の他、「青春映画館」という映画コラムが掲載されていて、映画がテーマの作品がカラー図版で見られるのも愉しい。「山本さんの絵はいいね。なんといっても俳優が似てないのがいい。」と故淀川長治氏に言われたという。判る人には判ると思う。。。


RETURN

☆大塚英志+森美夏『北神伝綺』(上、下)(1999年3月27日下巻初版第一刷発行・角川書店)は、伝奇コミック。舞台は昭和初期。主人公は柳田國男に師事する民俗学の研究者だったが、わけあって学会を追放され満州国奉天に居を構えて怪しげな占いや祈祷の看板を出して生計を立てている兵頭北神という人物。でもそれは表向きの話で、実は柳田國男とは今でも関係があり、彼の依頼を受けて、色んな闇の仕事を請け負ったり調査に赴いたりする、という設定。自身柳田國男の孫弟子筋に当たるという原作者の大塚氏があとがきで書いているように、柳田國男には日本の先住民族を論じた「山人」論があったが、それを自ら破棄し、(国家体制に順応した)農耕民の研究に転向した結果、後年の柳田民俗学が生まれた、という批評的な視点が色濃く投影されている異色の伝奇コミックといえるだろう。あとがきには、「荒唐無稽な伝奇物語としてのみ読んで欲しい」とも、書かれていて、実際そうとしか思えない(^_^;)のだが、宮沢賢治、伊藤春雨、竹久夢二、出口王仁三郎、甘粕正彦、江戸川乱歩、北一輝などなど、それとおぼしき歴史上の有名人が実名で、きわどい設定で登場するのが、なんとも猥雑で不思議な雰囲気をつくっている。猥雑で不思議な雰囲気とは、森美夏さんの個性的な絵柄にも言えることで、時々はっとするようなカットがあるが、そのデフォルメや省略の仕方など、マニアックな部分も多々あって、これは最初好みが別れそう。しかし慣れると次が読みたくなる。


RETURN

ティス・ゴールドシュミット『ダーウィンの箱庭 ヴィクトリア湖』(1999年9月16日初版第一刷発行・草思社)は、生物分類学者の観察記録。1980年代のはじめ、著者は、世界第二位の大きさ(北海道よりやや狭い)を持つ東アフリカのヴィクトリア湖に、カワスズメ科の淡水魚シクリッド類の生態の観察研究に赴く。当時、この魚は、湖に500種以上が棲息していることが判って、しかも、湖が1万2500年前には干上がっていたことも判ってきた。つまり新種の生まれる速度が、脊椎動物の中では一番速いということになるらしく、「進化の実験場」と呼ばれ注目されているという次第。種の進化がどんな仕組みで起こるのか、そこに性選択の果たす役割とはなにか(著者の研究テーマ)、環境の問題(数年後、ナイルパーチという捕食魚の導入によって、シクリッド種は壊滅的な打撃をうけた(日本のブラックバス問題みたいに))など、いろんな問題が提示、解説されている科学啓蒙書で、オランダの「最優秀科学書賞」(94)を受賞。しかし、本書のもうひとつの読みどころは、記述の約半分を占める、著者が研究生活の合間に見聞したタンザニアの婚姻を巡る風習や、人々との日常のふれ合いを細やかに描いた物語の部分で、これが面白くて、けっこう泣かせる(訳者の丸武志氏もあとがきで、本書を文学作品と思い続けていると書いている)。ところで、私事だが、私は忘れもしない昨秋の誕生日(^_^;)に、シクリッド(観賞用熱帯魚としてはわりとポピュラー)を二匹いただいて、水槽に入れて飼っている。これが日々大きくなって他の熱帯魚の脅威になりつつあるのだが、それはともかく、この魚の生態が少し判るかもしれないと思って本書を手に取ったのだった。種類が多いとは聞いていたが、よもやこれほどとは(なかには他の魚の鱗を専門につっついて食べるのもいるという!)。。。


RETURN

村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』(1999年12月15日初版第一刷発行・平凡社)は、アイルランド旅行記。著者は、数年前、お酒の会社の広告誌にウィスキーに関する文章を書くという仕事のついでに、夫婦でアイルランド旅行を思いたったという。その時に書かれた雑誌掲載(97年の「サントリークォータリー」(9月、12月)に初出)の旅行記二編を骨子にした「ウィスキーの匂いのする小さな本」が本書。奥さんの撮影したという現地の美しいカラー写真多数といっしょに、スコットランドのアイラ島でシングル・モルトのウィスキーの蒸留所を見学したり、レンタカーを借りてアイルランドのパブめぐりをした、ウィスキーの「聖地巡礼」の旅の様子が、おなじみの文体で、親しみ深く軽快に描かれている。著者は、本書を読んだ後で、読者が、自分もどこか遠くにひとりで行って、その土地のおいしいウィスキーを飲んでみたいな、と思ってくれたら筆者としてはとても嬉しい、と書いているのだが、それは成功してて、けっこう罪な本だ。つまり、そう思ってもなかなか遠くに行けない大部分の読者にとっては、そういう気分はちょっと寂しいだろうと思う。かくいう私もそのひとりだが、もっかのところ、せめて近辺でシングル・モルトのウィスキーを探索中。しかし、そんなことやってると、やはりお酒の輸入元の会社の深謀遠慮にのせられてしまうのだったか。


RETURN

柳美里『女学生の友』(1999年9月20日初版第一刷発行・文芸春秋社)は、小説集。表題作「女学生の友」(「別冊文芸春秋」99年6月号初出)と、「少年倶楽部」(「文學界」96年5月号初出)の二編が収録されている。退職して妻に先立たれ、同居している息子夫婦としっくりいかずに意固地になっている老人が、女子高校生である孫娘の友人たちと知り合いになり、人助けと日頃のうっぷんをはらすために美人局的な援助交際の筋書きを画策する、というのが表題作のストーリー。孤独というか偏屈というか、よるべのない現代の核家族の中の意地悪じいさんの内心がほどよく出ているファンタジックな作品で、面白く読んだが、特筆すべきは、女子高校生たちの会話の部分だろう。これは、ああ、こういう話し方するんだ、というのが、実にリアルに伝わってくる。とはいえ、読んでいるといちいち頭の中で普通の言葉に翻訳しなくちゃならないので、ぐっと読むスピードがおちてしまうのだが、それもまた愉しい体験だった。女子高校生たちが、友人の堕胎費用をカンパするために援助交際を思いつく、というのは、もう世界が少数の友人でしか成立していないから。この彼女たちの閉じた呪縛関係のせつなさを描写しているのが読ませどころ。なお老人と少女のあやしい関係へのこだわりは、この著者の作品系列に以前からあり、そういう意味でも新しい肉付けがされてるように思った。。「少年倶楽部」は、作品が書かれたのは表題作の数年前のようだが、姉妹編のような作品で、同じ塾に通う小学6年生の男子グループが主人公。彼らは塾帰りに遊び半分に駅から降りてくる若い女性をつけ狙って痴漢行為に及ぼうと画策している。これが中学生や高校生ならわからないでもないが、平凡な小学生たちというのがいかにも現代的。小学生なりの無邪気さや幼さも描かれているのだが、だからどうしたといえば、どうもしないので、作品としては、いまひとつの味わいだった。ただ、この作品にも父の浮気で家庭が崩壊寸前の子供がいて、その夫婦間の会話というか、とくに父親のひらきなおった、とぼけた感じが面白い。この感じはたしかに「女学生の友」の老人のユーモラスな悪意に発展したという気がする。


RETURN

西尾幹二『国民の歴史』(1999年10月30日初版第一刷発行・産経新聞社)は、歴史評論集。「新しい歴史教科書をつくる会」編とあるが、会から委託された形で、著者(同会の代表)が単独で執筆した本であることが、あとがきに触れられている。約5センチの厚みのあるこの大冊には、34章に及ぶ項目別に、日本の歴史に関連する様々な観点からの論述がなされている。いわゆる通史的な内容ではなく、近年遺跡の新発掘情報のさかんな縄文期を射程に入れた古代日本と、明治期以降の近代現代史に重点が置かれているのが特色だが、仏教彫刻を中心にした日本美術の考察「縄文土器。運慶、葛飾北斎」や、著者の少年時の敗戦体験を生々しく語った「終戦の日」など、日本の歴史を巡る切り口は多彩。著者の専門がドイツ文学ということもあってか、比較文明論的な西欧史についての詳細な記述も多くて、「できれば日本から見た世界史の通史が書きたかった」(あとがき)という言葉がうなずける。この本に流れているのは、既製の歴史(日本史)解釈に対する、新しい価値軸の導入への情熱だろう。その情熱のでどころは、やはり著者の「終戦の日」の体験にあるような気がする。若い頃、ニーチェ学者としてしか名前を知らなかった人が、こういう本を書くようになったのだなあ、という感慨があるが、著者のそういう学問的な来歴とも無縁でなさそうな骨太さを感じた。ジャーナリズムが話題にしそうな、この本のもつイデオロギー的な側面について触れるべきかもしれないが、それは紋切り型の一般論ではなく、専門の人が是非個別箇所について詳細な論議をしてほしい。素人としては、それをまた読みたい(^_^;)。。自分の関心にひっかかったところをひとつ書くと、「日本語確立への苦闘」の章は、日本のコトバが漢字漢文から離れて仮名をつくりだしてゆく生成過程に触れていて、日本語の性格について考える場合の示唆にとんでいる。本書にみられるその苦闘の歴史の肯定的な評価から、吉本隆明氏の(その結果)「日本のコトバは論理的な側面を中和され、うしなった」(「蕪村詩のイデオロギイ」)という評価までの、はるかな距離。この日本語の詩がかかえた問題に関しては、山城むつみ氏の詩論「詩の場所をめぐって」(『転形期と思考』(講談社)所収)が本格的に言及されているので、興味のある方は読み比べてみるのも面白いと思う。


RETURN

多田富雄『独酌余滴』(1999年秋(発行日記載なし)・朝日新聞社)は、随想集。初出は、書籍広報誌「一冊の本」や日本経済新聞連載のコラム、その他の短文からなる。著者は、専門研究分野で、数々の賞を受賞している世界的な免疫学者として有名だが、能にも造詣が深くて、新作能の作者としても知られている。多種多様なテーマで書かれた短文を収録したこの本では、そのどちらの話題もでてくるが、専門学者として世界各地に旅行した時の見聞記が印象的。旅行先は、仕事柄ということになるのだろうか、インドや南アフリカ、ルーマニアといった貧困の問題を抱えている地域が多くて、さらに現地で率先してその実状を確かめようと動いている様が伝わってくる。その姿勢からは学者的というより、文学者やジャーナリストの好奇心に近いものが感じられる。貧困や飢餓の問題の深刻さを語りながら、別のエッセイでは相当のグルメぶりや芸術愛好家ぶりを開陳されていて、その取り合わせがまた興味深い。愛犬の死についてや、白洲正子さんを追悼した文章など、感銘深い随想も多く、こうした一見学者ばなれした(^_^;)、著者の文学者的な資質の基盤になっているのは何なんだろうと思っていたら、なるほどと思えるような一文(「詩人多田不二のこと」)を見つけた。著者は、学生時代には詩人志望で、安藤元雄氏や手塚久子氏、江藤淳氏などと一緒に「Purte」という名の詩の同人誌を刊行していた、というのだ。当時松山に詩人の香川紘子さんを訪ねた、などともあって、「医学部の勉強そっちのけで詩作に専念し」ていた青年期の回想を綴った、この一文は愉しい驚きだった。

やや長い多田富雄『免疫の意味論』の感想(93年記)へ。


RETURN

曾野綾子『二十三階の夜』(1999年9月14日初版第一刷発行・新潮社)は、短編小説集。85年〜98年にかけて各種文芸誌に初出の10編の作品を収録。作者自身とおぼしき主人公が、読者からの手紙や、旅先(ヨーロッパ、アフリカ、東南アジアと世界各地に及ぶ)で出会った人から見聞した様々なエピソードを書き留めたという体裁のものから、外国に赴任している中年男性が主人公というものまであって様々だが、総じて言えば、仮構の物語を通して、特定のメッセージを伝えたいという意図が伝わってくるのが特徴。「私は飛行機に爆弾をしかけた」と告解された神父の苦悩を描いた「農夫の朝食」にその構図が鮮明にでている。ただこれはきわどい例で、むしろテーマが地の文のなかに、ひっそりと隠されているような作品に味わい深いものがあると思う。著者は「白いスニーカー」という作品の冒頭で、作家の仕事のささやかな秘密を明かすことにるかもしれないが、と断ったうえで書いている。「私の場合、書きたい思想的な主題が先行している。しかし私が書くのは、哲学でもなく、心理学でもないのだから、私は饒舌な贅肉の部分で小説を組み立てるべきであり、むしろ骨組みなど全く見えない肉の塊、脂の層だけで小説が出来上がっているように見せかけなければいけない。」この著者の「書きたい思想的な主題」を宗教的なテーマだけといいきるのは難しいが、映画でいえば、キェシロフスキの「デカローグ」の世界に似ているかな。


RETURN

山田勝『オスカー・ワイルドの生涯』(1999年11月20日初版第一刷発行・NHKブックス)は、評伝。オスカー・ワイルド(1854〜1900)は、ちょうど100年ほど前の世紀末を生きた英国の作家。新資料も駆使しながら、読みやすくてコンパクトな作家評伝に仕上がっていると思う。私は不案内で知らなかったが日本ワイルド協会というのがあって、著者はその前会長(現顧問)と略歴欄にある。『ワイルド辞典』(北星堂)も編纂された方らしい。伝記としての本書の特徴は、いわゆる1895年の「オスカー・ワイルド裁判」に充分ページを割いて、その経緯を克明に描写しているところ(第8章)。ワイルドはこの裁判で「若者たちの間で嫌悪すべき堕落集団の中心であった」という理由で懲役2年の重労働刑を受けるが、その背後には政治的な策謀(1885年に改正された刑法を万人に知らしめるために、有名人を重罪にするという政治的パフォーマンス)や、宿敵ともいうべきクィーンズベリー侯爵の政治家への根回しなどがあったと著者は推測している。クィーンベリー侯爵というのは、息子ボジー(アルフレッド・ダグラス)とワイルドが関係を持っていることに怒り狂っている人で、私立探偵を雇ってワイルドを尾行させたり、ワイルドの戯曲上演の初日に客席から花束の代わりに野菜をばらまこうと企てたりと、数々の嫌がらせをする。そういう経緯も含め、当時の英国貴族の生態やビクトリア文化の背景が生き生きと描かれていて、とても面白く読んだ。


RETURN

中村とうよう『ポピュラー音楽の世紀』(1999年9月20日初版第一刷発行・岩波新書)は、ユニークな20世紀のポピュラー音楽史の本。どこがユニークかといえば(この方が本来的なのなのだろうが)、ポップスというとみんな思い浮かべるような、欧米の音楽シーン中心の見方をとっていないこと。言葉が適切かどうかわからないが、いってみれば「ワールドミュージックの歴史」というような広い視野から、ポピュラー音楽全般の今世紀の展開がおさえられている。著者の姿勢は一貫していて、アメリカの音楽産業のあり方に対してのかなり否定的な発言があり、それに対比させて世界各国の民衆のなかから自然発生したような音楽に対する肯定的な発言がある。本書に網羅されている今世紀に世界各国でわき起こった様々なポピュラー音楽の流れについての詳細な記述は、専門家ならではといっていいほどで、私などほとんど知らないことばかり。しかし、誰でもすこしは好きなミュージシャンとか、音楽ジャンルとかに、ひっかかりがあると思えるので、そういう場合、歴史の流れの中での音楽の背景や、著者の評価を知ることができると思う。断定的な口調がやや気になるが、そういう思い入れの強い世界なのだなあとは思う。自分でも、ほめてあると嬉しくなり、けなしてあるとなんだかなあと思うが、そういう意味の訴えかけの効果も著者はよく判ったうえで書いている感じで、大きな枠組みへの理路と、好きなポピュラー音楽にいれあげる熱が合体して伝わってくる本だ。


RETURN

須賀敦子『地図のない道』(1999年10月30日初版第一刷発行・新潮社)は、随想集。「新潮」(96年5月〜7月)に連載された「地図のない道」、『ヴェネツィア案内』(とんぼの本・新潮社刊)に収録された「ザッテレの河岸で」からなる。「地図のない道」は単行本化にあたって著者が加筆・訂正中だったものを著作権継承者の了解を得て編集部が整理したもの、とあり、実質的に遺稿となったことが知れる。随想の内容は、いずれも、かってミラノに住んでいた著者が何度かヴェネチアを訪れたときの思い出をめぐるもの。忘れがたい出来事にまつわる人々や風景の記憶が、物静かで端正な筆致で書かれている。ヴェネチアの水路にかかる小さな橋に「Rio degli incurabil」(なおる見込みのない人達の水路)という表記を見つけたときから、気にかかって、手を尽くしてその由来を調べた時の顛末を描いた「ザッテレの河岸」。また3章からなる「地図のない道」では、私事めくが、「島」と題された終章がとりわけ印象深かった。そこには前年夫を亡くした著者が、友人の勧めで二週間ほどリド島に逗留した時に、気水湖の北に浮かぶトルチェッロ島に古い聖堂を訪問したときのことが、夫の思い出(慌ただしかった新婚旅行の追想)をまじえて描かれている。連絡船を一本やり過ごして最終便を待ちながらトルチェッロ島の桟橋に独り佇むところで、この遺稿となった作品は終わっているが、この寂しい島の桟橋の情景、私にもまた、身に覚えがあるので、懐かしさがこみ上げてきて、なんというか感無量の読後感なのだった。


RETURN

V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(1999年7月30日初版第一刷発行・角川書店)は、脳の世界を探求する一般向けの科学啓蒙書。著者ラマチャンドランは神経科学者。切断された手足の存在を感じる、いわゆる幻肢という現象について、また自己の身体を否認するひとや、近親者を贋物だと主張する人の脳や意識のメカニズムついてなど、12章にわかれて取り上げられているケースやテーマは、どれも興味深い。これまでにわかってきた脳の色々な部位の機能に対応させながら、心の仕組みを推論と実験を重ねて考察するという真面目な内容ながら、ふんだんにユーモアが顔をだす文章も面白い(ユーモアや笑いの仕組みについて考察した章もある)。とくに1〜3章の幻肢についての記述がすごい。解説で、養老孟司氏も「科学的で具体的な説明を、著者がはじめて与えた」と書いているが、独創的な鏡つき装置をあみだして幻肢の謎にせまった劇的なプロセスが記述されていて、こんなに分かり易くて面白くていいのだろうか、と思うほど。ちょっと書くと、脳の特定の部位を刺激して得られた反応に基づいて描かれた脳の地図(「感覚ホムンクルス」)というものがある。その地図によると手の隣が顔面になっている。手が失われてしまうと、脳のその部位には手からの情報入力がとだえるが、そこに隣接する顔面領域からでている感覚神経の繊維が空いた手の領分に侵入して、その部位のニューロンを活性化する。。ということが幻肢において生じているのではないか、と著者はいうのである。それを確かめるには、手を失って幻肢を訴える人を呼んできて、その顔を触ってみればいいというのだが、、結果は読んでのお楽しみ。


RETURN

網野義彦『古文書返却の旅』(1999年10月25日初版第一刷発行・中公新書)は、「戦後史学の一齣」という副題のある、表題どうりの古文書返却の経緯を綴った本。初出は「中央公論」に12回連載された「古文書返却始末記」。1949年、水産庁の肝いりで、漁業制度改革を内実あらしめるためという名目で、全国各地の漁村の古文書を借用、寄贈などの方法で蒐集、整理、刊行し、資料館、文書館を設立する、という目標の事業が始まったという。研究員10名前後で開始されたこのプロジェクトに著者は50年から関わることになり、当時全国の漁村に出向いて大量の古文書を蒐集したという。しかし、この事業は、54年度で、水産庁の委託予算がにうち切られたことで瓦解する。その結果、借用し放しになっていた「百万点を超すと推測」される文書が、主宰していた宇野氏の再就職先の大学の構内の倉庫に移管されたまま残されたという。69年宇野氏の逝去。以降、この残された古文書を全国各地の漁村に返還するという営為が著者を中心になされ、本書では、その経緯が細かく綴られている。学者や研究者が、地方の旧家を回って、学術研究の名目で古文書を借りあげておいて(数ヶ月という期限つき、というのもあったようだ)、その資料をもとに論文を発表したりしながら、30年以上たっても、まるで返却しなかった(著者のような努力をはらう人がいなければ、今でもおそらく)、というのは、なんだか杜撰きわまりないような話だが、こうして内情を明かされると納得するしかない筋道が見えてくる。ここにあるのは、著者の歴史学の背景になった研究現場の生々しい報告であると同時に、人と人を繋ぐ信の恢復の物語であるともいえそうだ。


RETURN

楠かつのり『詩のボクシング 声の力』(1999年9月13日初版第一刷発行・東京書籍)は、音声詩についての詩論・エッセイ集。『世界』、『群像『』、『現代詩手帖』といった雑誌に初出の文からなる。テレビでも放映された朗読詩のイベント「詩のボクシング」の主宰者で、『音声詩の実験教室』という試みも主宰されている楠かつのりさんが、イベントを計画するに至った経緯や、詩と声や映像、インターネットとの関わりなどについて、思うところをエッセイ風に綴った文章が満載されている。また本書には著者と谷川俊太郎氏との対談、付録CDには「詩のボクシング」の未編集版が収録されている。どういうわけか、自分が生きてることと、詩を読んだり書いたりすることが、つかず離れずでやってきた人。そういう人にとって、華やかな詩のイベントや専門詩誌の類は、自分と詩の直接的な関わりということからいえば副次的なことなので、意外に縁遠いものだと思う。そういう人たちが自分の表現生活の延長でウェブサイトにも詩を掲載しはじめたところが、私は面白いと思っているが、基本的なことはそれだけで、なにか特別なことが生じているわけではないだろう。ただ、映像も音声も詩と一体化することで、いろんな効果を産み出す。そういう多様性は開かれているほうがいいに決まっているから、「詩のボクシング」のような試みは大賛成。「歌合」をはじめ、詩の出来や技量を競うイベントは古くから知られている。なんでもありの江戸時代にも、神社か寺院の境内などを借りて、ひとりの人が、即興で何首(何句だったかな?)つくれるか(詠んだ作品を傍らで速記)などという夜を徹しての興行があって、すごい人気だったという記述をどこかの本で読んだことがあるのだが、出典が思い出せない。。。楠さんのホームページ「Katsunori Kusunoki Homepage」へ。


RETURN